名古屋市美術館協力会  H30春の美術館見学ツアー 京都

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

泉屋博古館にて

泉屋博古館にて


 平成30年度春の美術館見学ツアー(日帰り)の目的地は京都。見学する展覧会は京都文化博物館「オットー・ネーベル展」、京都国立近代美術館「横山大観展」と泉屋博古館(せんおくはくこかん)「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ」です。
開催日の6月24日(日)、明け方は小雨が残ったものの集合時間の午前7時40分に雨はなし。天気予報は幸先よく「晴」。集合場所の名古屋駅噴水前は、バスツアーの客でごった返していました。ツアー参加者は47名、ほぼ予定通りの時刻に全員集合。バスも予定通り午前8時に京都市を目指して出発しました。
◆往路のバス:交通渋滞もなく、予定の30分前に京都文化博物館へ到着
 大阪府北部地震の影響か車の流れはスムースで休憩の土山SAは予定の10分前、午前9時20分に出発できました。運転手さんには更に「予定時刻の30分前に目的地へ到着せよ」という指令が出て、バスは新名神高速道路から草津JCTを経て名神高速道路を快走。
京都東ICから一般道に入り、京都市山科区御陵(みささぎ)の御廟野古墳(ごびょうのこふん:「山科陵(やましなのみささぎ)」=天智天皇の陵とされている)を右に見た後、東山の山間(やまあい)を抜けて京都市東山区粟田口華頂町の京都市蹴上(けあげ)浄水場(ツツジが有名)を左に見て三条通から御池通に入り、バスは停車。バスガイドさんから「京都文化博物館は平安建都1200年記念事業として京都府が建設、1988年(昭和63年)に開館した博物館」という説明がありました。前方には「京都文化博物館(The Museum of Kyoto)」の案内板。バスは入れないので、ここから先は「歩き」です。高倉通を南に下り京都文化博物館に到着したのは指令通り予定の30分前、午前10時30分でした。
オットーネーベル展(京都文化博物館)

オットーネーベル展(京都文化博物館)


◆京都文化博物館:「色彩の画家 ― オットー・ネーベル展」など
◎展覧会の解説
先ず、日本銀行京都支店だった別館(国の重要文化財)2階に移動。暗い階段を昇り、日本銀行時代に営業部だった1階が窓越しに見える部屋で、うえだ学芸員の解説を聴きました。
 解説によれば、オットー・ネーベルという作家はヨーロッパでも2012年にベルン美術館で回顧展が開かれるまでは知られておらず、地元スイス・ベルンでも俳優として知られていたとのことです。オットー・ネーベルは1892年生まれの1973年死去で、ピカソ(1881-1973)より10歳ほど年下。ドイツ・ベルリン生まれですが、抽象画家に対するナチス・ドイツの弾圧を逃れるため1933年に家族でスイスへ亡命し、スイス・ベルンで死去。
 ドイツ・ワイマールのバウ・ハウスでパウル・クレー、ワシリー・カンディンスキーと知り合い親しく交わったほか、直接的な交流はないが「シュトゥルム」という雑誌を経営するヘルヴェルト・ヴァルデンを通じてマルク・シャガールの影響を受けたとのことです。
 また、展覧会のメイン・ビジュアル《ナポリ》と《ポンペイ》(いずれも「イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)1931」を題材に「どちらの作品も、スケッチ・ブックのサイズで、風景から受けたイメージを再構成したもの。《ポンペイ》の下の部分は火山灰を表現。その上の赤と黒は壁画。印刷物では分かりにくいが、実物を見ると絵の具を細かく塗り重ねているのが分かる。」という作品解説がありました。
◎京都文化博物館開館30周年記念 オットー・ネーベル展
 オットー・ネーベル展は、本館の3階と4階。4階が入口で、3階に下りるという順路。英語のタイトル“OTTO NEBEL AND HIS CONTEMPORARIES – CHAGALL, KANDINSKY, KLEE” が示すように、シャガール、カンディンスキー、クレーの作品も展示されているほか、バウ・ハウスや雑誌「シュトルム」に関連する作品、資料、工業製品の展示もありました。
 「シャガールの影響を受けた」という解説のとおり、オットー・ネーベルの初期の作品は「シャガール風」の絵でした。また、「クレーは線描の人、ネーベルは絵の具を塗り重ねる人」という解説もあり、二人の作品を比べると「そうかな」と、納得しました。ネーベルは奥さんが音楽家だったためか、カンディンスキーの抽象画との相性がいいように思いました。リノカット(リノリウム版画)による作品も面白いと思いました。
◎桂離宮のモダニズム ― 高知県立美術館所蔵石元泰博写真作品から
 協力会員の松本さんからの情報で、2階総合展示室で開催中の写真展も急ぎ足で見てきました。作品リストの解説によると石元泰博は「シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)で写真を学ぶ。桂離宮のモダニズムを写真により見出した作品で高い評価を受け」とあります。三脚とカメラ(リンホフ テヒニカ 4×5)とシャッター付きレンズ(字が小さく、レンズ名・焦点距離・F値は不明)の展示もありました。三脚付き蛇腹カメラで水平垂直を出し、絞り込んで細部までピントの合ったモンドリアンの作品のような桂離宮の姿を切り取った写真が鑑賞できたので、2階まで足を伸ばした甲斐があったというものです。
昼食は賑やかに、六盛にて

昼食は賑やかに、六盛にて


◆昼食:岡崎 六盛(ろくせい) 手をけ弁当
 昼食は、琵琶湖疏水(びわこそすい)に面した料亭「六盛」。六盛のHPには「六盛の名は学区制が敷かれた明治25年以後、錦林(きんりん)学区の六地域(岡崎・吉田・聖護院・東山・浄土寺・川東)の繁栄を願って、学校運営の審議を担当する学区議員の組織「六盛會」に由来します。六盛の先代はこの頃から事務所に出入りし、明治32年に創業」とあり、錦林小学校のHPには「明治2年8月21日 上京第32番組小学校として校舎新築開校。明治5年5月上京第32区小学校と改称。明治8年1月 上京第32区錦織小学校と改称。明治20年7月錦織尋常小学校と改称。明治26年3月 錦林尋常高等小学校と改称(錦織校、吉田校、浄土寺校、鹿ケ谷校の4校が合併)」とありました。なお、「番組」は住民自治組織で、明治時代初期の京都の小学校は「番組」が設立・運営していたのです。
 無駄話はさておき、行きのバスがあまりにも順調に運行したことから「横山大観展」の事前解説がほんの僅かになってしまったので、昼食時にも保崎係長から解説がありました。保崎係長は「鑑賞のポイントとなる年」として、①1898年(明治31年)=岡倉天心が東京美術学校を追放され、日本美術院を設立して絵画の革新を始めた年、②1907年(明治40年)=第一回文展が開催された年。茨城県・五浦海岸(いづらかいがん)に移転した日本美術院で研鑽を積んでいた横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山の4人が、再び表舞台で脚光を浴びるきっかけになった。③1914年((大正3年)=前年9月に岡倉天心が没したため、その遺志を引き継ぐため日本美術院を再興した年を挙げ「見たい作品」として《夜桜》《紅葉(もみじ)》《南溟(なんめい)の夜》などを挙げていました。
(その2へつづく)

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