「グランマ・モーゼス展」 協力会向け解説会

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館では「生誕160年記念 グランマ・モーゼス展―素敵な100年人生」(以下「本展」)を開催中です。先日、名古屋市美術館協力会向けの解説会が開催され、参加者は〇人でした。2階講堂で井口智子学芸課長(以下「井口さん」)の解説を聴き、展示室に移動して自由観覧後、解散となりました。

◆2階講堂

○解説(16:03~17:05)の概要

・はじめに

本展は大坂・あべのハルカス美術館から始まりました。大阪では緊急事態宣言が発出され、美術館も臨時休館となった時期がありました。名古屋では何事もなく、全期間を通して開催されることを願っています。

・本展の構成

 本展は4章で構成されています。第1章「アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス」は展示室の壁が藤色で塗られています。藤色は彼女が好きだった色です。第2章「仕事と幸せ」は黄色、ハッピー・カラーです。明るい色なので、来館者からは「屋外にいるような感じ」という感想を聞きました。第3章「季節ごとのお祝い」は緑色。第4章「美しき世界」はサーモン・ピンク、これも彼女が好きな色です。

 本展では、彼女の絵画だけでなく、アルバムや愛用品、手作りのキルトのほか映像も見ることができます。

・グランマ・モーゼス(アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス)は、どういう人?

彼女は1860年9月7日に、アメリカ・ニューヨーク州グリニッチ (Greenwich) で生れました。アメリカ東海岸、ニューヨークの北が彼女の「ゆかりの地」です。12歳の時家を出て、ウエスト・ケンブリッジ (West Cambridge) の家庭で、住み込みで働き、27歳でトーマス・サーモン・モーゼスと結婚。結婚後は、南部のウエストバージニア州に引越して、シェナンドア渓谷近くの農場主から農場と家畜を手に入れ新生活をスタート。10人の子どもを授かりますが、4人は死産、1人は生後間もなく死去。彼女が45歳の時に、ニューヨーク州・イーグル・ブリッジ (Eagle Bridge) に戻り、70歳を過ぎてから独学で絵を描きはじめました。彼女は美術教育を受けたわけではありません。グランマ・モーゼスは「モーゼスおばあさん」という愛称です。彼女は農業を営み、家族を育てるなかで絵を描いていました。地元のフージック・フォールズ (Hoosick Falls) のドラッグ・ストアに作品を置いていたところ、アマチュアのコレクターが店に来て彼女の作品を発見したことから、彼女の作家人生が始まりました。

・第1章の作品・資料の解説(注:数字は、本展の作品・資料番号)

1.《グランマ誕生の地》(1959):水車小屋、花、家などが描かれた、記憶の中にある場所、記憶の中にある思い出を描いています。

13.《グリニッチへの道》(1940):記憶の中にある、彼女の父親が所有していた農場の風景です。1940年には、既に第二次世界大戦(1939~45)が始まっていました。彼女の作品の多くは、第二次世界大戦後に広く紹介されます。彼女の絵は複製品として商品になり、家庭に届きました。アメリカの人々にとって、彼女の絵は、協力して支え合うこと、大地への感謝、誰の心の中にもある幸せを表現するものでした。彼女の絵は、郷愁を感じさせるだけでなく、幸せを呼び起こしてくれる力を持っています。

2.《冬のネボ山農場》(1943):結婚後、一家がニューヨーク州に戻ってから暮らした農場の風景です。「ネボ山」は旧約聖書に登場するモーゼ (Moses) にゆかりのある山の名前です。モーゼス (Moses) 一家は南部にいたときから、同じ綴りの「モーゼ」に因んで、自分たちの農場を「ネボ山農場」と呼んでいました。展示室では、白い雪のなかに描かれた白い建物をよく見てください。陰影法や遠近法にはこだわらず、遠景から近景までの全てにピントが合った絵です。

3.《丘の上のネボ山農場》(1940:毛糸の刺繍):彼女は、絵を描く前は刺繍で風景を描いていました。刺繍は幼いころから習っていましたがリウマチが悪化したため刺繍を続けることが難しくなり、絵を描き始めました。

4.《ファイヤーボード(暖炉の覆い)》(1918):部屋の模様替えをするときに壁紙が足りなかったので、暖炉の覆いとして使っていた板に紙を貼って描いた絵です。彼女の絵の出発点は、生活を豊かにするために描いた、手芸のような絵です。

11.《フージック・フォールズ、ニューヨークⅡ》(1944:SOMPO美術館):フージック・フォールズのドラッグ・ストアで、彼女の作品がアマチュアのコレクター・カルドアの目にとまりました。カルドアの仲介で彼女が、画廊を経営するオットー・カリアーという人に出会ったことから、84歳の新人アーティストが誕生しました。

6.《守護天使》(1940以前:グリーティングカードを模写):1940年に開催された彼女の初めての個展『一農婦の描いたもの (WHAT A FARM WIFE PAINTED) 』に出品した作品です。本展では、お手本にしたグリーティングカードと並べて展示していますので、お手本をもとにして彼女がどのように自分の個性を出したのか、見比べてください。

18.《気球》(1957):オットー・カリアーの依頼で描いた作品です。描写は稚拙で素朴ですが、気球を見ている人の気持ちが伝わってきます。アメリカ人なら共感できる絵です。

15.《窓ごしに見たフージック谷》(1946):彼女が寝室から見た風景です。彼女は絵を描くとき「窓を想像して風景を切り取る」と言っていますが、この作品では窓だけでなくタッセル(カーテンの房飾り)も描いています。

19.《フォレスト・モーゼスの家》(1952):息子のフォレストとロイドが彼女のために建てた家です。彼女は、亡くなるまでの10年間、この家で息子のフォレスト夫妻や娘ウィノーナと暮らした後、フージック・フォールズのヘルス・センターに移り、101歳で亡くなりました。

M-3『私の人生 (My Life’s History) 』(1952):オットー・カリアーの勧めで出版した自伝で、ベストセラーになります。日本でも1983年に『モーゼスおばあさんの絵の世界-田園生活100年の自伝』として未来社が出版し、1992年には新刊が刊行されています。

・第2章の作品解説(注:数字は、本展の作品番号)

21.《干し草作り》(1945):人物だけでなく、動物も丁寧に描いています。

26.《洗濯物をとり込む》(1951):雨が降ってきて、洗濯物をとり込む情景ですが、のんびりしたムードの日常風景でもあります。

36.《村の結婚式》(1951):本展のメイン作品のひとつで、日本初公開です。新郎新婦と同じような服装の男女が何組も描かれているので「集団結婚式」のように見えてしまいます。モーゼスは自立心あふれる女性で、結婚後も共働きで「一つのチーム」のようでした。展示室入口ホールの壁に、この絵を引き伸ばして貼っているので、記念撮影ができます。

37.《農場の引っ越し》:本展のチラシに使った作品です。彼女が45歳の時、ニューヨーク州へ引越しする様子を描いています。

38.《そりを出す》(1960):何と、100歳の時の作品です。冬の景色ですが、暖かさがあります。

・第3章の作品・資料の解説(注:数字は、本展の作品・資料番号)

48.《シュガリング・オフ》(1955):サトウカエデの樹液を煮つめてメープルシロップを作る作業を描いた作品で、赤や緑などの色彩の使い方がうまく、手芸的な要素もあります。絵と同じようなポーズの人物を写した写真は、雑誌や新聞の切り抜きです。彼女はこういった写真を参考にして絵を描いていました。

30.《訪問者》(1959):彼女が99歳の時の作品で、パッチワーク・キルトのように描いています。

33.《キルティング・ビー》(1950):沢山の人が集まって、キルティングをしている絵です。キルティングだけでなく、メイプルシロップやアップル・バターなどの食べ物や人物のファッション、動物など様々なものに視点を向けて描いています。

Ⅿ-26.《手作りのキルト》(1961以前):本展では、手作りのキルトも展示しています。

Ⅿ-13.《絵を描くための作業テーブル》(1773-1920):彼女は板に絵を描くことが多かったようです。

Ⅿ-27.『クリスマスのまえのばん (The Night Before Christmas) 』(1962刊):以下の3作品は、The Night Before Christmasの挿絵原画です。残念ながら、彼女は本が刊行される前に亡くなりました。60.《サンタクロースⅠ》(1960)、61.《サンタクロースを待ちながら》(1960)、62.《来年までさようなら》(1960)。

・第4章の作品解説(注:数字は、本展の作品番号)

77.《美しき世界》(1948):「どんな絵がいちばん好きですか?」とインタビューで聞かれた時、モーゼスは「きれいな絵」と答えています。

80.《虹》(1961):彼女の最後の作品です。

〇自由観覧(17:05~18:05)

 井口さんの解説を聴いた後、1階に移動。作品リストをもらい、各自、自由鑑賞となりました。展示室で作品を見て感じたことは、①「何を描いているか、すぐわかる」ということと、②「色彩がきれいだ」ということです。陰影法や遠近法にはこだわっていませんが、細い線で丹念に「色彩豊かで、きれいな絵」を描いています。井口さんが解説されていたように、「幸せを呼び起こしてくれる」絵ばかりでした。

・紅白の市松模様の家

第2章の最後の方に、外壁が紅白の市松模様の家を描いた作品が2点、並んでいました。ひとつは40.《古い格子縞の家、1860年》(1942)。もうひとつは41.《古い格子縞の家》(1944:SOMPO美術館)です。解説には「グランマ・モーゼスはすでに失われていたこの家を1941年から20年近くに渡り繰り返し描きました」と書いてあります。作品をチラッと見ただけでも描かれた建物に惹きつけられるのですから、彼女が繰り返し描くほど強く「格子縞の建物」が記憶に焼き付けられたのも、納得です。

・複製品の数々

 井口さんの解説に「彼女の絵は複製品となり、家庭に届きました」という一節があります。展示室2階の最後のコーナーには、彼女の絵を描いたティーポットやボールのほか、平皿、クッキー缶、スカーフ、ジグソーパズルなどが展示されています。赤や緑の色彩が鮮やかなので「さぞ、人気があったのだろうな」と思いました。

・アップル・バター

 第3章に、51.《アップル・バター作り》(1947)という作品がありました。解説には「リンゴとリンゴ果汁を火にかけてバター状になるまで煮詰める」と書いてあります。「リンゴ・ジャムみたいなものですか」と井口さんに尋ねたところ「ジャムよりも濃厚で、おいしいですよ」とのこと。解説会に参加した会員から「大阪会場ではアップル・バターを売っていた」という話があったのでグッズ売り場に行くと、アップル・バターが陳列されていました。商品説明によれば「長野産の完熟リンゴ1㎏を煮つめて、シナモンで仕上げたペースト」で、一瓶155g・1,300円(税込)とのこと。残念ながら店が閉まっていたので、購入は出来ませんでした。

 ネットで調べると「アップルバターの作り方。青空レストランで話題のりんごバター。-LIFE.net」というページがヒット。製法は「リンゴをくし形に切って、焦げ付かないように鍋で煮る」。本展解説との違いはリンゴ果汁を使うかどうかだけなので、ほぼ同じです。リンゴが出回れば、家庭でも作ることが出来そうですね。

〇最後に

・グランマ・モーゼスが生まれた1860年9月7日、日本の暦では万延元年7月22日

グランマ・モーゼスが生まれた1860年は日本の幕末。ネットで日本の暦を調べると1960年9月7日は万延元年7月22日に該当します。そして、1860年3月24日(安政7年3月3日)には「桜田門外の変」が起きていました。蛇足ですが、彼女が亡くなった1961年には、坂本九「上を向いて歩こうが」のレコードが発売され、大ヒット。彼女生きた100年の間、日本は激動のなかにあったことを再認識しました。

・グランマ・モーゼスが国民的画家になった背景(解説をうまく要約できませんでした。半分は私の解釈です)

18世紀から19世紀にかけてのアメリカでは、独学で絵を描くようになった人でも、上手ければ肖像画を描いて収入を得ることができました。しかし、写真の登場で肖像画家は消えます。それでも「趣味で絵を描く人」は残っていました。1930年代のアメリカでは「アメリカの美術」を探していたことから、「独学の画家」が描く素朴な美術が注目されるようになります。しかし、1940年代後半になると「独学の画家」では国際的な評価は得られないことから、前衛芸術や抽象芸術がアメリカ美術界の主流となっていきました。このように「独学の画家」たちが美術界から忘れられていく一方で、グランマ・モーゼスの人気は衰えませんでした。それは、①彼女の描く世界が大衆に共感されるものであったことと、②彼女が「70歳代のおばあさん・一農婦」であると表に出すことで、「女性」の成功者が名声を得ることを妨げてきた障害(社会の反発)を回避できたからです。

・モンドリアン展との関係を考える

2021.04.03付「日本経済新聞」に掲載された「モンドリアン展」の記事は、下記のように書いています。

〈モンドリアンは戦火が迫るパリを再び離れ、ロンドンを経て、40年に米国に移住する。多くの芸術家が米国に亡命していたが、雑誌「フォーチューン」は41年の特集「12人の亡命美術家」の冒頭にモンドリアンを取り上げた。新造形主義やタイポグラフィーや建築、工業デザインに広く影響していることを紹介している。第二次世界大戦後の米国では、米国独自の、新しい美術を確立する動きが生まれていた。そうした動きにモンドリアンの打ち立てた抽象絵画はよく合った。米国の美術家たちはモンドリアンを時に否定し、意識的に距離を置こうとしつつも、それを土台に新しい美術を模索していった。〉(引用終り)

つまり、モンドリアンは、1940年代後半からアメリカ美術界の主流になっていった美術家たち(マーク・ロスコ(1903-1970)、バーネット・ニューマン(1905-1970)、ウィレム・デ・クーニング(1904-1997)、ジャクソン・ポロック(1912-1956)などか?)に大きな影響を与えたというのです。

グランマ・モーゼス自身は、前衛芸術や抽象芸術とは縁のない世界を生きた画家ですが、彼女が「前衛芸術や抽象芸術がアメリカ美術界の主流となっていったアメリカの中でも人気が衰えなかった」という事実について考えるためには、彼女の作品の対極であるモンドリアンの抽象画や抽象表現主義について知ることも必要なのかな、と思いました。

・モンドリアン展・ミニツアーについて

7月25日の解説会で、協力会の人から「協力会主催のモンドリアン展ミニツアーを2021.08.29に開催する予定」という話を耳にしました。午前10時から学芸員さんの解説を聴いた後、展覧会を鑑賞するようです。決定すれば、協力会から「お知らせ」があると思います。楽しみですね。

Ron

展覧会見てある記 「モンドリアン展」 豊田市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館で開催中の「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」(以下「本展」)に行ってきました。会場は1階・展示室8。平日でしたが「入場者が多いな」と感じました。

◆ モンドリアン展 1F:展示室8

・ 印象派を思わせる風景画が並ぶ

モンドリアンといえば、中学校の美術で「風景画」から「抽象画」に画風が変化していく過程を教わった覚えがありますが、本展も「風景画」から始まります。モンドリアンの風景画は「精密描写」よりも「色面の組み合わせ」に関心があるようで、《干し物のある風景》(1897)を見ると、中央に描かれた、ロープに吊るされた白いシーツと屋根の赤、家の壁の茶色の対比が印象的です。本展には「枝を切り落とされた柳」を描いた作品が3点並んでいますが、何故かゴッホの絵を思い浮かべてしましました。

・ ルオーを思わせる肖像画2点と点描の風景画の数々

次の区画に入ると肖像画が2点。《少女の肖像》(1908)と《二人の肖像》(1908-09)ですが、ルオーのような神秘性を感じました。風景画は《ドンブルグの協会》(1909)や「砂丘」を描いた3点など、大きな斑点で描いた作品が並んでいます。ただ、《ドンブルグの協会塔》(1911)だと、背景は葉っぱを思わせる三角形や四角形の斑点で埋っていますが、ピンクの建物は点描ではなく、作風の変化を感じました。

・ キュビスム風の作品からコンポジションへ(撮影可能エリア)

細い通路を抜けると撮影可能エリアです。最初に並んでいるのはキュビスム風の《風景》(1912)と《女性の肖像》(1912)。それに続く《コンポジション 木々2》(1912-13)から数点は、画面の中に数多くの線が描かれたキュビスムの延長のような作品が並びます。次の《色面のコンポジション No.3》(1917)は色紙を切って貼り付けたような作品で、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》(1921)に至って「モンドリアンらしい作品」になりました。雑誌『デ・ステイル』に参加したテオ・ファン・ドゥースブルフなどの幾何学的な抽象絵画も並んでおり、展示室はとてもカラフルでした。

・ ヘリット・トーマス・リートフェルトの作品も(撮影可能エリア)

撮影可能エリアには『デ・ステイル』に参加した建築家ヘリット・トーマス・リートフェルト(以下「リートフェルト」)が設計した「シュレーダー邸」のパネルと映像資料に加え、彼が設計した椅子4脚も展示されています。椅子は全て豊田市美術館所蔵で《アームチェア》(1919年頃)と《ジグザグ・チェア》(デザイン:1932-33年、制作:1950年)は、木目を生かした透明な塗料で仕上げたものです。シュレーダー邸の映像資料は短いものですが、チラッと写った《レッドアンドブルー ラウンジチェア》(上記の《アームチェア》を、モンドリアンの《コンポジション》のように赤、黄、黒、青色で塗り分けた椅子)が印象に残ったほか、横長の窓の開閉がスイング式(窓の右寄りに支点があり、窓の左側を外に押して開く開閉方式)なので「こんなに外に飛び出して、強い風が吹いたら大丈夫か」と心配になりました。

◆ コレクション ひとつの複数の世界 2F:展示室1

モンドリアン展を後にして、2階の展示室に入ると、抽象美術の後継者たちの作品が並んでいます。岡﨑乾二郎の「おかちまち」シリーズが5点、「かたがみのかたち」が2点。色紙を切って貼り付けたように見える杉戸洋《guadⅡ》(2009)は、モンドリアン展の延長のようです。展示室の中央には巨大な「メビウスの帯」とも言うべき、徳富満《2Ⅾ or not 2Ⅾ》。寺内曜子の立体作品も3点あります。高松次郎の《板の単体(青)》《板の単体(黒)》《板の単体(赤)》(いずれも1970)の色彩もモンドリアンを想起させます。田中敦子《Work1963》は、モンドリアンとは違い、円と曲線で構成された抽象画でした。

・ 寺内曜子 パンゲア 3F:展示室2

展示室2全部を使ったインスタレーションです。真っ白に塗られた展示室2の壁には水平に赤い線が引かれ、中央に四角柱が立っています。四角柱の上には小さな白い球体。近寄って見ると、球体の表面には細かなシワがあり、赤い線もみえます。この球体、どうやら紙を丸めたもののようです。

・ コレクション ひとつの複数の世界 3F:展示室3

展示室1の続きで、床にはカラフルなプラスチック容器の破片が敷き詰められています。トニー・クラッグ《スペクトラム》(1979)でした。その向こうには白い大理石で出来た長屋2棟の周りには白米が山並みのような形に盛られています。ヴォルフガング・ライブ《ライスハウス》(1996)でした。壁面には丸山直文《breeze of river2》(2009)、村瀬恭子《White Coat》(2009)、杉戸洋《Untitled》(2016)の3点を展示しています。

アームチェア

最初の展示は、高橋節郎が課題演習で描いた図面?ですが、抽象絵画のように見えました。展示室4の見ものだと思ったのは、椅子のコレクションです。マルセル・ブロイヤー《クラブチェア B3》の別名は「ワシリーチェア」。ワシリー・カンディンスキーが高く評価して注文リストの一番目に名前を描いてくれたことによるものとか(出典「もっと知りたいバウハウス」東京美術発行)。名古屋市美術館の地下1階ロビーには量産品が「休憩用」として置いてあり、入場者は誰でも座ることができます。オットー・ワーグナー《郵便貯金局証券取引所のアームチェア》(1918)は、クリムト関連の椅子。当然のことながら、クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》も展示されていました。フランク・ロイド・ライト設計の《アーヴェリー・クーンレイ邸の椅子》(制作・設計年不詳)やチャールズ・レニー《ヴィンディヒルのホールのハイバックチェア》(1901)などのほか、ブランクーシの抽象彫刻やジャン・アルプの抽象画(レリーフ?)、エゴン・シーレのポスターやココシュカの版画もありなど、密度の高い展示です。

・ コレクション 美術とデザイン 3F:展示室4

・ コレクション モンドリアンと同時代の日本美術 2F:展示室5

「モンドリアンと同時代」という切り口ですが、さすがに抽象画はありません。入口近くに展示されているのは豊田市出身で、主にロンドンで活動した画家・牧野義雄の《サーペンタイン橋から望むハイドパーク》(制作年不詳)と《倫敦空襲の図》(1940)。展示室の奥には岸田劉生の作品が並んでいます。《自画像》(1913)《横臥裸婦》(1913)《代々木風景》(1915)の3点でした。横井礼以《新緑の道》(1927)、熊谷守一《花飾りをつけた女》(1935頃)のほか、日本画では下村観山《美人と舎利》(1909)菱田春草《鹿》速水御舟《菊に猫》(1922)などが出品されています。抽象画ばかり見て来たので、ホッとしました。

・ コレクション 小堀四郎 宮脇晴・綾子 1F:展示室6・7

モンドリアン展の会場の隣では、定番のコレクションが展示されていました。「いつもの作家の作品が、いつもの所にある」というのは、心が癒されます。

◆ 特設フォトスポット 1F:ライブラリーの隣(無料エリア)

ジグザグ・チェア

1階ライブラリーの隣には「特設フォトスポット」が開設されていました。リートフェルトがデザインしたシュレーダー邸の写真をバックに《ジグザグ・チェア》と《レッドアンドブルー ラウンジチェア》が置かれ、椅子に座った姿を写真撮影することができます。「椅子に座るだけでなく、写真撮影もできる」というのは、楽しい企画ですね。しかも、無料エリアです。

◆ 最後に

モンドリアン展では、初期の風景画からコンポジションまでの作風の変遷を眺めることができたので、楽しく鑑賞することができました。雑誌『デ・ステイル』に参加した画家だけでなく、リートフェルトのシュレーダー邸や椅子の展示も面白いですよ。コレクション展もモンドリアン展と連動しており、特設フォトスポットもあるので、長時間楽しめます。特設フォトスポットは無料で、モンドリアン展の観覧券でコレクション展も鑑賞できますから、じっくりと時間をかけて美術館全部の展示を見ないと損、だと思います。いかがですか。

特設フォトスポット

Ron.

展覧会見てある記 豊橋市美術博物館「2021コレクション展 第2期」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊橋市美術博物館のコレクション展(2階 常設展示室 第2期)を見てきました。考古、歴史、陶磁、美術、民俗の5分野にまたがる展示でしたが、考古(考古資料から探るトヨハシの歴史)を除く4分野について、簡単にレポートします。

◆歴史 床の間動物園Ⅱ(2階 テーマ展示コーナー、第2展示室)

竹に虎図

 2階・通路沿いの「テーマ展示コーナー」には、4枚組の杉戸絵が2点。原田圭岳《鹿図》(1877)と《猿図》(1875)、大迫力です。第2展示室には同じ作者の杉戸絵《竹に虎図》(3枚組)もあります。いずれも豊橋市・石巻地区の宮司・佐藤為継が自宅を飾るために1875年から1881年にかけて描かせたもの、とのことです。

床の間動物園Ⅱでは、虎を描いた掛け軸や龍を描いた屏風、渡辺崋山が25歳のときに描いた写生帖などが展は示されています。いずれも江戸時代から大正時代に描かれたもので、武士や僧侶が描いた作品もあります。

◆陶磁 動物の模様と形(2階 第3展示室)

 《染付梅花文盃/染付梅花吹墨盃台》京焼の陶工永楽保全(1795-1854)の作品で、梅の花に梅の小枝を付けた小さな盃と小鳥が止まっている盃台のセット。デミタスカップとソーサーのように見えました。明治初期の薩摩焼《金襴手風俗草花文鶏頭付沈香壺》は、とても大きな香炉。豪華な伊万里焼の金襴手龍魚文盤もありました。

◆美術 動物集合!!(2階 第4展示室)

 最初に展示されていたのは筧忠治の描いた《猫(No.101)》(1982)と《ポニー4》(1990)。いずれも猫の絵です。北川民次《うさぎ》(1974)や中村正義が二羽の鶏を描いた《鳥》(1961)、中村岳陵《雙鶴》(大正後期)、牛が角で押し合う日本の闘牛を描いた大森運夫《闘牛祭》(1975)など、動物を描いた作品が並んでいます。

以上のほか《特別展示》「鈴木一正~動物と共に」と題して4点の作品も展示されていました。なかでも《共に》(2011)はカエル、ニホンザル、トラ、ウサギ、ゾウ、シロクマ、シマウマ、ウマ、サル(ハヌマンラグーン?)を描いた大きな作品です。

◆民俗 郷土玩具にみる動物たち(2階 第5展示室)

土人形 織田信長

 土人形では、愛知県・大浜(現:碧南市)の《織田信長(桶狭間)》や豊橋の《鯛抱き童子》など、張り子では福岡県・柳川の《虎》や豊橋の鍾馗や鬼、烏天狗、お多福などのお面が展示されていました。なかでも《虎》は、アニメ映画「リメンバー・ミー」に出てきたメキシコの民芸品アルゲブラを思わせるものでした。

土人形 鯛抱き童子

◆展覧会情報

 コレクション展Ⅱ(5.29~8.29)で動物を特集しているのは、企画展で「三沢厚彦 ANNIMALS 2021 in TOYOHASHI」(7.17~8.29)が開催されるためだと思われます。チラシによれば、初期の作品や平面作品、アトリエの再現コーナーもあるようです。楽しみですね。

Ron.

読書ノート  三輪山信仰と聖林寺十一面観音菩薩立像について(再考)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆「東洋美術逍遥 17」(週刊文春6月17日号)

以前、読書ノートで取り上げた「東洋美術逍遥 17」は、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音について、次のように書いています。

<巨石群を神の依りつく「磐座(いわくら)」として祀ることから、三輪山の古代祭祀は始まった。やがてそれは山全体にあまねく神霊が籠り、鎮まっているという神体信仰へと変化していく。(略)聖林寺の十一面観音菩薩立像(略)は大神神社の神宮寺である大御輪寺(旧大神寺、現在の大直禰子(おおたたねこ)神社)に若宮神と共に祀られていたものが、明治初年の神仏分離令によって、聖林寺へ移された>

ここには、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音菩薩立像について、①巨石群を神の磐座として祀る ②神体信仰へと変化 ③大御輪寺に十一面観音を祀る ④神仏分離令により十一面観音が聖林寺に移る、という四つのストーリーが書かれています。この内容をもう少し深く掘り下げようとして出会った本が、以下の2冊です。

◆佐藤弘夫「日本人と神」講談社現代新書2616 2021.04.20発行

山を拝まなかった古代人

著者は<山麓から山を遥拝するという形態や一木一草に神が宿るという発想は、室町時代以降に一般化するものであり、神理念としても祭祀の作法としても比較的新しいあり方であると考えている(p.24)>と記しています。そして、三輪山の信仰遺跡に目を向けると<山を仰ぐことのできる場所に祭祀遺跡が点在している。固定したスポットから山を拝むのではなく、山がみえる所にそのつど祭場を設け、山からカミを呼び寄せていたことがわかる。祭祀の場所はカミの依代となる磐座や樹木のある地が選ばれた。祭りの場に集まった人々は、シャーマンを通じてカミの声を聞いた(p.27)>と書き、<山は神の棲む場所であっても、神ではなかった。太古の人々が山を聖なるものとみなして礼拝したという事実はない(p.29)>と続け、箸墓などの巨大古墳におけるカミ祭りも<墳丘を望む地点で、そのつど首長霊を招き寄せて実施されたと推定される(p.62)>としています。つまり、弥生時代から古墳時代にかけてのカミ祭りは、上記「①の段階」だったというのです。

巨大古墳時代の終焉~神社の成立

 上記「②の段階」については<都から望むことのできる墳丘の連なりは、いまや太古の時代から途切れることなく継承されてきた天皇の聖性と天皇家の永続性を示す象徴的な存在となった(p.67)>と記した後、<しかし、そうした段階は例外なく終わりを告げる。その主要な原因は、強力な超越的存在を有する宗教の隆盛ないしは流入、新たな神々の体系の構築などだった。カミの棲む寺院や神殿が、王宮や王墓をしのぐスケールでもって造営されるようになる。(略)日本列島でそうした動きが加速するのは、陵墓制度が制定されるとともに仏教の国家的受容が本格化する七世紀後半のことだった(p.69)>としています。

排除されるシャーマンたち

 著者は、卑弥呼のようなシャーマンが排除されていった経緯について、<かつてはシャーマンの言葉がそのままカミの言葉だった。その内容がどれほどばかげたものであっても、その託宣を受けた人々はその言葉に従う義務を負った。王も例外ではなかった。しかし、弥生時代後期から古墳時代へと時が流れ、王の地位が強化されるにしたがって、カミの言葉の真偽を判別し対応を決定する権限が俗権の側に移行した(p.085)>と記し、<『古事記』では、仲介者としての女性シャーマンは登場しない。天皇が直接、夢を通じてカミとの意思の疎通を図っている(p.086)>と結んでいます。

◆畑中章宏「廃仏毀釈」ちくま新書1581 2021.06.10発行

「神仏習合」の成立

上記「①の段階」について、本書の記述は「日本人と神」と同様です。また、本書では「③の段階」=神仏習合について、次のように書いています。

<奈良時代に入り、仏教にたいする信仰が篤い聖武天皇が、各国に国分寺・国分尼寺を設け、総国分寺たる東大寺に巨大な廬舎那仏(奈良の大仏)を造立し、これを納める金堂(大仏殿)を造営するなど、仏教を国家の統治に利用していった。その過程で、九州宇佐地方(現在の大分県の北部)にあった八幡神が大仏造立に寄与するなどを経て、日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えかたがうまれるに至ったのである(p.018~019)>

三輪山の神宮寺

三輪山の神宮寺については、次のように書いています。

<三輪明神の神宮寺としては、「大神寺(おおみわでら)」が奈良時代に成立していたことが古文書に記される。大神寺は弘安8年(1285)に真言律宗の再興に努めた叡尊(えいそん)によって大規模な改修がなされ、寺名も「大御輪寺(だいごりんじ)」に改められた。中世には、真言密教の中心仏である大日如来が、三輪山の大物主神や伊勢の天照大神と同体だという説が唱えられた。こうした独自の神仏習合の解釈(三輪流神道)が大御輪寺と、やはり三輪明神の神宮寺である平等寺で発展、継承されていった。大御輪寺には十一面観音が若宮(大直禰子命)の神像とともに祀られていた。この十一面観音こそが、現在、奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院、聖林寺に安置されている国宝の十一面観音菩薩立像(奈良時代)にほかならない>

 なお、大御輪寺の本尊は十一面観音です。また、若宮である大直禰子(おおたたねこ)は、大物主神が麓の村に住む娘、イクタマヨリビメを娶って儲けた子どもです。

戊辰(慶応四)年の太政官布告

 神仏分離令については、次のように書かれています。

<近代の幕開けとともに始まった本格的な「廃仏毀釈」は、慶応4年(1868)3月13日、17日、28日に相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など、いわゆる「神仏分離令」により沸き起こることになる(p.061)>

<しかし神仏分離令には、神仏が混淆・混在している状態を改め、仏教的なものを「取り除け」とは書かれていても、「破壊せよ」などとは書かれていない。(略)結果的に一部の地域では、神域にあった仏像・仏画・仏具が壊され、隣接する神宮寺が廃寺になった>

 なお、元号は慶応4年9月8日に「慶応4年をもって明治元年とする」とされ、旧暦1月1日に遡って適用されているため、「東洋美術逍遥17」に書かれている「明治初年の神仏分離令によって」という表現も、間違いではないようです。ややこしいですね。

聖林寺十一面観音伝説

十一面観音立像が聖林寺に移された経緯については、和辻哲郎『古寺巡礼』の<実をいうと、五十年ほど前に、この像は路傍にころがしてあったのである(p.094)>という文章や白洲正子『十一面観音巡礼』の<発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことにきめたという(p.095)>という文章を引用した上で、<ほかに三輪の古老の話として、廃仏毀釈の際に大御輪寺の宝物や仏具類が、境内の池畔や初瀬川の川堤で焼き払われ、それが何日も続いた。また、川向こうの極楽寺の小堂に仏像が無造作にかつぎこまれたという言い伝えもある。しかし、こうした証言は、現在では廃仏毀釈の惨状を伝えるために脚色されたものだと考えられている(p.095)>としています。

 さらに、<聖林寺の当時の住職は、再興七世の大心という高僧だった。大心は東大寺戒壇院の長老で、また三輪流神道の正統な流れを汲み、三輪明神の本地として十一面観音を拝むことができる立場にあった。また大神神社から聖林寺に観音像を預ける旨を記した証文も残されていることから、大御輪寺の十一面観音は、神仏分離、廃仏毀釈の混乱を回避するのに最もふさわしい場所に遷座されたと考えられるのだ(p.095~096)>と付け加えています。

仏像そのものについては<背面には薬師如来一万体が描かれた板絵があったという。観音像は頭上の化仏(けぶつ)のうち三体を失っているが、かつては瓔珞(ようらく)に飾られ、華やかな天蓋の下に立っていた。光背(奈良国立博物館寄託)は大破しているものの、宝相華文(ほうそうげもん:唐草に架空の五弁花の植物を組み合わせた文様)をちりばめたものだったと想像されている。岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝物調査をおこなったアメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは明治20年に、聖林寺遷座後、秘仏になっていた十一面観音を目の当たりにし、文化財としての保護を提唱した。そして明治30年、旧国宝制度成立とともに国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度移管後にも、第1回の国宝24件のひとつに選ばれている(p.095~096)>とあります。瓔珞を辞書で調べると「珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。もとインドで上流の人々が使用したもの。仏教で仏像の身を飾ったり、寺院内で、内陣の装飾として用いる」とあります。お寺の本堂で、本尊の周りに下がっている金色の装飾ということですね。絢爛豪華な装飾に囲まれて鎮座していた様子が目に浮かびます。

最後に

本年6月22日から東京国立博物館で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」では、大御輪寺に祀られていた《地蔵菩薩立像》や《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》だけでなく、三輪山信仰に関する展示もあるそうです。(会期:9/12まで。その後、奈良国立博物館に巡回:2022.2/5~3/27)

Ron.