新美の巨人たち「岡本太郎がTAROになるまで」(テレビ愛知2022.12.10)

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テレビ愛知「新美の巨人たち」(2022.12.10 PM10:00~10:30放送) は、モデルの堀田茜さんがArt Traveler、西田ひかりさんの語り、テーマは「岡本太郎がTAROになるまで」。東京都美術館(以下「都美」)で開催中の「展覧会 岡本太郎」を紹介するものでした。以下は、番組のあらましです。

◆展覧会の映像

堀田茜さんが都美の展示室を進むと、頭上には《光る彫刻》(1967)。顔と腕だけの彫刻《若い夢》(1974)や陶器の《犬の植木鉢》(1955)、旧東京都庁舎壁画原画(1956)、井の頭線・渋谷駅の壁画《明日の神話》とその原画(1968)、パリ時代に岡本太郎が描いたと考えられる今年発見された3点の抽象画も登場します。

◆第一の出会い(ピカソの抽象画)

次に登場したのは、21歳の岡本太郎が運命的な出会いをした、パブロ・ピカソの抽象画《水差しと果物鉢》。線と形を抽象化したピカソとは違い、有機的な、人間に近い形を描こうとした岡本太郎。番組では、赤いリボンと握りしめた腕を描いた《傷ましき腕》(1936/49)についての解説もありました。

◆第二の出会い(未開社会の文化)

27歳の岡本太郎は、パリ大学でマルセル・モースの講義に強く惹かれ、アフリカの彫刻など未開社会の文化に目を開かれた、との解説がありました。

その後、ドイツがフランスに侵攻したことにより、岡本太郎は帰国。徴兵され、中国戦線で終戦を迎えて復員。戦後の作品として《夜》(1947)、《重工業》(1949)、《森の掟》(1950)が紹介されます。

◆第三の出会い(縄文土器)

40歳の岡本太郎は、東京国立博物館の「日本古代文化展」で縄文土器の過剰さに衝撃を受け、土器や土偶を多数、カメラに収めたとの説明がありました。

◆タロタロユッケ(馬肉のタルタルステーキ)

新聞の番組欄には「縄文土器&馬肉の秘話」と書かれていたので何のことかと思ったら、東京・台東区日本橋の桜鍋の名店「桜なべ 中江」が紹介され、岡本太郎が特注した料理・タロタロユッケ(牛肉を刻んだ卵を載せたもの)が出てきました。堀田茜さんは、タロタロユッケを食べて「おいしい!」と感激。岡本太郎はこの頃、縄文土器に日本人の原点を見出し、東北や沖縄など日本各地を旅し、土着の暮らしや人々を撮影。カメラの手ほどきは、パリ時代に友人だったマン・レイやロバート・キャパから受けた、とのことでした。

◆番組のラストは《雷人》

番組もラストに近づき、数寄屋橋公園の彫刻《若い時計台》(1966)、万博記念公園の《太陽の塔》(1970)が映され、遺作で未完の《雷人》(1995)の紹介で番組は終了。

◆写真家・岡本太郎

東京都美術館「展覧会 岡本太郎」の作品リストを見ると、岡本太郎が撮影した写真を「スライドショー」という形で、多数展示しているようです。

「どんな機材を使っているのか?」気になって番組終了後に検索したら、愛用したカメラとして、レンジファインダーのNIKON S2、一眼レフのペンタックスSP、Miranda 、ハーフサイズ一眼レフOLYMPUS Pen FT、コンパクトカメラの OLYMPUS XA2など様々なカメラが紹介されていました。

また、2018年に川崎市岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎の写真-採集と思考のはざまに」について、「あらためて、岡本太郎はいい写真家だと思う」と書いた、飯沢耕太郎の展覧会評も発見しました。

◆最後に

協力会でも2023年に愛知県美術館で開催される「展覧会 岡本太郎」のミニツアーを予定しているようです。今から待ち遠しいですね。

Ron.

新聞を読む「女性に自信を サンローランの精神」(日本経済新聞2022.12.04)

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「女性に自信を サンローランの精神」とは、日本経済新聞「The STYLE / Fashion」(2022.12.04付) に掲載された井上聡子記者の署名記事(以下「署名記事」)の見出しです。

◆展覧会の概要

署名記事は、東京・天王洲の寺田倉庫B&C HALL / E HALLで12月11日まで開催中の「BETTY CATROUX – YVES SAINT LAURENT 唯一無二の女性展」の展覧会評です。展覧会名の Yves Saint Laurent は、服飾デザイナーのイヴ・サンローラン(以下「イヴ」)。また、Betty Catroux(ベティ・カトルー、以下「ベティ」)は1967年以来の、サンローランの盟友。183㎝の長身、スレンダーでシャープな体形のモデル、「イヴが生み出すスタイルの体現者だった」77歳の女性です。展覧会は、ベティがピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団に寄贈した衣装とベティの写真・動画で構成。署名記事は、イヴが男性の略式礼服タキシードをイブニングドレスに代わる女性の正装に進化させた「スモーキング」の写真も掲載。更に「私が着るものは男ものの服ばかり。自分の感覚は、男でも女でもない」とベティが言い、イヴは「服装を通じて男性と対等になり、時代遅れの古典的な女性像を覆す」と話している、とも記載。

展覧会のURLは、Betty Catroux | Saint Laurent サンローラン | YSL.com。他に、サンローランの永遠のミューズ、ベティ・カトルーと水原希子 共鳴し合う精神 (fashionsnap.com) や、イヴ・サンローランが惚れ込んだふたりのミューズ。ベティ・カトルーとルル・ド・ラ・ファレーズ | Precious.jp(プレシャス) というネット記事もあります。画像も掲載されていますよ。

◆イヴは、クリスチャン・ディオールが希望した後継者だった

「芸術新潮」2022年12月号の記事によれば、まだモード学校の生徒だったイヴは、1955年6月20日にクリスチャン・ディオール(以下「ディオール」)に招かれ、ディオールはその場でイヴの採用を決めたとのこと。1957年にディオールは心臓発作で急逝。ディオールが生前希望していた通り、21歳のイヴがチーフ・デザイナーとして後を継ぎ、ディオールでの初コレクション「トラベラーズライン」は熱狂的に迎えられ、「それまでディオールはウエストを絞ったデザインを多く制作していたが、トラベラーズラインは身体を生地の中で遊ばせるようなデザインで、非常に新しく、斬新に受け取られた」との解説がありました。自分の名を冠したブランドの初コレクションで発表したピーコート(船乗りの服から着想を得たマリンルック)は「シャネル以来の最高の出来栄え」と称賛を受け、「スモーキング」の後もジャンプスーツ(落下傘部隊の「つなぎ」の制服にちなんだ名前)やサファリジャケット(アフリカで白人男性が着ていた衣服)など、女性のパンツスタイルを定着させた、との解説もあります。

◆ガブリエル・シャネルも、イヴを自分の後継者だと公言

署名記事には「ジャージーやツイードを用い、コルセットなど動きを制限する服から女性を解放したガブリエル・シャネル(以下「シャネル」) は68年、イヴこそ自分の後継者だと公言している」という記述もあります。それは「シャネルはイヴのデザインを支持していた」ということですね。

◆シャネルは、ディオールに我慢できなかった

山口昌子著「シャネルの真実」(新潮文庫 平成20年4月1日発行)によれば、シャネルは71歳になってモード界に復帰。その理由は「自分が一掃したコルセットに女性を閉じ込めたディオールに我慢できなかったのだと思う」とシャネルの友人・作家クロード・ドレイが分析しているとのこと。当時、ディオールはウエストを極端に絞った長いフレアスカートが基準の《ニュールック》を発表。ショーに登場したマヌカンは、全員10センチのハイヒールを履いていた、とも書いています。また、ディオールの目的は上流階級の限られた女性が着る服で、大衆を相手にするつもりがなかったこともシャネルが反発した理由だったとか。

「シャネルの真実」は、シャネルの復帰後、米国の週刊誌『ライフ』は、彼女が発表した「ヤング・ルック」を「着心地が良く、簡素でエレガントである」と強調して「大衆が影響を受けるのは明白だ」と評し、シャネルも《本当に仕立ての良い服とは、女性が歩いたりダンスをしたり、乗馬したりできる服》と述べ、ディオールら男性デザイナーを批判した、とも書いています。

◆最後に

2023年は「マリー・ローランサンとモード」だけでなく、東京都現代美術館「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」、東京・国立新美術館「イヴ・サンローラン展」が開催されます。シャネル、ディオール、イヴ、三人の間には「反発の対象」「後継者と希望・公言」といった関係があった、と知りました。

Ron.

読書ノート 「美術展 完全ガイド 2023」

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先日、Amazonで「美術展 完全ガイド 2023」(2023.01.01発行 発行所/株式会社晋遊舎 以下「本誌)を見つけ、直ちに注文してしまいました。掲載されていたのは2023年に開催される45の美術展の情報ですが、なかでも「マリー・ローランサンとモード」の記事に引き付けられました。

〇「マリー・ローランサンとモード」Bunkamura ザ・ミュージアム

他の雑誌では数行の記事でしたが、本書では2ページも割いています。マリー・ローランサン関係では作品の図版を4点、モード関係ではココ・シャネルの肖像写真1点と《デイ・ドレス》《帽子》の図版に加えて、マドレーヌ・ヴィオネ《イブニング・ドレス》の図版を掲載しています。

ガブリエル・シャネルとマドレーヌ・ヴィオネといえば、豊田市美術館で開催された「交歓するモダン」の「ファッションのモダニズム」で展示されていたのが二人の作品でした。(下記の写真参照)

豊田市美術館「交歓するモダン」の展示

注:左から、シャネル《イヴニング・ドレス》、ヴィオネ《ディ・ドレス》、シャネル《イヴニング・ドレス》、ヴィオネ《イヴニング・ドレス》

本書の図版は「交歓するモダン」に出品されたものとは違いましたが、二人の作品をもう一度見ることができるというのは、今から楽しみです。(他の雑誌によれば、名古屋市美術館に巡回予定とのこと)

〇 上記の外、本書で注目の展覧会

・豊田市美術館「ゲルハルト・リヒター展」

2022年から開催している展覧会ですが、本誌は4ページの記事を掲載しており、豊田会場だけで公開の《ムード》シリーズの図版もあります。

・愛知県美術館「展覧会 岡本太郎」

「ゲルハルト・リヒター展」と同様、他の雑誌では昨年発行の「2022年の展覧会」の中で取り上げていますが、本誌は2ページの記事を掲載。6章からなる展示内容を章ごとに紹介しており、事前勉強に役立つと思われます。

Ron.

読書ノート 「芸術新潮」2022年12月号など

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11月25日に発売された「芸術新潮」12月号の特集「これだけは見ておきたい2023年美術展」に、面白い記事が載っていました。それは「推し展 in 2023」と題する、東京都美術館館長の高橋明也さん(以下「高橋さん」)、マンガ家・コラムニストの辛酸なめ子さん(以下「辛酸さん」)、アートテラーの「とに~」さん(以下「とに~さん」)の鼎談です(p.39~43)。「2023年の推し展を検討する」という内容で、各人が三つずつ「推し展」出し合うのですが、名古屋市美術館で開催予定の展覧会が二つありました。

〇 マリー・ローランサン展(p.40、p.128)

辛酸さんが推したのは「マリー・ローランサン展」。「2023年が生誕140年ということで、2つ展覧会があるんですね。特に、モードを切り口にしたBunkamuraザ・ミュージアムの展示は盛り上がるんじゃないでしょうか。マリー・ローランサン美術館所蔵の作品がたくさん出るようです」と、話していました。マリー・ローランサン美術館については、高橋さんが「ローランサンの名を冠した世界唯一の美術館で、非常に質の良いコレクションを持っていますが、現在は非公開になっています」と解説。

マリー・ローランサン展については、p.128の特集でも取り上げており、展覧会名は「マリー・ローラサンとモード」。京都市京セラ美術館と名古屋市美術館(6/24~9/3)に巡回するようです。

なお、「美術の窓」2022年12月号p.118の特集には「ともに1883年にフランスで誕生したマリー・ローランサン(1883~1956)とココ・シャネル(1883~1971)。美術とファッションの境界を交差するように活躍した二人を中心に、ポール・ポワレやマン・レイなどの時代を彩った人々との関係にも触れながら、両大戦間のパリの芸術界を俯瞰する」という解説がありました。

〇 福田美蘭展(仮称)(p.41、p.114~115)

辛酸さんの「現代アートはどうでしょう?」という質問に、高橋さんは「福田美蘭展かな」と答え、とに~さんが「福田さんの創作意欲はハンパない。来年の展覧会も異常な事態になるのでは?」と続けています。福田美蘭展(9/23~11/19)については、p.114~115の特集でも取り上げており、「新作のプランはまだ検討段階ですが、名古屋市美術館に所蔵も多いエコール・ド・パリの画家に注目し、なかでもモディリアーニに関わる作品を作りたいと思っています」という福田美蘭さんの言葉が紹介されていました。

このほか、名古屋市美術館の常設展で展示されているフランク・ステラの作品について「フランク・ステラは戦後、世界の美術をリードし、絵画と空間について考えてきた現代美術界の巨匠です。そんな遠い存在の彼と、私は会って写真を撮ったことがあり、その時の不思議な感覚を基に、《フランク・ステラと私》(2001)を描きました。今回はこの二作を結びつける新作を作れたらと思うのですが。これが非常に難しい」という福田美蘭さんの言葉を紹介しています。

以上、二つの展覧会、どちらも開催が待ち遠しいですね。

〇 展覧会の入場料高騰も話題に(p.43)

鼎談の最後、辛酸さんの「このところ、展覧会の入場料が上がっている気がするのですが」という質問に、高橋さんが「確実に上がっていますよ。大規模展なら2000円台が普通」(略)「円安の影響で海外からの輸送料や保険料も高くなっていますから、どうしても影響が出てしまいます」と答えていました。

入場料高騰について、日本経済新聞・窪田直子編集委員の署名記事(2022.11.15付)は「海外美術展のチケット代高騰」という見出しを付けて、「チケット代値上げの理由の一つが輸送費の高騰だ。(略)航空路線の減便で需給が逼迫。ロシアによるウクライナ侵攻後は、ロシア上空を迂回することに伴うコスト増、燃料価格の高騰ものしかかる。(略)コロナ下で時間あたりの入場者を制限する日時指定の事前予約制が広がった。これもチケット代値上げの一因となっている。(略)美術展の主要な来場者であるシニア層はオンライン予約を敬遠する傾向にあり『観客のボリュームゾーンがまるごと失われた』(大手テレビ局の文化事業担当者)」と書き、「国内にいながら海外の名品を鑑賞できる。こうした貴重な体験を持続可能なものとする知恵が今求められている」という言葉で締めくくっています。

Ron.

展覧会見てある記 愛知大学・豊橋キャンパス「第4回 平松礼二展」

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新聞記事(2022.11.13 中日新聞)で「第4回 平松礼二展」(以下「本展」)のことを知り、愛知大学・豊橋キャンパスまで出かけてきました。ネットで調べると、会場は愛知大学記念館(以下「大学記念館」)。1908(明治41)年に陸軍第15師団司令部として建てられ、文化庁の登録有形文化財に指定された建物とのことです。

当日は、JR豊橋駅で下車。新豊橋駅で豊橋鉄道渥美線に乗り、愛知大学前駅で下車してホームから出ると、すぐ目の前に豊橋キャンパスの正門。正門を入り右に進むと、大学本部の南に大学記念館がありました。左右対称の二階建で、中央に玄関。階段室の壁には、平松礼二作品のタペストリー。2階に上がると正面に受付、入場無料でした。16ページもあるパンフレットを受け取り、そのまま、建物西側エリアの展示室に向かいました。

◆第1展示室 モネが歩いた路

 パンフレットを見ると、本展の正式名称は「フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受勲記念 愛知大学名誉博士第4回 平松礼二展 ~アイチ、モネ、そして世界へ!」。ネットで調べると、第3回の開催は令和元年11月ですから「3年ぶりの開催」ということになります。第1展示室には平松礼二がモネの睡蓮に出会った原点、ジベルニー村の風景を描いた作品等を展示していました。

◆第2展示室 睡蓮の間

 本展で一番大きな展示室です。パンフレットの表紙やチラシに使われている、本展のメイン・ヴィジュアル、六曲一隻の屏風《空へ向かう睡蓮》(2016)が目を引きました。左側には水面に映る雲とその上で羽ばたく蝶。中央右寄りに、S字を書くように睡蓮とカエデの葉、桜の花が浮かんでいます。上半分は秋の景色で、枯れ始めた睡蓮の葉と紅いカエデの葉、下半分は春の景色で、睡蓮の花と桜の花びら。春と秋の境目に浮かぶカエデの葉は青紅葉から黄色、深紅へと色が変わります。現代の琳派ともいうべき、色鮮やかで、装飾的な作品でした。この外にも、春夏秋冬、四季折々の睡蓮の絵が展示され、見入ってしまいました。

◆第3展示室 ジャポニスム~フランス紀行

 エトルタの断崖やポピーの花など、モネが取り上げたモチーフを日本画に描いた作品が並びます。夕焼けを描いたと思われる《流れる》(1998)を眺めていて、2018年に名古屋市美術館「モネ、それからの100年」で見たモネの《睡蓮の池》(1907)を思い出しました。ポピーを描いた《フランス屏風・春の曲》(1998)は、題名通り「フランス風の日本画」でした。

◆第4展示室 『文藝春秋』表紙絵

 2000年1月から2010年12月までの11年間、『文藝春秋』の表紙を飾った作品のうち、18点を展示しています。このなかで、印象的だったのは、「南無阿弥陀仏」と名号を唱え、口から小さな阿弥陀立像が六体現れる様子を表した「空也上人(京都)」2005年6月号の表紙でした。

 なお、展示されている原画の説明すべてに「フレスコグラフ」と書かれていました。「フレスコ」というのは、漆喰を壁やキャンバスなどの下地に塗り、乾かないうちに顔料などで上に直接絵を描く手法ですが、それとは少し違うようです。ネットで調べると「フレスコグラフ」は、「山口県産の高品質な石灰を原料とした“新鮮な漆喰”をシート状にすることにより、伝統的なフレスコを現代に生まれ変わらせた」技術とのことです。

◆第5展示室 木祖路~美の源流

 この部屋での見どころは、同じ場所の四季を描いた連作の屏風《路-木祖谷 春の奏》(1986)、《路-木祖谷 夏の奏》(1986)、《路-木祖谷 秋の奏》(1986)、《路-木祖谷 冬の奏》(1986)の4点です。

◆第6展示室 韓国~美の源流

 韓国の風景を描き、1977年に「第4回創画会賞」を受賞した《路-初冬》(1977)の外、1988年に描いた「北京故宮博物館~留学スケッチ」や海津千本松や常滑、瀬戸などを大学生時代に描いた「ふるさと紀行スケッチ」を展示しています。

◆第7展示室 路~日本の山河・草宴

 富士山を描いた作品、ススキやオミナエシなどを描いた作品が並んでいます。なかでも迫力があったのが、巨大な月とススキの丘、オミナエシの丘を描いた六曲一双屏風《路・白い波の彼方へ》(1992)です。麦を描いた《草宴》(1975)にはオミナエシが描かれていたので、麦秋(初夏)ではなく、秋の風景だと分かりました。

◆最後に

 東側エリアの多目的室では、2021年に町立湯河原美術館・平松礼二館で開催した展覧会「開館15周年 睡蓮交響曲」を記録した動画(16:41)を上映していました。展覧会では睡蓮を描いた屏風14点(全長90m)を前期・後期に分けて展示。展覧会開催前には、湯河原町民体育館で内見会を開催し、全14点を公開したようです。動画では、全14点の紹介もありました。動画も、見逃せませんよ。会期は11.19(土)まで。

Ron.

展覧会見てある記 一宮市三岸節子記念美術館「河鍋暁翠展」

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協力会から「河鍋暁翠展」(以下「本展」)鑑賞ミニツアーの案内が届きました。早速、一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)のホームページ(以下「HP」。URL=一宮市三岸節子記念美術館 (s-migishi.com))を開くと、次のような紹介文がありました。

〈これまで父・暁斎の名に隠れがちであった暁翠ですが、最近では、暁翠の活躍を描いた歴史小説『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、2021年、文藝春秋)が第165回直木賞を受賞したことで注目が集まっています。本展は、父の画技を受け継ぎながらひとりの日本画家として名を残した暁翠の作品を一堂に並べ、その画業の全貌を紹介する初の展覧会です〉(チラシも、同じ文章を掲載)

とても興味をそそられました。HPは、パンフレット(チラシ)、作品リスト、プレス・リリースも掲載。展示替えのため、ミニツアー当日には鑑賞できない作品があると分かり、急いで美術館に行ってきました。

◆第1章「暁翠と暁斎-父のてほどき」

 受付で千円を支払って2階に向かうと、右手の第一展示室(小振りの部屋)に「入口」の表示。第1章の作品を展示していました。ただし、最初の3点は、河鍋暁翠(1868-1935:以下「暁翠」)ではなく、父・河鍋暁斎(1831-1889:以下「暁斎」)の作品。《極楽太夫図》(1879以降)と《文読む美人》(1888頃)、《柿に鳩の図》(1872頃:チラシ裏面に掲載)です。そのうち、《柿に鳩の図》の解説には「暁翠が数え5歳の頃に、父から手渡された絵手本」と書いてありました。暁翠は、数え5歳の頃から「父のてほどき」受けていたのですね。

暁翠の作品は、チラシ表面に掲載の《猫と遊ぶ二美人》(制作年不詳)から始まります。その隣には、暁斎の描いた下絵(1878)が並び、解説には「下絵の遊女から良家の子女へ、身分を変更」と書いてありました。《寛永時代美人図》(1916:チラシ裏面に掲載)の隣にも暁斎の下絵(制作年不詳)。こちらの解説は「下絵の猫を狆に変更」というもの。HP掲載の文章のとおり、暁翠は「父の画技を受け継ぎながら、ひとりの日本画家として名を残した」のですね。チラシ裏面に掲載の《霊山群仙図》(1861~1892)の隣には、暁翠による《霊山群仙図由来書》(1917)を展示。「暁斎が描き始め、その死後に暁翠が完成させた作品」だと分かりました。

◆第2章「土佐・住吉派に学ぶ」

第2章からは第二展示室に展示。最初の2点は、暁翠が入門した土佐・住吉派の日本画家・山名貫義(1836-1902)の「やまと絵」でした。暁翠の作品で面白かったのは、「ベルベット・スキンソープ」宣伝用の《七福神入浴図ポスター》(制作年不詳)です。美術館でもらった本展広告に掲載されていた澤田瞳子さんへのインタビューには、このポスターを「私の一番好きな作品(略)洒落っ気のある所が気に入って、本の表紙にとも考えた」と書いています。肉筆画だけでなく、色鮮やかな三枚続きの大判錦絵も展示。そのうち、《毘沙門天虎狩之図》(1889)はチラシ裏面に掲載。解説によれば、暁翠は暁斎の死後、錦絵の仕事も引き継いだとのことでした。

◆第3章「教育者として」

面白かったのは「絵手本」。チラシ裏面に掲載の《美人の顔 第三段 絵手本》(制作年不詳)は完成図ですが、第一段・第二段という二つの下絵と合わせて完成までの手順を示しており、学ぶ人に親切な絵手本だと思いました。なお、《美人の顔》は前期の展示(~11/13)で、後期(11/15~12/4)には《翁面》が展示されます。

◆第4章「受け継がれた伝統」

この章では、双幅の《松風・羽衣》(制作年不詳)と「お多福」がいっぱい描かれた《百福図》(1916)がチラシ裏面に掲載の作品です。暁斎は大勢の人物が登場する、にぎやかな作品を描いていますが、暁翠も大勢が登場する絵を得意としていたようで、《百福図》の外にも《布袋と唐子》(制作年不詳)、《百猩々》(制作年不詳)、《百福の宴》(制作年不詳)を展示しています。戯画も面白く、大津絵に題材を取った《美人と鬼の相合傘》(制作年不詳)、ひな人形が動き出す《美人を驚かす内裏雛》(制作年不詳)には、思わずクスッとしました。

西行の有名な歌「願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」を画題にした、暁斎・暁翠・真野暁亭の三福対《西行雪月花》(制作年不詳)や《鐘馗図》(制作年不詳)にも目を引かれました。

◆最後に

 『星落ちて、なお』は、日本画の流行とは一線を画し時代に取り残されながらも、やまと絵や狩野派の伝統を守るため精一杯生きる暁翠を描いていますが、本展を見ていて、小説に描かれた暁翠の「清々しさ」を感じました。後期展示の作品も見たいので、11月27日(日)午後2時開始のミニツアーが楽しみです。

Ron.

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