読書ノート 世界で愛されるムーミン 誕生に秘められたソ連侵攻

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆「世界で愛されるムーミン 誕生に秘められたソ連侵攻」 2022.04.09「産経ニュース」

愛媛県美術館で開催中の「ムーミンコミックス展」(名古屋市博物館など、全国11館を巡回中)を紹介する「産経ニュース」は、下記のとおり「トーベ・ヤンソンは戦争に嫌気がさし、小説『小さなトロールと大きな洪水』を描き始めた」と書くだけでなく、ソ連がフィンランドに侵攻した「冬戦争」についても書いています。

〈(略)作者のトーベ・ヤンソン(1914~2001年)はフィンランドに生まれ、第二次世界大戦を経験。戦争に嫌気がさし、描き始めたのがムーミンの物語だった。(略)第二次世界大戦が勃発したのは1939年。(略)ソ連は同11月末にはフィンランドにも侵攻を開始した。これは「冬戦争」と呼ばれ、ソ連は国際連盟を除名された。翌年3月に講和条約により停戦。フィンランドは工業地帯を中心に国土の10%をソ連に奪われたものの、独立を守り抜いた。トーベは戦争の嫌な雰囲気の気晴らしとして、ムーミンの物語を作り始めたという(略)〉(引用終り)

*記事のURL:世界で愛されるムーミン 誕生に秘められたソ連侵攻 – 産経ニュース (sankei.com)

◆昨年秋の名古屋市博物館「ムーミンコミックス展」では(今の状況との違い)

「ムーミンコミックス展」は、1954年からイヴニング・ニュース紙で連載が始まった「ムーミンコミックス」を紹介する展覧会です。戦後の話ですから、私の知る限り、名古屋市博物館の展覧会チラシ、博物館のホームページ、新聞記事、協力会ミニツアーの解説で第二次世界大戦にまで踏み込んだものはありませんでした。

「産経ニュース」が、上記の記事で「冬戦争」についても書いたのは、「ウクライナ侵攻」の影響によるのでしょうね。

◆池上彰も「冬戦争」について書く  2022.04.14「週刊文春」「池上彰のそこからですか!?」連載520

 「週刊文春」連載の「池上彰のそこからですか!?」も下記のとおり、ウクライナ侵攻について解説するなかで「冬戦争」に触れています。

〈1939年11月、当時のソ連軍はフィンランドに侵攻しましたが、この時もソ連はフィンランドを「小国」と見下し、簡単に勝利すると思っていたところ、地元の地理に詳しいフィンランド軍の創意工夫を凝らした抵抗に翻弄され、苦戦を強いられました(略)〉(引用終り)

◆「フィンランド独立100周年 フィンランド・デザイン展」でフィンランド史を知る

私は、2017年に愛知県美術館で開催された「フィンランド独立100周年 フィンランド・デザイン展」で、初めてフィンランド史を知りました。展覧会では、世界的建築家アルヴァ・アアルトがデザインした椅子(41 アームチェア パイミオ、スツール60)、マリメッコ社のデザイナー=マイヤ・イソラの《ウニッコ(ケシの花)》をプリントした巨大な垂れ幕と並んで、フィンランド史年表の大きなパネルに目を引かれました。

フィンランドは「冬戦争」停戦後、失地回復をめざして1941年6月に「継続戦争」を開始。一時はソ連領を占領しましたが固着状態に陥り、ソ連軍の大攻勢を受けて1944年9月に休戦。休戦後、ソ連の占領は免れたものの国土の10分の1を失い、3億ドルの賠償をソ連に支払い、「継続戦争」に関係した政府要人の被告全員が有罪禁固刑の判決を受けたことは、展示された年表を読むまで知りませんでした。

Ron.

読書ノート 「週刊文春」(2022年4月14日号)ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆「週刊文春」 その他の世界(31) 

ミロを見ろ「ミロ展―日本を夢みて」 木下直之 

 Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の「ミロ展」の展覧会評です。

 ミロの《焼けた森の中の人物たちによる構成》(1931)(ミロ展の公式サイトによれば、日本で最初に展示された記念すべきミロ作品)を図版に掲げ、詩人滝口修造が1940年に出版した『ミロ』が、ミロについて書かれた世界初の本だったこと、ミロが画家となる道を歩んでいた1910年代には、既に日本に目を向けていたこと、日本の書や俳句が、絵と文字、絵画と詩が渾然一体となる世界を求めていたミロを刺激するイメージの源泉となったことなど、ミロと日本とのつながりを、主に書いています。最後の一節が面白かったので、ご紹介します。

〈ミロは(略)典型的な日本文化ではなく、国や民族を超えて存在する民衆の芸術に触れたことを大切にしたようだ。会場に展示された変哲もない亀の子タワシや刷毛がそれを物語っている。二度目の来日時には、タワシや刷毛で即興的に絵を描いた。ひと抱えのタワシを提げて帰国するミロに、滝口は「見付けましたね」と声をかけたという。まさしく日本を「見るミロを見る」展覧会となっている。〉(引用終り)

4月29日から7月3日まで愛知県美術館に巡回。ミロと日本とのつながりに興味を引かれます。「亀の子タワシや刷毛も展示」というのも楽しみです。

◆「新美の巨人たち」 ジュアン・ミロと日本×林家たい平

 (TV愛知  2022.03.12(土)22:00~22:30 放送) 

 TV愛知「新美の巨人たち」も「ミロ展」を取り上げていました。Art Travelerは「ミロが大好き!」と語る落語家・林家たい平(武蔵野美術大学造形学部卒)。「今日の一枚」は《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》(1945)。解説は、愛知県美術館主任学芸員の副田一穂さんでした。

番組の半ばで、「これは何?」と謎かけ。「亀の子タワシ」が登場しました。

「種明かし」で、二度目の来日となった大阪万博の時にミロが亀の子タワシを使い、陶板壁画の制作を依頼されたガスパビリオンの白い壁に、即興で絵を描く様子が放映されました。このとき描いた《無垢の笑い》が大阪の国立国際美術館の吹き抜けに飾られていることも紹介。亀の子タワシは、ミロのお気に入りグッズでした。

また、もう一つの「今日の一枚」は、初来日後に制作した、現代書道のような《絵画》(1966)でした。(番組バックナンバーのURLは、以下のとおりです)

ジュアン・ミロと日本×林家たい平 |バックナンバー|新美の巨人たち:テレビ東京 (tv-tokyo.co.jp)

 Ron.

一宮市三岸節子記念美術館 「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は10名、美術館主催の「学芸員によるギャラリートーク」(事前申込不要)に参加する、というミニツアーでした。ギャラリートークの担当は、課長補佐・学芸員の長岡昌夫さん(以下「長岡さん」)です。ギャラリートークの前後は自由行動。早めに美術館に行き、作品を見てからギャラリートークに参加しました。

◆美術館に着くまで

協力会の案内では、美術館に行くには「名鉄一宮駅の名鉄バス2番のりばからバスに乗車、起工高・三岸美術館で下車」でした。ところが、駅西の広場にあるのは「1番のりば」だけ。バスが到着したので、運転手さんに聞くと「ここじゃない。バスターミナルの中」とのこと。あわてて、駅舎に引き返し、発車時刻の間際で乗車することができました。バスに乗ってしばらくすると、「尾西庁舎」というアナウンス。「この辺は尾西市だった」と分かりました。運賃を節約するため、一つ前のバス停「尾張中島(おわりなかしま)」で下車。昔の地名が「中島郡(なかしまぐん)」なので、「尾張中島」ですか。

交差点を渡って数分歩き、「起工高・三岸美術館」のバス停に到着。美術館の看板はあるのですが、付近にそれらしい建物は見当たりません。民家の屋根越しに赤いタイル壁の建物が見えたので「あれだ」と見当をつけて歩き、ようやく美術館に到着。玄関脇の水面にはゴンドラが浮き、玄関では女性の銅像がお出迎え、大きなガラス窓には自筆のサイン(S.Migishi)が書かれていました。

◆展示室にて

本展は、美術館2階の展示室二つを使って開催。1階受付で観覧料千円を払い、階段を上ると左側が第一展示室です。

<第一展示室>

・第1部 男と女の旅  第1章 プロポーズ

第一展示室に入ると、正面に三岸好太郎(以下「好太郎」)の二作品が展示されています。左が風景画《大塚仲町風景》(1922)、右がアンリ・ルソーのような人物画《二人人物》(1923)でした。

 好太郎と三岸節子(旧姓 吉田、以下「節子」)が出会って、結婚したころの作品を展示。好太郎も節子も、風景画は岸田劉生風。チラシに使われている節子《自画像》(1925)に、強く引き付けられました。

・第1部 第2章 プラチナの指輪

 最初の3点は、中国旅行で制作した作品。好太郎《上海風景》(1926)は、フォーヴィスム風です。続いて、《道化》(1930-31)から《マリオネット》(1930)まで、ルソー風の作品が並んでいます。一転して、好太郎《金魚》(1933)や節子《室内》(1936)になるとマティス風。好太郎《三人家族》は、長谷川利行の作品を思わせます。

・第1部 第3章 貝殻旅行

 本展のサブタイトルと同じ名前の章です。好太郎の作品ばかりです。なお、蝶や貝殻を描いた作品は第2展示室に集まっています。第1展示室は、抽象画のような《ピエロ変形》(1932)や落書きに見える《乳首》(1932)など、前衛的な作品ばかりでした。

・第2部 女流画家の旅路  第1章 いばらの道

 《月夜の縞馬》(1936)は、ルソー風で、《室内》(1939) 《室内》(1939)はマティス風です。

・第2部 第2章 風景を求めて

 《ブルゴーニュにて》(1989)は、下半分が鮮やかな黄色なので、ウクライナ国旗を連想しました。

<第二展示室>

・第1部 第3章 貝殻旅行 + 第2部 第3章 永遠に咲く花 = 二人の晩年の作品

 第二展示室は、好太郎と節子の晩年の作品を展示。《海と射光》(1934)というタイトルの作品は、名古屋市美術館でも所蔵していますね。

・1階 コレクション展、土蔵展示室

 展示室に入った正面に、節子が19歳の時の作品《自画像》(1924)を展示。おおむね制作年代順に、作品が並んでいます。展示室の北の端に、「土蔵展示室」への通用口があります。通用口を抜けると、目の前に古い土蔵。中には、壺やイーゼルなど、節子の愛用した品々が並んでいました。

◆長岡さんのギャラリートーク(14:00~15:10)の要旨(注は、筆者の補足です)

午後2時少し前に館内放送が入り、ギャラリートークの参加者(30~40人)が2階ロビーに集まりました。

<第1部>

・好太郎と節子の出会い

 節子は1905年に現在の一宮市(注:当時は中島郡起町字中島)に生まれ、1921年に上京。好太郎は1903年に札幌市(注:当時は北海道札幌区)に生まれ、1921年に上京。二人は、1922年に出会います。

二人の出会いは、今から百年前。「出会って百年」を記念し、全国巡回しているのが本展です。好太郎と節子の二人展は、今から30年前の1992年に開催されました。節子は1999年、94歳まで生きました。本展は30年ぶりの夫婦展、節子が亡くなってから初の夫婦展です。第二展示室には、好太郎最晩年の二作も展示しています。

・節子の生い立ち

 節子の父は、毛織物工場を経営。節子は名古屋市の私立愛知淑徳高等女学校(注:現在の愛知淑徳中学校・高等学校)に進学します。1920年に不景気で工場が倒産。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返す」と決意し、一人で上京します。最初は東京女子医学専門学校(注:現在の東京女子医科大学)を目指しますが、不合格。「日本画なら許す」という父親に逆らい、ハンガーストライキまでして、親戚の紹介で洋画家・岡田三郎助の洋画研究所に入ります。当時、女性の洋画家は全くいませんでした。

・親との確執

 節子は、生まれつきの股関節脱臼で、軽い歩行障害がありました。親戚が集まるときは、障害のある節子を親戚に見せないよう、節子は蔵に押し込まれました。

・好太郎《大塚仲町界隈》(1922)・《二人人物》(1923)

 二作とも、節子と出会った頃の作品です。大塚は、文京区の地名。最初に出会った頃に、節子が住んでいたアパートの近くを描いたものです。好太郎は、節子に出会った一週間後に猛アタック。《大塚仲町界隈》をよく見ると、画面右端に男の子が、中央に女の子が小さく描かれています。好太郎と節子かもしれません。

・好太郎《檸檬持てる少女》(1923)

 春陽会に初出品した作品です。皆さん、稚拙な印象を持たれませんか?節子にアタックするため、彼女をモデルに描いた《赤い肩掛けの婦人像》(1924)を見てください。好太郎の画力は高いのです。《檸檬持てる少女》が稚拙に見えるのは、当時の春陽会では稚拙さが好まれたためです。好太郎は意識して稚拙に描いたのです。

・二人は、関東大震災をきっかけに近づく

 1923年9月、関東大震災の二三日後に好太郎は、東京女子美術学校に通っていた節子が友人とルームシェアしていた部屋を訪ねます。好太郎は当時、生協でアルバイトをしており、食料を提供するためにやってきたのです。同年の大晦日には、二人で千葉県の安孫子までスケッチ旅行に出かけ、この時、好太郎は節子にプロポーズします。節子が好太郎の所に行くと、部屋は六畳一間で、母・妹との三人暮らし。この貧乏暮らしに、節子は心惹かれました。

・節子《自画像》(1925)について

 ストレートに表現した作品です。春陽会に出品し、女流画家として初入選を果たしました。女性の洋画家がいない時代でした。1階「常設展」にも《自画像》(1924)を展示していますので、ご覧ください。

・二人の結婚生活

 二人は1924年に結婚。しかし、好太郎は1934年に死去。結婚生活は、わずか十年。幸せな結婚生活とは言えませんでしたが、ドラマチックな十年でした。

・好太郎の中国旅行

 当時の画家は皆、フランスに憧れました。好太郎もその一人です。しかし、彼は1926年に中国を旅行。当時の上海には、異国情緒あふれる租界(注:外国人居留地)がありました。フランスには行けませんでしたが、租界で外国文化に触れ、《上海風景》(1926)などの作品を多数制作しています。

・好太郎《黄服少女》(1930)など

 上海旅行後の1926年から1929年までの三年間、好太郎は文人画を描いて大スランプに陥ります。1929年になって、ようやく上海の体験が生かされるようになります。《道化少年》(1929)などの作品は、サーカス団の華やかな舞台から離れたところにいる道化師を描いたものです。「好太郎の自画像ではないか」と思われる、重苦しく、ファンタスティックで、グロテスクな作品です。《黄服少女》のモデルは好太郎の愛人・音楽家の吉田隆子です。第8回春陽会に《マリオネット》(1930)とともに出品。日本画家の鏑木清方は「隣にある少女にもマリオネットの糸がつながっているように見えたのは錯覚かしら」と、感想を述べています。

・前衛的な作品

 好太郎は、1932年12月に開催された「巴里・東京新興美術展」を見て大きな刺激を受け、抽象絵画やシュールレアリスムなどの前衛的な作品を描くようになります。《乳首》(1932)と《花》(1933)は、キャンバスに絵具を塗ってから、それを釘で引っかいて描いたものです。

・好太郎《オーケストラ》(1933)

 《オーケストラ》は、音楽の世界を絵画で表現した作品です。キャンバスを黒く塗り、次に白く塗り、それを釘で引っかいています。その様子を見ていた友人の里見勝蔵が「黒い絵の具の線でなぞってはどうか」と提案。そのため、里見はこの作品を「好太郎と里見の共作」と言っています。好太郎は「お茶漬けのように絵を描いた」と評されますが、死後、おびただしい数のデッサンが見つかりました。好太郎がサラサラと描いた裏には、デッサンの積み重ねがあったのです。

好太郎は、1934年に新しいアトリエを造り、そこで行き着いたのが蝶と貝殻の連作です。

<第2部>

・節子《室内》(1939)など

 ここから、第2部です。節子の作品ばかり並びますが、意識して好太郎と節子の作品を分けたのではありません。年代順に並べると、作品が節子と好太郎に分かれてしまうのです。好太郎の生前、節子はほとんど絵を描きませんでした。子育てと好太郎の家族の世話で手一杯。絵を描く余裕はありませんでした。好太郎が死去した時、節子は「これで、好太郎から解放される。画家として生きていける」と思ったそうです。

 好太郎の死後、節子が描き始めた作品に、風景画はありません。子育てなどに忙しく、室内での制作しかできなかったのです。《室内》はマティス、ボナールに憧れて制作した作品です。1940年代に制作した作品は、絵具が手に入らず、色彩が沈んでいます。戦争画を描く画家には絵具の配給があったのですが、女流美術家奉公隊の結成に参加したものの、進んで戦争画を描く気になれず、節子は絵具の配給を受けていませんでした。

・第二次世界大戦後の活躍

 節子は1945年9月に、それまでに描きためた室内画を日動画廊に展示。戦後初の開催となる、記念的個展でした。とはいえ、絵を売るだけでは食べていけず、1950年までは雑誌の挿絵や文章、座談会などの雑収入で生活していました。1951年に《静物(金魚)》(1950)が国に買い上げられた頃から、絵を売るだけで食べていけるようになりました。

・渡仏と、その後

 1954年、49歳の節子は、憧れのフランスに旅立ちました。しかし、着いてみるとフランスの芸術に閉塞感を抱き、古代エジプトや古代中国の美術のほうに感銘を受けました。帰国後は、埴輪や土器、インカの壺などをモチーフにした静物画を描くようになります。また、見たものをそのまま描くのではなく、内面性が作品に現れるようになりました。

・軽井沢の山荘にこもり、大磯に移住。そして、ヨーロッパへ

 節子は1956年から軽井沢の山荘にこもり、1960年から〈火の山にて〉シリーズを描きます。1964年に神奈川県大磯町に移住して描いたのが《太陽》(1964)です。海の風景に触発され、風景画に挑戦するようになります。しかし、湿潤な日本の気候や風景は水墨画や日本画には合うけれど、油絵には合わないと考え、カラッとした風景を求めて1968年にヨーロッパへ渡りました。

・好太郎の作品を収集、北海道に寄贈

 1960年代になると、好太郎は世間から忘れられていきました。好太郎の名前を残すため、節子は自分の作品に人気が出るようになると、自分の作品を好太郎の作品と交換し、200点以上の好太郎作品を収集します。

1965年、北海道拓殖銀行からカレンダーの原画制作の依頼を受け《摩周湖》(1965)を制作した時、インスピレーションを得て、節子は1967年5月、北海道に好太郎作品220点を寄贈。北海道は同年9月に北海道立美術館(三岸好太郎記念室)を開館しました。

・尾西市三岸節子記念美術館の開館

 ヨーロッパに渡った節子は、1974年にパリで「三岸節子 花とヴェネチア」展を開催。個展が高い評価を得たため、ブルゴーニュ州・ヴェロンで家を購入し移住。息子・黄太郎夫婦と、20年以上にわたるヨーロッパ生活を送ります。1998年に節子の生家跡地に尾西市三岸節子記念美術館が開館しますが、玄関の横にある舟と水路はヴェネチアの運河をイメージしたものです。

・ヨーロッパで制作した作品

 《小運河の家》(1973)は、ヴェネチアの冬を描いた作品です。赤い色が目立つ作品は、南ヨーロッパ・アンダルシア地方のアルクディア・デ・グアディクスの風景を描いたものです(注:名古屋市美術館も同じ地方を描いた《雷がくる》(1979)を所蔵しています)。節子は84歳までヨーロッパで生活し、1989年に帰国しました。

・第二展示室の作品

 好太郎の作品に描かれた蝶と貝殻は、シュールレアリスムのモチーフです。好太郎は1934年3月に、一週間余りで7点の作品を一気に描き、その後、限定100部の筆彩素描集『蝶と貝殻』を仕上げました。好太郎は「小笠原に旅行した場合の写生」と解説していますが、実際には行っていません。節子は日記に「《海と射光》に描かれた女性のモデルは、私」と書いています。

・貝殻旅行

 好太郎の《のんびり貝》が、クラブ化粧品の中山太陽堂(注:現在のクラブコスメチックス)に高値で売れたため、1934年6月、二人は「貝殻旅行」と名付けた数日間の関西旅行に出かけ、京都、大阪、奈良、神戸を巡ります。最初で最後の夫婦水入らずの旅行でした。旅行の後、好太郎は名古屋に立ち寄り、定宿だった中区錦二丁目の銭屋旅館(注:当時の表示は西区御幸本町7丁目)に滞在し、節子は帰郷。6月28日に、好太郎が四度目の吐血。7月1日に心臓発作で逝去しました。享年31歳。

・好太郎の絶筆

 《女の顔》(1934)は、銭屋旅館に残されていた作品です。節子が自宅に飾っていましたが、本展を記念して北海道立三岸好太郎美術館に、遺族から寄贈されました。貝殻旅行の途中、好太郎は「僕の生命線はあと一週間で切れている」「おれが死んだら、絶対、恋をしろ」と、予言のような言葉を残しています。

・晩年の節子の作品

 帰国後の節子は、大磯で花の絵を描きました。「売れる絵」は、花の絵だったからです。どの作品もタイトルは「花」「白い花」等。「さくら」や「チューリップ」といった花の名前は付けていません。それは「描いた後は、自分の分身」と思っていたからです。

1992年に、初めての夫婦展が開催されます。節子は「好太郎は天才、自分は凡才」と意識しており、夫婦の作品を並べることに抵抗がありました。87歳になって「自分の作品のレベルが上がった」ことから、夫婦展開催に踏み切りました。《作品Ⅰ》《作品Ⅱ》(1991)は、夫婦展に向けて制作した作品です。《作品Ⅰ》は、夕日を背に二つの瓶を描いています。二人並んで太陽を見る好太郎と節子かもしれません。

 1988年に節子は尾西市名誉市民となり、1994年には女性洋画家として初の文化功労者になります。尾西市は、節子が生まれた土地を買い戻して美術館を建設。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返し」、故郷に帰ることができました。左半身不随で言語障害もある満身創痍のなかで、散りゆく桜を描いた《さいたさいたさくらがさいた》(1998)は、生命に対する執念、執着を表現したもので、美術館の壁を飾る集大成の作品です。

 美術館開館の一年後、1999年4月18日に節子は死去。《花》(1999)は、節子の絶筆です。本展を記念して美術館に、遺族から寄贈されました。「生まれ変わっても、結婚するなら好太郎」と、節子は言っています。

◆展覧会後に調べたこと

現在の一宮市は、2005(平成17)年4月1日に、一宮市、尾西市及び葉栗郡木曽川町の合併で誕生。美術館も、1998(平成10)年11月3日に尾西市三岸節子記念美術館として開館し、2005年の市町村合併に伴い、一宮市三岸節子記念美術館に改称。建物は織物工場を思わせる「のこぎり屋根」(世界遺産の富岡製糸場と同じように、北側に明かり取りのための窓を設置した屋根)で、敷地内には節子の生前から残る土蔵を改修し、節子が愛着した品々を並べた土蔵展示室があります。

本展は、長岡さんのギャラリートークで「全国巡回」と紹介されましたが、北海道立三岸好太郎美術館(2021.06.26~09.01)を皮切りに、砺波市美術館(2021.09.11~11.07)、神戸市立小磯記念美術館(2021.11.20~2022.02.13)と巡回し、最後が本展(2022.02.19~04.10)です。

◆最後に

参加者は10名でしたが、心から「来てよかった」と思える展覧会でした。節子も好太郎も、名古屋市美術館に所蔵されている作品の作家です。美術館からの帰り道で、「一宮市三岸節子記念美術館とは縁があるのにミニツアーが無かったのは何故?」と思いました。機会があれば、これからも来たいですね。

     Ron.

展覧会見てある記 サンセット/サンライズ 豊田市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

協力会のホームページに「サンセット/サンライズ展のミニツアーは中止」と書かれていたので、ミニツアーへの参加はあきらめて、一人で豊田市美術館(以下「豊田市美」)に出かけました。中学生くらいの子どもを始め、若い人が目立ちます。入り口で [ギャラリーガイド] をもらって、展覧会を鑑賞しました。

サンセット/サンライズ とは( [ギャラリーガイド] による)

[ギャラリーガイド] は次のように書いています。〈「サンセット(日没、夕暮れ)」と「サンライズ(日の出、夜明け)」(略)「サンセット/サンライズ」の豊かさは、眠りと目覚め、終わりと始まり、死と生、闇と光など、さまざまな象徴や解釈の可能性を差し出してくれるところにあります。こうした、生きる人間の儚さと強さ、相反する価値観やそのあわいなどをも表す意味の広がりは、まさしく芸術家たちの創造の問いかけと重なりあうものです。(略)本展は、こうした「サンセット/サンライズ」から派生する多様なイメージを手がかりに、豊田市美術館のコレクションを紹介する試みです。さらに招待作家として、愛知県にゆかりのある小林孝亘氏を迎え、静けさと強い存在感をもつその数々の作品を案内役に展覧会を構成します。〉(引用終り)

「愛知県にゆかりのある小林孝亘氏」と言われても、全く知識がなかったので、家に帰って「小林孝亘(たかのぶ)オフィシャルウェブサイト」を開くと、次のような略歴を掲載していました。

1960年 東京生まれ、1986年 愛知県立芸術大学美術学部油画科卒業、1999年 バンコクにアトリエを移す、2002年 東京にもアトリエを設ける、2011年までバンコクと東京を行き来しながら制作を続ける、2012年からは神奈川県在住(注:中日新聞の記事によると「逗子市」のようです)

展示室5では〈小林考亘 新作展「真昼」〉も開催していました。ガラスケースには豊田市美の所蔵作品も展示。新作展について小林考亘氏は [ギャラリーガイド] に、こう書いています。〈海の近くで暮らすようになって10年になる。(略)「真昼」は「サンセット/サンライズ」の章立てを引き継ぎ、夜が明けて朝になり、そして昼になるというあたりまえの時間の流れと、新作が昼間の海岸の風景ということで付けている。(略)選んだ所蔵作品は基本的に好きな作家の作品だが、アレギエロ・ボエッティノの揺らぎや変化、城戸保の鮮やかな光、徳岡神泉のたおやかさ、ペーター・ベーレンスのグラスの輝きと脆さ、荒木経惟の死生観など、少なからず展覧会のテーマを含んでいると感じている。〉(引用終り)展示された豊田市美の所蔵作品は、小林考亘氏が選んだのですね。

1F:展示室8

展示室に入って正面の作品は、コンスタンティン・ブランクーシ《眠る幼児》(1907年 1960/62年鋳造)。頭部だけのブロンズ像です。[ギャラリーガイド] によると「眠り/目覚め」の章の作品です。わざわざ「サンセット/サンライズ」(以下「本展」)の最初に展示するのは、何か意味があるのでしょうね。本展では、他に二つの「頭部だけの像」を出品しています。

・マジックアワー

[ギャラリーガイド] は〈マジックアワーとは撮影用語で、日没と日の出の前後に現れる薄明の神秘的な時間帯を指すものです。(略)この章では、まさに夢を見ているかのような謎めいた瞬間を浮かび上がらせた作品を紹介します〉と、書いています。

この章は小林考亘《Home》(2022)から始まります。日が暮れたばかりの風景で、大木の前に建っている小屋の窓から漏れる暖かそうな光が、周りを照らしています。久門剛史《crossfades#4 air》(2020)は、同じ図柄の色違いの3点で構成された作品。左から「夕焼け」「夜の月」「朝日」と変化しているように見えます。丸山直文《path4》(2005)は、畦道?を走るランナーを描いた作品。豊田市美のホームページに掲載され、チラシにも使われています。燕を描いた村瀬恭子《Swallows 2》(2009) と《Swallows 3》(2009)は、黒い背景の(2)と青空を背景にした(3)が並んでいます。

反対側の壁に展示の小林考亘《Corpse Candle》(2015)は、ズバリ「人魂」。しかし、青白い光ではなくオレンジ色に光っているので、恐怖心は少し和らぎます。隣の杉本博司《AEGEAN SEA, PILION》(1990)は、「海景シリーズ」の1点で、山本糾《暗い水-白山Ⅳ》(1993)は、2枚の写真をつなげた大画面の作品です。白い空の下に、黒い地面と水面が写っています。夕方なのか、夜明けなのか迷いましたが、「海景シリーズ」と並んでいますから、たぶん、明け方の景色なのでしょうね。沈む軍艦の艦橋に亡霊が出現している浜田知明の版画《よみがえる亡霊》(1956)は戦争の記憶を描いたのでしょう。マジックアワーは亡霊が出没する時間でもあります。

・眠り/目覚め

頭の上に耳のある白い顔。イケムラケイコ《きつねヘッド》(2010) は頭部だけの彫刻です。入口にあった、ブランクーシ《眠る幼児》を連想しました。両手のこぶしに顎をのせ、まどろんでいる女性を描いた小林考亘《Portrait – resting cheeks in hands》(2010)は、豊田市美のホームページにも掲載されています。眠る女性の上を飛ぶ虫を描いた村瀬恭子《Guru – guru》(2002) 《Nap(L)》(2003)は悪夢を描いたのかもしれませんね。

次のコーナーに展示の奈良美智の作品はローソクが印象的です。《Romantic Catastrophe》(1988)は右手がローソク。《Dream Time》(1988)は右手でつかんだ棒の先がローソクになっています。イケムラケイコ《黒に浮かぶ》(1998-99)は、空中に浮かぶ胎児のように見えます。また、《黒の中に横臥して》(1998-99)は、ハイハイする幼児に見えました。

・死/生

展覧会の看板に使われている小林考亘《Pillow》(2021)は、ベッドと枕だけを描いた作品。「死/生」という章に展示されているので、「故人が使っていた枕?」と考えてしまいました。川内倫子《Untitledシリーズ「SEMEAR」より》(2007)は、足の骨と皮だけになった動物の写真。胴体の骨・筋肉・内臓を抜き取られた「抜け殻」が写っています。最初見たときは何を写したのか分からず、二度見してしまいました。小林考亘《Sleeping bag》(2010)は、そのものズバリのタイトルですが、イモムシの死体にも見えました。

フロアに展示の福永恵美《greenhide》(2005-06)は真っ白い造花で、花びらは蝋細工。茎は細い木材で、白く脱色した菊の葉が張り付いています。とても奇麗なのですが「白い造花」なので「お葬式」を連想してしまいました。向こうの壁には河原温の「Todayシリーズ」が7点。「死と生」を同時に見た感じです。

次のコーナーでは、親子3人を描いた加藤泉《無題》(2006)と福田美蘭《涅槃図》(2012)を展示。《無題》は不気味。《涅槃図》には金太郎や桃太郎、三匹の子ブタなど、昔話の登場人物が描かれています。クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(プリーム祭)》(1990)の前では、たくさんの人が立ち止まっていました。マックス・クリンガー《ミューズの頭部》(1890年以前)は、「眠り/目覚め」の章の作品ですが、何故かボルタンスキーの作品の近くに展示されていました。これが、三つ目の「頭部だけの彫刻」です。

・見えない/見える

展示室8では最後の章。ソフィ・カル《盲目の人々》(1986)と小林考亘《Hard Shell》(1992)の二作品を展示しています。《盲目の人々》では、目の見えない人が「海」などをどのように捉えているかをインタビューしたときの回答と、回答した人の写真、インタビューのテーマとした「海の写真」などを展示していました。

2F:展示室1 「黒/白」

大きな空間なので、村上友晴《無題》(1989-90)、李禹煥《風と共に》(1987)、小林考亘《Water Fountain》(1994)、草間彌生《No. AB.》(1959)などの大作が並んでいます。なかでも目を引いたのは、画面に無数の釘を打ち込んだ、ギュンター・ユッカー《変動する白の場》(1965)です。ユッカーは、ゲルハルト・リヒターをモデルにした映画「ある画家の数奇な運命」に登場していました。

3F:展示室2 「黒/白」(つづき)

森村泰昌の映像作品《なにものかへのレクイエム(創造の劇場/動くウォーホル》(20210)を上映していました。画面は2つで、向かって左の画面には黒ずくめのウォーホルに扮した森村が、右の画面では白いシャツを着たモデルが写っています。もちろん、モデルも森村が扮しています。 映像はウォーホルがモデルを2回撮影する様子を撮ったものです。森村の扮したウォーホルが使用した撮影機材は、最初がストロボ付きのコンパクトカメラ、2回目がSonar Focusが付いたPOLAROID SX-70 LAND CAMERAでした。

3F:通路・展示室3 「黒/白」(つづき)

通路には小林考亘のリトグラフと横山奈美《ラブと私のメモリーズ》(2019)を展示。展示室3には高さ2.4m・幅18mの大作、篠原有司男(うしお)《ボクシングペインティング》(2007)を展示しています。展示室いっぱいに広がった《ボクシングペインティング》の大きさには、びっくりしました。

3F:展示室4 「終わり/始まり」

クリムト、エゴン・シーレ、フランシス・ベーコン等と並んで、小林考亘の作品も展示していました。

2F:展示室5 小林考亘 新作展「真昼」

湘南海岸と思われる浜辺をテーマにした作品をはじめとする新作を展示しています。小林考亘が言及していた荒木経惟の写真は3点。新婚旅行を撮影した「センチメンタルな旅」と妻・陽子さんの死を主題にした「冬の旅」が並んでいるので、私も「荒木経惟の死生観」を感じました。

最後に

美術館全部を使った展覧会なので見ごたえがあります。観覧料は700円。会期は5月8日まで。

Ron.

協力会のホームページに「サンセット/サンライズ展のミニツアーは中止」と書かれていたので、ミニツアーへの参加はあきらめて、一人で豊田市美術館(以下「豊田市美」)に出かけました。中学生くらいの子どもを始め、若い人が目立ちます。入り口で [ギャラリーガイド] をもらって、展覧会を鑑賞しました。

サンセット/サンライズ とは( [ギャラリーガイド] による)

[ギャラリーガイド] は次のように書いています。〈「サンセット(日没、夕暮れ)」と「サンライズ(日の出、夜明け)」(略)「サンセット/サンライズ」の豊かさは、眠りと目覚め、終わりと始まり、死と生、闇と光など、さまざまな象徴や解釈の可能性を差し出してくれるところにあります。こうした、生きる人間の儚さと強さ、相反する価値観やそのあわいなどをも表す意味の広がりは、まさしく芸術家たちの創造の問いかけと重なりあうものです。(略)本展は、こうした「サンセット/サンライズ」から派生する多様なイメージを手がかりに、豊田市美術館のコレクションを紹介する試みです。さらに招待作家として、愛知県にゆかりのある小林孝亘氏を迎え、静けさと強い存在感をもつその数々の作品を案内役に展覧会を構成します。〉(引用終り)

「愛知県にゆかりのある小林孝亘氏」と言われても、全く知識がなかったので、家に帰って「小林孝亘(たかのぶ)オフィシャルウェブサイト」を開くと、次のような略歴を掲載していました。

1960年 東京生まれ、1986年 愛知県立芸術大学美術学部油画科卒業、1999年 バンコクにアトリエを移す、2002年 東京にもアトリエを設ける、2011年までバンコクと東京を行き来しながら制作を続ける、2012年からは神奈川県在住(注:中日新聞の記事によると「逗子市」のようです)

展示室5では〈小林考亘 新作展「真昼」〉も開催していました。ガラスケースには豊田市美の所蔵作品も展示。新作展について小林考亘氏は [ギャラリーガイド] に、こう書いています。〈海の近くで暮らすようになって10年になる。(略)「真昼」は「サンセット/サンライズ」の章立てを引き継ぎ、夜が明けて朝になり、そして昼になるというあたりまえの時間の流れと、新作が昼間の海岸の風景ということで付けている。(略)選んだ所蔵作品は基本的に好きな作家の作品だが、アレギエロ・ボエッティノの揺らぎや変化、城戸保の鮮やかな光、徳岡神泉のたおやかさ、ペーター・ベーレンスのグラスの輝きと脆さ、荒木経惟の死生観など、少なからず展覧会のテーマを含んでいると感じている。〉(引用終り)展示された豊田市美の所蔵作品は、小林考亘氏が選んだのですね。

1F:展示室8

展示室に入って正面の作品は、コンスタンティン・ブランクーシ《眠る幼児》(1907年 1960/62年鋳造)。頭部だけのブロンズ像です。[ギャラリーガイド] によると「眠り/目覚め」の章の作品です。わざわざ「サンセット/サンライズ」(以下「本展」)の最初に展示するのは、何か意味があるのでしょうね。本展では、他に二つの「頭部だけの像」を出品しています。

・マジックアワー

[ギャラリーガイド] は〈マジックアワーとは撮影用語で、日没と日の出の前後に現れる薄明の神秘的な時間帯を指すものです。(略)この章では、まさに夢を見ているかのような謎めいた瞬間を浮かび上がらせた作品を紹介します〉と、書いています。

この章は小林考亘《Home》(2022)から始まります。日が暮れたばかりの風景で、大木の前に建っている小屋の窓から漏れる暖かそうな光が、周りを照らしています。久門剛史《crossfades#4 air》(2020)は、同じ図柄の色違いの3点で構成された作品。左から「夕焼け」「夜の月」「朝日」と変化しているように見えます。丸山直文《path4》(2005)は、畦道?を走るランナーを描いた作品。豊田市美のホームページに掲載され、チラシにも使われています。燕を描いた村瀬恭子《Swallows 2》(2009) と《Swallows 3》(2009)は、黒い背景の(2)と青空を背景にした(3)が並んでいます。

反対側の壁に展示の小林考亘《Corpse Candle》(2015)は、ズバリ「人魂」。しかし、青白い光ではなくオレンジ色に光っているので、恐怖心は少し和らぎます。隣の杉本博司《AEGEAN SEA, PILION》(1990)は、「海景シリーズ」の1点で、山本糾《暗い水-白山Ⅳ》(1993)は、2枚の写真をつなげた大画面の作品です。白い空の下に、黒い地面と水面が写っています。夕方なのか、夜明けなのか迷いましたが、「海景シリーズ」と並んでいますから、たぶん、明け方の景色なのでしょうね。沈む軍艦の艦橋に亡霊が出現している浜田知明の版画《よみがえる亡霊》(1956)は戦争の記憶を描いたのでしょう。マジックアワーは亡霊が出没する時間でもあります。

・眠り/目覚め

頭の上に耳のある白い顔。イケムラケイコ《きつねヘッド》(2010) は頭部だけの彫刻です。入口にあった、ブランクーシ《眠る幼児》を連想しました。両手のこぶしに顎をのせ、まどろんでいる女性を描いた小林考亘《Portrait – resting cheeks in hands》(2010)は、豊田市美のホームページにも掲載されています。眠る女性の上を飛ぶ虫を描いた村瀬恭子《Guru – guru》(2002) 《Nap(L)》(2003)は悪夢を描いたのかもしれませんね。

次のコーナーに展示の奈良美智の作品はローソクが印象的です。《Romantic Catastrophe》(1988)は右手がローソク。《Dream Time》(1988)は右手でつかんだ棒の先がローソクになっています。イケムラケイコ《黒に浮かぶ》(1998-99)は、空中に浮かぶ胎児のように見えます。また、《黒の中に横臥して》(1998-99)は、ハイハイする幼児に見えました。

・死/生

展覧会の看板に使われている小林考亘《Pillow》(2021)は、ベッドと枕だけを描いた作品。「死/生」という章に展示されているので、「故人が使っていた枕?」と考えてしまいました。川内倫子《Untitledシリーズ「SEMEAR」より》(2007)は、足の骨と皮だけになった動物の写真。胴体の骨・筋肉・内臓を抜き取られた「抜け殻」が写っています。最初見たときは何を写したのか分からず、二度見してしまいました。小林考亘《Sleeping bag》(2010)は、そのものズバリのタイトルですが、イモムシの死体にも見えました。

フロアに展示の福永恵美《greenhide》(2005-06)は真っ白い造花で、花びらは蝋細工。茎は細い木材で、白く脱色した菊の葉が張り付いています。とても奇麗なのですが「白い造花」なので「お葬式」を連想してしまいました。向こうの壁には河原温の「Todayシリーズ」が7点。「死と生」を同時に見た感じです。

次のコーナーでは、親子3人を描いた加藤泉《無題》(2006)と福田美蘭《涅槃図》(2012)を展示。《無題》は不気味。《涅槃図》には金太郎や桃太郎、三匹の子ブタなど、昔話の登場人物が描かれています。クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(プリーム祭)》(1990)の前では、たくさんの人が立ち止まっていました。マックス・クリンガー《ミューズの頭部》(1890年以前)は、「眠り/目覚め」の章の作品ですが、何故かボルタンスキーの作品の近くに展示されていました。これが、三つ目の「頭部だけの彫刻」です。

・見えない/見える

展示室8では最後の章。ソフィ・カル《盲目の人々》(1986)と小林考亘《Hard Shell》(1992)の二作品を展示しています。《盲目の人々》では、目の見えない人が「海」などをどのように捉えているかをインタビューしたときの回答と、回答した人の写真、インタビューのテーマとした「海の写真」などを展示していました。

2F:展示室1 「黒/白」

大きな空間なので、村上友晴《無題》(1989-90)、李禹煥《風と共に》(1987)、小林考亘《Water Fountain》(1994)、草間彌生《No. AB.》(1959)などの大作が並んでいます。なかでも目を引いたのは、画面に無数の釘を打ち込んだ、ギュンター・ユッカー《変動する白の場》(1965)です。ユッカーは、ゲルハルト・リヒターをモデルにした映画「ある画家の数奇な運命」に登場していました。

3F:展示室2 「黒/白」(つづき)

森村泰昌の映像作品《なにものかへのレクイエム(創造の劇場/動くウォーホル》(20210)を上映していました。画面は2つで、向かって左の画面には黒ずくめのウォーホルに扮した森村が、右の画面では白いシャツを着たモデルが写っています。もちろん、モデルも森村が扮しています。 映像はウォーホルがモデルを2回撮影する様子を撮ったものです。森村の扮したウォーホルが使用した撮影機材は、最初がストロボ付きのコンパクトカメラ、2回目がSonar Focusが付いたPOLAROID SX-70 LAND CAMERAでした。

3F:通路・展示室3 「黒/白」(つづき)

通路には小林考亘のリトグラフと横山奈美《ラブと私のメモリーズ》(2019)を展示。展示室3には高さ2.4m・幅18mの大作、篠原有司男(うしお)《ボクシングペインティング》(2007)を展示しています。展示室いっぱいに広がった《ボクシングペインティング》の大きさには、びっくりしました。

3F:展示室4 「終わり/始まり」

クリムト、エゴン・シーレ、フランシス・ベーコン等と並んで、小林考亘の作品も展示していました。

2F:展示室5 小林考亘 新作展「真昼」

湘南海岸と思われる浜辺をテーマにした作品をはじめとする新作を展示しています。小林考亘が言及していた荒木経惟の写真は3点。新婚旅行を撮影した「センチメンタルな旅」と妻・陽子さんの死を主題にした「冬の旅」が並んでいるので、私も「荒木経惟の死生観」を感じました。

最後に

美術館全部を使った展覧会なので見ごたえがあります。観覧料は700円。会期は5月8日まで。

Ron.

「ゴッホ展」 会員向け解説会(B日程)

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開幕した「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「本展」)の名古屋市美術館協力会・会員向け解説会(B日程)に参加しました。気温の変化が激しいためか、6人の欠席があり、参加者は30人。2階講堂で森本陽香学芸員(以下「森本さん」)の解説を聴き、その後、自由観覧・自由解散となりました。

◆2階講堂・森本さんの解説(16:30~17:20)の概要 

メモと記憶で書いていますので、不正確な点はご容赦ください。

・「ヘレーネ」とは?

 本展のサブタイトルは「響きあう魂 へレートフィンセント」。皆さんご存じの通り「フィンセント」はフィンセント・ファン・ゴッホのことですが、「ヘレーネ」は、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(以下「ヘレーネ」)。彼女は、今回出展のクレラー=ミュラー美術館の基礎を築きました。今回、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館からも4点出展。ファン・ゴッホ美術館はファン・ゴッホ家のコレクションを元にしており、クレラー=ミュラー美術館はヘレーネが収集したコレクションを元にしています。いずれのコレクションも、重要性が高く、規模の大きいものです。

・ヘレーネが結婚するまで

 ヘレーネはドイツ人で1869年に、ドイツ中西部・エッセン郊外のホルストで生まれました。まじめで勉強熱心な少女で、父親は鉄鉱石と石炭を扱うミュラー社を設立し、海運業にも進出します。少女時代の名前はクレラー・ミュラー。「教師になりたい」と思っていましたが、19歳の時、アントン・クレラー(以下「アントン」)と結婚し、ヘレーネ・クレラー=ミュラーとなります。「クレラー=ミュラー」は、夫妻の名字を合わせたもので「二重名字」と呼ばれ、ヨーロッパでは良くあることです。

少女の頃、ヘレーネはレッシング、ゲーテ、シラーの著作を熱心に読みました。また、哲学者スピノザの汎神論に興味を示し、教会に対する疑いを抱きました。「宗教によって救われることはありえない」として、心のよりどころを他のものに追い求め、美術作品が心の支えとなりました。

 アントンはミュラー社の社員で、いわば「婿養子」です。会社の都合でヘレーネ夫妻はオランダに引っ越します。父親が死亡するとアントンはミュラー社の取締役となり、彼の商才で会社を成功させます。

・美術教師ブレマーとの出会い、ヘレーネの審美眼

 ヘレーネは、美術教師のヘンドリクス・ペトルス・ブレマー(以下「ブレマー」)と出会い、美術に対する興味を増します。裕福な家庭では、専門家を家庭教師とすることがあり、ヘレーネも1927年、38歳の頃からブレマーのレクチャーを受け始めます。ブレマーは主に図版を使って、美術教育をしましたが、可能な場合には本物の作品を使い、「作品の収集が一番の勉強」とも教えました。ヘレーネの審美眼は、ブレマーから教わったものです。ヘレーネが作品を収集するとき、ブレマーの助言は受けたものの、最後は自分で「これは良い」と思ったものをコレクションする、という姿勢を貫きました。

・所蔵作品の展示

 クレラー=ミュラー美術館本館の展示室は、ヘレーネが館長の頃と変わっていません。しかし、開館後、増築され、野外彫刻も充実しました。開館当時との大きな違いは、作品の展示の仕方です。ヘレーネは作品と作品の間隔を空け、目線の位置に合わせて展示しましたが、展示室の中に家具や椅子も置いています。現在、家具などは置いていません。なお、当時は、二段掛け、三段掛けで天井近くまで使い、壁一面に作品を並べる展示方法が一般的でした。一方、現代の美術館では、ホワイトキューブ(白くて四角い建物)の中に、横一列に間隔を空けて展示するのが一般的です。

・ヘレーネが収集した作品

 ヘレーネが収集した第一号の作品は、パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル《それは遠くからやって来る》(1887)です。作者は、オランダの印象派と言われるハーグ派の画家。フランスとオランダとでは、光が違います。オランダは、グレイがかった灰色の光が多いのです。コレクション第一号なので、堅実な作品を選んでいます。

 また、最初期に集めたゴッホの作品は《森のはずれ》(1883)です。彼がハーグ派やバルビゾン派にあこがれていた頃の作品で、後期のゴッホらしい作品とは趣が異なります。《レモンの籠・瓶》(1885)は、アルル時代の作品です。1909年に購入したもので、レモンが「じゃがいも」のように見えますが、力強い、生命力のある作品です。ゴッホはこの作品で、色彩の使い方、補色の対比を研究しています。激しい色使いではありませんが、黄色いモチーフに赤い輪郭線を描くことで画面を引き締めています。補色関係というと、青と黄色の対比がイメージされますが、この作品ではレモンの黄色とテーブルクロスの黄色という類似色の使い方についても研究しています。ヘレーネは、この作品気に入り、手元に置いて、この作品に対する思いを手紙に残しています。ヘレーネの手紙〈ゴッホが描いたレモンを理解しようとするとき、私は頭の中で数個のレモンをゴッホのレモンの隣に並べてみます。そして、現実のレモンと、ゴッホのレモンがどれほど異なっているかを感じるのです〉(1909.03.26)

この手紙の内容を解釈すると、この作品は「果物としてのレモン」ではなく、「レモンの持っている存在感」を現わしている。現実以上のものを表現していることが大きい、ということだと思います。ヘレーネは「その作品に精神性のようなものを感じられるか」を収集の判断基準にしていました。

・収集した作品の保管場所

収集した作品が増えると自宅では収まらず、ハーグにあったミュラー社の隣のビルを作品の保管場所にしました。1階ホールの写真を見ると、キャビネットの上にも作品が並んでいます。真ん中に写っているのは、今回出展の素描《コーヒーを飲む老人》(1882)です。オランダ時代の油彩を保管している部屋の写真を見ると、二段掛け、三段掛けは当たり前で、作品が壁一面に並んでいます。当初、保管場所は「鑑賞の場」ではありませんでした。収蔵作品を一般に公開するのは1913年以降のことです。

ゴッホの作品を一般公開した当時、ゴッホを常設展示する場所はありませんでした。ヘレーネが一般公開したコレクションは「ゴッホの作品をまとめて見ることができる場所」として重宝されました。

・「展示方法」に対するヘレーネのこだわり

写真をご覧ください。6点の作品を3点ずつ二段掛けで並べています。上段、下段とも中央が縦長の作品、両脇が横長の作品です。上段の左右はどんな作品か判別できませんが、中央は今回出展の《夕暮れの松の木》(1889)、下段中央は《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)です。下段、向かって右は今回出展の《麦束のある月の出の風景》(1889)、向かって左は日の出を描いた作品です。縦長の樹木の絵2点を中央に置き、下段は左右に日の出と月の出を対比して配置するなど、ヘレーネは「どんなふうに見せるか」という点にもこだわりを持っていました。

・クレラー=ミュラー美術館の建設

クレラー=ミュラー美術館はオランダの東南部、オッテルローの町はずれの広大な農地の中にあります。ヘレーネが「美術館は自然豊かなところにあるのが望ましい」と考えたからです。

美術館建設の最初の案は宮殿のようなものでした。しかし、ヘレーネは却下。「シンプルで機能的なものがよい」というヘレーネの考えに基づいてアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドが設計したシンプルな案を採用して建設が始まったのですが、1921年に会社が財政危機に陥り、全ての事業がストップしてしまいました。

 アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドはベルギー出身の、アール・ヌーボー調の建物を設計した建築家です。美術館を設計したのは彼の晩年に当たります。彼が設計した美術館は装飾が少なく、シンプルなものです。また、彼は絵も描き、今回出展の《黄昏》(1889)は、点描による彼の作品です。

 財政破綻の危機に陥ると、多くの場合「コレクションを売却して危機を乗り越える」ということになりますが、ヘレーネはコレクションを売却せず、クレラー=ミュラー財団に移管して作品を守りました。それだけでなく、コレクションの価値を国にアピールし、文部大臣と交渉。その結果、オランダ政府が美術館建設を認めたのですが、1929年に世界恐慌が起きます。紆余曲折を経て、1930年代に、国がクレラー=ミュラー財団のコレクションを元にした美術館の建設を決定。1938年になってクレラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長に就任します。

・ゴッホ作品の評価向上に対するヘレーネの貢献

 1930年代になると生前に比べて、ゴッホの評価はかなり上がりました。収集家の力で、作品の評価が上がったのです。ゴッホの死後、展覧会を開いて徐々に評価が上がり、多額の資金を使った収集によって、ゴッホ作品に世間の関心が集まりました。ヘレーネ以外にもコレクターがいました。また、ファン・ゴッホンの遺族の努力で書簡集が発行されたこともあり、1930年代にはゴッホの評価が確立したのです。

・主なゴッホ作品について

《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》(1890)

このモチーフは、オランダ時代にゴッホがリトグラフで制作したものです。当時、このような姿勢は、よく制作されたモチーフです。この作品はサン・レミ時代に、リトグラフを油彩でコピーしたものです。補色関係の黄色と青の対比が目を引きます。かつて制作したリトグラフと同じモチーフを描いたのは、当時、精神疾患でつらい生活をしていたためです。

 この作品は、夫のアントンが結婚25年の記念として、ヘレーネにプレゼントしたものです。アンリ・ファンタン=ラトゥールの女性像《エヴァ・カリマキ=カタルジの肖像》(1881)と一緒に贈られました。ヘレーネは、アントン宛の手紙(1913.5.17)に〈大きくて、高価な真珠のネックレスをもらったとしても、これほど喜ぶことはなかったでしょう〉と書いています。なお、今回出展作の中に、アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ》(1966)があります。ヘレーネはファン・ゴッホと同じくらい、この作家を評価していました。

《種まく人》(1888)

 ヘレーネは、サン・レミ時代の作品から収集を始め、その後、他の時代の作品も収集するようになります。《種まく人》はアルル時代の作品で、今回の目玉の一つです。ミレーの絵を元にして、色彩豊かに、大きなサイズで現代風に描いたものです。この作品では「太陽」が大きな意味を持っています。ゴッホは、パリ・アルル時代から「教会」のイメージを太陽に置き換えています。オランダ時代にも教会を描いていましたが、パリ・アルル時代から、太陽(自然)を教会(宗教)に置き換えることを意図しています。ヘレーネがどこまで理解していたかは分かりませんが、自分の考えとの親和性を感じていたと思います。

《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)

 ゴーギャンの影響を受け、目の前の景色を見たまま描くのではなく、記憶を再構成して描いています。ベックリン《死の島》に糸杉が描かれているように、糸杉は「死」のイメージを持っています。また、糸杉は南フランスに特徴的なもので、オランダを代表する樹木は柳です。オリーブの樹も南フランスを代表するものです。糸杉はエネルギッシュで、力強いものでもあります。この作品は、世界中で好まれています。

《黄色い家》(1888)

 テオの妻ヨーが尽力して守ったコレクションを所蔵するファン・ゴッホ美術館から出展されました。描かれているのはゴーギャンと共同生活をするために借りた家です。ゴッホとその弟テオも素晴らしいですが、彼らの死後に奔走したヘレーネとヨーの功績も素晴らしいと思います。これまで、さまざまに語られたゴッホの作品ですが、新しい切り口は残っています。

◆最後に

 森本さんは「フィンセント」だけでなく、「ヘレーネ」についても時間を割いて解説してくださいました。クレラー=ミュラー美術館の設計者が点描の画家だったことや、美術館の建設に立ちはだかった様々な障害など、興味深い話をいくつも聞くことができました。森本さん、

ありがとうございました。

Ron

展覧会見てある記 豊橋市美術博物館「絵画コレクション名品展」など

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

現在、豊橋市美術博物館(以下「美術館」)では「プレイバック! 絵画コレクション展」(以下「本展」)を開催しています。本展のチラシには〈当館は2022年6月から翌年9月まで改修整備工事のため休館します。開館後最も長期にわたる休館を前に、当館コレクションの核となる名品の数々をぜひご覧ください〉と書いてあったので「当館コレクションの核となる名品」に興味が沸き、美術館まで出かけてきました。1階でも「第3期特別展示室コレクション展 Face to Face ― 面(つら)つき合わせて」を開催しており、本展は2階常設展示室(全5室)での開催。いずれも会期は3月27日(日)までです。

◆2階 プレイバック! 絵画コレクション展

 2階の受付で観覧料400円を支払い展示室に進むと、通路左側の「テーマ展示コーナー」で、チラシにも使われた、京都市北区・地蔵院の椿を描いた平川敏夫《椿樹》(1970)が出迎えてくれました。紅白の椿を描いた作品ですが、椿の樹が赤と黒で塗り分けられているので「華やかさ」とは違う「力強さ」を感じます。

第1展示室は、幕末から明治期の画人たちの作品を展示。目を引いたのは渡辺小華(1835-1887)の《蔬果図》(1874)と《画帖》(1879)です。解説によれば、渡辺小華は渡辺崋山の次男で、幕末・明治期に田原藩の家老を務め、廃藩置県後は画家として生計を立てたとのことです。

第2展示室は、近代の日本画を展示。和服の若い女性が、おかっぱの女の子が乗った乳母車を押す、高柳淳彦《半蔵御門の朝》(1934)や和服の着付けをしている女性を描いた、遠山唯一《支度》(昭和前期)など、これまでのコレクション展で「これは!」と思った作品がいくつも展示されています。

第3展示室は近代の洋画。岸田劉生《卓上林檎葡萄之図》(1918)、椿貞雄《鶏頭持てる村の婦》(1920)、高須光治《下北沢風景》(1928—35)等を展示しています。解説によれば、椿貞雄・高須光治は岸田劉生の草土社に参加した画家です。

第4展示室は戦後の日本画。中村正義の《花図》(1968)《うしろの人》(1977)を始め、人拓によって描いた星野眞吾《終曲》(1975)、平松礼二《路・波の国から》(1992)など、地元ゆかりの作家の作品が並びます。

第5展示室は「表現の多様化」と題し、写実画、抽象画を展示。スーパーリアリズムの野田弘志《やませみ》(1971),上田薫《玉子にスプーンA》(1986)などと、ミニマル・コンセプショナルの荒川修作《S.A.方程式》(1962)や飯田善國《LOVE-KOI》(1994)などが並んでいるのは壮観です。

◆1階 第3期特別展示室コレクション展  Face to Face ― 面(つら)つき合わせて

 1階のコレクション展は入場無料。展示されているのは「顔」を描いた作品です。

 展示の最初は、筧忠治の《自画像》6点と《母の像》(1927)。仁王様のような自画像が並ぶ中、1947年制作の《自画像》は、レンブラントのようです。中村正義の作品も多く、《顔》5点とユーモラスな《頭でっかちの自画像》(1961)、テラコッタの《顔》30点を展示しています。

 石黒鏘二《もう語るのをやめた》(1972)は、頭にかぶったスカーフだけを表現したブロンズ像。「顔」の部分が空白なので、最初は何を表現しているのかわかりませんでした。

Ron.

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