展覧会見てある記 愛知県美術館「展覧会 岡本太郎」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日、愛知県美術館で開幕した「展覧会 岡本太郎」(以下「本展」)に出かけて来ました。平日の昼頃でしたが、若い世代が目立ちます。大阪万博(1970)から50年以上経ち、没後27年経過というのに、来場者が多いことにも驚きました。岡本太郎、いまだに人気があるのですね。

◆最初のコーナーは、モザイクタイルの壁画に関連する作品

 会場が愛知県美術館ということから、最初のコーナーは地元の産業・モザイクタイル関連の展示でした。《太陽の神話》(1952)はモザイクタイルの作品です。旧東京都庁舎を飾ったモザイクタイルの壁画は1991年に取り壊されたため、その原画《日の壁》《月の壁》(いずれも1957)を展示。オリエンタル中村の壁画も取り壊されたため、模型を展示。建物が解体される時、壁画を保存したくても大きくて費用が嵩むので保存は難しく、建物と運命を共にせざるを得ないということでしょう。会場には、岡本太郎と旧東京都庁舎を設計した丹下健三が、モザイクタイル工場で一緒に写っている大きな写真も展示されていました。二人の間には、大阪万博以前から交流があったのですね。

オリエンタル中村の壁画《星・花・人》
  (模型)
旧東京都庁の壁画《日の壁》(原画) 

◆パリ時代の作品

本展の開催前から「岡本太郎がパリ時代に描いた可能性が極めて高い作品が3点発見された」というニュースが話題になっていたので、野次馬根性で見ました。展示されていたのは抽象画。岡本太郎の初期の作品といえば、抽象画ではなく、シュルレアリスムの《傷ましき腕》(1936/再制作1949)。抽象画では満足できなくなった、ということでしょう。

パリ時代に描いた可能性が高い作品

◆戦中・戦後の作品

NHKのドラマで、岡本太郎が30歳を過ぎてから徴兵され、中国の最前線で危険な任務に就いていたことは知っていました。それでも、師団長からの命令で制作した《師団長の肖像画》(1942)と個人的に描いたと思われる《眠る兵士》(1945)を見たときは、少し驚きました。肖像画の依頼があればともかく、従軍中に「眠る兵士」をスケッチすることは出来たのでしょうか。

《燃える人》(1955)は、ビキニ環礁水爆実験の巻き込まれた第五福竜丸事件をテーマにしたもの。東京国立近代美術館所蔵の作品には、《明日の神話》と同じように「第五福竜丸」を擬人化したモチーフが描かれていました。

◆《太陽の塔》と《明日の神話》

《太陽の塔》と《明日の神話》は、独立したコーナーがあります。もちろん、「本物」を展示することはできないので、模型やスケッチ、下絵を展示。《明日の神話》の展示は、《ドローイング》(1967)と《3枚目の下絵》《4枚目の下絵》(いずれも1968)ですが、そのうち名古屋市美術館所蔵の《3枚目の下絵》だけ、壁画と同様、画面左右の下部に空白があります。展示室では、《明日の神話》の修復から世田谷駅前通路に設置されるまでを収録したビデオも上映していました。

《明日の神話》(3枚目の下絵:名古屋市美術館所蔵)

◆写真撮影について

展示室内での写真撮影は、特に制限はありませんでした。ただ、写真撮影に夢中になると作品を鑑賞する時間が無くなるだけでなく、作品の記憶まで飛んでしまうので要注意。

また、10回のロビーには記念撮影コーナーがあります。「TARO MAN」と「太陽の塔」、2つのコーナーでは入れ替わり立ち代わり、記念撮影する人が来ていました。

          Ron.

「女性の服飾文化史 新しい美と機能性を求めて」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

日置久子 著 西村書店 2006年9月15日初版第1刷発行

投稿 2023.01.16

今回ご紹介するのは、今年に入って3冊目の、女性の服飾文化史に関する本です。フランス革命前後から現代までの服飾文化史について書いているので、「マリー・ローランサンとモード」で展示される前後の時代のモードについても触れます。(注:p.○は、該当ページを表します)

1 「マリー・ローランサンとモード」以前の女性服

(1)フランス革命前後のモード

フランス革命前の女性服は、装飾過多で細いウエストの胴着を着て、パニエ(スカートを膨らませる籠型)で膨らませた大きなスカートを着けていましたが(p.11)、革命期にはパニエ、コール・ピケ(ウエストを締める胴衣)、ヒップ・パッド(腰当)などの人工的なものを身に着けないイギリス調のシンプルなドレスになり(p.16)、第一帝政期にはネグリジェかランジェリーのように見える、ギリシャ・ローマ風スタイルのシュミーズ・ドレスが流行します(p.44)。大きな変化ですね。

(2)ロマンティック・モード

第一帝政が崩壊し王政復古となると女性の服装は貴族風になります。胴は細く、スカートは釣鐘型、袖は上部が大きく、肘から手首にかけて細くなります(p.54)。1830年を過ぎる頃からドレスの肩幅が狭まり、1840年代に入ると、袖は余分な膨らみがだんだん無くなって、細くなります(p.56)。

1857年には、クリノリンと呼ばれる、細い針金で出来た半球型のフープ(枠)が登場。クリノリンは大量生産され安価だったため、家政婦や農婦にまで行きわたります(p.59)。クリノリンの流行は1860年代末まで続きますが、1868年には、スカートの後部に強調部分がおかれる半クリノリンに変化。19世紀末には、スカートの後ろにバッスル(籠)を入れて腰を膨らませる、バッスル・スタイルが流行します(p.86)。なお、明治時代に鹿鳴館で女性が着たのは、バッスル・スタイルです。

(3)アール・ヌーヴォー・スタイル

19世紀末から20世紀初期にかけては、アール・ヌーヴォー・スタイルが流行。女性服のシルエットはバッスルによる人工的な膨らみから解放され、ウエストが細く、バストとヒップを目立たせるSカーブ・ラインに変わります(p.156)。

2 「マリー・ローランサンとモード」の女性服

(1)ジャポニスム

1900年にパリ万国博覧会で着物姿が話題となり、「キモノ・サダヤッコ」「ジャパニーズ・ガウン」などと名づけられた着物風の室内着が売り出されます。「体を締めつけない女性服」の復活でした。

ア ポール・ポワレ

ポール・ポワレも1903年、着物にヒントを得た女性服を制作します。直線的な裁断で、自然なゆるやかさのある、日本風の衣装です。ポワレは女性をコルセットから解放し、Sカーブ・ラインのスタイルをストレート・ラインに変えます。ストレートなキモノ・スリーブを着け、着物風の打ち合わせを取り入れました(p.160)。ポワレの周辺に集まった画家は、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサンなど。彼の邸宅は優れた近代絵画のコレクションで飾られていました(p.163)。「マリー・ローランサンとモード」でポワレがデザインした作品が展示されるのも納得です。

しかし、全盛期を過ぎたポワレは、1925年のアール・デコ展で全財産を使い果たし、まもなく破産。再起することはありませんでした(p.177)。

 

イ マドレーヌ・ヴィオネ

 マドレーヌ・ヴィオネは第一次大戦後、着物にインスピレーションを得て、平面性とゆとりを特徴とする直線裁断の服をデザイン、さらにバイアス・カットで自由なデザインを発想します(p.160)。

(2)ギャルソンヌ・スタイル

「ギャルソンヌ」とはフランス語の「ギャルソン(少年)」を女性形にした言葉です。第一次大戦後、理想的なタイプが、肉感的な女性から、バストとヒップが平たく、脚線美のスリムな女性に変化。テーラード・スーツやコート、短いシュミーズ・ドレスが好んで着用され、これを「ギャルソンヌ・スタイル」と呼ぶようになります(p.180)。しかし、1930年代までにギャルソンヌ・スタイルは完全に姿を消して、女性服に体の自然な曲線がよみがえり、成熟した女性のスタイルに復帰。スカート丈も長くなります(p.187)。

(3)ガブリエル・シャネル

ア 第一次大戦前

ガブリエル・シャネル(1883-1972)は、1910年にパリのカルボン通りに帽子店を開店。当時、帽子は服よりも重要なアイテムでした。1913年にはビーチ・リゾート、ノルマンディーのドーヴィルにブティックをオープン。スポーツ好きのシャネルが考案した新しい服は飛ぶように売れました(p.191)。

イ 第一次大戦中

シャネルは裁断や縫製が簡単なジャージー(ニット生地)を使って、女性服をつくり始め、1916年5月、モード雑誌にジャージー・スーツを掲載します(p.192)。

ウ プティット・ローブ・ノワール(英語では、little black dress)

 1926年、米国の『ヴォーグ』誌10月号は、ギャルソンヌ・スタイルに近い黒いシュミーズ・ドレス(little black dress)を、一種の“ユニフォーム”になるだろうと予言します。それは、2-3メートルの生地で出来る、大量生産向きのデザインでした。コピーされてもそれが普及すればビジネスは成功すると信じ、シャネルはコピーを許していました(p.194)。

3 「マリー・ローランサンとモード」以後の女性服

(1)クリスチャン・ディオール

1947年にクリスチャン・ディオールが披露した「ニュールック」は、すっきりと目立つバストライン、細いウエスト、たっぷり広がったロングスカート、豪華な生地を贅沢に使い、洗練したスタイルで登場します(p.209)。

服飾史から見ると、ニュールックは18世紀のパニエ・スタイル、19世紀のクリノリンに通じる伝統的なスタイルでした。この古くて新しいスタイルは、第二次大戦中のミリタリー・ルックや実用服に飽きていた女性たちには、この上なく新鮮に見えました。しかし、終戦直後の、品不足の貧困生活に喘いでいる人々にとっては贅沢極まりないもので、激しい反感を買いました(p.211)。

(2)ガブリエル・シャネル、71歳の再登場

1939年に香水とアクセサリー部門だけ残して閉店したシャネルですが、第二次大戦後の1954年、71歳で再登場します。復活の理由は「クリスチャン・ディオールの独裁を排除するため」でした。

実用性と機能性とプレーンさを重視したシャネルには、ディオールのコルセットで固めた、着にくい服を黙認することはできませんでした。彼女が発表したコレクションは英仏では不評を買いましたが、米国のモード記者たちは絶賛。ツイードの襟なし、ブレード縁取りのシャネル・スーツは、応用範囲の広い、キャリアウーマンのためのスーツでした(p.195)。

Ron.

「シャネル、ポワロ、ヴィオネのことなど」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

美術雑誌によれば、本年に名古屋市美術館へ巡回という「マリー・ローランサンとモード」。最初の巡回先Bunkamura ザ・ミュージアのホームページ(以下「HP」URLは マリー・ローランサンとモード | Bunkamura)を開くと、ガブリエル・シャネル、ポール・ポワレ、マドレーヌ・ヴィオネの名前がありました。図書館で参考になりそうな本を探すと二冊がヒット。それに載っていた内容の一部をご紹介します。

〇 見つけた本

A:『世界服飾史のすべてがわかる本』

 能澤慧子 監修 発行所 株式会社ナツメ社 2012年3月12日初版発行

B:『写真でたどる 美しいドレス図鑑』 原題:”How to Read a Dress”

 リディア・エドワーズ著 徳井淑子 日本語版監修・訳 小山直子・訳 発行所 株式会社河出書房新社 2021年11月30日初版発行

〇 ポール・ポワレ (Paul Poiret)

 1900年に開催された5回目のパリ万国博覧会では(略)川上貞奴の着物姿が話題となり、のちに彼女の名を冠した着物風室内着も販売されました。(略)この流行をいち早く取り入れた代表的なデザイナーがポール・ポワレ。ハイウエストで直線的なシルエットのドレスや、着物のような合わせを持ったドレス、キモノ袖と呼ばれる長い袖をもつドレスを発表しました (A:p.134) 。

Bのp.129に載っていた1912年制作のイブニングコートは、日本の打掛(うちかけ)を思わせるスタイル。ただ、裾幅が狭いので歩幅が制限され、とても歩き難かったろうと思われます。

補足:2022年に豊田市美術館で開催された「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」(以下「交歓するモダン」)では《コート》(1920年代) と《デイ・ドレス「ブルトンヌ」》(1921) を展示していました。

〇 マドレーヌ・ヴィオネ (Madeleine Vionnet)

 第一次世界大戦後に活躍したデザイナー、マドレーヌ・ヴィオネは立体裁断(注1)の技法を追求し、バイアスカット(注2)やサーキュラーカットなど新しいパターンの衣服を提案。彼女の衣服は、のちのデザイナーたちに強い影響を与えました(A:p.152)。

補足:第二次世界大戦後に発表されたクリスチャン・ディオールのニュー・ルックも、ヴィオネの影響を受けているように思われます。なお、HPは《イヴニング・ドレス》(1938) の画像を掲載。ウエストを絞ったワンピースで、スカートはくるぶしまで。布をたっぷり使った、自然なドレープ(ゆったりと流れるようなひだ)が美しいドレスです。また、「交歓するモダン」では《イヴニング・ドレス》(1922年頃) と《ディ・ドレス》 (1934年頃) を展示していました。

注1 立体裁断 (Draping) :洋裁での制作過程のひとつ。トルソー(人台)に布を当てて、立体的に型紙(パターン)を作ること。マドレーヌ・ヴィオネは、1/2の縮小サイズのトルソーを用いた立体裁断で、バイアスカットを生かしたドレスを作っています。

出展のURL: https://artscape.jp/artword/index.php/立体裁断

注2 バイアスカット (Bias Cut) :1920年代に確立されていった、洋裁での生地の使い方のひとつ。生地の縦と横の地の目に対して斜め方向を利用したカッティングのこと。伸縮性が生まれると同時に動きが出せるので、フィット感があり、きれいなドレープを形作ることができる。

出展のURL: https://artscape.jp/artword/index.php/バイアスカット

〇 ガブリエル・シャネル (Gabrielle Chanel 注:Cocoは愛称)

 1918年に、シャネルはジャージー(注3)を用いたドレスを発表する。糸を編み込むことによって伸縮性を持たせた布であるジャージーは、それまで下着の素材としてしか使われていなかったが、シャネルは着飾るだけではなく、生活をするため、生きていくための服をつくった(A:p.138)。

シャネルは、プレタポルテ(注4)を自らのサロンで直接販売するようになった。(略)彼女が作り出す服は、この販売方式に適していた。(略)彼女の服には細々(こまごま)とした飾りはなく、身体を拘束するコルセットも必要なかったが、シンプルな直線と古典的な優雅さがあった。ハイエンドのデザイナーが作る服と、現代生活の要求を結びつける技量は、21世紀のデザイナーたちに受け継がれた哲学である(B:p.138)。

補足:HPに掲載の《ディ・ドレス》 (1927年頃) は、直線的な筒型でローウエスト。胸や腰回りを強調しない、膝丈の少年のようなスタイルです。また、「交歓するモダン」では、カーディガンと対の《イヴニング・ドレス》(1920年代) と黒の《イヴニング・ドレス》(1927年頃) を展示していました。

注3 ジャージー (jersey):ジャージー素材は、イギリスにあるジャージー島で作られたセーターのことを指すが、今ではメリヤス編みなどのニット生地のことをそう呼ぶことも多い。

出展のURL: https://mensfashion.cc/tips/cloth/48499/

注4 プレタポルテ (Prêt-à-porter):フランスでプレタポルテという言葉が生まれたのは1945年のこと。フランスの既製服業者アルベール・ランプールがアメリカの既製服業のシステムを取り入れ、そのとき使われていた「ready to wear」という言葉をフランス語に訳したもの。粗悪なイメージをもっていた既製服だが、60年代に入るとプレタポルテ・メーカーが設立され、品質のよい既製服が提供できるようになった(A:p.159)

補足:デザイナーがデザインした洋服をコレクションとして発表し、顧客の体形に合わせて仕立てて販売するのは、オートクチュール (haute couture)。顧客の好みを仕立てるのではなくデザイナーが提案(A:p.135)

〇 クリスチャン・ディオール (Christian Dior)

 1947年は、ファッション史に刻印される年である。ディオールの「ニュー・ルック」が、戦時下のくすんだワード・ローブを排し、幾らかでも魅力ある服を着るよう女性たちを促した年だった。(略)くびれたウエスト、なだらかな肩、そして過ぎ去りし日の女性らしさを強調するジャケットやトップスとともに着用する、たっぷりと布地を使った贅沢なスカートの創作を通して、これを表現しようとした。(略)しかしながら、決してすべてが肯定的に受け入れられたわけではなかった。新しいシルエットは多くの女性に失望感を引き起こし、アメリカでは激しく反対する人びと(少なくとも数千人)が抗議グループを結成した (B:p.162)。

補足:シャネルもディオールのニュー・ルックに反発。なんと71歳になった1954年に、メゾン(maison : ファッション業界では、デザイナーが取りまとめている会社を指す)を再開します。

〇 イヴ・サンローラン (Yves Saint=Laurent) とマリー・クワント (Mary Quant)

 1950年代を代表するスタイルのひとつがトラペーズ・スタイル (Trapaze style) で、これは1958年にイヴ・サン=ローランによって発表された。台形のように形作られた服は、もう1つの美学を示した。肩幅を狭くカットし、肩からフレアを垂らすと、ゆったりとした建築的な効果が生まれた。それは、くびれたウエストと、おおきく膨れ上がったスカート(注:ニュー・ルックを指す)から遠く離れた世界だった。トラペーズは、体に密着しないスタイルの1つで、大まかに「シュミーズ」ドレスと称された(略)マリー・クヮント(原文のまま)がこれの変形スタイルを採用し、1960年代ファッションに不可欠の定番となった (B:p.166)。

元来1960年代前半のロンドンの下町の若者の服装だったミニスカート。このスカートは、マナーや慣習、お行儀といったものに反発するもので、これを導入したマリー・クワントが大流行となった (A:p.159)。

補足:2022.12.04付日本経済新聞の展覧会評に「ガブリエル・シャネルは1968年、イヴこそ自分の後継者だと公言している」という文があります。イヴの、体を締めつけないスタイルと男物の要素を女性ファッションに取り入れた点に、シャネルは自分と相通じるものを見出したのでしょう。また、Aのp.159には、ミニスカートのツィッギー (Twiggy) の写真も掲載。当時、ミニスカートといえばツィッギーでした。

〇 クリスチャン・ディオール、イヴ・サンローランとマリー・クワントの展覧会

今回、「マリー・ローランサンとモード」に出品されないデザイナーについても書いたのは、下記のとおり、2023年に展覧会が開催されるからです。開催地が東京なので鑑賞は難しいと思いますが、同じ年に20世紀を代表するデザイナーの展覧会が、美術館で4つも開催されるので、ご紹介します。

・マリー・クワント展            2022.11.26-2023.1.29 Bunkamura ザ・ミュージアム

URL: マリー・クワント展 | Bunkamura

・クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ 2022.12.21-2023.5.28 東京都現代美術館

 URL: クリスチャン・ディオール、 夢のクチュリエ | 展覧会 | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO (mot-art-museum.jp)

・イヴ・サンローラン展           2023.9.20-12.11    東京・国立新美術館

 URL: イヴ・サンローラン展 (ysl2023.jp)

Ron.

読書ノート 「日経おとなのOFF 2023年 絶対見逃せない美術展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

12月13日発売の「日経トレンディ 2023年1月号臨時増刊 No.501 日経おとなのOFF 2023年 絶対に見逃がせない美術展」のなかで「面白い」と感じた記事を紹介します。

〇 ARTIST INTERVIEW #02 FUKUDA MIRAN(p.102~103)

名古屋市美術館で開催される、中部地域では初の個展への思いや創作の原点を、福田美蘭さんにインタビューした記事です。「協力/名古屋市美術館学芸員・森本陽香」と書いてありました。

福田美蘭さんは、「考えていることは?」という質問に「名古屋市美術館が所蔵する作品から新作を考えている」と、「どの作品から?」という質問には「アメディオ・モディリアーニ。もう一人はフランク・ステラ」と回答しています。そのほか「発想源は?」「西洋と日本の作品では、そのアプローチに違いはあるか?」「作品には“笑い”が含まれるが、それはどこから生まれるか?」「絵画にこだわるのはなぜ?」という質問にも回答。インタビュー以外に《フランク・ステラと私》(2001)、《ゼレンスキー大統領》(2022)など、6点の図版を掲載しています。

〇 画家たちの知られざる素顔 ダイバーシティの先駆け! ローランサン(p.94~95)

2023年に生誕140年を迎えるマリー・ローランサンの画業を紹介した記事です。展覧会は「マリー・ローランサンとモード」、「マリー・ローランサン-時代を写す眼」、「キュビスム・レボリューション」展の3つを紹介。「マリー・ローランサンとモード」では、1920年代のパリの社交界の寵児となるきっかけとなった作品《黒いマンテラをかぶったグールゴー男爵夫人の肖像》(1923)などを展示するようです。名古屋市美術館所蔵《サーカスにて》(1913)の図版も掲載しています。

〇 画家たちの知られざる素顔 代表作が消え続けた岡本太郎(p.91)

愛知県美術館主任学芸員・石崎尚さんに取材した記事です。岡本太郎がパリ時代に制作した作品は戦火ですべて焼失。「展覧会 岡本太郎」で展示のパリ時代の作品4点は、代表作《傷ましき腕》(1936/49)をはじめ何れも再制作したもの。「岡本太郎は多くの壁画を制作。(略)多くは建物の解体と共に後年撤去された」と続き、「“消えた作品”は、岡本太郎のあくなき挑戦の痕跡なのだ」という言葉で終わります。

〇 2023年行列ができる美術展はこれだ!(p.134~139)

明治学院大学教授の山下裕二さんと編集者・美術評論家の山田五郎さんの対談です。その中に「マリー・ローランサンとモード」「福田美蘭展」の名前が挙がっていました。その内容は、以下の通りです。

p.137 山田 (略)「マリー・ローランサンとモード」もお薦めです。恋人だった詩人ギョーム・アポリネールをはじめ、“洗濯船”に集うアーティストや、ココ・シャネルとも交流があった画家。作風は好き嫌いが分かれても、生き方には共感する女性が多いのではないでしょうか。

p.139 山下 「福田美蘭」は真面目で几帳面、丁寧に創作に取り組むアーティスト。僕は彼女をとても尊敬しているんですよ。常に新しいことに取り組むチャレンジ精神もいい。展覧会の会場は名古屋市美術館。アメディオ・モディリアーニをはじめ、同館の所蔵品からインスピレーションを受けて制作した新作を出すらしい。たくさんのお客さんにみてほしいな。

〇 最後に

山下裕二さんと山田五郎さんの対談では、次のような発言もあります。

p.138 山田 パリ関連でもうひとつ。「イヴ・サンローラン展」も見逃せません。110体の衣装と小物や写真で振り返る、“モードの帝王”の華麗な足跡。今の流行だけでなく過去の歴史も知れば、ファッションがもっと楽しくなりますよ。

 「サンローラン」と「ローランサン」はよく似た名前。また、「マリー・ローランサンとモード」で取り上げるココ・シャネルがイヴ・サンローランを「後継者」と公言していたので、紹介しました。

Ron.

新美の巨人たち「岡本太郎がTAROになるまで」(テレビ愛知2022.12.10)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

テレビ愛知「新美の巨人たち」(2022.12.10 PM10:00~10:30放送) は、モデルの堀田茜さんがArt Traveler、西田ひかりさんの語り、テーマは「岡本太郎がTAROになるまで」。東京都美術館(以下「都美」)で開催中の「展覧会 岡本太郎」を紹介するものでした。以下は、番組のあらましです。

◆展覧会の映像

堀田茜さんが都美の展示室を進むと、頭上には《光る彫刻》(1967)。顔と腕だけの彫刻《若い夢》(1974)や陶器の《犬の植木鉢》(1955)、旧東京都庁舎壁画原画(1956)、井の頭線・渋谷駅の壁画《明日の神話》とその原画(1968)、パリ時代に岡本太郎が描いたと考えられる今年発見された3点の抽象画も登場します。

◆第一の出会い(ピカソの抽象画)

次に登場したのは、21歳の岡本太郎が運命的な出会いをした、パブロ・ピカソの抽象画《水差しと果物鉢》。線と形を抽象化したピカソとは違い、有機的な、人間に近い形を描こうとした岡本太郎。番組では、赤いリボンと握りしめた腕を描いた《傷ましき腕》(1936/49)についての解説もありました。

◆第二の出会い(未開社会の文化)

27歳の岡本太郎は、パリ大学でマルセル・モースの講義に強く惹かれ、アフリカの彫刻など未開社会の文化に目を開かれた、との解説がありました。

その後、ドイツがフランスに侵攻したことにより、岡本太郎は帰国。徴兵され、中国戦線で終戦を迎えて復員。戦後の作品として《夜》(1947)、《重工業》(1949)、《森の掟》(1950)が紹介されます。

◆第三の出会い(縄文土器)

40歳の岡本太郎は、東京国立博物館の「日本古代文化展」で縄文土器の過剰さに衝撃を受け、土器や土偶を多数、カメラに収めたとの説明がありました。

◆タロタロユッケ(馬肉のタルタルステーキ)

新聞の番組欄には「縄文土器&馬肉の秘話」と書かれていたので何のことかと思ったら、東京・台東区日本橋の桜鍋の名店「桜なべ 中江」が紹介され、岡本太郎が特注した料理・タロタロユッケ(牛肉を刻んだ卵を載せたもの)が出てきました。堀田茜さんは、タロタロユッケを食べて「おいしい!」と感激。岡本太郎はこの頃、縄文土器に日本人の原点を見出し、東北や沖縄など日本各地を旅し、土着の暮らしや人々を撮影。カメラの手ほどきは、パリ時代に友人だったマン・レイやロバート・キャパから受けた、とのことでした。

◆番組のラストは《雷人》

番組もラストに近づき、数寄屋橋公園の彫刻《若い時計台》(1966)、万博記念公園の《太陽の塔》(1970)が映され、遺作で未完の《雷人》(1995)の紹介で番組は終了。

◆写真家・岡本太郎

東京都美術館「展覧会 岡本太郎」の作品リストを見ると、岡本太郎が撮影した写真を「スライドショー」という形で、多数展示しているようです。

「どんな機材を使っているのか?」気になって番組終了後に検索したら、愛用したカメラとして、レンジファインダーのNIKON S2、一眼レフのペンタックスSP、Miranda 、ハーフサイズ一眼レフOLYMPUS Pen FT、コンパクトカメラの OLYMPUS XA2など様々なカメラが紹介されていました。

また、2018年に川崎市岡本太郎美術館で開催された「岡本太郎の写真-採集と思考のはざまに」について、「あらためて、岡本太郎はいい写真家だと思う」と書いた、飯沢耕太郎の展覧会評も発見しました。

◆最後に

協力会でも2023年に愛知県美術館で開催される「展覧会 岡本太郎」のミニツアーを予定しているようです。今から待ち遠しいですね。

Ron.

新聞を読む「女性に自信を サンローランの精神」(日本経済新聞2022.12.04)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「女性に自信を サンローランの精神」とは、日本経済新聞「The STYLE / Fashion」(2022.12.04付) に掲載された井上聡子記者の署名記事(以下「署名記事」)の見出しです。

◆展覧会の概要

署名記事は、東京・天王洲の寺田倉庫B&C HALL / E HALLで12月11日まで開催中の「BETTY CATROUX – YVES SAINT LAURENT 唯一無二の女性展」の展覧会評です。展覧会名の Yves Saint Laurent は、服飾デザイナーのイヴ・サンローラン(以下「イヴ」)。また、Betty Catroux(ベティ・カトルー、以下「ベティ」)は1967年以来の、サンローランの盟友。183㎝の長身、スレンダーでシャープな体形のモデル、「イヴが生み出すスタイルの体現者だった」77歳の女性です。展覧会は、ベティがピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団に寄贈した衣装とベティの写真・動画で構成。署名記事は、イヴが男性の略式礼服タキシードをイブニングドレスに代わる女性の正装に進化させた「スモーキング」の写真も掲載。更に「私が着るものは男ものの服ばかり。自分の感覚は、男でも女でもない」とベティが言い、イヴは「服装を通じて男性と対等になり、時代遅れの古典的な女性像を覆す」と話している、とも記載。

展覧会のURLは、Betty Catroux | Saint Laurent サンローラン | YSL.com。他に、サンローランの永遠のミューズ、ベティ・カトルーと水原希子 共鳴し合う精神 (fashionsnap.com) や、イヴ・サンローランが惚れ込んだふたりのミューズ。ベティ・カトルーとルル・ド・ラ・ファレーズ | Precious.jp(プレシャス) というネット記事もあります。画像も掲載されていますよ。

◆イヴは、クリスチャン・ディオールが希望した後継者だった

「芸術新潮」2022年12月号の記事によれば、まだモード学校の生徒だったイヴは、1955年6月20日にクリスチャン・ディオール(以下「ディオール」)に招かれ、ディオールはその場でイヴの採用を決めたとのこと。1957年にディオールは心臓発作で急逝。ディオールが生前希望していた通り、21歳のイヴがチーフ・デザイナーとして後を継ぎ、ディオールでの初コレクション「トラベラーズライン」は熱狂的に迎えられ、「それまでディオールはウエストを絞ったデザインを多く制作していたが、トラベラーズラインは身体を生地の中で遊ばせるようなデザインで、非常に新しく、斬新に受け取られた」との解説がありました。自分の名を冠したブランドの初コレクションで発表したピーコート(船乗りの服から着想を得たマリンルック)は「シャネル以来の最高の出来栄え」と称賛を受け、「スモーキング」の後もジャンプスーツ(落下傘部隊の「つなぎ」の制服にちなんだ名前)やサファリジャケット(アフリカで白人男性が着ていた衣服)など、女性のパンツスタイルを定着させた、との解説もあります。

◆ガブリエル・シャネルも、イヴを自分の後継者だと公言

署名記事には「ジャージーやツイードを用い、コルセットなど動きを制限する服から女性を解放したガブリエル・シャネル(以下「シャネル」) は68年、イヴこそ自分の後継者だと公言している」という記述もあります。それは「シャネルはイヴのデザインを支持していた」ということですね。

◆シャネルは、ディオールに我慢できなかった

山口昌子著「シャネルの真実」(新潮文庫 平成20年4月1日発行)によれば、シャネルは71歳になってモード界に復帰。その理由は「自分が一掃したコルセットに女性を閉じ込めたディオールに我慢できなかったのだと思う」とシャネルの友人・作家クロード・ドレイが分析しているとのこと。当時、ディオールはウエストを極端に絞った長いフレアスカートが基準の《ニュールック》を発表。ショーに登場したマヌカンは、全員10センチのハイヒールを履いていた、とも書いています。また、ディオールの目的は上流階級の限られた女性が着る服で、大衆を相手にするつもりがなかったこともシャネルが反発した理由だったとか。

「シャネルの真実」は、シャネルの復帰後、米国の週刊誌『ライフ』は、彼女が発表した「ヤング・ルック」を「着心地が良く、簡素でエレガントである」と強調して「大衆が影響を受けるのは明白だ」と評し、シャネルも《本当に仕立ての良い服とは、女性が歩いたりダンスをしたり、乗馬したりできる服》と述べ、ディオールら男性デザイナーを批判した、とも書いています。

◆最後に

2023年は「マリー・ローランサンとモード」だけでなく、東京都現代美術館「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」、東京・国立新美術館「イヴ・サンローラン展」が開催されます。シャネル、ディオール、イヴ、三人の間には「反発の対象」「後継者と希望・公言」といった関係があった、と知りました。

Ron.

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