名古屋市美術館協力会  秋のツアー2024(岐阜) 

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 2024.11.09開催 



119日に名古屋市美術館協力会秋のツアー(以下「ツアー」)が開催されました。目的地は岐阜県現代陶磁美術館(岐阜県多治見市:以下「陶磁美術館」)とせきがはら人間村生活美術館(岐阜県関ケ原町:以下「生活美術館」)です。目的地はいずれも岐阜県で近いため、集合時刻は午前815分でした。予定時刻に同行も含めた参加者23名が名古屋駅太閤口広場に集合したので、予定時刻2分前の828分にバスは発車しました。



ツアーの添乗員はJR東海ツアーズの服部さん、ツアー同行は山田諭さん(以下「山田さん」)です。山田さんの同行は2016年「秋のツアー箱根」以来。8年ぶりです。当時は名古屋市美術館学芸課長。翌年、京都市美術館に異動。京都市美術館を退職後、現在は県内にお住まいなので同行を引き受けて下さいました。



往路:渋滞したものの、到着時刻はほぼ予定通り



 往路は名古屋都市高速道路、東名高速道路、中央自動車道を通過し、多治見ICから陶磁美術館に向かうという経路。早く着きすぎるため内津峠PA20分休憩したのですが、何と多治見IC2km前から渋滞。「陶磁美術館の開館時刻(午前10時)に間に合わないのでは」と、大いに焦りましたが、なんとか10時ギリギリに入館できました。運転手さんの話では「イオンモール土岐に向かう車が多いのが渋滞の主因」とのことです。



岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」10001100



陶芸美術館のバス停から陶芸美術館までは、シデコブシの群生地を跨ぐ橋とトンネルを歩きました。山田さんは「陶芸美術館は、アプローチが素晴らしい」と話していましたが、山田さんが言われたとおり、異郷に向かっている感じのアプローチです。トンネルを抜けると、眼前には美濃の山並みが広がっていました。



陶磁美術館は、地上3階・地下1階の複合施設セラミックパークMINO(以下「セラミックパーク」)の2階。セラミックパーク3階のエントランスホールからエスカレーターで降りると、陶磁美術館の岡田学芸員(以下「岡田さん」がお出迎え。「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)のギャラリートークが始まりました。岡田さんによれば、荒川豊蔵は抹茶茶碗のスーパースター、安土桃山期が黄金時代で、明治以降には廃れてしまった志野・瀬戸黒を復興した作陶家とのこと。本展では美濃焼の展示に加え、荒川豊蔵の絵(絵描きを目指しており、絵が上手だった)と人間的な全体像を紹介、との解説でした。



〇Ⅰ.プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵



最初の部屋は、荒川豊蔵の代表作を展示しています。岡田さんは、白い円筒状の《志野山の絵水指》や真っ黒で指跡の付いた《瀬戸黒茶垸(ちゃわん)》などの代表作を紹介し、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒で人間国宝(注:正式には「重要無形文化財技術保持者」)に指定された、と解説。また、灰色の地に白い鶴が描かれた《志野鶴絵茶垸》については「鉄釉を掛けてから、鶴の絵を掻き落とした鼠志野」と話されました。



なお、解説はありませんでしたが、茶釜型でピンク色の《志野山の絵水指》は可愛いやきものでした。



〇Ⅱ.東山窯と星岡窯 やきものに優美なのがあるのを知る



通路には、初期作品の展示がありました。岡田さんは「荒川豊蔵は絵が得意だったので、宮永東山窯(みやながとうざん)と北大路魯山人の下で磁器の絵付けもした」と解説。京都・深草の宮永東山窯や北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯(ほしがおかがま)で焼成した磁器を見ることが出来ました。



〇Ⅲ.荒川豊蔵の陶芸



次の部屋には荒川豊蔵が描いた大画面の《古志野発見端緒の図》《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》が展示されています。岡田さんは、その絵の前で「志野・瀬戸黒は、桃山期の作品は残っているものの、明治には作られていない。尾張の港から積み出されたので「瀬戸で制作」と思われていたが、昭和9年(1934)に大事件が起きる。荒川豊蔵が美濃・大萱(おおがや:現在の可児市大萱)で志野の陶片を発見し、志野は美濃で焼かれていたことが判明した。荒川豊蔵は志野の復活に取り組むが、手がかりは陶片だけなので、志野が焼成できるようになるまで数年を要した。荒川豊蔵の作品は、伝統の復活に作家の個性、創意も加えた芸術的なスタイル持っている。また、地元からは荒川豊蔵の後を追って多くの陶芸家が育った(補足:陶芸美術館は「人間国宝 加藤孝造 追悼展」(11/302025/03/16)「卒寿記念 人間国宝 鈴木蔵の志野展」(2025/03/2906/10)を開催予定)」と解説。



岡田さんは荒川豊蔵の作品を「オリジナル+クリエイティブ」と評しましたが、焼成中に裂けた《黄瀬戸破竹花入》は、まさに意表を突く作品です。「裂けた花入れでは水が漏れるのに、どうやって花を生けたのでしょうか」と山田さんに尋ねたら「竹筒を使う」との答え。竹籠を使って花を生ける時と同じ方法でした。



岡田さんに「織部が見当たりませんね」と尋ねたら、「織部は簡単だからやらない」との答え。「志野は水が漏れやすい、瀬戸黒は焼成中に窯から取り出して水で急冷させて黒色にする。ゆっくり冷やすと黒くならず茶色になってしまう。急冷するので割れることが多い。釉薬に異変がなくても中にヒビが入っていて、使用中に割れることもある。萩焼も焼きがあまくて水漏れしやすいが、水が滲みて器の表情が変わるのを『かせ』と呼んで珍重する。志野は薪を使う窯でないと焼成できないが、薪を使う窯以外で志野を焼成したのが鈴木蔵(おさむ)。彼は天才だよ」と、話が続きました。



〇Ⅳ.暮らしとともに 水月窯と大萱窯



岡田さんによれば、荒川豊蔵は戦後、一般向けのやきものを焼成するため、多治見市虎渓山町に連房式の新たな窯・水月窯(すいげつがま)を築く。可児市の大萱窯は薪を使う大窯で量産はできない。水月窯は量産が可能で、一般向けの磁器も焼成できた。一時休止したが孫弟子の水野繁樹さんが継いでいる、とのことでした。



水月窯の製品では、《染付扇面詩文山水画向付》や《梅花文汲出》が目を引きました(補足:汲出(くみだし)は和菓子を食べるときや来客時に茶托とセットで使う半球形の煎茶用茶器。湯呑は円筒形のものを指します)。



水月窯については次のURLをご覧ください。URL Home |
suigetugama
URL
suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp)



〇Ⅵ.交友 芸術家との共作、五窯歴遊



萩焼、信楽焼、丹波焼、肩津焼、備前焼の窯元を訪ねて焼成した作品を展示しています。岡田さんは「Ⅲ章の展示ですが、荒川豊蔵は萩焼の第10代三輪休雪(隠居後は、休和)備前焼の金重陶陽、陶芸家・実業家の川喜多半泥子の4人で“乾比根(からひね)会”を結成して交友を深めた。萩焼・備前焼とは焼成方法や作風が違うものの、“古典の復興“という共通点があったため、交友を深めた」と、解説がありました。



〇自由鑑賞1035-1100



 ギャラリートークの時間が30分近くになったため、Ⅵ章で岡田さんの解説は終了。参加者各人の自由鑑賞となりました。岡田さんが「Ⅲ章の展示」と話していたのでⅢ章に戻ると、《半泥子宛書簡(千歳山訪問の礼状》《師匠友誼図》を展示。《師匠友誼図》の解説には「三重県津市千歳山の川喜多半泥子宅で作陶連盟乾比根会を結成」と書かれていました。その後、陶芸美術館のギャラリーⅡで開催中の「美濃のラーメンどんぶり展
The Art of RAMEN Bowl」(内容は、下記URLのとおり)を見ていたら、1050分を過ぎたので駐車場のバス停まで駆け足で戻り、何とかバス発車の11時に間に合いました。「美濃のラーメンどんぶり展」のURLは、以下の通り。



URL: 岐阜県現代陶芸美術館 | 美濃のラーメンどんぶり展 The Art of
RAMEN Bowl



食事会場までの車内では11001200



 出発後、国道19号に入ると、反対車線は依然として渋滞。イオンモール土岐の集客力には驚きました。



 多治見ICから中央自動車道に入ると、山田さんのトークが始まりました。山田さんは、今夏に陶芸美術館で開催された「リサ・ラーソン展」を見たとのこと。陶芸美術館の岡田さんについては同年齢で、岡田さんが岐阜県立美術館の学芸員だった時「荒川修作研究会」を立ち上げ、月1回ペースで意見を交わした仲だったとのことです。「展覧会の名前は違うけれど、同じ“荒川”つながりで、旧交を温めることが出来た」と喜んでいました。



 ツアー参加者から「陶磁美術館では、もう少し自由鑑賞の時間が欲しかった」との声もありましたが、食事会場の予約時刻や移動時間を考慮すると、陶磁美術館の滞在時間は10001100がギリギリだったようです。



昼食:関ケ原ウォーランド・Sekigahara 花伊吹12001320



 「昼食会場までの所要時間は80分ほど」の予定でしたが、バスの運行が極めて順調だったため、予定時刻より20分早い1200に到着。「近江牛・飛騨牛食べ比べ」のすき焼きを楽しみました。すき焼きを食べ始めた時は、協力会しか居ませんでしたが、食べ始めると次々に団体客が入り、たちまち満席になりました。ツアーを企画したMさんの話では「食事会場の選択肢が、他に無い」とのことでした。



 予定より20分も早く昼食が始まりましたが、次の見学先・生活美術館の受け入れ態勢が整うのが1330なので、ツアー参加者は1320までSekigahara 花伊吹の売店での買い物などを楽しんで過ごしました。



◆生活美術館13301600



昼食会場から向かったのは生活美術館ではなく「関ケ原製作所」の駐車場です。バスが停車すると、生活美術館のスタッフが出迎えて下さいました。「関ケ原製作所って、何の会社?」という疑問や「何故、関ケ原製作所の駐車場に生活美術館のスタッフが?」という疑問を抱えたまま、徒歩で生活美術館に向かいました。



〇せきがはら人間村財団理事長のレクチャーと紹介ビデオ13401410



関ケ原製作所を出て国道365号を北に向い、関ケ原製作所の敷地北東の生活道路を西に進み、向かって左(道路の南)にある民家の切れ目を左に曲がると人間塾の建物が見え、その周囲がニイヅマガーデンでした。



ツアー参加者が案内されたのは、人間塾の2階。講義室のような部屋です。生活美術館の側はせきがはら人間村財団(以下「財団」)の福本武彦理事長(以下「理事長」)と「せきがはらゼネラルサービス」の山口さん、松原さんの3名が出席されました。理事長のレクチャーと紹介ビデオの内容によれば、生活美術館の母体は関ケ原製作所。関ケ原製作所の創業者は「矢橋(やばし)大理石株式会社」の創業者一族である矢橋五郎(やばしごろう)で、1946年に「関ケ原産業株式会社」の名称で日本国有鉄道向けの軌道用機器生産を開始したのが始まりで、現在は、油圧機器、商船機器、鉄道機器など7つの事業部門があるとのことです。



財団設立のきっかけは、3度の危機。1978年の石油ショック、1988年の円高不況、1996年のバブル崩壊です。二代目の社長矢橋昭三郎は「不況は仕方ないが、せめて明るく愉しい生活を送ろう」と、1988年にフランスの彫刻家ピエール・セーカリーに彫刻の制作を依頼。以来、2000年に平和の杜、2005年に人間塾、2018年に未来食堂、2021年にCafé Mirai 等、施設を充実させてきた、とのことです。



〇せきがはら人間村の散策14151600



・蔵ミュージアム



山口さんの先導でニイズマガーデンを抜けて「蔵ミュージアム」に向かいました。「蔵ミュージアム」は中で左右に分かれており、入口を入ると渡り廊下に近持イオリの彫刻《水の家》、向かって右の部屋は全体が若林奮のインスタレーション《胡桃の葉Ⅱ》。渡り廊下に戻り、次の部屋に入ると、若林奮の彫刻に加えて、スペインの彫刻家エドゥアルド・チリーダの彫刻と李禹煥の絵画。奥の部屋の床には大理石を彫った古郡弘の《Banco 盤古》。壁に取り付けられた250kgの重さの古郡弘《Ermafroid 両性具有》は向かって左が女性、右が男性とのこと。庭に出ると新妻実の彫刻《地平線》。素材はインド産御影石で「触ってもよい」とのことでした。



・生活美術館本館エリア



次に向かったのは「生活美術館本館エリア」。最初に目に入ったのは、庭に置かれた若林奮のブロンズ作品《自分の方へ向かう犬I》でした。生活美術館本館では「Homage to MINORU NIIZUMA」を開催中で、新妻実の彫刻の外、高松次郎、関根伸夫、若林奮、李禹煥の作品を展示でした。解説はありませんでしたが、何れも抽象美術なので、ツアー参加者は各人の感性に従って、作品を楽しんでいました。



 生活美術館本館を出ると、前面に観音開きのガラス製扉がある立方体の建物があります。名称は「地蔵堂」で、中には若林奮の彫刻《近い縁Ⅰ》が置かれています。丁度、矢橋昭三郎氏がツアー参加者の様子を見に来られたので、矢橋昭三郎氏を交えて「地蔵堂」の前で記念写真を撮影。最後、生活美術館本館エリアを出るところで見たピエール・セーカリー《Dragon family》は苔むし、草も生えています。設置以来の歳月を感じました。



・創業者邸



「生活美術館本館エリア」から少し歩き、細い道を横断するとcafe mirai と「創業者邸」があります。芝生の上にあったのは李禹煥《関係項-応答》。自然石と分厚い鉄板が向かい合っている作品で「石と鉄が対話しているので設置した」とのことです。石材会社と鉄鋼会社を興した創業者=八橋五郎の姿と作品が重なりますね。



・古戦場を歩き、平和の杜へ



創業者邸から南に道があります。向かって左は「せきがはら人間村」の敷地ですが、右は「島津義弘陣跡」と神明神社の杜があります。しばらく歩くと、世界平和を祈るモニュメント、ピエール・セーカリー《関ケ原》が現れました。鎧武者の頭部を思わせる彫刻が10個。通常は下から4個、3個、2個、1個の順で4段に積み上げるのでしょうが、4段目に彫刻は無く、1段目が5個となっています。ツアー参加者のHさんが「4段に積み上げると一番上の1個が全体を支配する姿になる。1番上の1個が無いのは、10個が協調して平和を守る形になるから、と聞いたことがあります」と話すと、山口さんから「その通りです」と、お誉めの言葉がありました。



 南に向かう道を更に進むと左右をススキに覆われ、まさに「一本道」になります。右側のススキの向こうには「関ケ原古戦場開戦地」と書かれた幟(のぼり)。赤い井筒(「井」の字)を染め抜いた井伊家の幟も見えました。



・散策のゴールへ



 一本道を左に曲がると「未来食堂」が見えてきます。せきがはら人間村の敷地に戻り、北へ向かうとピエール・セーカリーの彫刻《ムッシュライオン & マダムライオン》がお出迎え。芝生広場の向こうには、インド・ネパール・日本の彫刻家が制作した《アジアの苑》。そして、散策のゴールは李禹煥《関係項-アーチ・関ケ原》。自家用車で来ると《関係項-アーチ・関ケ原》が入口になるようです。なので、芝生広場に向かって、《関係項-アーチ・関ケ原》を背に、記念写真を撮影しました。山田さんからは《関係項-アーチ・関ケ原》について「鉄のテンションを石が受け止めている形。石と鉄は押し合っている」との解説がありました。



なお、せきがはら人間村関係のURLは次のとおりです。URL: 人間村について|せきがはら人間村



名古屋駅までの車内では16001710



 予定では1530の出発でしたが、ツール参加者が熱心に鑑賞するので山口さんのテンションも上がり、予定時刻を30分オーバー。でも、楽しく過ごせたのでOK。山田さんもトークで「スタッフが楽しんで案内しているのが素晴らしかった。」と絶賛していました。山田さんは、年明け後に見るべき展覧会として、豊橋市美術博物館の「生誕100
中村正義展」(2.223.30)を挙げていました。協力会のミニツアーで行けると良いですね。



 帰路は、関ケ原ICから名神高速道、小牧ICで名古屋都市高速道路に入り、黒川出口から一般道という経路。行楽帰りの車両の影響で速度が少し落ちましたが、名古屋駅太閤通口着は1710。発車時の30分遅れを20分縮めました。



最後に



天候に恵まれ、事故もなく、バスの車内では山田さんのトークを8年ぶりに聴くことが出来ました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバーさま、参加された皆さま、ありがとうございました。



Ron.



春のツアー2023 長野・軽井沢(後編)

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◆軽井沢千住博美術館『チキュウ・ウチュウノキセキ』

〇出発まで

 宿泊したコテージは中央に大きなテーブルがあったので、夜遅くまでカードゲームやおしゃべりを楽しむことができました。翌朝5:30にコテージから出て、スマホを見ると軽井沢の気温は15度。耳を澄ますと、薄い朝靄に包まれた青紅葉やメタセコイヤの間から、微かですが小鳥のさえずりが聞こえます。リゾート地に居ることを実感しました。ぶらぶら歩きをすると、テニスコートや結婚式場、ゴルフ場に囲まれていることがわかります。1時間ほど歩いて「これは道に迷ったかな?」と思った瞬間、同じコテージに泊まったツアー参加者から声をかけられ、一緒に朝食会場へと向かいました。ラッキーでしたね。朝食の開始は7:00。たっぷり1時間かけて朝食を済ませ、コテージに戻って荷物をまとめ、指定場所に再集合。バスは予定通り9:15に発車しました。

〇深谷さんの事前レク

深谷さんによれば、軽井沢千住博美術館の開館は2011年。建物を設計したのは金沢21世紀美術館を手掛けた西沢立衛(にしざわ りゅうえ)。樹々に囲まれるだけではなく、総ガラス張りの建物には4カ所のガラス張りの吹き抜けがあり、その中にも樹木があります。床は土地の起伏のままで、緩やかに傾斜しているとのことでした。

〇自由鑑賞

美術館には発車10分後には到着していましたが、開館時刻は9:30。開館時刻まで待機となりました。ツアー参加者以外で待機している人々の多くは外国人。うち半数はアジア系です。「ここは、観光スポットなのだ」と思いました。添乗員の石井さんから「20分おきに約7分間の映像作品が上映される」という情報が入り、ツアー参加者は「The Fall room」へ向かいました。そのため、定員20名の部屋はツアー参加者だけで満席(ただし、立ち見も可)となりました。「その後、10:00からの上映も見た」という参加者が多数いました。その他の展示は「waterfall」シリーズから始まり、初期のビルを描いたものから、Flatwaterシリーズや絵本「星降る夜に」の原画、浅間山を描いた2023年の作品まであります。

軽井沢千住博美術館前にて

入場券を見せれば「再入場可」なので、周辺の散策もできました。駐車場の横にはミュージアムショップとベーカリーカフェ浅野屋があるので、お土産を買い込んでいる参加者が多数いましたね。

◆軽井沢安東美術館『藤田嗣治 エコール・ド・パリの時代』

〇深谷さんの事前レク

深谷さんによれば、軽井沢安東美術館(以下「安東美術館」)は、投資ファンドの経営者である安東泰志氏(以下「安東氏」)の個人コレクションを展示する「藤田嗣治だけの美術館」として2022年10月に開館した美術館、とのこと。安藤氏は、安東美術館を開館する前は自宅の壁に多数の藤田作品を飾っており、安東美術館を開館するにあたっても「自宅のような美術館」をコンセプトにしており、作品は制作年代順にならべられ、展示室ごとに壁の色が違っているとのことでした。深谷さんは安東美術館の開館レセプションに招かれたそうで、来賓は小池百合子東京都知事を始め、長野県知事、文化庁長官など、錚々たる顔ぶれだったとのことです。

〇自由鑑賞

安東美術館は、前日に見学した軽井沢ニューミュージアムの少し東に建っていました。安東美術館に駐車場は無いので、バスは町営駐車場に駐車。北に向かって歩くと道路を隔てて西に軽井沢大賀ホール(注)がありました。

(注)ソニー名誉会長で声楽家でもある大賀典雄が寄贈した16億円の資金等によって建設され、2005年4月29日に開館。詳細は、軽井沢大賀ホール – Wikipediaを検索してください。

軽井沢安東美術館前にて

安東美術館に着くと、館長の水野昌美さん(以下「水野さん」)がツアー参加者を出迎えてくださっただけでなく、館内を案内してくださいました。これも、深谷さんが同行して下さったおかげです。展示は2階の展示室2(壁は濃緑)「渡仏―スタイルの模索から乳白色の下地へ」から始まります。《二人の少女》(1918)は、安東美術館の入口でもらったチラシの表(おもて)面に使われている作品。深谷さんによれば「向かって右の少女は、モディリアーニ《おさげ髪の少女》(1918)と共通点がある」とのことでした。《壺を持つ女性》(1920)を見て、「ピカソの作品の影響があるかも」と指摘する参加者もいました。1920年代初期の藤田嗣治はモディリアーニやピカソとの交流があったので、影響も受けたのでしょうね。《カーニュ、シェロンへの手紙》(1918)について、水野さんは「画面左で洗濯物を干しているのは妻のフェルナンド、部屋の中で絵を描いているのが藤田嗣治。画面右で脚を投げ出しているのはモディリアーニ」と解説してくださいました。当時の写真も多数展示されており、「藤田嗣治と写真をテーマにした展覧会を計画中」という話も聞こえてきました。

展示室3(壁は黄色)のテーマは「旅する画家―中南米、日本、ニューヨーク」。《メキシコの男》(1933)は、中南米を旅しているときの作品。また、水野さんは《犬と遊ぶ子どもたち》(1924)について「絹本に描いていますが、使っているのは油絵具」と解説。日本画のような雰囲気がありました。リトグラフの《夢》(1957)を見て、「この作品、どこかで見たことがある」とツアー参加者が思わず声を出すと、深谷さんが「名古屋市美術館の所蔵作品を版画にしたのですから、似ているのは当然です」とフォロー。

ギャラリートークの様子

展示室4(壁は濃紺)のテーマは「ふたたびパリへ―信仰への道」。細長い部屋の突き当りに《金地の聖母》(1960)がありました。金地の背景に描かれた十字と円を組合せた装飾模様は、日本の紋所を想起させました。1952年制作のガラス絵《除悪魔 精進行》からは、藤田嗣治の叫びが聞こえてくるようです。

展示室5(壁は臙脂)のテーマは「少女と猫の世界」。水野さんによれば「他の展示室との違いはキャプションもスポットライトも無いこと。その理由は、安東家のリビングを再現した部屋というコンセプトに従ったため」とのことでした。安東美術館から撮影許可が出たので《猫の教室》(1949)の前でツアーの記念写真を撮影しました。

展示室にて

最後は、「特別展示室」と「屋根裏展示室」。特別展示室では、オッフェンバックの詩集のための挿絵『エロスの愉しみ』よりを展示。屋根裏展示室では藤田嗣治が1930年に制作したテーブルなどを展示しており、寄木細工のテーブルに描かれた封筒やペン、トランプなどは、絵具で描いたのではなく、木を薄く削って貼り付けたものでした。藤田嗣治は手先が器用で、職人としても一流だったのだな、と感心した次第です。

展示風景

〇安東美術館からのサービスとプレゼント

安東美術館の入場券に印刷されたQRコードを1階の「Salon Le Damier」の入口にある機械にかざすと、フリードリンクが飲めます。飲み物は、紅茶、コーヒー、チョコレートドリンクの3種でした。

安東美術館の見学が終わった時、ツアー参加者全員に「猫のシール」のサプライズ・プレゼントがありました。水野さん、お気遣い、ありがとうございました。

◆昼食

昼食の会場は、北佐久郡軽井沢町長倉のホテル「そよかぜ」に併設の「ビストロプロヴァンス軽井沢」。安東美術館からは西に向かってバスで30分ほどの距離。山道に入ると、ヘルメットをかぶって自転車で山道を登る人の姿を多く見かけました。「傾斜が急な山道を自転車で登るのは並みの筋肉では無理」と思いましたが、ツアー参加者のMさんは「筋肉は貯金できない。一度自転車で山登りをする快感を味わうと、走る習慣を止めることはできないの」と解説してくれました。料理は、フレンチ。たっぷり1時間かけて腹ごしらえが出来ました。

◆復路でも中央道リニューアル工事の影響を受け、予定を1時間ほど超過

中央道リニューアル工事に伴う渋滞はありましたが、ツアー参加者は全員無事に帰還できました。ツアーを企画したMさん、同行の深谷さん、道中適切に状況を判断して、最小限の遅れにとどめてくださった、添乗員さんと運転手さん始め、今回のツアーに参加された皆さま方全員に感謝します。ありがとうございました。

最後になりますが、ツアー終了の翌日から、台風の影響で雨が続いています。晴れ女・晴れ男が誰だったのか、私には分かりませんが「我こそは、晴れ女・晴れ男だ」と思っている皆様方、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

Ron.

春のツアー2023 長野・軽井沢(前編)

カテゴリ:アートツアー 投稿者:members

実に6年ぶりに一泊の美術館見学ツアーが開催されたので、その概要を報告します。前回の一泊ツアーの目的地は九州(太宰府・佐賀・福岡)でしたが、今回は長野・軽井沢です。

目的地が遠いので、集合は午前7時30分。集合場所の「JR名古屋駅西側 太閤通口広場(旧:ゆりの噴水前)」(噴水撤去により、2023年2月から名称変更)は、待ち合わせの団体客で大混雑。コロナ禍前よりも人出が多い感じです。

◆往路中央道のリニューアル工事の影響で目的地到着は35分遅れ

 名古屋駅を出発後、最初の休憩・恵那峡SA(岐阜県恵那市)までは極めて順調でしたが、次の梓川SA(長野県安曇野市)に到着するまでに2回の渋滞(中津川IC~飯田山本IC間と岡谷IC~岡谷JCT間)に遭遇し、食事会場の宿坊(長野市)に到着した時は、予定を35分超過の12時35分でした。

〇沈みがちな気持ちを吹き飛ばした車窓の「残雪」

ようやく渋滞を脱した時には予定時間の大幅超過は確定的で、車内の空気は沈んでいました。ところが、車窓から山の頂に白いものが見えると、車内に活気が出ました。「あれは残雪だ」という声が上がる一方「5月末まで雪が残っているの?」という声もあります。「あれは、北アルプスの乗鞍。山岳部の時によく登ったよ」という声で、「白いものが残雪」と分かった瞬間に沈む空気は吹き飛んでしまいました。安曇野を走っているとういうだけで、ウキウキしましたね。まだ、山をひとつ越えなければなりませんが、「姥捨」「川中島」という文字を見ると、「もうすぐ善光寺だ」という気持ちになり、渋滞を抜けるまでの嫌な思い出は消えていました。

◆昼食:信州善光寺 兄部坊(このこんぼう)の精進料理

昼食は、善光寺の宿坊・兄部坊(このこんぼう)の精進料理でした。二階の広間に案内されると二つ重ねの御膳の上に、料理が並んでいます。広間は畳敷きですが椅子が置かれているので、楽に座れます。御膳の料理は「生姜ご飯と信州みその味噌汁、手打ちそば、丸茄子の西京焼き、うなぎ湯葉、ゴマ豆腐、ジャガイモの酢の物、牛蒡と昆布の佃煮、香の物、デザート」と紹介されました。法要以外で精進料理を食べる機会はあまりないので、ツアー参加者は、料理をひとつひとつ眺め、味を楽しみながら完食。うなぎ湯葉は湯葉と海苔でうなぎの蒲焼のように見せたもので、生姜ご飯には生姜と油揚げが入っています。生姜ご飯がおいしかったので、お代わりをしてしまいました。

◆長野県立美術館

〇深谷さんの事前レク

今回は、名古屋市美術館の深谷克典参与(以下「深谷さん」)が休日を利用して「個人の立場」でツアーに同行してくださいました。バスが出発し、高速道路を走行するようになったところで、深谷さんによる長野県立美術館の事前レクが始まりました。深谷さんによれば、長野県立美術館の前身は「長野県信濃美術館」。1966年に開館し、1990年には谷口吉生の設計による「東山魁夷館」を併設。その後、施設の老朽化などのため2017年に休館。本館改築、東山魁夷館改修後の2021年4月に「長野県立美術館」としてリニューアルオープン。改築後の本館を設計したのは宮崎浩だが、谷口吉生が設計した東山魁夷館と調和するものになっている。長野県立美術館に行ったら、建物の美しさを見て欲しい、とのことでした。

深谷さんは谷口吉生設計の「豊田市美術館」が一番好きな美術館だったが、同じく谷口吉生の設計による「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」(1991年開館)を見た後は、「こっちの方が一番」に変わったそうです。また、1時間の鑑賞時間では「生誕150年 池上秀畝」まで見るのは難しいかもしれないけれど、東山魁夷館はぜひ見ておく価値がある」とのアドバイスもありました。

〇自由鑑賞

昼食会場・兄部坊からの移動は徒歩。兄部坊を出て右折、参道を進んで山門をくぐり、右折して前進すると、目の前に長野県立美術館の建物が見えてきました。本館と東山魁夷館は、通路で繋がっています。「間もなく霧の彫刻が始まる」というので、参加者一同、本館と東山魁夷館を繋ぐ通路の下にある池の周りや、連絡通路の中で「霧の彫刻」の開始を待っていると、池の周囲から細かな霧(ミスト)が噴出します。風に吹かれ様々に形を変えるミストと周りの風景や観客の姿が融け合う「その時限りの情景」を、暫しの間楽しむことができました。

中谷芙二子 《霧の彫刻 #47610》

東山魁夷館は二階建て。連作「白い馬の見える風景」の起点となった代表作《緑響く》(1982)等のヨーロッパの風景や、唐招提寺御影堂障壁画の準備作や京都・奈良の風景などが展示されていました。

本館で信州出身の作家の作品を見ていたら、深谷さんの「屋上広場『風テラス』を見逃さないように」というアドバイスが伝わり、急いで3階に移動しました。3階のカフェから屋上広場に出ると、西に善光寺の屋根が見え、実に良い眺めです。屋上広場に集まったツアー参加者は、北西の方角を指して「戸隠山は、天の岩戸を隠したという伝説があるけれど、隠すような場所はあるの? どうやって運んだの?」と、話していました。話し合ったところで埒が開かないので、スマホで調べることとなり、「戸隠神社の歴史」に「弟のあまりの乱行に天照大神は、岩戸にお隠れになり、世の中は真っ暗になり、大混乱になりました。(略)歌や踊りの賑わいを不思議に思い天照大神が少し戸をお開きしたところで、手力雄命(たぢからおのみこと)が岩戸を押し開き、大神をお迎えしました。その岩戸が下界に落ちて戸隠山になったという伝説もあります」という記述を見つけました。つまり、高天原から岩戸が落ちて戸隠山になった、と言うことのようです。

以上の時点で「残り10分」。「生誕150年 池上秀畝」は駆け足で見てまわることになりました。わずかな時間でしたが、長野県出身で、鋭い観察眼と描写力で、とても細かい所まで精緻に描いた画家だったということは理解できました。詳細は、生誕150年池上秀畝 高精細画人 | 展覧会 | 長野県立美術館 (art.museum) を検索してください。

◆長野から軽井沢まで

昔、鉄道で長野から清里まで行ったことはありますが、軽井沢は初めて。高速道路を使っても2時間近くかかる行程でした。車窓からは山に挟まれた盆地(上田盆地、佐久盆地)が続きます。軽井沢に近付くと、上部が吹き飛んで平らになった、とても大きな山が見えます。調べると「浅間山」でした。Wikipediaには「十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳などの3つの火山体とあわせて、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される」と書いてありました。同じくWikipediaによれば、有名なのは「1783年8月5日(天明3年7月8日) 天明大噴火 」とのことです。バスからは「鬼押出し」という文字も見えます。「鬼押出し」は、浅間山の北に広がる溶岩流のことを指すようです。

◆軽井沢ニューアートミュージアム

〇深谷さんの事前レク

深谷さんが長野から軽井沢に向かうバスの中で話された内容によれば、2012年4月に開館。1階は無料エリア、2階は有料エリア。オーナーの白石さんは画廊を経営。アジアに5つのギャラリーを持ち、作家の紹介に力を入れているとのことでした。

ミュージアム外観

〇自由鑑賞

美術館は軽井沢駅から北に延びる通りの東側に建つ、真っ白な柱と全面ガラスの壁で構成された2階建てのおしゃれな建物でした。エントランス正面の階段を上って左側の部屋が第1展示室、テーマは「地球」。入口から見て右側と左側の壁に映像作品(上映時間は、いずれも10分)が投影されています。どちらも夕方の空で、右が東の空、作品名は《地球影:earth shadow》(2024)。左が西の空で《トワイライト:Twilight》(2024)。作家はどちらも萩原睦です。いずれの作品も方角は美術館が建っている所の方角と一致。美術館学芸員の石川さんの解説によれば、《地球影》の地平線付近の空の紫色は沈みゆく太陽の光を地球が遮った影、とのこと。山や建物に遮られることなく、地平線が見通せる場所でないと観察できないようですが、初めて知りました。NASAの衛星写真を利用した地球儀や段ボール製のドーム模型なども展示していました。

ギャラリートークの様子

第2展示室のテーマは「風景」。自然を描いた風景画を展示生態ました。第1展示室に戻ってから廊下を挟んだ向こう側が第3展示室で、テーマは「山水(もう一つの風景)。日本画や盆石などを展示しています。第4展示室のテーマは「環境(ランドアート)」。1976年から78年にかけてクリスト&ジャンヌ=クロードが、地元の反対派と交渉しながら陸地から海までの広い土地に数多くの柱を立てて、布を張るというインスタレーションを完成するまでを記録した57分の映像《THE RUNNING FENCE》(1976-78)を始め、自然や環境を表現する作品を展示。次の第5展示室で目を引くのは中西夏之《G/Z to May Ⅳ》(1992)。「新美の巨人たち」で紹介された、座面がプラスチック製の「イームズチェア」なども展示。最後の第6展示室では、AIを使って動くシーラカンスを再現したデイジーの《ancient aquarium》(2019)を上映。美術館のスタッフからは「AIが自動的に新しい動画を作るため、同じ動画が繰り返されることは無い」との解説がありました。

入口に佇む《ボブロ》ロナルド・ヴェンチューラ、2018年、317.5×165.1×137.2cm
1Fサロン「田中一平展」の展示風景

Ron.

名古屋市美術館協力会  秋のツアー2023 大阪

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 2023.12.10開催 

今回参加したのは、2019(令和元)年12月1日以来、4年ぶりのツアーです。前回は奈良が目的地で4カ所を見学、今回は大阪が目的地で2カ所を見学。集合場所は2019年と同じ名古屋駅噴水前でしたが、何と、噴水がありません。リニア中央新幹線開業に向けた名古屋駅工事の関連で撤去されていました。4年という歳月の長さを感じます。これからの集合場所は「銀時計前」に変更ですね。なお、今回の参加者は32名。集合時刻の午前7時45分よりも前に全員が集合したので午前7時50分(予定の10分前)にバスは発車しました。

◆往路:渋滞知らずの新ルート

 従来、関西方面のツアーでは往路・復路とも渋滞がつきものでしたが、2019(平成31)年3月に新名神高速道路の新四日市JCT~亀山西JCTが開通した後は渋滞知らず。新名神高速道路を走るバスの車窓からは、鈴鹿山脈が間近に見えました。草津PAで休憩、瀬田東JCTから京滋バイパス経由で南に向かい、東大阪JCTから大阪都市高速、森之宮ICから一般道に入ってバスは藤田美術館へ向かい、車窓からは大阪城がくっきり見えました。

◆平成26(2014)年以来、9年ぶりの藤田美術館(10:30~12:30)

〇到着時にアナウンスされた注意事項

藤田美術館には午前10時30分(予定の40分前)に到着。添乗員の石井さん(以下「石井さん」)が入場手続きを済ませると、藤田美術館から次の5点についてアナウンスがありました。

①午前11時から予約不要のギャラリートークが始まるので、希望される方は展示室内でお待ちください、②展示品の解説パネルはありませんが、スマホで展示室入口のQRコードを読み取ると、展示品の解説を音声と文字で提供するアプリをインストールできます(注:実は、バス乗車時に渡された資料にQRコードがありました)、③エントランスのお茶室「あみじま茶屋」で、お茶と団子のセットを有料で提供しています、④展示室を出るとお庭(注:大阪市の「旧藤田邸庭園」)を見学できます、⑤展示室に再入場する時は「協力会ツアー参加者」とお告げください。

アナウンスは以上で終わり。石井さんが「12時30分に集合してください」と告げると、参加者はそれぞれの目的地=お茶屋・展示室・お庭を目指して行動を開始しました。

〇リニューアルした藤田美術館

私にとって、協力会のツアーで藤田美術館を訪れるのは、今回が2度目です。前回は2014年。当時の展示室は旧藤田邸の土蔵でした。藤田美術館は2017年に一時休館し、2022年にリニューアル・オープン。今回は、ガラス張りの白い建物が迎えてくれました。以前は冷暖房が無く「春・秋のみの開館」でしたが、リニューアル後は「年末年始を除き無休」。以前の建物の名残もあります。私が気付いたのは、展示室の入口・出口の、再利用された土蔵の鉄扉と土蔵の梁を再利用したエントランスの長椅子でした。すっかり様変わりしていましたね。

なお、リニューアルの詳細は、次のURLをご覧ください。 URL: https://webtaiyo.com/pickup/4615/

〇ギャラリートークの概要

今回、鑑賞した展示テーマは「妖」「護」「山」の三つ。学芸員さんの説明によると、展示室は可動壁で4つに仕切られ、毎月、各室が順番に展示替えをします。各室とも4カ月目に壁を閉じ、次回展示の準備に入ります。つまり「いつ来館しても、3つテーマの展示を鑑賞できる」とのことでした。

「妖」

 最初の解説は長澤蘆雪の三幅対。左幅は「白蔵主」(狐が化けた僧侶)中央が「幽霊」右幅「髑髏仔犬」(狐が化けていることを見破った仔犬と狐に喰われた白蔵主の髑髏)とのことでした。次は、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)の《吉原通図(よしわらかよいず)》。絵巻最後の場面、同衾する男女の横に置かれた屏風に書かれた「鳥文斎栄之」の署名は作者の「隠し落款」との解説でした。三つ目は、菱川師宣の《大江山酒呑童子絵巻 下巻》。斬られた鬼の傷口から飛び散る血しぶきの描写は凄惨でした。四つ目は、《小野小町坐像》。謡曲『卒塔婆小町』に取材した作品なので、老いさらばえ、ぼろを纏った姿の小町にびっくり。最後は、船遊びの様子を描いた岡田半江(おかだはんこう)の《網島船遊画巻(あみじませんゆうがかん)》でした。

「護」

 展示品は、仏像、仏画及び仏具。最初は《四天王像》。東に《持国天》南に《増長天》西に《広目天》北に《多聞天》と、四方に仏像が並んでいます。学芸員さんは「鎌倉時代の作で《増長天》《広目天》は静、《持国天》《多聞天》は動。四天王が踏み付けている邪鬼の目は玉眼」と解説。よく見ると、邪鬼が可愛らしい存在に見えます。高野山に伝わった、鎌倉時代の金メッキの密教仏具のセットも、目を引きました。

「山」

 展示品は、山に関するもの。最初は、小川破笠(おがわはりつ)《仲麻呂観月掛板》。山は描かれていませんが「上に描かれた月の凸凹は金属の腐食によるもの、下に描かれた王維と阿倍仲麻呂が月を見ている姿。主題は『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも』の歌」との解説がありました。《竹鶴蒔絵茶箱》も面白い展示品です。茶碗・茶入れ・茶杓・茶筅などをコンパクトに納める携帯用の箱です。「どのような組み合わせにするか考えるのが楽しみ」との解説でした。ギャラリートークの解説はありませんでしたが、大きく歪んだ明時代の鉢《祥瑞山水人物反鉢》は、白地に鮮やかな藍色の山水と人物が描かれた美しい磁器でした。なお、藤田美術館のホームページのURLはつぎのとおりです。

藤田美術館 | FUJITA MUSEUM藤田美術館 | FUJITA MUSEUM (fujita-museum.or.jp)

〇お庭(旧藤田邸庭園)

 前回は見学時間が短く、お庭を鑑賞する余裕はありませんでしたが、今回は見学時間は長かったのでお庭を鑑賞することが出来ました。展示室を抜けて、しばらく歩くと庭への出口があります。庭に出ると最初に見えるのが、高野山・高臺院から移築した塔で、その横を進むと、広場と散策路が広がります。大阪市の公園なので、道路から庭園に入ることもできるようです。当日は、秋を思わせる爽やかな天候だったので、藤田美術館来場者以外の人たちも公園を歩いていました。庭を散策して、晴れ晴れした気持ちになりました。藤田美術館のリニューアルにあわせて、茶室も新築されたそうです。なお、大阪市のホームページに掲載の旧藤田邸庭園のURLは、次のとおりです。 大阪市:旧藤田邸庭園 (…>大阪市指定文化財>大阪市指定文化財(指定年度別)) (osaka.lg.jp)

〇あみじま茶屋

 お庭の後の楽しみは、団子とお茶。2個を串刺した団子2本(餡と醤油)と、お茶は抹茶・番茶・煎茶の中から選べます。お値段は1セット500円。朝が早くて空腹だったので、有難かったですね。

◆昼食はホテルの12階、眼下に大阪城(12:55~13:30)

昼食会場は大阪城の南、KKDホテル大阪の12階聚楽園。眼下に大阪城を見ながら和食に舌鼓。ホテルの入口に置いてあった「大阪城天守閣」のパンフレットは「昭和の天守閣復興」と題して、次の文章を掲載しています。〈明治以降、大阪城は陸軍用地として使われた。その中にあって昭和6(1931)年、市民の熱意によって現在の天守閣が復興され(注1)、平成9(1997)年には国の登録有形文化財となった。大阪城一帯は第二次世界大戦の空襲によって損害をこうむったが(注2)、戦後は史跡公園として整備された。〉

注1:市民からの寄附金は150万円。天守閣建設に47万円、第4師団司令部(現:ミライザ大阪城)建設に80万円 、本丸・二の丸の公園整備に23万円を使ったとのことです。出典:大坂城 – Wikipedia

注2:空襲で壊滅した大阪砲兵工廠跡では、昭和30(1955)年から昭和34(1959)年にかけて工廠跡に埋もれた金属を狙う窃盗団と守衛・警察との攻防が起き、この事件をテーマに、開高健の小説『日本三文オペラ』(1959)、小松左京のSF小説『日本アパッチ族』(1964)、梁石日の小説『夜を賭けて』(1994)が書かれました。出典:大阪砲兵工廠 – Wikipedia

◆大阪中之島美術館の「テート美術館展」(14:00~15:20)

最後は大阪中之島美術館。5階で開催中の「テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ」(以下「本展」)を鑑賞しました。学芸員による解説は無いので、入場後は自由行動でした。

最初の展示は、アニッシュ・カプーア《イシーの光》(2003)。卵の殻の上下を取り外し、内側を鏡のようにした形状のオブジェで、前を通る人の像が凹面鏡の作用で逆さに写るのですが、作品に近づけないので鏡の効果がよく分かりません。「もう少し近づけたらよかったのに」と、残念がる参加者が多数いました。

本展の目玉はターナーですが、油絵は抽象画のように見えました。同行した清家さんは「講義のための図解」シリーズの透明な球における反射を描いた作品が面白かったと、感想を語っていました。

個人的には、本展チラシの表紙に使われているジョン・ブレッド《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》(1871)が、渥美半島の表浜から見る波が穏やかな時の太平洋のようで印象的でした。

 本展に展示された現代アートは楽しめるものが多く、参加者はオラファー・エリアソンの《黄色vs紫》(2003)《星くずの素粒子》(2014)、ジェームズ・タレル《レイマー・ブルー》(1969)などを楽しんでいました。

 URLは、次のとおり。テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ | 大阪中之島美術館 (nakka-art.jp)

◆最後に

藤田美術館で《窯変天目茶碗》を見ることは出来なかったものの、展示品はどれも見ごたえがあり、お庭の散策やあみじま茶屋で団子と抹茶を楽しめました。昼食で見た大阪城は「もうひとつの見学先」という存在。大阪中之島美術館は、「行って来ただけでも儲けもの」です。

天候に恵まれ、帰りの車中では清家さんのトークを聴くことも出来ました。往路・復路とも渋滞知らずで、名古屋着は予定よりも20分早い、18時20分。4年ぶりの開催で不安がありましたが、満足できるツアーとなりました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバーさま、参加された皆さま、ありがとうございました。

Ron.

名古屋市美術館協力会  秋の旅行2019 奈良

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 今年の秋の旅行は「日帰り」。目的地は奈良県。奈良市の大和文華館(やまとぶんかかん)と桜井市の喜多美術館(きたびじゅつかん)、聖林寺(しょうりんじ)、安倍文珠院(あべもんじゅいん)の4か所を見学しました。開催日の12月1日(日)は幸運にも、快晴で厳しい寒さもない絶好の旅行日和。紅葉が遅れたため、そのピークと重なり、集合場所の名古屋駅噴水前(銀時計の西)はバスツアーの客でごった返していました。ツアー参加者は、募集人員の30名を大幅に超えて48名。乗車定員いっぱいの参加者を乗せた大型バスは、予定通り午前8時に発車。「マニアックなツアー」(添乗員さんのお言葉)が始まりました。

◆大和文華館:「特別展 国宝彦根屏風と国宝松浦屏風 ―遊宴と雅会の美―」。

 今年3月に新名神高速道路の新四日市JCT~亀山西JCTが開通したおかげで、バスは渋滞に逢うこともなく快走。予定時刻の5分前に大和文華館の駐車場に到着しました。庭園の寒椿やサザンカの花、紅葉した木々などを眺めながら、しばらく歩き、玄関前で記念撮影。その後、ロビーで展覧会についての簡単なレクチャーを受けました。

 レクチャーの概要は、彦根屏風と松浦屏風は華麗に着飾った人々が遊びを楽しむ様子を描いた「遊楽図」の傑作で、遊楽図は16世紀後から描かれるようになったもの。初めは野外の遊びを描いたものだったが、1620年ごろから部屋の中や庭を描くようになり、なかでも人物だけをクローズアップしたのが彦根屏風と松浦屏風。彦根屏風は繊細な描写が特徴で、松浦屏風は大きなサイズ(注:高さ155.6cm)と描かれた衣装が布地を貼り付けたように平面的に描かれていることが特徴。どちらも「ニックネーム」で、彦根屏風は彦根藩・井伊家の所有であったことから、松浦屏風は平戸藩・松浦家の所有であったことから着いた名前。遊楽図は浮世絵のルーツであり、江戸後期には遊楽図のリバイバルがあった、というものでした。

 展示は狩野孝信《北野社頭遊楽図屏風》から始まります。画面の右には朝顔などを描いた金屏風を背に弁当や酒に舌鼓をうったり、扇を手に舞い踊る人々の様子が、中央には幕を張り巡らせたなかで鯛をさばいたり、椀を運んだりしている裏方の姿が、左にはお堂の前で大勢の人々が舞い踊る姿が描かれています。

 目を惹いたのが《輪舞図屏風》でした。大勢のひとが輪になって、手をつないでいます。手をつないでフォークダンスを踊ろうとしているわけではないのでしょうが、思わずクスッと笑ってしまいました。

 彦根屏風は教科書などで見たことがありますが、思ったよりも小ぶり(94cm×271cm)で、描線の細さにびっくりしました。江戸後期の作品には彦根屏風をお手本にしたものが多く、彦根屏風の影響力を強く感じました。松浦屏風では、着物の柄を楽しむことができました。

 展示室はひとつだけで出品数も多くはないのですが、あっという間に集合時刻となってしまいました。

◆大和路を南へ

 昼食会場は奈良パークホテル。48人の団体が入ると貸し切り状態で、壮観でした。昼食後は、三笠山向かって東進。しばらく行くと、左に復元された遣唐使船と朱雀門が見えます。奈良市役所の前を過ぎ、JR奈良線・大和路線の高架をくぐり、近鉄奈良駅を過ぎると奈良公園です。奈良公園の鹿を見ていると、登大路園地(のぼりおおじえんち)の交差点で右折して南進。名古屋から来たと思われる観光バスと何度もすれ違います。バスガイドさんによれば、観光バスの目的地は奈良公園とのことでした。

天理市を過ぎると「三輪そうめん」の看板・のぼりが目立つようになります。右手に大きな鳥居が見えたらガイドさんが「大神神社(おおみわじんじゃ)です。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。三輪山がご神体です」という説明してくれました。家に帰って調べると「三輪山は、標高(467m)に比して勾配がきつく体調不良を起こす事例が多いので、登拝にあたっては装備や体調管理には充分ご注意ください」という大神神社の注意書きがありました。

大神神社を過ぎたので「いよいよ喜多美術館に到着か」と思いましたが、バスは更に南進。運転手さんによれば「喜多美術館周辺は道幅が細く大型バスが走行できないので、遠回りするしかない」とのことでした。やっとのことで、大型バス用の駐車場に到着しましたが、駐車しているのはダンプカーばかり。「本当に美術館があるの?」と、不安になってきました。

◆喜多美術館

 駐車場近くに小さな看板があり、「鳥居を抜けて進んでください」と書いてあります。鳥居を抜け、車一台がやっと通れる幅の道を上っていくと前方に二つ目の鳥居。右には白い建物が見えます。「あれが喜多美術館だろう」と見当をつけて歩いていくと、そのとおりでした。

 喜多美術館では「当館は、創設者の喜多才治郎氏が収集した西洋近・現代美術のコレクションを展示している。本館南西の新館では阪上眞澄展を開催。現代美術は必ずしも視覚をよろこばせるものではない。感じ取ることが大切。疑問に思ったことがあれば、自分で答えを出してください」とレクチャーを受けました。

 展示室が狭く48人がまとまって動くことは難しいので、3班に分かれて鑑賞。阪上眞澄さんは書道の人で、キャンバスに墨や岩絵の具で描いた作品を展示していました。コレクションは、展示室1~3と図書室・研究室の4か所に展示。展示室3は「デュシャンとボイスの部屋」で、マルセル・デュシャンとヨーゼフ・ボイスのほかベッヒャーの写真などを展示していました。

 家に帰って調べると、我々が上ってきた道は天理市から桜井市を結ぶ全長約16km「山の辺の道」の一部。二つ目の鳥居を抜けて進むと第10代崇神(すじん)天皇の「磯城瑞籬宮跡伝承地(しきみずがきのみやあとでんしょうち)」があるようです。(桜井市のHP解説より。URLは下記のとおり) https://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/rekishi/chiku/yamanobemakimukai/1396000677273.html

◆聖林寺

 喜多美術館を出発して15分ほどで聖林寺の駐車場に到着。坂道と石段を上がったところが聖林寺。秋の旅行最大の難所です。石段を登りきると北に、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(はしはかこふん=三輪山の西麓に広がる纒向古墳群(まきくむこふんぐん)のひとつ)が見えました。

 聖林寺では、2班に分かれて見学。本堂に安置しているのは元禄時代に造られた子安延命地蔵菩薩。大きな石を削って地蔵菩薩を造り、その後、本堂を建てたとのことで、地蔵様に向って右が掌善童子、左が掌悪童子、との解説でした。

 観音堂に安置しているのが、国宝十一面観音菩薩。廃仏毀釈の時、大神神社に附属して建てられた大御輪寺から聖林寺に移されたものです。岡倉天心・フェノロサ・ビゲローに発見され、当初は本堂に安置していたが、大正時代に観音堂を建設して移設。乾漆像で天平時代に渡来人がつくった、との解説でした。

◆安倍文珠院

 聖林寺を出発後10分余りで安倍文珠院の駐車場に到着。5分ほど歩き、客殿の大広間でお茶菓子と抹茶の接待を受け、法話を聴きました。法話は漫談のように愉快なもので笑ってばかりでした。法話によれば、安倍文珠院は645年に安倍氏の氏寺として創建。国宝の文殊菩薩像は快慶作で檜の寄木造。その他に善財童子像、優填王像、須菩提像、維摩居士像も国宝。また、安倍文珠院は、丹後切戸の智恩寺、奥州亀岡の大聖寺と合せて日本三大文珠霊場、とのことでした。法話の後は、本堂に移動して安置されている仏像を拝観。敷地内にある「特別史跡」文珠院西古墳の内部も見学しました。

◆帰路

 安倍文珠院の駐車場を出た時点で、当初計画から1時間遅れ。遅れた要因は、遠回りして喜多美術館に行かざるを得なかったことで30分。安倍文珠院の法話が長かったことで30分。以前のようなひどい渋滞には遭遇せず1時間遅れのまま、20時30分頃に名古屋駅到着。こんなこともあろうかと名阪関ドライブインで弁当を積み込んだので、ひもじい思いをすることはありませんでした。

◆最後に

天候に恵まれ、往復の車中で深谷副館長のトークを聴くことも出来ました。その上、「山の辺の道」を歩いたり、箸墓古墳を眺めたり、文珠院西古墳を見学するなど古代遺跡に触れることができ、満足できる旅行となりました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバー・ガイドの皆さま、そしてツアーに参加された皆さま、ありがとうございました。

Ron.

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