秋のツアー2018(九州美術館巡り)第1日

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

11月17日(土)から18日(日)までの2日間、名古屋市美術館協力会の秋のツアーに参加しました。
今回のツアーは協力会設立30周年記念。奮発して九州まで足を伸ばしました。JR博多駅まで新幹線で往復し、JR博多駅からはバスツアー。現地発着の参加者もいました。20周年記念のツアーの目的地は沖縄だったそうです。
参加者は23名。2名は現地発着なので、21名がJR名古屋駅に集合。JR博多駅で現地発着の2名と合流。ロスタイムは無く、幸先の良いスタートとなりました。

お昼ごはんは、釣りが出来るお店?

お昼ごはんは、釣りが出来るお店?


◆昼食は船から釣りができるお店(福岡市中央区)
 バスに乗って20分ほどで昼食会場に到着。道を隔てて福岡市鮮魚市場が見えます。バスガイドさんによれば「長浜の屋台エリア」も近いそうです。昼食会場は「釣船茶屋 ざうお」という名のとおり、倉庫のような建物の中に釣り堀。床には2艘の大きな船が置かれ、船から釣りが可能。魚が釣れると景気づけの太鼓が店内に響きます。我々が通されたのは船が見える部屋でした。昼食終了後は福岡市博物館(以下「市博」)へ。
福岡市博物館にて、金印を見る

福岡市博物館にて、金印を見る


◆福岡市博物館(福岡市早良(さわら)区)
市博のお目当ては国宝「金印」です。
◎福岡はアジアへの玄関口
市博では学芸課長(以下「課長さん」)さんが出迎えてくれました。福岡市が中心に描かれた円形の地図がある部屋に通され「福岡は大阪より釜山の方が近い、アジアへの玄関口」との解説。次は、いよいよ国宝「金印」です。市博の目玉とあって、国宝「金印」には特別ルームが用意されていました。
◎国宝「金印」について
以下は課長さんの解説の概要です。
・国宝「金印」のサイズ・重量など
国宝「金印」は一辺2.3cm、重さ108グラム、純度は約95パーセント。当時の技術としては最上の純度です。以前に3億円という鑑定をもらっていますが、金地金なら時価50万円ぐらいの価値です。
・「漢委奴國王」の読み方
現在は、国宝「金印」に彫られている「漢委奴國王」を「かんのわのなのこくおう」と読むのが普通ですが、江戸時代は「かんのいとこくおう」と読むのが主流でした。「委奴」を「いと」と読んだのです。
・金印保存の立役者、亀井南冥(かめいなんめい)
国宝「金印」が志賀島で見つかったという話は、ご存知のことと思います。お殿様に金印が献上された時、黒田藩内には「溶かして使ったらいい」という意見もあったようです。これに対し、漢代の古典に精通していた黒田藩の儒学者・亀井南冥が金印の価値を認め、全国の学者に金印の発見を知らせて意見を求めました。全国から様々な論考が届いた結果、金印が保存されることになりました。
・金印は機密保持に使用
金印は公文書の機密保持のために使用されました。当時の公文書は木簡や竹簡に書きました。これを蓋付きの容器に入れ、紐をかけて運びます。しかし、紐をかけて結んだだけでは、途中で結び目を解(ほど)かれる恐れがあります。公文書が盗み見られても、紐を結び直せばバレません。そこで、機密保持のために紐の結び目を粘土で封をした上で印を捺(お)しました。これを「封泥(ふうでい)」といいます。封泥をした公文書は紐を切らないと見ることができません。これで盗み見を防止できます。また、封泥した時に文字が浮き出て見えるよう、金印の文字は凹んでいます。
・素材と鈕(つまみ)
 印は持ち主の地位に応じた材料で作りました。最上級は玉印、皇帝が使います。金印は王、銀印は太守、銅印はその下の地位の者が使います。鈕も皇帝は龍、漢の本国は亀、国宝「金印」は蛇です。蛇鈕(だちゅう)は南方の民族に与えられたものですが、国宝「金印」の蛇鈕は他の蛇鈕金印とは形が違うので「馬の鈕だった金印に手を加えたものではないか」という説があります。
◎日本で動く一番古い車「アロー号」
課長さんから「日本で動く一番古い車の『アロー号』を是非ともご覧ください。大正5年に矢野倖一が製作したものです。その後、矢野は特殊自動車の開発に進み、現在は矢野特殊自動車となっています」との解説があったので、見に行ったところ、手作り感いっぱいの自動車でした。
「アロー号」の隣には、昭和初期のカフェを再現した「カフェ・ドュ・ミュゼ」があります。
◎戦国時代末期の戦乱で荒廃した博多を豊臣秀吉が再興
 国宝「金印」から「アロー号」まで行く途中で、「九州平定後の豊臣秀吉は、戦乱で荒廃していた博多の復興に着手する。これが、後世に『太閤町割(たいこうまちわり)』と呼ばれる大規模な区画整理で、直線的な幹線道路と街路によって整然とした街区を形成したのである」という説明が気になって立ち止まりました。この外、大宰府の外交施設「鴻臚館(こうろかん)」も気になりましたが、時間不足でパス。帰宅後に調べると、鴻臚館は対外交易の拠点となった施設で、熊本城の敷地内に「鴻臚館跡展示館」があるようです。
◎黒田家名宝の大身鎗・名物「日本号」
 黒田節に出てくる「呑み取りの鎗」=「日本号(にほんごう)」が「黒田家名宝」の展示室にありました。 柄を含めた総長が321.5㎝,刃の長さ79.2㎝、柄は螺鈿という立派な鎗です。「刃の傷は実戦に使われたため」という解説がありました。しかし、鎗の装飾があまりにも豪華なので「本当に使ったの?」と首を傾げる人もいました。

◆ニキ・ド・サンファル作の巨大な像《大きな愛の鳥》
福岡市博物館から福岡都市高速の百道ランプに向かう途中、バスの車内で突如「あれは何?」という歓声がおこりました。右手にカラフルな物体が見えるのです。ツアーに同行をお願いした名古屋市美術館・学芸係長の保崎さんがスマホで調べ「ニキ・ド・サンファルの《大きな愛の鳥》です。名古屋市美術館で開催したニキ・ド・サンファル展で模型を展示しました」と、マイクで回答。《大きな愛の鳥》は福岡市中央区・地行中央公園に設置されたオブジェでした。予定になかった作品で、ツアー参加者は得した気分になりました。

◆太閤町割(福岡市博多区)
バスが福岡都市高速の高架を走行中、バスガイドさんが「下に見えるのは博多の街です。きれいな碁盤の目になっていますね。これは秀吉の太閤町割で出来たものです」という解説がありました。市博の常設展で知識を得た「太閤町割」を現地で確認することができました。

吉野ヶ里遺跡群

吉野ヶ里遺跡群


◆吉野ケ里歴史公園(佐賀県神崎郡)
 バスが吉野ケ里歴史公園(以下「公園」)に到着したのは午後3時10分。ガイドボランティアさんの案内で吉野ケ里遺跡を約1時間見学しました。以下はガイドボランティアさんによる説明の概要です。なお、(注)は私の補足。
◎ガイドボランティアさんの解説
・環濠入口広場で
公園は神崎工業団地の建設予定地でした。しかし、1986(昭和61)年から始まった発掘調査で弥生時代の大規模な環濠集落が発見されたため、工業団地の建設は中止されました。(注:その後、歴史公園として整備され、国営公園約52.8ha、県立公園約51.2ha、総面積104haが開園しています)公園のマスコット・キャラクターの名前は「ひみか」と「やよい」。卑弥呼(ひみこ)ではありません。
吉野ケ里遺跡のある地域は、北に背振山地(せぶりさんち)があるため北風がさえぎられ、川が流れて水の便もある住みやすい土地です。公園内の建物は、北内郭と南内郭は弥生時代後期、北墳丘墓は弥生時代中期を想定して復元しています。それでは、南内郭に向かいましょう。(注:環濠入口広場から進むと二本の門柱の上に横木を載せた門があります。門の横木の上には木製の鳥形3羽が見えます。左の草むらには木製のイノシシが3頭、我々を睨んでいました)
・南内郭の入口で
この門が南内郭の入口。門の周囲から鳥形が発見されているので、横木に鳥形を載せました。この門の形は鳥居の原型と思われます。集落の周囲を環濠と丸太を連ねた塀で囲み、外敵やイノシシ、シカなどの野生動物を防いでいます。当時は人間の数よりもイノシシやシカのほうが多かったのです。今、渡ってきた橋ですが、公園来場者のために設置したもので、当時は存在していません。それでは、展示室に行きましょう。そこで、説明の続きをします。(注:展示室に入った所には土器が展示されていました)
・展示室で
皆さんの目の前に、弥生時代を代表する三種類の土器があります。左の甕(かめ)は煮炊きに使います。中央の壺は弥生時代中期から作られた土器で穀物などの貯蔵に使い、右の高坏(たかつき)には果物などの食料を盛りました。当時は、各人が高坏から食物などを取り、葉などにのせて食べていました。弥生時代の後期になると食料を一人一人に取り分けるための銘々器が作られます。
土器は、その周りに薪を積み、野焼きで焼成していました。その後、薪の上に土をかぶせてから焼くようになります。そうすると、温度が1000度ぐらいまで上がります。土器が透けるように見えてきたら焼き上がりのサインです。土器の彩色には鉄サビをつかいました。
炭化したコメを見てください。いろいろな種類のコメが混ざっていますね。当時は、稲穂の高さや収穫時期の違う稲を一緒に栽培していました。稲穂の高さがちがうので、稲の収穫は稲穂だけを摘み取っていました。「穂摘み」といいます。収穫の道具は石包丁。石包丁に開けた二つの穴に通した紐に指をかけて稲穂を摘み取ったと思われます。
イノシシやシカの骨も出土しています。イノシシやシカの狩りには、石の矢じり=石鏃(せきぞく)を付けた矢を使いました。ただ、動物に矢が当たっても致命傷にはなりません。矢で動物の動きを鈍くさせてから捕まえたと思われます。石鏃には飯塚市で採れる石を使っています。薄く剝がれる性質の石です。それを磨いて石鏃にしました。石鏃を磨く作業は、なかなか大変で根気がいります。
死者は二つの甕の開口部を合わせた中に葬りました。甕棺(かめかん)といいます。展示しているのはレプリカですが、体格が大きいですね。集落を支配した渡来人です。
ガラス製の装飾品も展示しています。ガラスを巻いて焼いた管玉(くだたま)で、輸入品です。それでは、物見櫓(ものみやぐら)に登りましょう。(注:物見櫓は3階建ての建物ぐらいの高さ。公園来場者のために、弥生時代にはなかった階段・手摺が設置されていました)
・物見櫓で
北に見えるのは北内郭にある祭殿(さいでん)の屋根です。それでは、西を見てください。ここよりも一段低くなっている場所にあるのは倉庫群です。なぜ、この場所に倉庫があるのでしょうか。倉庫で貯蔵しているのは、種もみです。当時の集落は、飢饉に備えて数年分の種もみをこの倉庫で貯蔵していました。種もみは、保管中の発芽を防ぐために、温度が低くて風通しの良い場所に置く必要があります。この場所は温度が低くて風通しの良いという条件を備えているので、倉庫を設置したのです。このことからも、吉野ケ里遺跡の集落には、稲の栽培・保管などに関する細かい技術・知識が入っていたことが分かります。その技術・知識は渡来人からもたらされたもので、当時は最先端の技術・知識でした。この集落には数十棟の倉庫があります。集落のために必要な数を大きく上回るので、この地域一帯の米蔵だったのではないかと思われます。
・Q&A
今までガイドした内容で、何か質問はございますか。
Q:復元にあたり、物見櫓をこの高さに決めた根拠は何ですか?
A:高さを決めた根拠は、柱の太さです。柱の穴は深さが2m、一辺が2mの四角形でした。また、穴は二段式で、上の段は50cmの幅、下の段が1mの幅となっていました。この穴に入る太さの木を伐り出した場合の木材の長さを計算して、物見櫓の高さを計算しました。物見櫓を作るためには木を伐り出すだけでなく、運搬し、木の皮を剥ぎ、保管場所を確保することが必要です。木材の運搬や皮剥ぎには川を使ったと思われます。
(注:物見櫓を降りた後、竪穴式住居や糸紬ぎの道具などを見てから公園を後にしました)

◆宿泊は佐賀駅前
 秋のツアーの期間中、ヤフオクドームでEXILEのコンサートが開催され、福岡市内はどのホテルも満席。やむを得ず、佐賀駅前のホテルに泊まることになりました。
ツアー1日目のお話は、以上でおしまいです。2日目については「秋のツアー2018(九州美術館巡り)第2日」に書かせていただきます。
Ron.

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