お知らせ

2025年12月1日

2025年協力会イベント情報

現在、下記のイベントの申し込みを受け付けています。

1.コレクション×現代美術 名古屋市美術館をめぐる4つの対話 協力会会員向け解説会 名古屋市美術館 

第1回  令和8年1日(金)16:00~

第2回  令和8年1月25日(日)15:00~

参加希望の会員の方は、ファックスか電話でお申し込みください。ホームページからの申し込みも可能です。両方の回に参加も可能です。

最新の情報につきましては随時ホームページにアップしますので、ご確認ください。また、くれぐれも体調にはご留意ください。

これまでに制作された協力会オリジナルカレンダーのまとめページを作りました。右側サイドメニューの「オリジナルカレンダー」からご覧ください。

事務局

一宮市三岸節子記念美術館「安藤正子展 ゆくかは」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

 一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「安藤正子展 ゆくかは」のミニツアーに参加しました。開始日時は8月5日(土)午後2時。美術館が開催した「アーティスト・トーク」に参加するという方式です。アーティスト・トークの参加者は約50名、うちミニツアー参加者は13名で、アーティスト・トークの司会は美術館の野田路子学芸員(以下「野田さん」)でした。以下は、当日のメモを元に書いたものです。

◆第1部 美術館2階第1展示室

 冒頭、野田さんは「現在、母校・愛知県立芸術大学の准教授」と、安藤正子さん(以下「安藤さん」)を紹介。安藤さんは、本展のサブタイトル「ゆくかは」について、鴨長明『方丈記』の有名な一節「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」から取ったもの、と解説。「時間の流れはゆくかは(行く川)のように速い」「絵を描くのは時間がかかり、流れに追いつけない」というキーワードを中心に、作品制作に向かう姿勢などについて、お話しくださいました。

 続いて、野田さんから「第1展示室の作品は2016年以前に制作したもの」という説明があり、安藤さんによる作品解説が始まりました。

◎《貝の火》(2004)

 右手にポールペンを持ち、自分の左腕に絵を描いている女の子を描いた細密描写の鉛筆画です。不思議なことに、女の子は「鳩をくわえたキツネの頭部」を被っています。安藤さんによれば、宮沢賢治の童話『貝の火』(注に、あらすじを記載)に着想を得た作品。自分の体に絵を描くのは、古代人の壁画をイメージしているとのこと。《貝の火》は安藤さんにとって「大きな画面に鉛筆で描いた最初の形」とのことでした。

(注)主人公は子ウサギのホモイ。ホモイは、川に流されたヒバリの雛を助けたことで、鳥の王様から宝珠・貝の火を贈られます。ホモイは周りの動物からおだてられて増長。キツネに誘われたホモイは悪事に加担しますが、貝の火が濁り始めたことに気がついて、キツネの悪事を食い止めます。しかし、貝の火は砕け、その破片でホモイは失明。ラストに、ホモイのお父さんが「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから」と慰めるのでした。(全文については、青空文庫=https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.htmlをご覧ください)

◎《ビッグ・バン》(2007)

 これも鉛筆画で、垂直に立った棒に張った網にアサガオが蔓を伸ばし、満開のアサガオが咲き誇っている様子を描いた作品です。安藤さんによれば油絵の作品もあるそうですが「鉛筆画は下絵で、油絵が本画」ということではなく「それぞれが独立した作品」。「色のイメージを持っているものは油絵にすることが多い」そうで、「《貝の火》は、画面の縁に色つきの紙を置くことで満足したので、油絵は制作しなかった」そうです。

◎《うさぎ》(2013)・《パイン》(2014)・《APE(エイ・ピー・イー)》(2014)

 安藤さんによれば「息子に毛糸のおくるみを掛けて、寝ている姿を見ているうちに、東日本大震災の原発事故をテーマに三枚の絵を描こうと思った」とのことです。《うさぎ》は、公園で虫取りをする息子の姿。草ぼうぼうの公園に無人の商店街が重なって見えたそうです。《パイン》は、松原の中で一本だけ残った松。《APE》はGRAPEファンタの空き箱で作ったヘルメットに「APE」という文字が読めたから付けたタイトル。Apeは類人猿。フォークロック・バンドの「たま」が歌った「さよなら人類」のメロディーも浮かんだそうです。雪は放射能を表現したもの、とのことでした。

《パイン》について「足元のパンジーは、名古屋市美術館協力会のカレンダーにも描きましたが表情のある花。泣いたり、笑ったり、ひげのおじさんや犬のようにも、困っているようにも見える」と付け加えていました。

◆第1部 美術館2階第2展示室

第2展示室に移動してから安藤さんが語ったのは、第1展示室に出品の三枚の作品を描き上げた時の心境と、その後の変化でした。

◎三点を描き上げた時の心境

安藤さんは三点の作品を描き上げて、自分の見ているもの、考えていることを絵にしていく作業が「磁石に鉄がくっつくようにうまく描けた。これ以上は出来ない」という心境になったそうです。その頃、名古屋市内から瀬戸市に引っ越し、第二子(女の子)が生まれ、大学(愛知県立芸術大学)に就職するなど、生活環境の変化もあって、「前のスタイルで制作を続けるのは難しい」と感じ、木炭紙に木炭で描いたり、水彩鉛筆で描いたり、試行錯誤を続けたそうです。「マティスやボナールが好きで、その作品のように描こうとしても、細部を描きたくなる」「大きな空気感を描きたい」などの言葉がありました。

◎《眠れない》(2018)

 小さな花が縦横、規則的に並んでいる紙に、寝間着姿の小さな女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんが語ったとおり、第1展示室で見た精密描写の絵とは違う画風になっています。

◎《歯ブラシの話》(2020)

 黒い野球帽、赤いジャンパーで、歯磨きをしている髭面の人物を水彩鉛筆で描いた作品です。安藤さんによれば、描いたのは沖縄の人で「柔らかい歯ブラシが好き」と言っていたとのこと。「この作品で、絵が描けるようになった。」「描き始めることができれば、完成することができる」とも解説。《歯ブラシの話》では、瀬戸市にいる若い作家から陶板レリーフの制作に誘われた話もされました。「作品展に出品しませんか」と誘われたので「陶板をやってみたい」と快諾。「近所の友達のところで焼成してもらった」とのことでした。

◎《ニットの少女Ⅱ》(2020)・《ニットの少女Ⅳ》(2020)

女の子の顔、体、背景を陶板で制作して、板に貼りつけた作品です。安藤さんによれば、原型をつくって、石膏型(凹型)を取り、石膏型に粘土を詰めこんで成型。その後、乾燥させて焼成、とのこと。「同じ形のものが、複数できる。同じ原型でもイメージを変えることができる」などの言葉から、陶板レリーフの制作を楽しんでいることが伝わってきました。確かに《ニットの少女Ⅱ》と《ニットの少女Ⅳ》は同じ原型の作品ですが、イメージはずいぶん違います。原型→石膏型→成型→乾燥→焼成という、ひと手間多い、大量生産時に使う制作方法(だと思いますが……)は「やきものの街・瀬戸」に引越したから出来たことだと思いましたね。

◎《怖いテレビ》(2018)

 安藤さんは「枕を抱きしめながらテレビを見ている娘。枕の柄を最初に描いた」と解説。《眠れない》と同じように、図柄を描いた紙の上から描いています。

◎《ピンクの中の娘》(2019)

 黄色いパイナップルを描いたピンクの紙に、パンツ姿の女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんによれば「陶板の《パイナップル》シリーズの元になった絵」とのことでした。

◎《シダ植物》(2018)・《31》(2022)

 安藤さんは「紙に柄を描いたものを何枚も用意。その紙の上に絵を描いた」「図柄やパターンを描いた紙に人物などを描くことで、二次元の性質を強めてくれる」「パターンは芋版を使って描いた」等と解説。

◎《将棋なんて》(2021)

 大画面の水彩画です。将棋盤を見つめている女の子の服は、実物をコラージュしたもの。安藤さんは「コラージュしようとは思っていなかったが、服はコラージュした方が良いと思った」「陶板制作に近いものを感じた」「陶の制作が水彩画に活かせた」等と解説。

◎《歯が抜けそう》(2020)

 安藤さんは「乳歯が抜けるときの姿を描いた」「楽しんで描いた」と解説。「画面左上にコードが描いてあるけれど、好きなモチーフですか?」という、入場者からの質問には、「身の回りにあるアイテムを画面に入れるのが多い。ヘッドフォンを買ったときは、いずれ描くかなと思った」と回答されていました。

◎《スシローにて》(2023)

 安藤さんは「娘のギターの発表会の後スシローに行ったら、中3の息子が高い皿をたくさん注文。さっさと食べる様子が面白くて描いた。自分の作品は平面的なものを重ねるが、複数の視点を取り入れることはなかった。この作品では、すし皿を真横だけでなく、真上から、斜めからと、複数の視点で描くことで、三次元の空間を表したいと思った。スプーンには、自分の顔が写っている。一枚の絵の中に絵画の歴史がある」と解説。

◎アーティスト・トーク 終わりのあいさつ

 安藤さんのアーティスト・トークは「本展には、20年間、60点の作品を出品。この後の時間、好きに見て、楽しんでいただければうれしい」というあいさつで終了。時計は午後3時でした。

◆1階 第3展示室(ただし、部屋の表示板は「講堂」) 

1階では、安藤さんが日常生活を撮影した20分59秒の映像作品「ゆくかは」を上映していました。

◆作家を囲む会 

ミニツアー募集時は「作家を囲む会」の通知はありませんでしたが、通知後、一宮市三岸節子記念美術館を通して「アーティスト・トーク終了後、わずかの時間であれば安藤さんを囲む懇談会を開催する」ことにご快諾いただき、「作家を囲む会」の開催が実現。ミニツアー参加者は当日に通知を受け、「うれしいサプライズ」となりました。

「作家を囲む会」は、午後3時30分~4時の間、美術館の喫茶コーナーをお借りして、安藤さんとミニツアー参加者13名で開催。安藤さんのごく近くでお話が出来たので、参加者は大喜び。また、安藤さんが参加者一人一人の質問に丁寧に答えて下さったので、参加者にとって至福のひと時となりました。

安藤正子様、お忙しい中にもかかわらず時間を割いていただき、ありがとうございました。

Ron

展覧会解説会「マリー・ローランサンとモード」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.31 投稿

「マリー・ローランサンとモード」(以下「本展」)の「展覧会解説会」(以下「解説会」)を聞いてきました。日時は7月23日(日)14:00~15:25、会場は名古屋市美術館2階講堂、講師は深谷克典・名古屋市美術館参与(以下「深谷さん」)でした。以下は解説会の概要です。

◆マリー・ローランサンについて

深谷さんによれば、マリー・ローランサン(以下「ローランサン」)は、日本で人気のある作家。「マリー・ローランサン美術館」(現在は作品を保管・貸出するだけ)があるほどです。ローランサンを日本へ最初に紹介したのは、詩人の堀口大學。彼は1915年にスペイン・マドリードでローランサンと出会っています。ローランサンはドイツ人貴族と結婚したばかりでしたが、第一次世界大戦勃発のためスペインに亡命中でした。堀口大學も父(外交官)の赴任先・スペインにいました。堀口大學はアポリネールの詩も紹介しています。

◆本展の特色

深谷さんによればローランサンの展覧会は、①本人の個展、②エコール・ド・パリの展覧会という二つのパターンが多いのですが、本展は少し視点が違い「ローランサンが一番活躍した1920年代に同時代の作家・モード(流行・ファッション)と、どう関わったのか」がテーマとのことでした。

◆19世紀後半の西洋美術の主流はアカデミックな絵画

深谷さんによれば、19世紀後半(70年代~90年代)西洋美術の主流は、印象派やポスト印象派ではなく、カバネルなどのアカデミックな絵画。そこに写真が登場して「芸術は、目に見えないものを表現すべきだ」という考え方が出てきた、とのことです。

◆第一次世界大戦の衝撃は大きかった

深谷さんによればフランスの戦死者数は、普仏戦争(1870-71)が28万人、第一次世界大戦(1914-18)は170万人、第二次世界大戦(1939-45)は55万人。フランスに限ると、第一次世界大戦の方がインパクトが大きかったとのことです。また、「第二次世界大戦における日本人全体の死亡者数は260‐310万人」とも解説。

普仏戦争の後にはベル・エポック(良き時代)が、第一次世界大戦の後にはレザネ・フォル(“ Les Années folles” 狂騒の時代、英語だと”roaring twenty”)が続きます。

第一次世界大戦の衝撃は、それまで進んでいた西洋美術の「急激な前衛化」を止め、「古典に戻る時代」になりましたが、その一方で、ダダなどの過激な人物が登場、「失われた世代 ”Lost generation”」という言葉も生まれた、とのことでした。

◆本展の構成

深谷さんによれば、本展はローランサンとガブリエル・シャネル(以下「シャネル」)の作品で構成。シャネルが生きたのは1883-1971、ローランサンは1883-1950、二人は同じ年の生まれです。しかし1910年代には、シャネルは帽子屋を始めたばかり、ローランサンは既に有名人になっていました。本展では、1920年代の二人の大活躍をフォーカスします。

◆二人の肖像

深谷さんは二人の肖像を比較。シャネルは1935年撮影の写真。49歳の彼女は「男まさり」の印象を与えますが、1920年撮影のローランサンのスナップショットは少女的、女性的な印象。全く対照的な二人です。

◆Ⅰ レザネ・フォルのパリ (Paris of Les Années folles)

深谷さんが投影したのは《マドモアゼル・シャネルの肖像》(1923)の画像。続いて、まったく印象の異なるカッサンドル《ガブリエル・シャネルの肖像》(1942)(注)も投影。シャネルが《マドモアゼル・シャネルの肖像》を突き返したことについて「ローランサンに肖像画を頼んだらどうなるかわかっているはずなのに、なぜ頼んだのか不思議」と話してから、アール・デコの女性画家タマラ・ド・レンピッカ《緑の服の女》(1930)の画像を投影、「これなら、気に入っただろう」と付け加えていました。深谷さんは、ガートルード・シュタインが買い上げたローランサンの《アポリネールと仲間たち(第1バージョン)》(1908)も紹介しました。

(注)シャネルの公式サイト(シャネルの創業者、ガブリエル シャネル | CHANEL シャネル)を下にスクロールし「アーティストとココ」で「詳細」をクリックすると、ローランサンとカッサンドルの肖像画、マン・レイの写真など、シャネルの肖像11点を見ることができます。

◆Ⅱ 越境するアート (Cross-border Art)

深谷さんはセルゲイ・ディアギレフとストラビンスキーの写真を投影。「1920年代のパリには、世界中から色々な人が集まった。ディアギレフのロシア・バレエ団は1909-1929に活動したが、ロシアでの公演はない。ロシア・ブームは1909年から始まり、1920年代のフランスではアメリカのジャズや混血の女優ジョセフィン・ベイカーのダンスが流行。ローランサン、ピカソといった画家が舞台美術を手掛け、シャネルも舞台衣装をデザインした」等の解説がありました。

◆Ⅲ モダンガールの登場 (Rise of The Modern Girl)

深谷さんによれば、ポール・ポワレが19世紀末から1910年代に東洋趣味の服をデザイン。「コルセットを取り去った人」としても知られるが、1920年代はシャネルの時代となる。ドーヴィルで撮影された写真が投影され、「シャネルの最初のブティック」との解説がありました。

◆IV エピローグ:蘇るモード (Fashion Reborn )

深谷さんによれば、シャネルが1971年に死去してからメゾンは低迷。それを立て直したのが、1983年にシャネルのデザイナーとなったカール・ラガーフェルド。最後のコーナーでは彼がデザインした2011年のコレクションの作品と映像を展示。1922年にローランサンが描いた《ニコル・グルーと二人の娘、ブノワットとマリオン》のピンクとグレーをシャネルのデザインに取り入れ、ローランサンとシャネルは和解に至った、との説明でした。

◆最後に

深谷さんの講演は、とても面白かったのですが、話に聞き入るとメモを書く手が止まってしまい、断片的な言葉しか残っていません。1時間半の内容豊かな講演だったのですが、面白みのないブログになってしまいました。

Ron

おまけ=失われた世代 (Lost generation)について

深谷さんが「失われた世代」について何か言ったことは記憶にあるのですが、メモしたのは「失われた世代」という言葉だけ。文庫本を漁ると、ヘミングウェイ『日はまた昇る』(ハヤカワepi文庫)に〈「あなた方はあてどない世代ね」 ガートルード・スタインの言葉〉というエピグラム(警句)があり、同著者の『移動祝祭日』には、次の一節がありました(新潮文庫 p.48)。

〈「あなたたちがそれなのよね。みんなそうなんだわ、あなたたちは」ミス・スタインは言った。「こんどの戦争に従軍したあなたたち若者はね。あなたたちはみんな自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)なのよ」

「そうですかね?」私は訊いた。

「ええ、そうじゃないの」彼女は言いつのった。「あなたたちは何に対しても敬意を持ち合わせていない。お酒を飲めば死ぬほど酔っぱらうし……」(略)〉

 「あてどない世代」だったり「自堕落な世代」だったり、翻訳の難しい言葉なのですね。

ミニツアー 瀬戸市美術館「北川民次コレクション 全員集合!」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.24 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「北川民次コレクション 全員集合!」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。酷暑の中の開催なので、参加者は6名。瀬戸市美の石原学芸員(以下「石原さん」)と一緒に作品を見て回りました。

◆1階 

石原さんによれば、本展で展示しているのは、1936(昭和11)年に北川民次が帰国してからの作品。北川民次は静岡県出身ですが、メキシコで結婚した夫人が瀬戸市出身なので、瀬戸市に来てから1937年に東京・豊島区に引っ越し。池袋モンパルナスの一員となり、熊谷守一から水墨画の手ほどきを受けています。

最初の展示作品は、瀬戸市が注文したリノカット(リノリウムの版画)による《瀬戸十景》(1937)。瀬戸市は絵葉書の原画にする予定だったようですが、版画のコントラストが強すぎて絵葉書にはならなかった、とのことです。

《瀬戸十景》に続く《メキシコの浴み》《タスコの裸婦》(いずれも1941頃)は木口(こぐち)木版(輪切りにした板を彫った版画)。木口は堅いので細い線を彫ることが可能。石原さんは「メキシコではポピュラーな技法」と解説。

スケッチの《K氏》(1952)について、石原さんは「アメリカで活躍した画家・国吉康雄ではないか?」と解説。《陶壁 陶器を作る人々 原画》(1959)の3点は市民会館陶壁。石原さんによれば「陶壁は釉薬では色の再現が難しく、色のついた土を使って色を再現した」とのことでした。

リトグラフ《魚を売る女》(1962)は「北川民次は、構図に気を配っているので、この作品も黄金比による分割では、と思う。」との解説もありました。

◆2階 

母子像が目立ちますが、石原さんは「北川民次は20歳で渡米し、それが母親との別れになってしまったので、母親に対する思いが強く、多くの母子像を描いたのでは」と解説。最後の部屋では、「十二支がそろっています。美術館では、北川民次の絵をモチーフにした十二支のきんちゃく袋も販売しています」とのコマーシャルもありました。

◆番外編(招き猫ミュージアム:瀬戸市薬師町)

 以前、常滑に行ったとき名鉄・常滑駅で巨大な招き猫を見たので「招き猫は常滑」と思っていたのですが、招き猫ミュージアムには「1900年ごろ、日本で最初に招き猫の大量生産を始めた愛知県瀬戸市は『招き猫の故郷』といわれています。(略)本物の猫に近いすらりとした体形と猫背が特徴(略)」と書かれていました。常滑の解説は「1950年ごろに生まれました。二頭身のふっくらとした体形と大きな目、そして小判を抱えた特徴的なその姿は、戦後日本の高度成長と共に、瞬く間に日本中に広がりました」というもの。

 招き猫の故郷は瀬戸市、日本中に広がったのは常滑の招き猫ということでしょうか。

Ron.

読書ノート「ガウディの伝言」外尾悦郎 著(光文社新書264)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.17 投稿

7月8日付の日本経済新聞で外尾悦郎氏に興味を持ち、本書を手に入れました。著者は、1978年以来、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂の彫刻を担当。東京国立近代美術館で開催中の「ガウディとサグラダ・ファミリア展」(以下「本展」)に出品の彫刻「歌う天使たち」も制作しています。

以下は、本書の中で私が興味を持った箇所の抜き書きです。

◆双曲線面は自然光を最大限に取り入れられる形

本書は、本展に模型が展示されている鼓のような形の双曲線面について、次のように書いています。

〈一見複雑に見えますが、ご覧の通り、すべて直線です。(略)サグラダ・ファミリアでは、この双曲線面が、聖堂の側壁にある大窓や天井窓など、主に採光部分に駆使されています。自然光というのは、太陽の動きに伴って、多方面から入射してくる。しかし、その進み方は常に直線です。ガウディはその自然光を最大限に取り入れられる形として、双曲線面の有効性を活用しました〉(本書 p.45~46)

自然光を取り入れるための合理的で美しい形状なので、ガウディが双曲線面を駆使したというのです。

◆双曲放物線面は自然光を取り入れる形

また、本展に模型が展示されている双曲放物線面についても、次のように書いています。

〈一見複雑に見えますが、曲線は一つもありません。(略)放物線面は、接合部分の角度をなめらかにし、荷重の流れをスムーズにすることから、ガウディはサグラダ・ファミリアの柱が枝分かれする部分や、天井と柱が接する部分など、構造体が大きく変化する部分にこの形を多用しています〉(本書 p.46~47)

建物の筋交いに当たる部材を合理的な形状にしている、ということだと理解しました。

◆サグラダ・ファミリア幼稚園屋根

私が「摩訶不思議な曲面」だと思った「サグラダ・ファミリア幼稚園屋根」について、本書は〈サグラダ・ファミリアの建設現場で働く職人たちの子弟のためにガウディが私財を投じて建設した聖堂付属小学校です〉(本書 p.48)と書き、次のような説明を加えています。よく分かりました。

〈ガウディはこの構造を、経済的な理由があって考えました。というのも、ガウディは大金持ちだった人ではありません。私財を投じてと言っても限度があります。そこで薄い煉瓦を使って、できるだけ安くつくり、しかも頑丈な建物にしたかったわけです。(略)薄いものというのは、そのままでは立ちません。しかし、アコーディオンのように折り曲げればしっかりと立ちます。屋根も波打たせれば、雨が降っても水が自然と流れ落ち、薄い煉瓦でも雨漏りする心配がありません〉(本書 p.48~49)

〈余談になりますが、後にこの建物を見て驚愕した人物がいます。現代建築の巨匠の一人、フランスのル・コルビュジェです。1928年にスペインを旅行した当時41歳のコルビュジェは、サグラダ・ファミリア付属小学校を目の当たりにして強い衝撃をうけ、克明なスケッチを残しました〉(本書 p.50)

◆逆さ吊り実験の成果により、建物を補強するための厚い壁が不要になった

 本書には、次の記述もあります。

〈逆さ吊り実験がもたらした大きな成果の一つは、建物を補強するための厚い壁が不要になったことにあります。過去につくられた大聖堂は(略)外側に倒れようとする壁を支えるために、つっかえ棒の役割を果たすフライング・バットレス(控え壁)を必要としていました。(略)厚い壁やフライング・バットレスをなくし、採光部分を大きく取ることができるようになった聖堂の内部には、双曲線面の窓から太陽の光が降り注ぎます〉(本書 p.85~86)

 カテナリーアーチによる合理的な構造を取り入れたことで、補強のための壁が不要になり、太陽の光が降り注ぐ、スッキリとした聖堂が実現した、というのです。「サグラダ・ファミリアは聖堂建築に進化をもたらした」と思いました。

◆最後に

 外尾悦郎氏については本書の外に、次のようなYouTube動画やテレビ番組もあるのでご紹介します。

Ron.

ガウディが見ていた理想の社会 | ETSURO SOTOO | TEDxNihonbashi

 3年前に行われた外尾悦郎氏の講演。写真の投影もあり、分かりやすい内容です。

URL https://www.youtube.com/watch?v=zHf0I0m6lqY

・NHK・Eテレ NHKアカデミア 外尾悦郎 

NHK・Eテレ 前編:7.26(水)PM10:00~10:30  後編:8.2(水)PM10:00~10:30

URL 「ガウディとサグラダ・ファミリア展」関連番組・イベントの紹介  |NHK_PR|NHKオンライン

新聞を読む「黒のモード十選(10)」服飾史家 徳井 淑子

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.11 投稿

日本経済新聞「文化」欄「黒のモード十選」(服飾史家・徳井淑子)は、〈野暮と洗練、清貧と贅沢――。両端イメージを併せ持つ黒い服の流行を、中世から20世紀までたどる〉連載記事ですが、最終回(7.11付)で取り上げたのはガブリエル・シャネル「リトル・ブラック・ドレス」でした。現在、名古屋市美術館で開催中の「マリー・ローランサンとモード」(以下「ローランサン展」)でも『ヴォーグ誌』(アメリカ版)1926年10月1日号掲載の記事を展示。関連がありますので、記事の内容をご紹介します。

◆7.11付け日本経済新聞「黒のモード十選(10)」の抜き書き

20世紀の黒を語るにはシャネルのデザインを欠かすわけにいかない。女性の社会進出が本格化した1926年、女性がどのような機会にも着られる略装として、アメリカで最初に発表、簡素ながら優雅なドレスとして絶賛されたのがリトル・ブラック・ドレスである。作品はその一つである。

黒いドレスは当時「シャネル・フォード」と呼ばれ、フォード車にたとえられた。(略)

機能性と合理性を求めた時代のモダニズムに合致したという点で期するところは同じである。リトル・ブラック・ドレスにも、フォードの大衆車と同様に量産でき、類似こそが品質を保証するという大衆市場を前提にした戦略があった。禁欲的な黒はミニマリズムとして、その後を生きる。

*記事の全文と写真は、日本経済新聞電子版>文化>美の十選、と検索することでご覧になれます。(「無料記事」なので、電子版の会員でなくてもOK)

◆「ローランサン展」の展示など

『ヴォーグ誌』の記事は2階に展示されています。イラストは有名ですが、記事は細かい字の英語なので内容はよくわかりません。シャネルのモードがどんなものであったのかは、1階で上映しているスライドショーを見ると良いでしょう。

名古屋市美術館・勝田学芸員の解説によれば、当時の社交界の女性たちや前衛画家を庇護する女性たちのステイタスは、〈ローランサンに肖像画を描いてもらうこと、シャネルの服を着て、マン・レイに写真を撮ってもらうこと、の二つだった〉とのことですが、スライドショーは「シャネルの服を着たセレブの女性たちをマン・レイが撮影したもの」です。女優や王女、侯爵夫人などが次々に写されます。

「モード十選(10)」が書いたように「リトル・ブラック・ドレス」は、大量の安価なコピーが氾濫し、誰でも一着は持っているアイテムになりましたが、そのことでオリジナルの価値は半比例して、上昇したのですね。

なお、映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘプバーンは、黒いドレスが印象的ですが、これはジバンシーのデザインです。

Ron.

展覧会見てある記「幻の愛知県博物館」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.07.10 投稿

現在、愛知県美術館で開催中の「幻の愛知県博物館」(以下「本展」)に行ってきました。以下は本展の概要で、〈  〉と〈補足〉は、私の補足、感想等です。

◆出迎えは、金シャチ

本展の入口は、いつもとは違い、エントランスホールの先。本展の入口とコレクション展入口の分岐点となる小ホールで、1体の金シャチがお出迎え。「床がもたないのでは?」と危ぶみましたが〈雄は約1.3t、雌は約1.2t、金板0.15mm、金量(18K) 雄44.69kg、雌43.39kg出典 注1〉、実は発砲スチロール製なので心配ご無用。とはいえ、人の2倍近い高さ〈本物は約2.6m、出典 注1〉ですから、圧倒されます。

注1:金鯱 | 観覧ガイド | 名古屋城公式ウェブサイト (city.nagoya.jp)

◆第1章 旅する金鯱

第1章には、明治時代になって名古屋城の金鯱が天守閣から降ろされ、雄は日本国中を巡回、雌はウィーンの万国博覧会に出品されたことを示す当時の錦絵や絵葉書を始め、名古屋城・金鯱に関連する品を展示しています。

中でも、目を引いたのは「名古屋防空演習」のポスター(1936)や鴨居令《昭和20年5月14日Nagoya(天守閣の燃えた日)》(1985)、《金鯱鱗》(江戸時代前期)、《市旗竿頭》《丸八文様鯱環付真形釜》でした。

〈補足〉

1 ポスターについて 

ポスターの描かれた演習参加者は防毒マスクをしています。恐ろしいことですが、当時は毒ガスで攻撃されるかもしれないと思っていたのですね。

2 鴨居令の思い出

鴨居令は、協力会のツアーで石川県立美術館を見学した時に多くの作品を見ました。破滅型の作家で、作品は一度見たら忘れられなくなる迫力があります。確か、鴨居令の没年は出品作を描いた年と同じ1985年です。

3 金鯱鱗について

本展で見た金鯱鱗は金板を銅板に貼り付けたものでした。「ラジチューブ」(注2)によりますと、約2万両の金でできた貨幣を溶かしたもので、純金の重さでいえば215.3kg。金鯱の中身は木造。その表面に金鱗を貼っています。100年も経つと下地の木が傷むので下地から作り直しになりますが、その時に金板を当初の18Kから14Kに改鋳し、尾張藩の収入にしたことが何度かあった、とのことです。

注2:実は5代目!名古屋城の金シャチ、初代とはココが違う | RadiChubu-ラジチューブ-

4 名古屋城が焼失した際の金の行方

これも「ラジチューブ」によりますが、名古屋城が空襲で焼失した後に残った金は、進駐軍が接収。その後、20kgの金が返還され、《市旗竿頭》《丸八文様鯱環付真形釜》を大阪造幣局で造ったとのことでした。

5 現在の金シャチが地上に降ろされたのは、過去3回

第1章には、明治時代に金鯱が地上に降ろされた話が書かれていましたが、「Kyo-ta」さんのブログ(注3)によれば、現在の金鯱が地上に降ろされたのは過去3回とのことです。

1回目は1984年 名古屋城再建25周年の時

2回目は2005年 愛知万博「愛・地球博」の時

3回目は2021年 東日本大震災10周年の時

注3:名古屋城「金シャチ(金鯱)」の地上展示は2021年7月まで開催! (osanpo-jog.com)

 なお、1959年に再建された金鯱は、天守閣まで届く足場を組み、斜面を伝って運んだとのことですが、金鯱を降ろした時は、3回とも天守閣の所に足場を組んで取り外し、ヘリコプターで吊って運搬しています。

◆第2章 幻の愛知県博物館

 1878年に愛知県が大須(本町通と裏門前町通の間のエリア)開館した愛知県博物館(のちに愛知県商品陳列館)を紹介しています。目を引いたのは「Ⅱ-3 美術館が欲しい!――美術家たちの居場所」という展示です。名古屋市美術館の常設展「郷土の美術:サンサシオン100年 若き情熱ほとばしる名古屋」で展示している作家と重なるので、本展を見たら名古屋市美術館の常設展の作品もご覧ください。

◆第3章 ものづくり愛知の力

 「愛知県が歴史博物館・自然史博物館を開館したらどんな展示をするか」という視点の展示です。目を引いたのは「Ⅲ-4 売れ陶磁器に学ぶ――産総研のドイツ参考品」です。主に、ドイツのデパートで買い付けた「軽くて丈夫でおしゃれでおしゃれ」な製品を展示していますが、国立陶磁器試験所瀬戸試験場《喫煙具(灰皿)》(1935)は、灰皿と言いながら見た目は「お人形さん」で可愛く、「これなら売れるだろう」と思いました。

Ron.

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