碧南市藤井達吉現代美術館「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)では「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」(以下「本展」)を2月24日(日)まで開催しています。「天才と呼ばれた稀代の彫刻家」という副題に誘われ、碧南まで足を伸ばしました。以下は、作品を見た感想です。
◆展示の構成
本展の入り口は2階。「碧南市制70周年記念事業」かつ「開館10周年記念」という位置づけで、1階と2階にある4つの部屋すべてを使った大掛かりな展示でした。2階は概ね時代順の展示、1階は東京・日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》関連の展示です。
佐藤玄々の本名は清蔵、旧号は朝山。作品の制作時期ごとに使っていた名前が違うため、本展の名称が「佐藤玄々(朝山)」となっているようです。出品リストも時代区分ごとに(清蔵)(朝山)(玄々)と、その時期に使っていた名前を添えていました。
◆Ⅰ.修業時代(清蔵)
 本展のキーワードは「天才」。10代で制作した木彫からも「天才」ぶりを感じました。墨絵の展示もありました。木彫だけでなく、墨絵も上手いですね。
◆Ⅱ.大正期 留学まで(朝山)
 デビュー作の《永遠の道(問答)》でびっくりしたのは、向かい合っている師(婆羅門)弟子(釈迦)が異常に接近していることです。黒澤明監督の映画「椿三十郎」ラストの「椿三十郎」を名乗る素浪人(三船敏郎)と室戸半兵衛(仲代達也)の決闘シーンのような緊迫感がありました。《沙倶牟多羅姫と陀遮迦陀王》は台座にも彫刻をしている大作です。
《花林》は、何故か前のめりになった女性像。「芸術新潮」2018年11月号特別企画の対談では、増淵鏡子・福島県立美術館学芸員が「おそらく、木の流れをそのままに彫っているのではないかと思います。(略)木への信仰心のようなものでしょうか」と話していました。
《上宮太子(聖徳太子像)》はシンプルなフォルムで、愛知県三河地方各地に伝わる素朴な土人形を連想し、《鹿》からは新年に熱田神宮で買った一刀彫の「えと守」を連想しました。
大正期に佐藤玄々が渡仏してブールデルに弟子入りして制作した、ブロンズ像の《女性像》《達磨》も展示されています。
◆Ⅲ.昭和初期(朝山)
昭和初期の展示は、二つの部屋に分かれています。二つの部屋の境に展示されているのが《白菜》と《筍》。どちらも「食べ物」ということで、美術館のカフェではこの《白菜》《筍》をイメージした和菓子セットを期間限定メニューとしています。
最初入った部屋最後の展示《白菜》はリアルに彩色された作品ですが、敢えて鑿跡を残し「私は木彫ですよ」と主張している作品でもあります。見飽きません。
次の部屋最初の展示《筍》は本展チラシの表面に使われている作品です。「当然のことだけど、実物は2次元のチラシ画像より遥かに迫力があるな」と思ったら、同じ題材の作品が二つ展示されているではありませんか。二つの作品は「まったく同じ」ではなく、微妙に違っています。何度も見比べ「部屋の入り口ではなく、その奥に展示されている作品をチラシに使ったのでは」と最終的に判断しましたが、果たして正解だったでしょうか。佐藤玄々は《筍》の他にも、「鼠」「鷹」「銀鳩」など同じ題材で、少しずつ異なる複数の木彫を制作しています。
小品ですが、「これは凄い!」と思ったのが《蜥蜴》です。トカゲが枯れた竹にまたがっているという作品ですが、トカゲも竹も同じ木を彫ったのだとは信じられないほどリアルです。《冬眠》は一見大きな土の塊。説明を読んでようやく、ヒキガエルだとはわかりました。「リアルだが抽象彫刻のようにも見える」という趣旨の説明もあり、その通りだと思いました。
◆Ⅳ.昭和戦中戦後(清蔵)
 戦中戦後の作品で一番目を引くのは《神狗》。オオカミのような極彩色の狛犬で、迫力があります。大小2点の作品が展示されており、小さな作品は熱田神宮所蔵、大きな作品は妙心寺大心院所蔵。小さな作品は習作で大きな作品が最終作品だと思いましたが、よく見ると大きな作品の頭部には切り込みがあります。どちらも習作で「完成品は熱田神宮に鎮座している」ということなのでしょうか。
ツギハギの《和気清麻呂(習作)》も見ものです。展示室にあるパネルの解説を読むと、佐藤玄々はブロンズ像の試作を木彫で作ったので「木材をツギハギして作品のボリュームを変更した」というのです。完成したブロンズ像がどこにあるのかと探したら、2階の本展入り口を入ったところに皇居大手濠に設置されている和気清麻呂像(1940)の写真パネルがありました。
◆Ⅴ.《天女(まごころ)像》(玄々)
 1階に降り向かって左側の部屋に入ると、東京・日本橋三越本館の《天女(まごころ)像》(以下《天女像》)関連の展示があります。入口の脇に展示されているのはド派手な《麝香猫》。《天女像》との関連はわかりませんが、「極彩色の木彫」という点では同じですね。
佐藤玄々のアトリエがあった妙心寺大心院が所蔵している《天女(まごころ)像(習作)》は真っ黒で、シルエットのような木彫。これが《天女像》の原点なのでしょう。この部屋に展示されている手、腕、花弁、雲など様々な《天女像》関連の試作を見て、「佐藤玄々は膨大な人手と時間とお金をかけて《天女像》を制作したのだ」ということがわかりました。
◆《天女(まごころ)像》の3D映像
 本物の《天女像》は高さ11メートル総重量6,750トンで、日本橋三越本店から美術館まで運んで展示することは不可能。本展では最後の部屋で《天女像》の3D映像を上映していました。3D映像を見ると、「天女」よりも光背のほうが遥かに大きいのです。また、背面には飛んでいる鳥の彫刻が数多く配置され、「背面のほうが豪華なのでは」と思うくらいでした。
最初は「天女の表情がどぎつすぎる」と感じたのですが、「日本橋三越本店の《天女像》は間近ではなく遠くから眺めるものなので、これくらいどぎつくて丁度いいのかもしれない」と思うようになりました。舞台俳優の化粧がどぎついのと同じです。
◆1階ロビーでは《天女(まごころ)像》除幕式の記録を上映
1階ロビーではTV受像機で昭和35年(1960)4月19日に開催された《天女像》除幕式の記録映画を上映していました。上映時間は17分。映画のラスト近くで「《天女像》には化学的に合成した岩絵の具を使用。一部には木彫原型を使用した金属や化学合成素材も使われている」という説明がありました。
◆最後に
 「天才と呼ばれた稀代の彫刻家」という本展の副題は間違っていませんでした。おすすめです。見逃せませんよ。
なお、名古屋市美術館協力会では2019年2月17日(日)午後2時から「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」鑑賞ミニツアーを開催します。詳しくは、協力会のホームページをご覧ください。
                            Ron.

「きみはモディリアニーニを知っているか」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「高校生のための美術鑑賞入門講座」(高校生のための芸術の日の企画)

名古屋市美術館協力会から届いたチラシで、深谷克典・名古屋市美術館副館長の講演が開催されることを知り、名古屋市美術館(以下「市美」)に行ってきました。以下は講演を要約筆記したもので、見出しと(注)は私(Ron.)が補足しました。

◆高校生のための芸術の日について
本日は「高校生のための芸術の日」です。この「高校生のための芸術の日」は、名古屋市美術館としては初めての試み。お隣の名古屋市科学館では以前から、「高校生のための科学の日」を定めて高校生のための科学の祭典を開催しています。そして、「科学だけでなく美術でも」という話があり、今回「高校生のための芸術の日」の行事として「高校生のための美術鑑賞入門講座」を開催することになりました。
座席を見渡すと、現役の高校生に混じって「だいぶ前に高校生だった人」も参加しているようですが「対象は高校生だけでなくどなたでもOK」の講座ですから、ご心配なく。

◆きみはモディリアーニを知っているか
講演のタイトルは、ご覧のとおり「きみはモディリアーニを知っているか」です。お気づきの人もいらっしゃると思いますが、このタイトルはベストセラーの「君たちはどう生きるか」をもじりました。
さて、現役の高校生の皆さんに質問です。皆さん、モディリアーニを知っていますか?(注:挙手なし)そうですか。それでは、《おさげ髪の少女》は知っていますか?(注:挙手あり)《おさげ髪の少女》は知っている人が多いようですね。
《おさげ髪の少女》は市美が開館する一年ほど前に購入した作品で、市美の「看板娘」と呼ばれています。東京や関西からこの作品を見るため、市美に来る人も多く、先ごろ亡くなられた、スタジオ・ジブリの高畑勲さんも「《おさげ髪の少女》を見るために名古屋に来る」という方でした。
《おさげ髪の少女》の作者アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)は1884年生れで1920年死去。2020年は「没後100年」に当たります。

◆市美の収集方針は
スライドは市美の収集方針です。ご覧のとおり、1.郷土の美術(注:画像は宮脇晴《自画像》)、2.エコール・ド・パリ(注:画像はマルク・シャガール《二重肖像》)、3.メキシコ・ルネサンス(注:画像はディエゴ・リベラ《プロレタリアートの団結》)、4.現代美術(注:画像はフランク・ステラ《説教》)の4分野です。

◆現代と近代の区分は
「現代美術」という時「現代と近代はどのように区分されるのか」ということですが、美術の場合は現代と近代の区分について特に決まった定義はありません。一般的には第二次世界大戦後を「現代」としていますが、市美では「おおむね1980年代以降」を「現代美術」に区分しています。ただし、例外もあります。

◆エコール・ド・パリについて
スライドの写真は地元の作家・荻須高徳(1901~1986)。稲沢市出身の洋画家です。彼は1927年から40年までパリに滞在した後に帰国。1948年に再渡仏して1986年までフランスで活躍し、当地で死去されました。この荻須高徳にゆかりのある芸術家の集団がエコール・ド・パリ(École de Paris)です。エコールには「学校」又は「学派」という意味があり、「エコール・ド・パリ」は「パリ派」と翻訳されています。
エコール・ド・パリの主な作家は、ドンゲン(オランダ)、ブランクーシ(ルーマニア)、パスキン(ブルガリア)、モディリアーニ(イタリア)、アーチペンコ(ウクライナ)、ザツキン(白ロシア)、リプシッツ(リトアニア)、シャガール(白ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーチン(ロシア)、藤田嗣治(日本)などです。国籍を見てください。彼らは、いずれもフランス国籍ではありません。
エコール・ド・パリの作家は主に、パリ南部の14区・モンパルナス(Montparnasse)に集まっていました。パリには1区から20区までの行政区があります。1区はパリの中心地で、そこから時計回りに2区、3区と、らせん状に行政区が並んでいます。19世紀半ばから後半まで、当時場末だったパリ北部の18区・モンマルトル(Montmartre)は物価が安く、芸術家たちが集まっていました。20世紀になると、モンマルトルが発展して住みにくくなり、エコール・ド・パリの作家はモンパルナスに集まるようになったのです。

◆狂騒の1920年代
スライドは1920年代に撮影された仮装パーティーの写真です。この時代、人々は仮装パーティーを頻繁に開きました。1920年代は「狂乱の時代」「狂騒の時代」(英:Rolling Twenties、仏:Les années folles)と呼ばれ、人々は第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた、この平穏な時代を刹那的に楽しんだのです。写真に写っている眼鏡の人物は、女装した藤田嗣治です。1920年代の彼は「名前を知らないものは無い」というほどの有名人でした。
ヘミングウェイが書いたエッセイ「移動祝祭日」(英:A Moveable Feast、仏:Paris est une fête)を読むと、当時の雰囲気がわかります。ヘミングウェイは1920年代をパリで過ごしており、エッセイに書かれた「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」という文が有名です。

◆モディリアーニについて
スライドは1958年に公開された映画「モンパルナスの灯」に出演したジェラール・フィリップ(Gérard Philipe、モディリアーニ役)とアヌーク・エメ(Anouk Aimée、妻・ジャンヌ役)の写真です。ジェラール・フィリップは「フランスのジェームス・ディーン」と呼ばれた俳優。アヌーク・エメはアヌーク・エーメとも言いますが、この映画で人気を博し、映画「男と女」でもヒロインを演じています。(注:イタリア映画まで範囲を広げると、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「甘い生活」「8 1/2」にも出演しています)なお、「モンパルナスの灯」は日本公開時の題名で、原題は「モンパルナスの恋人たち」(Les amants de Montparnasse)でした。
モディリアーニは様々な伝説のある作家で、有名なものは「モディリアーニが36歳の若さで死んだ二日後、二人目の子供を妊娠していた妻のジャンヌはアパートから身を投げて自殺した」というものです。モディリアーニはエピソード先行で見られるため、作品が歪められて評価されがちな作家です。映画の影響も強く、誤解を受けることも多かったようです。モディリアーニの評価に伝説や映画の影響がなくなるのは、最近のことです。
スライドはモディリアーニの写真です。イケメンでしょう。「モンパルナスの灯」を監修したジャン・コクトーは「映画のジェラール・フィリップよりもモディリアーニ本人のほうが遥かに男前だった」と語っています。
次のスライドはモディリアーニの裸婦像です。2015年のオークションで売れた上の作品には210億円の、2018年のオークションで売れた下の作品には172億円の値がつきました。モディリアーニは、生前ほとんど絵が売れませんでしたが、今では天文学的な価格で作品が売買されています。
モディリアーニは1884年7月2日、イタリア・トスカーナ地方の港町リヴォルノに生まれました。リヴォルノはフィレンツェの西に位置し、ユダヤ人が多かった町です。
1906年1月、22歳のモディリアーニはパリに出て、モンマルトルに住みます。1910年頃から彫刻に専念し、絵画を描かなくなります。しかし、幼いころ肋膜炎などに罹っているモディリアーニは、体力を必要とする彫刻を続けることが難しくなり、再び絵画を制作することになります。

◆美術品の海外流出について(少し脱線)
スライドはモディリアーニ《ユダヤ女》で、2008年に市美で開催したモディリアーニ展(開館20周年記念)に出品した作品です。当時、大阪市在住の個人が所有していました。しかし、先日、当人に問い合わせたら「2015年にオークションで売却した」とのことでした。
日本にある美術品のうち、個人や企業が所有していたものが、ここ10年、めちゃくちゃな勢いで海外に流出しています。モネの作品も、かつては日本に200点あったのが、今では100点ほどに減っています。バブルの頃に収集した作品は、バブル崩壊直後にはそれほどでもなかったのですが、特にここ10年ものすごい勢いで海外に流出しています。この現象は「日本の凋落の証拠」だと思います。

◆再びモディリアーニについて
スライドは、20世紀初めにおけるピカソの作風の変化です。1907年から1920年の間に、同じ作家とは思えないほど目まぐるしく作風を変えていますね。
ピカソは極端な例ですが、20世紀の初めは前衛的な風潮が主流になったものの、第一次世界大戦が終わった後は社会のあらゆる層で「秩序への回帰」が起き、美術の分野でも写実的、伝統的表現に戻っていきました。
スライドは1912年のサロン・ド・ドートンヌ=秋の展覧会の写真で、モディリアーニは彫刻を出品しています。20世紀の美術はアフリカ、オセアニアの彫刻に影響を受けており、モディリアーニの作品にもアフリカの仮面など影響が見られます。
モディリアーニの絵画は、ほとんどが人物画で、静物画が少し、風景画はありません。スライドの《黄色いセーターのジャンヌ》は1918年制作で「縦に長い体型で目に瞳がない」という特徴があります。ただ、この特徴はモディリアーニだけのものではありません。「縦に長い体型」は、マニエリスム(注:ルネサンス後期の美術。美術史ではルネサンスとバロックの合間)のイタリアの画家・パルミジャーノ《首の長い聖母》に例があり、「瞳のない目」はゴシック期のイタリアの彫刻家・ティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に例があります。さらに言えば、モディリアーニはこれらの作品を、ボッティチェリの《ヴィーナス誕生》や《春》などの伝統を意識しながら描いたのだと思います。
ここで、実験です。《黄色いセーターのジャンヌ》の首を通常のプロポーションに直した絵を用意しました。オリジナルの絵と並べたスライドをお見せします。いかがですか?首を通常のプロポーションに直すと、作品のインパクトが減りますね。
モディリアーニには瞳を描いた人物画もあります。「瞳の有、無」で、その影響を比べてみましょう。ご覧のとおり、瞳が無いと表情が消えてしまいますが、その反面、形や色に注意が集中します。一方、瞳があると表情に意識がとらわれてしまいます。彫刻でも比べてみましょう。やはり、瞳の無いほうが造形性に目が行きますね。

◆《おさげ髪の少女》のモデルは誰?
市美の看板娘《おさげ髪の少女》のモデルは「近所にいた10代前半の女性」と言われており、「モデルは誰か」ということは、それ以上追及してきませんでした。ところが、最近、スイスの美術館が所蔵するモディリアーニの作品のモデルが分かったことから、《おさげ髪の少女》のモデル探しが始まりました。
モデル判明の経緯ですが、ある日本人画家が自伝のなかで「自分の奥さんが若いころ、モディリアーニのモデルをしたことがある」と書いたことから、その奥さんがスイスの美術館が所蔵するモディリアーニの作品のモデルと同一人物だと分かったのです。モデルになった女性ですが、最初は藤田嗣治が自分のモデルに採用しました。その後、彼女はパリに出てきて、モディリアーニのモデルを務めたのです。
スライドを見てください。藤田嗣治が描いた彼女の絵とスイスの美術館が所蔵する作品、《おさげ髪の少女》を比べると「3つの絵は同じ女性を描いたのでは」と思えてくるのです。ただし、この推理に確たる証拠はありません。

◆偽物と本物の判別
テレビ番組「開運 なんでも鑑定団」では、「真っ赤な偽物です」と鑑定されることが良くありますね。実は、モディリアーニは「にせものが多い作家」です。作品の特徴がはっきりしており、マネしやすいことから贋作=偽物が出回るのです。日本でも国立の美術館が購入したモディリアーニの作品に贋作説が出て、国会で追及されたことがありました。
今から、皆さんに偽物と本物の判別をしていただきます。スライドには2枚の絵があります。一つはモディリアーニの贋作者エミール・ド・ホーリー(Elmyr de Hory)、もう一つはモディリアーニの作品です。いかがですか?左の絵が本物だと思う人は手を上げてください。一名だけですか。それでは、右の絵が本物だと思う人は手を上げてください。かなりいらっしゃいますね。本物は「右の絵」です。なかなか、お目が高いですね。
「開運 なんでも鑑定団」を見ていて「本物と偽物を見分けることは、本当にできるのか」と疑わしく思った経験をお持ちの方もいらっしゃると思いますが、見分けることはできるのです。その理由を言う前に、一つお話をします。

◆羊飼いの話
100匹の羊の世話をしている羊飼いがいました。ある時、羊飼いは1匹の羊がいないことに気がつきました。この羊飼いは、羊の数を数えていません。数えなくても、羊が1匹いなくなったことがわかったのです。
それでは、皆さんに質問です。なぜ、羊飼いは羊の数を数えなくても羊が1匹いなくなったことがわかったのでしょうか?
いかがですか。むずかしいですか。お答えが無いようなので、答えをお教えします。
その理由は「羊飼いは羊の顔が分かるから」。
我々が見ると、どの羊も同じ顔に見えますが、羊飼いは羊が100頭いても、その一頭一頭の顔の違いが頭に入っているのです。だから、一頭でもいなくなったら気がつくのです。
絵画も同じです。毎日見ていれば真贋の見分けがつくようになります。いいものをたくさん見ていれば、無意識のうちにデータベースができて、いいものが分かるようになるのです。
いろいろな世代のなかで、いちばん美術館に来ないのが「高校生」です。一方、高校生など10代の後半は、物事をいちばん吸収する世代でもあります。新鮮な感受性を持って、たくさんの経験をして、その経験を養分にしていただきたいと思います。
これで、私の講演は終わりです。最後まで聞いていただき、ありがとうございました。

◆最後に
「対象は高校生に限らずどなたでもOK」という言葉どおり、どの世代でも楽しめる講演でしたが、今後のことを考えると「高校生向け」という姿勢は大事だと思います。これからも開催していただきたいですね。
「羊飼いの話」の質問、だれも正解を答えられませんでしたが、NHKのチコちゃんとは違って「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られることもなく、ほっとしました。そして、「たくさんの本物・良いものを見る」ことはいくつになっても大切だと、改めて認識することができました。ありがとうございました。
Ron.

充実した収蔵品が話題の静岡近代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「芸術新潮」2019年1月号に面白い記事があったので、ご紹介します。127ページの「ARTCafe 芸術新潮と読者を結ぶページ 1|JANUARY」に掲載されていました。内容は以下のとおりです。

国内外の近代美術の巨匠がずらり 充実した収蔵品が話題の静岡近代美術館
文・功刀知子(以心伝心)
 (注:記事の文字は「功」ではなく、旁が「刀」でした)
静岡市葵区にある静岡近代美術館。ここは徳川十五代将軍慶喜公の住まいがあった場所で、駿府城公園や静岡浅間神社にもほど近い。閑静な住宅街に囲まれて立ち、2016年に開館した時は知る人ぞ知る「隠れ家的」美術館だったが、近頃その収蔵品の質の高さが密かに話題を呼んでいる。収蔵品は県内で衣料品会社を経営する大村明館長が、10年程前から集めた約400点の絵画コレクションで、季節ごとにテーマ展示する。コレクション作家のラインアップが凄い。藤島武二、岡田三郎助、和田英作、梅原龍三郎、安井曾太郎、中川一政、林武、小山敬三、荻須高徳、小磯良平ら文化勲章受章者の他、熊谷守一、藤田嗣治、佐伯祐三など、日本の近代美術史を彩る豪華な顔ぶれがずらりと揃う。さらには、ルノワール、コロー、マルケ、ヴラマンク、ユトリロ、ローランサン、シャガール、ビュッフェといった海外作家の優品も常設展示されている。現在は「梅原龍三郎展・熊谷守一展」を開催中だが、出品作のクオリティは個人コレクションとは思えぬハイレベルだ。「地元文化力アップに貢献したい」と語る館長だが、その思いは静岡県民だけにとどまらず、他県からも共感を呼んでいる。
●梅原龍三郎展・熊谷守一展/会期:~2019年1月27日/休館日:月曜・火曜/会場:静岡近代美術館 静岡市葵区西深草町4-5/開館時間:10:30~16:00(入館は~15:30)/問合せ:☎054-255-5556 shizuoka-kinbi.jp

上記の文章を書いた方についてインターネットで調べると「株式会社以心伝心の代表取締役・功刀知子」さんでした。また、Facebookの自己紹介には「美術雑誌作りに携わって、はや20年以上。「美術の窓」を経て、いまは主に月刊「アートコレクター」の営業・編集を致しております。連載では「美術の窓」と「アートコレクター」の両方で山下裕二先生を担当。「今月の隠し球」では毎回、「タヌキ」の愛称で登場させていただいてます。(略)」と書いてあります。なお、「今月の隠し球」は「美術の窓」の連載記事です。
静岡近代美術館、開館時間は少し短いですが気になりますね。
Ron.

「特別展 画僧 月僊」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

平成31年最初のミニツアー、目的地は名古屋市博物館(以下「市博」)です。参加者22名で、現在開催中の「特別展 画僧 月僊」(以下「本展」)を鑑賞。学芸員の横尾拓真さん(以下「横尾さん」)のレクチャー「月僊作品の見どころ」を聴講してから自由観覧となりました。

◆「月僊作品の見どころ」(概要)
以下は横尾さんのレクチャーを要約筆記したもので、見出しと(注)は私の補足です。

◎月僊の生涯
本展で紹介する月僊(注:げっせん 1741-1809)は、名古屋城下で生誕した画僧です。7歳で仏門に入り、江戸・増上寺(注:山号は三縁山。徳川幕府の庇護を受け、一時は浄土宗を統括した大本山)で修業しました。江戸では桜井雪館に弟子入りして絵を学び、30歳を過ぎて上洛。京都・知恩院(注:山号は華頂山。法然が入滅した場所に建立された浄土宗の総本山。三門は国宝に指定されている)で修業を続け、絵では円山応挙の影響を強く受けます。ただ、月僊が応挙に弟子入りしたかどうかについては不明です。
月僊は34歳の時に伊勢の寂照寺の住職となり、69歳で他界するまで30年以上にわたり僧侶・画家として活躍しました。なお、「奇想の画家」といわれる伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白は月僊の同時代人です。
寂照寺は、伊勢神宮の下宮と上宮の真ん中あたりにある「間の山」(あいのやま)の上にあり、周りは遊郭街の「古市」(ふるいち)でした。月僊は絵を描いてお金を稼ぎ、そのお金で、寂れていた寂照寺を再興しました。月僊が建てた建物のうち現在まで残っているものは寂照寺の山門と経蔵です。
当時の月僊は、人気があって金を稼いだ画僧でした。彼はまた、「社会福祉事業家」の顔も持っており、貧しい人、恵まれない人を援助したと伝わっています。少なくとも、月僊が貧民救済のためにお金を出したことは事実で、伊勢では今でも敬われています。
◎本展の構成
本展は5章で構成されています。第1章「画業のはじまり」は、月僊と桜井雪館・円山応挙との関係に焦点を当て、第2章から第4章までは「信仰」「神仙」「山水と花鳥」と、ジャンル別に展示、第5章は「寂照寺の月僊」です。
◎雪館風のユーモラスなキャラクターを応挙に学んだ写実的表現が下支え(第1章)
桜井雪館という名前、現在では知らない方も多いと思いますが、当時は人気があり「雪舟の弟子」を標榜していました。中国風の人物をアクの強い画風で描く絵師で、絵にインパクトがあります。対する円山応挙は、雪館とは真逆の画風で、穏やかで写実的な画風です。
月僊の人物画は、漫画のように誇張と歪曲を加えたユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています。つまり、月僊の人物画の基本は円山応挙の写実ですが、それに雪館の画風(気持ち悪さやアクの強さ)が加味され、分かりやすい絵になっています。
私(注:横尾さん)は「円山応挙+オリジナリティー」という点で、月僊と長沢芦雪はよく似ていると思っています。オリジナリティーでは長沢芦雪が応挙の弟子中ナンバーワンですが、月僊は芦雪に次ぐと考えます。
◎仏画について(第2章)
チラシやポスターの図版として使った《朱衣達磨図》も「誇張した姿で分かりやすく表現した絵」です。この絵で「写実的表現が下支え」しているのは、先ず「目」です。瞳と虹彩を描き分け、目尻に赤い絵の具で充血を表現しています。白目の上下に薄く墨をさして、まつ毛の影と目が球体であることをあらわしています。また、月僊は、おでこの盛り上がり具合を、輪郭線は使わずに色彩で表現しています。
市博所蔵の《仏涅槃図》は伝統的な図柄を引き継いでいます。釈迦の上の方に描かれている金色の人物は菩薩さまですが、この絵では、ご覧のとおり、敢えて漫画のように人間臭く描いています。
《釈尊図》の台の下を見ると、邪鬼が釈尊の台を支えていることがわかります。本来、邪鬼は懲らしめられる存在ですが、この絵の邪鬼は愛らしく描かれています。三福図の《布薩本尊》では、上空から諸衆が来襲していますが、誰もが「ゆるキャラ」のような人物に描かれています。
◎神様と仙人(第3章)
月僊はクセのある人物を描くことを得意としており、仙人を多く描きました。《人物図衝立(鍾離権・呂洞賓)》が描くのは道教の仙人。二人は師弟ですが、見つめ合う姿は愛し合っているようにも見えます。このようにスターを面白おかしく、ふざけて描くことや人物のアクの強さは雪館風です。一方、手のひらや足の指先の写実的表現はうまく、破綻のない造形力を見ることができます。《恵比寿図》の顔は目が離れて鼻が大きく、神様というよりは漁師のような生々しさがあります。ご覧のように、ぱっと見は漫画チックな「面白いおじさん」ですが、その一方で、烏帽子を透かして髷が見えたり、活きているような鯛を抱えていたりと、写実的な表現がされているとわかります。
《張公図》は医者の像です。月僊の肖像画は、同時代の曾我蕭白よりも上品です。それは「月僊は蕭白ほどに突き抜けることは無かった」ということでもあります。月僊は、生々しさを残しながらも円山応挙のような上品さを保った画僧でした。そのため、月僊は上流階級の人々にも愛されました。皇族の京都・妙法院門跡もその一人で、月僊は多くの襖絵を妙法院のために描きました。本展では《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》を展示しています。淡白で美しい襖絵ですが、妙な生々しさが感じられます。
◎《百盲図巻》について(第5章)
《百盲図巻》(京都・知恩院所蔵)は、本展の最後に展示している作品です。描かれている人たちはふざけて合っているようにも見えますが、月僊は信仰心が無く六道をさまよう人々に対して「宗教的な戒め(いましめ)」を説くためにこの絵を描いています。ただ、この絵を描いたのは「戒め」のためというだけではありません。この絵の登場人物にはリアリティーがあり、楽しそうにみえます。この図巻の最後には漢文が書かれていますが、その大意は「盲人は目が見えないといっても、琵琶や鍼灸などの技術を持ち、他の人と変わるところはない」というものです。この言葉に、月僊の愛、社会福祉事業家としての姿を見ることができます。

◆自由観覧
横尾さんのレクチャーは10時40分に終了。その後、各自、自由観覧となりました。
◎《仏涅槃図》
今回のミニツアーでは市博所蔵《仏涅槃図》を始め4点の「仏涅槃図」を見ることができました。4点いずれも基本的な構図は同じですが、細かい点は少しずつ違っています。なかでも面白かったのは市博所蔵のもので、獣や鳥だけでなくカエル、セミ、トンボ、カマキリ、ナメクジなども描いており、図鑑を見ているような気がしました。他の3点はいずれもお寺の所蔵品で、全て文化財指定(菰野町、愛知県、伊勢市)を受けています。寺宝だったのですね。
◎ユーモラスなキャラクターとは無縁の肖像画
横尾さんはレクチャーで「ユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています」と解説されましたが、さすがに知恩院御影堂の肖像画を写した《円光大師座像》や岡崎・隨念寺15世倫誉達源の正装と墨染姿を描いた《倫誉上人像》におふざけは無く、写実に徹した上品な絵でした。
◎顔は緻密に、衣は一筆で描く
横尾さんがレクチャーで解説した《朱衣達磨図》と《恵比寿図》ですが、顔や手足は細筆で緻密に描写している一方、衣は襞を一筆でサラリと描いており、描写方法の対比と月僊の筆さばきに舌を巻きました。
◎床の間だけは写真パネルの《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》
横尾さんがレクチャーで解説した襖絵は、満月を鑑賞する仙人と山水を描いたものでした。仙人が見ているのは、床の間の壁を撮った写真パネル。襖は取り外して運ぶことができますが、床の間の壁を取り外して運ぶことは難しいので写真パネルになったのでしょうね。この写真パネル、ぱっと見には「シミのある鼠色の壁」で、絵が描いてあるようには見えません。それでも目を凝らしてみると、「観月」という作品名が示すように、丸い形と樹影がかすかに見えました。
◎《富士の図》三重・寂照寺(伊勢市指定文化財)
第4章には「人気絵師の多様な題材」というサブタイトルが付いており、山水画・花鳥画が出品されています。ミニツアーに参加したメンバーと「いかにも売れそうな絵ですね」とか「収集家は、自分の教養の高さを示すためにこの絵を買ったのでしょうね」とか、勝手な話をしながら鑑賞。《富士の図》では「帆掛け船・三保の松原と富士山・愛鷹山ですね。薄墨でシンプルな構図。控えめな表現で、横山大観の富士とは対極」などと話が弾みました。
◎ネズミ・唐辛子と猫の組み合わせとは?
第5章には《鼠と唐辛子図》《猫図》の2幅が並べてされています。説明には「大津絵に描かれた教訓をもとにしている」と書いてありましたが、唐辛子が鼠の好物とは思われず、モヤモヤが残った作品でした。
家に帰って調べてみると、元になった大津絵の題名は「猫と鼠の酒盛り」。うまそうに酒を飲んでいる猫、その横で鼠は猫に唐辛子を勧めてご機嫌を取っており、画面には「聖人の教えを聞かず 終に身を滅ぼす人のしわざなり」という説明が書いてありました。
解釈としては「猫に食われることも知らずに呑気に酌をしている鼠」というものと「鼠は猫をだまして酒を飲ませ、肴に唐辛子をやろうとしているが、猫のエサは鼠。策に溺れると自滅する意」というものがあります。どちらの解釈が正しいのか良く分かりませんが、わざわざ赤い唐辛子を描いているので、私としては後者の解釈の方が腑に落ちました。
◎まるや八丁味噌の大田家との交流も
第5章には資料として、まるや八丁味噌の大田家当主・弥次右衛門宛書翰巻も出品されており、ショップでは八丁味噌の販売もありました。

◆最後に
年表によれば、月僊の没年には、貧民救済のための基金が1500両まで積み上がったと書いてありました。1月14日に放送されたEテレ「趣味・猫世界」という番組で「天璋院篤姫が飼い猫の世話をするために使った費用は年25両、現在のお金で250万円でした」というエピソードが紹介されていましたが、Eテレが使ったレート・一両=10万円で換算すると1500両は1億5千万円という大金になります。貧民救済のための基金だけでなく寂照寺再建の資金も画業で稼ぎ出したことを考えると、まさに月僊は「売れっ子の画僧」だったのですね。年表には「江戸の絵師・谷文晁が月僊を訪問」という記載もあったので、当時は有名人だったのでしょう。
そのため、ミニツアー参加者からは「いい絵を描いたのに、なんで現在は広く知られていないの?」と、疑問の声が数多く聞かれました。県や市の指定文化財に指定されている作品が多いので、月僊の作品の価値はそれなりに評価されていると思います。寺のお宝で一般の人が目にする機会が少なかったために「現在は広く知られていない」という結果になったのでしょうか。
ミニツアー参加者は帰り際、「楽しかったね」と口々に感想を述べていました。この感想のとおり、今回のミニツアーで月僊の作品に出会えたことは幸運でした。名古屋市博物館の皆さんに感謝します。
Ron.