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事務局

新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』杉本博司

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館の展覧会=「写真の都」物語、没後10年、荒川修作―初期平面の仕事 の感想なども

2020年7月、日本経済新聞で杉本博司氏の「私の履歴書」(以下「履歴書」)が連載されました。連載中は「面白い」とは思うものの「どういう切り口で読んだらいいのかわからない」ので、モヤモヤしていました。それが、名古屋市美術館の「写真の都」物語(以下「写真の都」)と特集展示・没後10年 荒川修作―初期平面の仕事(以下「荒川修作特集」)を見たことで「切り口」がつかめたような気になりました。

以下、履歴書と二つの展覧会、双方の感想などを合せて書いてみます。

◆高校生・大学生の写真部、ドキュメンタリー写真とコマーシャルフォト

「写真の都」第Ⅵ章のタイトルは<中部学生写真連盟>――集団と個人、写真を巡る青春の模索。展示されていたのは、主に1966年(昭和41)から1972年(昭和47)までに撮影された写真でした。学生運動を題材にしたものが多く、第Ⅴ章に出品された東松照明《プロテスト》(1969)と同様の、ドキュメンタリー写真に分類される写真です。

2月12日に開催された名古屋市美術館協力会主催の解説会(以下「解説会」)では、担当の竹葉丈学芸員(以下「竹葉さん」)が「学生運動の衰退とともに、学生写真運動も衰退していった」と解説していたのが、印象的でした。

一方、「写真の都」第Ⅵ章が焦点をあてた時代について、杉本博司氏(以下「著者」)は履歴書第8回に「私が大学を卒業する1970年、学園闘争は前年の東大安田講堂の陥落を受けてピークを過ぎていたが、依然大学はバリケードで封鎖されたままだった。(略)そのころ写真の腕は上達していた。高校の写真部から大学では広告研究会、写真部で腕を磨いていた。カリフォルニアのアートスクールに入学審査のため作品を送ってみると、思いがけなく2年飛びで3年からの入学が許可された(略)」と書いています。

著者は1966年から70年まで、高校・大学の写真部に属していました。大学では広告研究会にも属していたということですから、著者がめざしていたのはドキュメンタリー写真ではなく、コマーシャルフォトだったのかもしれません。著者はまた、履歴書第10回に、ニューヨークで職探しをしてプロ写真家の助手になったが、広告写真は性に合わず断念。「現代美術家として出発することを心に決めた」と書いています。

◆福原信三と資生堂宣伝部

コマーシャルフォトといえば1月30日(土)放送のテレビ愛知「美の巨人たち」は1966年(昭和41)に発表された資生堂サマーキャンペーン「太陽に愛されよう」のポスターを取り上げていました。プロデューサーは資生堂宣伝部の石岡瑛子(1970年に石岡瑛子デザイン室として独立)。日本の広告で初めて海外ロケをハワイで行ったポスターで、モデルの前田美波里を撮影したのは横須賀功光。広告業界で話題を呼んだそうです。なお、資生堂宣伝部の前身は福原信三が1916年(大正5)に開設した資生堂意匠部です。

この福原信三については、解説会で竹葉さんが「1921年(大正10)、東京・銀座で資生堂を経営する福原有信の三男・福原信三が、パリ滞在中(1913)に撮影した写真から24枚を選んで「巴里とセーヌ」という写真集を刊行した」と解説していました。

ちなみに、履歴書第15回には、資生堂宣伝部にスタイリストとして勤めた後、美術大学のアート・スチューデンツ・リーグで絵画を学んでいた渕崎絹枝さん(1987年に病気で他界)と親しくなり、結婚を決めたという話が書かれています。

◆荒川修作と論争、河原温からは作家の取り分を聞く

履歴書第12回には1970年代後半のニューヨークで著者と交流した芸術家たちのことが書かれています。

面白かったのは、篠原有司男のロフトで酒に酔って荒川修作と論争した話です。著者は、荒川修作から「写真は小切手だ。小金で買える装飾品でアートではない」と言われたので、「あんたはデュシャンピアンを気取っているが、それはデュシャンに対して失礼だ」と反論したとのことです。なお、反論については、著者は深酔いして覚えておらず、観戦していたアーティストから聞いた話として書いています。

履歴書第10回で、ミニマリズム、コンセプチュアリズムの現代作家として出発することを決意した時、フィラデルフィア美術館に出かけてマルセル・デュシャンの作品を見た、と書いているので、著者はデュシャンピアン(マルセル・デュシャンに影響を受けた、または傾倒している人)を自認しているのでしょう。

篠原有司男と荒川修作の関係については、「荒川修作特集」の会場・常設展示室3に置かれていた作品カードに「1960 篠原有司男、吉村益信らとネオ・ダダイズム・オーガナイザーズ  を結成。翌年、渡米」と書いてあったので、納得しました。

また、河原温については、著者が画廊と契約を結ぶ段になり、作家の取り分について尋ねたところ「君の場合は50パーセント、僕の場合には展覧会の前にすべて売れているから70パーセントだよ、と言われた」と書かれています。

作品の値段については、履歴書第13回に、1976年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部に、アメリカ自然史博物館のジオラマを撮った白熊などの作品を持ち込んだ時、写真部長ジョン・シャカフスキー氏から「君はまだ無名だから500ドルで買うことにしよう」と言われたと書かれています。(ネットの「Culture Power- 杉本博司」で岡部あおみ氏によるインタヴューを読むと、帰りがけに書類を渡されて「普通のアーティストが作品を売る場合って5割引きなんだけど」と言われ250ドルに値切られた、とのこと。それでも、スタジオ兼ロフトの家賃が120ドル(履歴書第13回に掲載)の時代なので大金です)

履歴書第19回には1981年、ニューヨークのソナベンド・ギャラリーで初めての個展を開いた時の話として「劇場のシリーズで、1点1200ドル、数点売れても生活の足しにしかならない」と書かれています。

確かに、当時、荒川修作が著者に言った「写真は小切手だ。小金で買える装飾品でアートではない」という言葉、「小金で買える」という部分については当たっていたかもしれませんね。

◆「現代美術の作品として写真を売る」ということ

解説会で竹葉さんに「第Ⅵ章を見ると、高校生・大学生は写真集を出版して収入を得ているように見えます。当時、写真家が写真で収入を得ようとすると、写真集の刊行というのが一般的だったのでしょうか」と質問したところ、「そうなんじゃないですか」との回答を頂きました。

もちろん、撮影した写真が雑誌などに売れれば、写真家には原稿料が入るわけですが、当時はまだ、プリントした写真を美術品として売り買いするのは、一般的ではなかったような気がします。

これに対して、履歴書によると、著者は現代美術家としてスタートした時から、プリント1点500ドル、1200ドルという方式でプリントを売って収入を得たことが書かれているので、「アメリカの美術界は、当時から違っていたのだ」と認識を新たにしました。

とはいえ、履歴書第20回に、1995年にニューヨークのメトロポリタン美術館(Met)で開催した個展を皮切りに作品が売れるようになり、1778年に開業した古美術商(経緯は履歴書第17回に掲載)をやめて作家活動に専念するようになった、と書かれています。1976年に「ニューヨーク近代美術館の収蔵作家」というブランドを得ても、作家活動に専念できるようになるまでには、様々な苦労をしたのですね。

(参考)「写真の見方」著者:細江英公、澤本徳美 発行所:株式会社新潮社 発行:1986.07.25 の記述

1986年発行の新潮社「写真の見方」は、写真と美術館との関係について、以下のように書いています。

p.47 目的は様々であったが、早くから積極的に写真の収集を行ったのはアメリカ合衆国であった。(略)

写真を独立した芸術作品として意識的に収集するのは、1920年代になってからである。1924年にボストン美術館はアルフレッド・スティーグリッツの作品を永久的なコレクションとして27点購入した。1928年にはニューヨークのメトロポリタン美術館が、スティーグリッツが夫人のオキーフを主題として撮った作品を収集し、1933年には、彼の所蔵する作品を譲り受けている。

しかし、美術館が正式に写真の部門を設け、組織的にコレクションを始めたのは、1940年に写真部門が設立されたニューヨーク近代美術館である。ここが写真の収集を始めたことは、写真が近代芸術の一つとして認知されたことを証明し、アメリカの多くの美術館に影響を与え、写真部門の設置を慣例化するに至ったのである。

世界最大のコレクションを誇る写真部門の国際美術館、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウスが設立されたのは1949年であった。

Ron.

「写真の都」物語 - 解説会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

名古屋市美術館で「写真の都」物語―名古屋写真運動史:1911-1972-(以下「本展」)が開幕。先日、名古屋市美術館協力会主催の解説会に参加しました。担当は竹葉丈学芸員(以下「竹葉さん」)。参加者は20人。2階講堂でレクチャーを受講後、展示室に移動。竹葉さんを交えての自由鑑賞となりました。なお、協力会主催の解説会などのイベントは、岸田劉生展(昨年1月12日に開催)以来、1年1か月ぶり。新型コロナウイルス感染防止のため、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャル・ディスタンスの確保などの対策を実施した上での開催、となりました。

◆2階講堂

○深谷副館長のあいさつ(要旨)

 新型コロナウイルスの感染拡大により名古屋市美術館の休館が余儀なくされたことと、秋に予定していた改修工事を前倒ししたことにより、本展の開催は当初の予定から大幅に遅れました。常設展は今年の1月に開幕していたものの、来館者は少なく、本展の開催でようやく美術館に活気が戻ってきました。本日は、美術館にお越しいただき、ありがとうございます。

○竹葉さんのトーク(要旨)

・展覧会の名称について

 名称を「名古屋写真運動史」としたのは、名古屋の団体・グループが、写真でどういう表現を目指したのかを示す展覧会だからです。「1911」という数字は西暦年で、年号だと明治44年。表現としての写真を目指したグループ<愛友写真俱楽部>が名古屋で創立された年です。創立者の名前は日高長太郎。知多郡東浦町に住む大地主の息子です。愛友写真俱楽部が目指した写真は「絵画主義」(ピクトリアリズム)。彼らは写真のネガや印画紙に手を加え、絵画のように美しい写真を制作することを目指し、1920年代前半には全国レベルを突破しました。

 名古屋の団体・グループが、全国レベルを突破したのは過去に2回あります。1回目は愛友写真俱楽部で、2回目は1939年(昭和14)。2回目は1年半ほど続きました。この時期に名古屋の団体・グループが制作したのは「前衛写真」です。

本展は名古屋の団体・グループに注目した展覧会ですが、例外は第Ⅴ章。写真家・東松照明の作品に焦点を当てています。また、最後の第Ⅵ章は学生の写真運動を取り上げました。「1972」という数字も西暦年で、札幌オリンピックが開催された年です。また、あさま山荘事件などが契機となって学生運動が衰退していった年でもあります。学生運動の衰退とともに、学生写真運動も衰退していきました。

第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>

日高長太郎が愛友写真俱楽部を創立した明治40年代は、日本で自然主義文学が興った時代で、絵画や写真でも自分の好きな身近な自然を記録に残すようになりました。この時代の写真は近くの草木にピントを合わせ、背景に雄大な自然を配するものが主流でした。名古屋の団体・グループのレベルが高かったのは、海と山に近く、景勝地に恵まれたからです。当時の写真は現在と違い、「ポケットにスマホを入れて行けば写せる」という手軽なものではありません。フィルムに当たるのはガラス乾板で、写真撮影の機材はレンズ、組み立て式カメラ、三脚など。重装備のため、大きくて重く割れやすいガラス乾板は10~20枚くらいしか持って行けません。名古屋だと、このような重装備でも中央線に乗って運ぶことができるので、便利でした。

・ゴム印画

初期のプリントは密着プリント、つまり、現像したガラス乾板を印画紙に密着させ、太陽光で感光していました。これでは、ガラス乾板よりも大きなサイズの作品は制作できません。大きな作品を制作するためには、ガラス乾板を引き延ばしてポジ(陽画)を制作し、陽画にリタッチ(加筆・修正)して大きなガラス乾板で撮影することが必要です。大きな作品の印画紙は、水に強い水彩画用紙の表面にアラビアゴムと水彩絵の具、感光材の溶液を混合したものを塗って乾燥させたものを使います。この印画紙に大きなガラス乾板を密着させて、屋根の上に運んで太陽光で感光。太陽光が当たった場所のアラビアゴムが固くなるので、水洗いして感光していない部分を除去。1回だけの感光では像が薄いので、何回も同じ作業を繰り返して、1週間かけて1枚の作品を仕上げるという、手間暇のかかるものでした。お金持ちで、暇を持て余していた旦那衆だからできた作業です。

・ソフトフォーカス・レンズ

1921年(大正10)、東京・銀座で資生堂を経営する福原有信の三男・福原信三が、パリ滞在中(1913)に撮影した写真から24枚を選んで「巴里とセーヌ」という写真集を刊行しました。福原信三は芸術家志向で写真術も学び、パリで印象派の絵画を見て「写真の印象派」を目指しました。パリ滞在中はソフトフォーカス・レンズを付けたカメラで、水墨画のような写真を撮影しています。彼は写真雑誌も刊行し、彼の「光と其の階調」という理論はアマチュア写真愛好家たちに歓迎され、しばらくの間ブームになりましたが、1923年(大正12)の関東大震災で写真雑誌は中断しました。神戸の淵上白陽は1922年(大正11)、写真画集「白陽」を創刊しましたが、その後、経済的に行き詰まり1927年(昭和2)に大連へ渡っています。名古屋でも、愛友写真倶楽部のメンバー・高田皆義が1922年(大正11)に芸術写真研究雑誌「銀乃壺」を創刊しました。

第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験

1930年代になると、ドイツの「新興写真」の影響を受け「リアリズム」写真が主流になっていきます。名古屋では1936年(昭和11)、アマチュア向け写真雑誌「カメラマン」が創刊され、5000部作った創刊号は全て売り切れました。当時の名古屋には写真の現像・焼付・引き伸ばしを行う写真店が61軒あり、アマチュア写真家は20万人いた、と言われます。

第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂

1934年(昭和9)、関西の「法華写真倶楽部」のメンバー・坂田稔が名古屋昭和区に移住し写真店を開業。店に集まるアマチュア写真愛好家を集めて<なごや・ふぉと・ぐるっぺ>を結成し、前衛写真のグループが生まれました。彼らのうち、詩人の山本悍右は、身近なものでオブジェを作って撮影し、下郷羊雄は、自然の中にオブジェを見出して撮影しました。坂田稔は、その後、報国のため報道写真家として徴用されます。

なお、美術館のミュージアム・ショップでは、山本悍右の作品、題不詳(《伽藍の鳥籠》のバリエーション)をプリントしたTシャツを販売していますので、よろしければお求めください。

第Ⅳ章 客観と主観の交錯 戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗

戦後の名古屋では、高田皆義、山本悍右、服部義文、後藤敬一郎によって<VIVI社>が結成されシュルレアリスムの写真が制作されます。なお、後藤敬一郎は「青柳ういろ」の社長です。これに対抗したのが、臼井薫です。彼は俳優・天知茂の兄。大曽根で写真店を経営する傍ら、木村伊兵衛・土門拳が審査員を務める写真雑誌に写真を投稿し、「土門拳の弟子」と言われました。

◆展示室内の自由鑑賞

午後5時になったため、以上でレクチャーは終了。参加者は講堂を後にして1階に移動し、ソーシャル・ディスタンスを保ちながらの自由鑑賞となりました。なお、いくつかの作品については、竹葉さんの「独り言」があったのでご紹介します。

第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>

松浦幸陽《朝日を受けて》(1926)=撮影した松浦幸陽は営業写真家。アマチュアと営業写真家の違いは「人物が撮影できるかどうか」。人物を撮影するには、写真を修正する技術も必要/ 榊原青葉《電車道》(1922)=光と影の描写に注目/ 三國庄次郎《円い柱の習作》(1923)=撮影者は、放送タレント・三國一朗の父親

第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験

海部誠也《野間にて》(1936)=撮影者は、元首相・海部俊樹の父親

第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂

坂田稔《危機》(1938)=仰向けになった女性の喉元に輪切りのレンコンを載せた写真と雲間から日の光が見える写真を組み合わせたもの。坂田稔は現在の瑞穂区曙町で現像の店を営業/ 下郷羊雄・写真集『メセム属』=「メセム属」というのは植物の名前

第Ⅴ章 東松照明登場 リアリズムを超えて

《伊勢湾台風・名古屋》=1959年(昭和34)に名古屋を襲った伊勢湾台風では、東松照明の実家も被災/ 《熊本・天草下島》のシリーズ(1959)=廃屋を撮影/ 《混血児》(1952)=守山で撮影した作品。混血児の赤ん坊は贅沢なベビー服。背景の日本人の子どもと服装を比べると貧富の差(日本人の方が貧乏)が見えてくる。日本人は撮影者の東松照明を見ているのですが、写真では赤ん坊の方を見ているように感じられる。東松照明によって、戦後写真のリアリズムが一皮むけた/ 《プロテスト1 東京・新宿》(1969)=1969年の10月21日(国際反戦デー)に新宿で起きたデモ隊と機動隊との衝突を撮影した作品。いわゆる「アレ、ブレ、ボケ」で、時代の体温を表現した

第Ⅵ章 <中部学生写真連盟> 集団と個人、写真を巡る青春の模索

 中部学生写真連盟は、1951年11月に東松照明が設立/ 写真集「大須」(1969)=名古屋電気工業高等学校写真部が撮影したもの/ 「高橋章写真集」(1974)=撮影者は兵庫県・尼崎高校の生徒。クラスメートを撮影した写真が認められ、写真集が刊行された。写真部では、作品は写真部として発表していたので、個人名の写真集刊行は異例のこと/ 写真集「郡上」(2016)=名古屋女子大学写真部が1968年(昭和43)~1970年(昭和45)に岐阜県・郡上市の郡上踊りを中心に撮影したもの。当時、写真集の刊行が予定されたが中断。撮影から48年後、写真部OBが当時のネガを出版社から取り戻して刊行した

最後に

 竹葉さんによれば、展示された写真は約500枚とのこと。さすがに、東松照明の写真は一味違っていました。

Ron

名古屋写真運動史 解説会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor
会長のあいさつ

 令和3年2月7日、名古屋市美術館が改修のために閉館していたため、再開後初めての企画展となった、「写真の都」物語-名古屋写真運動史:1911-1972 の協力会向け解説会が行われました。

 最初に協力会会長のあいさつがあり、感染症の拡大などで長らく活動を休止していた協力会が久々にイベントを開催出来る感慨を会員とともに分かち合いました。当日参加した会員は20名でしたが、解説会が開催出来たことが何よりうれしいことでした。

担当竹葉学芸員、解説ありがとうございました

 そのあとは担当の竹葉学芸員による1時間あまりの解説。熱のこもった解説に会員たちも集中して話に聞き入っている様子でした。

 解説後は閉館した美術館内での静かな鑑賞の時間。会員は竹葉学芸員の話もときおり聞きながら、静かに展示室を観覧しました。

読書ノート「名画レントゲン」(11)秋田麻早子(週刊文春2021年2月11日号)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆土の上を横切る二本線。これは何?  岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915)

「名画レントゲン」は「この絵はただの道を描いただけにも見えますが(略)『この坂の向こうには何があるのだろう?』という想いを抱かせるような印象深さがあります」という文で始まります。続いて、この作品のインパクトの要因を「画面中央に視線が集まる構図。坂道の最も高い部分が画面中央より少し上に設定され、そこに向ってすべての線状のものが求心的に集まっています。どこに目をやっても真ん中に視線が集まる仕掛け。(略)二つ目に(略)上下左右と4つの部分が明確に分かれているため、構成が捉えやすく記憶にもとどまりやすいのです」と解説しています。

この作品、岸田劉生展(2019~2020)では東京展と山口展だけの出品で名古屋展(2020.1.8~3.1)では見ることできませんでしたが、NHK・Eテレ「日曜美術館」の特集「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」(2019.9.29)では、現在の代々木からのVTRで「道路の左側の歪み、カーブのボリュームが強調されているのは創作ではなく、道そのものが歪んでいる。少しだけ嘘があるのは坂の頂上。劉生は隣の塀を超えるほど大地を盛り上げたかった。そうまでして大地の迫力を描きたかった」とレポートしています。

 「名画レントゲン」と「日曜美術館」のレポート、いずれも坂道の頂点の高まりに注目しているのを面白く読みました。

 更に「名画レントゲン」は「画中に描かれている左の塀は山内公爵邸のもので、二本の謎の影は電柱とその支柱であるとわかっています」と書いています。これは、岸田劉生展図録に名古屋市美術館学芸課長の井口智子さんが執筆された作品解説(p.211)をもとにしているのでしょうか。記事の出典については早とちりかもしれませんが、今回、岸田劉生展図録を読み返してみて、その資料的価値の高さを改めて感じました。

 Ron.

新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 下 (ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 下)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2021年1月1日から日本経済新聞に連載された辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)26回から30回までのなかで、同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容に重なる、「深掘り」とも言うべき話を、掲載順に並べました。

◆履歴書26回(1/27)

この回では、米国・ボストン美術館の日本美術の総カタログづくりが1991年に始まり、このプロジェクトが佳境に入った1992年6月に、当時の定年である60歳を迎えたこと、再就職先が京都市にある国際日本文化研究センター(日文研)になったことなどが書かれています。

◆履歴書27回(1/28)

この回では、1995年11月に新設された千葉市美術館の館長に就任し、開会記念の展覧会は「喜多川歌麿展」。1998年4月の「曽我蕭白展」も好評で、1999年8月に開いた「絵巻物―アニメの源流」展も話題を集めた、と書かれています。

蕭白といえば、「日経TRENDY」2021年1月号臨時増刊に「曾我蕭白展(仮)」が愛知県美術館を会場に2021年10月8日~11月21日の会期で開催される、と書いてありました。今から楽しみです。

◆履歴書28回(1/29)

この回では、千葉市美術館長の後に多摩美術大学の学長兼教授に就き、2002年には米国・ニューヨークのジャパン・ソサエティーで開催された「KAZARI(かざり)」展のために出張したこと、出張後の学長選には落選して2003年に多摩美術大学を辞したことなどが書かれています。

◆履歴書29回(1/30)

この回では、滋賀県信楽町にあるMIHO MUSEUMの館長に就任し、美術家の村上隆さんと一緒に美術雑誌で面白い連続企画をしたことなどが書かれています。若冲と重なる内容は、伊藤若冲の《象と鯨図屏風》をMIHO MUSEUMが購入してくれたこと(若冲p.229~236)と、2013年に「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展が実現したこと(若冲p.210)の二つです。

なお、《象と鯨図屏風》については若冲のほうが詳しいので、「深掘り」はありません。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年28回を読むと

 上記の「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展ですが、ジョー・プライス氏の「私の履歴書」28回(2017年)によれば、東日本大震災で被災した人たちの心の復興支援になればと思い立ち、東北大学で教べんをとっていたことのある辻惟雄氏にジョー・プライス氏が国際電話をかけ、仙台市博物館の内田純一学芸室長を紹介してもらって実現した、とのことです。また、子どもに来てほしいので高校生まで無料にしたほか、記念グッズの売り上げも展覧会を開催した3館(仙台市博物館、岩手県立美術館、福島県立美術館)に寄付することを決めた、とも書いてありました。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回も読むと

若冲に書かれていたものの、履歴書では触れていない話が二つあります。

第一は、2000年の展覧会。若冲「あとがき」に「2001年、京都国立美術館で催された若冲展は、『知っていますかこの画家を』というサブタイトルがついており、企画した狩野博幸室長はじめ館員たちが心配したとおり、最初のころは会場に閑古鳥が鳴くありさまでした。それが、会期の後半になると、にわかに観客が増え始め、最後には、七万という、当時としては記録的な入場者数となりました」(p.248~249)と書かれています。これに重なる記述が、2017年に日本経済新聞に連載されたジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回にありますので、以下、引用します。

待ち望んでいた伊藤若冲再評価の兆しが現れ始めた。「こんな絵かきが日本にいた」。こんなキャッチフレーズで若冲の没後200年を記念した特別展覧会が、2000年秋に京都市の京都国立博物館で開かれた。私どものコレクションから17点を出品した。はじめはまばらだった入館者の出足が、日を追うごとに増え、熱を帯び終盤は押すな押すなの列。1カ月間で約9万6000人が見た。(引用終り)

なお、以上の二つは開催年、会場、サブタイトル、入場者数という4つ点で違っています。京都国立博物館のHPなどで調べてみると、日本経済新聞に書かれた内容の方が正しいようです。

第二は、2006年から2007年にかけて開催された展覧会。若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」には「2006年に『若冲と江戸絵画』展(東京国立博物館)として公開された」と書かれています。これに重なるのがジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回で「東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東京国立博物館を含む4館で約82万人を記録した」と書かれています。

◆履歴書30回=最終回(1/31)

この回では、「奇想の系譜」の著者として、伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになったこと、「奇想の系譜」で紹介した6人の画家たちは当時ほとんど忘れられた存在だったのが、今や江戸画壇のスター扱いされていることなどが書かれており、「深掘り」はありません。

◆履歴書の感想

読んでいて個人的に盛り上がったのは、21回と22回です。最終回の重要なフレーズ「伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになった」ことについては21回に、「奇想の系譜」の執筆については22回に書かれていましたから、著者の思いも私と同じようなものかもしれません。

なお、履歴書で言及した若冲の展覧会は、MIHO MUSEUM「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(2015.7.4~8.30)と2013年の3月から9月にかけて仙台、盛岡、福島を巡回した「若冲が来てくれました」展の二つだけ(いずれも29回に掲載)でした。2000年の展覧会(京都国立博物館)、2006~2007年の展覧会(東京国立博物館、京都国立近代美術館、九州国立博物館、愛知県美術館)、2016年の展覧会(東京都美術館)は、若冲では触れていたものの、履歴書ではスルー。少し残念でしたが「著者の関与が少なかった」ということなのでしょうね。

◆「ちくまプリマー新書349「伊藤若冲」の深掘り」としてまとめると

辻惟雄氏の「私の履歴書」とジョー・プライス氏の「私の履歴書」のうち「若冲の深掘り」に該当すると思われる事柄を、若冲のページ順にまとめてみました。なお、行頭のページは若冲のもので、(  )内は履歴書の掲載回を示します。

p.208 4行目 プライス氏は、ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家。また、戦後若冲を初めて評価した人でもある。著者は2番手だが、若冲ブームをプライスさんらとともに牽引(21回)

プライス氏が戦後若冲を初めて評価したのは1953年。建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア」で若冲の《葡萄図》に出会い、600ドルほどで購入した(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年1回・18回)

p.208 5行目 二幅の彩色画は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》(21回)

p.208 15行目 1964年の春、西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室に持ち込んだ。まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた(21回)。

p.209 11行目 1971年6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港でプライス夫妻の出迎えを受け、その後、プライス邸に招かれた(23回)

p.210 2行目 東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東博を含む4館で約82万人を記録(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

p.247 3行目 『奇想の系譜』は1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、同年7月号から12月号に6回連載。1969年に長沢芦雪を書き加え、1970年3月に単行本として出版(22回)

p.248 12行目~p.249 1行目 正しくは、2000年、京都国立博物館で催された若冲展は「若冲、こんな絵かきが日本にいた。」というサブタイトルがついており(略)最後には、約9万6000人という、当時としては記録的な入場者数となりました。(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

Ron.

新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 上(ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 上)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2021年1月1日から日本経済新聞で辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)の連載が始まりました。履歴書には同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容のうち、忘れられた画家であった若冲が戦後再評価されたことに重なる、「深掘り」とも言うべき話が幾つも書かれています。以下、掲載順に並べてみました。

◆履歴書21回(1/22)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、アメリカ人の若い金持ちの御曹司ジョー・プライスが買い付けて手付金を支払った二幅の若冲を、画商から一日だけ借り受け美術史研究室の後輩に見せたという話(若冲p.208~209)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①ジョー・プライス氏が「ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家」であったこと、②後輩に見せたのは「1964年の春」で、二幅の若冲は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》、③持ち込んだのは「西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室」で「まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた」ことの3点です。

履歴書は更に、ジョー・プライス氏について「戦後若冲を初めて評価した人、つまり第一発見者である」と書き、著者については「私は2番手だが、今の絶大な若冲人気を博している、この画家のブームをプライスさんらとともにけん引したと思っている」と踏み込んでいます。

なお、「ジョー・プライス氏が戦後若冲を初めて評価した」というのは、2017年3月に連載された日本経済新聞「私の履歴書」(ジョー・プライス)の1回・18回に書かれた、1953年、浮世絵の収集家でもあった建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア(瀬尾商店)」で、若冲の《葡萄図》に出会い600ドルほどで購入した、という話を指すと思われます。

◆履歴書22回(1/23)

若冲の「あとがき」の「1970年3月、私は『奇想の系譜』という著書を出版」(若冲p.247)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、著者が同年7月号から12月号に6回連載したこと、②連載が好評であったため、1969年に長沢芦雪(ろせつ)を書き加え、その後、単行本として出版したことの2点です。

◆履歴書23回(1/24)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、「現在まで、私とプライス夫妻との交流は続いています」(若冲p.209)という文章の具体的な内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、1971年5月に著者が文学部東洋・日本美術史学科の助教授として東北大学に赴任し、その年の6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港ではプライス夫妻の出迎えを受け、シアトル美術館を見た後、プライス邸に招かれた、という話です。なお、この回は「ボストン美術館の日本美術の主任研究員のモネ・ヒックマンさんなど多くの知己を得て収穫の多い旅だった」という文章で締めくくられています。

◆履歴書24回(1/25)

この回では、東北大学における生活の様子と研究内容が書かれ、1977年9月から翌年1月まで米国・プリンストン大学の短期講義に赴いたことにも触れています。

◆履歴書25回(1/26)

この回では、1980年4月から東京大学の教授を併任し、1981年4月に東京大学へ戻ったこと、日本美術全体を見通す重要なキーワードとして「遊び」を見いだしたことなどが書かれています。

◆中間まとめ

連載は続きますが、一先ず「中間まとめ」とします。連載は、あと5回です。履歴書がどこまで21世紀の「若冲ブーム」に言及するのか見守り、連載終了後に「最終まとめ」をしたいと思います。

Ron.

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