豊田市美術館 「モンドリアン展」 ミニツアー

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豊田市美術館で開催中の「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画を求めて」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。熱中症警戒アラートが発令されていたことなどから参加者は申し込みを下回り、11名でした。講堂で石田大祐学芸員(以下「石田さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。豊田市美術館の年間パスポートを持っている会員がいたので年間パスポートを持っていない参加者に「同伴者割引」が適用され、観覧券は団体料金(1400円→1200円)。このことは警備スタッフにも連絡が届いており、開館後速やかに対応できました。豊田市美術館の皆さま、ありがとうございます。

◆石田さんの解説(10:10~50)の要旨(注は、筆者の補足です)

・ハーグ派の風景画

 モンドリアンは、世界で初めて抽象画を描き始めた画家の一人。オランダ中部の地方都市アメスフォルト(アムステルダムの郊外)に生まれています。スライドはシモン・マリスの絵。自転車のハンドルに絵具箱を取り付け、どこでもスケッチできるように改造しています。モンドリアンは自転車で移動してスケッチを行い、アトリエに帰ってから風景画を描くというやり方で「標準的な絵」を描いていました。

 モンドリアンは、叔父のフリッツ・モンドリアンから絵を習いました。作風はバルビゾン派の影響を受けたハーグ派のもので、リアリズムの絵画です。ハーグ派は、小さなコミュニティーの中でよく似た作品を描いています。しかし、モンドリアンの絵は少し変わっていました。スライドは《田舎道と家並み》(1898-99年頃、No.3=注:作品名のNo.は作品リストの番号。以下同じ)。家が画面の上の方に描かれているので、手で画面の上半分を隠して下半分だけにすると、何が描いてあるかよく分かりません。(注:確かに、下半分だけだと抽象画のように見えます)

・点描の風景画

 スライドは《砂丘Ⅲ》(1908、No.34)。オランダの南の保養地(リゾート)ドンブルグで描いた作品です。次のスライドは《ウエストカペレの灯台》(1909、No.37)。ドンブルグにある灯台を描いたものです。その次は《オランダカイウ(カラー);青い花》(1908-09、No.37)。普通、カラーの花は白又はピンクですが、この作品の花は青色。照明を落とした状態で描いたものです。オレンジ色(注:中心の棒状の部分=小さな花が密集したものです)青色(注:花びらに見えるロート状の部分=苞、つまり小型の葉です)は補色関係なので、目がチカチカする描き方です。

 ドンブルグには点描の画家=ヤン・トーロップのコミュニティーがあり、ジョルジュ・スーラもいました。ヤン・トーロップの描いた農夫の絵を見ると、農夫は正面向きで窓の外には教会の高い塔が克明に描かれています。なお、モンドリアンの灯台や教会の絵も、下絵を見ると建物の外壁や窓を克明に描いています。

 この頃、モンドリアンは神智学に熱中しています。神智学はロシア出身のヘレナ・ブラヴァツキーがギリシャ哲学や仏教、バラモン教などの幅広い宗教や思想を参照しながら、宇宙や生命の神秘にたどり着こうとしたもので、オカルトブームの元祖です。ヤン・トーロップやモンドリアンは、神智学の説く崇高な力の象徴として、灯台や教会などの高い塔を描きました。

・キュビスムの風景画

1911年、モンドリアンはピカソやブラックとともにオランダでキュビスム風の展覧会を開催しました。スライドは《色面の楕円コンポジション2》(1914、No.43)。下絵には「KUB」と書かれた看板のある建物が描かれています。そして、この作品の画面右下にも「KUB」という文字が読み取れます。といっても「K」は一部が欠けていますが……。次のスライド《コンポジション 木々2》(1912-13、No.42)は、何を描いたのかよく分からないと思いますが、下絵を見ると二本の樹木を描いたものです。

キュビスムの作品は、人物画や静物画が多いのですが、モンドリアンは街の風景をキュビスムで描いています。「もともと、風景画家だったから」でしょうか。

このスライド《コンポジション(プラスとマイナスのための習作)》(1916頃、No.45)になると、斜めの線が無くなります。建物の正面を描いたものと思われます。

・補色の対比で画面を構成

《色面のコンポジションNo.3》(1917、No.46)は、白地に青・赤・黄の四角形を描いたものです。モンドリアンは、白地と四角形、補色関係の四角形といった対立関係にあるものは混ぜないで描いています。モンドリアンは「それぞれの色は対等であることが必要」と考えて、作品を制作しています。

《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》は、格子で囲まれた中を青・赤・オレンジで塗り分けたもので、モンドリアンは「特定の何かを描く」ことを避けて制作しています。

 《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》(1921、No.51)の黒い線は十字形がつながっているもので、画面を縦横に区切る線ではありません。それぞれの色面は隣の色面とのバランスを考えて色を塗っています。この作品では灰色が重要で、灰色の色面を見つめた後、隣の色面に目を移すと、その色が鮮やかに見えるような仕掛けを施しています。

・デ・ステイル

モンドリアンは、絵画だけでなく音楽や建築など、生活・芸術全般に関心があり、デ・ステイル(様式)というグループを立ち上げます。展示の最後にはデ・ステイルに参加した画家の作品や建築家ヘリット・トーマス・リートフェルトの作品も展示しています。写真撮影可能なエリアもありますので、お楽しみください。(以上で、解説の要約は終了)

◆自由観覧

石田さんの解説を聴いた後、展示室に入ると、日曜日ということで人出が多く、若い人が目立ちました。とはいえ、展示空間が広いので「密」という感じはありません。石田さんから「本展では展示空間を広く取りました」という説明がありました。どの入館者もマスクをして、お互いの距離を空け、静かに鑑賞しているので、安心して作品を楽しむことができます。ただ、「参加者で小さなグループを作り、小声の会話の楽しみながら鑑賞する」という「以前の鑑賞スタイル」ができないことは、少し寂しいですね。

帰り際、1階と2階をつなぐ大階段で、にぎやかに撮影会?をしている若者のグループがいました。

◆愛知県美術館「点描の画家たち」ミニツアー(2014.03.21)の思い出

石田さんの「補色関係」という言葉を聴いて、2014年3月21日開催の愛知県美術館「点描の画家たち」鑑賞の協力会ミニツアーを思い出しました。「点描の画家たち」はクレラー=ミュラー美術館のコレクションによる展覧会で、愛知県美術館・中西学芸員の解説では、オリジナルコンセプトは「点描」「新印象派」ではなく「分割主義」。分割主義は「色を純粋色に分割して並置する」ということであり、明るく鮮やかな色彩とするため「絵の具を混ぜるのではなく、カンバスの上に並べて、網膜上で一つの色と認識させる」というもので「補色の組み合わせで色彩の鮮やかさを強める手法」とのことでした。

展覧会名は英文表示で ”DIVISIONISM FROM VON GOGH AND SEURAT TO MONDRIAN” =「分割主義 ゴッホ スーラからモンドリアンまで」。「分割主義」の原理で制作されたゴッホやフォーヴィズム、モンドリアンの作品までを5部構成で展示していました。そのうち、第4部はベルギーとオランダの画家の作品。初めて目にするものばかりでした。メモによればヤン・トーロップの作品も見たはずなのですが、記憶にございません。第5部がモンドリアンの作品。ハーグ派の風景画、キュビスムの風景画、白地に四角形を配置した作品、グリッドで囲まれたコンポジションの4点が出品され、後半の2作品は「色を純粋色に分割して並置する」という分割主義の方法に従った作品でした。当時のメモには「モンドリアンの作品は額まで一体となっているので、大きな額の中に額に入った絵があって面白い」と書いてあります。本展でも、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》について、ミニツアーの参加者から「大きな額の中に、額に入った絵がある」と指摘され、「なるほど」とその着眼点に感心しました。それは良いのですが、当時のメモに記した発見が、記憶からすっぽりと抜け落ちていたことにガックリした次第です。

     Ron.

読書ノート「名画レントゲン」(20)秋田麻早子(週刊文春2021年9月2日号)

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◆ 堅実な人生を土台にした古き良き思い出  グランマ・モーゼス「美しき世界」(1948)

名画レントゲン(20)は、名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」(以下「本展」)に出品されている《美しき世界》を取り上げています。以下は、記事の抜粋です。

〈通称グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)で知られるアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスは、80歳代で売れっ子の画家になった物語がひとり歩きしがちですが、彼女の作品はそんな背景を知らなくても魅力あふれるもの。(略)モーゼスはドラッグストアで自作のジャムや漬物と一緒に絵も売り物として並べていました。でも売れるのはジャムや漬物だけの日々でしたが、モーゼスが78歳になる1938年、たまたまやってきた美術コレクターのL・カルドアが心惹かれて一枚あたり数ドル、現在の価格でも数十ドル相当の値ですべて買い上げたのが事の始まり。そこからカルドアが奔走し、画商O・カリア、IBM創業者T・J・ワトソンらモーゼスを応援する人々が集まり、現在へと続く名声が生まれました。(略)モーゼスの人気が高まる時期は、アメリカが1929年からの世界恐慌から立ち直り、第二次世界大戦が勃発し参戦していくときで、古き良きアメリカが少しずつ変化していくときでもありました。モーゼスは自分が経験したことの記憶から絵を作り上げ、電柱などの現代的なものは意図的に省いています。細部を描きつつシンプルな画風だからこそ、人々は彼女の絵に思い出を重ねて見ることができます。それは描かれた思い出の美しさの土台に、モーゼスという人が一歩ずつ堅実に踏みしめてきたリアルな人生があるからこそです。(略)モーゼスの絵を見ていると、思い出と希望がわき起こってくるようです。〉引用終り

◆ 協力会向け解説会(2021.07.25)の思い出など

 引用した記事の内容は、協力会向け解説会でも聞きました。《美しき世界》について、井口智子学芸課長は「『どんな絵がいちばん好きですか?』とインタヴューで聞かれた時、『きれいな絵』と答えています」と、紹介しています。展示室で作品と向かい合った時、記事のとおり〈思い出と希望がわき起こってくる〉感じがしました。解説会に参加した協力会員も、同じ感覚を覚えたようで「展覧会に来てよかった」と感想を漏らしていました。

 解説会では値段を聞き漏らしたのですが、<1938年、たまたまやってきた美術コレクターのL・カルドアが心惹かれて一枚あたり数ドル、現在の価格でも数十ドル相当の値ですべて買い上げた〉というのは、すごい話ですね。日本円に換算すると一枚数千円です。タダに近い値段で買い上げられても、〈モーゼスを応援する人々が集まり、現在へと続く名声が生まれました〉というのは、まさにシンデレラ。「アメリカン・ドリーム」の体現です。

 記事は〈モーゼスはドラッグストアで自作のジャム〉を売っていたと書いていますが、解説会では「アップル・バター」の紹介がありました。アップル・バターはリンゴだけを煮つめて作ったペーストです。ジャムの仲間ですが、雰囲気は日本の「あんこ」でした。ドラッグストアで売っていたのは、アップル・バターだったかもしれないですね。

 本展の会期は9月5日(日)まで、会期末が迫っています。再度引用しますが〈モーゼスの絵を見ていると、思い出と希望がわき起こってくるようです〉とのこと、お見逃しなく。

 Ron.

展覧会見てある記「ANIMALS 2021 IN TOYOHASHI三沢厚彦」豊橋市美術博物館

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豊橋市美術博物館で開催中の「ANIMALS 2021 in TOYOHASHI 三沢厚彦」(以下「本展」)を見てきました。皆さんお馴染みのクマ、ライオン等の大型動物の木彫作品だけでなく、ヤモリ等の小型動物や抽象彫刻、油彩も出品されています。夏休み中なので家族連れが多く、子どもたちが作品を楽しんでいる様子を見て頬が緩みました。子どもたちの良い思い出になると、いいですね。

Ⅰ BEARS(第1会場=第1企画展示室)← 撮影可能

 第1会場に出品されているのは、全てクマ。白、黒、茶色と色も様々で、寝転んでいるクマもいます。彫刻だけでなく、パネルに描かれたクマもいます。どのクマも「猛獣」という雰囲気はなく、「クマのプーさん」や「パディントン・ベア」のような愛嬌があります。動物園の生きているクマとは違い、人間みたいな雰囲気も持っているので安心して鑑賞できるのでしょう。

Ⅱ 動物大行進(第2会場=第2企画展示室)← 撮影不可

 第2会場では、入口から出口に向かってゾウ・キリンからネコ・ウサギに至るまで大小の動物が並んで行進していました。壁にはテナガザルがぶら下がっています。パネルも多数飾られて壮観ですが、残念ながら撮影不可。動物がひしめき合っているので、写真撮影を許可すると、接触事故があってもおかしくないと感じました。

北ラウンジ ← 撮影可能

ユニコーン、フェニックス、ミミズク
ミミズク

 普段は三沢厚彦のウサギを展示している北ラウンジには、ユニコーン、フェニックスとミミズクを展示。茶色のクマと追い出されたウサギは、ラウンジの外からこちらを見ていました。

Ⅲ 過去×現在(第3会場=特別展示室)← 撮影可能

 会場に入ると、サメが大きな口を開けています。その奥にはカラフルなヒトウマ。ここには初期の《彫刻家の棚(画家へのオマージュ)》から最近の抽象彫刻までが出品されており、作品点数が一番多い部屋です。ミミズクやネコなどの小動物の彫刻が多数展示され、カーペットの上には、豊橋公園で拾った石に着色した、見落としてしまうほど小さなウサギもいました。小さなウサギのことは、案内の女性が教えてくれた話。出品リストには掲載されていません。

Ⅳ ホワイトアニマル他(第4会場=第3企画展示室)← 撮影可能

カモシカ、アイベックス

 第4展示室ではライオン、カモシカとアイベックスが目を引き、第5展示室では空想上の動物であるキメラ(有翼で、尻尾はヘビ)と麒麟の存在感が圧倒的です。

キメラ
後ろ姿

◆最後に

本年9月18日に名古屋市美術館で開会する「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」も、本展と同じく動物彫刻の展覧会です。チラシには〈ポンポンは入念な観察にもとづいて、動物の体つきや動きの核心をつかみ、形を磨き上げることでその魅力を引き出しました〉と書いてあります。チラシに印刷されている《シロクマ》や《大黒豹》は、シンプルなのに今にも動き出しそうな感じです。これに対して、三沢厚彦の動物彫刻は、我々が持っている動物のイメージを形にした作品。ポンポンとは対照的な作風ですね。作風の違う二人の作家の展覧会を続けて鑑賞できるという機会は、滅多にありません。「フランソワ・ポンポン展」の開会が、今から楽しみです。

Ron.

展覧会見てある記 名古屋市美術館「名品コレクション展 1(前期)」

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名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」を見た後、地下1階に降りて「名品コレクション展」を見てきました。その中で目を引いたのが「現代の美術」に出品されていた、三木富雄《耳》(1972)です。名古屋ボストン美術館・館長を務められた馬場駿吉氏所蔵の、アルミ合金で出来た手のひらサイズの「耳」の彫刻を展覧会で見た記憶はあるのですが、名古屋市美術館で大きなサイズの彫刻を見るのは初めてでした。美術館の人に聞くと「前にも展示したことがありますよ」との返事。ネットで調べると、2012年の「名品コレクション展Ⅰ(前期)」(4/7~5/20)に出品された記録があります。そうすると「田渕俊夫展」のときに見たはずなのですが、全く記憶にありません。当時は、三木富雄《耳》に対する関心が無かったということですね。

◆ 今回、《耳》に目が止まった理由は

2012年の展示を見たはずなのに記憶がなく、今回になって惹きつけられたのは何故か?それは、現代美術作家・杉本博司氏(NHK大河ドラマ「青天を衝け」の題字を書いています)の「私の履歴書」(2020年7月に日本経済新聞へ連載)を読んだからです。杉本博司氏は1970年代半ばにニューヨークに移り住み、篠原有司男、オノ・ヨーコ、荒川修作、河原温などの作家と交流しますが、一番親しくなったのが三木富雄でした。「私の履歴書」第12回は、次のように書いています。

〈三木富雄は「耳の三木」と呼ばれ、耳の彫刻をアルミで作っていた。「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」。これは当時語り草になった。(略)三木が帰国するまでの1年間、多くの時を共に過ごした。(略)三木は私に、「僕は粘土で耳を作りながら壊していく。その過程を写真に撮ってくれ」という。(略)私は意気投合して撮影したが、この作品が後に思わぬ展開を生むことになる。〉(引用終り)

「私の履歴書」第16回の概要は、以下のとおりです。

〈1977年1月、長男の慧が生まれた。(略)私は5年ぶりに、妻と初孫の顔を両親に見せるためもあって帰国した。(略)三木富雄は先に帰国していて、私との共同制作作品を、南画廊の志水楠男氏に見せて、展覧会の開催を迫っていた。(略)ところが志水さんは、記念写真だけで売り物のない展覧会はできないと突っぱねたのだ。失意の三木富雄は、それでも私の帰国に合わせて志水さんを訪ねるよう約束を取ってくれた。私は白熊のシリーズと映画館の新作を大きなポートフォリオケースに入れて、南画廊に持ち込んだ。中に入ると志水さんと美術家のリー・ウーファン氏が歓談していた。(略)1作品ずつゆっくりと、志水さんは魅入られるように見た。私の説明を聞きながら、志水さんの顔が上気してくるのがわかった。(略)19作品を見終わると、志水さんはおもむろに手帳を広げた。いつ展覧会を開こうかというのだ。ちょうど2週間後に2週間の空きがある。カタログも作ろう、というのだ。驚いたのはリーさんと私だった。(略)三木富雄が会場に顔を出すことはなかった。そして8カ月後、京都で急死した。その死はジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスのような、不摂生の極みによるものだった、享年41。私は大切な友人を失った。そしてその翌79年。今度は志水さんも他界してしまった。私は大切な画商を失った。〉(引用終り)

三木富雄氏の斡旋で杉本博司氏は現代美術家としてデビューするチャンスをつかんだ一方、三木氏富雄は展覧会が開催できず、京都で急死。二人の人生は、明暗が分かれてしまいました。

「私の履歴書」第16回を読み「グランマ・モーゼス展」の協力会向け解説会で聴いた話を思い出しました。グランマ・モーゼスも作品を置いていたドラッグ・ストアでアマチュアのコレクターに見出され、彼の仲介により画廊を経営するオットー・カリアーと出会うことで、画家のスタートを切りました。ベストセラーになった彼女の自伝『私の人生』もオットー・カリアーの勧めで出版したものです。画家が世に出るには、画商の存在が欠かせないということですね。蛇足ながら、ネットで調べたところ、馬場駿吉氏が三木富雄氏の耳の彫刻を買ったのも南画廊だったそうです。

Ron.