展覧会見てある記 瀬戸市美術館「池袋モンパルナス展」

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瀬戸市美術館で開催中の「池袋モンパルナス ―画家たちの交差点―」(以下「本展」)ですが、会期末(11月14日)が迫ったので慌てて見てきました。名鉄瀬戸線の終点・尾張瀬戸駅の改札口を出ると、左に大きな交差点があります。道路の案内標識によれば、矢印の方向に0.8km進むと美術館に到着とのこと。「10分ほどの行程か」と思い、交差点を渡って歩き始めたのですが、坂道の勾配がきついので、足を大きく持ち上げないと前進できません。息を切らせながら15分近くかけて、ようやく到着できました。

美術館は南公園の中。建物は緑に囲まれています。玄関を入ると、壁に大きく引き伸ばされた「長崎アトリエ村模型」(注:長崎は東京都豊島区の地名)の写真が貼られ、撮影スポットになっていました。

アトリエ村再現

◆ 池袋モンパルナスとは?

 本展のチラシは「池袋モンパルナス」について、次のように書いています。

〈1920年代以降、池袋界隈には芸術家向けの安価なアトリエ付き住宅が建ち並び、そこには日本各地から上京した芸術家たちが集い、いくつかの「アトリエ村」と呼ばれる一画が形成されていきました。この地域では、芸術家同士の交流も盛んで、新たなアートシーンを生み出しました。その様子は、パリの芸術家の街になぞらえて「池袋モンパルナス」と呼ばれています〉(引用終り)

 ロビーに置いてあった1941年頃の「池袋モンパルナス」のマップを見ると、アトリエ村の住居は「外光を取り入れる北向きの天窓と作品を出し入れする大きな窓や細長い扉が特徴」で「池袋モンパルナス」の区域には、熊谷守一、北川民次、麻生三郎、山下菊二、靉光らが住んだとのことです。本展には「仙人」と呼ばれた画家・熊谷守一や、たびたびアトリエ村に立ち寄った長谷川利行の作品も出品されています。

◆ 第1章 池袋モンパルナスと小熊秀雄(1階)

 小熊秀雄(おぐまひでお)は北海道出身の詩人・画家。12歳年下の隣人・寺田政明(俳優・寺田農の父)から絵の手ほどきを受け「池袋モンパルナス」の名付け親になります。展示室の入口には、作品リスト、作家解説と並んで「池袋モンパルナス」の由来となった小熊秀雄の詩(『サンデー毎日』第17年 第37号1938年に掲載)を印刷した紙が置いてあります。詩の内容は、次のとおりです。( / は、行替え)

 池袋モンパルナスに夜が来た/学生、無頼漢、芸術家が街に/出る/彼女のために、神経をつかへ/

 あまり太くもなく、細くもない/ありあはせの神経を―――。(引用終り)

第1章に展示されているのは、2点の油彩《夕陽の立教大学》(1935)と《すみれ》(1930年代)及び素描9点です。《夕陽の立教大学》は、空や建物だけでなく、道路まで真っ赤。強烈な印象を与える作品です。素描にも、立教大学を描いたものがありました。近所なので、何度も通ってスケッチしたのでしょう。

◆ 第2章 画家たちが描いた肖像画・風景画(1階)

 本展チラシにも使われている、赤色で陰影を描いた麻生三郎《自画像》(1934)は、こちらを見つめる目に引き込まれそうなります。長谷川利行《靉光像》(1928)は、2018年に碧南市藤井達吉現代美術館で開催された「長谷川利行展」(以下「利行展」)で出会った作品だと、直ぐ分かりました。吉井忠《長谷川利行》(1968)には「新明町車庫近く市電内で」という文字。長谷川利行と池袋モンパルナスの画家との交流を物語る作品だと感じました。

肖像画の次は、風景画の部屋です。アトリエ村の一つ「さくらが丘パルテノン」を描いた斎藤求《パルテノンへの道》(1971)や田中佐一郎《建物のある風景》(1935年頃)など、戦前のアトリエ村を描いた作品が多い中、春日部たすく《池袋駅池前豊島師範通り》(1928)は、東京府豊島師範学校(現東京学芸大学の前身校の一つ)の正面を描いた作品です。鶴田吾郎《池袋への道》(1946)は、焼け跡の風景。建物はわずかしか残っていません。絵を見て「池袋モンパルナスの画家たちが住むアトリエの多くも戦災で焼失したのだろう」と思いました。カラフルな榑松正利《アトリエ村》(1960)は、心象風景でしょうね。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(1階)

 最初に展示されているのは、長谷川利行の作品3点と里見勝蔵《職工》(1917)。長谷川利行の作品のうち《水泳場》(1932)は、利行展で見て画面右上のダイビングする人物にびっくりした記憶があります。残念ながら、《四人裸婦》(1935)と《支那之白服》(1939)は、記憶にありません。《職工》はフォーヴィスム風で、モディリアーニ風にも見える作品でした。

 上記以外の作品は、画家の団体ごとにまとめて展示していました。

・池袋美術家クラブの結成

池袋美術家クラブは、池袋モンパルナスに集った画家たちで結成された団体です。田中佐一郎《黄衣の少女》(1931)は、シャガール風の作品。竹中三郎《裸婦》(1934)は、ピカソを想起させます。難波田龍起(なんばだ・たつおき)の作品3点は、いずれもシュールレアリスム風、寺田政明《夜(眠れる丘)》(1938)は、マックス・エルンストみたいで、桑原実《雲湧く山》(1938)はドイツ表現主義のようでした。

1階の展示は、この作品まで。次の作品は、2階に展示されていました。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(つづき:2階)

・様々な団体の作家たち

灰色の背景の中で裸の父親が立ち、子どもを背中におんぶしている姿を描いていた福沢一郎《父と子》(1937)やバイオリン・ベース・ピアノの三重奏を描いた井上長三郎《トリオ》(1943)など、シュールレアリスムの作品が並んでいます。アンリ・ルソーを思わせる榑松正利《夢》(1940)も出品されていました。

・新人画会

新人画会は、松本俊介の自宅を事務所とした団体です。松本俊介《鉄橋近く》(1943)は、鉛筆、木炭、墨で描いた風景。同《りんご》(1944)は、リンゴを持つ子どもを描いた可愛い作品です。寺田政明《たけのこ》(1943)は、彫刻のような雰囲気を持つ作品でした。

・戦後の池袋モンパルナス

第3章の最後は、戦後も池袋モンパルナスに集って制作を続けた作家の作品です。大塚睦、入江比呂、山下菊二、高山良策、桂川寛の5人の作品が展示されていました。いずれも、社会問題に対する批判を込めたものです。

◆ 第4章 池袋モンパルナスと瀬戸市美術館ゆかりの画家(2階)

 最後の章では、瀬戸市美術館ゆかり画家・北川民次の作品を展示していました。なかでも、瀬戸市図書館陶壁の原画《知恵の勝利》、《無知と英知》、《勉学》(全て1970)の3点は、オロスコ、リベラ、シケイロスらのメキシコ壁画運動の流れを汲むものです。バッタの絵柄の磁器や陶器も出品。解説には「バッタは個体では弱くても、特定の目的を持って集団になると、その全体は凶暴なものとなる」と書いてありました。

◆ 最後に

出品点数は107点。瀬戸市美術館の4つの展示室を全て使用する展覧会です。数多の作家の作品を鑑賞することができました。「池袋モンパルナス」のことは全く知らなかったのですが、本展で様々な知識が得られました。なお、本展の観覧料は大人500円ですが、65歳以上の高齢者は無料です。

Ron.

◆ おまけ:愛知県美術館「2021年度第2期コレクション展」でも「池袋モンパルナス」に出会えました

愛知県美術館で開催中の「2021年度第2期コレクション展」を見たら、展示室5に松本俊介《ニコライ堂》(1941)、熊谷守一《麥畑》(1939)、長谷川利行《霊岸島の倉庫》(1937)の3点が、横一列に展示されていました。なかでも《ニコライ堂》は「池袋モンパルナス展」に展示の《鉄橋近く》に似たモノクロームの風景画で、《霊岸島の倉庫》は利行展で見た記憶のある作品でした。

TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」の感想など

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TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」が11月6日(土)午前10時30分からNHK・Eテレで始まり、第1回は「リトルミーがやってきた」でした。

◆ 第1回「リトルミーがやってきた」のあらすじ

冬眠中のムーミン一家に、お客様=ミムラ夫人が大勢の腕白な子どもたちとやって来ました。おかげで、一家は大迷惑。ミムラ夫人が「夏至まで滞在する」と言うので、春も来てないのに「夏至になった」と、必死になって見え透いたお芝居を打つ、という「クスッと笑える」お話でした。

最初に「クスッと笑った」のは、ムーミンパパが「パジャマ姿ではお客さんに失礼なので着替える」と言って、真っ裸になるシーン。「パジャマ姿は失礼」というのは現代人と同じ感覚ですが、結論は真逆でした。確かに、ムーミン一家は裸が正装ですからね。

訪問先に大迷惑をかけても全く気にしないミムラ夫人の天真爛漫さや、「冬眠中なので出て行って欲しい」とはっきり言えずに、直ぐバレる嘘でゴマかそうというムーミン一家の対応も面白かったですが、一番は何といっても、ずけずけとストレートに物を言い、頭の回転も速いリトルミーの言動でした。何事も丸く収めようというムーミン一家とは対照的の鋭い物言いで、ムーミントロールは言い負かされっぱなしです。このほか、規則を厳格に守るへムル族の消防士も登場します。

春が来て「春になれば、あの人がやって来る」と、リトルミーが語るシーンで第1回はおしまい。あの人とは、誰?トーベの小説「楽しいムーミン一家」だと、春になって姿を現すのはス〇〇キンでしたが……。第2回で、はっきりするでしょう。

◆ ムーミンコミックスとの関連

「ムーミンコミックス展」ミニツアーで、清家学芸員から「ムーミンに口はあるのですが、前からは見えません」という解説がありました。コミックスならムーミンの表情を「目・眉・身振り・手振り等で表現」することもできますが、アニメだと台詞に合わせて口が動かないと不自然です。どうするのかな?と思っていたら、横顔の頭と首の境目の所で、小さな口が動いていました。

「平和的な話」というのもコミックスと共通しています。「リトルミーがやってきた」でも、事態を平和的に解決していました。

◆ 日本製「ムーミン」アニメとの違い

以下は、ムーミン公式サイトのブログ記事「昭和から平成、令和へ。ムーミンアニメの歴史」2021.11.05(URL= https://www.moomin.co.jp/blogs/fourseasons/98912)によるものです。

上記の記事でショックだったのは、次の部分です。

〈1969年と1972年からの二期にわたってフジテレビ系で放送された『ムーミン』、通称「昭和ムーミン」「昭和アニメ」は原作とあまりにも違っていたため、現在では放映もソフト化も許可されていません。(略)キャラクターは歪曲されていて、本来とはかけ離れた設定になっており、ムーミンパパがムーミントロールを叩く場面があったり、ムーミン谷で戦争が勃発したり、非暴力を徹底している原作本の世界とは根本的に違ったものになっていたのだ。そして、ムーミントロールは体の色まで変えられてしまっていた。トーベはすぐに動いた。日本での放映を止めることはできないが、外国での放映をストップさせたのである〉(引用終り)

ブログの画像を見ると、ブログに書いてあるとおり、「昭和ムーミン」は、ムーミンの色を白から緑へ、スナフキンの楽器もハーミニカからギターへと、原作とは違っていました。

ただ、1990年からテレビ東京系で新たに始まった『楽しいムーミン一家』、通称「平成ムーミン」は、製作段階から原作者が関わり、英語版がyoutubeのMoomin Officialアカウントで公開されているとのことです。詳細は、上記URLをご覧ください。

Ron.

名古屋市博物館 「ムーミンコミックス展」 ミニツアー

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名古屋市博物館で開催中の「ムーミンコミックス展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は7名。1階の展示説明室で清家三智学芸員(以下「清家さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。なお、清家さんは、本年4月に名古屋市美術館から名古屋市博物館に異動。本展は、彼女が異動後最初に担当する展覧会とのことでした。

◆清家さんの解説(10:00~35)の要旨(注は、筆者の補足です)

・これまでに日本で開催された、ムーミン関連の展覧会

2014年はムーミンの作者トーベ・ヤンソン(1914~2001)の生誕100周年にあたることから、2つの展覧会が開催されました。一つは「MOOMIN! ムーミン展」で、全国9カ所に巡回。もう一つは「生誕100周年 トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」です。この展覧会は彼女の全仕事を紹介するもので、ヘルシンキ・アテネウム国立美術館で開催された後、全国5カ所を巡回しました。

2019年秋から2021年秋にかけて全国を巡回したのは、フィンランドと日本の国交100周年を記念した「ムーミン展 “Moomin The art and The story”」。名古屋では松坂屋美術館で開催され、小説、雑誌の挿絵、絵本、一コマ漫画、舞台、日本との交流、浮世絵の影響などムーミンの魅力を紹介しました。

・本展について

本展は「ムーミンコミックス」にフォーカスした展覧会です。2020年秋に「松屋銀座」から巡回が始まり、名古屋市博物館は7館目。残りの巡回先は4館。次の会場は「横浜そごう」。最後の会場「東京富士美術館」の会期終了は2022年8月になります。

・「ムーミン」の誕生など

スクリーンに映したのはトーベと彼女の下の弟ラルス・ヤンソン(1926~2000)の写真です(注:本展チラシの裏面に掲載)。二人の左に写っている彫刻は父親の作品。撮影したのは上の弟(注:ペル・ウーロフ・ヤンソン=写真家、1920~2019)です。

ムーミンは、トーベがスウェーデン語で書いた小説(注:「小さなトロールと大きな洪水」1945年出版)に初めて登場します。なお、フィンランドの公用語は二つ、フィンランド語とスウェーデン語です。フィンランドはスウェーデンに支配されていたため(注:13世紀から600年間。その後、100年間はロシアが支配。独立はロシア帝国崩壊後の1917年)、スウェーデン語も公用語になっていますが、少数派です(注:現在は、国民の5.5%)。トーベの父親ヴィクトル・ヤンソン(1886~1958)は、スウェーデン語系フィンランド人の彫刻家。母親シグネハマルテルステン・ヤンソン(1882~1970)はスウェーデン人。家族はスウェーデン語で会話し、トーベはスウェーデン語で小説を書きました。

トーベが書いたムーミンの小説は、フィンランドではなかなか受け入れられませんでした。理由は二つあります。一つは言葉の壁です。フィンランドではスウェーデン語は少数派なので、読者が広がりません。もう一つは「想像上の動物が主人公」だったからです。フィンランド人が好むのは、活劇や恋愛小説。「想像上の動物の話」は、受け入れられなかったのです。

トーベはムーミンを普及するため舞台化(注:1947年に初のムーミン劇「ムーミン谷の彗星」を初演)や絵本化(注:1952年に初の絵本「それからどうなるの」をスウェーデン語とフィンランド語で出版)に取り組み、フィンランドのスウェーデン語紙に「ムーミンコミックス」を掲載しました(注:1947年に「ムーミントロールと世界の終り」の連載開始)。しかし、ムーミンパパの発言が批判されるなど、フィンランド国内では受け入れられない状況が続きます。

・英国「イヴニング・ニューズ」紙に「ムーミンコミックス」を連載

1950年に小説「楽しいムーミン一家」が英語に翻訳(注:”FINN FAMILY MOOMINTROL”) されると外国で評価され始め、ムーミン人気はフィンランドに逆輸入されます。

英国でムーミンの人気が高まったことから、世界最大の夕刊紙「イヴニング・ニューズ」を発行している英国・ロンドンのイヴニング・ニューズ社からトーベに「ムーミンコミックス」連載の話が舞い込みます。しかし、スウェーデン語を英語に翻訳するのは大変な仕事で、英語力が高い人材が必要になります。トーベの下の弟ラルス・ヤンソンは子どものころから英語の小説に親しんでいました。彼は、ムーミン谷の世界観もよく理解していました。そのため、トーベはラルスを共同制作者として、イヴニング・ニューズ社と契約。トーベが、あらすじ・作画・セリフを考え、ラルスが英語に翻訳するという役割分担でした。

厄介なのは、イヴニング・ニューズ社との契約内容でした。「奴隷契約」とも言うべき厳しいもので、連載原稿は半年先の分まで用意しておくこと、王室批判、政治批判は駄目、理不尽な死を描写することも駄目など、制約が多く、印税の配分もトーベにとっては不利なものでした。

今なら、下書きも電子ファイルで瞬時に送信できますが、当時の通信手段は郵便。下書きのやり取りだけでも時間がかかるため、夕刊紙への連載は過酷なものとなりました。そのため、ラルスは、あらすじの構想も手助けし、キャラクター制作についても提案するようになりました。このようにして、1954年9月20日から1959年12月末までの約5年半の間、トーベとラルスの共同制作が続きました。

・「ムーミンコミックス」連載は、ラルス・ヤンソン単独で制作することになる

トーベは1959年末で「ムーミンコミックス」の連載を終了し、1960年の契約更新はしないと決心します。しかし、イヴニング・ニューズ社との契約には「トーベ・ヤンソン以外でも連載を継続できる」という条項がありました。母親のシグネに相談すると、彼女は「弟のラルスが一人で連載を継続するべきだ。ムーミンの世界観を引き継げるのはラルスだけだ」と答えました。母親のシグネは挿絵画家で切手原画のデザイナーでした。トーベもテンペラ、素描、挿絵、油絵となんでもO.K.です。しかし、母親や姉と違い、ラルスはこれまで絵の勉強をしてきませんでした。そこで、ラルスはシグネやトーベから「ムーミンコミックス」制作の指導を受け、1960年から1975年まで、ラルス単独で「ムーミンコミックス」を制作しました。ラルス単独で制作した期間に読者が増えています。ラルスは作画力も持ち合わせていたのです。

・本展の構成

本展は、大きく二つに分かれています。前半は「黄色」の壁で、トーベとラルス共同制作の作品。後半は「ブルー」の壁で、ラルス単独制作の作品です。

・トーベが描いた原画など

トーベが描いた「ムーミンコミックス」の下絵・原画は、トーベの許にはほとんど残っていませんでした。トーベの許には彼女のファンが多数押しかけ、子どものファンにはコミックスの原画をプレゼントしていたのです。展示しているキャラクターのスケッチや構想図は、トーベの遺族の手許にあったものです。

スクリーンに映したのは、キャラクターのスケッチです(注:本展チラシの裏面に掲載)。英語で書かれているので、イヴニング・ニューズ社との打ち合わせ用と思われます。ムーミンに口はあるのですが、前からは見えません。そのため、ムーミンの表情は、目・眉・身振り・手振り等で表現しなければなりません。口を描かないという制約はありますが、ムーミンは表情豊かです。

・ラルスが描いた原画など

ラルスが描いたコミックスの原稿は残っていました。ラルスの原稿が発表されるのは、日本初です。

なお、本展は、ラルスが設立したムーミンキャラクターズ社の特別協力を得ています。ムーミンキャラクターズ社は、ムーミンに登場するキャラクターの版権等を管理する会社で、現在はラルスの娘ソフィア・ヤンソンが会長を務めています。

以上で、清家さんの解説が終了。参加者は自由観覧となりました。

◆自由観覧

当日は、日曜日ということもあり子ども連れが目立ちましたが、若いカップルや高齢者の姿も多く、名古屋市博物館は、にぎやかでした。ムーミンといえば「子ども向けアニメ 」のイメージが強かったので、「大人向けムーミン」は新鮮でした。展示されていた「イヴニング・ニューズ」には、4つのコミックが印刷されています。日本のマンガ雑誌だと、人気の低いマンガは早々と連載打ち切りの羽目に陥ります。展示されたコミックスを見て、20年以上も連載が続いた訳が分かりました。「ムーミンコミックス」は、安心して読むことができるのです。

◆TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」

名古屋市博物館のホームページから本展の公式サイトを経由して「ムーミン公式サイト」に入ったところ、TVアニメの記事にたどり着きました。〈フィンランドとイギリスの共同制作によるフルCGアニメーション「ムーミン谷のなかまたち」(2019年4月にNHKのBS4Kで放送)が、2021年11月6日(土)午前10時30分からNHK・Eテレで放送開始決定〉というものです。午前中の放送なので「子ども向けアニメ」という位置づけになりますが、大人も楽しめると思います。

     Ron.

展覧会見てある記 コレクション展:絶対現在 ほか 豊田市美術館

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豊田市美術館では「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」にあわせて、河原温「Todayシリーズ」を中心とした「コレクション展:絶対現在」を始めとする「コレクション展」も開催中。以下は、そのレポートです。

1F:展示室8「コレクション展:絶対現在」

展示室に入った正面にあるのは、ボリス・ミハイロフ《イエスタデイズ・サンドイッチ12》(1965-81)。二つのカラースライドを重ね合わせた作品のようです。「重ね合わせ」という行為で「時間」を表現しているのでしょうか。その向かいにある3点の作品は、下道基行《Torii》(2006-12)。かつて、日本人が住んでいた異国の地に建てられた「鳥居」を撮影したシリーズです。公園のベンチに再利用されている鳥居や海岸の草むらの中にポツンと立っている鳥居、墓地にある場違いな鳥居が写っていました。鳥居が立てられた時から現在までに過ぎ去った時間を感じることができます。ローマン・オルパカ《オルパカ1965/1-∞》は、数字を書き込んだ痕跡を示す作品。《ディテイル2601104-2626001》をよく見ると、2601104から2626001までの数字がぎっしりと書き込まれていました。

「コレクション展:絶対現在」の中心である河原温「Todayシリーズ」は、壁4面にわたって《MAY 1.1971》から《MAY 31.1971》まで31点が勢ぞろいするという、普段はできない大掛かりな展示です。見応えがありました。

杉本博司《カントン・パレス・オハイオ》(1980)は、劇場シリーズの一つ。2020.7.15付日本経済新聞「私の履歴書」に、ニューヨーク・イーストビレッジの映画館で撮影した時の話が書いてありました。《初めの七日間》(1990-2003)は、海景シリーズの7点。一番左の作品は霧に覆われていますが、一番右の作品は空と海がくっきりと分かれ、波もはっきり見えます。2020.7.19付「私の履歴書」には〈先祖が見ていた海は、今私が見ている海と、おそらく大きくは変わっていないのではないのかと思った〉と、書かれています。古代の海と現在の海のつながりを表現しているのですね。

李禹煥の《線より》(1977)と《線より》(1981)は、どちらも青い縦線が何本も描かれた作品。一つだけでも、時間の経過を表現していますが、二つを並べると時の隔たりも感じることができます。

ミケランジェロ・ピストレット《窃視者(M.ピストレットとV.ピサーニ》(1962,72)を離れたところから見たら、高松次郎《赤ん坊の影No.122》(1965)が写り込み「鏡の効果はすごい」と感心しました。

1F:展示室6・展示室7

普段は、主に小堀四郎の作品を展示している展示室6ですが、今回はクリムト、エゴンシーレ、ココシュカ及びアンソールの作品に加えて浅野弥衛、北川民次の作品も展示されています。展示室7は、いつもどおり宮脇晴(はる)、宮脇綾子の作品でした。

2F:展示室5

入口近くに、藤田嗣治の作品が3点並んでいます。真ん中は《美しいスペイン女》(1949)。いつ見ても、うっとりします。両脇は、第二次世界大戦中に描かれた《キャンボシャ平原》(1943)と《自画像》(1943)。《自画像》は「おかっぱ」ではなく、時局を反映して丸刈り。映画「FOUJITA」(2015)にも、複製が登場していました。

河原温の「Todayシリーズ」も2点。《June 30.1978》と《Oct 21.1981》がありました。

展示室の中央は工芸品。青色が鮮やかな河合寛次郎の陶器《碧釉扁壺》(1964)と鮑貝が美しい黒田辰秋の漆器《乾漆螺鈿捻稜水指》(1965)と《螺鈿牡丹紋筐》(1941-45頃)。いずれも印象的でした。ステンレス製の抽象彫刻=毛利武士郎《Mr.阿からのメッセージ 第3信》(1966)は、図面も展示しています。

展示ケースの中には、多数の日本画が展示されています。中でもミミズクと極細の月を描いた、前田青邨《二日月》(1946)の描線はきれいでした。ただ、二日目なら、月の右側がうっすらと見えるはずなのですが、この作品は月の左側が細く見えています。なぜなのでしょう。構図の関係ですか???

Ron.

展覧会見てある記 ホー・ツーニェン 百鬼夜行 豊田市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆2019年あいちトリエンナーレ《旅館アポリア》から始まった連作の最後

先日スマホを見ていたら、突然「美術手帖 EXHIBITION」が出現。「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」が豊田市美術館で開催されることを知りました。記事の概要は以下のとおりです。

〈シンガポールを軸にして、アジアを舞台にした作品を展開してきたホー・ツーニェン。(略)本展では、日本をテーマとしたプロジェクトのひとつとして、奇怪かつ滑稽な100の妖怪たちが闇を練り歩く、新作の映像作品《百鬼夜行》を公開する。ホーの日本でのプロジェクトは、あいちトリエンナーレ2019の豊田会場における喜楽亭(きらくてい)の《旅館アポリア》に始まり、2021年春の山口情報芸術センターでの《ヴォイス・オブ・ヴォイド-虚無の声》に続いて、本展が最後となる。(略)第3弾となる本展では、近代から現在まで日本の大衆文化を反映してきた「妖怪」に焦点を当て、戦争の時代を含めて日本の文化史や精神史を浮かび上がらせる(略)〉引用終り。

(URL=https://bijutsutecho.com/exhibitions/8808)

◆「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」は4つの展示室を使った映像作品

早速、豊田市美術館に行くと「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」(以下「本展」)の大きな看板。口を大きく広げた妖怪(山彦)が出迎えてくれました。展覧会場の入口は2階の展示室1。展示室4までの4室を使った展覧会です。順番に映像作品を見ました。入口にはカーテンが引かれ、中は真っ暗。展示室に入ると係員が来て、足元を懐中電灯で照らしてくれます。

◆展示室1 100の妖怪(上映時間16:30)

展示室1は2つのスクリーンに映像を投影。一番大きな壁面には、2台のプロジェクターを使ってパノラマ作品が投影され、左から右へと色鮮やかな妖怪がパレードを続けます。手前の小さな画面には、眠る人々。この作品は手前の画面とパノラマ画面を重ね合わせて見るように制作されていますが、それに気付かず、「手前の画面にも映像があるけど、まあいいや」とパノラマ画面だけに集中してしまいました。今、思い返すと、残念な鑑賞方法でしたね……

妖怪のパレードはエンドレスなので、どこから見てもO.K.とはいえ、本来の始点は土蜘蛛(古代、大和朝廷に服従せず、異民族視された人々)。赤舌、雷獣、鵺、白澤、獏、鳳凰、だいだらぼっち等、延々と行進は続きます。水木しげるの「妖怪図鑑」を見ているようで、理屈抜きに楽しめる作品です。ただ、旧日本兵の姿をした大天狗の登場で「なぜ、日本兵?」と思い始めました。海坊主、船幽霊、産女(うぶめ。赤子を抱いて、腰から下は血まみれ)の後から登場する、河童、キムジナー、魍魎、木霊(「もののけ姫」に出てくる妖精)などは皆、短刀や手榴弾のようなものを身に着けています。旧日本軍の参謀・辻政信にそっくりな坊主や司令官、快傑ハリマオ(昔のテレビドラマの主人公。頭に白いターバンを巻き、黒いサングラス。石ノ森章太郎もマンガを描いた)が出て来て、作者の意図が分かりました。妖怪は太平洋戦争の影を背負っているのです。

◆展示室2 36の妖怪(上映時間16:45)

展示室1「100の妖怪」に登場した妖怪の中から抜粋し、名前・性質などを紹介しています。偽坊主(第二次世界大戦後、多くの日本兵が僧侶に化けた)、二人の「マラヤの虎」(山下奉文・陸軍大将=戦犯として死刑宣告と、日本人盗賊・谷豊=F機関に所属、ハリマオと呼ばれた)なども紹介されました。(注:山下奉文(ともゆき)は、日本軍が英領マレーとシンガポールを攻略した時の司令官。宮本三郎の戦争画《山下、パーシバル両司令官会見図》(1942)に描かれています)

◆展示室3 1人もしくは2人のスパイ(上映時間17:25)

スパイ養成機関「陸軍中野学校」の話、「F機関」(藤原岩市少佐を長とする謀略機関)の話、「マレーの虎」と呼ばれた日本人盗賊・谷豊を諜報員として勧誘する「ハリマオ作戦」、もう一人の「マレーの虎」山下奉文・陸軍大将、マラヤ侵攻時の参謀で敗戦後は僧侶に化けて戦犯の追及を逃れた辻政信の物語などを、「スパイ」という視点から作品化したものです。2019年の《旅館アポリア》と同じように、アニメーションと実写、虚構と史実などを重ねた映像でした。

◆展示室4 1人もしくは2人の虎 (スクリーン1:上映時間8:00、スクリーン2:上映時間8:00)

展示室4は、3つに仕切られています。手前の部屋のスクリーン1では、二人の「マレーの虎」、山下奉文・陸軍大将と日本人盗賊・谷豊の話、辻政信の話および「F機関」の藤原岩市少佐の話を、「虎」という視点で作品化したものを上映しています。

真ん中の部屋のスクリーン2では「虎」のイメージを主題にした作品を上映していました。冒頭、中国や日本で描かれた「虎図」が次々に登場。どの「虎図」もアニメーション。つまり、動いています。次に登場するのが谷豊。1932年から「ハリマオ=虎」としてマライで活動中、1942年に死亡。軍部は、直ちに彼をモデルにプロパガンダ映画「マライの虎」(1943)を制作。第二次大戦中には「千人針」に「千里往って千里還る」という虎のイメージが使われ、戦後の1960年にはテレビドラマ「快傑ハリマオ」(主人公は、盗賊ではなく海軍中佐という設定)として復活。1989年には、陣内孝則が主役の映画「ハリマオ」が制作され、その後も「タイガーマスク」や「ラムちゃん」など、「虎」のイメージは現代まで脈々と続いていることが分かりました。

最後の部屋には、山下奉文・陸軍大将や快傑ハリマオなどに関する資料が展示されています。

◆《旅館アポリア》の再現もあるようです

本展のチラシの裏には、「とよたまちなか芸術祭の特別展示」ホー・ツーニェン《旅館アポリア》Ho Tzu Nyen Hotel Aporia 日時:2021.12.4|土|-2022.1.23|日| 10:00-16:30、休館日:月曜日[2022年1月10日は開館]、年末年始(2021.12.27‐2022.1.4) 観覧料:無料、主催:公益財団法人豊田市文化振興財団、豊田市、会場:喜楽亭(豊田産業文化センター内)と書いてあります。

2019年の《旅館アポリア》は、喜楽亭(高級料理旅館で戦前は養蚕業者、戦後は自動車関係者が利用。その後、現在地に復元移築)の4つの部屋を使った、12分×7本=84分の映像作品(一ノ間「波」、二ノ間「風」、三ノ間「虚無」、四ノ間「子どもたち」)でした。一ノ間「波」は、小津安二郎監督の映画「彼岸花」(1958)が素材で、出演者の顔にスモークがかけられ、一瞬ですが佐分利信や愛知県蒲郡市の三河大島、蒲郡ホテル(現:蒲郡クラシックホテル)が映ります。三ノ間「虚無」も小津安二郎監督の映画「父ありき」(1942)、「秋刀魚の味」(1962)を素材にしています。トリエンナーレの時は「三密」の状態で鑑賞していました。今回の「再現」では新型コロナウィルス感染防止のため、マスク着用、検温、入場制限などの措置が実施されるのでしょうか。

◆最後に

展示室4の最後の部屋を除き映像作品ばかりなので、全てを見ようとすれば、最短でも1時間以上かかります。立ち続けるのは大変ですが、椅子はわずかしかありません。じっくり鑑賞しようと思ったら直接、床に腰を下ろすか、携帯チェアを持参して座って見ると良いでしょう。分かりやすいですが、色々と考えさせられる作品でした。

なお、せっかく豊田市美術館まで来たのですから、本展の鑑賞券で、同時開催のコレクション展「絶対現在 Absolute Present」も鑑賞しましょう。「絶対お得」です。

Ron.

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 「ヴォイス・オブ・ヴォイド」を体験してきました。

あいちトリエンナーレ2019に≪旅館アポリア≫を出品していたホーの新作です。

行列に並ぶのを覚悟していったのですが、幸運にも、すんなり入れてもらえました。

大広間にて

 薄暗い会場に入り、係の方からVR機器の使い方を教えていただき、座布団に座ると映像がスタートしました。

 最初は、和室で座談会の場面のようです。しばらくすると、スーッと視点が上昇して、モビルスーツのようなものに囲まれながら、雲上を遊泳します。その後、地下牢のような小部屋に入ったり、和室に戻ったり。その間も、むつかしい哲学的な会話が聞こえてきます。

会場風景

 始まる前に、係の方から「エンドレスなので、楽な姿勢で見てください。」と言われて、足を延ばして体験していたのですが、いろいろとかなり疲れました。

どなたか、この作品を体験した方がいれば、ぜひ感想を聞かせてください。

ヴォイス・オブ・ヴォイドのチラシ

 帰り際に、係の方に聞いたら、1日当たりの来場者は平日で約30名、休日だともう少し多いくらいとのことでした。

あいちトリエンナーレの≪旅館アポリア≫の順番待ちの行列状態とは、だいぶ雰囲気が違うのだなと思いました。

 そういえば、豊田市美術館で、同じ作家の別の展覧会(「百鬼夜行」)が始まりました。

そちらも、ぜひ見に行きたいと思います。

杉山 博之

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