読書ノート 「帝国ホテル建築物語」 著者:植松三十里(うえまつ・みどり)

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 PHP文芸文庫 2023年1月24日 第1版第1刷

 2019年4月にPHP研究所から刊行された作品を加筆・修正した本です。帯には建築家・隈研吾氏の賛辞が太字で印刷され、「各紙誌書評で絶賛!」とも書かれています。プロローグとエピローグは、帝国ホテル中央玄関を明治村に移築する物語で、1章から8章までが本編です。いずれの内容も「事実は小説より奇なり」でした。

◆プロローグ

主要な人物は、建築家・博物館明治村館長の谷口吉郎(豊田市美術館を設計した谷口吉生の父)と名古屋鉄道株式会社・社長の土川元夫です。冒頭、土川からの長距離電話で、谷口が「明治村に帝国ホテルのライト館が移築される」という記事が夕刊に出ると知ります。昭和42年(1967)11月21日のことで、寝耳に水の話でした。プロローグは「60歳を過ぎた自分に、移築を全うする体力と気力と時間が残されているのか」と、谷口が苦悩する場面で終わります。「どうする谷口?!」という気持ちで一杯になり、エピローグまで一気に読んでしまいました。

◆1章~8章

主要な人物は、帝国ホテル支配人の林愛作、フランク・ロイド・ライト、ライトの助手・遠藤新の3人です。この3人に様々な人物が絡み合って、物語が展開します。

特に3章の、ライト館の壁や柱に多用されている黄色い煉瓦の大量生産に成功するまでの展開は、息を継ぐ暇もありませんでした。4章では、石材の選定が進まない中、ライトは郵便局の門柱に使われている大谷石に目を留めます。大蔵省臨時建築局の役人は「軽くて加工しやすい、でも安物ですよ」と言い、大倉組も「強度に問題がある」と難色を示しますがライトは意に介さず、大谷石を山ごと買い取ります。4章後半では、軟弱地盤で工事が難航。ライトと対立した石工が、ライトにノミを向けて構えるというトラブルも発生します。5章になり、愛作が覚悟を決め、ライトと二人で全員を前に演説して、ようやく現場がまとまります。

しかし、6章では大正8年(1919)12月27日に新館が全焼。再建費用が工事費に加算されます。7章では工事の遅れにより総工事費が膨らみ続ける中、大正11年(1922)4月16日に、本館が全焼。ライト館完成までホテルは休業と決定され、重役は全員辞職します。不運続きですね。

8章では、火事から10日後の4月26日、浦賀水道地震で被災。幸い、主要部分の奥がわずかに沈下しただけであったため、大正11年(1923)7月、部分完成の状態ながら帝国ホテルは営業再開。一方、ライトは同月22日に東京を離れます。大正12年(1923)9月1日、全館開業の大祝賀会が開かれた日に関東大震災で被災し、大混乱となります。地下の水泳プールは壁に大きな亀裂が生じ、柱が4本折れたものの、ライト館の主要部分は無事。翌2日にはアメリカ大使館、3日にはイギリス大使館が移り、新聞社も続々と入ります。その結果、帝国ホテルの美しさと、安全性、快適性は世界中に発信されました。

◆エピローグ

新たに登場する人物は、犬丸徹三・帝国ホテル社長です。昭和42年(1967)11月29日、犬丸は谷口に、帝国ホテルは外壁から内壁、柱、天井、床に至るまで、ひとつの塊なのだと話します。谷口は、帝国ホテルの移設では煉瓦やテラコッタは焼き直し、大谷石も新品の調達が必要だと理解。しかし、それは「復元」であり、明治村の目指す「移築保存」にはならないと悩みます。

翌11月30日、谷口は名鉄の土川社長に、ライトの感性と職人たちの技、建物そのものでなくとも様式を残せばよい、と提案。土川も同意し、帝国ホテル中央玄関の移築が始まりました。

昭和43年(1968)1月12日から搬送が始まり、運ばれた部材は大型トラック40台分、400トン。しかし、国からの助成金は当初の話の10分の1、一千万円でした。帝国ホテル中央玄関外観が完成し、公開に至ったのは昭和51年(1976)。更に内装工事を行い、内部まで公開したのは昭和60年(1985)10月。受け入れが決まってから18年もの歳月が経っていました。

ライト館建設の当初の予算額は130万円ですが、総工費は最終的に900万円を超えました。一方、明治村への移設は3億円余の見込みでしたが、17年間の総工費は約11億円に達しました。

◆最後に

 他の解説書でも帝国ホテルの建設に関する情報は得られますが、本書は「物語」なので頭の中で人物が動き出し、楽しみながら知識を吸収することが出来ました。下記のURLも必見です。

・PHPオンライン 衆知   2023年02月22日 公開   https://shuchi.php.co.jp/article/10132

Ron.

◆帝国ホテル中央玄関に関するWeb記事(補足1)

・明治村の帝国ホテル中央玄関

下記のURLに、写真と説明が掲載されています。

 帝国ホテル中央玄関 | 博物館明治村 (meijimura.com) 又は

https://www.meijimura.com/sight/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E7%8E%84%E9%96%A2/」

・スダレ煉瓦とテラコッタ

3章に書かれたスダレ煉瓦とテラコッタですが、INAX ライブミュージアム  「建築陶器のはじまり館」について、というWeb記事があります(URLは下記のとおり)。

https://livingculture.lixil.com/ilm/facility/terracotta/terracotta_about/

◆帝国ホテル以外に、日本でライトが設計した建物のWeb記事(補足2)

・林愛作自邸

4章初めに、ライトが愛作に自宅の新築を勧める場面が、7章の初めには「ライトが日本の大工たちにてきぱきと指示を出して、あれよという間にできた」という文章があります。Web記事によると、旧・林愛作自邸の建物と敷地は、現在、住友不動産が所有。「立ち入り禁止」とのことです(URLは右記のとおり)。 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52147673.html

・自由学園明日館

6章に、建設に至るまでのエピソードが、8章の最後に「遠藤新が講堂を世に送り出した」という文章があります。自由学園明日館のホームページには、大正11年(1922) に中央棟、西教室棟が竣工、大正14年(1925) には東教室棟が完成、昭和2年(1927) に講堂が完成し、その年に初等部も設立されました、と書かれています(URLは下記のとおり)。

自由学園明日館の歴史  https://jiyu.jp/history/

 このほか、【美の巨人たち】フランク・ロイド・ライト「自由学園明日館」、というWeb記事もあります(URLは右記のとおり)。 https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin_old/backnumber/131123/index.html

・ヨドコウ迎賓館(旧山邑太郎左衛門邸)

 7章の初めに「芦屋の山邑太郎左衛門という灘の造り酒屋のために、別邸の設計をしたが、まだ着工に至っていない」という文章があります。ヨドコウ迎賓館のホームページには、大正7年(1918)基本設計終了、大正12年(1923)着工、大正13年(1924)上棟、竣工と書いてあります(URLは右記のとおり)。 https://www.yodoko-geihinkan.jp/about/history/

 このほか、フランク・ロイド・ライト『ヨドコウ迎賓館』×内田有紀、というWeb記事もあります(URLは右記のとおり)。 https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/?trgt=20210918

展覧会見てある記 瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.09.08 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」(以下「本展」)と瀬戸蔵ミュージアムで開催中の「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」を見てきましたので、展覧会の概要や感想などを投稿します。

◆瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」

本展のチラシに「磁祖加藤民吉没後200年プレ事業」と書いてあるので、来年度に大規模な展覧会が開催されると思われます(加藤民吉没後200年に当たるのは2024年)。

瀬戸市美の1階ホールのTVモニターでは、加藤民吉の修業を紹介する動画を上映。画面には民吉が修業した肥前の国佐々皿山(さざさらやま、現在の長崎県佐々町)の風景や窯場跡などが映っていました。

・展示室1

本展の題名「瀬戸染付開発の嫡流」の「染付」とは白地に青一色で絵を描いた磁器のことです。1階の展示室1・展示室2で展示していました。展示室1では、主に江戸時代の作品(ただし、2点は明治時代)を展示。入口近くの加藤民吉《染付祥瑞捻文向付》(江戸時代後期)は、青色が鮮やかな作品でした。加藤民吉(二代)《染付桐鳳凰唐草文香炉》〈岡崎市指定文化財)天保6年(1835)は素地が白く、青が引き立つ作品です。製造技術が向上したということでしょうね。加藤忠治《染付山水図植木鉢》〈重要有形民俗文化財〉(江戸時代後期)も素地が白くて、青色が冴える作品でした。加藤源吉《染付松竹梅図神酒徳利》〈重要有形民俗文化財〉万延元年(1860)は、松竹梅の図柄がきれいです。(展示室1は、撮影禁止です)

・展示室2

明治時代の作品が並んでいます。川本桝吉(初代)《染付草花図花瓶(一対)》(明治時代前期)は、草花の図柄が細部まで描かれ、とてもきれいでした。明治時代の作品には伊万里焼のような金彩を施した、川本桝吉(初代)《上絵金彩上野図花瓶》(明治時代前期)もありました。

(参考)愛知の地場産業 瀬戸染付焼について

瀬戸染付焼については、うまく説明できませんので、下記のURLをご覧ください。動画もあります。

https://www.pref.aichi.jp/sangyoshinko/jibasangyo/industry/seto-sometsukeyaki.html

◆瀬戸蔵ミュージアムの展示

・磁祖「民吉物語」(2階)

2階で「民吉物語」というマンガを展示していました。諸説ある資料を基にして、わかりやすく民吉の一生をまとめていたので、そのあらすじをご紹介します。

なお、要約により、以下の章立ては「民吉物語」とは違っていますので、ご注意ください。

① 江戸時代後期の瀬戸

 昔から陶器のまちとして栄えてきた瀬戸だったが、九州の有田で磁器の生産がはじまると、愛媛県(砥部焼)、京都(清水焼)、石川県(九谷焼)にも磁器が広がり、瀬戸焼の需要は以前ほどではなくなっていた。

② 民吉生誕、生まれる

 そんな中、瀬戸の窯元・大松窯の吉左衛門の家に、安永元年(1772)、民吉が次男として誕生。

③ 吉左衛門・民吉の父子は、熱田へ

瀬戸では長男だけが窯を継ぐ決まりだったため長男が窯を継ぐと、享和元年(1801)、吉左衛門は民吉の家族とともに、瀬戸を出て名古屋の熱田に行き、新田開発に取り組んだ。

④ 南京焼(磁器)との出会い

 新田開発の様子を見回っていた尾張藩熱田奉行の津金文左衛門は、なれない手つきで農作業をする民吉家族に気づいた。民吉一家が瀬戸出身で陶器づくりをしていたと知った文左衛門は、南京焼(磁器のこと)について書かれた中国の本を持っていたことから、民吉たちにつくり方を研究させることにした。

⑤ 南京焼は完成したが

 民吉は、南京焼を研究していた文左衛門のもとで、父の吉左衛門と試作を重ね、ついに南京焼が完成。しかし、民吉たちの南京焼は有田焼に及ぶ品質ではなかった。

⑥ 瀬戸の未来を託されて

 磁器の技法を学ぶため民吉は、瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門や文左衛門の息子・庄七らの支援を受けて、本場・九州へ行くことになった。菱野村(今の瀬戸市新田町)出身で、子どものころ瀬戸の窯元で働いていたこともある天中和尚が、肥後の国・天草(今の熊本県天草市)の東向寺にいることがわかり、民吉は文化元年(1804)2月22日、九州へ出発した。

⑦ 九州に到着した民吉は、天草で修業

 天草の天中和尚を訪ねた民吉は、3月27日、和尚の紹介により、天草の磁器・高浜焼の窯元上田源作のもとで働くことになった。民吉は、瀬戸村の出身だと正直に身分を明かし、修業させてもらった。

⑧ 民吉は、肥前・佐々皿山の福本仁左衛門の窯で修業

 働くうち、「肥前の有田焼を学びたい」と強く思うようになった民吉は、修業先をあちこち探し、有田焼の地に近い、肥前の国・佐々皿山(今の長崎県佐々町)の福本仁左衛門の窯に行き着き、文化元年(1804)12月28日から修業が始まった。

⑨ 民吉は福本仁左衛門の信頼を得て、磁器製法をマスター

 民吉の情熱やまじめな人柄と働きぶり、その腕前に、当主の仁左衛門は大いに感心し、佐々皿山の窯を継がせたいと考えた。ある日、仁左衛門は民吉に窯を任せて、2カ月間伊勢参りの旅に出かけた。留守を任された民吉は、磁器製法を職人たちからより詳しく教わり、2カ月ですべての技術をマスターした。

民吉はそれから約1年間懸命に働き、文化4年(1807)1月7日、仁左衛門の娘婿になることもなく、惜しまれながら福本家を去った。

⑩ 有田で上絵付を学ぼうとしたが、失敗

 民吉の心残りは錦手(上絵付のこと。磁器に模様を描いてもう一度800度位で焼き付ける方法)の技法を学んでいないことだった。民吉は「天草出身」と身分を偽り、有田で上絵付の技法を教えてもらおうとしたが、失敗。上絵付は学べなかったが、代わりに透かし彫りと丸窯のつくり方を身につけた。

⑪ 民吉は、天草で上絵付を身につける

 瀬戸へ帰る決心をした民吉は、最初に世話になった天草の上田源作のもとへあいさつに行った。上絵付の技法を知りたくて、天草の名を利用したことを正直に話し、謝る民吉。その姿に心打たれた源作は、上絵付の技法を教えてくれた。民吉はついに目的をとげ、文化4年(1807)5月13日、瀬戸へ行きたいという天草のやきもの職人一人を連れて天草を出発した。

⑫ 瀬戸に帰還し、磁器製法を広める

 文化4年(1807)6月18日、民吉は3年4カ月の修行の旅を終えて瀬戸に戻った。

 その後、民吉は猿投山から長石を掘り出し、瀬戸で豊富にとれる蛙目粘土(がいろめねんど)と調合することで、磁器にふさわしい土をつくりだすことに成功。磁器を焼くのに必要な丸窯を、瀬戸の各所につくり、仲間たちを指導して磁器製法を広めた。

⑬ よみがえる「陶磁器のまち」瀬戸

 民吉を始め、たくさんの人びとの努力が実り、瀬戸はかつての栄光を取り戻した。尾張藩は、この瀬戸焼を藩の統制品とするために「御蔵会所(おくらかいしょ、今の瀬戸蔵がある場所にあった)」をつくり、御用焼物として専売にした。藩が流通させたことで、江戸・大坂・京都を中心に各地で売れた陶磁器は、九州の有田焼をこえて「三国一」とたたえられた。

九州からもどって17年、民吉は文政7年(1824)に逝去した。享年53歳であった。      (完)

・有田の名工・副島勇七の悲劇

 「民吉物語」の【技術スパイは重罪だった!?】には〈民吉が九州に行く少し前、副島勇七という磁器職人が有田を脱出して瀬戸へ逃げてきた。しかし、藩から派遣された役人に捕まって連れ戻され、殺されて首をさらされるという悲惨な死に方をした。〉という記述があります。これは有田焼の技法流出防止のために起きた悲劇ですが、副島勇七が捕まった場所については、次のとおり、説が分かれています。

①「尾張(愛知県)の瀬戸で捕まった」という説は、次の資料に書かれており、

・有田町歴史民俗資料館報 No.22 (2014年)

https://www.town.arita.lg.jp/site_files/file/2014/site/rekishi/download/sarayama/sarayama-0022.pdf

②「伊予(愛媛県)の砥部で捕まった」という説は、次の資料に書かれています。

・広報いまり No.425  1989年7月    https://www.city.imari.saga.jp/secure/9269/No.425(H1-7).pdf

 ・砥部焼の発展      https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/45/view/5775

 いずれが正しいのか、それとも上記以外の場所で捕まったのか、私には分かりませんでした。

・「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」(2階)

解説によれば、「白雲陶器は戦前、瀬戸にあった商工省陶磁器試験所が開発。低い温度で焼成できて、軽く白い素材。戦後、ノベルティに広く使われた」とのことでした。

戦前に製作の人形の形をした容器を始め、2020年に岡崎市美術博物館で開催された「マイセン動物園展」で見たような、《果物かごを持つ婦人》(1965年頃)や《シャムネコ》(1970年代)、人形の顔のような花瓶《ヘッドヴェイス》(1963年)など、様々なノベルティが展示されており、楽しく鑑賞できました。

3階の「瀬戸焼の歩み」でも、瀬戸ノベルティを見ることができます。

なお、「白雲陶器」につきましては、下記のURLをご覧ください。

・中部センター バーチャルミュージアム    https://unit.aist.go.jp/chubu/vm/sub2/sub2_02.html

◆最後に

 家に帰って使っている食器を見たら、飯茶碗、小皿、小鉢、そば猪口など、その多くが「染付」でした。

 また、瀬戸市美では、10/7~11/26の会期で「瀬戸ノベルティの至高 -Made in MARUYAMA-」という展覧会を開催するようですね。

Ron.