映画「AALTO」(2020年制作 フィンランド映画)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.10.19 投稿

現在、伏見ミリオン座で上映中の映画「AALTO」(以下「映画」)を見てきました。世界的な建築家アルヴァ・アアルト(Alvar Aalto:1898-1976)と二人の妻アイノ(Aino Aalto:1894-1949)、エリッサ(Elissa Aalto:1922-1994)の人生を、彼らの仕事と手紙で構成したドキュメント映画です。

2018.12.8~2019.2.3に名古屋市美術館で「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」(以下「アアルト展」)が開催されましたが、この映画でアアルト展の展示風景がよみがえりました。

◆映画の内容

全体を、① 冬戦争の開戦まで、② アイノの死去まで、③ アルヴァの死去まで、の三つに分けて大まかな内容をご紹介します。

① 冬戦争の開戦まで

アルヴァは1923年に自分の事務所を開設。彼は1924年に自分の事務所で働き始めたアイノと、同年に結婚。映画は二人の結婚から始まります。

最初に出てくる映像は初期の代表作「パイミオのサナトリウム」(1933年竣工)と「ヴィープリの図書館」(1935年竣工)です。「パイミオのサナトリウム」の映像では、森に囲まれた白い建物や部屋の様子がよく分かります。アルヴァが病気で入院した時に得た体験を、サナトリウムの建物だけでなく建具や洗面台、家具にも生かして設計した、というナレーションが入りました。また、利用者が日光浴するために設計したアームチェアを《パイミオ・チェア》(1932年設計)として販売したということです。《パイミオ・チェア》はアアルト展に出品されていました。

「ヴィープリの図書館」の映像は、建物ガイド(と思われる女性)が図書館の採光などを子どもたちに説明する様子や、建物の外観、講堂の内部などでした。アアルト展の図録(p.82~83)によれば、第二次世界大戦時にフィンランドはソ連と交戦。戦後、ヴィープリはソ連の領土となりました。図書館の保存状態を危ぶんだフィンランドは、2010年に650万ユーロを図書館の保存修理のために準備。その後、当初の図面に基づく補修工事が行われ、2013年11月に再開館したとのことです。外国が所有する図書館の補修のために多額の資金を提供するほど、この図書館は「フィンランドの誇り」だということですね。

映画では、アアルト展に出品された三本足の丸椅子《スツール60》(1933年設計)の映像も登場します。家具職人のオット・コルホネンが工房で製作し、75%がイギリスに輸出された、とのことでした。1935年にはアアルト夫妻始め4人メンバーで、家具の販売とモダニズム文化の促進を目的とするアルテック(Artek)社を設立。1936年にはアイノの設計による花瓶《アアルトベース》の販売を開始しています。この時期、家具がアアルト夫妻の生活を支えていた、というナレーションが入りました。

夫妻は、1937年にパリ万国博覧会フィンランド館に曲木の家具を出品、1938年にはニューヨーク近代美術館で個展「アルヴァ・アアルト-建築と家具」を開催しています。1939年に、夫妻はニューヨーク万国博覧会のフィンランド館を手がけ、アメリカで広く知られるようになりました。この時に、モホイ・ナジがシカゴに開校したバウハウスも訪問しています。

ところが第二次世界大戦が勃発すると、ソ連が1939年11月にフィンランドに侵攻(冬戦争)。アルヴァは1918年のフィンランド内戦に従軍していたので、冬戦争でも従軍しました。

〈補足〉冬戦争と継続戦争(「北欧史」山川出版社 2004.02.25  1版3刷 p.352~355の要約)

第二次世界大戦中にフィンランドとソ連の間で戦われた冬戦争と継続戦争について映画は、あまり触れていないので補足します。

冬戦争(1939.11.30~1940.03.12)

1939年9月にドイツがポーランドを攻撃して第二次世界大戦が始まると、ソ連は11月30日、大軍を動員してフィンランドに軍事攻撃を開始。しかし、フィンランド国民の挙国的抵抗の前にソ連軍は多大の損害を受けました。また、国際世論がソ連を非難して国際連盟から除名。イギリス・フランスも、フィンランド救援を名目としてスカンディナヴィア半島経由でドイツを衝く動きに出たため、ソ連は方針を変え、1940年3月12日、フィンランドとの休戦に応じ、「冬戦争」は終わりました。

しかし、フィンランドは亡国こそ免れたものの、カレリア地峡その他領土の10分の1をソ連に割譲し、かつソ連がハンコ岬に駐留するという状態におかれました。

継続戦争(1941.06.25~1944.09.19)

1941年6月22日にドイツ対ソ連の戦争が始まると、ソ連軍はフィンランド国内に入っているドイツ軍に対して各地で空爆を開始。フィンランド政府は、6月25日に対ソ連戦争に踏み切りました。この二度目の対ソ戦争について、フィンランド政府は「冬戦争の失地回復をめざした継続戦争にすぎず、ナチス・ドイツが戦う対ソ戦争とは別個のものだ」と主張。「継続戦争」の前線では、1942年以来膠着状態が続いていましたが、44年6月、カレリア戦線でソ連軍が一大攻勢に出ました。リュティ大統領は、単独不講和を要求してフィンランドを訪れたドイツ外相リッペントロップに個人の責任で協定を結び、巧みにドイツから武器援助を取りつけてソ連軍の攻勢を食い止め、これを機にフィンランドではマンネルヘイム元帥がリュティに代わって大統領となり、9月19日にソ連との休戦を実現しました。

② アイノの死去まで

継続戦争終結後の1945年、アルヴァはマサチューセッツ工科大学(MIT)に長期滞在し、フランク・ロイド・ライト(1867-1959)とも交流します。1946年にはMITの客員教授に就任し、MITのベーカーハウス学生寮の設計も受注。アルヴァの渡米中、事務所はアイノが仕切りましたが、その体は病に蝕まれていました。アルヴァは社交的な人物だったので、MITに滞在中は講義終了後、MITの同僚と飲食を共にし、翌朝の講義に遅れて出ることがあった、というナレーションが入りました。単身赴任なので、大いに羽根を伸ばしたということでしょうね。1948年、夫妻はイタリア旅行を楽しみましたが、その一か月後の1月13日にアイノは、夫と二人の子どもを残し、癌のため55歳で死去します。

③ アルヴァの死去まで

アルヴァにとって、公私ともにパートナーであったアイノの死去は大きな痛手でしたが、1952年にエリッサ・マキニエミと結婚します。彼女は、1950年にアルヴァの事務所へ入所した建築家でした。再婚後も夫妻の自宅にはアイノの写真が残され、エリッサはアイノの影に囲まれながら生活していたとのことです。結婚後のエリッサは、だんだんとアイノに似ていき、仕事上のパートナーとしてもアルヴァを支えた、とのナレーションが入りました。

再婚後、アルヴァは建築の手法を実験するためのムーラッツァロの実験住宅(1954年竣工)や新しい自邸兼仕事場のアアルト・スタジオ(1955年竣工)を建て、仕事場の環境整備を図ります。

アルヴァが手がけた主な仕事は、ヴェネツィア・ビエンナーレのフィンランド館(1956年竣工)、国民年金協会ビル(1956年竣工)、文化の家(1958年竣工)などです。ただ、国民年金協会ビルについて、その豪華さは評判が悪く「まるでホテル」と批判された、とのことです。アルヴァはヘルシンキ中心部の都市計画にも取り組みますが、完成したのはフィンランディアホール(1971年竣工)だけでした。

1960年代のアルヴァは「老建築家」「資本主義の建築家」と評されるようになり、国際的評価は上がっていくものの、国内の評価は下がり続けます。また、晩年は飲酒により健康状態を悪くします。最後のアメリカ旅行(1967年)では飛行機に乗る前から酒を飲み始め、飛行機の中では泥酔状態だったとか。

アルヴァは生涯現役のまま、1976年に78歳でその生涯を終え、その死後は、エリッサが所長としてアルヴァが残した仕事を引き継ぎ、完成させていった、とのことでした。

感想

建築をテーマにした展覧会は、建物そのものの展示は出来ないので、主に図面や模型、写真の展示となります。アアルト展も同様でしたが、この映画で建物のイメージをつかむことが出来ました。

Ron.

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