「ゴッホ展」 会員向け解説会(B日程)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開幕した「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「本展」)の名古屋市美術館協力会・会員向け解説会(B日程)に参加しました。気温の変化が激しいためか、6人の欠席があり、参加者は30人。2階講堂で森本陽香学芸員(以下「森本さん」)の解説を聴き、その後、自由観覧・自由解散となりました。

◆2階講堂・森本さんの解説(16:30~17:20)の概要 

メモと記憶で書いていますので、不正確な点はご容赦ください。

・「ヘレーネ」とは?

 本展のサブタイトルは「響きあう魂 へレートフィンセント」。皆さんご存じの通り「フィンセント」はフィンセント・ファン・ゴッホのことですが、「ヘレーネ」は、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(以下「ヘレーネ」)。彼女は、今回出展のクレラー=ミュラー美術館の基礎を築きました。今回、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館からも4点出展。ファン・ゴッホ美術館はファン・ゴッホ家のコレクションを元にしており、クレラー=ミュラー美術館はヘレーネが収集したコレクションを元にしています。いずれのコレクションも、重要性が高く、規模の大きいものです。

・ヘレーネが結婚するまで

 ヘレーネはドイツ人で1869年に、ドイツ中西部・エッセン郊外のホルストで生まれました。まじめで勉強熱心な少女で、父親は鉄鉱石と石炭を扱うミュラー社を設立し、海運業にも進出します。少女時代の名前はクレラー・ミュラー。「教師になりたい」と思っていましたが、19歳の時、アントン・クレラー(以下「アントン」)と結婚し、ヘレーネ・クレラー=ミュラーとなります。「クレラー=ミュラー」は、夫妻の名字を合わせたもので「二重名字」と呼ばれ、ヨーロッパでは良くあることです。

少女の頃、ヘレーネはレッシング、ゲーテ、シラーの著作を熱心に読みました。また、哲学者スピノザの汎神論に興味を示し、教会に対する疑いを抱きました。「宗教によって救われることはありえない」として、心のよりどころを他のものに追い求め、美術作品が心の支えとなりました。

 アントンはミュラー社の社員で、いわば「婿養子」です。会社の都合でヘレーネ夫妻はオランダに引っ越します。父親が死亡するとアントンはミュラー社の取締役となり、彼の商才で会社を成功させます。

・美術教師ブレマーとの出会い、ヘレーネの審美眼

 ヘレーネは、美術教師のヘンドリクス・ペトルス・ブレマー(以下「ブレマー」)と出会い、美術に対する興味を増します。裕福な家庭では、専門家を家庭教師とすることがあり、ヘレーネも1927年、38歳の頃からブレマーのレクチャーを受け始めます。ブレマーは主に図版を使って、美術教育をしましたが、可能な場合には本物の作品を使い、「作品の収集が一番の勉強」とも教えました。ヘレーネの審美眼は、ブレマーから教わったものです。ヘレーネが作品を収集するとき、ブレマーの助言は受けたものの、最後は自分で「これは良い」と思ったものをコレクションする、という姿勢を貫きました。

・所蔵作品の展示

 クレラー=ミュラー美術館本館の展示室は、ヘレーネが館長の頃と変わっていません。しかし、開館後、増築され、野外彫刻も充実しました。開館当時との大きな違いは、作品の展示の仕方です。ヘレーネは作品と作品の間隔を空け、目線の位置に合わせて展示しましたが、展示室の中に家具や椅子も置いています。現在、家具などは置いていません。なお、当時は、二段掛け、三段掛けで天井近くまで使い、壁一面に作品を並べる展示方法が一般的でした。一方、現代の美術館では、ホワイトキューブ(白くて四角い建物)の中に、横一列に間隔を空けて展示するのが一般的です。

・ヘレーネが収集した作品

 ヘレーネが収集した第一号の作品は、パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル《それは遠くからやって来る》(1887)です。作者は、オランダの印象派と言われるハーグ派の画家。フランスとオランダとでは、光が違います。オランダは、グレイがかった灰色の光が多いのです。コレクション第一号なので、堅実な作品を選んでいます。

 また、最初期に集めたゴッホの作品は《森のはずれ》(1883)です。彼がハーグ派やバルビゾン派にあこがれていた頃の作品で、後期のゴッホらしい作品とは趣が異なります。《レモンの籠・瓶》(1885)は、アルル時代の作品です。1909年に購入したもので、レモンが「じゃがいも」のように見えますが、力強い、生命力のある作品です。ゴッホはこの作品で、色彩の使い方、補色の対比を研究しています。激しい色使いではありませんが、黄色いモチーフに赤い輪郭線を描くことで画面を引き締めています。補色関係というと、青と黄色の対比がイメージされますが、この作品ではレモンの黄色とテーブルクロスの黄色という類似色の使い方についても研究しています。ヘレーネは、この作品気に入り、手元に置いて、この作品に対する思いを手紙に残しています。ヘレーネの手紙〈ゴッホが描いたレモンを理解しようとするとき、私は頭の中で数個のレモンをゴッホのレモンの隣に並べてみます。そして、現実のレモンと、ゴッホのレモンがどれほど異なっているかを感じるのです〉(1909.03.26)

この手紙の内容を解釈すると、この作品は「果物としてのレモン」ではなく、「レモンの持っている存在感」を現わしている。現実以上のものを表現していることが大きい、ということだと思います。ヘレーネは「その作品に精神性のようなものを感じられるか」を収集の判断基準にしていました。

・収集した作品の保管場所

収集した作品が増えると自宅では収まらず、ハーグにあったミュラー社の隣のビルを作品の保管場所にしました。1階ホールの写真を見ると、キャビネットの上にも作品が並んでいます。真ん中に写っているのは、今回出展の素描《コーヒーを飲む老人》(1882)です。オランダ時代の油彩を保管している部屋の写真を見ると、二段掛け、三段掛けは当たり前で、作品が壁一面に並んでいます。当初、保管場所は「鑑賞の場」ではありませんでした。収蔵作品を一般に公開するのは1913年以降のことです。

ゴッホの作品を一般公開した当時、ゴッホを常設展示する場所はありませんでした。ヘレーネが一般公開したコレクションは「ゴッホの作品をまとめて見ることができる場所」として重宝されました。

・「展示方法」に対するヘレーネのこだわり

写真をご覧ください。6点の作品を3点ずつ二段掛けで並べています。上段、下段とも中央が縦長の作品、両脇が横長の作品です。上段の左右はどんな作品か判別できませんが、中央は今回出展の《夕暮れの松の木》(1889)、下段中央は《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)です。下段、向かって右は今回出展の《麦束のある月の出の風景》(1889)、向かって左は日の出を描いた作品です。縦長の樹木の絵2点を中央に置き、下段は左右に日の出と月の出を対比して配置するなど、ヘレーネは「どんなふうに見せるか」という点にもこだわりを持っていました。

・クレラー=ミュラー美術館の建設

クレラー=ミュラー美術館はオランダの東南部、オッテルローの町はずれの広大な農地の中にあります。ヘレーネが「美術館は自然豊かなところにあるのが望ましい」と考えたからです。

美術館建設の最初の案は宮殿のようなものでした。しかし、ヘレーネは却下。「シンプルで機能的なものがよい」というヘレーネの考えに基づいてアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドが設計したシンプルな案を採用して建設が始まったのですが、1921年に会社が財政危機に陥り、全ての事業がストップしてしまいました。

 アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドはベルギー出身の、アール・ヌーボー調の建物を設計した建築家です。美術館を設計したのは彼の晩年に当たります。彼が設計した美術館は装飾が少なく、シンプルなものです。また、彼は絵も描き、今回出展の《黄昏》(1889)は、点描による彼の作品です。

 財政破綻の危機に陥ると、多くの場合「コレクションを売却して危機を乗り越える」ということになりますが、ヘレーネはコレクションを売却せず、クレラー=ミュラー財団に移管して作品を守りました。それだけでなく、コレクションの価値を国にアピールし、文部大臣と交渉。その結果、オランダ政府が美術館建設を認めたのですが、1929年に世界恐慌が起きます。紆余曲折を経て、1930年代に、国がクレラー=ミュラー財団のコレクションを元にした美術館の建設を決定。1938年になってクレラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長に就任します。

・ゴッホ作品の評価向上に対するヘレーネの貢献

 1930年代になると生前に比べて、ゴッホの評価はかなり上がりました。収集家の力で、作品の評価が上がったのです。ゴッホの死後、展覧会を開いて徐々に評価が上がり、多額の資金を使った収集によって、ゴッホ作品に世間の関心が集まりました。ヘレーネ以外にもコレクターがいました。また、ファン・ゴッホンの遺族の努力で書簡集が発行されたこともあり、1930年代にはゴッホの評価が確立したのです。

・主なゴッホ作品について

《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》(1890)

このモチーフは、オランダ時代にゴッホがリトグラフで制作したものです。当時、このような姿勢は、よく制作されたモチーフです。この作品はサン・レミ時代に、リトグラフを油彩でコピーしたものです。補色関係の黄色と青の対比が目を引きます。かつて制作したリトグラフと同じモチーフを描いたのは、当時、精神疾患でつらい生活をしていたためです。

 この作品は、夫のアントンが結婚25年の記念として、ヘレーネにプレゼントしたものです。アンリ・ファンタン=ラトゥールの女性像《エヴァ・カリマキ=カタルジの肖像》(1881)と一緒に贈られました。ヘレーネは、アントン宛の手紙(1913.5.17)に〈大きくて、高価な真珠のネックレスをもらったとしても、これほど喜ぶことはなかったでしょう〉と書いています。なお、今回出展作の中に、アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ》(1966)があります。ヘレーネはファン・ゴッホと同じくらい、この作家を評価していました。

《種まく人》(1888)

 ヘレーネは、サン・レミ時代の作品から収集を始め、その後、他の時代の作品も収集するようになります。《種まく人》はアルル時代の作品で、今回の目玉の一つです。ミレーの絵を元にして、色彩豊かに、大きなサイズで現代風に描いたものです。この作品では「太陽」が大きな意味を持っています。ゴッホは、パリ・アルル時代から「教会」のイメージを太陽に置き換えています。オランダ時代にも教会を描いていましたが、パリ・アルル時代から、太陽(自然)を教会(宗教)に置き換えることを意図しています。ヘレーネがどこまで理解していたかは分かりませんが、自分の考えとの親和性を感じていたと思います。

《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)

 ゴーギャンの影響を受け、目の前の景色を見たまま描くのではなく、記憶を再構成して描いています。ベックリン《死の島》に糸杉が描かれているように、糸杉は「死」のイメージを持っています。また、糸杉は南フランスに特徴的なもので、オランダを代表する樹木は柳です。オリーブの樹も南フランスを代表するものです。糸杉はエネルギッシュで、力強いものでもあります。この作品は、世界中で好まれています。

《黄色い家》(1888)

 テオの妻ヨーが尽力して守ったコレクションを所蔵するファン・ゴッホ美術館から出展されました。描かれているのはゴーギャンと共同生活をするために借りた家です。ゴッホとその弟テオも素晴らしいですが、彼らの死後に奔走したヘレーネとヨーの功績も素晴らしいと思います。これまで、さまざまに語られたゴッホの作品ですが、新しい切り口は残っています。

◆最後に

 森本さんは「フィンセント」だけでなく、「ヘレーネ」についても時間を割いて解説してくださいました。クレラー=ミュラー美術館の設計者が点描の画家だったことや、美術館の建設に立ちはだかった様々な障害など、興味深い話をいくつも聞くことができました。森本さん、

ありがとうございました。

Ron

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