雨がふりだしそうな空のもと、6月27日日曜日に、令和3年度の名古屋市美術館協力会総会が行われました。役員はじめ、当日参加してくださった会員は名古屋市美術館の講堂に集まり、事業報告や収支決算などの議題について、報告を聞いたり、承認を確認したりと粛々と議事は進行しました。
会員みなさまには、詳細な内容について議事録が配布されますので、しばらくお待ちください。
2021年
7月2日
雨がふりだしそうな空のもと、6月27日日曜日に、令和3年度の名古屋市美術館協力会総会が行われました。役員はじめ、当日参加してくださった会員は名古屋市美術館の講堂に集まり、事業報告や収支決算などの議題について、報告を聞いたり、承認を確認したりと粛々と議事は進行しました。
会員みなさまには、詳細な内容について議事録が配布されますので、しばらくお待ちください。
2021年
2月12日
名古屋市美術館で「写真の都」物語―名古屋写真運動史:1911-1972-(以下「本展」)が開幕。先日、名古屋市美術館協力会主催の解説会に参加しました。担当は竹葉丈学芸員(以下「竹葉さん」)。参加者は20人。2階講堂でレクチャーを受講後、展示室に移動。竹葉さんを交えての自由鑑賞となりました。なお、協力会主催の解説会などのイベントは、岸田劉生展(昨年1月12日に開催)以来、1年1か月ぶり。新型コロナウイルス感染防止のため、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャル・ディスタンスの確保などの対策を実施した上での開催、となりました。
◆2階講堂
○深谷副館長のあいさつ(要旨)
新型コロナウイルスの感染拡大により名古屋市美術館の休館が余儀なくされたことと、秋に予定していた改修工事を前倒ししたことにより、本展の開催は当初の予定から大幅に遅れました。常設展は今年の1月に開幕していたものの、来館者は少なく、本展の開催でようやく美術館に活気が戻ってきました。本日は、美術館にお越しいただき、ありがとうございます。
○竹葉さんのトーク(要旨)
・展覧会の名称について
名称を「名古屋写真運動史」としたのは、名古屋の団体・グループが、写真でどういう表現を目指したのかを示す展覧会だからです。「1911」という数字は西暦年で、年号だと明治44年。表現としての写真を目指したグループ<愛友写真俱楽部>が名古屋で創立された年です。創立者の名前は日高長太郎。知多郡東浦町に住む大地主の息子です。愛友写真俱楽部が目指した写真は「絵画主義」(ピクトリアリズム)。彼らは写真のネガや印画紙に手を加え、絵画のように美しい写真を制作することを目指し、1920年代前半には全国レベルを突破しました。
名古屋の団体・グループが、全国レベルを突破したのは過去に2回あります。1回目は愛友写真俱楽部で、2回目は1939年(昭和14)。2回目は1年半ほど続きました。この時期に名古屋の団体・グループが制作したのは「前衛写真」です。
本展は名古屋の団体・グループに注目した展覧会ですが、例外は第Ⅴ章。写真家・東松照明の作品に焦点を当てています。また、最後の第Ⅵ章は学生の写真運動を取り上げました。「1972」という数字も西暦年で、札幌オリンピックが開催された年です。また、あさま山荘事件などが契機となって学生運動が衰退していった年でもあります。学生運動の衰退とともに、学生写真運動も衰退していきました。
第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>
日高長太郎が愛友写真俱楽部を創立した明治40年代は、日本で自然主義文学が興った時代で、絵画や写真でも自分の好きな身近な自然を記録に残すようになりました。この時代の写真は近くの草木にピントを合わせ、背景に雄大な自然を配するものが主流でした。名古屋の団体・グループのレベルが高かったのは、海と山に近く、景勝地に恵まれたからです。当時の写真は現在と違い、「ポケットにスマホを入れて行けば写せる」という手軽なものではありません。フィルムに当たるのはガラス乾板で、写真撮影の機材はレンズ、組み立て式カメラ、三脚など。重装備のため、大きくて重く割れやすいガラス乾板は10~20枚くらいしか持って行けません。名古屋だと、このような重装備でも中央線に乗って運ぶことができるので、便利でした。
・ゴム印画
初期のプリントは密着プリント、つまり、現像したガラス乾板を印画紙に密着させ、太陽光で感光していました。これでは、ガラス乾板よりも大きなサイズの作品は制作できません。大きな作品を制作するためには、ガラス乾板を引き延ばしてポジ(陽画)を制作し、陽画にリタッチ(加筆・修正)して大きなガラス乾板で撮影することが必要です。大きな作品の印画紙は、水に強い水彩画用紙の表面にアラビアゴムと水彩絵の具、感光材の溶液を混合したものを塗って乾燥させたものを使います。この印画紙に大きなガラス乾板を密着させて、屋根の上に運んで太陽光で感光。太陽光が当たった場所のアラビアゴムが固くなるので、水洗いして感光していない部分を除去。1回だけの感光では像が薄いので、何回も同じ作業を繰り返して、1週間かけて1枚の作品を仕上げるという、手間暇のかかるものでした。お金持ちで、暇を持て余していた旦那衆だからできた作業です。
・ソフトフォーカス・レンズ
1921年(大正10)、東京・銀座で資生堂を経営する福原有信の三男・福原信三が、パリ滞在中(1913)に撮影した写真から24枚を選んで「巴里とセーヌ」という写真集を刊行しました。福原信三は芸術家志向で写真術も学び、パリで印象派の絵画を見て「写真の印象派」を目指しました。パリ滞在中はソフトフォーカス・レンズを付けたカメラで、水墨画のような写真を撮影しています。彼は写真雑誌も刊行し、彼の「光と其の階調」という理論はアマチュア写真愛好家たちに歓迎され、しばらくの間ブームになりましたが、1923年(大正12)の関東大震災で写真雑誌は中断しました。神戸の淵上白陽は1922年(大正11)、写真画集「白陽」を創刊しましたが、その後、経済的に行き詰まり1927年(昭和2)に大連へ渡っています。名古屋でも、愛友写真倶楽部のメンバー・高田皆義が1922年(大正11)に芸術写真研究雑誌「銀乃壺」を創刊しました。
第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験
1930年代になると、ドイツの「新興写真」の影響を受け「リアリズム」写真が主流になっていきます。名古屋では1936年(昭和11)、アマチュア向け写真雑誌「カメラマン」が創刊され、5000部作った創刊号は全て売り切れました。当時の名古屋には写真の現像・焼付・引き伸ばしを行う写真店が61軒あり、アマチュア写真家は20万人いた、と言われます。
第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂
1934年(昭和9)、関西の「法華写真倶楽部」のメンバー・坂田稔が名古屋昭和区に移住し写真店を開業。店に集まるアマチュア写真愛好家を集めて<なごや・ふぉと・ぐるっぺ>を結成し、前衛写真のグループが生まれました。彼らのうち、詩人の山本悍右は、身近なものでオブジェを作って撮影し、下郷羊雄は、自然の中にオブジェを見出して撮影しました。坂田稔は、その後、報国のため報道写真家として徴用されます。
なお、美術館のミュージアム・ショップでは、山本悍右の作品、題不詳(《伽藍の鳥籠》のバリエーション)をプリントしたTシャツを販売していますので、よろしければお求めください。
第Ⅳ章 客観と主観の交錯 戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗
戦後の名古屋では、高田皆義、山本悍右、服部義文、後藤敬一郎によって<VIVI社>が結成されシュルレアリスムの写真が制作されます。なお、後藤敬一郎は「青柳ういろ」の社長です。これに対抗したのが、臼井薫です。彼は俳優・天知茂の兄。大曽根で写真店を経営する傍ら、木村伊兵衛・土門拳が審査員を務める写真雑誌に写真を投稿し、「土門拳の弟子」と言われました。
◆展示室内の自由鑑賞
午後5時になったため、以上でレクチャーは終了。参加者は講堂を後にして1階に移動し、ソーシャル・ディスタンスを保ちながらの自由鑑賞となりました。なお、いくつかの作品については、竹葉さんの「独り言」があったのでご紹介します。
第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>
松浦幸陽《朝日を受けて》(1926)=撮影した松浦幸陽は営業写真家。アマチュアと営業写真家の違いは「人物が撮影できるかどうか」。人物を撮影するには、写真を修正する技術も必要/ 榊原青葉《電車道》(1922)=光と影の描写に注目/ 三國庄次郎《円い柱の習作》(1923)=撮影者は、放送タレント・三國一朗の父親
第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験
海部誠也《野間にて》(1936)=撮影者は、元首相・海部俊樹の父親
第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂
坂田稔《危機》(1938)=仰向けになった女性の喉元に輪切りのレンコンを載せた写真と雲間から日の光が見える写真を組み合わせたもの。坂田稔は現在の瑞穂区曙町で現像の店を営業/ 下郷羊雄・写真集『メセム属』=「メセム属」というのは植物の名前
第Ⅴ章 東松照明登場 リアリズムを超えて
《伊勢湾台風・名古屋》=1959年(昭和34)に名古屋を襲った伊勢湾台風では、東松照明の実家も被災/ 《熊本・天草下島》のシリーズ(1959)=廃屋を撮影/ 《混血児》(1952)=守山で撮影した作品。混血児の赤ん坊は贅沢なベビー服。背景の日本人の子どもと服装を比べると貧富の差(日本人の方が貧乏)が見えてくる。日本人は撮影者の東松照明を見ているのですが、写真では赤ん坊の方を見ているように感じられる。東松照明によって、戦後写真のリアリズムが一皮むけた/ 《プロテスト1 東京・新宿》(1969)=1969年の10月21日(国際反戦デー)に新宿で起きたデモ隊と機動隊との衝突を撮影した作品。いわゆる「アレ、ブレ、ボケ」で、時代の体温を表現した
第Ⅵ章 <中部学生写真連盟> 集団と個人、写真を巡る青春の模索
中部学生写真連盟は、1951年11月に東松照明が設立/ 写真集「大須」(1969)=名古屋電気工業高等学校写真部が撮影したもの/ 「高橋章写真集」(1974)=撮影者は兵庫県・尼崎高校の生徒。クラスメートを撮影した写真が認められ、写真集が刊行された。写真部では、作品は写真部として発表していたので、個人名の写真集刊行は異例のこと/ 写真集「郡上」(2016)=名古屋女子大学写真部が1968年(昭和43)~1970年(昭和45)に岐阜県・郡上市の郡上踊りを中心に撮影したもの。当時、写真集の刊行が予定されたが中断。撮影から48年後、写真部OBが当時のネガを出版社から取り戻して刊行した
最後に
竹葉さんによれば、展示された写真は約500枚とのこと。さすがに、東松照明の写真は一味違っていました。
Ron
2021年
2月9日
令和3年2月7日、名古屋市美術館が改修のために閉館していたため、再開後初めての企画展となった、「写真の都」物語-名古屋写真運動史:1911-1972 の協力会向け解説会が行われました。
最初に協力会会長のあいさつがあり、感染症の拡大などで長らく活動を休止していた協力会が久々にイベントを開催出来る感慨を会員とともに分かち合いました。当日参加した会員は20名でしたが、解説会が開催出来たことが何よりうれしいことでした。
そのあとは担当の竹葉学芸員による1時間あまりの解説。熱のこもった解説に会員たちも集中して話に聞き入っている様子でした。
解説後は閉館した美術館内での静かな鑑賞の時間。会員は竹葉学芸員の話もときおり聞きながら、静かに展示室を観覧しました。
2019年
6月19日
令和元年6月9日日曜日、例年のとおり、名古屋市美術館講堂にて、名古屋市美術館協力会の総会が行われました。協力会会員28名が出席し、美術館の深谷副館長のあいさつに続いて協力会の佐々木剛志会長が進行を務め、昨年度の決算や事業報告などが行われました。
途中、出席した会員からは、協力会のイベントについて、活発な意見や質問、提案がなされ、協力会役員からもそれらに対する丁寧な回答が聞かれました。全ての提案をそのまま実施することは不可能でしたが、それらの貴重なご意見をこれからの活動に出来るだけ反映すべく、検討していくことが確認されました。
総会終了後は、そのまま講堂にて、深谷副館長による常設企画展の解説が始まりました。現在名古屋市美術館の地下常設展示室にて開催されている『新たなる木彫表現を求めて』にとりあげられて展示されている、平櫛田中、舟越桂、薮内佐斗司らについて、画像をスクリーンに映しながら解説していただきました。
その後は、実際に作品の展示されている地下会場に移動して更に鑑賞し、約1時間のギャラリートークは終了しました。深谷副館長さん、ありがとうございました。
2017年
12月27日
名古屋市美術館で開催中の「シャガール 三次元の世界」展の関連イベント「シャンパーニュの夕べ」を体験しました。
◆受付
当日は、美術館2階・講堂入口の受付で参加料5,000円を支払い、関係資料と観覧券1枚、シャンパン引換券2種・各1枚が入った透明ビニールの手提げ袋を受け取りました。イベント開始まで資料を眺めながら、講堂内で暫しの休息。
◆展覧会の見どころ解説
午後5時から、深谷副館長による「展覧会の見どころ解説」が始まりました。深谷副館長によれば、「シャンパーニュの夕べ」は「ランス美術館展」の関連イベントとして開催したのが初の試み。幸いに評判が良く、今回、2回目となる「夕べ」の開催に至ったとのことでした。
◆ギャラリートークと自由鑑賞
午後5時半に1階の展示室へ移動。展示室内で絵画と彫刻の《誕生日》、《座る赤い裸婦》、《彫刻された壺》などについてギャラリートークがあり、その後は自由鑑賞。午後6時には2階の展示室に移動。《エルサレム〈嘆きの壁〉》、《過越祭》、《アルルカン》、羊の骨を素材にした《二重の横顔》、《ヴァヴァの肖像》などについてのギャラリートークの後、自由鑑賞となりました。
◆シャンパンと軽食のサービス
午後6時半頃には展覧会の鑑賞を終え、地下1階のロビーに移動。ロビーでは数か所にテーブルが置かれ、テーブルごとに8つのプレート。各プレートには一人分の軽食とおつまみが盛り付けられ、参加者は机・プレートを一つ選ぶことができます。
自分の机・プレートを決めて一杯目のシャンパンを賞味。イベントに協力の「株式会社ヴァンパッシオン」がシャンパーニュ・ジャクソン(Champagne Jacquesson:小売価格10,000円)を細長いフルート型シャンパングラスで提供。「少しずつ口に含んで、味わいながらお楽しみください。」というアドバイスに従いジャクソンを飲み終えた頃、二杯目のエグリ・ウーリエ(Domaine Egly Ouriet:小売価格12,000円)の提供が始まりました。こちらは、広口のクープ型シャンパングラスに注がれ、「グラスを水平にゆっくり回し、香りを楽しんでください。」とのアドバイス。
ペンネやソフトドリンクの提供も始まり、ケーキなどのデザートも出ました。気が付くと午後7時半。「シャンパーニュの夕べ」は続いていましたが、ほろ酔い気分で美術館を後にしました。
◆感想など
解説がわかりやすく、ギャラリートークと自由鑑賞の時間配分は半々で、存分に展覧会を楽しめました。閉館後のイベントですから、まさに「貸し切り」。贅沢なひと時が味わえます。シャンパンと軽食のサービスも、普段は「飲食禁止」の地下1階ロビーを使うのですから、これも「スペシャル・タイム」。いま流行りの「コト消費」を満喫しました。
ただ、「発展途上」のサービスもあります。一回目の時は、「食べ物がない」という参加者が居たとか。今回は各参加者に一つプレートがあるので、安心して食べることができました。なお、チケットをすでに持っている方からは「チケットを持っているのに、何で観覧料まで払うの?」という声もあがりました。
また、会場では「ペンネがアルデンテじゃない。」「シャンパンに合ったおつまみにして。」などの声も聞かれました。次回はどんな進化を遂げているか、楽しみです。
Ron.
2017年
3月8日
「これはいったい何だろう。」と、2017.3.1付中日新聞で紹介された展覧会(以下「本展」)が始まりました。会場は名古屋市美術館。記事にあった「何を描いたものか理解しようとするより、子どものように理屈抜きで見る方が楽しめるかもしれません」という名古屋市美術館・笠木日奈子学芸員の言葉を参考にして、見てきました。
◆アール・ブリュット(Art Brut「生の芸術」、outside art)の先駆け
本展は日本で初めての、スイスの美術家アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)の本格的な回顧展です。ヴェルフリは、専門な美術教育を受けていない人による芸術「アール・ブリュット」を代表する作家で、31歳の時に統合失調症と診断されて精神病院に入院し、後半生を過ごしました。本展には、病院で描かれた膨大な作品の一部、74点が展示されています。
◆「これは何だ」:驚きの根気と集中力
最初の展示は1904~1905年の作品。どれも、74.5×99.6cmの白紙の新聞用紙全面に顔や、装飾帯、文字を鉛筆で描き、これでもかというくらいまで埋め尽くしたものです。鉛筆の線は、ほぼ同じ太さで丁寧に描かれており、装飾帯や線で囲まれた所は、細かい格子模様や斜線、点、短い線などを描きこんだり、様々な濃さで塗りつぶしたりしています。きっと、1枚仕上げるのに相当な時間と労力を要したことでしょう。その根気と集中力には驚くばかりです。
また、大画面であるのに、画面構成が破綻していません。作品を描く前に、そのイメージが頭の中に完成しており、ヴェルフリは何の迷いもなく、そのイメージを黙々と紙に定着させたのではないでしょうか。たぶん、描かずにはいられなかったのでしょう。
中日新聞の記事のとおり、「これは何だ」と、作品に目が釘付けになります。ただ、長い時間見ていると頭がクラクラしてきますね。
◆色鉛筆がキレイ
1910~1912年の『揺りかごから墓場まで』のシリーズ以降は、色鉛筆も使われたカラフルな作品になります。色鉛筆の発色がキレイなので、安物ではないと思います。また、五線譜ではなく「六線譜」に音符を描いた楽譜も登場します。
◆芸者の写真のコラージュも
1917~1919年の『歌と舞曲の書』や1929年の『葬送行進曲』のシリーズは、雑誌などに載っている写真のコラージュの周囲に額装を模した装飾を施し、余白を文字や記号で埋め尽くした作品です。日本の芸者や長火鉢を前にして座る日本女性をコラージュした《芸者-お茶と小笛〔小煙管〕》やアンディ・ウォーホルでお馴染みのキャンベル・スープの缶詰をコラージュした《無題(キャンベル・トマト・スープ)》など、どれもセンスの良さを感じさせます。
◆ブロートクンスト(パンのための美術)
最後の展示は、色鉛筆やタバコと交換したり、病院の職員や来訪者に売っていた絵です。売り物だっただけに、「これなら買ってもいいかな。」と感じました。
◆最後に
絵描きを職業とした人の作品ではありませんが、アルタミラ洞窟の壁画のような芸術性を感じます。ヴェルフリの作品を保存管理する財団があることにもびっくりしました。
3月19日(日)の協力会ギャラリートークでの笠木学芸員の解説が楽しみです。
Ron.