展覧会見てある記「生誕130年 荒川豊蔵展」岐阜県現代陶芸美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

岐阜県現代陶芸美術館(以下「美術館」)で開催中(11/17まで)の「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)に行ってきました。利用したのは土・日・祝日だけ運行する「ききょうバス」です。多治見駅南口発の発車時刻は午前中が9:10、10:10、11:10の3本。美術館までは25分ほど。美術館発・多治見駅南口行きの発車時刻は、午前中が9:40、10:40、11:40の3本。午後は13:40からです。

当日、バスが美術館に到着したのは5分遅れの10:40。13:40発のバスだと3時間後なので、11:40発に乗ることを決めました。帰りのバス発車時刻まで、1時間しかありません。

バス停から美術館までは5分ほど。シデコブシ自生地を跨ぐ橋を歩くとトンネルの入口に差し掛かり、トンネルを抜けて、ようやく美術館の全貌が現れました。本展の会場は、美術館に入ってすぐの場所です。観覧料は一般1,000円。以下は本展の内容紹介、感想などです。

◆Ⅰ. プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵(人間国宝に指定された昭和30年前後以降の作品を展示)

本展は8章で構成。荒川豊蔵(以下「豊蔵」)が作陶した陶磁器だけでなく、豊蔵が描いた絵や豊蔵が収集した尾形乾山作の角皿や陶片を金継ぎした茶碗も展示しているので見飽きません。

Ⅰ章で目を惹くのがピンク(薄紅色)に発色した茶釜型の水指《志野山の絵水指》です。可愛らしい形の水指で、山の絵が描かれています。Ⅰ章にはこの外にも同名の水指が、白と赤の2点出品されています。何れも円筒形でした。そのうち、白い水指は本展チラシ(以下「チラシ」)の裏に図版が載っています。

「志野」の茶碗では、薄紅色の《志野茶垸 銘氷梅》(作品リストの表記は「茶垸」)が見逃せません。茶碗に掛かった釉薬が縮れて膨れ、割れ目が生じています。解説は「梅花皮(かいらぎ)状に縮れた志野釉を氷の割れ目にみたて、そこに梅の花が浮かび上がっている」と表現しています。この茶碗の図版は本展のプレスリリース(URL: ARAKAWA_Toyozo_Release (cpm-gifu.jp))やチラシの表に掲載されています。この外《志野茶垸 銘朝暘》(チラシ裏に図版)も薄紅色で、梅花皮がきれいに入っています。同じ茶碗でも《志野鶴絵茶垸》は灰色の地に大きく白鶴を描いており、その肌は梅花皮ではなく、ミカンの皮のようにツルッとしています。解説には「俵屋宗達・画、本阿弥光悦・書の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』に描かれた鶴を思わせる」とありました。

一方、「瀬戸黒」の作品は茶碗と花入です。このうち《瀬戸黒茶垸》には釉薬を掛けた時の指の跡があります。

この外、「秋のツアー」のお知らせに掲載されていた《黄瀬戸破竹花入》(図版はプレスリリースとチラシ裏に掲載)もⅠ章に展示されています。解説には「華道家の勅使河原蒼風と写真家の土門拳がこの花入に松を生け、撮影した」とあります。確かに前衛的な生け花にはぴったりですが、裂けた花入れに松をどのように生けたのか、とても気になりました。

Ⅰ章には、じっくり見たい作品が多数あります。本展の解説は簡潔で分かりやすく、作品を焼成した窯の表記もあり親切で有難いのですが、解説を一つひとつ丁寧に読んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。観覧時間が限られている場合は、ご注意ください。

◆Ⅱ. 東山窯と星岡窯 - やきものに風情があるのを知る(志野陶片を発見する以前の作品を展示)

Ⅱ章の展示は、日本画家を雇い、瀬戸から取り寄せた素地(素焼きの磁器)に上絵付(釉薬の表面に色絵を描くこと)させたデミタスカップや、京都・伏見の宮永東山窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付(素地に呉須(酸化コバルト)で絵を描き、釉を掛けて焼成すると描いた絵が藍色に発色する)、北大路魯山人の鎌倉・星岡窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付などです。

豊蔵は絵に自信があったこと、豊蔵が手がけていたのは売れ筋の磁器だったことが分かりました。

◆Ⅲ. 荒川豊蔵の陶芸(志野陶片の発見、大萱牟田洞窯の築窯及び乾比根会の結成等に関連する展示)

Ⅲ章の見どころは、名古屋の旅館で北大路魯山人と豊蔵が志野筍絵茶碗を眺める姿を描いた額《古志野発見端緒の図》と、美濃の山で陶片を探す姿を描いた六曲一双の屏風《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》です。志野陶片発見の約50年後に豊蔵が描いた作品ですが、当時の興奮が伝わってきます。

豊蔵は志野陶片を発見した後、昭和8年に岐阜県可児郡久々利村大萱(現、可児市)に窯を作りますが失敗。翌年、40m移動した地に「大萱窯」を築き直し、初窯を焚きます。そのためか、Ⅲ章に展示されているのは昭和10年以降の作品です。腰の張った筒形の《瀬戸黒茶碗 銘寒鴉》(チラシ裏に図版)等が展示されていました。

Ⅲ章には大萱窯以外に、宮永東山窯で作陶した色絵《古九谷風石庭の図平鉢》(チラシ裏に図版)等も展示されています。解説は「個展の出品には大萱の作品だけ足りないので、宮永東山窯で焼かせてもらった」というもの。古巣とはいえ、豊蔵に焼成を許した宮永東山は太っ腹ですね。宮永東山は豊蔵を信頼していたのでしょう。

以上の外、三重県の財界人・陶芸家の川喜多半泥子(かわきた はんでいし:以下「半泥子」)と豊蔵との関係も見どころです。豊蔵が津市・千歳山の半泥子を訪ねた時の礼状《半泥子宛書簡(千歳山訪間の礼状)》、半泥子・豊蔵・三輪休和(萩焼)・金重陶陽(備前焼)の4人で作陶連盟乾比根会(からひねかい)を結成した時の様子を描いた《陶匠友誼図》、豊蔵の陶房を訪れる人の掟として半泥子が書いた《出入帖(宿帖)》を展示しています。書簡の内容や出入帖の「8か条の掟」の内容は本展の解説に書いてあるので「一見の価値あり」です。

(注)「半泥子」は、16代続く名家の当主が道楽で家を傾けることの無いよう、南禅寺の禅師が命名した号。「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」を意味し「半分泥だらけになりながら没頭しても、半分は冷静に己を見つめよ」という教えです。(出典のURL:【探訪】ろくろのまわるまま−究極の素人・川喜田半泥子(三重県津市、石水博物館)キュレーター・嘉納礼奈 – 美術展ナビ (artexhibition.jp)

◆Ⅳ. 暮らしとともに - 水月窯と大萱窯の食器(戦後、多治見市虎渓山に豊蔵が作った水月窯関係の展示)

戦後、豊蔵は一般家庭向けの器を生産するため、多治見市虎渓山に磁器の焼成や、量産、染付、色絵の制作も可能な水月窯を作ります(水月窯の詳細は、平成22年に多治見市文化財保護センターで開催された企画展「水月窯と荒川豊蔵」のパンフレット(URL: suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp))をご覧ください)。

目を惹いたのは、豊蔵が考案した《梅花文汲出》です。水月窯のベストセラーで、昭和20年代の製品と昭和30年代の製品を展示しています。なお、「汲出(くみだし)」は湯呑よりも浅く、口が広い茶器。上記パンフレットによれば、《梅花文汲出》は粉引(こひき:素地に白い土で化粧を施し、その後、釉薬を掛けて焼成した陶器)です。

◆Ⅴ. 描く、愉しむ(水月窯で可能になった染付や色絵の作品と絵画などを展示)

水月窯では染付、色絵が焼けるので、絵が得意な豊蔵は文人画風の絵を描いた《染付閑居作陶之図四方皿》(チラシ表に図版)や《色絵灌園便図四方飾皿》(チラシ裏に図版)のような飾皿、《壺に桃花流水之図》(チラシ裏に図版)のような絵画を多数制作したようです。

◆Ⅵ.  交友 - 芸術家との共作、五窯歴遊(唐津、萩、備前、丹波、信楽で作陶した作品等を展示)

川合玉堂や前田青邨と共作したやきものの外、萩焼、唐津焼、備前焼、丹波焼、信楽焼の窯元で作陶した作品を展示しています。とはいえ、やきものの特徴がはっきりと分かるのは、釉薬を掛けずに1200度~1300度の高温で焼き締めた備前焼くらいでした。名古屋市美術館で開催予定の「民藝 MINGEI」に地方のやきものが出品されるので、それぞれの特徴をつかもうと思います。

◆Ⅶ. 収集品にみる荒川豊蔵の眼と作品へのひろがり(豊蔵が収集した尾形乾山の角皿などを展示)

出土した陶片を金継ぎした《織部呼継茶碗》は見ものです。解説には「豊蔵は、訪ねてきた随筆家の白洲正子にこの茶碗で茶をふるまっている。飲み干して呼び継ぎに気づいた白洲は衝撃を受けて、のちに随筆『よびつぎの文化』を執筆した」と書いてあります。尾形乾山の角皿も見逃せません。

◆Ⅷ. エピローグ

手控帖、写生・作陶道具などを展示しています。

◆ 最後に

今回の鑑賞時間は、移動時間を除くと実質50分ほどでしたから、一通り駆け足で見てから入口に戻り、「これは」と思った作品に絞って、じっくり眺めました。

Ron.

読書ノート「やきものの里めぐり」著者 永峰美佳 発行所 JTBパブリック 発行 2014.5.1

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

本書は、近所の図書館で借りてきた「窯場めぐり」のガイドブックです。主要な窯場の紹介に加え、やきものの原料・技法、やきものと窯場の歴史などの簡潔な解説もあったのでエッセンスをご紹介します。

◆ やきものと窯場の歴史

本書で私が注目したのは、以下の3点です。

1 柳宗悦の民藝運動により、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美が見出された

2 北大路魯山人が料亭で使った食器や自ら制作した食器のスタイルが、現代にも大きな影響を与えている

3 昭和5年(1930)に荒川豊蔵が美濃で志野の陶片を発見し、桃山茶陶の復興ブームが巻き起った

上記「1」に関して、10月5日から名古屋市美術館で「民藝 MINGEI」(以下「本展」)が開催されます。上記「3」に関して、協力会秋のツアー2024の見学先の一つは岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」です。いずれも「やきものを見直す大きな出来事」に関する展覧会なので、楽しみです。

◆ チラシに写真が掲載されているやきものと窯場の紹介

・有田焼【ありたやき】[佐賀県有田町] 

「白くて硬い磁器を日本で最初に焼いた窯場」と紹介。また「白い磁器の登場で、庶民の食卓に並んでいた木椀が磁器に代わり、生活を大きく変えた」とも書いています。磁器の登場は画期的だったのですね。なお、本展のチラシ(以下「チラシ」)に《染付羊歯文湯呑》(江戸時代)の写真を掲載(チラシp.2、以下同じ)。

・小鹿田焼【おんたやき】[大分県日田市] 

「飛び鉋(かんな)、打ち刷毛目など、ロクロを生かした文様。昔ながらの手仕事を今に伝える珠玉の窯場」と紹介。また「昭和6年(1931)に民藝運動の父。柳宗悦が訪れ、『日田の皿山』という文章とともに世に紹介して以来、『小鹿田焼』の名は全国に知られていきます」と続きます。チラシに写真はありませんが、本展の公式サイト(以下「公式サイト」)の動画が、窯場の様子を紹介しています。

 「飛び鉋」「刷毛目」は、褐色の素地を白く見せるために、白い土を水で溶いて掛ける装飾です。本書は、白い化粧土を使った主な装飾技法を、以下のとおり記しています。

粉引    全体に白化粧を施し、要所に見える素地の土との対比を楽しむ

刷毛目   隙間を残しながら、刷毛で白化粧土を勢いよく塗ります

三島    「印花」という判を押し当て、表面に凹凸をつけ、化粧土を埋めます

描き落とし 表面の化粧土を削り、下の素地の色との対比で文様をつくります

飛び鉋   ロクロの回転を利用し、鉋を当てて削り文様を生み出します

化粧絵付け 白化粧で表面を整えて、下絵付けや上絵付けを施します

・牛ノ戸焼【うしのとやき】[鳥取県鳥取市]

「緑釉と黒釉の掛け分けで知られる民藝の器」と紹介。「柳宗悦の薫陶を受けた医師・吉田璋也の指導で息を吹き返し、現在に至ります。伝統を引き継ぐ窯に因州中井窯も挙げられます」と続きます。チラシに《緑黒釉掛分皿》(1931頃)の写真を掲載(p.4)。

・丹波焼【たんばやき】[兵庫県篠山市] 

「茶色い焼き締めの肌に熔け掛かる鮮緑色の釉。『赤』『黒』『白』と色で呼ばれた器たち」と紹介。「民藝の創始者・柳宗悦にとって古丹波は特別な存在であり、美術商で丹波焼の蒐集家。中西幸一と交流を深めました」と続きます。チラシに写真はありませんが、公式サイトの動画が、窯場の様子を紹介しています。

・瀬戸焼【せとやき】[愛知県瀬戸市] 

「陶器も磁器も、あらゆるやきものを焼く旺盛な窯場。いつしか全国の食卓の器の代名詞に」と紹介。チラシに《呉須鉄絵撫子文石皿》(江戸時代)の写真を掲載(p.1)。この石皿については『もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動』(監修 杉山享司 2021年10月5日初版発行 株式会社東京美術)が「台所や煮物屋の店先で使われていたもの。陶画の模様の美しさに柳は心打たれた」と解説しています。

◆ その他のやきものと窯場の紹介

・唐津焼【からつやき】[佐賀県唐津市] 

「釉薬、筆描きの文様、量産のスタイル。日本のやきものに打ち立てた数々の金字塔」と紹介。「文禄・慶長の役で渡来した朝鮮半島の陶工たちにより新しい技術がもたらされ、すぐに最盛期を迎えます」と続きます。

・薩摩焼【さつまやき】[鹿児島県鹿児島市ほか] 

「気品漂う『白もん』、味わい深い『黒もん』。朝鮮半島への郷愁を感じさせる器たち」と紹介。「文禄・慶長の役の際に、島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った80名の陶工が、藩内の各地でやきものを焼き始めたことに由来します」と続きます。

・壺屋焼・読谷山焼【つぼややき・よみたんざんやき】[沖縄県那覇市・読谷村]

「釉を掛けた『上焼』、焼き締めの『荒焼』など、色も形も独特な発展を遂げた『やちむん』」と紹介。なお、沖縄では「やきもの」を「やちむん」と呼びます。民藝運動との関係については「昭和の初めに民藝運動の父・柳宗悦らが壺屋焼を全国に紹介し、昭和60年(1985)に名工・金城次郎が人間国宝に認定されて、一躍脚光を浴びました」と紹介しています。

・京焼【きょうやき】[京都府京都市] 

「茶の湯文化とともに発展した優美なデザイン。仁清、乾山、本米など優れた名工を輩出」と紹介。民藝運動を担い、奔放で濃厚な創作を展開した河井寛次郎の住宅を一般公開した「河井寛次郎記念館」が、東山区五条坂鐘鋳町にあり、近所に江戸後期から八代・清水(きよみず)六兵衛まで250年以上続く老舗の「六兵衛窯」もあります。『名匠と名品の陶芸史』(著者 黒田草臣 講談社選書メチエ 2006.6.10発行)によれば、河井は後援者の援助を受けて、鐘鋳町の五代・清水六兵衛の持ち窯と土地を購入した、とのことです。

・信楽焼【しがらきやき】[滋賀県信楽町] 

「浮き出した長石粒、粗い土肌に熔け掛かる自然釉。野趣あふれる素朴な表情が人の心を惹きつける」と紹介。「信楽には、やきものを求めて逗留した文化人ゆかりの料理店や宿が今も残っており、『魚仙』には北大路魯山人がしばし訪れ、老舗旅館『小川亭』は岡本太郎が常宿としていた」と続きます。

・美濃焼【みのやき】[岐阜県多治見市ほか] 

「桃山文化を担い、花開いたやきものルネサンス。和食器の60%(注)を生産する『陶の都』」と紹介。「焼き上がりを急冷することで深みのある黒を引き出した『瀬戸黒』。白い長石釉をかけた『志野』。灰釉を改良した黄色い釉薬の『黄瀬戸』。緑釉と鉄絵を組み合わせた『織部』。日本で初めて筆描き文様を施したこれらの器は『桃山陶』と呼ばれ、日本のやきものにルネサンスを花開かせました」と続きます。

注:2021年の生産額は、1位・岐阜県54%、2位・長崎県12%、3位・佐賀県11%です(下記にURL)。

 陶磁器(食器)の生産額の都道府県ランキング(令和3年) | 地域の入れ物 (region-case.com)

・益子焼【ましこやき】[栃木県益子町] 

「『用の美』民藝を象徴するやきもの。つくり手の合理性、器の素朴さ、使いやすさが揃う」と紹介。「益子焼は江戸時代末期に始まり、主に土鍋や擂鉢(すりばち)などの日用雑器を製作し、関東一円に流通するまでになります。転機が訪れたのは、大正13年(1924)のこと。柳宗悦とともに民藝運動の中心を担った陶芸家・濱田庄司が移住し、民藝運動の理念『用の美』に基づいた作品を制作します」と続きます。「『つかもと』は益子最大の窯元で、JR信越本線・横川駅『峠の釜めし』の羽釜の容器『釜っ子』を焼く窯としても、馴染み深いのではないでしょうか」との紹介もあります。

◆最後に

 本展では陶磁器以外にも、染織品や木漆工品など、多数の民芸品が出品されるそうです。

                            Ron.

error: Content is protected !!