お知らせ

2025年12月1日

2025年協力会イベント情報

現在、下記のイベントの申し込みを受け付けています。

1.コレクション×現代美術 名古屋市美術館をめぐる4つの対話 協力会会員向け解説会 名古屋市美術館 

第1回  令和8年1日(金)16:00~

第2回  令和8年1月25日(日)15:00~

参加希望の会員の方は、ファックスか電話でお申し込みください。ホームページからの申し込みも可能です。両方の回に参加も可能です。

最新の情報につきましては随時ホームページにアップしますので、ご確認ください。また、くれぐれも体調にはご留意ください。

これまでに制作された協力会オリジナルカレンダーのまとめページを作りました。右側サイドメニューの「オリジナルカレンダー」からご覧ください。

事務局

読書ノート 「シャネルの真実」 山口昌子(しょうこ)著 新潮文庫 2008年4月1日 発行

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2022.07.08付中日新聞の「Cultre」欄に、豊田市美術館で開催中の「交歓するモダン」の記事が載っていました。記事の「コルセットが不要なドレスが出現」「大戦の影響で女性が主力になった」という言葉に刺激され、Little Black Dressについて「もう少し掘り下げたい」と思い、本書を手に取りました。

◆本書の成り立ちと内容

本書の著者は執筆当時、産経新聞パリ支局長。「あとがき」によると、産経新聞の大型企画「20世紀特派員」の枠組みで1997年6月2日から7月18まで「皆殺しの天使」(シャネルが、コルセットなどの服装面のみならず、19世紀的なものをすべて葬ったという意味)の題名で連載。加筆して「シャネルの真実」と改題し、2002年4月に人文書院から刊行。2008年に新潮文庫として刊行後、2016年から講談社+α文庫が刊行。私は新潮文庫を古本で購入しましたが、講談社+α文庫なら、新刊が買えます。

本書は、綿密な取材に基づいて、シャネルの生い立ちから晩年までを書いています。第3章で米国のモード誌『ハーバーズ・バザール』1916年11月号がシャネのドレスを取り上げたことに触れ、1917年に同誌が《シャネルを一枚も持っていない女性は、取り返しがつかないほど流行遅れである》と述べたことも書いていますが、ずばりLittle Black Dressについて記しているのは、第4章の「モードの革命 小さな黒い服とショルダーバッグ」(本書p.210~p.220)です。以下、その主な内容を記します。

◆1926年10月1日付『Vogue』米国版が、Little Black Dressを紹介

本書は「『Vogue』がシャネルのLittle Black Dressを“シャネル・フォード”と呼びイラスト付きで紹介」と書いています。ネットで、”Chanels original Little Black ‘Ford’ Dress”と表示された画像を発見しました。

●画像:”Chanels original Little black ‘Ford’ Dress”と表示された、長袖ドレスの写真とイラスト

URL: chanels-little-blackford-dress-1926.jpg (569×624) (glamourdaze.com)

Vogue は読者に「フォードの大衆車が同じ型だからといって、買うのをためらう人がいるだろうか」と問いかけ、シャネルのLittle black dressの品質と大衆性を、‘Ford’ Dressという言葉で表現したのです。

●画像:Little black dressには、袖の無いものもある

URL: z17702365IH,Coco-Chanel-i-jej-projekty.jpg (700×700) (im-g.pl)

◆Little black dressの革新性とは

本書は、Little black dressの革新性を「第一に(略)喪服のイメージしかなかった黒を単色でまとめた点である。(略)第二に、誰にでも着られるという大衆性だった。(略)それは同時に第三者のコピーが可能だ、という点にもつながる。その点でシャネルは20世紀が(略)大量生産、消費社会の到来であることをいちはやく見抜いていたことになる」と、書いています。本書が「コルセット不要」を「Little black dressの革新性」に入れていないのは「既に、ポール・ポワレのドレスがコルセット不要だったから」だと思います。

Little black dressが広く流行したのは、他者にコピーされたからです。本書は「シャネルは他のデザイナーたちと異なってコピーを恐れず、《私は自分のつくり出したアイデアが他人によって実現されたときのほうがうれしくさえある》とさえ断言している」と書いています。シャネルは「たとえ他人にコピーされても、自分の作品は売れる」と、自らの才能に自信を持っていたのですね。

◆シャネルとは対照的に、戦後フランスファッションの主役だったポール・ポワレは転落

豊田市美術館「交歓するモダン」では、「戦後フランスファッションの展開」の展示で一番目立つ場所にあったのは、ポール・ポワレ《デイ・ドレス「ブルトンヌ」》でした。1925年に開催された「アール・デコ展」でもポワレが主役。本書は「この時、ポワレがシャネル出品の黒のサテンや黒のジョーゼットのシンプルな作品を見て、「貧困主義」と皮肉ったことはよく知られている。しかし、この言葉は後世には結局、ポワレの敗北宣言として流布されることになる」と、書いています。「貧困主義」の意味するところは、よく分かりませんが「シンプルで装飾の少ない服は貧乏くさい」という指摘なら、ポワレは「時代のニーズを把握できなかった人物」ということになります。Little black dressが流行したのは、「大戦の影響で女性が主力になった」ことによりシンプルで着やすい服が求められたからだと、私は思います。ポワレは「アール・デコ展」の12年後、1937年に破産の憂き目を見て、1944年に極貧の中で死去。本書は「彼自身は最後まで、なぜ、自分がシャネルに敗北したのか、正確には理解できなかったかもしれない」と、書いています。

Ron.

ボテロ展、「山田五郎 おとなの教養講座」は必見

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

来る7月17日(日)午後4時から「ボテロ展 ふくよかな魔法」の協力会向け解説会が開催されます。

協力会から届いたチラシを見ると、人も、動物も、花も、楽器も、何もかもが「ぽっちゃり」。「コロンビアの巨匠 待望の“大”絵画展」という文字も躍っています。

「ぽっちゃりとした絵を描く人、という以外の知識が全く無い」とつぶやいたところ、ある人が「それだけ分かっていれば、十分」と慰めてくれました。それでも、「何か予備知識を得たい」と思っていたところ、出会ったのが、フェルナンド・ボテロを取り上げたyoutube動画「山田五郎 おとなの教養講座」です。

動画の冒頭で「案件=ボテロ展のプロモーションを含む動画」だと、種明かしをしています。出品作品の写真も多数出てきて、必見の動画だと思いますよ。

なお、URLは下記のとおり。

(1570) 【ボテロ】なぜモナ・リザをふくよかに!?コロンビアの巨匠の深い意図【パロディじゃない!】 – YouTube

 ネタバレになってしまうので動画の内容を詳しく書くことはできませんが、ボテロの作品は「パロディ」などではなく「古典をリスペクトして真剣に制作したものだ」ということが分かりました。 Ron

「ゲルハルト・リヒター展」に関するノート

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

6月25日付日本経済新聞文化欄で岩本文枝記者による「ゲルハルト・リヒター展」の展覧会評を読んだ翌日、名古屋市美術館に出かけると、ミュージアムショップに「ゲルハルト・リヒター展」を特集した「美術手帖」が何冊も並んでいました。巡回先は豊田市美術館ですが「名古屋市美術館のショップとしても無視できない」ということですね。また、youtubeを検索すると、数多くの「ゲルハルト・リヒター展」関連の動画がアップされています。展示風景を見ることや、展覧会の感想を語り合う声、2020年に公開された映画「ある芸術家の数奇な運命」の感想などを聞くことも出来ます。2022.06.30には「美術展ナビ」の「ゲルハルト・リヒター展」の特集も掲載され、家にいながら展覧会情報を得ることができました。以下は、検索した中で、気になった記事です。

◆『美術展ナビ』 「ゲルハルト・リヒター展」絵画の可能性とものを認識する原理を追求 2022.06.30

URL: https://artexhibition.jp/topics/news/20220630-AEJ863199/

・鏡を生かした展示

展示室の写真と文章を交えながらのレポート。最初の写真は《ビルケナウ》の展示室。向かって右が《ビルケナウ》2014、左が《ビルケナウ(写真バージョン)》2014、正面は《グレイの鏡》2019。《グレイの鏡》は灰色に塗った鏡で、左右の作品だけでなく、観客と《ビルケナウ》の元になった4枚の写真も写り込んでいます。『美術展ナビ』は「リヒター自身が日本側と直接ディスカッションを行い、構成を考えた」と書いています。《ビルケナウ》が鏡の写り込みを生かした展示構成になっているのも、リヒター自身のアイデアに基づくものなのでしょう。なお、《鏡》1968の写真にも《4009の色彩》2007が写り込んでいました。

・《ビルケナウ》について

高さ2.6m、幅2mの巨大な4点の油彩画《ビルケナウ》については「この絵の下には、収容所内で密かに撮影された写真のイメージが描かれています。鑑賞者は直接そのイメージを目にすることはできません。よって自ずと知識や記憶、想像力を働かせ、絵具の下に隠れたイメージを思い描くことになります」と書いています。何か肩透かしを食らった気分になりますが、日本経済新聞は「リヒターは1960年代以降、ホロコーストという主題に何度か取り組もうとし、その深刻さゆえに断念してきた。ようやく到達した本作によって芸術的課題から『自由になった』と語る」と書き、この作品の手法を認めているようです。

・フォト・ペインティング

 『美術展ナビ』は「リヒターの代名詞ともいえるフォト・ペインティングやアブストラクト・ペインティングから、肖像画やオイル・オン・フォト、そして最新のドローイングまで、その画業を通覧するにふさわしい内容となっています」と書き、フォト・ペインティングとして赤ちゃんを描いた《モーリッツ》と、ピンクのセーター女の子を描いた《エラ》(本展のチラシに使用)の写真を掲載しています。

 写真を絵画に写し取った作品が、ボケやブレなどを書き加えているとはいえ、なぜ高い価格で買われるのか不思議ですが「リヒターがフォト・ペインティングで作家としての評価を得た」ことは事実です。

 残念ながら知識不足のため、これ以上掘り下げることはできませんでした。「IMA LIVING WITH RHOTOGRAPHY」というサイトに「東京国立近代美術館 『ゲルハルト・リヒター展』より 写真と絵画、どちらが客観か主観か」という、東京国立近代美術館主任研究員・桝田倫広さんへのインタビュー記事(URL: https://imaonline.jp/articles/archive/20220527gerhard-richter/#page-1)が掲載されていますので、ご覧ください。

◆「ゲルハルト・リヒター展」の動画

 検索ワードを「youtube ゲルハルト・リヒター展 / Gerhard Richter – 東京国立近代美術館」と打ち込んで検索したところ、3分51秒の動画と2分12秒の動画がヒットしました。いずれも開幕早々に撮影した動画のようで、短い時間で展覧会の雰囲気をつかむことができます。

Ron.

ガブリエル・シャネルの「リトル・ブラック・ドレス」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆ 豊田市美術館で見たシャネルのドレスと同じようなドレスを「美術展ナビ」で発見

豊田市美術館「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」で見た、ガブリエル・シャネル(1883-1971)《イヴニング・ドレス》(1927年頃)が気になり、ネットで検索したところ「美術展ナビ」で同じようなドレスを発見しました。記事は、「ガブリエル・シャネル展」(三菱一号館美術館)の特集(URL: https://artexhibition.jp/topics/news/20220627-AEJ858090/)で、ドレスの説明は《イヴニング・ドレス》(1920年代後半)というもの。「美術展ナビ」の記事には「1920年代から30年代にかけて、ツーピースのスーツや単色のドレスが登場。過剰な飾り気がなく、柔らかでシンプルな造形は『リトル・ブラック・ドレス』など、シャネルの『マニュフェスト』の重要な要素として定着していきます」と書かれていました。

◆ 「リトル・ブラック・ドレス」とは何か? その革新性は?

リトル・ブラック・ドレス(Little black dress)については「ココ・シャネルの歴史的な業績とは何か」に分かりやすい説明がありました。(URL: https://histori-ai.net/archives/1522

記事の要点は、以下のとおりです

・1926年、アメリカのファッション誌「VOGUE」で紹介されて、一躍世界中に広まった

現在の目で見ると「女性用の普通の黒いワンピース」だが、以下の革新性があった

・コルセットをしていない

コルセットの着用によって多くのヨーロッパの貴婦人は行動の自由を制限された生活を送った。そんな中で、シャネルはコルセット不要なドレスを発表して社会に受け入れられた

・黒一色のみ

当時、黒一色の服は「喪服」か「黒の組織」のメンバーの一員を意味した。その様な中でシャネルは黒一色のドレスを発表。このドレスの爆発的な普及により黒を喪服以外での通常のファッションカラーとして世間一般に認知させることに成功した

・スカートの丈が膝丈

当時は、裾が床に触れるほど長く、レースやフリルがついたドレスが一般的。シャネルは簡素で筒状の「裾が膝丈まで」という非常にシンプルなデザインで新しい女性像を提案。女性が歩きやすい、動きやすい、活動しやすいことを前提としたデザインされたドレスだった

◆ ネット記事「実は『新』定番だった リトル・ブラック・ドレスの歴史」 より

 URL:http://www.fragmentsmag.com/2015/10/little-black-dress-history/

 見出しのネット記事には「1929年に米国に起こった大恐慌の頃は、質素倹約の時代。それが逆に追い風になり、リトル・ブラック・ドレスは定着。女性の「定番」となっていくのです」と書かれていました。

また、1961年に公開された「ティファニーで朝食を」で、黒のシックなドレスを身にまとったオードリー・ヘップバーンと、そのドレスをデザインしたユベール・ド・ジバンシィが「リトル・ブラック・ドレスを1960年代のファッションアイコンに育てた」とも書いています。

◆最後に

 「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」に展示されていたガブリエル・シャネルの《イヴニング・ドレス》。気になった訳は「歴史的な作品だったから」でした。

Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」他

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor
交歓するモダン機能と装飾のポリフォニー東玄関の看板

豊田市美術館で開催中の「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」に出かけました。同時開催のコレクション展「色、いろいろ」と常設展も見てきましたので、簡単にレポートします。

◆「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」(1階 展示室8+展示室6・7)

 展示されているのは、1900年代から1930年代にかけて制作されたイヴニング・ドレスやコート、帽子などのファッションと机や椅子、食器、家具などのインテリア、テキスタイル(服飾、インテリアに用いる布地・織物)です。展示室に入ると「クリムト展」に出品されたコロマン・モーザー《アームチェア》(1903頃)を始めとする、ウィーン工房の資料・製品が並んでいました。以下は、印象に残った展示内容です。

○ モダンな柄の浴衣と朱色の机・椅子(日本における生活改善運動)

斎藤佳三 手前左:表現浴衣 制作年不詳、手前右:表現浴衣「青い鳥(ブルーバード)の塒(ねぐら)」1930年頃、奥:表現浴衣染見本 左「一路の旅」 右「氷の層」制作年不詳

 展覧会の主な出品作は西欧のもの。その中に、日本の浴衣や朱色の机・椅子の展示があったのでびっくり。浴衣と浴衣の染見本は、ドイツ留学の経験があるデザイナー・斎藤佳三(さいとう・かぞう 1877-1956)《表現浴衣》と《表現浴衣染見本》です。展示されている浴衣は、現在市販されているものよりも小さく見えました。朱色の家具は、ロンドン王立美術学校等で学んだ経験のある家具デザイナー・森谷延雄(もりや・のぶお 1893-1927)「朱の食堂」の3点=《茶卓子》《食卓》《肘掛椅子》でした。「朱」といってもピンクに近い色で、家具や長椅子の写ったパネルも展示されていました。いずれも「昭和モダン」を感じさせる展示品です。

森谷延雄  左:「朱の食堂」の茶卓子 1925年(再製作)、中:「朱の食堂」の食卓 1925年(再製作)、右:「朱の食堂」の肘掛椅子 1925年(再製作)

○ ドレスの展示コーナーが二か所(戦後フランスファッションの展開、ファッションのモダニズム)

戦後フランスファッションの展開  手前:ポール・ポワレ デイ・ドレス「ブルトンヌ」1921年、奥(左から):マドレーヌ・パニゾン クロシェ 1925年頃、ポール・ポワレ コート 1920年代、ジャンヌ・ランヴァン ドレス「ローブ・ド・スティル」1926~27年、同 イヴニング・ドレス 1924年頃

 「戦後フランスファッションの展開」は第一次世界大戦後のドレスなどを展示。ポール・ポワレ(1879-1944)《デイ・ドレス「ブルトンヌ」》(1921年)は「脱コルセット」のスタイルで、中国風のゆったりした襞のあるドレス。隣の区画の「ファッションのモダニズム」では、ガブリエル・シャネル(1883-1971)《イヴニング・ドレス》(1927年頃)を展示。シンプルで直線的なスタイルです。流行の中心が、ポール・ポワレに代表されるアール・デコから、シャネルに代表されるモダニズムのファッションへ移っていったことが分かります。

ファッションのモダニズム    手前:マドレーヌ・ヴィオネ ディ・ドレス 1934年頃、
奥左:ガブリエル・シャネル イヴニング・ドレス 1927年頃、奥中:同 イヴニングドレス 1920年頃、奥右:マドレーヌ・ヴィオネ イヴニング・ドレス 1922年代

○ 抽象画とテキスタイルの相性は抜群(初期バウハウス)

 パウルクレー(1879-1940)《花開く木をめぐる抽象》(1925年:豊田市美術館のホームページに図版)の周りには、BH(バウハウスの)グンテ・シュテルツル《テキスタイルのデザイン》(1927年)を始め、幾何学模様などの抽象的な作品が並んでいました。抽象画だと少し腰が引けますが、抽象画のような幾何学模様のテキスタイルは、モダンで受け入れやすい作品でした。「抽象画とテキスタイルの相性は抜群」だと思います。

○ 机と椅子の名品(デッサウ以降のバウハウス)

デッサウ以降のバウ・ハウス奥:
BH マルセル・ブロイヤー クラブチェア B3(ワシリー) 1925年
中央:BH ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ  アームチェア MR534  1927/1932年
手前:同テーブル 1933年

 豊田市美術館の家具コレクションから出品された、世界的なモダニズム建築家BHルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)設計の《アームチェア MR534》(1927/1932年)と《テーブル》(1933年)を見ることが出来ました。《アームチェア》は、クロームメッキのスティール管を曲げたカンチレバー(コの字型の片持ち梁)の脚を持つ斬新なデザインの椅子。ガラスの丸い天板を持つ《テーブル》もおしゃれです。

◆コレクション展「色、いろいろ」

○ モノクローム(単色) 2階 展示室1

 山口啓介《原子力発電所6》(1995年)=茶色、ジョゼッペ・ペレーノ《黒鉛の皮膚-方鉛鉱の影》(2007年)=黒、を始め大型の作品が並んでいます。天井が高くて広い空間なので、迫力がありました。

○ ポリクローム(多彩) 3階 展示室2

クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》(1913/14年)は、いつもとは違い展示室2に展示。トニー・クラーグ《無題(棚に置いた5本のボトル)》(1982年)なども展示しています。

○ 素材の色 3階 展示室3

展示室に入ると目に飛び込んで来るのは、真っ黒な鉄で出来た青木野枝《Untitled》(1995年)です。この外に、木の色そのままの李禹煥《刻みより》(1973年)など、素材の色を生かした作品が並んでいます。

○ B/W(白黒)+ 色で/を表現する 3階 展示室4

「B/W(白黒)」では、山本糾の大型写真《落下する水-那智滝》(1991年)と《暗い水-立山Ⅰ》(1991年)に目を奪われます。「色で/を表現する」には、高松次郎《板の単体(赤)》(1970年)や真っ青なイヴ・クライン《モノクロームIKB65》(1960年)など、色彩を前面に出した作品が並んでいます。

◆常設展(2階・展示室5)

 奈良美智の作品が7点、圧巻です。岸田劉生《自画像》(1913年)、藤田嗣治《美しいスペイン女》(1949年)、ジャコメッティ《ディエゴの肖像》(1954年)なども並んでいて、ほっとしました。

◆最後に

 ファッションやインテリア、テキスタイルに興味のある方にお勧めの展覧会です。           Ron.

愛知県美術館「ミロ展 日本を夢みて」ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

愛知県美術館(以下「県美」)で開催中の「ミロ展 日本を夢みて」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は22名、県美12階のアートスペースAで県美の副田一穂主任学芸員(以下「副田さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆ 副田さんの解説(10:00~45)の概要

〇「庄司達展」の二館同時期開催について

解説の冒頭、副田さんから、県美コレクション展の「庄司達/新聞」と名古屋市美術館(以下「市美」)の「庄司達 布の庭にあそぶ」について、「同時開催を協議していた訳ではないけれど、二館をあわせて鑑賞してください。愛知芸術文化センターの情報誌AAC(2022年6月号)に「庄司達/新聞」関連の記事を掲載しているので、是非お読みください」との話がありました。家に帰って、パソコンでAAC vol.112│情報誌AAC ウェブマガジン (pref.aichi.jp)を検索すると庄司達さんへのインタビューが掲載されていました。《白い布による空間》の翌年制作の《赤い布による空間》の写真もあり、読み応えのある記事でした。

〇ミロ展の企画・開催は、副田さんの夢だった

副田さんの卒業論文のテーマは「ミロ」とのこと。「ミロの展覧会を企画したいという夢を持っていた。しかし、県美では2002年にミロの回顧展を開催しているのであきらめていたところ、今回、開催することになった」と、本展に対する意気込みを語ってくれました。本展に関する雑誌記事は、どれにも副田さんが登場。テレビ愛知「新美の巨人たち」にも登場していましたね。

〇“Joan Miró”は、ジュアン・ミロ? ホアン・ミロ?

 次の話題はJoan Miró(1893-1983)の読み方。中学生の時「ホアン・ミロ」と読んだ覚えがありますが、本展では「ジュアン・ミロ」。副田さんから「スペインの国語は、カスティーリャ語・ガリシア語・バスク語・カタルーニャ語の四つ。スペイン語という場合は、カスティーリャ語を指す。ミロはバルセロナ生まれのカタルニア人。綴りは同じでも、ホアンはカスティーリャ語。カタルーニャ語だとジュアン。Київが、ロシア語のキエフからウクライナ語のキーウになったのと同じ」との解説がありました。

〇ミロは、抽象画家ではない

副田さんの話で面白かったのは「ミロは抽象画家ではない」というもの。軟体動物のようなグニャグニャの姿でも、具体的な物を描いているそうです。また、文字(単語)と画像を区別せず、「鳥」「蜂」という単語の綴りを画面に書くことで、「鳥」「蜂」の姿を描いたことにする、というのもミロの作風、という話も楽しかったですね。

〇ピカソが《ゲルニカ》を発表したパリ万博のスペイン館に、ミロも壁画を発表

「1937年に開催されたパリ万博のスペイン館と言えば、ピカソ《ゲルニカ》が有名ですが、ミロも壁画《刈り入れ人》を発表。しかし、《刈り入れ人》はスペインに戻すときに行方不明になった」という話にも興味を惹かれました。スペイン館の吹き曝しの場所にゲルニカが無造作に展示されている写真には、びっくり。とはいえ、当時のスペイン政府は内戦中なので、若手画家の作品がぞんざいな扱いになったのも無理はない、と思い直しました。

〇フランコ政権下のミロ

 「第二次世界大戦時、多くのシュルレアリストはアメリカに逃げたが、ミロはスペインに戻り、地中海のスペイン領マジョルカ島で暮らした」とのことです。ミロは反フランコ派だったため、フランコ政権下のスペインでは完全に無視され、新作はパリ、ニューヨークで発表。代表作の《星座》シリーズは、小さな紙の作品。画材、用具が不足していたため、大きなキャンバスに描くことができなかった、という話を聞いて「現在はスペインを代表する作家だけれど、ミロの人生は順風満帆という訳ではなかった」ということが、よくわかりました。

〇本展のテーマ「日本とのつながり」について

「日本を夢みて」という副題で示される「日本とのつながり」は初耳でした。「バルセロナはフランスに近く、ミロの生まれる5年前からジャポニスムが流入していた。1888年開催のバルセロナ万博・日本館では陶磁器、浮世絵を展示。1918.02.16~3.3にミロが個展を開催したダルマオ・ギャラリーでは、同時に浮世絵展、鍔展も開催」という話を聞いて、「ミロの身近に日本があった」ということが分かりました。

1950年にバルセロナで開催された「日本民藝展」では、戦前から神戸に滞在していたスペイン人のエルダウ・セラが収集した大津絵やゴミスの収集した「古作こけし」(戦前に制作した希少品)が展示された、という話や日本の陶芸を研究し、柳宗悦・濱田庄司と交流のあった陶芸作家・アルティガス親子を通して「やきもの」にものめり込んだ、仙厓の《〇△□》もお気に入りで、《無題》(1972)にも「〇△□」が登場する、という話も興味深いものでした。

〇「書」のようで、「書」ではない?作品

副田さんは、書と抽象美術のクロスオーバーのようなミロの作品にも言及しました。ただ、「書」として見た場合のミロの作品に対する書家の評価は高くない。「実に汚いような、ドタバタしたような」とか「下書きしてから書く人はいない」「筆勢、かすれ分かっていない」「習字ではタブーとされている、一度書いた線にもう一度筆を加えている」という話は意外でした。

「実物をみないとわからない」という言葉で、副田さんの解説は終了。ミロの作品の価値を実物と向き合って感じてください、という趣旨の言葉を受けて、自由観覧となりました。

◆ カスティーリャという名前について(おまけ)

ミニツアーに向かう途中に読んでいた、佐藤賢一「王の綽名 『勇敢王』カスティーリャ王アルフォンソ6世」という2022.06.04付日本経済新聞の記事に「カスティーリャ」という名前の由来が書かれていましたので、その抜粋をご紹介します。

カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位1072-1109年)は「勇敢王」の綽名で歴史に残る。スペイン語で「エル・ブラボー」、つまりは英語の「ザ・ブレイヴ」(略)カスティーリャは全体どこの国なのか。スペインだが、地名としては古代フェニキア人がイベリア半島を「イシャファニム」と呼び、それを聞いたギリシャ人、ついでローマ人が「ヒスパニア」と発音し、これがスペイン語の「エスパーニャ」、英語の「スペイン」になった。定着したのは、古代ローマ帝国の「属州ヒスパニア」が長かったからだが、5世紀にゲルマン民族大移動が起こると、その一派である西ゴート族が定着して、この地に西ゴート王国を建てた。(略)

8世紀には今度は北アフリカからイスラム教徒が攻め上ってきた。侵攻開始が711年で、その年には西ゴート王国が事実上倒壊。半島はあっという間に征服されてしまった。(略)

西ゴート王国の貴族(略)ペラヨが今のアストゥリアス地方に逃れ(略)キリスト教徒の小さな王国を残すことに成功していた。(略)10世紀初頭以降はレオン王国と呼ばれる。さらに東に拡げた領土に建てられたのがカスティーリャ伯領だが、これが王国から独立を試みたり、隣国ナバラに奪われたり。そのナバラの王子としてカスティーリャ伯領をもらい、妃の相続権でレオン王国も手に入れて、レオンとカスティーリャの再統一に成功した王がフェルナンド1世で、その息子がアルフォンソ6世なのだ。

以後そこはカスティーリャ王国と呼ばれる(略)領土を拡げてきたといったが(略)自らの国スペインで、イスラム教徒の土地を征服していった。スペイン史にいう「国土再征服(レコンキスタ)」である。カスティーリャにせよ、見方を変えれば対イスラム戦の最前線であり、「カスティーリョ(城砦:じょうさい)」ばかりだったのでその名がある。ナバラ、アラゴン、ポルトガルなど他の国々も然りだが、スペインの王というのは国土再征服の戦争を宿命づけられていた。(略)

カスティーリャという名は城砦に由来するのですね。また、世界地図と世界史資料を照合すると、ガリシア≒レオン王国、バスク≒ナバラ王国、カタルーニャ≒アラゴン王国という図式になりそうです。

Ron.

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