豊田市美術館 「ホー・ツーニェン展」 ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館で開催中の「ホー・ツーニェン展 百鬼夜行」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は11名。講堂で能勢陽子学芸員(以下「能勢さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆能勢さんの解説(10:05~45)の要旨(注は、筆者の補足です)

・展示室1 百鬼夜行

本展は、展示室1の「百鬼夜行」から始まります。画面は「百鬼夜行」が始まった場面です。手前のスクリーンに映っているのは、源頼光の寝姿。大クリーンに映っているのは土蜘蛛。土蜘蛛は日本の先住民で、大和民族には属さず、洞窟に住んでいました。本来の妖怪ではありませんが、大和政権に服従しなかったことから「妖怪」として認識されるようになりました。

次の場面ですが、手前のスクリーンに映っているのは僧侶と寒山・拾得と虎の寝姿。「心が平静であれば、虎と寝ていても大丈夫」という教えを表す禅画を元にしたキャラクターです。なお、寒山・拾得は、展示室5に横山大観の作品(注:《焚火》制作1914。左の巻物を持つのが寒山、右の箒を持つのが拾得です)を出品していますので、そちらもご覧ください。また、大スクリーンに映っているのは「狐の嫁入り」です。絵巻は右から左へと、画面が移っていきます。しかし、今回の「百鬼夜行」では、背景は右から左に移っていくものの、妖怪は左から右に移動していきます。

次は「man in the mirror」。マイケル・ジャクソンの歌に出て来ることばを元にした妖怪です。「百鬼夜行」は、各時代の「風」を表現したものです。当時の世界を覆っていた風・空気は、現在の世界では無くなっているので、我々には分かりません。また、今の世界を覆っている風・空気も、当たり前のものなので、我々には分かりません。(注:つまり、特に意識することの無いものです)

ただ、今の時点から戦中の時代を見ると、当時の「風」を客観的に捉えることができます。ホー・ツーニェンの作品は、過去を断罪するのではなく、当時の複雑な空気を現代に召喚するものです。過去の空気は(現在の世界には無くなっているので)分かりませんが、作品では今と一つながりになっています。

なお、「man in the mirror」と一緒に出てくる、人がたくさん集まっている妖怪「ミスター・ワールド」は、グローバリズムを擬人化したものです。

・展示室2 36の妖怪

「36の妖怪」では、百鬼夜行に登場した妖怪のうち「人の暗部」にかかわる妖怪を紹介しています。画面の「天狗」は兵士の無事を祈る人々の信仰を集めた妖怪です。天狗は「あらゆる武術に優れている」とされ、「戦場で兵士とともに戦うだけでなく、兵士の弾よけにもなってくれる」と信じられていました。

妖怪は、近代の合理主義によって追いやられていきましたが、江戸時代には人々の身近な存在でした。また、江戸時代の半ば以降は娯楽の対象でもありました。それが、明治時代の近代化政策の下、妖怪は「迷信」「非合理的」として、社会から排除されていきます。

しかし、妖怪は想像力の中では生き続けました。戦時中、天狗が人気を集めたのは、人々が非合理の力を信じていたからです。妖怪は「我々の中にある『魔』」を気付かせる媒体となるのです。

「36の妖怪」は、「土蜘蛛」から始まって「提灯お化け」で終わります。全てが終わったところでホー・ツーニェンの「いたずら」が仕掛けられていますので、「提灯お化け」までは見てください。

「妖怪百物語」は、最初に百本の蠟燭を燈し、妖怪の話をする度に蝋燭を一本消すという趣向の集まりで、最後の蝋燭が消えると本当の妖怪が出て来ると言われています。

・展示室3 1人もしくは2人のスパイ

展示室3は「スパイの部屋」です。ホー・ツーニェンが関心を持っている「スパイ」は、自分の素性を隠して潜入し、各地の社会に融合できる存在です。日本では、陸軍中野学校がスパイを養成しました。ただ、日本の軍隊は、スパイを「武士道に反する卑怯な存在」と考えていたため、スパイ技術は遅れていました。スパイは、通常「目的のためには手段を択ばず」という存在ですが、日本は「謀略は誠なり」という精神でスパイを養成したという点で、他の国とは違っています。日本のスパイは「欧米からアジアの人々を解放する」という目的のために行動していたので、両義性のある複雑な存在です。

陸軍参謀の辻政信は第二次世界大戦後、戦犯の追及から逃れるために僧侶の姿になりました。人々から尊敬の目で見られる僧侶の姿をしていれば、疑われるおそれが低いのです。作品では、僧侶姿の辻政信は、竹内道雄の児童文学「ビルマの竪琴」に出て来る「水島上等兵」にスライドして行きます。ビルマでは戦争により日本兵士が大勢死亡したので、彼らの冥福を祈るため、水島上等兵はビルマに残ります。戦争と日常生活、善と悪が複雑に絡み合って存在している、ホー・ツーニェンは作品で、そのように表現しています。

作品には、太平洋戦争終結後も30年近くの間、フィリピンのルバング島でゲリラ戦を続けた小野田寛郎も登場します。彼は山下奉文(ともゆき)陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、上官からの口頭による「参謀部別班命令」によって任務解除・帰国命令を受け、1974年、29年ぶりに日本へ帰国しました。

山下奉文陸軍大将の隣にいる佐々木けんいち(注:漢字不明)は、終戦時に捕虜収容所には行かず、英国との戦闘に参加。中国人の妻の姓を名乗り、アジアの人間を植民地から解放する活動を続けました。

・展示室4 1人もしくは2人の虎

この作品に登場するのは、「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将・山下奉文と「快傑ハリマオ」のモデル・谷豊の二人です。

作品の最初に虎の絵が多数登場します。虎は日本に生息していませんが、アジアの広い地域に生息しており、アジアの中の文化の伝播によって日本でも虎の絵が描かれました。作品では虎の首や手足が動きますが、これは、マレーシアの影絵芝居の要領で、関節が自由に動くようにしたものです。

千人針も出てきます。虎は「千里を行って千里を帰る」とされていたことから、武運と無事を祈って出征兵士の贈られたものです。特に、寅年生まれの女性が縫うと力が強くなると言われていました。

「マレーの虎」は、二人とも悲劇的な最後を遂げました。山下奉文はフィリピンで裁判を受け、絞首刑になりました。谷豊はシンガポールでマラリアに罹患し、死亡しました。

作品の最後には、現代のアニメに登場する虎、つまり、タイガーマスクのようなものと「うる星やつら」のラムちゃんのようなものが出てきて、「トラがもどってきた」というナレーションが入ります。

展示室の最後には、本展関連の資料とギャラリーガイドが置いてあります。ギャラリーガイドは、ご自由にお持ち帰り下さい。

・展示室8 コレクション展:絶対現在

最初は残った時間でコレクション展の解説をするつもりでしたが、本展の解説が長くなったため、コレクション展は「時間のとばの中で歴史をとらえる」をテーマにしている、ということだけお伝えします。(注:「とば」を「とば口」=はいり口、物事が始まったばかりのところ、と解すると、これは「『現在』という地点に立って『過去・未来』を見通して捉える」ということを意味するのでしょうか?)

◆自由観覧

本展は映像作品ばかりなので、どの部屋も真っ暗。それでも、目が闇に慣れてくると分かりの様子がおぼろげながら分かるようになります。けっこう大勢の人が見ている気配がありました。

展示室1と2は、「妖怪アニメ」のようなものですから気楽に見ることができます。ただ、「戦争」や「グローバリズム」という概念、「現在の時点から戦中の時代を見る」という観点を持つと、見方が変わります。また、能勢さんが解説で話されたとおり、展示室2「36の妖怪」が終わったところでホー・ツーニェンの「いたずら」が仕掛けられていました。なお、「いたずら」の内容は、会場でご覧ください。

展示室3の作品は、映画の上にアニメを重ねるという手法で作られています。「アニメを重ねることによって、ホー・ツーニェンの考えが強調されている」と感じました。展示室4に出て来るキャラクターについて、能勢さんの話では「ラムちゃんは鬼型の宇宙人。虎ではない」というクレームが寄せられたそうです。能勢さんは「あれは、あくまでもラムちゃんのようなもの」と強調していましたが、虎縞模様のビキニとロングブーツを着用しているので、私は「虎の仲間と言っても、間違いではない」と思いました。

コレクション展は、展示室8の入口に「ギャラリーガイド」が置いてあったので、理解を深めることができました。入口近くに展示されていた下道基行《torii》は、公園のベンチだと思ったものが、よく見ると倒れた鳥居だったことに驚きました。一区画全部を使った、河原温《MAY1.1971》から《MAY31.1971》まで全31点の展示もあります。本展だけでなく、コレクション展も見逃せません。

     Ron.

ゲルハルト・リヒター アブストラクト

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ゲルハルト・リヒターの「アブストラクト」を見てきました。

といっても、美術館の展覧会ではなく、心斎橋のルイ・ヴィトン大阪の企画です。

展覧会のお知らせ

 作品点数は少なめですが、制作年代も幅広く、油彩の他、写真に彩色したもの、ガラス板の裏側から絵の具を塗ったものなど、多彩な技法の作品を見ることができます。

展示風景

会場では、おしゃれな若いお客様も熱心に作品を見ていました。

場所柄なのか、どなたもファッショナブルで、ジーンズにスニーカーを履いていたのは一人だけだったように思います。

展示風景

小振りで地味な印象の作品も、近くで見るとびっしりと線描で埋まっています。

作品脇のキャプションのQRコードをスキャンすると、簡単な解説を読むことができます。

展示風景

 展覧会の会期は2022年4月17日までです。

会期には比較的余裕があるので、機会があれば、いかがでしょうか。

なお、会場内が混雑する場合は入場待ちの場合があるそうです。

杉山 博之

展覧会見てある記 愛知県美術館「曽我蕭白展」

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三重県立美術館や名古屋ボストン美術館で強いインパクトを受けた曽我蕭白。その作品が一堂に会するというので、前々から期待していた展覧会です。ただ、混雑が予想されたので敬遠してきましたが、ようやく新型コロナウイルスの新規感染者数が下がり、「今なら大丈夫」とばかり、重い腰を上げました。愛知県美術館で開催中の「曽我蕭白 奇想ここに極まれり」は、作品保護のため展示室は洞窟のなかのように暗く、作品の周辺だけが淡く照らされている様子は幻想的でした。

◆プロローグ 奇想の絵師、蕭白

 無邪気に遊んでいる子どもたちを描いた、カラフルな《群童遊戯図屏風》。子どもたちの動きは可愛らしく、母親と思しき女性も普通ですが、子どもたちの表情は何か変。《雪山童子図》(1764頃)の子どもも、無邪気というより「少し、グロテスク」です。でも「これが、奇想の絵師・蕭白の持ち味で魅力なのだ」と思い、納得することにしました。

◆第一章 水墨の技巧と遊戯

《富士三保松原図屏風》(1758-61頃)は雄大。妖怪を描いた《柳下鬼女図屏風》は、とても気味が悪く、蕭白ならではの作品だと感心しました。中国風の《月夜山水図》はしっかりと描かれています。蕭白でも「グロテスクな人物」が居なければ、違和感はありません。

◆第二章 ほとばしる個性、多様化する表現

重要文化財の「旧永島家襖絵」が7点展示されていたのは壮観でした。また、同じく重要文化財の松坂市・朝田寺《唐獅子図》(1764頃)も、迫力のある作品でした。

◆第三章 絵師としての成功、技術への確信

《松竹梅図襖》は、力強い描写。美人と仙人を描いた《群仙図屏風》はグロテスクさを抑えた作品。これなら、違和感はありません。

◆第四章 晩年、再び京へ

重要文化財《楼閣山水図屛風》や《富嶽清見寺図》などの山水画は、どれも蕭白の本領を発揮した見応えのある作品でした。《雲竜図》は、龍の表情がユーモラス。大胆な筆さばきの作品でした。

◆最後に:「平安人物志」と同時代の絵師

第四章に安永4年(1775)発行の「平安人物志」が展示されています。曽我蕭白は15位ということでした。ちなみに、この時の1位は円山応挙、2位は若冲、3位は池大雅、4位は与謝蕪村。蕭白と同じページの12位「松 月渓 松村文蔵」は、四条派の始祖「呉春」のことです。

蕭白以外の五人は、いずれも澤田瞳子の小説「若冲」に登場しています。たとえフィクションであっても、蕭白と若冲との接点は書きにくかったのでしょうね。

一方で、「奇想の系譜」(辻惟雄著)は「当時の売れっ子である池大雅とは、ふしぎにもうまが合ったらしい」と書き、《富士・三保松原図屏風》(1762頃:「プロローグ」に11/17~11/21展示予定。当日は写真パネルでした)について「大雅の影響がさらに高度な芸術的結実をもたらしている例」と書いています。蕭白と大雅に交流があったことを知り、名古屋市博物館の「大雅と蕪村」(2021.12.4~2022.1.30)が楽しみになりました。

Ron.

展覧会見てある記 瀬戸市美術館「池袋モンパルナス展」

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瀬戸市美術館で開催中の「池袋モンパルナス ―画家たちの交差点―」(以下「本展」)ですが、会期末(11月14日)が迫ったので慌てて見てきました。名鉄瀬戸線の終点・尾張瀬戸駅の改札口を出ると、左に大きな交差点があります。道路の案内標識によれば、矢印の方向に0.8km進むと美術館に到着とのこと。「10分ほどの行程か」と思い、交差点を渡って歩き始めたのですが、坂道の勾配がきついので、足を大きく持ち上げないと前進できません。息を切らせながら15分近くかけて、ようやく到着できました。

美術館は南公園の中。建物は緑に囲まれています。玄関を入ると、壁に大きく引き伸ばされた「長崎アトリエ村模型」(注:長崎は東京都豊島区の地名)の写真が貼られ、撮影スポットになっていました。

アトリエ村再現

◆ 池袋モンパルナスとは?

 本展のチラシは「池袋モンパルナス」について、次のように書いています。

〈1920年代以降、池袋界隈には芸術家向けの安価なアトリエ付き住宅が建ち並び、そこには日本各地から上京した芸術家たちが集い、いくつかの「アトリエ村」と呼ばれる一画が形成されていきました。この地域では、芸術家同士の交流も盛んで、新たなアートシーンを生み出しました。その様子は、パリの芸術家の街になぞらえて「池袋モンパルナス」と呼ばれています〉(引用終り)

 ロビーに置いてあった1941年頃の「池袋モンパルナス」のマップを見ると、アトリエ村の住居は「外光を取り入れる北向きの天窓と作品を出し入れする大きな窓や細長い扉が特徴」で「池袋モンパルナス」の区域には、熊谷守一、北川民次、麻生三郎、山下菊二、靉光らが住んだとのことです。本展には「仙人」と呼ばれた画家・熊谷守一や、たびたびアトリエ村に立ち寄った長谷川利行の作品も出品されています。

◆ 第1章 池袋モンパルナスと小熊秀雄(1階)

 小熊秀雄(おぐまひでお)は北海道出身の詩人・画家。12歳年下の隣人・寺田政明(俳優・寺田農の父)から絵の手ほどきを受け「池袋モンパルナス」の名付け親になります。展示室の入口には、作品リスト、作家解説と並んで「池袋モンパルナス」の由来となった小熊秀雄の詩(『サンデー毎日』第17年 第37号1938年に掲載)を印刷した紙が置いてあります。詩の内容は、次のとおりです。( / は、行替え)

 池袋モンパルナスに夜が来た/学生、無頼漢、芸術家が街に/出る/彼女のために、神経をつかへ/

 あまり太くもなく、細くもない/ありあはせの神経を―――。(引用終り)

第1章に展示されているのは、2点の油彩《夕陽の立教大学》(1935)と《すみれ》(1930年代)及び素描9点です。《夕陽の立教大学》は、空や建物だけでなく、道路まで真っ赤。強烈な印象を与える作品です。素描にも、立教大学を描いたものがありました。近所なので、何度も通ってスケッチしたのでしょう。

◆ 第2章 画家たちが描いた肖像画・風景画(1階)

 本展チラシにも使われている、赤色で陰影を描いた麻生三郎《自画像》(1934)は、こちらを見つめる目に引き込まれそうなります。長谷川利行《靉光像》(1928)は、2018年に碧南市藤井達吉現代美術館で開催された「長谷川利行展」(以下「利行展」)で出会った作品だと、直ぐ分かりました。吉井忠《長谷川利行》(1968)には「新明町車庫近く市電内で」という文字。長谷川利行と池袋モンパルナスの画家との交流を物語る作品だと感じました。

肖像画の次は、風景画の部屋です。アトリエ村の一つ「さくらが丘パルテノン」を描いた斎藤求《パルテノンへの道》(1971)や田中佐一郎《建物のある風景》(1935年頃)など、戦前のアトリエ村を描いた作品が多い中、春日部たすく《池袋駅池前豊島師範通り》(1928)は、東京府豊島師範学校(現東京学芸大学の前身校の一つ)の正面を描いた作品です。鶴田吾郎《池袋への道》(1946)は、焼け跡の風景。建物はわずかしか残っていません。絵を見て「池袋モンパルナスの画家たちが住むアトリエの多くも戦災で焼失したのだろう」と思いました。カラフルな榑松正利《アトリエ村》(1960)は、心象風景でしょうね。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(1階)

 最初に展示されているのは、長谷川利行の作品3点と里見勝蔵《職工》(1917)。長谷川利行の作品のうち《水泳場》(1932)は、利行展で見て画面右上のダイビングする人物にびっくりした記憶があります。残念ながら、《四人裸婦》(1935)と《支那之白服》(1939)は、記憶にありません。《職工》はフォーヴィスム風で、モディリアーニ風にも見える作品でした。

 上記以外の作品は、画家の団体ごとにまとめて展示していました。

・池袋美術家クラブの結成

池袋美術家クラブは、池袋モンパルナスに集った画家たちで結成された団体です。田中佐一郎《黄衣の少女》(1931)は、シャガール風の作品。竹中三郎《裸婦》(1934)は、ピカソを想起させます。難波田龍起(なんばだ・たつおき)の作品3点は、いずれもシュールレアリスム風、寺田政明《夜(眠れる丘)》(1938)は、マックス・エルンストみたいで、桑原実《雲湧く山》(1938)はドイツ表現主義のようでした。

1階の展示は、この作品まで。次の作品は、2階に展示されていました。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(つづき:2階)

・様々な団体の作家たち

灰色の背景の中で裸の父親が立ち、子どもを背中におんぶしている姿を描いていた福沢一郎《父と子》(1937)やバイオリン・ベース・ピアノの三重奏を描いた井上長三郎《トリオ》(1943)など、シュールレアリスムの作品が並んでいます。アンリ・ルソーを思わせる榑松正利《夢》(1940)も出品されていました。

・新人画会

新人画会は、松本俊介の自宅を事務所とした団体です。松本俊介《鉄橋近く》(1943)は、鉛筆、木炭、墨で描いた風景。同《りんご》(1944)は、リンゴを持つ子どもを描いた可愛い作品です。寺田政明《たけのこ》(1943)は、彫刻のような雰囲気を持つ作品でした。

・戦後の池袋モンパルナス

第3章の最後は、戦後も池袋モンパルナスに集って制作を続けた作家の作品です。大塚睦、入江比呂、山下菊二、高山良策、桂川寛の5人の作品が展示されていました。いずれも、社会問題に対する批判を込めたものです。

◆ 第4章 池袋モンパルナスと瀬戸市美術館ゆかりの画家(2階)

 最後の章では、瀬戸市美術館ゆかり画家・北川民次の作品を展示していました。なかでも、瀬戸市図書館陶壁の原画《知恵の勝利》、《無知と英知》、《勉学》(全て1970)の3点は、オロスコ、リベラ、シケイロスらのメキシコ壁画運動の流れを汲むものです。バッタの絵柄の磁器や陶器も出品。解説には「バッタは個体では弱くても、特定の目的を持って集団になると、その全体は凶暴なものとなる」と書いてありました。

◆ 最後に

出品点数は107点。瀬戸市美術館の4つの展示室を全て使用する展覧会です。数多の作家の作品を鑑賞することができました。「池袋モンパルナス」のことは全く知らなかったのですが、本展で様々な知識が得られました。なお、本展の観覧料は大人500円ですが、65歳以上の高齢者は無料です。

Ron.

◆ おまけ:愛知県美術館「2021年度第2期コレクション展」でも「池袋モンパルナス」に出会えました

愛知県美術館で開催中の「2021年度第2期コレクション展」を見たら、展示室5に松本俊介《ニコライ堂》(1941)、熊谷守一《麥畑》(1939)、長谷川利行《霊岸島の倉庫》(1937)の3点が、横一列に展示されていました。なかでも《ニコライ堂》は「池袋モンパルナス展」に展示の《鉄橋近く》に似たモノクロームの風景画で、《霊岸島の倉庫》は利行展で見た記憶のある作品でした。