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2024年4月26日

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事務局

読書ノート 「帝国ホテル建築物語」 著者:植松三十里(うえまつ・みどり)

カテゴリ:未分類 投稿者:editor

 PHP文芸文庫 2023年1月24日 第1版第1刷

 2019年4月にPHP研究所から刊行された作品を加筆・修正した本です。帯には建築家・隈研吾氏の賛辞が太字で印刷され、「各紙誌書評で絶賛!」とも書かれています。プロローグとエピローグは、帝国ホテル中央玄関を明治村に移築する物語で、1章から8章までが本編です。いずれの内容も「事実は小説より奇なり」でした。

◆プロローグ

主要な人物は、建築家・博物館明治村館長の谷口吉郎(豊田市美術館を設計した谷口吉生の父)と名古屋鉄道株式会社・社長の土川元夫です。冒頭、土川からの長距離電話で、谷口が「明治村に帝国ホテルのライト館が移築される」という記事が夕刊に出ると知ります。昭和42年(1967)11月21日のことで、寝耳に水の話でした。プロローグは「60歳を過ぎた自分に、移築を全うする体力と気力と時間が残されているのか」と、谷口が苦悩する場面で終わります。「どうする谷口?!」という気持ちで一杯になり、エピローグまで一気に読んでしまいました。

◆1章~8章

主要な人物は、帝国ホテル支配人の林愛作、フランク・ロイド・ライト、ライトの助手・遠藤新の3人です。この3人に様々な人物が絡み合って、物語が展開します。

特に3章の、ライト館の壁や柱に多用されている黄色い煉瓦の大量生産に成功するまでの展開は、息を継ぐ暇もありませんでした。4章では、石材の選定が進まない中、ライトは郵便局の門柱に使われている大谷石に目を留めます。大蔵省臨時建築局の役人は「軽くて加工しやすい、でも安物ですよ」と言い、大倉組も「強度に問題がある」と難色を示しますがライトは意に介さず、大谷石を山ごと買い取ります。4章後半では、軟弱地盤で工事が難航。ライトと対立した石工が、ライトにノミを向けて構えるというトラブルも発生します。5章になり、愛作が覚悟を決め、ライトと二人で全員を前に演説して、ようやく現場がまとまります。

しかし、6章では大正8年(1919)12月27日に新館が全焼。再建費用が工事費に加算されます。7章では工事の遅れにより総工事費が膨らみ続ける中、大正11年(1922)4月16日に、本館が全焼。ライト館完成までホテルは休業と決定され、重役は全員辞職します。不運続きですね。

8章では、火事から10日後の4月26日、浦賀水道地震で被災。幸い、主要部分の奥がわずかに沈下しただけであったため、大正11年(1923)7月、部分完成の状態ながら帝国ホテルは営業再開。一方、ライトは同月22日に東京を離れます。大正12年(1923)9月1日、全館開業の大祝賀会が開かれた日に関東大震災で被災し、大混乱となります。地下の水泳プールは壁に大きな亀裂が生じ、柱が4本折れたものの、ライト館の主要部分は無事。翌2日にはアメリカ大使館、3日にはイギリス大使館が移り、新聞社も続々と入ります。その結果、帝国ホテルの美しさと、安全性、快適性は世界中に発信されました。

◆エピローグ

新たに登場する人物は、犬丸徹三・帝国ホテル社長です。昭和42年(1967)11月29日、犬丸は谷口に、帝国ホテルは外壁から内壁、柱、天井、床に至るまで、ひとつの塊なのだと話します。谷口は、帝国ホテルの移設では煉瓦やテラコッタは焼き直し、大谷石も新品の調達が必要だと理解。しかし、それは「復元」であり、明治村の目指す「移築保存」にはならないと悩みます。

翌11月30日、谷口は名鉄の土川社長に、ライトの感性と職人たちの技、建物そのものでなくとも様式を残せばよい、と提案。土川も同意し、帝国ホテル中央玄関の移築が始まりました。

昭和43年(1968)1月12日から搬送が始まり、運ばれた部材は大型トラック40台分、400トン。しかし、国からの助成金は当初の話の10分の1、一千万円でした。帝国ホテル中央玄関外観が完成し、公開に至ったのは昭和51年(1976)。更に内装工事を行い、内部まで公開したのは昭和60年(1985)10月。受け入れが決まってから18年もの歳月が経っていました。

ライト館建設の当初の予算額は130万円ですが、総工費は最終的に900万円を超えました。一方、明治村への移設は3億円余の見込みでしたが、17年間の総工費は約11億円に達しました。

◆最後に

 他の解説書でも帝国ホテルの建設に関する情報は得られますが、本書は「物語」なので頭の中で人物が動き出し、楽しみながら知識を吸収することが出来ました。下記のURLも必見です。

・PHPオンライン 衆知   2023年02月22日 公開   https://shuchi.php.co.jp/article/10132

Ron.

◆帝国ホテル中央玄関に関するWeb記事(補足1)

・明治村の帝国ホテル中央玄関

下記のURLに、写真と説明が掲載されています。

 帝国ホテル中央玄関 | 博物館明治村 (meijimura.com) 又は

https://www.meijimura.com/sight/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E7%8E%84%E9%96%A2/」

・スダレ煉瓦とテラコッタ

3章に書かれたスダレ煉瓦とテラコッタですが、INAX ライブミュージアム  「建築陶器のはじまり館」について、というWeb記事があります(URLは下記のとおり)。

https://livingculture.lixil.com/ilm/facility/terracotta/terracotta_about/

◆帝国ホテル以外に、日本でライトが設計した建物のWeb記事(補足2)

・林愛作自邸

4章初めに、ライトが愛作に自宅の新築を勧める場面が、7章の初めには「ライトが日本の大工たちにてきぱきと指示を出して、あれよという間にできた」という文章があります。Web記事によると、旧・林愛作自邸の建物と敷地は、現在、住友不動産が所有。「立ち入り禁止」とのことです(URLは右記のとおり)。 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52147673.html

・自由学園明日館

6章に、建設に至るまでのエピソードが、8章の最後に「遠藤新が講堂を世に送り出した」という文章があります。自由学園明日館のホームページには、大正11年(1922) に中央棟、西教室棟が竣工、大正14年(1925) には東教室棟が完成、昭和2年(1927) に講堂が完成し、その年に初等部も設立されました、と書かれています(URLは下記のとおり)。

自由学園明日館の歴史  https://jiyu.jp/history/

 このほか、【美の巨人たち】フランク・ロイド・ライト「自由学園明日館」、というWeb記事もあります(URLは右記のとおり)。 https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin_old/backnumber/131123/index.html

・ヨドコウ迎賓館(旧山邑太郎左衛門邸)

 7章の初めに「芦屋の山邑太郎左衛門という灘の造り酒屋のために、別邸の設計をしたが、まだ着工に至っていない」という文章があります。ヨドコウ迎賓館のホームページには、大正7年(1918)基本設計終了、大正12年(1923)着工、大正13年(1924)上棟、竣工と書いてあります(URLは右記のとおり)。 https://www.yodoko-geihinkan.jp/about/history/

 このほか、フランク・ロイド・ライト『ヨドコウ迎賓館』×内田有紀、というWeb記事もあります(URLは右記のとおり)。 https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/?trgt=20210918

展覧会見てある記 瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.09.08 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」(以下「本展」)と瀬戸蔵ミュージアムで開催中の「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」を見てきましたので、展覧会の概要や感想などを投稿します。

◆瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」

本展のチラシに「磁祖加藤民吉没後200年プレ事業」と書いてあるので、来年度に大規模な展覧会が開催されると思われます(加藤民吉没後200年に当たるのは2024年)。

瀬戸市美の1階ホールのTVモニターでは、加藤民吉の修業を紹介する動画を上映。画面には民吉が修業した肥前の国佐々皿山(さざさらやま、現在の長崎県佐々町)の風景や窯場跡などが映っていました。

・展示室1

本展の題名「瀬戸染付開発の嫡流」の「染付」とは白地に青一色で絵を描いた磁器のことです。1階の展示室1・展示室2で展示していました。展示室1では、主に江戸時代の作品(ただし、2点は明治時代)を展示。入口近くの加藤民吉《染付祥瑞捻文向付》(江戸時代後期)は、青色が鮮やかな作品でした。加藤民吉(二代)《染付桐鳳凰唐草文香炉》〈岡崎市指定文化財)天保6年(1835)は素地が白く、青が引き立つ作品です。製造技術が向上したということでしょうね。加藤忠治《染付山水図植木鉢》〈重要有形民俗文化財〉(江戸時代後期)も素地が白くて、青色が冴える作品でした。加藤源吉《染付松竹梅図神酒徳利》〈重要有形民俗文化財〉万延元年(1860)は、松竹梅の図柄がきれいです。(展示室1は、撮影禁止です)

・展示室2

明治時代の作品が並んでいます。川本桝吉(初代)《染付草花図花瓶(一対)》(明治時代前期)は、草花の図柄が細部まで描かれ、とてもきれいでした。明治時代の作品には伊万里焼のような金彩を施した、川本桝吉(初代)《上絵金彩上野図花瓶》(明治時代前期)もありました。

(参考)愛知の地場産業 瀬戸染付焼について

瀬戸染付焼については、うまく説明できませんので、下記のURLをご覧ください。動画もあります。

https://www.pref.aichi.jp/sangyoshinko/jibasangyo/industry/seto-sometsukeyaki.html

◆瀬戸蔵ミュージアムの展示

・磁祖「民吉物語」(2階)

2階で「民吉物語」というマンガを展示していました。諸説ある資料を基にして、わかりやすく民吉の一生をまとめていたので、そのあらすじをご紹介します。

なお、要約により、以下の章立ては「民吉物語」とは違っていますので、ご注意ください。

① 江戸時代後期の瀬戸

 昔から陶器のまちとして栄えてきた瀬戸だったが、九州の有田で磁器の生産がはじまると、愛媛県(砥部焼)、京都(清水焼)、石川県(九谷焼)にも磁器が広がり、瀬戸焼の需要は以前ほどではなくなっていた。

② 民吉生誕、生まれる

 そんな中、瀬戸の窯元・大松窯の吉左衛門の家に、安永元年(1772)、民吉が次男として誕生。

③ 吉左衛門・民吉の父子は、熱田へ

瀬戸では長男だけが窯を継ぐ決まりだったため長男が窯を継ぐと、享和元年(1801)、吉左衛門は民吉の家族とともに、瀬戸を出て名古屋の熱田に行き、新田開発に取り組んだ。

④ 南京焼(磁器)との出会い

 新田開発の様子を見回っていた尾張藩熱田奉行の津金文左衛門は、なれない手つきで農作業をする民吉家族に気づいた。民吉一家が瀬戸出身で陶器づくりをしていたと知った文左衛門は、南京焼(磁器のこと)について書かれた中国の本を持っていたことから、民吉たちにつくり方を研究させることにした。

⑤ 南京焼は完成したが

 民吉は、南京焼を研究していた文左衛門のもとで、父の吉左衛門と試作を重ね、ついに南京焼が完成。しかし、民吉たちの南京焼は有田焼に及ぶ品質ではなかった。

⑥ 瀬戸の未来を託されて

 磁器の技法を学ぶため民吉は、瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門や文左衛門の息子・庄七らの支援を受けて、本場・九州へ行くことになった。菱野村(今の瀬戸市新田町)出身で、子どものころ瀬戸の窯元で働いていたこともある天中和尚が、肥後の国・天草(今の熊本県天草市)の東向寺にいることがわかり、民吉は文化元年(1804)2月22日、九州へ出発した。

⑦ 九州に到着した民吉は、天草で修業

 天草の天中和尚を訪ねた民吉は、3月27日、和尚の紹介により、天草の磁器・高浜焼の窯元上田源作のもとで働くことになった。民吉は、瀬戸村の出身だと正直に身分を明かし、修業させてもらった。

⑧ 民吉は、肥前・佐々皿山の福本仁左衛門の窯で修業

 働くうち、「肥前の有田焼を学びたい」と強く思うようになった民吉は、修業先をあちこち探し、有田焼の地に近い、肥前の国・佐々皿山(今の長崎県佐々町)の福本仁左衛門の窯に行き着き、文化元年(1804)12月28日から修業が始まった。

⑨ 民吉は福本仁左衛門の信頼を得て、磁器製法をマスター

 民吉の情熱やまじめな人柄と働きぶり、その腕前に、当主の仁左衛門は大いに感心し、佐々皿山の窯を継がせたいと考えた。ある日、仁左衛門は民吉に窯を任せて、2カ月間伊勢参りの旅に出かけた。留守を任された民吉は、磁器製法を職人たちからより詳しく教わり、2カ月ですべての技術をマスターした。

民吉はそれから約1年間懸命に働き、文化4年(1807)1月7日、仁左衛門の娘婿になることもなく、惜しまれながら福本家を去った。

⑩ 有田で上絵付を学ぼうとしたが、失敗

 民吉の心残りは錦手(上絵付のこと。磁器に模様を描いてもう一度800度位で焼き付ける方法)の技法を学んでいないことだった。民吉は「天草出身」と身分を偽り、有田で上絵付の技法を教えてもらおうとしたが、失敗。上絵付は学べなかったが、代わりに透かし彫りと丸窯のつくり方を身につけた。

⑪ 民吉は、天草で上絵付を身につける

 瀬戸へ帰る決心をした民吉は、最初に世話になった天草の上田源作のもとへあいさつに行った。上絵付の技法を知りたくて、天草の名を利用したことを正直に話し、謝る民吉。その姿に心打たれた源作は、上絵付の技法を教えてくれた。民吉はついに目的をとげ、文化4年(1807)5月13日、瀬戸へ行きたいという天草のやきもの職人一人を連れて天草を出発した。

⑫ 瀬戸に帰還し、磁器製法を広める

 文化4年(1807)6月18日、民吉は3年4カ月の修行の旅を終えて瀬戸に戻った。

 その後、民吉は猿投山から長石を掘り出し、瀬戸で豊富にとれる蛙目粘土(がいろめねんど)と調合することで、磁器にふさわしい土をつくりだすことに成功。磁器を焼くのに必要な丸窯を、瀬戸の各所につくり、仲間たちを指導して磁器製法を広めた。

⑬ よみがえる「陶磁器のまち」瀬戸

 民吉を始め、たくさんの人びとの努力が実り、瀬戸はかつての栄光を取り戻した。尾張藩は、この瀬戸焼を藩の統制品とするために「御蔵会所(おくらかいしょ、今の瀬戸蔵がある場所にあった)」をつくり、御用焼物として専売にした。藩が流通させたことで、江戸・大坂・京都を中心に各地で売れた陶磁器は、九州の有田焼をこえて「三国一」とたたえられた。

九州からもどって17年、民吉は文政7年(1824)に逝去した。享年53歳であった。      (完)

・有田の名工・副島勇七の悲劇

 「民吉物語」の【技術スパイは重罪だった!?】には〈民吉が九州に行く少し前、副島勇七という磁器職人が有田を脱出して瀬戸へ逃げてきた。しかし、藩から派遣された役人に捕まって連れ戻され、殺されて首をさらされるという悲惨な死に方をした。〉という記述があります。これは有田焼の技法流出防止のために起きた悲劇ですが、副島勇七が捕まった場所については、次のとおり、説が分かれています。

①「尾張(愛知県)の瀬戸で捕まった」という説は、次の資料に書かれており、

・有田町歴史民俗資料館報 No.22 (2014年)

https://www.town.arita.lg.jp/site_files/file/2014/site/rekishi/download/sarayama/sarayama-0022.pdf

②「伊予(愛媛県)の砥部で捕まった」という説は、次の資料に書かれています。

・広報いまり No.425  1989年7月    https://www.city.imari.saga.jp/secure/9269/No.425(H1-7).pdf

 ・砥部焼の発展      https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/45/view/5775

 いずれが正しいのか、それとも上記以外の場所で捕まったのか、私には分かりませんでした。

・「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」(2階)

解説によれば、「白雲陶器は戦前、瀬戸にあった商工省陶磁器試験所が開発。低い温度で焼成できて、軽く白い素材。戦後、ノベルティに広く使われた」とのことでした。

戦前に製作の人形の形をした容器を始め、2020年に岡崎市美術博物館で開催された「マイセン動物園展」で見たような、《果物かごを持つ婦人》(1965年頃)や《シャムネコ》(1970年代)、人形の顔のような花瓶《ヘッドヴェイス》(1963年)など、様々なノベルティが展示されており、楽しく鑑賞できました。

3階の「瀬戸焼の歩み」でも、瀬戸ノベルティを見ることができます。

なお、「白雲陶器」につきましては、下記のURLをご覧ください。

・中部センター バーチャルミュージアム    https://unit.aist.go.jp/chubu/vm/sub2/sub2_02.html

◆最後に

 家に帰って使っている食器を見たら、飯茶碗、小皿、小鉢、そば猪口など、その多くが「染付」でした。

 また、瀬戸市美では、10/7~11/26の会期で「瀬戸ノベルティの至高 -Made in MARUYAMA-」という展覧会を開催するようですね。

Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館「吹けば風」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.08.29 投稿

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「吹けば風」「コレクション企画 枠と波」及び「コレクション展」を見てきました。豊田市美に着くと、美術担当と思われる先生に引率された、制服姿の中学生がロビーに溢れていました。人数が多く、学校行事と思われます。中学生以下は無料なので、学校は企画しやすかったのでしょう。学芸員やボランティアと思われる方々も一緒です。美術館の側も張り切っているように見えました。美術の授業で現代アートを鑑賞する機会は、多くないと思われます。「豊田市美は、この子たちの夏休みの思い出になったかな?」と考えながら、しばらくの間、その姿を眺めていました。

◆「吹けば風 Incoming Breeze」展示室1

 展示室1~5では4人の作家による企画「吹けば風」を開催中。階段を上って展示室1に入ると、床の4分の3程を占める巨大な斜面。係の人から鑑賞上の注意点を伝えられました。「斜面には、立ち入らないでください。動画の撮影はご遠慮ください。壁の作品には手を触れないでください」の三点です。「壁に作品があるの?」と疑いながら奥に進むと、壁の左上から右下にかけて「どくんどくん と」という文字が並び、右上からは「育って 育って」という文字。途中から「腐って 腐って」に変わります。人の気配がしたので振り返ると、男性が「立ち入り禁止」の斜面に入り、登り始めましたではありませんか。係の人に「斜面を登っている人がいるんですが……」と告げたところ、「あの方は作家さんです。今からパフォーマンスがあるので、ゆっくりご覧ください」という返事。見ている人間は二人だけ。「中学生も見たのかな?」と考えながら、パフォーマンスを眺めました。作品リストに目を遣ると、作家名は関川航平。タイトルは “A Summer Long”。素材・技法の欄には「23.4度の傾き、ドローイング、パフォーマンス」と書かれています。パフォーマンスは、「吹けば風」の作品だったのです。

◆「吹けば風」展示室2~3

川角岳大《Summer》(2021)

展示室1内の階段を上がり、展示室2に入ると絵画が3点。作品リストによれば、向かって右の壁の作品は川角岳大《Summer》(2021)、夏山を背景にして白い鳥が飛ぶ、爽やかな絵でした。川角岳大の出品作品は全部で23点。展示室2・展示室3の出入口や展示室4につながる廊下の突き当りまで、展示できそうなあらゆる場所に展示されていました。

 展示室2の出入り口北側の壁には、天井近くまで使って2枚の作品を上下に展示。上の絵は《イシダイ》(2023)、下の絵は《手銛》(2023)。2点を組み合わせると、手銛でイシダイを突き刺した絵が完成するという仕掛けです。

 展示室2と展示室3をつなぐ廊下東側の壁には《下りの蛇》(2021)・《上りの蛇》(2021)、《Street Light》(2022)などを、展示室3には《黒い犬》(2023)、《カラス》(2023)などを展示。分かりやすい作品なので、現代アートといっても中学生たちが面食らうようなことはなかったでしょうね。

《黒い犬》(2023)
《カラス》(2023)

◆「吹けば風」展示室4

 展示室4は、3つの区画に澤田華の映像作品を展示。最初の区画の作品は、ゾンビ映画に日常風景を撮影した動画を重ねて投影したもの。映画鑑賞中に雑念が湧き上がってくるような感覚を覚える作品でした。

 次の区画では、床に様々な物が散らかっている中を、足元に気をつけながら歩く体験ができました。最後の区画の作品は大型のモニターを使ったもので、大型のスマホを見ているような気持になりました。

◆「吹けば風」展示室5

 2階の展示室5は、船川翔司のインスタレーション。「お天気」をテーマにしているようで、室内で風が吹いていました。《双子の歌》は、展示室内に二つの大型モニターを向かい合わせに置き、同じ動画を流すものです。

◆「コレクション展」展示室6・7

展示室6・7は、通常、小堀四郎、宮脇晴・綾子の作品ばかりですが、今回は、草間彌生、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、ルネ・マグリットなど、豊田市美でおなじみコレクションが勢ぞろいしていました。

三木富雄の「耳の彫刻」《EAR》(1905)

◆「コレクション企画 枠と波」展示室8

入ってすぐのところにあるのが、三木富雄の「耳の彫刻」《EAR》(1905)。名古屋市美術館「コレクションの20世紀」でも見ましたが、今回は高さ170cmと、インパクトのある作品でした。

 ヨーゼフ・ボイスの作品は、2021年開催の「ボイス+パレルモ」で展示されていた、丸めたフェルトを7本並べた《ブライトエレメント》(1985)の外、お馴染みの《ジョッキー帽》(1983、85)などを展示していました。

 狗巻賢二の作品では、直交する平行線を様々に組み合わせたものを数多く出品していました。

 また、展示の最後には安藤正子さんの先生の作品、櫃田伸也《通り過ぎた風景(山々)》(1999)がありました。

◆最後に

 「吹けば風」には“くせの強い”作品が並んでいましたが、豊田市美全体では様々な作品を鑑賞することができました。中学生の皆さんも満足されたのでは、と思います。

Ron.

一宮市三岸節子記念美術館「安藤正子展 ゆくかは」ミニツアー

カテゴリ:未分類 投稿者:editor

 一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「安藤正子展 ゆくかは」のミニツアーに参加しました。開始日時は8月5日(土)午後2時。美術館が開催した「アーティスト・トーク」に参加するという方式です。アーティスト・トークの参加者は約50名、うちミニツアー参加者は13名で、アーティスト・トークの司会は美術館の野田路子学芸員(以下「野田さん」)でした。以下は、当日のメモを元に書いたものです。

◆第1部 美術館2階第1展示室

 冒頭、野田さんは「現在、母校・愛知県立芸術大学の准教授」と、安藤正子さん(以下「安藤さん」)を紹介。安藤さんは、本展のサブタイトル「ゆくかは」について、鴨長明『方丈記』の有名な一節「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」から取ったもの、と解説。「時間の流れはゆくかは(行く川)のように速い」「絵を描くのは時間がかかり、流れに追いつけない」というキーワードを中心に、作品制作に向かう姿勢などについて、お話しくださいました。

 続いて、野田さんから「第1展示室の作品は2016年以前に制作したもの」という説明があり、安藤さんによる作品解説が始まりました。

◎《貝の火》(2004)

 右手にポールペンを持ち、自分の左腕に絵を描いている女の子を描いた細密描写の鉛筆画です。不思議なことに、女の子は「鳩をくわえたキツネの頭部」を被っています。安藤さんによれば、宮沢賢治の童話『貝の火』(注に、あらすじを記載)に着想を得た作品。自分の体に絵を描くのは、古代人の壁画をイメージしているとのこと。《貝の火》は安藤さんにとって「大きな画面に鉛筆で描いた最初の形」とのことでした。

(注)主人公は子ウサギのホモイ。ホモイは、川に流されたヒバリの雛を助けたことで、鳥の王様から宝珠・貝の火を贈られます。ホモイは周りの動物からおだてられて増長。キツネに誘われたホモイは悪事に加担しますが、貝の火が濁り始めたことに気がついて、キツネの悪事を食い止めます。しかし、貝の火は砕け、その破片でホモイは失明。ラストに、ホモイのお父さんが「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから」と慰めるのでした。(全文については、青空文庫=https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.htmlをご覧ください)

◎《ビッグ・バン》(2007)

 これも鉛筆画で、垂直に立った棒に張った網にアサガオが蔓を伸ばし、満開のアサガオが咲き誇っている様子を描いた作品です。安藤さんによれば油絵の作品もあるそうですが「鉛筆画は下絵で、油絵が本画」ということではなく「それぞれが独立した作品」。「色のイメージを持っているものは油絵にすることが多い」そうで、「《貝の火》は、画面の縁に色つきの紙を置くことで満足したので、油絵は制作しなかった」そうです。

◎《うさぎ》(2013)・《パイン》(2014)・《APE(エイ・ピー・イー)》(2014)

 安藤さんによれば「息子に毛糸のおくるみを掛けて、寝ている姿を見ているうちに、東日本大震災の原発事故をテーマに三枚の絵を描こうと思った」とのことです。《うさぎ》は、公園で虫取りをする息子の姿。草ぼうぼうの公園に無人の商店街が重なって見えたそうです。《パイン》は、松原の中で一本だけ残った松。《APE》はGRAPEファンタの空き箱で作ったヘルメットに「APE」という文字が読めたから付けたタイトル。Apeは類人猿。フォークロック・バンドの「たま」が歌った「さよなら人類」のメロディーも浮かんだそうです。雪は放射能を表現したもの、とのことでした。

《パイン》について「足元のパンジーは、名古屋市美術館協力会のカレンダーにも描きましたが表情のある花。泣いたり、笑ったり、ひげのおじさんや犬のようにも、困っているようにも見える」と付け加えていました。

◆第1部 美術館2階第2展示室

第2展示室に移動してから安藤さんが語ったのは、第1展示室に出品の三枚の作品を描き上げた時の心境と、その後の変化でした。

◎三点を描き上げた時の心境

安藤さんは三点の作品を描き上げて、自分の見ているもの、考えていることを絵にしていく作業が「磁石に鉄がくっつくようにうまく描けた。これ以上は出来ない」という心境になったそうです。その頃、名古屋市内から瀬戸市に引っ越し、第二子(女の子)が生まれ、大学(愛知県立芸術大学)に就職するなど、生活環境の変化もあって、「前のスタイルで制作を続けるのは難しい」と感じ、木炭紙に木炭で描いたり、水彩鉛筆で描いたり、試行錯誤を続けたそうです。「マティスやボナールが好きで、その作品のように描こうとしても、細部を描きたくなる」「大きな空気感を描きたい」などの言葉がありました。

◎《眠れない》(2018)

 小さな花が縦横、規則的に並んでいる紙に、寝間着姿の小さな女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんが語ったとおり、第1展示室で見た精密描写の絵とは違う画風になっています。

◎《歯ブラシの話》(2020)

 黒い野球帽、赤いジャンパーで、歯磨きをしている髭面の人物を水彩鉛筆で描いた作品です。安藤さんによれば、描いたのは沖縄の人で「柔らかい歯ブラシが好き」と言っていたとのこと。「この作品で、絵が描けるようになった。」「描き始めることができれば、完成することができる」とも解説。《歯ブラシの話》では、瀬戸市にいる若い作家から陶板レリーフの制作に誘われた話もされました。「作品展に出品しませんか」と誘われたので「陶板をやってみたい」と快諾。「近所の友達のところで焼成してもらった」とのことでした。

◎《ニットの少女Ⅱ》(2020)・《ニットの少女Ⅳ》(2020)

女の子の顔、体、背景を陶板で制作して、板に貼りつけた作品です。安藤さんによれば、原型をつくって、石膏型(凹型)を取り、石膏型に粘土を詰めこんで成型。その後、乾燥させて焼成、とのこと。「同じ形のものが、複数できる。同じ原型でもイメージを変えることができる」などの言葉から、陶板レリーフの制作を楽しんでいることが伝わってきました。確かに《ニットの少女Ⅱ》と《ニットの少女Ⅳ》は同じ原型の作品ですが、イメージはずいぶん違います。原型→石膏型→成型→乾燥→焼成という、ひと手間多い、大量生産時に使う制作方法(だと思いますが……)は「やきものの街・瀬戸」に引越したから出来たことだと思いましたね。

◎《怖いテレビ》(2018)

 安藤さんは「枕を抱きしめながらテレビを見ている娘。枕の柄を最初に描いた」と解説。《眠れない》と同じように、図柄を描いた紙の上から描いています。

◎《ピンクの中の娘》(2019)

 黄色いパイナップルを描いたピンクの紙に、パンツ姿の女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんによれば「陶板の《パイナップル》シリーズの元になった絵」とのことでした。

◎《シダ植物》(2018)・《31》(2022)

 安藤さんは「紙に柄を描いたものを何枚も用意。その紙の上に絵を描いた」「図柄やパターンを描いた紙に人物などを描くことで、二次元の性質を強めてくれる」「パターンは芋版を使って描いた」等と解説。

◎《将棋なんて》(2021)

 大画面の水彩画です。将棋盤を見つめている女の子の服は、実物をコラージュしたもの。安藤さんは「コラージュしようとは思っていなかったが、服はコラージュした方が良いと思った」「陶板制作に近いものを感じた」「陶の制作が水彩画に活かせた」等と解説。

◎《歯が抜けそう》(2020)

 安藤さんは「乳歯が抜けるときの姿を描いた」「楽しんで描いた」と解説。「画面左上にコードが描いてあるけれど、好きなモチーフですか?」という、入場者からの質問には、「身の回りにあるアイテムを画面に入れるのが多い。ヘッドフォンを買ったときは、いずれ描くかなと思った」と回答されていました。

◎《スシローにて》(2023)

 安藤さんは「娘のギターの発表会の後スシローに行ったら、中3の息子が高い皿をたくさん注文。さっさと食べる様子が面白くて描いた。自分の作品は平面的なものを重ねるが、複数の視点を取り入れることはなかった。この作品では、すし皿を真横だけでなく、真上から、斜めからと、複数の視点で描くことで、三次元の空間を表したいと思った。スプーンには、自分の顔が写っている。一枚の絵の中に絵画の歴史がある」と解説。

◎アーティスト・トーク 終わりのあいさつ

 安藤さんのアーティスト・トークは「本展には、20年間、60点の作品を出品。この後の時間、好きに見て、楽しんでいただければうれしい」というあいさつで終了。時計は午後3時でした。

◆1階 第3展示室(ただし、部屋の表示板は「講堂」) 

1階では、安藤さんが日常生活を撮影した20分59秒の映像作品「ゆくかは」を上映していました。

◆作家を囲む会 

ミニツアー募集時は「作家を囲む会」の通知はありませんでしたが、通知後、一宮市三岸節子記念美術館を通して「アーティスト・トーク終了後、わずかの時間であれば安藤さんを囲む懇談会を開催する」ことにご快諾いただき、「作家を囲む会」の開催が実現。ミニツアー参加者は当日に通知を受け、「うれしいサプライズ」となりました。

「作家を囲む会」は、午後3時30分~4時の間、美術館の喫茶コーナーをお借りして、安藤さんとミニツアー参加者13名で開催。安藤さんのごく近くでお話が出来たので、参加者は大喜び。また、安藤さんが参加者一人一人の質問に丁寧に答えて下さったので、参加者にとって至福のひと時となりました。

安藤正子様、お忙しい中にもかかわらず時間を割いていただき、ありがとうございました。

Ron

展覧会解説会「マリー・ローランサンとモード」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.31 投稿

「マリー・ローランサンとモード」(以下「本展」)の「展覧会解説会」(以下「解説会」)を聞いてきました。日時は7月23日(日)14:00~15:25、会場は名古屋市美術館2階講堂、講師は深谷克典・名古屋市美術館参与(以下「深谷さん」)でした。以下は解説会の概要です。

◆マリー・ローランサンについて

深谷さんによれば、マリー・ローランサン(以下「ローランサン」)は、日本で人気のある作家。「マリー・ローランサン美術館」(現在は作品を保管・貸出するだけ)があるほどです。ローランサンを日本へ最初に紹介したのは、詩人の堀口大學。彼は1915年にスペイン・マドリードでローランサンと出会っています。ローランサンはドイツ人貴族と結婚したばかりでしたが、第一次世界大戦勃発のためスペインに亡命中でした。堀口大學も父(外交官)の赴任先・スペインにいました。堀口大學はアポリネールの詩も紹介しています。

◆本展の特色

深谷さんによればローランサンの展覧会は、①本人の個展、②エコール・ド・パリの展覧会という二つのパターンが多いのですが、本展は少し視点が違い「ローランサンが一番活躍した1920年代に同時代の作家・モード(流行・ファッション)と、どう関わったのか」がテーマとのことでした。

◆19世紀後半の西洋美術の主流はアカデミックな絵画

深谷さんによれば、19世紀後半(70年代~90年代)西洋美術の主流は、印象派やポスト印象派ではなく、カバネルなどのアカデミックな絵画。そこに写真が登場して「芸術は、目に見えないものを表現すべきだ」という考え方が出てきた、とのことです。

◆第一次世界大戦の衝撃は大きかった

深谷さんによればフランスの戦死者数は、普仏戦争(1870-71)が28万人、第一次世界大戦(1914-18)は170万人、第二次世界大戦(1939-45)は55万人。フランスに限ると、第一次世界大戦の方がインパクトが大きかったとのことです。また、「第二次世界大戦における日本人全体の死亡者数は260‐310万人」とも解説。

普仏戦争の後にはベル・エポック(良き時代)が、第一次世界大戦の後にはレザネ・フォル(“ Les Années folles” 狂騒の時代、英語だと”roaring twenty”)が続きます。

第一次世界大戦の衝撃は、それまで進んでいた西洋美術の「急激な前衛化」を止め、「古典に戻る時代」になりましたが、その一方で、ダダなどの過激な人物が登場、「失われた世代 ”Lost generation”」という言葉も生まれた、とのことでした。

◆本展の構成

深谷さんによれば、本展はローランサンとガブリエル・シャネル(以下「シャネル」)の作品で構成。シャネルが生きたのは1883-1971、ローランサンは1883-1950、二人は同じ年の生まれです。しかし1910年代には、シャネルは帽子屋を始めたばかり、ローランサンは既に有名人になっていました。本展では、1920年代の二人の大活躍をフォーカスします。

◆二人の肖像

深谷さんは二人の肖像を比較。シャネルは1935年撮影の写真。49歳の彼女は「男まさり」の印象を与えますが、1920年撮影のローランサンのスナップショットは少女的、女性的な印象。全く対照的な二人です。

◆Ⅰ レザネ・フォルのパリ (Paris of Les Années folles)

深谷さんが投影したのは《マドモアゼル・シャネルの肖像》(1923)の画像。続いて、まったく印象の異なるカッサンドル《ガブリエル・シャネルの肖像》(1942)(注)も投影。シャネルが《マドモアゼル・シャネルの肖像》を突き返したことについて「ローランサンに肖像画を頼んだらどうなるかわかっているはずなのに、なぜ頼んだのか不思議」と話してから、アール・デコの女性画家タマラ・ド・レンピッカ《緑の服の女》(1930)の画像を投影、「これなら、気に入っただろう」と付け加えていました。深谷さんは、ガートルード・シュタインが買い上げたローランサンの《アポリネールと仲間たち(第1バージョン)》(1908)も紹介しました。

(注)シャネルの公式サイト(シャネルの創業者、ガブリエル シャネル | CHANEL シャネル)を下にスクロールし「アーティストとココ」で「詳細」をクリックすると、ローランサンとカッサンドルの肖像画、マン・レイの写真など、シャネルの肖像11点を見ることができます。

◆Ⅱ 越境するアート (Cross-border Art)

深谷さんはセルゲイ・ディアギレフとストラビンスキーの写真を投影。「1920年代のパリには、世界中から色々な人が集まった。ディアギレフのロシア・バレエ団は1909-1929に活動したが、ロシアでの公演はない。ロシア・ブームは1909年から始まり、1920年代のフランスではアメリカのジャズや混血の女優ジョセフィン・ベイカーのダンスが流行。ローランサン、ピカソといった画家が舞台美術を手掛け、シャネルも舞台衣装をデザインした」等の解説がありました。

◆Ⅲ モダンガールの登場 (Rise of The Modern Girl)

深谷さんによれば、ポール・ポワレが19世紀末から1910年代に東洋趣味の服をデザイン。「コルセットを取り去った人」としても知られるが、1920年代はシャネルの時代となる。ドーヴィルで撮影された写真が投影され、「シャネルの最初のブティック」との解説がありました。

◆IV エピローグ:蘇るモード (Fashion Reborn )

深谷さんによれば、シャネルが1971年に死去してからメゾンは低迷。それを立て直したのが、1983年にシャネルのデザイナーとなったカール・ラガーフェルド。最後のコーナーでは彼がデザインした2011年のコレクションの作品と映像を展示。1922年にローランサンが描いた《ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン》のピンクとグレーをシャネルのデザインに取り入れ、ローランサンとシャネルは和解に至った、との説明でした。

◆最後に

深谷さんの講演は、とても面白かったのですが、話に聞き入るとメモを書く手が止まってしまい、断片的な言葉しか残っていません。1時間半の内容豊かな講演だったのですが、面白みのないブログになってしまいました。

Ron

おまけ=失われた世代 (Lost generation)について

深谷さんが「失われた世代」について何か言ったことは記憶にあるのですが、メモしたのは「失われた世代」という言葉だけ。文庫本を漁ると、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(ハヤカワepi文庫)に〈「あなた方はあてどない世代ね」 ガートルード・スタインの言葉〉というエピグラム(警句)があり、同著者の『移動祝祭日』には、次の一節がありました(新潮文庫 p.48)。

〈「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」

「そうですかね?」私は訊いた。

「ええ、そうじゃないの」彼女は言いつのった。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っぱらうし……」(略)〉

 「あてどない世代」だったり「自堕落な世代」だったり、翻訳の難しい言葉なのですね。

ミニツアー 瀬戸市美術館「北川民次コレクション 全員集合!」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.24 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「北川民次コレクション 全員集合!」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。酷暑の中の開催なので、参加者は6名。瀬戸市美の石原学芸員(以下「石原さん」)と一緒に作品を見て回りました。

◆1階 

石原さんによれば、本展で展示しているのは、1936(昭和11)年に北川民次が帰国してからの作品。北川民次は静岡県出身ですが、メキシコで結婚した夫人が瀬戸市出身なので、瀬戸市に来てから1937年に東京・豊島区に引っ越し。池袋モンパルナスの一員となり、熊谷守一から水墨画の手ほどきを受けています。

最初の展示作品は、瀬戸市が注文したリノカット(リノリウムの版画)による《瀬戸十景》(1937)。瀬戸市は絵葉書の原画にする予定だったようですが、版画のコントラストが強すぎて絵葉書にはならなかった、とのことです。

《瀬戸十景》に続く《メキシコの浴み》《タスコの裸婦》(いずれも1941頃)は木口(こぐち)木版(輪切りにした板を彫った版画)。木口は堅いので細い線を彫ることが可能。石原さんは「メキシコではポピュラーな技法」と解説。

スケッチの《K氏》(1952)について、石原さんは「アメリカで活躍した画家・国吉康雄ではないか?」と解説。《陶壁 陶器を作る人々 原画》(1959)の3点は市民会館陶壁。石原さんによれば「陶壁は釉薬では色の再現が難しく、色のついた土を使って色を再現した」とのことでした。

リトグラフ《魚を売る女》(1962)は「北川民次は、構図に気を配っているので、この作品も黄金比による分割では、と思う。」との解説もありました。

◆2階 

母子像が目立ちますが、石原さんは「北川民次は20歳で渡米し、それが母親との別れになってしまったので、母親に対する思いが強く、多くの母子像を描いたのでは」と解説。最後の部屋では、「十二支がそろっています。美術館では、北川民次の絵をモチーフにした十二支のきんちゃく袋も販売しています」とのコマーシャルもありました。

◆番外編(招き猫ミュージアム:瀬戸市薬師町)

 以前、常滑に行ったとき名鉄・常滑駅で巨大な招き猫を見たので「招き猫は常滑」と思っていたのですが、招き猫ミュージアムには「1900年ごろ、日本で最初に招き猫の大量生産を始めた愛知県瀬戸市は『招き猫の故郷』といわれています。(略)本物の猫に近いすらりとした体形と猫背が特徴(略)」と書かれていました。常滑の解説は「1950年ごろに生まれました。二頭身のふっくらとした体形と大きな目、そして小判を抱えた特徴的なその姿は、戦後日本の高度成長と共に、瞬く間に日本中に広がりました」というもの。

 招き猫の故郷は瀬戸市、日本中に広がったのは常滑の招き猫ということでしょうか。

Ron.