展覧会見てある記 瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.09.08 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」(以下「本展」)と瀬戸蔵ミュージアムで開催中の「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」を見てきましたので、展覧会の概要や感想などを投稿します。

◆瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」

本展のチラシに「磁祖加藤民吉没後200年プレ事業」と書いてあるので、来年度に大規模な展覧会が開催されると思われます(加藤民吉没後200年に当たるのは2024年)。

瀬戸市美の1階ホールのTVモニターでは、加藤民吉の修業を紹介する動画を上映。画面には民吉が修業した肥前の国佐々皿山(さざさらやま、現在の長崎県佐々町)の風景や窯場跡などが映っていました。

・展示室1

本展の題名「瀬戸染付開発の嫡流」の「染付」とは白地に青一色で絵を描いた磁器のことです。1階の展示室1・展示室2で展示していました。展示室1では、主に江戸時代の作品(ただし、2点は明治時代)を展示。入口近くの加藤民吉《染付祥瑞捻文向付》(江戸時代後期)は、青色が鮮やかな作品でした。加藤民吉(二代)《染付桐鳳凰唐草文香炉》〈岡崎市指定文化財)天保6年(1835)は素地が白く、青が引き立つ作品です。製造技術が向上したということでしょうね。加藤忠治《染付山水図植木鉢》〈重要有形民俗文化財〉(江戸時代後期)も素地が白くて、青色が冴える作品でした。加藤源吉《染付松竹梅図神酒徳利》〈重要有形民俗文化財〉万延元年(1860)は、松竹梅の図柄がきれいです。(展示室1は、撮影禁止です)

・展示室2

明治時代の作品が並んでいます。川本桝吉(初代)《染付草花図花瓶(一対)》(明治時代前期)は、草花の図柄が細部まで描かれ、とてもきれいでした。明治時代の作品には伊万里焼のような金彩を施した、川本桝吉(初代)《上絵金彩上野図花瓶》(明治時代前期)もありました。

(参考)愛知の地場産業 瀬戸染付焼について

瀬戸染付焼については、うまく説明できませんので、下記のURLをご覧ください。動画もあります。

https://www.pref.aichi.jp/sangyoshinko/jibasangyo/industry/seto-sometsukeyaki.html

◆瀬戸蔵ミュージアムの展示

・磁祖「民吉物語」(2階)

2階で「民吉物語」というマンガを展示していました。諸説ある資料を基にして、わかりやすく民吉の一生をまとめていたので、そのあらすじをご紹介します。

なお、要約により、以下の章立ては「民吉物語」とは違っていますので、ご注意ください。

① 江戸時代後期の瀬戸

 昔から陶器のまちとして栄えてきた瀬戸だったが、九州の有田で磁器の生産がはじまると、愛媛県(砥部焼)、京都(清水焼)、石川県(九谷焼)にも磁器が広がり、瀬戸焼の需要は以前ほどではなくなっていた。

② 民吉生誕、生まれる

 そんな中、瀬戸の窯元・大松窯の吉左衛門の家に、安永元年(1772)、民吉が次男として誕生。

③ 吉左衛門・民吉の父子は、熱田へ

瀬戸では長男だけが窯を継ぐ決まりだったため長男が窯を継ぐと、享和元年(1801)、吉左衛門は民吉の家族とともに、瀬戸を出て名古屋の熱田に行き、新田開発に取り組んだ。

④ 南京焼(磁器)との出会い

 新田開発の様子を見回っていた尾張藩熱田奉行の津金文左衛門は、なれない手つきで農作業をする民吉家族に気づいた。民吉一家が瀬戸出身で陶器づくりをしていたと知った文左衛門は、南京焼(磁器のこと)について書かれた中国の本を持っていたことから、民吉たちにつくり方を研究させることにした。

⑤ 南京焼は完成したが

 民吉は、南京焼を研究していた文左衛門のもとで、父の吉左衛門と試作を重ね、ついに南京焼が完成。しかし、民吉たちの南京焼は有田焼に及ぶ品質ではなかった。

⑥ 瀬戸の未来を託されて

 磁器の技法を学ぶため民吉は、瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門や文左衛門の息子・庄七らの支援を受けて、本場・九州へ行くことになった。菱野村(今の瀬戸市新田町)出身で、子どものころ瀬戸の窯元で働いていたこともある天中和尚が、肥後の国・天草(今の熊本県天草市)の東向寺にいることがわかり、民吉は文化元年(1804)2月22日、九州へ出発した。

⑦ 九州に到着した民吉は、天草で修業

 天草の天中和尚を訪ねた民吉は、3月27日、和尚の紹介により、天草の磁器・高浜焼の窯元上田源作のもとで働くことになった。民吉は、瀬戸村の出身だと正直に身分を明かし、修業させてもらった。

⑧ 民吉は、肥前・佐々皿山の福本仁左衛門の窯で修業

 働くうち、「肥前の有田焼を学びたい」と強く思うようになった民吉は、修業先をあちこち探し、有田焼の地に近い、肥前の国・佐々皿山(今の長崎県佐々町)の福本仁左衛門の窯に行き着き、文化元年(1804)12月28日から修業が始まった。

⑨ 民吉は福本仁左衛門の信頼を得て、磁器製法をマスター

 民吉の情熱やまじめな人柄と働きぶり、その腕前に、当主の仁左衛門は大いに感心し、佐々皿山の窯を継がせたいと考えた。ある日、仁左衛門は民吉に窯を任せて、2カ月間伊勢参りの旅に出かけた。留守を任された民吉は、磁器製法を職人たちからより詳しく教わり、2カ月ですべての技術をマスターした。

民吉はそれから約1年間懸命に働き、文化4年(1807)1月7日、仁左衛門の娘婿になることもなく、惜しまれながら福本家を去った。

⑩ 有田で上絵付を学ぼうとしたが、失敗

 民吉の心残りは錦手(上絵付のこと。磁器に模様を描いてもう一度800度位で焼き付ける方法)の技法を学んでいないことだった。民吉は「天草出身」と身分を偽り、有田で上絵付の技法を教えてもらおうとしたが、失敗。上絵付は学べなかったが、代わりに透かし彫りと丸窯のつくり方を身につけた。

⑪ 民吉は、天草で上絵付を身につける

 瀬戸へ帰る決心をした民吉は、最初に世話になった天草の上田源作のもとへあいさつに行った。上絵付の技法を知りたくて、天草の名を利用したことを正直に話し、謝る民吉。その姿に心打たれた源作は、上絵付の技法を教えてくれた。民吉はついに目的をとげ、文化4年(1807)5月13日、瀬戸へ行きたいという天草のやきもの職人一人を連れて天草を出発した。

⑫ 瀬戸に帰還し、磁器製法を広める

 文化4年(1807)6月18日、民吉は3年4カ月の修行の旅を終えて瀬戸に戻った。

 その後、民吉は猿投山から長石を掘り出し、瀬戸で豊富にとれる蛙目粘土(がいろめねんど)と調合することで、磁器にふさわしい土をつくりだすことに成功。磁器を焼くのに必要な丸窯を、瀬戸の各所につくり、仲間たちを指導して磁器製法を広めた。

⑬ よみがえる「陶磁器のまち」瀬戸

 民吉を始め、たくさんの人びとの努力が実り、瀬戸はかつての栄光を取り戻した。尾張藩は、この瀬戸焼を藩の統制品とするために「御蔵会所(おくらかいしょ、今の瀬戸蔵がある場所にあった)」をつくり、御用焼物として専売にした。藩が流通させたことで、江戸・大坂・京都を中心に各地で売れた陶磁器は、九州の有田焼をこえて「三国一」とたたえられた。

九州からもどって17年、民吉は文政7年(1824)に逝去した。享年53歳であった。      (完)

・有田の名工・副島勇七の悲劇

 「民吉物語」の【技術スパイは重罪だった!?】には〈民吉が九州に行く少し前、副島勇七という磁器職人が有田を脱出して瀬戸へ逃げてきた。しかし、藩から派遣された役人に捕まって連れ戻され、殺されて首をさらされるという悲惨な死に方をした。〉という記述があります。これは有田焼の技法流出防止のために起きた悲劇ですが、副島勇七が捕まった場所については、次のとおり、説が分かれています。

①「尾張(愛知県)の瀬戸で捕まった」という説は、次の資料に書かれており、

・有田町歴史民俗資料館報 No.22 (2014年)

https://www.town.arita.lg.jp/site_files/file/2014/site/rekishi/download/sarayama/sarayama-0022.pdf

②「伊予(愛媛県)の砥部で捕まった」という説は、次の資料に書かれています。

・広報いまり No.425  1989年7月    https://www.city.imari.saga.jp/secure/9269/No.425(H1-7).pdf

 ・砥部焼の発展      https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/45/view/5775

 いずれが正しいのか、それとも上記以外の場所で捕まったのか、私には分かりませんでした。

・「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」(2階)

解説によれば、「白雲陶器は戦前、瀬戸にあった商工省陶磁器試験所が開発。低い温度で焼成できて、軽く白い素材。戦後、ノベルティに広く使われた」とのことでした。

戦前に製作の人形の形をした容器を始め、2020年に岡崎市美術博物館で開催された「マイセン動物園展」で見たような、《果物かごを持つ婦人》(1965年頃)や《シャムネコ》(1970年代)、人形の顔のような花瓶《ヘッドヴェイス》(1963年)など、様々なノベルティが展示されており、楽しく鑑賞できました。

3階の「瀬戸焼の歩み」でも、瀬戸ノベルティを見ることができます。

なお、「白雲陶器」につきましては、下記のURLをご覧ください。

・中部センター バーチャルミュージアム    https://unit.aist.go.jp/chubu/vm/sub2/sub2_02.html

◆最後に

 家に帰って使っている食器を見たら、飯茶碗、小皿、小鉢、そば猪口など、その多くが「染付」でした。

 また、瀬戸市美では、10/7~11/26の会期で「瀬戸ノベルティの至高 -Made in MARUYAMA-」という展覧会を開催するようですね。

Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館「吹けば風」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.08.29 投稿

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「吹けば風」「コレクション企画 枠と波」及び「コレクション展」を見てきました。豊田市美に着くと、美術担当と思われる先生に引率された、制服姿の中学生がロビーに溢れていました。人数が多く、学校行事と思われます。中学生以下は無料なので、学校は企画しやすかったのでしょう。学芸員やボランティアと思われる方々も一緒です。美術館の側も張り切っているように見えました。美術の授業で現代アートを鑑賞する機会は、多くないと思われます。「豊田市美は、この子たちの夏休みの思い出になったかな?」と考えながら、しばらくの間、その姿を眺めていました。

◆「吹けば風 Incoming Breeze」展示室1

 展示室1~5では4人の作家による企画「吹けば風」を開催中。階段を上って展示室1に入ると、床の4分の3程を占める巨大な斜面。係の人から鑑賞上の注意点を伝えられました。「斜面には、立ち入らないでください。動画の撮影はご遠慮ください。壁の作品には手を触れないでください」の三点です。「壁に作品があるの?」と疑いながら奥に進むと、壁の左上から右下にかけて「どくんどくん と」という文字が並び、右上からは「育って 育って」という文字。途中から「腐って 腐って」に変わります。人の気配がしたので振り返ると、男性が「立ち入り禁止」の斜面に入り、登り始めましたではありませんか。係の人に「斜面を登っている人がいるんですが……」と告げたところ、「あの方は作家さんです。今からパフォーマンスがあるので、ゆっくりご覧ください」という返事。見ている人間は二人だけ。「中学生も見たのかな?」と考えながら、パフォーマンスを眺めました。作品リストに目を遣ると、作家名は関川航平。タイトルは “A Summer Long”。素材・技法の欄には「23.4度の傾き、ドローイング、パフォーマンス」と書かれています。パフォーマンスは、「吹けば風」の作品だったのです。

◆「吹けば風」展示室2~3

川角岳大《Summer》(2021)

展示室1内の階段を上がり、展示室2に入ると絵画が3点。作品リストによれば、向かって右の壁の作品は川角岳大《Summer》(2021)、夏山を背景にして白い鳥が飛ぶ、爽やかな絵でした。川角岳大の出品作品は全部で23点。展示室2・展示室3の出入口や展示室4につながる廊下の突き当りまで、展示できそうなあらゆる場所に展示されていました。

 展示室2の出入り口北側の壁には、天井近くまで使って2枚の作品を上下に展示。上の絵は《イシダイ》(2023)、下の絵は《手銛》(2023)。2点を組み合わせると、手銛でイシダイを突き刺した絵が完成するという仕掛けです。

 展示室2と展示室3をつなぐ廊下東側の壁には《下りの蛇》(2021)・《上りの蛇》(2021)、《Street Light》(2022)などを、展示室3には《黒い犬》(2023)、《カラス》(2023)などを展示。分かりやすい作品なので、現代アートといっても中学生たちが面食らうようなことはなかったでしょうね。

《黒い犬》(2023)
《カラス》(2023)

◆「吹けば風」展示室4

 展示室4は、3つの区画に澤田華の映像作品を展示。最初の区画の作品は、ゾンビ映画に日常風景を撮影した動画を重ねて投影したもの。映画鑑賞中に雑念が湧き上がってくるような感覚を覚える作品でした。

 次の区画では、床に様々な物が散らかっている中を、足元に気をつけながら歩く体験ができました。最後の区画の作品は大型のモニターを使ったもので、大型のスマホを見ているような気持になりました。

◆「吹けば風」展示室5

 2階の展示室5は、船川翔司のインスタレーション。「お天気」をテーマにしているようで、室内で風が吹いていました。《双子の歌》は、展示室内に二つの大型モニターを向かい合わせに置き、同じ動画を流すものです。

◆「コレクション展」展示室6・7

展示室6・7は、通常、小堀四郎、宮脇晴・綾子の作品ばかりですが、今回は、草間彌生、グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、ルネ・マグリットなど、豊田市美でおなじみコレクションが勢ぞろいしていました。

三木富雄の「耳の彫刻」《EAR》(1905)

◆「コレクション企画 枠と波」展示室8

入ってすぐのところにあるのが、三木富雄の「耳の彫刻」《EAR》(1905)。名古屋市美術館「コレクションの20世紀」でも見ましたが、今回は高さ170cmと、インパクトのある作品でした。

 ヨーゼフ・ボイスの作品は、2021年開催の「ボイス+パレルモ」で展示されていた、丸めたフェルトを7本並べた《ブライトエレメント》(1985)の外、お馴染みの《ジョッキー帽》(1983、85)などを展示していました。

 狗巻賢二の作品では、直交する平行線を様々に組み合わせたものを数多く出品していました。

 また、展示の最後には安藤正子さんの先生の作品、櫃田伸也《通り過ぎた風景(山々)》(1999)がありました。

◆最後に

 「吹けば風」には“くせの強い”作品が並んでいましたが、豊田市美全体では様々な作品を鑑賞することができました。中学生の皆さんも満足されたのでは、と思います。

Ron.

展覧会解説会「マリー・ローランサンとモード」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.31 投稿

「マリー・ローランサンとモード」(以下「本展」)の「展覧会解説会」(以下「解説会」)を聞いてきました。日時は7月23日(日)14:00~15:25、会場は名古屋市美術館2階講堂、講師は深谷克典・名古屋市美術館参与(以下「深谷さん」)でした。以下は解説会の概要です。

◆マリー・ローランサンについて

深谷さんによれば、マリー・ローランサン(以下「ローランサン」)は、日本で人気のある作家。「マリー・ローランサン美術館」(現在は作品を保管・貸出するだけ)があるほどです。ローランサンを日本へ最初に紹介したのは、詩人の堀口大學。彼は1915年にスペイン・マドリードでローランサンと出会っています。ローランサンはドイツ人貴族と結婚したばかりでしたが、第一次世界大戦勃発のためスペインに亡命中でした。堀口大學も父(外交官)の赴任先・スペインにいました。堀口大學はアポリネールの詩も紹介しています。

◆本展の特色

深谷さんによればローランサンの展覧会は、①本人の個展、②エコール・ド・パリの展覧会という二つのパターンが多いのですが、本展は少し視点が違い「ローランサンが一番活躍した1920年代に同時代の作家・モード(流行・ファッション)と、どう関わったのか」がテーマとのことでした。

◆19世紀後半の西洋美術の主流はアカデミックな絵画

深谷さんによれば、19世紀後半(70年代~90年代)西洋美術の主流は、印象派やポスト印象派ではなく、カバネルなどのアカデミックな絵画。そこに写真が登場して「芸術は、目に見えないものを表現すべきだ」という考え方が出てきた、とのことです。

◆第一次世界大戦の衝撃は大きかった

深谷さんによればフランスの戦死者数は、普仏戦争(1870-71)が28万人、第一次世界大戦(1914-18)は170万人、第二次世界大戦(1939-45)は55万人。フランスに限ると、第一次世界大戦の方がインパクトが大きかったとのことです。また、「第二次世界大戦における日本人全体の死亡者数は260‐310万人」とも解説。

普仏戦争の後にはベル・エポック(良き時代)が、第一次世界大戦の後にはレザネ・フォル(“ Les Années folles” 狂騒の時代、英語だと”roaring twenty”)が続きます。

第一次世界大戦の衝撃は、それまで進んでいた西洋美術の「急激な前衛化」を止め、「古典に戻る時代」になりましたが、その一方で、ダダなどの過激な人物が登場、「失われた世代 ”Lost generation”」という言葉も生まれた、とのことでした。

◆本展の構成

深谷さんによれば、本展はローランサンとガブリエル・シャネル(以下「シャネル」)の作品で構成。シャネルが生きたのは1883-1971、ローランサンは1883-1950、二人は同じ年の生まれです。しかし1910年代には、シャネルは帽子屋を始めたばかり、ローランサンは既に有名人になっていました。本展では、1920年代の二人の大活躍をフォーカスします。

◆二人の肖像

深谷さんは二人の肖像を比較。シャネルは1935年撮影の写真。49歳の彼女は「男まさり」の印象を与えますが、1920年撮影のローランサンのスナップショットは少女的、女性的な印象。全く対照的な二人です。

◆Ⅰ レザネ・フォルのパリ (Paris of Les Années folles)

深谷さんが投影したのは《マドモアゼル・シャネルの肖像》(1923)の画像。続いて、まったく印象の異なるカッサンドル《ガブリエル・シャネルの肖像》(1942)(注)も投影。シャネルが《マドモアゼル・シャネルの肖像》を突き返したことについて「ローランサンに肖像画を頼んだらどうなるかわかっているはずなのに、なぜ頼んだのか不思議」と話してから、アール・デコの女性画家タマラ・ド・レンピッカ《緑の服の女》(1930)の画像を投影、「これなら、気に入っただろう」と付け加えていました。深谷さんは、ガートルード・シュタインが買い上げたローランサンの《アポリネールと仲間たち(第1バージョン)》(1908)も紹介しました。

(注)シャネルの公式サイト(シャネルの創業者、ガブリエル シャネル | CHANEL シャネル)を下にスクロールし「アーティストとココ」で「詳細」をクリックすると、ローランサンとカッサンドルの肖像画、マン・レイの写真など、シャネルの肖像11点を見ることができます。

◆Ⅱ 越境するアート (Cross-border Art)

深谷さんはセルゲイ・ディアギレフとストラビンスキーの写真を投影。「1920年代のパリには、世界中から色々な人が集まった。ディアギレフのロシア・バレエ団は1909-1929に活動したが、ロシアでの公演はない。ロシア・ブームは1909年から始まり、1920年代のフランスではアメリカのジャズや混血の女優ジョセフィン・ベイカーのダンスが流行。ローランサン、ピカソといった画家が舞台美術を手掛け、シャネルも舞台衣装をデザインした」等の解説がありました。

◆Ⅲ モダンガールの登場 (Rise of The Modern Girl)

深谷さんによれば、ポール・ポワレが19世紀末から1910年代に東洋趣味の服をデザイン。「コルセットを取り去った人」としても知られるが、1920年代はシャネルの時代となる。ドーヴィルで撮影された写真が投影され、「シャネルの最初のブティック」との解説がありました。

◆IV エピローグ:蘇るモード (Fashion Reborn )

深谷さんによれば、シャネルが1971年に死去してからメゾンは低迷。それを立て直したのが、1983年にシャネルのデザイナーとなったカール・ラガーフェルド。最後のコーナーでは彼がデザインした2011年のコレクションの作品と映像を展示。1922年にローランサンが描いた《ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン》のピンクとグレーをシャネルのデザインに取り入れ、ローランサンとシャネルは和解に至った、との説明でした。

◆最後に

深谷さんの講演は、とても面白かったのですが、話に聞き入るとメモを書く手が止まってしまい、断片的な言葉しか残っていません。1時間半の内容豊かな講演だったのですが、面白みのないブログになってしまいました。

Ron

おまけ=失われた世代 (Lost generation)について

深谷さんが「失われた世代」について何か言ったことは記憶にあるのですが、メモしたのは「失われた世代」という言葉だけ。文庫本を漁ると、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(ハヤカワepi文庫)に〈「あなた方はあてどない世代ね」 ガートルード・スタインの言葉〉というエピグラム(警句)があり、同著者の『移動祝祭日』には、次の一節がありました(新潮文庫 p.48)。

〈「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」

「そうですかね?」私は訊いた。

「ええ、そうじゃないの」彼女は言いつのった。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っぱらうし……」(略)〉

 「あてどない世代」だったり「自堕落な世代」だったり、翻訳の難しい言葉なのですね。

ミニツアー 瀬戸市美術館「北川民次コレクション 全員集合!」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.24 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「北川民次コレクション 全員集合!」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。酷暑の中の開催なので、参加者は6名。瀬戸市美の石原学芸員(以下「石原さん」)と一緒に作品を見て回りました。

◆1階 

石原さんによれば、本展で展示しているのは、1936(昭和11)年に北川民次が帰国してからの作品。北川民次は静岡県出身ですが、メキシコで結婚した夫人が瀬戸市出身なので、瀬戸市に来てから1937年に東京・豊島区に引っ越し。池袋モンパルナスの一員となり、熊谷守一から水墨画の手ほどきを受けています。

最初の展示作品は、瀬戸市が注文したリノカット(リノリウムの版画)による《瀬戸十景》(1937)。瀬戸市は絵葉書の原画にする予定だったようですが、版画のコントラストが強すぎて絵葉書にはならなかった、とのことです。

《瀬戸十景》に続く《メキシコの浴み》《タスコの裸婦》(いずれも1941頃)は木口(こぐち)木版(輪切りにした板を彫った版画)。木口は堅いので細い線を彫ることが可能。石原さんは「メキシコではポピュラーな技法」と解説。

スケッチの《K氏》(1952)について、石原さんは「アメリカで活躍した画家・国吉康雄ではないか?」と解説。《陶壁 陶器を作る人々 原画》(1959)の3点は市民会館陶壁。石原さんによれば「陶壁は釉薬では色の再現が難しく、色のついた土を使って色を再現した」とのことでした。

リトグラフ《魚を売る女》(1962)は「北川民次は、構図に気を配っているので、この作品も黄金比による分割では、と思う。」との解説もありました。

◆2階 

母子像が目立ちますが、石原さんは「北川民次は20歳で渡米し、それが母親との別れになってしまったので、母親に対する思いが強く、多くの母子像を描いたのでは」と解説。最後の部屋では、「十二支がそろっています。美術館では、北川民次の絵をモチーフにした十二支のきんちゃく袋も販売しています」とのコマーシャルもありました。

◆番外編(招き猫ミュージアム:瀬戸市薬師町)

 以前、常滑に行ったとき名鉄・常滑駅で巨大な招き猫を見たので「招き猫は常滑」と思っていたのですが、招き猫ミュージアムには「1900年ごろ、日本で最初に招き猫の大量生産を始めた愛知県瀬戸市は『招き猫の故郷』といわれています。(略)本物の猫に近いすらりとした体形と猫背が特徴(略)」と書かれていました。常滑の解説は「1950年ごろに生まれました。二頭身のふっくらとした体形と大きな目、そして小判を抱えた特徴的なその姿は、戦後日本の高度成長と共に、瞬く間に日本中に広がりました」というもの。

 招き猫の故郷は瀬戸市、日本中に広がったのは常滑の招き猫ということでしょうか。

Ron.

読書ノート「ガウディの伝言」外尾悦郎 著(光文社新書264)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.17 投稿

7月8日付の日本経済新聞で外尾悦郎氏に興味を持ち、本書を手に入れました。著者は、1978年以来、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂の彫刻を担当。東京国立近代美術館で開催中の「ガウディとサグラダ・ファミリア展」(以下「本展」)に出品の彫刻「歌う天使たち」も制作しています。

以下は、本書の中で私が興味を持った箇所の抜き書きです。

◆双曲線面は自然光を最大限に取り入れられる形

本書は、本展に模型が展示されている鼓のような形の双曲線面について、次のように書いています。

〈一見複雑に見えますが、ご覧の通り、すべて直線です。(略)サグラダ・ファミリアでは、この双曲線面が、聖堂の側壁にある大窓や天井窓など、主に採光部分に駆使されています。自然光というのは、太陽の動きに伴って、多方面から入射してくる。しかし、その進み方は常に直線です。ガウディはその自然光を最大限に取り入れられる形として、双曲線面の有効性を活用しました〉(本書 p.45~46)

自然光を取り入れるための合理的で美しい形状なので、ガウディが双曲線面を駆使したというのです。

◆双曲放物線面は自然光を取り入れる形

また、本展に模型が展示されている双曲放物線面についても、次のように書いています。

〈一見複雑に見えますが、曲線は一つもありません。(略)放物線面は、接合部分の角度をなめらかにし、荷重の流れをスムーズにすることから、ガウディはサグラダ・ファミリアの柱が枝分かれする部分や、天井と柱が接する部分など、構造体が大きく変化する部分にこの形を多用しています〉(本書 p.46~47)

建物の筋交いに当たる部材を合理的な形状にしている、ということだと理解しました。

◆サグラダ・ファミリア幼稚園屋根

私が「摩訶不思議な曲面」だと思った「サグラダ・ファミリア幼稚園屋根」について、本書は〈サグラダ・ファミリアの建設現場で働く職人たちの子弟のためにガウディが私財を投じて建設した聖堂付属小学校です〉(本書 p.48)と書き、次のような説明を加えています。よく分かりました。

〈ガウディはこの構造を、経済的な理由があって考えました。というのも、ガウディは大金持ちだった人ではありません。私財を投じてと言っても限度があります。そこで薄い煉瓦を使って、できるだけ安くつくり、しかも頑丈な建物にしたかったわけです。(略)薄いものというのは、そのままでは立ちません。しかし、アコーディオンのように折り曲げればしっかりと立ちます。屋根も波打たせれば、雨が降っても水が自然と流れ落ち、薄い煉瓦でも雨漏りする心配がありません〉(本書 p.48~49)

〈余談になりますが、後にこの建物を見て驚愕した人物がいます。現代建築の巨匠の一人、フランスのル・コルビュジェです。1928年にスペインを旅行した当時41歳のコルビュジェは、サグラダ・ファミリア付属小学校を目の当たりにして強い衝撃をうけ、克明なスケッチを残しました〉(本書 p.50)

◆逆さ吊り実験の成果により、建物を補強するための厚い壁が不要になった

 本書には、次の記述もあります。

〈逆さ吊り実験がもたらした大きな成果の一つは、建物を補強するための厚い壁が不要になったことにあります。過去につくられた大聖堂は(略)外側に倒れようとする壁を支えるために、つっかえ棒の役割を果たすフライング・バットレス(控え壁)を必要としていました。(略)厚い壁やフライング・バットレスをなくし、採光部分を大きく取ることができるようになった聖堂の内部には、双曲線面の窓から太陽の光が降り注ぎます〉(本書 p.85~86)

 カテナリーアーチによる合理的な構造を取り入れたことで、補強のための壁が不要になり、太陽の光が降り注ぐ、スッキリとした聖堂が実現した、というのです。「サグラダ・ファミリアは聖堂建築に進化をもたらした」と思いました。

◆最後に

 外尾悦郎氏については本書の外に、次のようなYouTube動画やテレビ番組もあるのでご紹介します。

Ron.

ガウディが見ていた理想の社会 | ETSURO SOTOO | TEDxNihonbashi

 3年前に行われた外尾悦郎氏の講演。写真の投影もあり、分かりやすい内容です。

URL https://www.youtube.com/watch?v=zHf0I0m6lqY

・NHK・Eテレ NHKアカデミア 外尾悦郎 

NHK・Eテレ 前編:7.26(水)PM10:00~10:30  後編:8.2(水)PM10:00~10:30

URL 「ガウディとサグラダ・ファミリア展」関連番組・イベントの紹介  |NHK_PR|NHKオンライン

新聞を読む「黒のモード十選(10)」服飾史家 徳井 淑子

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.11 投稿

日本経済新聞「文化」欄「黒のモード十選」(服飾史家・徳井淑子)は、〈野暮と洗練、清貧と贅沢――。両端イメージを併せ持つ黒い服の流行を、中世から20世紀までたどる〉連載記事ですが、最終回(7.11付)で取り上げたのはガブリエル・シャネル「リトル・ブラック・ドレス」でした。現在、名古屋市美術館で開催中の「マリー・ローランサンとモード」(以下「ローランサン展」)でも『ヴォーグ誌』(アメリカ版)1926年10月1日号掲載の記事を展示。関連がありますので、記事の内容をご紹介します。

◆7.11付け日本経済新聞「黒のモード十選(10)」の抜き書き

20世紀の黒を語るにはシャネルのデザインを欠かすわけにいかない。女性の社会進出が本格化した1926年、女性がどのような機会にも着られる略装として、アメリカで最初に発表、簡素ながら優雅なドレスとして絶賛されたのがリトル・ブラック・ドレスである。作品はその一つである。

黒いドレスは当時「シャネル・フォード」と呼ばれ、フォード車にたとえられた。(略)

機能性と合理性を求めた時代のモダニズムに合致したという点で期するところは同じである。リトル・ブラック・ドレスにも、フォードの大衆車と同様に量産でき、類似こそが品質を保証するという大衆市場を前提にした戦略があった。禁欲的な黒はミニマリズムとして、その後を生きる。

*記事の全文と写真は、日本経済新聞電子版>文化>美の十選、と検索することでご覧になれます。(「無料記事」なので、電子版の会員でなくてもOK)

◆「ローランサン展」の展示など

『ヴォーグ誌』の記事は2階に展示されています。イラストは有名ですが、記事は細かい字の英語なので内容はよくわかりません。シャネルのモードがどんなものであったのかは、1階で上映しているスライドショーを見ると良いでしょう。

名古屋市美術館・勝田学芸員の解説によれば、当時の社交界の女性たちや前衛画家を庇護する女性たちのステイタスは、〈ローランサンに肖像画を描いてもらうこと、シャネルの服を着て、マン・レイに写真を撮ってもらうこと、の二つだった〉とのことですが、スライドショーは「シャネルの服を着たセレブの女性たちをマン・レイが撮影したもの」です。女優や王女、侯爵夫人などが次々に写されます。

「モード十選(10)」が書いたように「リトル・ブラック・ドレス」は、大量の安価なコピーが氾濫し、誰でも一着は持っているアイテムになりましたが、そのことでオリジナルの価値は半比例して、上昇したのですね。

なお、映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘプバーンは、黒いドレスが印象的ですが、これはジバンシーのデザインです。

Ron.

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