新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 下 (ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 下)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2021年1月1日から日本経済新聞に連載された辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)26回から30回までのなかで、同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容に重なる、「深掘り」とも言うべき話を、掲載順に並べました。

◆履歴書26回(1/27)

この回では、米国・ボストン美術館の日本美術の総カタログづくりが1991年に始まり、このプロジェクトが佳境に入った1992年6月に、当時の定年である60歳を迎えたこと、再就職先が京都市にある国際日本文化研究センター(日文研)になったことなどが書かれています。

◆履歴書27回(1/28)

この回では、1995年11月に新設された千葉市美術館の館長に就任し、開会記念の展覧会は「喜多川歌麿展」。1998年4月の「曽我蕭白展」も好評で、1999年8月に開いた「絵巻物―アニメの源流」展も話題を集めた、と書かれています。

蕭白といえば、「日経TRENDY」2021年1月号臨時増刊に「曾我蕭白展(仮)」が愛知県美術館を会場に2021年10月8日~11月21日の会期で開催される、と書いてありました。今から楽しみです。

◆履歴書28回(1/29)

この回では、千葉市美術館長の後に多摩美術大学の学長兼教授に就き、2002年には米国・ニューヨークのジャパン・ソサエティーで開催された「KAZARI(かざり)」展のために出張したこと、出張後の学長選には落選して2003年に多摩美術大学を辞したことなどが書かれています。

◆履歴書29回(1/30)

この回では、滋賀県信楽町にあるMIHO MUSEUMの館長に就任し、美術家の村上隆さんと一緒に美術雑誌で面白い連続企画をしたことなどが書かれています。若冲と重なる内容は、伊藤若冲の《象と鯨図屏風》をMIHO MUSEUMが購入してくれたこと(若冲p.229~236)と、2013年に「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展が実現したこと(若冲p.210)の二つです。

なお、《象と鯨図屏風》については若冲のほうが詳しいので、「深掘り」はありません。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年28回を読むと

 上記の「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展ですが、ジョー・プライス氏の「私の履歴書」28回(2017年)によれば、東日本大震災で被災した人たちの心の復興支援になればと思い立ち、東北大学で教べんをとっていたことのある辻惟雄氏にジョー・プライス氏が国際電話をかけ、仙台市博物館の内田純一学芸室長を紹介してもらって実現した、とのことです。また、子どもに来てほしいので高校生まで無料にしたほか、記念グッズの売り上げも展覧会を開催した3館(仙台市博物館、岩手県立美術館、福島県立美術館)に寄付することを決めた、とも書いてありました。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回も読むと

若冲に書かれていたものの、履歴書では触れていない話が二つあります。

第一は、2000年の展覧会。若冲「あとがき」に「2001年、京都国立美術館で催された若冲展は、『知っていますかこの画家を』というサブタイトルがついており、企画した狩野博幸室長はじめ館員たちが心配したとおり、最初のころは会場に閑古鳥が鳴くありさまでした。それが、会期の後半になると、にわかに観客が増え始め、最後には、七万という、当時としては記録的な入場者数となりました」(p.248~249)と書かれています。これに重なる記述が、2017年に日本経済新聞に連載されたジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回にありますので、以下、引用します。

待ち望んでいた伊藤若冲再評価の兆しが現れ始めた。「こんな絵かきが日本にいた」。こんなキャッチフレーズで若冲の没後200年を記念した特別展覧会が、2000年秋に京都市の京都国立博物館で開かれた。私どものコレクションから17点を出品した。はじめはまばらだった入館者の出足が、日を追うごとに増え、熱を帯び終盤は押すな押すなの列。1カ月間で約9万6000人が見た。(引用終り)

なお、以上の二つは開催年、会場、サブタイトル、入場者数という4つ点で違っています。京都国立博物館のHPなどで調べてみると、日本経済新聞に書かれた内容の方が正しいようです。

第二は、2006年から2007年にかけて開催された展覧会。若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」には「2006年に『若冲と江戸絵画』展(東京国立博物館)として公開された」と書かれています。これに重なるのがジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回で「東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東京国立博物館を含む4館で約82万人を記録した」と書かれています。

◆履歴書30回=最終回(1/31)

この回では、「奇想の系譜」の著者として、伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになったこと、「奇想の系譜」で紹介した6人の画家たちは当時ほとんど忘れられた存在だったのが、今や江戸画壇のスター扱いされていることなどが書かれており、「深掘り」はありません。

◆履歴書の感想

読んでいて個人的に盛り上がったのは、21回と22回です。最終回の重要なフレーズ「伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになった」ことについては21回に、「奇想の系譜」の執筆については22回に書かれていましたから、著者の思いも私と同じようなものかもしれません。

なお、履歴書で言及した若冲の展覧会は、MIHO MUSEUM「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(2015.7.4~8.30)と2013年の3月から9月にかけて仙台、盛岡、福島を巡回した「若冲が来てくれました」展の二つだけ(いずれも29回に掲載)でした。2000年の展覧会(京都国立博物館)、2006~2007年の展覧会(東京国立博物館、京都国立近代美術館、九州国立博物館、愛知県美術館)、2016年の展覧会(東京都美術館)は、若冲では触れていたものの、履歴書ではスルー。少し残念でしたが「著者の関与が少なかった」ということなのでしょうね。

◆「ちくまプリマー新書349「伊藤若冲」の深掘り」としてまとめると

辻惟雄氏の「私の履歴書」とジョー・プライス氏の「私の履歴書」のうち「若冲の深掘り」に該当すると思われる事柄を、若冲のページ順にまとめてみました。なお、行頭のページは若冲のもので、(  )内は履歴書の掲載回を示します。

p.208 4行目 プライス氏は、ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家。また、戦後若冲を初めて評価した人でもある。著者は2番手だが、若冲ブームをプライスさんらとともに牽引(21回)

プライス氏が戦後若冲を初めて評価したのは1953年。建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア」で若冲の《葡萄図》に出会い、600ドルほどで購入した(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年1回・18回)

p.208 5行目 二幅の彩色画は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》(21回)

p.208 15行目 1964年の春、西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室に持ち込んだ。まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた(21回)。

p.209 11行目 1971年6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港でプライス夫妻の出迎えを受け、その後、プライス邸に招かれた(23回)

p.210 2行目 東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東博を含む4館で約82万人を記録(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

p.247 3行目 『奇想の系譜』は1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、同年7月号から12月号に6回連載。1969年に長沢芦雪を書き加え、1970年3月に単行本として出版(22回)

p.248 12行目~p.249 1行目 正しくは、2000年、京都国立博物館で催された若冲展は「若冲、こんな絵かきが日本にいた。」というサブタイトルがついており(略)最後には、約9万6000人という、当時としては記録的な入場者数となりました。(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

Ron.

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