展覧会見てある記 INAXライブミュージアム「常滑の岡本太郎1952」

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愛知県美術館で開催中の「展覧会 岡本太郎」に関連する展覧会が常滑市のINAXライブミュージアム(以下「ミュージアム」)で開催されていると聞いて、早速。出かけて来ました。展覧会名はズバリ「常滑の岡本太郎1952」(以下「本展」)。なお、ミュージアムは複合施設。いくつもの建物で構成され、本展の会場は総合受付のある「窯のある広場・資料館」の2階。一つの観覧券で、他の施設にも入場できます。

◆窯のある広場・資料の岡本太郎館(1階)

 窯のある広場・資料館は、土管を焼いた大正時代の窯と建物・煙突を保存した施設で、建物は木造。1階にある大きな窯では、土管を焼いたときの様子を「窯プロジェクション」で投影。廊下には大きな土管や土管を運ぶときに使った「伊奈式運搬車」などを展示していました。

◆窯のある広場・資料館(2階)「常滑の岡本太郎1952」

 本展で展示しているのは、岡本太郎が常滑市の伊奈製陶(現LIXIL)で制作した陶彫《顔》(1952)とマケット(試作品)の外、《太陽の神話》の原画(1952)、タイル画《太陽の神話》《創生》《ダンス》に関する雑誌記事と常滑で撮影された岡本太郎の制作風景。いずれも1952年のものです。このうち、陶彫《顔》は花器として3点制作され、本展と「展覧会 岡本太郎」に展示の外、岡本太郎の父・岡本太郎の墓碑になっているようです。

《太陽の神話》(原画)1952

 本展の解説によると、油彩作品をタイル画にする試みは岡本太郎の油絵《群像》(1949)をモザイク画する試みから始まり、岡本太郎は《太陽の神話》でタイル画の第一作を発表。《創生》(1952)は、地下鉄日本橋駅に面する高島屋地下通路の壁画として制作され、タイル画による初のパブリックアートになったとのこと。陶彫《顔》とタイル画《創生》の、常滑・伊奈製陶における制作風景は、本展チラシにも掲載。

陶彫《顔》1952 花器として制作

 10ミリ角の色タイルが出たことにより岡本太郎のタイル画に火が付き、パブリックアートが始まったことを、本展で知ることができました。愛知県美術館で開催中の「展覧会 岡本太郎」最初のコーナーのうち1952年に的を絞った内容ですが、当時の制作風景と雑誌記事からは、岡本太郎の意気込みが伝わってきます。なお、本展のフライヤー(チラシ)のURLは、下記のとおりです。

◆世界のタイル博物館

 本窯のある広場・資料館に隣接する「世界のタイル博物館」では、約4700年前から美しい青色を保ち続けるエジプトのタイルを始め、世界と日本の装飾タイル、古便器コレクションやミュージアムショップもあります。名古屋市本庁舎に使われたタイㇽには瀬戸・山茶窯のものが納入されたことを知りました。

◆建築陶器のはじまり館・テラコッタパーク

 窯のある広場を挟んで世界のタイㇽ博物館の向かいにある「建築陶器のはじまり館」にはフランク・ロイド・ライトが設計した「帝国ホテル旧本館」の柱(常滑産の黄色い煉瓦を使用)をはじめ、建築陶器が多数展示され、屋外の「テラコッタパーク」には、かつて日本のビルを飾った焼き物の装飾「テラコッタ」が展示されていました。

◆見逃した、土・どろんこ館 企画展示室「Fashion On Tiles」

 総合受付で「Fashion On Tiles」のチラシをもらったのですが、しっかりと読まず、展覧会をスルーしてしまいました。チラシには「世界のタイル博物館所蔵の人物タイㇽから80余点を厳選し、そこに見られるさまざまな服飾を、タイルの用途や技法、さらに人物タイルが好まれた文化的背景などに触れながら読み解きます」と書いてあったので、スルーしてしまったのは悔やまれてなりません。

          Ron.

豊田市美術館「ゲルハルト・リヒター展」ミニツアー

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豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「ゲルハルト・リヒター展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は21名、豊田市美1階の講堂で豊田市美の鈴木俊晴学芸員(以下「鈴木さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆ 鈴木さんの解説(14:00~45)の概要

〇本展の入場者等について

ミニツアーの当日の昼頃、豊田市美の駐車場を見ると、ほぼ満車の状態。車の出入りがあるので、駐車場付近に渋滞はありませんでしたが、人出の多さにびっくり。観覧券売り場でも行列。話を聞くと、年間パスポートを求める人が多いので、行列が長くなりやすいそうです。コインロッカーも、空きが僅かという状態でした。「何が起きているの?」という感じです。

 講堂に入ってこられた鈴木さんは、開口一番「今日は、本展で最も入場者数が多い日になりそう」と話し「本展は、豊田市美で開催した外国人作家の現代美術展としては最多の入場者数になるのではないか」という言葉が続きました。私が思うには、東京と豊田の2会場だけで開催ということもあるのでしょうが、ゲルハルト・リヒター(以下「リヒター」)が、今一番注目されている作家だから、ということでしょう。

〇現代美術家になるまでのリヒター

鈴木さんの解説を、私なりに要約すると、以下のとおりです。

リヒターは1932年のドレスデンに生まれ。30歳近くまで東ドイツで暮らし、壁画作家として生計を立てていました。当時の東ドイツの壁画は、「健康的な生活」「労働は未来を創る」といったポジティブな未来像を国民に示す、プロパガンダのための芸術でした。プロの壁画家という仕事に対し、リヒターは「これが自分の本当の仕事では無いのでは?」と疑問を抱くようになっていきます。

一方、西ドイツでは1954年に、東ドイツとの国境に近いカッセルで、第1回ドクメンタが開催されます。第1回はナチ政権下で「退廃芸術」とされた作品の名誉回復を行い、1959年開催の第2回では最新の芸術作品を展示。当時はまだ東西の交流があったので、リヒターは第2回ドクメンタでポロックやフォンタナなどの現代美術を見て、衝撃を受けます。(注:芸術の世界でも冷戦の真っただ中、ということです。)

ベルリンの壁が建設される数カ月前の1961年、リヒターは西ドイツに出国、1962年にはデュッセルドルフの芸術アカデミーに入学します。(注:次の項目から現代美術家リヒターの経歴が始まります)

〇リヒターの足跡

 以下、鈴木さんは、主に展示室8に出品された作品を紹介しながら、リヒターの足跡をたどります。

1 《モーターボート》(1964) 〈フォト・ペインティング〉

新聞・雑誌・手許の写真をプロジェクターで投影して、絵筆で描いた作品。リヒターは壁画のプロなので、複数の人物を組み合わせてプロパガンダを描くことはお手のもの。しかし、リヒターは「プロパガンダの芸術」から逃れたかったので、「写真を元に、それを模写する」という方法をとることにより、作家の意図や絵に描かれたものの意味、絵画技法に縛られない作品を制作しました。(注:鈴木さんの解説そのままではなく、私なりに受け取ったものです。)

2 《グレイ》(1973)、《グレイ》(1973)、《グレイ》(1976)

グレイ一色の抽象的な表現を行うシリーズ。1960年代~80年代。

3 アブストラクト・ペインティング

抽象画の表面をアクリル板で削り取るシリーズ。アクリル板で削り取るだけでなく、ヘラで細かく削り取るなど、同じ作業を繰り返して制作。1990年代から。

4 《4900の色彩》(2007)

縦5枚、横5枚、計25枚の小片で1枚(25色)のパネルを制作し、196枚のパネルを組み合わせて作品とするもの。展示するたびに、196枚のパネルの組み合わせを変える(注:本展では、196枚のパネルを組み合わせて、4つの四角形を展示していた)。自己表現を介入させずに作品を制作。

5 《8枚のガラス》((2012)

 8枚のガラスを、微妙に角度を変えて並べた作品。作品の周りを巡ると、ガラス面に不思議な反射が現れる。

 鑑賞するとき、壁と壁の間に隙間があるので、壁面をみると別の時代に描かれた作品が隙間から見える。そのため、制作された年代が違う作品を同時に見ることができる瞬間がある。これも展示の工夫。

6 《ビルケナウ》(2014)

 アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で隠し撮りされた写真を元にして、2014年に着手。4枚のフォト・ペインティングを描いたが、それでは「何かを語った」ことにはならないため、塗りつぶしてアブストラクト・ペインティングの作品とした。塗りつぶされてはいるが、一番下の層には隠し撮りした写真が描かれている。リヒターは、大虐殺を直接描くことはしたくない。出来事を問いかけることは出来ないか考えて《ビルケナウ》に到達。作品は、アブストラクト・ペインティング、アブストラクト・ペインティングの写真パネル、隠し撮りされた写真の複製、灰色のガラスで構成。どれが本物で、どれがコピーか、区別出来ない。

Q&A

Q:《ビルケナウ》のアブストラクト・ペインティングの写真パネルは、技術的な問題で1枚のパネルには制作できなかったのですか、それとも、あえて4枚のパネルに分割したのですか?

A:あえて、4枚に分割したのだと思います。1枚のものを、あえて4枚に分割することによって相対化するという意図があります。宗教は意識していないと思われますが、分割線は「十字架」を表したものでしょう。

7 展示室1~3(2階・3階)の作品

《ビルケナウ》以後にリヒターが描いた作品はエネルギッシュでビビッドになります。リヒターは人気の作家ですが、今後10年は日本で展覧会の開催はないと思われるので、しっかり見ていってください。

鈴木さんの解説は以上で終了。当日は、15:30からも鈴木さんのスライド・トークが開催されるため、講堂の周りには行列ができていました。それだけではなく、観覧券売り場にも行列。閉館まで2時間余りしかありませんが、この時刻でも次々に入場者が集まって来ていました。

◆ 自由鑑賞

〇なぜ、本展に人が集まるのか?

自由鑑賞中、参加者の間で話題になったのは「なぜ、本展に人が集まるのか」ということでした。

最初の疑問の答えとしては「ナチ政権下に叔母さんが収容所で毒ガスの犠牲になる。東ドイツで社会主義リアリズムの手法を身に着けるが、壁画家としての生き方に疑問を持ち、デュッセルドルフに出て、現代美術家としてデビュー。作家として成功するも、東ドイツ出身であり、現代美術の大きなうねりからは少し遅れて世に出てきたという、ストーリー性のある作家だから、というのが腑に落ちる意見でした。《花》(1992)のように、美しい絵を描く実力のある作家だから、というのもうなずける意見です。

◆ 最後に

豊田市美が人で一杯になるのは、最近では、2020年2月16日開催の「視覚のカイソウ」ミニツアー以来のことではないでしょうか。この時は展示室8の前のロビーが人で一杯になり、お祭りのようでした。また、2020.3.12週刊文春の平松洋子「この味」は「これはどうしても見ないと、と決心して2月23日に豊田市美術館に駆け込んだ」、豊田市を訪れるのは2013年の「フランシス・ベーコン展」以来のことだが「期待を上回るすばらしさだった」と「視覚のカイソウ」の感激を綴っています。コロナ禍に巻き込まれる寸前の、三密回避やマスク生活とは無縁の、今となっては夢のような時代の思い出です。

Ron.

展覧会見てある記 愛知県美術館「展覧会 岡本太郎」

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先日、愛知県美術館で開幕した「展覧会 岡本太郎」(以下「本展」)に出かけて来ました。平日の昼頃でしたが、若い世代が目立ちます。大阪万博(1970)から50年以上経ち、没後27年経過というのに、来場者が多いことにも驚きました。岡本太郎、いまだに人気があるのですね。

◆最初のコーナーは、モザイクタイルの壁画に関連する作品

 会場が愛知県美術館ということから、最初のコーナーは地元の産業・モザイクタイル関連の展示でした。《太陽の神話》(1952)はモザイクタイルの作品です。旧東京都庁舎を飾ったモザイクタイルの壁画は1991年に取り壊されたため、その原画《日の壁》《月の壁》(いずれも1957)を展示。オリエンタル中村の壁画も取り壊されたため、模型を展示。建物が解体される時、壁画を保存したくても大きくて費用が嵩むので保存は難しく、建物と運命を共にせざるを得ないということでしょう。会場には、岡本太郎と旧東京都庁舎を設計した丹下健三が、モザイクタイル工場で一緒に写っている大きな写真も展示されていました。二人の間には、大阪万博以前から交流があったのですね。

オリエンタル中村の壁画《星・花・人》
  (模型)
旧東京都庁の壁画《日の壁》(原画) 

◆パリ時代の作品

本展の開催前から「岡本太郎がパリ時代に描いた可能性が極めて高い作品が3点発見された」というニュースが話題になっていたので、野次馬根性で見ました。展示されていたのは抽象画。岡本太郎の初期の作品といえば、抽象画ではなく、シュルレアリスムの《傷ましき腕》(1936/再制作1949)。抽象画では満足できなくなった、ということでしょう。

パリ時代に描いた可能性が高い作品

◆戦中・戦後の作品

NHKのドラマで、岡本太郎が30歳を過ぎてから徴兵され、中国の最前線で危険な任務に就いていたことは知っていました。それでも、師団長からの命令で制作した《師団長の肖像画》(1942)と個人的に描いたと思われる《眠る兵士》(1945)を見たときは、少し驚きました。肖像画の依頼があればともかく、従軍中に「眠る兵士」をスケッチすることは出来たのでしょうか。

《燃える人》(1955)は、ビキニ環礁水爆実験の巻き込まれた第五福竜丸事件をテーマにしたもの。東京国立近代美術館所蔵の作品には、《明日の神話》と同じように「第五福竜丸」を擬人化したモチーフが描かれていました。

◆《太陽の塔》と《明日の神話》

《太陽の塔》と《明日の神話》は、独立したコーナーがあります。もちろん、「本物」を展示することはできないので、模型やスケッチ、下絵を展示。《明日の神話》の展示は、《ドローイング》(1967)と《3枚目の下絵》《4枚目の下絵》(いずれも1968)ですが、そのうち名古屋市美術館所蔵の《3枚目の下絵》だけ、壁画と同様、画面左右の下部に空白があります。展示室では、《明日の神話》の修復から世田谷駅前通路に設置されるまでを収録したビデオも上映していました。

《明日の神話》(3枚目の下絵:名古屋市美術館所蔵)

◆写真撮影について

展示室内での写真撮影は、特に制限はありませんでした。ただ、写真撮影に夢中になると作品を鑑賞する時間が無くなるだけでなく、作品の記憶まで飛んでしまうので要注意。

また、10回のロビーには記念撮影コーナーがあります。「TARO MAN」と「太陽の塔」、2つのコーナーでは入れ替わり立ち代わり、記念撮影する人が来ていました。

          Ron.

「女性の服飾文化史 新しい美と機能性を求めて」

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日置久子 著 西村書店 2006年9月15日初版第1刷発行

投稿 2023.01.16

今回ご紹介するのは、今年に入って3冊目の、女性の服飾文化史に関する本です。フランス革命前後から現代までの服飾文化史について書いているので、「マリー・ローランサンとモード」で展示される前後の時代のモードについても触れます。(注:p.○は、該当ページを表します)

1 「マリー・ローランサンとモード」以前の女性服

(1)フランス革命前後のモード

フランス革命前の女性服は、装飾過多で細いウエストの胴着を着て、パニエ(スカートを膨らませる籠型)で膨らませた大きなスカートを着けていましたが(p.11)、革命期にはパニエ、コール・ピケ(ウエストを締める胴衣)、ヒップ・パッド(腰当)などの人工的なものを身に着けないイギリス調のシンプルなドレスになり(p.16)、第一帝政期にはネグリジェかランジェリーのように見える、ギリシャ・ローマ風スタイルのシュミーズ・ドレスが流行します(p.44)。大きな変化ですね。

(2)ロマンティック・モード

第一帝政が崩壊し王政復古となると女性の服装は貴族風になります。胴は細く、スカートは釣鐘型、袖は上部が大きく、肘から手首にかけて細くなります(p.54)。1830年を過ぎる頃からドレスの肩幅が狭まり、1840年代に入ると、袖は余分な膨らみがだんだん無くなって、細くなります(p.56)。

1857年には、クリノリンと呼ばれる、細い針金で出来た半球型のフープ(枠)が登場。クリノリンは大量生産され安価だったため、家政婦や農婦にまで行きわたります(p.59)。クリノリンの流行は1860年代末まで続きますが、1868年には、スカートの後部に強調部分がおかれる半クリノリンに変化。19世紀末には、スカートの後ろにバッスル(籠)を入れて腰を膨らませる、バッスル・スタイルが流行します(p.86)。なお、明治時代に鹿鳴館で女性が着たのは、バッスル・スタイルです。

(3)アール・ヌーヴォー・スタイル

19世紀末から20世紀初期にかけては、アール・ヌーヴォー・スタイルが流行。女性服のシルエットはバッスルによる人工的な膨らみから解放され、ウエストが細く、バストとヒップを目立たせるSカーブ・ラインに変わります(p.156)。

2 「マリー・ローランサンとモード」の女性服

(1)ジャポニスム

1900年にパリ万国博覧会で着物姿が話題となり、「キモノ・サダヤッコ」「ジャパニーズ・ガウン」などと名づけられた着物風の室内着が売り出されます。「体を締めつけない女性服」の復活でした。

ア ポール・ポワレ

ポール・ポワレも1903年、着物にヒントを得た女性服を制作します。直線的な裁断で、自然なゆるやかさのある、日本風の衣装です。ポワレは女性をコルセットから解放し、Sカーブ・ラインのスタイルをストレート・ラインに変えます。ストレートなキモノ・スリーブを着け、着物風の打ち合わせを取り入れました(p.160)。ポワレの周辺に集まった画家は、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサンなど。彼の邸宅は優れた近代絵画のコレクションで飾られていました(p.163)。「マリー・ローランサンとモード」でポワレがデザインした作品が展示されるのも納得です。

しかし、全盛期を過ぎたポワレは、1925年のアール・デコ展で全財産を使い果たし、まもなく破産。再起することはありませんでした(p.177)。

 

イ マドレーヌ・ヴィオネ

 マドレーヌ・ヴィオネは第一次大戦後、着物にインスピレーションを得て、平面性とゆとりを特徴とする直線裁断の服をデザイン、さらにバイアス・カットで自由なデザインを発想します(p.160)。

(2)ギャルソンヌ・スタイル

「ギャルソンヌ」とはフランス語の「ギャルソン(少年)」を女性形にした言葉です。第一次大戦後、理想的なタイプが、肉感的な女性から、バストとヒップが平たく、脚線美のスリムな女性に変化。テーラード・スーツやコート、短いシュミーズ・ドレスが好んで着用され、これを「ギャルソンヌ・スタイル」と呼ぶようになります(p.180)。しかし、1930年代までにギャルソンヌ・スタイルは完全に姿を消して、女性服に体の自然な曲線がよみがえり、成熟した女性のスタイルに復帰。スカート丈も長くなります(p.187)。

(3)ガブリエル・シャネル

ア 第一次大戦前

ガブリエル・シャネル(1883-1972)は、1910年にパリのカルボン通りに帽子店を開店。当時、帽子は服よりも重要なアイテムでした。1913年にはビーチ・リゾート、ノルマンディーのドーヴィルにブティックをオープン。スポーツ好きのシャネルが考案した新しい服は飛ぶように売れました(p.191)。

イ 第一次大戦中

シャネルは裁断や縫製が簡単なジャージー(ニット生地)を使って、女性服をつくり始め、1916年5月、モード雑誌にジャージー・スーツを掲載します(p.192)。

ウ プティット・ローブ・ノワール(英語では、little black dress)

 1926年、米国の『ヴォーグ』誌10月号は、ギャルソンヌ・スタイルに近い黒いシュミーズ・ドレス(little black dress)を、一種の“ユニフォーム”になるだろうと予言します。それは、2-3メートルの生地で出来る、大量生産向きのデザインでした。コピーされてもそれが普及すればビジネスは成功すると信じ、シャネルはコピーを許していました(p.194)。

3 「マリー・ローランサンとモード」以後の女性服

(1)クリスチャン・ディオール

1947年にクリスチャン・ディオールが披露した「ニュールック」は、すっきりと目立つバストライン、細いウエスト、たっぷり広がったロングスカート、豪華な生地を贅沢に使い、洗練したスタイルで登場します(p.209)。

服飾史から見ると、ニュールックは18世紀のパニエ・スタイル、19世紀のクリノリンに通じる伝統的なスタイルでした。この古くて新しいスタイルは、第二次大戦中のミリタリー・ルックや実用服に飽きていた女性たちには、この上なく新鮮に見えました。しかし、終戦直後の、品不足の貧困生活に喘いでいる人々にとっては贅沢極まりないもので、激しい反感を買いました(p.211)。

(2)ガブリエル・シャネル、71歳の再登場

1939年に香水とアクセサリー部門だけ残して閉店したシャネルですが、第二次大戦後の1954年、71歳で再登場します。復活の理由は「クリスチャン・ディオールの独裁を排除するため」でした。

実用性と機能性とプレーンさを重視したシャネルには、ディオールのコルセットで固めた、着にくい服を黙認することはできませんでした。彼女が発表したコレクションは英仏では不評を買いましたが、米国のモード記者たちは絶賛。ツイードの襟なし、ブレード縁取りのシャネル・スーツは、応用範囲の広い、キャリアウーマンのためのスーツでした(p.195)。

Ron.