パウル・クレー展 ミニツアー

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 前日の中村正義展に続き、2月23日日曜日には、愛知県美術館にて「パウル・クレー展」のミニツアーが開催されました。会員15名が愛知県美術館12階のアートスペースAに集合し、展覧会の担当学芸員の黒田和士氏の解説を聴きました。

 ベルン近郊の町に生まれたクレーは父親の影響で音楽や詩に親しみがあったこと、その後ミュンヘンに行き絵を学んだこと、社会風刺や政治批判の時代を経てドイツの画家たちと出会っていくことなど、クレーの人生について年代を追って説明頂きました。

 彼が出会って影響を受けた画家たち(カンディンスキー、ロベール・ドローネー、アウグスト・マッケ)らとの交流や、戦争に突入していく時代の流れなども、彼の作品に大きな影響を与えていたこともわかりました。

 作品を鑑賞するだけではわからない、クレーの奥深い美術への情熱や概念を、ほんの少し、理解できたように感じました。

生誕100年 中村正義展ミニツアー

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 令和7年2月22日、今年何度か目の寒波が訪れる中、生誕100年中村正義展が豊橋市美術博物館にて開幕を迎えました。午前中は、豊橋ではかなり珍しいであろう降雪のせいか、会場は閑散としており、そんな中でも学芸員の丸地加奈子さんの解説が1階の展示室でスタート。大きく5章に分けられた中村正義の作品、そして正義に関わった作家たちの作品について、エピソードなどを交えながら解説してくださいました。

 日展に入選した初期のころから、蒼野社時代、一采社などの時代の活動について、更には自身が病に侵されて変わっていく画風についてなど、時間が限られる中、興味深い解説をしていただきました。

 午後には、作家の長女で中村正義の美術館館長の中村倫子さんと、われらが名古屋市美術館にて中村正義の展覧会を担当して開催してくださった山田諭氏との対談が行われ、午前中とはうって変わって会場には入りきらないほどの聴衆が集まりました。対談では、作家について、更に深く解析、解説していただき、長女倫子さんからは様々なエピソードも紹介されました。

 この展覧会では、その後も毎週豪華なゲストによるトークが開催、予定されています。

「没後100年 富岡鉄斎」ミニツアー

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2024.11.17 開催 

2月17日(土)に名古屋市美術館協力会主催のミニツアーが開催され、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。美術館で開催中の展覧会は「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」(以下、「本展」)で、ミニツアーの参加者は7名。前半は美術館の豆田誠路学芸員(以下「豆田さん」)のギャラリートークで、後半は自由観覧となりました。以下は、そのレポート、(注)は私の補足です。

◆「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」のギャラリートーク(午後1時~1時40分)

集合場所は美術館1階ロビー。定刻の午後1時、参加者は豆田さんの案内で2階ロビーに移動し、豆田さんのギャラリートークが始まりました。

〇2階ロビーでの解説

豆田さんによれば、富岡鉄斎(以下「鉄斎」)は1924年(大正13)12月31日、数え89歳で逝去。2024年12月31日で没後100年になる、とのことでした。生家は京都の洛中の商家で、石門心学(注:江戸時代の思想家・石田梅岩が町人に説いた倫理・道徳)を重んじていた。鉄斎は石田心学を基本に、儒学、漢詩文、国学などを学び、特定の師はいないが文人(注:教養ある知識人)のたしなみとして絵を描いた。儒者であって専門の画家ではないが、文人画家として認められていた、と解説されました。

〇2階展示室1

・序章 鉄斎の芸術 画と書

 豆田さんによれば、本展の「序章」は入場者に鉄斎の芸術の全貌をつかんでもらう章。最初の展示は、正宗得三郎の油彩画《富岡鉄斎像》(1925)でした。鉄斎逝去の翌日に鉄斎邸に駆け付け、約一か月後の2月3日、この肖像画を家族に贈った、との解説でした。次の《扶桑神境図》(1924)は89歳の時の作品。豆田さんは「90歳の落款があるので、数え90歳を目前にした時期に制作した作品。日本の理想郷を描いている。画面下部の岩で出来た門のような所が理想郷の入口」との解説がありました。

(注)《扶桑神境図》の画賛前半「九十行栄啓期 太平多樂幸男児」という文は、鉄斎の絶筆とされる作品でも書かれ、「私は栄啓期と同じ90歳まで長生きし、太平の世に楽しみの多い幸福な男子」という意味で、栄啓期は中国・周代の隠者。孔子と出会い長寿の喜びなどを説いた伝説上の人物です。鉄斎は年末までいくつかの作品の制作に取り組み、大みそかに医者と談笑し、うどんを医者にすすめ、自らも食して眠り、そのまま帰らぬ人になったとのことです。(出典:2024年3月3日付の日本経済新聞)

《大田垣蓮月肖像》(1877)は、鉄斎42歳の作品です。豆田さんによれば、大田垣蓮月は夫と子どもに先立たれ、二人目の夫と死別後33歳で剃髪して蓮月と号した。和歌と書に優れ、自作の和歌を彫った茶碗を売って生計を立てていた。鉄斎の父・維叙は蓮月の知り合いで、蓮月から相談を受け、鉄斎20歳、蓮月65歳の頃、鉄斎が蓮身の回りの世話をすることになった、とのことです。序章には、この作品の外、蓮月が茶碗を作り、鉄斎が茶碗筒を作った《秋草図選煎茶碗/茶碗筒》も展示されています。ツアー参加者から「小振りの茶碗ですね」という声が上がると、豆田さんは「煎茶碗は小振りなんですよ」と答えていました。(注)大田垣蓮月については、蓮月と鉄斎 というURLが参考になります。なお、煎茶道は、中国の文人茶の影響を受けており、知識人や芸術家が自然の中でお茶を楽しみ、書画をたしなみながら談笑する場として発展。その発展には、隠元禅師、売茶翁(ばいさおう)や石川丈山などが重要な役割を果たしたそうです。(出典:URL:煎茶道とは?茶道の違いや歴史について解説 | みんなの日本茶サロン

 序章の見どころは6曲1双の屏風《高士隠栖図・松雪僊境図》(1870)、鉄斎35歳の作品です。豆田さんによれば、この作品も理想郷を描いたもの。序章に展示の《携琴訪友図》(鉄斎30歳代の作品)と同様、若い頃の鉄斎は蓮月の影響を受けており、賛文は細い文字で書かれているとのことです。屏風左隻の《松雪僊境図》には「大酔してこの絵を描いた」という内容の賛が書かれており、文字が途中から大きくなっている、とのことでした。

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究

 《鯉魚図》(1914)について豆田さんが「急流を登った鯉は龍になるという伝説がある」と解説したところ、ツアー参加者から「この鯉には龍になる雰囲気が見られない」という声が上がり、豆田さんは「急流を登る前の鯉を描いているのです」と返していました。確かに、のんびりとした表情の鯉です。

 《通天紅葉図》(1882)について、豆田さんは東福寺・通天橋の紅葉を描いたもので、禅僧の売茶翁(ばいさおう)が河原で煎茶を振る舞っている様子も描いています、と解説がありました。

(注)第一章にも同じ内容の《高遊外売茶図》(70歳代)を展示。売茶翁は煎茶道具を担って歩き、人々に煎茶を供した禅僧で、伊藤若冲・池大雅とも交友があり、2021年1月2日にNHK総合で放送されたドラマ(2024.11.02再放送)『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』にも登場していました。

〇2階展示室2

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究(つづき)

 《蝦夷人熊祭図》(70歳代)について、豆田さんは「鉄斎は北海道に渡っているが、海岸線に沿って移動しているので、熊祭は見ていないと思われる。多くの文献を読み、人からの話も合わせて、この作品を描いた、と解説。《嫦娥奔月図》(1923)については、夫が得た不老不死の薬を妻が盗み飲んで、月に逃げて仙女の嫦娥になったという話を描いた作品、と解説。《不尽山頂上図》(1920)について豆田さんは、画面左の「表口頂上之印」は鉄斎が登頂して受けた朱印ではなく、京都虎屋が登頂した時の記念。鉄斎自身は1875年、40歳の時に登頂しており、その時の記憶を元に富士山頂の様子を書いた、と解説されました。

〇2階多目的室

・終章 鉄斎の到達点 老熟と清新

 2階での解説の最後は、三幅対の《西王母図》《瀛州仙境図》《福禄寿図》(いずれも1923)。豆田さんは、この三幅対は碧南市の大浜地区で味醂製造業を営む石川八郎右衛門家の25代・石川三碧の80歳、夫人70歳に達したことを祝って描かれたもの。右の仙女・西王母は三千年に一度実をつけるという桃を持ち、印章の文字は「子孫千万」、中央は神山、左の老人は寿老人で、右手に長寿のシンボル桃を持ち、左には寿命を記した巻物付けた杖。画面右の蝙蝠は「福」と、画面左の鹿は「禄」と同音。寿老人の「寿」とあわせて「福禄寿」。三幅対いずれも、縁起の良いものを描いている、と解説されました。

〇1階 展示室3

・第一章 鉄斎の日常 多癖と交友(つづき)

 1階・展示室3は、第一章のつづきの展示。《西王母図》に押印された「子孫千万」の印章も展示されていました。「桑名鉄城刻/富岡鉄斎造/四代清水六兵衛焼」と書いてあります。陶磁器の印でした。

〇1階 ロビー 「富岡鉄斎と碧南」パネル

 ギャラリートークの最後は1階ギャラリーのパネル「富岡鉄斎と碧南」です。富岡鉄斎は1889年8月に石川三碧邸に逗留し、1895年にも滞在している、との解説がありました。パネルには、富岡鉄斎が逗留した石川三碧邸(九重味醂)の写真なども掲載されていました。

◆自由観覧とその後

ギャラリートークを聴いた後は、自由観覧。四代清水六兵衛と関係する展示は印以外にも3点ありました。清水六兵衛窯HPの「歴代 清水六兵衛(URL: 歴代 清水六兵衛 | 六兵衛窯 (rokubeygama.com))を見ると、「とくに富岡鉄斎とは深い交遊があり、そこから多くの共作も生まれた」と書かれていました。

 自由観覧後は、九重味淋直営レストラン and カフェ K庵で、期間限定・本展とのコラボスイーツ「みりん黒ごまぷりん」を注文。本展観覧券を提示して、50円割引の600円で味醂の甘さを味わいました。おいしかったですよ。

Ron.

三重県立美術館「シュルレアリスムと日本」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2024.06.23 PM1:00~2:30

6月23日(日)に、三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」(以下「本展」)の協力会ミニツアーが開催され、参加者は10名でした。

当日の天気予報は「雨」。津駅から三重県美までは10分以上坂道を歩かなければならないので「雨に降られたら、いやだな」と恐れていましたが、何とか傘のお世話にならずに済みました。有難いことです。

ミニツアーの集合時刻は午後1時、集合場所は三重県美地下1階・講堂前でした。前回、三重県美で開催したミニツアーは2019年10月6日の「シャルル=フランソワ・ドービニー展」で、12名が参加しました。今回のミニツアーは、コロナ禍を挟んで5年ぶりの開催です。

当日は、講堂で速水豊・三重県立美術館館長(以下「館長」)のレクチャーを聴いた後、一旦、自由観覧。午後2時から館長のギャラリートークが始まったので、ミニツアー参加者は他の来館者に混じってギャラリートークを聴いてから、自由解散となりました。以下は、ミニツアーの概要です。

◆館長のレクチャーの概要(地下1階講堂)PM1:00~1:35

1 2024年は「シュルレアリスム宣言」100年

「シュルレアリスム」は1920年代にフランスで始まる。最初は文学運動。1924年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表。2024年は「シュルレアリスム宣言」100年に当たる、との解説でした。

2 本展のねらい

館長は「本展のねらいは、戦前の日本のシュルレアリスム運動を見てもらうこと」と解説。戦前のシュルレアリスム運動の全貌にフォーカスした展覧会は、1990(平成2)年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」。本展は34年ぶりのシュルレアリスム展になる、とのことでした。

3 序章 シュルレアリスムの導入

 館長からは、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を1928年に発表した後、日本では1930年に滝口修造が『超現実主義と絵画』を翻訳し、いち早く取り入れている、との解説がありました。

4 第1章 先駆者たち

館長は、古賀春江《鳥籠》(1929)について「不可思議で驚きを生み出すイメージを描いている」と紹介。具体的には、画面左の鳥籠のなかのヌード、右下の白鳥、右上の機械。「不思議なイメージではあるが、組み合わせの解釈に正解はない。見る者が想像力を働かせて解釈すればよい」との解説がありました。

深沢一郎《他人の恋》(1930)について、館長は「深沢一郎は、1924~31年にフランスに滞在。1931年に開催された独立美術協会の第1回展に37点の絵画を出品。シュルレアリスムを本格で気に導入した画家で、シュルレアリスムに関する文章を発表し、シュルレアリスムを広めたリーダー、と紹介。

なお、二科展に出品した東郷青児、阿部金剛の作品については、「本人は、シュルレアリスムとは思っていない」とのことでした。

5 第2章 衝撃から展開へ

館長は、三岸好太郎《海と射光》(1934)について「亡くなる少し前に描いた、シュルレアリスムの傑作。貝殻と裸婦、海岸を組み合わせた、作家の代表作」と解説。飯田操朗(みさお)《婦人の愛》(1935)については「第5回出品され、独立賞を受賞」との解説でした。

6 第3章 拡張するシュルレアリスム

館長は、1930年代半ばから1937年頃について「集団で盛り上がっていった時代」と解説。滝口修造、山中散生、大下正男が写った写真を投影し「1937年に開催された海外超現実主義作品展・東京展の写真」と紹介。「実物の展示は少なかったが、複製や写真が200点以上並んだ展覧会で、東京・大阪・京都・名古屋・福井を巡回した」との補足がありました。

米倉壽仁(ひさひと)《ヨーロッパの危機》(1936)については「時代の社会的背景を示した作品。画面中央はヨーロッパの地図。地図の周りに馬。地図の裂け目からは色々なものが飛び出ている。スペイン内乱、ナチス政権誕生など、当時の世界の状況を意識」と解説。北脇昇《独活(うど)》(1937)については「作家は、京都で制作。作品は、ダリのダブル・イメージ(一つの物で、二つのイメージを表現)を取り入れている。二本の独活は、植物として描くだけでなく、二人の人物をイメージさせる」と解説。大塚耕二《トリリート》(1937)については「当時、まだ学生。この時期のシュルレアリスム運動を支えたのは画学生。帝国美術学校(武蔵野美術学校の前身)の「表現」というグループ。メンバーは、大塚耕二、浅原清隆など6名で、浅原清隆《多感な地上》(1939)は本展のポスターに使用。《多感な地上》では、ハイヒールから犬が出て来るし、女性のリボンは鳩に変身する。なお、清原は出征してミャンマーで行方不明になった。メンバーの半数は戦死。」との解説がありました。

7 第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで

館長は「日本が軍事体制に突入すると、シュルレアリスムは軍国主義に反するものとして、弾圧された」と解説。靉光(あいみつ)《眼のある風景》(1939)については「近代美術史の中でも重要な作品」と解説。北脇昇《周易解理論図(泰否)》(1941)については、「『図式』絵画と呼ばれ、周易の八卦図や色彩学などの概念に基づいて描いた作品」と解説。また、「福沢一郎と滝口修造は、シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われて拘束された」との解説でした。

8 第5章 写真のシュルレアリスム

館長は山本悍《題不明(《伽藍の鳥籠》のヴァリエーション》(1940)と坂田稔《危機》(1938)を紹介。

9 第6章 戦後のシュルレアリスム

館長は、岡本太郎《憂愁》(1947)について「岡本太郎は1930年代のパリで、シュルレアリスムの活動に参加した唯一の日本人」と解説。山下菊二《新ニッポン物語》(1954)について「戦前、福田一郎の下で学び、シュルレアリスム的手法を引き継いだ作家。ただし、この作品はルポルタージュ絵画と呼ばれ、シュルレアリスムとは呼ばれない」と解説しています。

10 本展出品の作品・資料について

最後に館長から「本展出品の作品は110点ほど、資料は80点ほど。作品だけでなく、資料も見て欲しい」との話があり、レクチャーが終わりました。

◆館長のギャラリートークの概要(1階 第1室・第4室)PM2:00~2:25

館長のレクチャーが終わり、ミニツアー参加者が本展を鑑賞していると、「間もなく、午後2時から館長によるギャラリートークを始めます。参加を希望される方は、1階展示室入口にお集まりください」という放送が入りました。急いで集合場所に向かうと、50人近くの人数が集まっています。三重県美の係員の誘導で展示室内に移動すると、館長が登場。午後2時からギャラリートークが始まりました。

ギャラリートークは、① 展覧会全体の説明と② 第4室の作品の解説の2部構成でした。

① 展覧会全体の説明

館長の解説によれば、アンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して、シュルレアリスムが始まった。シュルレアリスムが始まるとヨーロッパ全体に広まり、その後、全世界に広まる。20世紀では一番広い影響を与えた活動。シュルレアリスムは文学活動として始まったが、美術その他にも広がった。シュルレアリスムは、理性の及ばない無意識の領域に着目した。日本では、1920年代後半からシュルレアリスムの活動が始まる。本展は主に戦前期と戦後の、主に絵画作品を時代順に展示。展示ケース内には文学作品も並べている、とのことでした。

第1室から第2室にかけての展示については、「第1章 先駆者たち」「第2章 衝撃から展開へ」「第3章 拡張するシュルレアリスム」。第3章では、シュルレアリスムが集団的な運動へ変化し、学生たちの活動が活発になる、との解説がありました。また、第3室の内容については「第4章 シュルレアリスムの全盛期から弾圧まで」。日中戦争が始まり、前衛的な表現は弾圧され、消滅していく。多くの画家が、戦争で死亡した、との解説があり、第4室の内容については「第5章 写真のシュルレアリスム」と「第6章 戦後のシュルレアリスム」とのことでした。

② 第4室の作品の解説

第1室でのギャラリートークが終了し、参加者は第4室に移動。第4室で館長が解説したのは第4章の作品のうち、矢崎博信《時雨と猿》(1940)でした。館長によれば《時雨と猿》は、矢崎の描いた最後の大作とのこと。本人は、乗り組んだ輸送艦が魚雷を受けて戦死した。しかし、戦地に赴く前に郷里に戻り作品を置いてきたので、遺族の元に、かなりの作品が残っていた。矢崎は俳句とシュルレアリスムの関係を論じた文章を残しており、この作品は松尾芭蕉「猿蓑」の発句、「初時雨猿も小蓑をほしげ也」を元にしている、と解説されました。

北脇昇《周易解理図(泰否)》(1941)については、図式で思想を表す「『図式』絵画」と説明。周易の八卦の記号と色環の組み合わせで思考を表現した作品は、近年、注目されている。このような表現をした作家は、1940年代には一人だけだった、との解説でした。

「第6章 戦後のシュルレアリスム」については「戦前から活躍している作家に限って展示」と解説。岡本太郎《憂愁》(1947)については、1930年代に欧州のシュルレアリスム展覧会に出品した唯一の日本人。第二次世界大戦の開始で帰国。召集されて中国戦線で戦った。戦前の作品は空襲で全焼。作品は、白旗と頭部を描いているが、これは悲しみの表現、との解説がありました。

山下菊二《新ニッポン物語》(1954)については、福沢一郎の研究所に通った戦前からのシュルレアリスト。戦後にルポルタージュ絵画を制作。ルポルタージュ絵画はシュルレアリスムではないが、シュルレアリスム的表現の作品。画面右下に描かれた、口紅を塗りハイヒールを履いた犬の前に ”Yellow Stool” という言葉が書かれている。これは「日本人娼婦」の隠語、犬の頭と尻尾をつかんでいるケダモノは米兵を象徴、との解説があり、高山良作《矛盾の橋》(1954)については、イサム・ノグチが欄干を設計した橋、原爆ドーム、丹下健三が設計した平和記念館を描いている、広島の戦後の状況を描いた作品。高山は円谷プロで怪獣の造形を手掛けた、との解説がありました。

最後に館長は、寺山修司、つげ義春について、シュルレアリスム的なものが引き継がれている、と解説。以上で、ギャラリートークは終了しました。

◆ギャラリートーク終了後の感想など

ギャラリートーク終了後は、《新ニッポン物語》と《矛盾の橋》に話題が集中。《新ニッポン物語》では「どぎつい描写」について、《矛盾の橋》では「館長の解説が無かったら何を描いた作品か分からなかった」ということを中心に、各人の感想が交わされました。

なお、広島市の公式ホームページ(注)を見ると、高山良作が描いたのはイサム・ノグチが設計した2つの橋の欄干のうち「平和大橋」の欄干のようです。欄干は橋詰で上に反り、ラッパのように大きく広がっています。《矛盾の橋》では、欄干がラッパのように広がった部分の上に円盤が置かれ、その上にドーム状の構造物が載っています。高山良作が描いたドーム状の構造物ついては、何を意味しているのか、今でも不明です。

注:平和大橋・西平和大橋の欄干について – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)

◆2階・常設展に展示された「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品

 2階・常設展でも「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品を展示しており、「撮影画像のSNS投稿OK」の作品もありました。そのうち、三岸好太郎《二人の道化》(1931)を見て、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」に出品の同《少年道化》(1929)を思い出しました。

◆最後に

本展が「1990年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」以来、34年ぶりに開催されたシュルレアリスム展と聞いて、ミニツアーに参加した意義があったと思いました。名古屋市美術館の所蔵作品も展示されています。

なお、本展のプレスリリースのURLは下記のとおりです。

URL: 001127362.pdf (mie.lg.jp)

Ron.

三岸好太郎《二人の道化》(1931)

一宮市三岸節子記念美術館「安藤正子展 ゆくかは」ミニツアー

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 一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「安藤正子展 ゆくかは」のミニツアーに参加しました。開始日時は8月5日(土)午後2時。美術館が開催した「アーティスト・トーク」に参加するという方式です。アーティスト・トークの参加者は約50名、うちミニツアー参加者は13名で、アーティスト・トークの司会は美術館の野田路子学芸員(以下「野田さん」)でした。以下は、当日のメモを元に書いたものです。

◆第1部 美術館2階第1展示室

 冒頭、野田さんは「現在、母校・愛知県立芸術大学の准教授」と、安藤正子さん(以下「安藤さん」)を紹介。安藤さんは、本展のサブタイトル「ゆくかは」について、鴨長明『方丈記』の有名な一節「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」から取ったもの、と解説。「時間の流れはゆくかは(行く川)のように速い」「絵を描くのは時間がかかり、流れに追いつけない」というキーワードを中心に、作品制作に向かう姿勢などについて、お話しくださいました。

 続いて、野田さんから「第1展示室の作品は2016年以前に制作したもの」という説明があり、安藤さんによる作品解説が始まりました。

◎《貝の火》(2004)

 右手にポールペンを持ち、自分の左腕に絵を描いている女の子を描いた細密描写の鉛筆画です。不思議なことに、女の子は「鳩をくわえたキツネの頭部」を被っています。安藤さんによれば、宮沢賢治の童話『貝の火』(注に、あらすじを記載)に着想を得た作品。自分の体に絵を描くのは、古代人の壁画をイメージしているとのこと。《貝の火》は安藤さんにとって「大きな画面に鉛筆で描いた最初の形」とのことでした。

(注)主人公は子ウサギのホモイ。ホモイは、川に流されたヒバリの雛を助けたことで、鳥の王様から宝珠・貝の火を贈られます。ホモイは周りの動物からおだてられて増長。キツネに誘われたホモイは悪事に加担しますが、貝の火が濁り始めたことに気がついて、キツネの悪事を食い止めます。しかし、貝の火は砕け、その破片でホモイは失明。ラストに、ホモイのお父さんが「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから」と慰めるのでした。(全文については、青空文庫=https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.htmlをご覧ください)

◎《ビッグ・バン》(2007)

 これも鉛筆画で、垂直に立った棒に張った網にアサガオが蔓を伸ばし、満開のアサガオが咲き誇っている様子を描いた作品です。安藤さんによれば油絵の作品もあるそうですが「鉛筆画は下絵で、油絵が本画」ということではなく「それぞれが独立した作品」。「色のイメージを持っているものは油絵にすることが多い」そうで、「《貝の火》は、画面の縁に色つきの紙を置くことで満足したので、油絵は制作しなかった」そうです。

◎《うさぎ》(2013)・《パイン》(2014)・《APE(エイ・ピー・イー)》(2014)

 安藤さんによれば「息子に毛糸のおくるみを掛けて、寝ている姿を見ているうちに、東日本大震災の原発事故をテーマに三枚の絵を描こうと思った」とのことです。《うさぎ》は、公園で虫取りをする息子の姿。草ぼうぼうの公園に無人の商店街が重なって見えたそうです。《パイン》は、松原の中で一本だけ残った松。《APE》はGRAPEファンタの空き箱で作ったヘルメットに「APE」という文字が読めたから付けたタイトル。Apeは類人猿。フォークロック・バンドの「たま」が歌った「さよなら人類」のメロディーも浮かんだそうです。雪は放射能を表現したもの、とのことでした。

《パイン》について「足元のパンジーは、名古屋市美術館協力会のカレンダーにも描きましたが表情のある花。泣いたり、笑ったり、ひげのおじさんや犬のようにも、困っているようにも見える」と付け加えていました。

◆第1部 美術館2階第2展示室

第2展示室に移動してから安藤さんが語ったのは、第1展示室に出品の三枚の作品を描き上げた時の心境と、その後の変化でした。

◎三点を描き上げた時の心境

安藤さんは三点の作品を描き上げて、自分の見ているもの、考えていることを絵にしていく作業が「磁石に鉄がくっつくようにうまく描けた。これ以上は出来ない」という心境になったそうです。その頃、名古屋市内から瀬戸市に引っ越し、第二子(女の子)が生まれ、大学(愛知県立芸術大学)に就職するなど、生活環境の変化もあって、「前のスタイルで制作を続けるのは難しい」と感じ、木炭紙に木炭で描いたり、水彩鉛筆で描いたり、試行錯誤を続けたそうです。「マティスやボナールが好きで、その作品のように描こうとしても、細部を描きたくなる」「大きな空気感を描きたい」などの言葉がありました。

◎《眠れない》(2018)

 小さな花が縦横、規則的に並んでいる紙に、寝間着姿の小さな女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんが語ったとおり、第1展示室で見た精密描写の絵とは違う画風になっています。

◎《歯ブラシの話》(2020)

 黒い野球帽、赤いジャンパーで、歯磨きをしている髭面の人物を水彩鉛筆で描いた作品です。安藤さんによれば、描いたのは沖縄の人で「柔らかい歯ブラシが好き」と言っていたとのこと。「この作品で、絵が描けるようになった。」「描き始めることができれば、完成することができる」とも解説。《歯ブラシの話》では、瀬戸市にいる若い作家から陶板レリーフの制作に誘われた話もされました。「作品展に出品しませんか」と誘われたので「陶板をやってみたい」と快諾。「近所の友達のところで焼成してもらった」とのことでした。

◎《ニットの少女Ⅱ》(2020)・《ニットの少女Ⅳ》(2020)

女の子の顔、体、背景を陶板で制作して、板に貼りつけた作品です。安藤さんによれば、原型をつくって、石膏型(凹型)を取り、石膏型に粘土を詰めこんで成型。その後、乾燥させて焼成、とのこと。「同じ形のものが、複数できる。同じ原型でもイメージを変えることができる」などの言葉から、陶板レリーフの制作を楽しんでいることが伝わってきました。確かに《ニットの少女Ⅱ》と《ニットの少女Ⅳ》は同じ原型の作品ですが、イメージはずいぶん違います。原型→石膏型→成型→乾燥→焼成という、ひと手間多い、大量生産時に使う制作方法(だと思いますが……)は「やきものの街・瀬戸」に引越したから出来たことだと思いましたね。

◎《怖いテレビ》(2018)

 安藤さんは「枕を抱きしめながらテレビを見ている娘。枕の柄を最初に描いた」と解説。《眠れない》と同じように、図柄を描いた紙の上から描いています。

◎《ピンクの中の娘》(2019)

 黄色いパイナップルを描いたピンクの紙に、パンツ姿の女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんによれば「陶板の《パイナップル》シリーズの元になった絵」とのことでした。

◎《シダ植物》(2018)・《31》(2022)

 安藤さんは「紙に柄を描いたものを何枚も用意。その紙の上に絵を描いた」「図柄やパターンを描いた紙に人物などを描くことで、二次元の性質を強めてくれる」「パターンは芋版を使って描いた」等と解説。

◎《将棋なんて》(2021)

 大画面の水彩画です。将棋盤を見つめている女の子の服は、実物をコラージュしたもの。安藤さんは「コラージュしようとは思っていなかったが、服はコラージュした方が良いと思った」「陶板制作に近いものを感じた」「陶の制作が水彩画に活かせた」等と解説。

◎《歯が抜けそう》(2020)

 安藤さんは「乳歯が抜けるときの姿を描いた」「楽しんで描いた」と解説。「画面左上にコードが描いてあるけれど、好きなモチーフですか?」という、入場者からの質問には、「身の回りにあるアイテムを画面に入れるのが多い。ヘッドフォンを買ったときは、いずれ描くかなと思った」と回答されていました。

◎《スシローにて》(2023)

 安藤さんは「娘のギターの発表会の後スシローに行ったら、中3の息子が高い皿をたくさん注文。さっさと食べる様子が面白くて描いた。自分の作品は平面的なものを重ねるが、複数の視点を取り入れることはなかった。この作品では、すし皿を真横だけでなく、真上から、斜めからと、複数の視点で描くことで、三次元の空間を表したいと思った。スプーンには、自分の顔が写っている。一枚の絵の中に絵画の歴史がある」と解説。

◎アーティスト・トーク 終わりのあいさつ

 安藤さんのアーティスト・トークは「本展には、20年間、60点の作品を出品。この後の時間、好きに見て、楽しんでいただければうれしい」というあいさつで終了。時計は午後3時でした。

◆1階 第3展示室(ただし、部屋の表示板は「講堂」) 

1階では、安藤さんが日常生活を撮影した20分59秒の映像作品「ゆくかは」を上映していました。

◆作家を囲む会 

ミニツアー募集時は「作家を囲む会」の通知はありませんでしたが、通知後、一宮市三岸節子記念美術館を通して「アーティスト・トーク終了後、わずかの時間であれば安藤さんを囲む懇談会を開催する」ことにご快諾いただき、「作家を囲む会」の開催が実現。ミニツアー参加者は当日に通知を受け、「うれしいサプライズ」となりました。

「作家を囲む会」は、午後3時30分~4時の間、美術館の喫茶コーナーをお借りして、安藤さんとミニツアー参加者13名で開催。安藤さんのごく近くでお話が出来たので、参加者は大喜び。また、安藤さんが参加者一人一人の質問に丁寧に答えて下さったので、参加者にとって至福のひと時となりました。

安藤正子様、お忙しい中にもかかわらず時間を割いていただき、ありがとうございました。

Ron

碧南市藤井達吉現代美術館 「碧い海の宝石箱」展 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2023.05.14 14:00~15:00

碧南市藤井達吉現代美術館(以下「碧南市美」)で開催中の「碧い海の宝石箱」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。参加者は7人。碧南市美が開催するギャラリートークを他の入場者と一緒に聞く、というミニツアーでした。

ギャラリートークを担当されたのは3人。特任学芸員の大野さんと学芸員の大長さん、豆田さんです。大長さんが第1章、第2章、第3章part 1と第4章、大野さんが第3章part2、豆田さんが第5章を担当。本展の名称「碧い海の宝石箱」について、大長さんは「碧い海というのは、碧海郡(今の碧南市を含む、昔の行政区画の名前)を象徴しています。宝箱は地域の宝箱である碧南市美のことです」と解説され、「本展の出品は70作家・112件」と付け加えました。

◆ 第1章 藤井達吉がいた時代 大正~昭和初期の美術から

大長さんは先ず、毛利教武《手》(1919)について解説。「毛利教武はフュウザン会の作家。フュウザン会は大正元(1912)年に岸田劉生らが結成した芸術家集団。表現主義的作風を強調したが、活動期間は半年ほど。藤井達吉もフュウザン会に所属しています。そのため、第1章では木村荘八《樹の風景》(1913)、岸田劉生《童女飾髪之図》(1921)萬鉄五郎《冬の海》(1922)など、フュウザン会の作家の作品を6点出品。なお、萬鉄五郎は洋画家ですが《冬の海》は南画風の日本画です」との解説もありました。

毛利教武《手》(1919)

バーナード・リーチについては「彼は横浜市で陶芸をしていましたが、藤井達吉が横浜市の上野桜木町に住んでいた頃に、達吉と知り合った」とのことでした。小茂田青樹《城》(大正後期)については「この頃には日本画でも新風が吹き、小茂田青樹の属した赤耀会などが結成されたが、赤耀会の活動期間は2年と短かった」と解説。小川芋銭《河童図》については「再興院展に出品」との解説がありました。

◆ 第2章 藤井達吉の精神

大長さんによれば「第2章では、藤井達吉と造形思想を共にする作家を紹介」とのことで、先ず、藤井達吉の姉・藤井篠(すず)《芍薬文鳥毛屏風》(1931)の解説がありました。「絵の具ではなく、鳥の羽毛を刺繍して制作した屏風」という解説を聞くと、参加者は作品に近寄って、羽毛が刺繍されていることを確かめていました。

藤井篠(すず)《芍薬文鳥毛屏風》(1931)

香月泰男については「第二次世界大戦後、シベリアに抑留された経験を持つ作家。作品には宇宙に対する視線を感じる。《洗濯帰り》(1963)に描かれた三角形の窓には、藤井達吉《大和路》(1957)の三角形に切り取られた空との共通性を感じる」との解説があり、和田三造《花鳥図屏風》については「文展で最高賞を得た《南風》で知られる作家だが、装飾的な作品も手掛けている。大正後期の作品ではないか」と解説。地元作家である杉本健吉の作品についても紹介されました。

和田三造《花鳥図屏風》

◆ 第3章 藤井達吉がいた場所から、時代を彩った作家たち 

part1:地域の美術振興に足跡を残した作家たち

地元ゆかりの作家の作品を紹介する章です。加藤潮光《比島観音像》(1971)について、西尾市の三ヶ根山にある観音像の模型と下図などを展示しており、大長さんは、碧南市の出身などと解説していました。

なお、伊藤廉《柘榴・無花果》(1935)以降は大野さんにバトンタッチ(と記憶しています)。伊藤廉は「愛知県立芸術大学の創設に尽力、初代の美術学部長に就任」。久田治男《夢魔の晦(2)》(1979/2005)については「加藤潮光と同様に碧南市出身。1970~80年代の愛知の現代美術を代表する作家の一人」とのことでした。

久田治男《夢魔の晦(2)》(1979/2005)

◆ 第3章 藤井達吉がいた場所から、時代を彩った作家たち 

part2:新たな表現を希求した作家たち

大野さんによれば「ジャンルを超えた作家たちの作品を紹介した章」とのこと。中村正義《(「男と女」シリーズより)》(1963)については、「日展のホープだったが、脱退。その後、黄色、赤色、緑色など、あまり絵に使わない原色や蛍光塗料などを使った作品を発表」と解説。星野眞吾《何処へ》(1980)については「中村正義と同じ『从会(ひとひとかい)』に所属。日本画の画材を使って、洋画風の表現をする作家。展示作品は『人拓』。作家の体で拓本を取ったもの」と解説していました。近藤文雄《婿の朝夢(イ)》《婿の朝夢(ロ)》(いずれも1979)については「『婿シリーズ』のペン画です。作家は、自分の描いた妖怪を漫画家の水木しげる盗作した、と自慢していた」と解説がありました。

庄司達《白い布による空間 ’68-7 ミニ No.2》(2007)については「重力を可視化した作品」。野田哲也《Diary : Sept. 1st ’74》(1974)については「版画で、子どもの写真と子どもが描いた絵を重ねたもの」。八島正明《通学電車》(1977)については「真っ黒に塗った画面を細い針で削って白い線を描いた、根気の要る作品」との解説がありました。

八島正明《通学電車》(1977)

〇 増築した「多目的室」

第3章part2は、今回増築した「多目的室」に続きます。大野さんの説明によれば、多目的室の奥(西側)壁際の上部は吹き抜けで、外光を取り入れることが出来るそうです。壁に寄って真上を見ると、天井付近に窓がありました。奥の壁は、左右とも曲面。大野さんによれば「奥の壁は、左右とつながっているように見えるので、部屋が広く感じます」とのことでした。増築された多目的室ですが、現代アートの展示には最適の部屋だと感じました。

◆ 第4章 近代の藤井達吉

第4章から1階に移動。第4章は全て、藤井達吉作品の展示です。再び大長さんが登場。1階奥の展示室4(藤井達吉記念室)入口横の壁に展示の 《蜻蛉図壁掛》(1912)について「図柄は刺繍したもの。トンボの眼は七宝、翅は竹の皮」との解説がありました。展示室の入り口近くに、三幅の掛け軸が展示されています。右から《日光(朝)》《日光(昼)》《日光(夜)》(いずれも1925)。大長さんは「院展に、三幅対として出品したのですが、いずれも落選だった」との解説。《立葵》(1928)については「花は、絵具に漆を混ぜて着色」と解説した後、「鈴木其一の作品に似ている」と感想を述べていました。

《蜻蛉図壁掛》(1912)

展示室4ですが、今回のリニューアルで、床より少し高い畳の間が出来ました。そこに、二曲一双の《大島風物図屏風》(1916)が展示されているので、楽な姿勢で鑑賞できます。屏風の図柄は、右隻が桜、左隻が椿。春と秋の風物を描いています。

《大島風物図屏風》(1916)

ケース内に展示の図案集には葵が描かれていますが、大長さんから「この葵を元に、碧南市美西側の外壁にレリーフを設置しました」との宣伝がありました。

◆ 第5章 石川三碧コレクション 地域の文化・歴史のなかで育まれた宝物

第5章は、豆田さんの担当。展示しているのは、九重味醂の石川八郎右衛門当主から9年前に寄贈を受けた「石川三碧コレクション」の作品です。なお、石川三碧は、現当主の四代前の当主とのことでした。

豆田さんは、入口近くに展示されている三幅の掛け軸について解説。「文人画家・儒学者の富岡鉄斎が米寿を迎えた明治22(1923)年、鉄斎が三碧宅に宿泊した際に贈られたもので、三碧80歳、夫人70歳も祝っている」とのことでした。その外には、藤原定家の1212年3月9日と推定される「明月記断簡」の解説もありました。「これまで、本物は残っていないとされた日付の日記だったので専門家の鑑定を受けたところ、新発見の本物と鑑定された」とのことでした。作者不明の絵巻物「てこくま物語」(下)(1566)については「東京国立博物館所蔵の写しが知られていましたが、近年の研究により、これが親本であることが明らかにされた」そうです。また、「神戸女学院図書館が所蔵する『おかべのよー物語』が『てこくま物語』の上巻にあたる」とのことでした。

◆ 最後に

 今回、展示室の外で見た作品が3点ありました。一つ目は、1階ロビーの壁に展示されていたのが桑山真《鋼鉄による作品 # 252》(1974)。碧南市美によれば「本展開催中の展示」とのこと。二つ目は、階段で2階に上がり切る手前に、右側壁面に展示されている山本富章《Double Rings》(2020)。本展終了後も、しばらくの間は展示されるようです。最後は、喫茶コーナーの天井から吊り下げられている新宮晋《光のこだま》(2008)。少なくとも今後数年間は、今の場所で見ることができるようです。

山本富章《Double Rings》(2020)
新宮晋《光のこだま》(2008)

Ron.

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