「女性の服飾文化史 新しい美と機能性を求めて」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

日置久子 著 西村書店 2006年9月15日初版第1刷発行

投稿 2023.01.16

今回ご紹介するのは、今年に入って3冊目の、女性の服飾文化史に関する本です。フランス革命前後から現代までの服飾文化史について書いているので、「マリー・ローランサンとモード」で展示される前後の時代のモードについても触れます。(注:p.○は、該当ページを表します)

1 「マリー・ローランサンとモード」以前の女性服

(1)フランス革命前後のモード

フランス革命前の女性服は、装飾過多で細いウエストの胴着を着て、パニエ(スカートを膨らませる籠型)で膨らませた大きなスカートを着けていましたが(p.11)、革命期にはパニエ、コール・ピケ(ウエストを締める胴衣)、ヒップ・パッド(腰当)などの人工的なものを身に着けないイギリス調のシンプルなドレスになり(p.16)、第一帝政期にはネグリジェかランジェリーのように見える、ギリシャ・ローマ風スタイルのシュミーズ・ドレスが流行します(p.44)。大きな変化ですね。

(2)ロマンティック・モード

第一帝政が崩壊し王政復古となると女性の服装は貴族風になります。胴は細く、スカートは釣鐘型、袖は上部が大きく、肘から手首にかけて細くなります(p.54)。1830年を過ぎる頃からドレスの肩幅が狭まり、1840年代に入ると、袖は余分な膨らみがだんだん無くなって、細くなります(p.56)。

1857年には、クリノリンと呼ばれる、細い針金で出来た半球型のフープ(枠)が登場。クリノリンは大量生産され安価だったため、家政婦や農婦にまで行きわたります(p.59)。クリノリンの流行は1860年代末まで続きますが、1868年には、スカートの後部に強調部分がおかれる半クリノリンに変化。19世紀末には、スカートの後ろにバッスル(籠)を入れて腰を膨らませる、バッスル・スタイルが流行します(p.86)。なお、明治時代に鹿鳴館で女性が着たのは、バッスル・スタイルです。

(3)アール・ヌーヴォー・スタイル

19世紀末から20世紀初期にかけては、アール・ヌーヴォー・スタイルが流行。女性服のシルエットはバッスルによる人工的な膨らみから解放され、ウエストが細く、バストとヒップを目立たせるSカーブ・ラインに変わります(p.156)。

2 「マリー・ローランサンとモード」の女性服

(1)ジャポニスム

1900年にパリ万国博覧会で着物姿が話題となり、「キモノ・サダヤッコ」「ジャパニーズ・ガウン」などと名づけられた着物風の室内着が売り出されます。「体を締めつけない女性服」の復活でした。

ア ポール・ポワレ

ポール・ポワレも1903年、着物にヒントを得た女性服を制作します。直線的な裁断で、自然なゆるやかさのある、日本風の衣装です。ポワレは女性をコルセットから解放し、Sカーブ・ラインのスタイルをストレート・ラインに変えます。ストレートなキモノ・スリーブを着け、着物風の打ち合わせを取り入れました(p.160)。ポワレの周辺に集まった画家は、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサンなど。彼の邸宅は優れた近代絵画のコレクションで飾られていました(p.163)。「マリー・ローランサンとモード」でポワレがデザインした作品が展示されるのも納得です。

しかし、全盛期を過ぎたポワレは、1925年のアール・デコ展で全財産を使い果たし、まもなく破産。再起することはありませんでした(p.177)。

 

イ マドレーヌ・ヴィオネ

 マドレーヌ・ヴィオネは第一次大戦後、着物にインスピレーションを得て、平面性とゆとりを特徴とする直線裁断の服をデザイン、さらにバイアス・カットで自由なデザインを発想します(p.160)。

(2)ギャルソンヌ・スタイル

「ギャルソンヌ」とはフランス語の「ギャルソン(少年)」を女性形にした言葉です。第一次大戦後、理想的なタイプが、肉感的な女性から、バストとヒップが平たく、脚線美のスリムな女性に変化。テーラード・スーツやコート、短いシュミーズ・ドレスが好んで着用され、これを「ギャルソンヌ・スタイル」と呼ぶようになります(p.180)。しかし、1930年代までにギャルソンヌ・スタイルは完全に姿を消して、女性服に体の自然な曲線がよみがえり、成熟した女性のスタイルに復帰。スカート丈も長くなります(p.187)。

(3)ガブリエル・シャネル

ア 第一次大戦前

ガブリエル・シャネル(1883-1972)は、1910年にパリのカルボン通りに帽子店を開店。当時、帽子は服よりも重要なアイテムでした。1913年にはビーチ・リゾート、ノルマンディーのドーヴィルにブティックをオープン。スポーツ好きのシャネルが考案した新しい服は飛ぶように売れました(p.191)。

イ 第一次大戦中

シャネルは裁断や縫製が簡単なジャージー(ニット生地)を使って、女性服をつくり始め、1916年5月、モード雑誌にジャージー・スーツを掲載します(p.192)。

ウ プティット・ローブ・ノワール(英語では、little black dress)

 1926年、米国の『ヴォーグ』誌10月号は、ギャルソンヌ・スタイルに近い黒いシュミーズ・ドレス(little black dress)を、一種の“ユニフォーム”になるだろうと予言します。それは、2-3メートルの生地で出来る、大量生産向きのデザインでした。コピーされてもそれが普及すればビジネスは成功すると信じ、シャネルはコピーを許していました(p.194)。

3 「マリー・ローランサンとモード」以後の女性服

(1)クリスチャン・ディオール

1947年にクリスチャン・ディオールが披露した「ニュールック」は、すっきりと目立つバストライン、細いウエスト、たっぷり広がったロングスカート、豪華な生地を贅沢に使い、洗練したスタイルで登場します(p.209)。

服飾史から見ると、ニュールックは18世紀のパニエ・スタイル、19世紀のクリノリンに通じる伝統的なスタイルでした。この古くて新しいスタイルは、第二次大戦中のミリタリー・ルックや実用服に飽きていた女性たちには、この上なく新鮮に見えました。しかし、終戦直後の、品不足の貧困生活に喘いでいる人々にとっては贅沢極まりないもので、激しい反感を買いました(p.211)。

(2)ガブリエル・シャネル、71歳の再登場

1939年に香水とアクセサリー部門だけ残して閉店したシャネルですが、第二次大戦後の1954年、71歳で再登場します。復活の理由は「クリスチャン・ディオールの独裁を排除するため」でした。

実用性と機能性とプレーンさを重視したシャネルには、ディオールのコルセットで固めた、着にくい服を黙認することはできませんでした。彼女が発表したコレクションは英仏では不評を買いましたが、米国のモード記者たちは絶賛。ツイードの襟なし、ブレード縁取りのシャネル・スーツは、応用範囲の広い、キャリアウーマンのためのスーツでした(p.195)。

Ron.

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