秋のツアー2018(九州美術館巡り)第2日

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

「秋のツアー2018(九州美術館巡り)第1日」の続編です。
ツアー第1日に「七五三の参詣客で太宰府(「大宰府」ではありません)天満宮が混雑している」という情報が入ったため、第2日の出発時刻が予定より15分早くなりました。午前8時15分の出発です。九州国立博物館(以下「九博」)の開館時刻・午前9時30分までに到着することを目指し、バスは走ります。

◆バスの車内では
バスの車内では、九博に到着するまでの時間を利用して、同行をお願いした名古屋市美術館・学芸係長の保崎さん(以下「保崎さん」)から九博の展覧会「オークラコレクション」、福岡県美術館の展覧会「バレルコレクション」と福岡アジア美術館のコレクションについてコメントがありました。以下は、その概要です。
◎保崎さんのコメント
オークラコレクションは、大倉喜八郎・喜七郎の父子が二代にわたって収集したコレクションです。父の喜八郎は明治から大正にかけて活躍した実業家で、様々な事業を展開する一方、日本・東洋の古美術品を精力的に収集し、私立美術館の大倉集古館を開設しました。その息子でホテル・オークラの創設者・喜七郎も私費で近代日本画をヨーロッパに紹介するなど、多大な文化的貢献を果たしました。このオークラコレクションを収蔵する大倉集古館が東京オリンピックに向けてリニューアル工事に入ったことから、今回の展覧会「オークラコレクション」が実現しました。
「オークラコレクション」では、1930年にローマで開催した日本美術展の出品作品が見ものです。3期に分けて展示替えがあるため前田青邨(まえだせいそん)の傑作《洞窟の頼朝》が見られないのは残念ですが、横山大観《夜桜》を見ることができます。河合玉堂の作品も海外に出品するということから力が入っています。この外に、国宝《納涼図》を描いた久住守景(くすみもりかげ)、渡辺崋山の友人・椿椿山(つばきちんざん)、四条派の松村景文(まつむらけいぶん)も押さえておきたいところです。
「バレルコレクション」では、アントン・モーヴ、ヤーコブ・マリスなどのオランダ・ハーグ派の作品が出品されています。バルビゾン派に似た作風です。印象派が登場する前の画家、ドービニーやブーダンの作品も見ものです。現在、山梨県立美術館でドービニーの回顧展が開催されています。(注:11月24日に発売された「芸術新潮」12月号p.167に紹介記事があります。また、付録「芸新手帳2019」によれば、この「シャルル=フランソワ・ドービニー展」は2019.9.10~11.4の会期で三重県立美術館に巡回する予定です)
アジアの現代美術については、2015年のヴェネツィア・ビエンアーレで見ました。「熱い」と感じました。インド、中国、東南アジアの作品はメッセージ性が強いですね。

九州国立博物館、大きい!!

九州国立博物館、大きい!!


◆九州国立博物館(福岡県太宰府市)
◎明治150年記念特別展 オークラコレクション(3階)
 バスの到着は、九博の開館時刻前でした。既に、九博のロビーには開館を待つ入館者の長蛇の列。人気のスポットなのですね。3階の「オークラコレクション」は国宝、重要文化財、重要美術品が山盛りでした。
国宝《随身庭騎絵巻(ずいじんていきえまき)》は美化してない顔ばかり並んでいます。男前ではないが装飾的で「うまい」と感じました。重要文化財《賀茂競馬・宇治茶摘図屏風(かもくらべうま・うじちゃつみずびょうぶ)》久住守景筆にはホンワカとした情緒があります。椿椿山《蘭竹図屏風(らんちくずびょうぶ)》は金地に墨で描いた6曲1双の屏風、松村景文《四季草花図屏風(しきそうかずびょうぶ)》は緑とピンクが目を惹きます。伊藤若冲《乗興舟(じょうきょうしゅう)》は写真のネガのような作品でした。また、黄金に輝くタイの仏像は、日本と全く違う姿で、印象に残りました。1930年の日本美術展覧会に出品された作品は、保崎さんがコメントしたとおり、どれも力がこもっており大きく華やかな絵でした。この展覧会を見ただけでも、九州まで足を伸ばした甲斐がありました。
◎文化交流展示室(4階)
 集合時刻まで残りわずかにとなったため、4階はざっと見ただけです。特別展示の「大宰府研究の歩み」(「太宰府」ではありません)のパンフレットだけをもらって、集合場所に駆け付けました。
◎保崎さんのコメント
九博見学後、福岡県立美術館に向かうバスの車中ですが、保崎さんが住吉如慶(すみよしじょけい)《秋草図屏風(あきくさずびょうぶ)》、狩野派《帝冠図屏風(ていかんずびょうぶ)》、重要美術品《和漢古画図巻(探幽縮図)》狩野探幽他筆、下村観山《不動尊》、小林古径《木菟図(みみずくず)》、宇田荻邨(うだてきそん)《淀の水車》などについての感想を話してくれました。

◆昼食
昼食は太宰府天満宮(以下「天満宮」)本殿の裏にある照星館。九博のロビーに集合してから、徒歩で動く歩道とエスカレーターを経由して天満宮の敷地に入ってから本殿の境内を歩き、本殿の裏門を抜けて到着。所要時間は10分ほどでした。前日に入った情報どおり、境内は七五三の家族連れで混雑していました。しかし、それよりも多かったのは外国人観光客。お祭りのような人出でした。
昼食に出たのは、太宰府名物・梅ケ枝餅付きの幕の内弁当。照星館は店頭で梅ケ枝餅を製造・販売していました。昼食後は、暫く自由行動。再度集合して、ボランティアガイドさん(以下「ガイドさん」)が待つ天満宮の総合案内所に徒歩で向かいました。

大宰府、迷子?

大宰府、迷子?


◆太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
ガイドさんと合流後、「東風吹かばの歌碑」まで移動。右大臣だった菅原道真公が大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された時の「飛梅伝説」について聞きました。歌碑のすぐそばに銅製の「御神牛」があり、記念写真を撮る順番を待つ観光客の長い行列が出来ています。ガイドさんは観光客が気になるのか、話しにくそうでしたね。
続いて、総合案内所横の鳥居をくぐり天満宮の由来書まで移動。ガイドさんは「神社の入口左側には由来書があるので、神社に参拝するときは必ず読んでくださいね」といった後、我々に「さて、天満宮が『太宰府天満宮』という名前になったのはいつでしょうか」と、質問されました。
正解は、何と「昭和22年」でした。以下は、ガイドさんの話や天満宮のHP等にもとに書いてみた、天満宮の名称が「太宰府天満宮」となるまでの経緯です。
◎太宰府天満宮:名称の変遷
903年に菅原道真公が死去。門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が御亡骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなりました。これを「道真公の遺志によるもの」と考えてその場所に埋葬。905年、安楽寺の境内に味酒安行が廟を建立し天原山庿院安楽寺と号しました。その後、京の都では疫病が流行し、道真公を大宰府に左遷した藤原時平が急逝しました。これが「道真の祟り」と恐れられ、鎮魂のため、改めて神社を建立して道真を祀ることとなり、919年に社殿が完成しました。この年が太宰府天満宮の創建年とされます。987年には一条天皇から道真公に「北野天満天神」の称号が贈られ、990年頃には本来は天皇や他の皇族を祀る神社につけられる「天満宮」の社号を併用し「安楽寺天満宮」を名乗るようになりました。明治時代に入り、「宮」という社号を名乗るのは皇族を祀る神社に限ることとされたため、1871年(明治4)年に社号を「太宰府神社」に変更しました。社号が現在の「太宰府天満宮」となったのは、1947年(昭和22)年です。(注:第二次世界大戦後に政教分離が行われたため、再び「宮」という社号をつけることができた、ということでしょうね)
◎本殿に参拝
本殿に参拝するためには、心字池に架けられた過去、現在、未来を表す三つの橋(過去と未来は太鼓橋、現在は平橋)を順番に渡っていくことが必要ですが、太鼓橋は観光客で満員。本殿の参拝が終わるまでに、かなりの時間を要しました。

◆バスガイドさんの話で大宰府の歴史を知る
福岡県美術館に向かう途中、バスは史跡を「大宰府政庁跡」「榎社」「水城(みずき)」の順で通過。史跡を通過するたびに、バスガイドさんの説明がありました。説明の概要は、以下のとおりです。
◎バスガイドさんの説明
・大宰府政庁跡
7世紀に造営された大宰府政庁は12世紀前半には役割を終え、荒廃していきました。現在、大宰府政庁跡には石碑が建っています。
・榎社
菅原道真公は大宰権帥に任ぜられても大宰府政庁には出仕せず、榎社で暮らして生涯を終えました。
・水城
水城は白村江の戦いで大和朝廷の軍が大敗した後、唐・新羅の軍を防ぐために築いた堀と土塁です。大和朝廷は水城のほか、北に大野城、南に基肄城(きいじょう)を築いて大宰府政庁を守りました。
◎年代順にすると
今回のツアーで見聞きした「大宰府」に関する事柄を年代順にまとめてみると、①大陸との交易拠点は博多湾沿岸にあった。②白村江の大敗により、唐・新羅の攻撃を避けるために行政機関の大宰府政庁を水城の後方に造営した。③大宰府政庁が造営された後も、博多湾沿岸には「鴻臚館」が置かれ外交交易の拠点になった。④12世紀になると、博多湾沿岸を拠点にした、大宰府を通さない私貿易が活発となり大宰府政庁は役割を終えた、ということになるでしょうか。
出発してから40分ほどで、バスは福岡県立美術館に到着。それは、須崎公園のなかにありました。

◆福岡県立美術館(福岡市中央区)
福岡県立美術館では「バレルコレクション」等について、高山学芸員から10分ほど説明を受けました。その概要は、次のとおりです。
◎高山学芸員の説明
バレルコレクションを収集したウィリアム・バレルはグラスゴーの出身です。彼は海運業で財を成し、印象派のほかオランダ人画家、スコットランド人画家の作品を収集しました。スコットランド人画家の作品収集には地域文化の発展という目的もあります。作品の総数は9,000点ぐらいありますが、1944年にグラスゴー市に寄贈されました。寄贈にあたっては「門外不出」という条件が付いていました。しかし、美術館「バレルコレクション」が改装工事に入り2020年にリニューアルオープンすることになったため、日本の5会場での展覧会開催ができることとなりました。出品作品ですが、クールベ等の写実主義の作品は穏やかな雰囲気のものです。グラスゴー・ボーイズ、スコティッシュ・カラリストと呼ばれたスコットランド人画家の作品もあります。チラシにはブーダンが描いた船の絵を使いました。出品作品には知られざる名作が多数あります。心地よくなる絵が大半です。どうか、お楽しみください。なお、4階の常設展は本日、入場料無料です。博多人形を展示していますのでお越しください。
◎バレルコレクション(3階)
高山学芸員の説明通り、バレルコレクションは眺めていて落ち着く作品ばかりでした。「他人に見せびらかすためではなく、個人の邸宅にさりげなく飾って一人楽しむため」という作品が多いからでしょうね。そのためか小振りの作品が多いのですが、でも、いい感じです。表紙に使われたウジェーヌ・ブーダン《ドーヴィル・波止場》は27.9×21.9cmと、思ったより小さな絵でした。
◎鹿児島寿蔵(かごしまじゅぞう)の人形と短歌(常設展)(4階)
会場の説明を読むと、鹿児島寿蔵(1898-1982)は福岡市の生まれ。博多人形の制作に取り組んだ後、より丈夫な素材を求めて「紙塑(しそ)」という技法に到達したとのこと。「紙塑」とは和紙の原料で作った紙粘土で、長時間臼でつき捏ねているので堅く、少々の水や火にも耐える素材です。作者は、この技で人間国宝に認定されています。
九州という土地柄か古代人の衣装を着た人形が多く、吉野ケ里歴史公園や福岡市博物館、九州国立博物館の展示を思い出しました。
◎高野野十郎(たかのやじゅうろう)特設コーナー(4階)
高野野十郎の作品は4階の無料スペースに展示されていました。当日は《蠟燭》《傷を負った自画像》など5点の作品を展示。2カ月ごとに展示替えとのことです。
福岡県立美術館を見学した後、バスは福岡市博多区の複合施設「博多リバレイン(Hakata Riverain)」に向けて発車しました。博多リバレインはリバレインセンタービル、ホテルオークラ福岡ビル及び博多座・西銀ビルの3施設で構成される複合施設で、福岡アジア美術館はリバレインセンタービルの7~8階にあります。リバレインセンタービルにバスの駐車場はないので、バスは昭和通りに停車。そこからリバレインセンタービルまでは徒歩でした。

◆福岡アジア美術館(福岡市博多区)
 エレベーターに分乗してリバレインセンタービルの7階で降りると、福岡アジア美術館の野口さんと3人のボランティアさんが出迎えてくれました。ツアー参加者は3班に分かれ、班ごとにボランティアさんのギャラリートークを聴いた後は、自由観覧でした。

福岡アジア美術館、トーク中

福岡アジア美術館、トーク中


◎ボランティアさんのギャラリートーク
先ず、企画ギャラリーで開催中の「横尾忠則とアジア― ’89」をご覧いただきます。出品作品はいずれも福岡市美術館の所蔵です。最初に展示しているのは「聖シャンバラ」のシリーズです。「聖シャンバラ」は想像上の都市、地球内部の空洞に存在するというアガタ王国の首都の名前です。横尾忠則はインドに興味を持ち、まだ見ぬインドに対する自分のイメージを作品にしました。次の「SANTANALOTUS」はレコードジャケットのデザインです。また、1989年に開催されたアジア美術展のポスターと原画も展示しています。
次の部屋はアジアギャラリーです。福岡アジア美術館の収蔵品を展示しています。エルマー・ボルロンガン(フィリピン)《D.H.(家政婦)》(1993)は外国で家政婦として働くフィリピン女性たちの過酷な実情を描いた作品です。椅子に腰かけた二人の女性、弱い立場にある彼女たちの口の回りは消えかけています。ラジ・クルーマ・ダス(絵)、ガッファール工房(車体製作)(バングラディシュ)《リキシャ》(1994)は、日本の人力車をルーツにした乗り物。カラフルな幌、色とりどりのリボンで飾られたハンドル回り、極彩色の絵で埋め尽くされた座席、びっくりするほどに過剰な装飾が施されています。カルロス・フランシス(フィリピン)《教育による進歩》(1994)はマニラの教科書出版社の壁画として描かれたもので、古代にやってきたマレー人、アメリカ統治時代に派遣された教師団などフィリピンの歴史を描いています。キエン・イムスィリ(タイ)《音楽のリズム》(1949)は、タイの古典様式をもとにしたブロンズ彫刻です。
以上のほかにも多くの作品について解説していただきましたが、残念ながらメモしきれませんでした。保崎さんのコメントのとおり、メッセージ性の強い作品が多く、そのためか大型の作品が目立ちました。
◎保崎さんのコメント
帰りのバスのなかで保崎さんから「漁港の岸壁で男性がウナギを調理しようしている姿を描いた韓国の画家の作品(画家名・題名不詳)が面白かったと」とのコメントがありました。確かに面白い絵でしたね。絵の感じでは、男性の動作はウナギを割(さ)くのではなく、「ぶつ切り」にしようとしている姿に見えます。日韓ではウナギの調理法が違うのでしょうか。
◎日韓工芸作品展(8階)
ギャラリートーク終了後、時間があったので8階で開催している「日韓工芸作品展」も見ました。ダ・ヴィンチ《モナリザ》やフェルメール《真珠の耳飾りの少女》などの漫画風パロディをレリーフにした作品や風景画をレリーフにして額縁に収めた作品、ハングルの書道など、遊び心のある作品が多くて楽しめました。

◆JR博多駅にて
 福岡アジア美術館を出てJR博多駅に到着したのは午後5時。新幹線の発車時刻は午後6時10分なので博多ラーメンを食べたり、買い物をしたりする時間を確保することができました。午後6時10分の新幹線に乗らない参加者もいるため、ツアーはここで一先ず解散です。
 今回の秋のツアーで感じたのは「アジアの熱気」です。特に、九博と天満宮の外国人観光客の数に圧倒されました。また、第1日に市博の学芸課長から聞いた「福岡はアジアの玄関口」という言葉を、ツアーの中で何度も何度も思い出しました。

◆最後に
今回の秋のツアーは心配していた雨にも祟られず、参加者の笑顔で締めくくることができました。これも、同行していただいたJR東海ツアーズ・三次(みつぎ)さんのお陰です。見学順序や食事時刻の変更など無理なスケジュール調整に、いやな顔も見せずに対応して下さったことに感謝します。スケジュール調整の効果はとても大きくて、ツアー参加者は「無駄に時間を費やす」ことなく、ツアーの日程を目一杯エンジョイすることができました。本当に、ありがとうございました。
最後に、ツアーに参加して下さった皆さん、お疲れ様でした。楽しかったですね。
Ron.

秋のツアー2018(九州美術館巡り)第1日

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

11月17日(土)から18日(日)までの2日間、名古屋市美術館協力会の秋のツアーに参加しました。
今回のツアーは協力会設立30周年記念。奮発して九州まで足を伸ばしました。JR博多駅まで新幹線で往復し、JR博多駅からはバスツアー。現地発着の参加者もいました。20周年記念のツアーの目的地は沖縄だったそうです。
参加者は23名。2名は現地発着なので、21名がJR名古屋駅に集合。JR博多駅で現地発着の2名と合流。ロスタイムは無く、幸先の良いスタートとなりました。

お昼ごはんは、釣りが出来るお店?

お昼ごはんは、釣りが出来るお店?


◆昼食は船から釣りができるお店(福岡市中央区)
 バスに乗って20分ほどで昼食会場に到着。道を隔てて福岡市鮮魚市場が見えます。バスガイドさんによれば「長浜の屋台エリア」も近いそうです。昼食会場は「釣船茶屋 ざうお」という名のとおり、倉庫のような建物の中に釣り堀。床には2艘の大きな船が置かれ、船から釣りが可能。魚が釣れると景気づけの太鼓が店内に響きます。我々が通されたのは船が見える部屋でした。昼食終了後は福岡市博物館(以下「市博」)へ。
福岡市博物館にて、金印を見る

福岡市博物館にて、金印を見る


◆福岡市博物館(福岡市早良(さわら)区)
市博のお目当ては国宝「金印」です。
◎福岡はアジアへの玄関口
市博では学芸課長(以下「課長さん」)さんが出迎えてくれました。福岡市が中心に描かれた円形の地図がある部屋に通され「福岡は大阪より釜山の方が近い、アジアへの玄関口」との解説。次は、いよいよ国宝「金印」です。市博の目玉とあって、国宝「金印」には特別ルームが用意されていました。
◎国宝「金印」について
以下は課長さんの解説の概要です。
・国宝「金印」のサイズ・重量など
国宝「金印」は一辺2.3cm、重さ108グラム、純度は約95パーセント。当時の技術としては最上の純度です。以前に3億円という鑑定をもらっていますが、金地金なら時価50万円ぐらいの価値です。
・「漢委奴國王」の読み方
現在は、国宝「金印」に彫られている「漢委奴國王」を「かんのわのなのこくおう」と読むのが普通ですが、江戸時代は「かんのいとこくおう」と読むのが主流でした。「委奴」を「いと」と読んだのです。
・金印保存の立役者、亀井南冥(かめいなんめい)
国宝「金印」が志賀島で見つかったという話は、ご存知のことと思います。お殿様に金印が献上された時、黒田藩内には「溶かして使ったらいい」という意見もあったようです。これに対し、漢代の古典に精通していた黒田藩の儒学者・亀井南冥が金印の価値を認め、全国の学者に金印の発見を知らせて意見を求めました。全国から様々な論考が届いた結果、金印が保存されることになりました。
・金印は機密保持に使用
金印は公文書の機密保持のために使用されました。当時の公文書は木簡や竹簡に書きました。これを蓋付きの容器に入れ、紐をかけて運びます。しかし、紐をかけて結んだだけでは、途中で結び目を解(ほど)かれる恐れがあります。公文書が盗み見られても、紐を結び直せばバレません。そこで、機密保持のために紐の結び目を粘土で封をした上で印を捺(お)しました。これを「封泥(ふうでい)」といいます。封泥をした公文書は紐を切らないと見ることができません。これで盗み見を防止できます。また、封泥した時に文字が浮き出て見えるよう、金印の文字は凹んでいます。
・素材と鈕(つまみ)
 印は持ち主の地位に応じた材料で作りました。最上級は玉印、皇帝が使います。金印は王、銀印は太守、銅印はその下の地位の者が使います。鈕も皇帝は龍、漢の本国は亀、国宝「金印」は蛇です。蛇鈕(だちゅう)は南方の民族に与えられたものですが、国宝「金印」の蛇鈕は他の蛇鈕金印とは形が違うので「馬の鈕だった金印に手を加えたものではないか」という説があります。
◎日本で動く一番古い車「アロー号」
課長さんから「日本で動く一番古い車の『アロー号』を是非ともご覧ください。大正5年に矢野倖一が製作したものです。その後、矢野は特殊自動車の開発に進み、現在は矢野特殊自動車となっています」との解説があったので、見に行ったところ、手作り感いっぱいの自動車でした。
「アロー号」の隣には、昭和初期のカフェを再現した「カフェ・ドュ・ミュゼ」があります。
◎戦国時代末期の戦乱で荒廃した博多を豊臣秀吉が再興
 国宝「金印」から「アロー号」まで行く途中で、「九州平定後の豊臣秀吉は、戦乱で荒廃していた博多の復興に着手する。これが、後世に『太閤町割(たいこうまちわり)』と呼ばれる大規模な区画整理で、直線的な幹線道路と街路によって整然とした街区を形成したのである」という説明が気になって立ち止まりました。この外、大宰府の外交施設「鴻臚館(こうろかん)」も気になりましたが、時間不足でパス。帰宅後に調べると、鴻臚館は対外交易の拠点となった施設で、熊本城の敷地内に「鴻臚館跡展示館」があるようです。
◎黒田家名宝の大身鎗・名物「日本号」
 黒田節に出てくる「呑み取りの鎗」=「日本号(にほんごう)」が「黒田家名宝」の展示室にありました。 柄を含めた総長が321.5㎝,刃の長さ79.2㎝、柄は螺鈿という立派な鎗です。「刃の傷は実戦に使われたため」という解説がありました。しかし、鎗の装飾があまりにも豪華なので「本当に使ったの?」と首を傾げる人もいました。

◆ニキ・ド・サンファル作の巨大な像《大きな愛の鳥》
福岡市博物館から福岡都市高速の百道ランプに向かう途中、バスの車内で突如「あれは何?」という歓声がおこりました。右手にカラフルな物体が見えるのです。ツアーに同行をお願いした名古屋市美術館・学芸係長の保崎さんがスマホで調べ「ニキ・ド・サンファルの《大きな愛の鳥》です。名古屋市美術館で開催したニキ・ド・サンファル展で模型を展示しました」と、マイクで回答。《大きな愛の鳥》は福岡市中央区・地行中央公園に設置されたオブジェでした。予定になかった作品で、ツアー参加者は得した気分になりました。

◆太閤町割(福岡市博多区)
バスが福岡都市高速の高架を走行中、バスガイドさんが「下に見えるのは博多の街です。きれいな碁盤の目になっていますね。これは秀吉の太閤町割で出来たものです」という解説がありました。市博の常設展で知識を得た「太閤町割」を現地で確認することができました。

吉野ヶ里遺跡群

吉野ヶ里遺跡群


◆吉野ケ里歴史公園(佐賀県神崎郡)
 バスが吉野ケ里歴史公園(以下「公園」)に到着したのは午後3時10分。ガイドボランティアさんの案内で吉野ケ里遺跡を約1時間見学しました。以下はガイドボランティアさんによる説明の概要です。なお、(注)は私の補足。
◎ガイドボランティアさんの解説
・環濠入口広場で
公園は神崎工業団地の建設予定地でした。しかし、1986(昭和61)年から始まった発掘調査で弥生時代の大規模な環濠集落が発見されたため、工業団地の建設は中止されました。(注:その後、歴史公園として整備され、国営公園約52.8ha、県立公園約51.2ha、総面積104haが開園しています)公園のマスコット・キャラクターの名前は「ひみか」と「やよい」。卑弥呼(ひみこ)ではありません。
吉野ケ里遺跡のある地域は、北に背振山地(せぶりさんち)があるため北風がさえぎられ、川が流れて水の便もある住みやすい土地です。公園内の建物は、北内郭と南内郭は弥生時代後期、北墳丘墓は弥生時代中期を想定して復元しています。それでは、南内郭に向かいましょう。(注:環濠入口広場から進むと二本の門柱の上に横木を載せた門があります。門の横木の上には木製の鳥形3羽が見えます。左の草むらには木製のイノシシが3頭、我々を睨んでいました)
・南内郭の入口で
この門が南内郭の入口。門の周囲から鳥形が発見されているので、横木に鳥形を載せました。この門の形は鳥居の原型と思われます。集落の周囲を環濠と丸太を連ねた塀で囲み、外敵やイノシシ、シカなどの野生動物を防いでいます。当時は人間の数よりもイノシシやシカのほうが多かったのです。今、渡ってきた橋ですが、公園来場者のために設置したもので、当時は存在していません。それでは、展示室に行きましょう。そこで、説明の続きをします。(注:展示室に入った所には土器が展示されていました)
・展示室で
皆さんの目の前に、弥生時代を代表する三種類の土器があります。左の甕(かめ)は煮炊きに使います。中央の壺は弥生時代中期から作られた土器で穀物などの貯蔵に使い、右の高坏(たかつき)には果物などの食料を盛りました。当時は、各人が高坏から食物などを取り、葉などにのせて食べていました。弥生時代の後期になると食料を一人一人に取り分けるための銘々器が作られます。
土器は、その周りに薪を積み、野焼きで焼成していました。その後、薪の上に土をかぶせてから焼くようになります。そうすると、温度が1000度ぐらいまで上がります。土器が透けるように見えてきたら焼き上がりのサインです。土器の彩色には鉄サビをつかいました。
炭化したコメを見てください。いろいろな種類のコメが混ざっていますね。当時は、稲穂の高さや収穫時期の違う稲を一緒に栽培していました。稲穂の高さがちがうので、稲の収穫は稲穂だけを摘み取っていました。「穂摘み」といいます。収穫の道具は石包丁。石包丁に開けた二つの穴に通した紐に指をかけて稲穂を摘み取ったと思われます。
イノシシやシカの骨も出土しています。イノシシやシカの狩りには、石の矢じり=石鏃(せきぞく)を付けた矢を使いました。ただ、動物に矢が当たっても致命傷にはなりません。矢で動物の動きを鈍くさせてから捕まえたと思われます。石鏃には飯塚市で採れる石を使っています。薄く剝がれる性質の石です。それを磨いて石鏃にしました。石鏃を磨く作業は、なかなか大変で根気がいります。
死者は二つの甕の開口部を合わせた中に葬りました。甕棺(かめかん)といいます。展示しているのはレプリカですが、体格が大きいですね。集落を支配した渡来人です。
ガラス製の装飾品も展示しています。ガラスを巻いて焼いた管玉(くだたま)で、輸入品です。それでは、物見櫓(ものみやぐら)に登りましょう。(注:物見櫓は3階建ての建物ぐらいの高さ。公園来場者のために、弥生時代にはなかった階段・手摺が設置されていました)
・物見櫓で
北に見えるのは北内郭にある祭殿(さいでん)の屋根です。それでは、西を見てください。ここよりも一段低くなっている場所にあるのは倉庫群です。なぜ、この場所に倉庫があるのでしょうか。倉庫で貯蔵しているのは、種もみです。当時の集落は、飢饉に備えて数年分の種もみをこの倉庫で貯蔵していました。種もみは、保管中の発芽を防ぐために、温度が低くて風通しの良い場所に置く必要があります。この場所は温度が低くて風通しの良いという条件を備えているので、倉庫を設置したのです。このことからも、吉野ケ里遺跡の集落には、稲の栽培・保管などに関する細かい技術・知識が入っていたことが分かります。その技術・知識は渡来人からもたらされたもので、当時は最先端の技術・知識でした。この集落には数十棟の倉庫があります。集落のために必要な数を大きく上回るので、この地域一帯の米蔵だったのではないかと思われます。
・Q&A
今までガイドした内容で、何か質問はございますか。
Q:復元にあたり、物見櫓をこの高さに決めた根拠は何ですか?
A:高さを決めた根拠は、柱の太さです。柱の穴は深さが2m、一辺が2mの四角形でした。また、穴は二段式で、上の段は50cmの幅、下の段が1mの幅となっていました。この穴に入る太さの木を伐り出した場合の木材の長さを計算して、物見櫓の高さを計算しました。物見櫓を作るためには木を伐り出すだけでなく、運搬し、木の皮を剥ぎ、保管場所を確保することが必要です。木材の運搬や皮剥ぎには川を使ったと思われます。
(注:物見櫓を降りた後、竪穴式住居や糸紬ぎの道具などを見てから公園を後にしました)

◆宿泊は佐賀駅前
 秋のツアーの期間中、ヤフオクドームでEXILEのコンサートが開催され、福岡市内はどのホテルも満席。やむを得ず、佐賀駅前のホテルに泊まることになりました。
ツアー1日目のお話は、以上でおしまいです。2日目については「秋のツアー2018(九州美術館巡り)第2日」に書かせていただきます。
Ron.

名古屋市美術館協力会  H30春の美術館見学ツアー 京都

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

泉屋博古館にて

泉屋博古館にて


 平成30年度春の美術館見学ツアー(日帰り)の目的地は京都。見学する展覧会は京都文化博物館「オットー・ネーベル展」、京都国立近代美術館「横山大観展」と泉屋博古館(せんおくはくこかん)「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ」です。
開催日の6月24日(日)、明け方は小雨が残ったものの集合時間の午前7時40分に雨はなし。天気予報は幸先よく「晴」。集合場所の名古屋駅噴水前は、バスツアーの客でごった返していました。ツアー参加者は47名、ほぼ予定通りの時刻に全員集合。バスも予定通り午前8時に京都市を目指して出発しました。
◆往路のバス:交通渋滞もなく、予定の30分前に京都文化博物館へ到着
 大阪府北部地震の影響か車の流れはスムースで休憩の土山SAは予定の10分前、午前9時20分に出発できました。運転手さんには更に「予定時刻の30分前に目的地へ到着せよ」という指令が出て、バスは新名神高速道路から草津JCTを経て名神高速道路を快走。
京都東ICから一般道に入り、京都市山科区御陵(みささぎ)の御廟野古墳(ごびょうのこふん:「山科陵(やましなのみささぎ)」=天智天皇の陵とされている)を右に見た後、東山の山間(やまあい)を抜けて京都市東山区粟田口華頂町の京都市蹴上(けあげ)浄水場(ツツジが有名)を左に見て三条通から御池通に入り、バスは停車。バスガイドさんから「京都文化博物館は平安建都1200年記念事業として京都府が建設、1988年(昭和63年)に開館した博物館」という説明がありました。前方には「京都文化博物館(The Museum of Kyoto)」の案内板。バスは入れないので、ここから先は「歩き」です。高倉通を南に下り京都文化博物館に到着したのは指令通り予定の30分前、午前10時30分でした。
オットーネーベル展(京都文化博物館)

オットーネーベル展(京都文化博物館)


◆京都文化博物館:「色彩の画家 ― オットー・ネーベル展」など
◎展覧会の解説
先ず、日本銀行京都支店だった別館(国の重要文化財)2階に移動。暗い階段を昇り、日本銀行時代に営業部だった1階が窓越しに見える部屋で、うえだ学芸員の解説を聴きました。
 解説によれば、オットー・ネーベルという作家はヨーロッパでも2012年にベルン美術館で回顧展が開かれるまでは知られておらず、地元スイス・ベルンでも俳優として知られていたとのことです。オットー・ネーベルは1892年生まれの1973年死去で、ピカソ(1881-1973)より10歳ほど年下。ドイツ・ベルリン生まれですが、抽象画家に対するナチス・ドイツの弾圧を逃れるため1933年に家族でスイスへ亡命し、スイス・ベルンで死去。
 ドイツ・ワイマールのバウ・ハウスでパウル・クレー、ワシリー・カンディンスキーと知り合い親しく交わったほか、直接的な交流はないが「シュトゥルム」という雑誌を経営するヘルヴェルト・ヴァルデンを通じてマルク・シャガールの影響を受けたとのことです。
 また、展覧会のメイン・ビジュアル《ナポリ》と《ポンペイ》(いずれも「イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)1931」を題材に「どちらの作品も、スケッチ・ブックのサイズで、風景から受けたイメージを再構成したもの。《ポンペイ》の下の部分は火山灰を表現。その上の赤と黒は壁画。印刷物では分かりにくいが、実物を見ると絵の具を細かく塗り重ねているのが分かる。」という作品解説がありました。
◎京都文化博物館開館30周年記念 オットー・ネーベル展
 オットー・ネーベル展は、本館の3階と4階。4階が入口で、3階に下りるという順路。英語のタイトル“OTTO NEBEL AND HIS CONTEMPORARIES – CHAGALL, KANDINSKY, KLEE” が示すように、シャガール、カンディンスキー、クレーの作品も展示されているほか、バウ・ハウスや雑誌「シュトルム」に関連する作品、資料、工業製品の展示もありました。
 「シャガールの影響を受けた」という解説のとおり、オットー・ネーベルの初期の作品は「シャガール風」の絵でした。また、「クレーは線描の人、ネーベルは絵の具を塗り重ねる人」という解説もあり、二人の作品を比べると「そうかな」と、納得しました。ネーベルは奥さんが音楽家だったためか、カンディンスキーの抽象画との相性がいいように思いました。リノカット(リノリウム版画)による作品も面白いと思いました。
◎桂離宮のモダニズム ― 高知県立美術館所蔵石元泰博写真作品から
 協力会員の松本さんからの情報で、2階総合展示室で開催中の写真展も急ぎ足で見てきました。作品リストの解説によると石元泰博は「シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)で写真を学ぶ。桂離宮のモダニズムを写真により見出した作品で高い評価を受け」とあります。三脚とカメラ(リンホフ テヒニカ 4×5)とシャッター付きレンズ(字が小さく、レンズ名・焦点距離・F値は不明)の展示もありました。三脚付き蛇腹カメラで水平垂直を出し、絞り込んで細部までピントの合ったモンドリアンの作品のような桂離宮の姿を切り取った写真が鑑賞できたので、2階まで足を伸ばした甲斐があったというものです。
昼食は賑やかに、六盛にて

昼食は賑やかに、六盛にて


◆昼食:岡崎 六盛(ろくせい) 手をけ弁当
 昼食は、琵琶湖疏水(びわこそすい)に面した料亭「六盛」。六盛のHPには「六盛の名は学区制が敷かれた明治25年以後、錦林(きんりん)学区の六地域(岡崎・吉田・聖護院・東山・浄土寺・川東)の繁栄を願って、学校運営の審議を担当する学区議員の組織「六盛會」に由来します。六盛の先代はこの頃から事務所に出入りし、明治32年に創業」とあり、錦林小学校のHPには「明治2年8月21日 上京第32番組小学校として校舎新築開校。明治5年5月上京第32区小学校と改称。明治8年1月 上京第32区錦織小学校と改称。明治20年7月錦織尋常小学校と改称。明治26年3月 錦林尋常高等小学校と改称(錦織校、吉田校、浄土寺校、鹿ケ谷校の4校が合併)」とありました。なお、「番組」は住民自治組織で、明治時代初期の京都の小学校は「番組」が設立・運営していたのです。
 無駄話はさておき、行きのバスがあまりにも順調に運行したことから「横山大観展」の事前解説がほんの僅かになってしまったので、昼食時にも保崎係長から解説がありました。保崎係長は「鑑賞のポイントとなる年」として、①1898年(明治31年)=岡倉天心が東京美術学校を追放され、日本美術院を設立して絵画の革新を始めた年、②1907年(明治40年)=第一回文展が開催された年。茨城県・五浦海岸(いづらかいがん)に移転した日本美術院で研鑽を積んでいた横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山の4人が、再び表舞台で脚光を浴びるきっかけになった。③1914年((大正3年)=前年9月に岡倉天心が没したため、その遺志を引き継ぐため日本美術院を再興した年を挙げ「見たい作品」として《夜桜》《紅葉(もみじ)》《南溟(なんめい)の夜》などを挙げていました。
(その2へつづく)

名古屋市美術館協力会  H30春の美術館見学ツアー京都 その2

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

◆京都国立近代美術館:「横山大観展」など

ただいま工事中!京都市美術館

ただいま工事中!京都市美術館


◎京都国立近代美術館までの道中
 六盛を出て、岡崎公園をぶらぶら歩いていると大勢の観光客がいます。大阪府北部地震の影響は大分薄れたような感じですね。梅雨の合間の晴で強い光線が降り注ぐため、日傘や帽子が無いと頭や腕がヒリヒリします。建物の中のカフェやレストランは休憩する人で一杯。大鳥居が見えるところまで来ると、リニューアル工事中の京都市美術館が姿を現しました。2020年3月末竣工予定。あと一年半ほど休館が続きます。
生誕150年横山大観展(京都国立近代美術館)

生誕150年横山大観展(京都国立近代美術館)


◎生誕150年 横山大観展
横山大観展の会場は4階。展示室内は混んでいましたが、日曜日なので想定内。鑑賞には支障がない程度の込み具合なので安心しました。展示は「明治」「大正」「昭和」の3章で構成。「明治」の解説には「朦朧体の理論付けや改良はもっぱら春草。大観はあふれる好奇心と人の成果を自分流にアレンジしてしまう才能」と書いてあり、ほめているのかどうか良く分かりませんが、大観はアイデアとパフォーマンスの人だと理解しました。また、《白衣観音》の解説も「足を組んですわる姿勢にデッサン不得手を示す。皺法も岩場の立体感につながっていない。」とけなしています。確かに、左足を上げていれば太極拳の「独立歩(ドウリーブー)」=片足立ちの姿勢です。「へた」かもしれませんが不思議な魅力のある作品です。《朝顔日記》などの「美人画」も美人に見えないので思わず笑ってしまいました。《カンヂスの水》のピンク色の空、ハレー彗星を描いた《彗星》など、好奇心旺盛・アイデアの人だと思いました。
「大正」では何といっても《生々流転》。絵巻を見るために25人ほどの行列が出来ていました。「昭和」は戦前・戦中・戦後の作品。戦前の《夜桜》《紅葉》は絢爛豪華。戦中の「海に因む十題」・「山に因む十題」には「売り上げ50万円が陸海軍に献納。軍用機「大観号」4機になった」という解説。《南溟の海》には「南陽は前線をしのぶ主題に読み替えられた」との解説がありました。《南溟の海》はヤシ・森・星・波を描いているだけですが、南方で散った将兵に思いを馳せた「戦争画」だったのですね。不思議なのは藤田嗣治と違って横山大観の戦争責任が問われなかったことです。富士山や日輪、海ばかりを描いていたためなのか、大観の戦争責任を問い質したら他の画家全ての責任も問われるからなのか、藤田嗣治はスケープゴートだったのか等、様々な思いが湧いてきました。戦後の《霊峰富士》は「いかにも年賀状」という作品。「平和な日本」が感じられます。
◎コレクション・ギャラリー(常設展)
3階の常設展示室には、「A 横山大観と日本美術院の画家達」「B ふたりの巨匠、ピカソとマティスを中心に」「C 近代日本の工業」「D 河井寛次郎作品選」「E 近代洋画に見る動物たち」「F 特集展示:W.ユージン・スミスの写真」が開催されていました。
午前中にオットー・ネーベル展を見た後だったため、「B」のマティス《ジャズ》シリーズ(1947)が目を惹きました。ピカソでは《花飾りをつけた裸婦》(1930)。輪郭を描いただけなのに立体感があり「さすがに、うまいな」と思いました。「F」には水俣シリーズだけでなく、第二次大戦の写真やカントリー・ドクターも展示され、見ごたえがありました。
◎周辺の散策など
集合時間の午後3時40分までは余裕があったのですが、京都国立近代美術館の中はどこも人、人、人。トイレも満員なので、隣の京都府立図書館で用を済ませ、ぶらり散歩。
大鳥居をくぐり、疏水を渡って北に歩くと左手に工事中の京都市美術館、しばらく行くと京都市動物園が見えてきます。疏水の突き当りには琵琶湖疏水記念館。入館したら集合時刻に間に合わないので、あきらめて道路を渡り引き返すと「無鄰菴」の看板。路地を入ると左手に小さな門。どうやら、ここが入口のようですがパス。右を見ると「瓢亭」とあります。谷崎潤一郎「細雪」に「土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭(ひょうてい)で早めに夜食をしたため……」と書かれた、あの料亭ですね。瓢亭の周りをぐるっと回って大鳥居まで引き返すと、集合時刻間際でした。
大鳥居のあたりでバスを待っていると、道路の向こうに停車。急いで乗り込みました。
絵描きの筆ぐせ、腕くらべ(泉屋博古館)

絵描きの筆ぐせ、腕くらべ(泉屋博古館)


◆泉屋博古館(せんおくはくこかん):企画展「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ」
 バスは泉屋博古館付近の天王町交差点に差し掛かりましたが、泉屋博古館には向かわず左折して白川通を北上し、銀閣寺道を右折。銀閣寺に向かうと思いきや、その手前で右折して鹿ケ谷通を南下。住友友芳園の門を通り過ぎて、泉屋博古館の駐車場で停車。
 玄関ロビーに集まってから渡り廊下を歩いて講堂に入り、午後4時10分から、かねかた学芸課長のレクチャーを受講しました。
 レクチャーによれば「泉屋博古館は住友家のコレクションを収蔵した美術館。場所は住友家の京都別邸の一角。住友家の古代青銅器のコレクションは中国国外では世界随一のもの。博古館という名は、宋代の徽宗皇帝が編纂した図録「博古図録」に因む。泉屋は、住友家の屋号「泉屋(いずみや)」に因むが、中国風に「せんおく」と読んだもの。企画展のテーマは近代日本画で、住居のある大阪、分店のある京都、東京の画家の作品を展示している。展示は4章で構成。第1章は幕末・明治の絵画。菊池容斎《桜図》は幕臣の子どもで、狩野派や沈南蘋(しん・なんぴん)の写実画を融合した作風。第2章は大阪画壇。村田香谷(むらた こうこく)は文人画の大家。第3章は京都画壇。富岡鉄斎は南画の大家。第4章は東京画壇。東山魁夷は筆ぐせを見せないのが癖」とのことでした。
 企画展示室は講堂の隣。大阪画壇の上島鳳山《六月 青簾(十二ケ月美人)より》は「如何にも美人画」で横山大観の美人画とは別物でした。京都画壇の富岡鉄斎には、うまい・へたを超越した迫力を感じ、ターナー風の竹内栖鳳《禁城松翠》は「うまい絵」でした。東京画壇の小林古径《人形》は、フランス人形を描いたものでチラシには「法隆寺壁画の線描と琳派を再生!」という説明があり、尾竹国観《黄石公張良之図》もレベルの高い絵でした。
 帰りのバスで保崎係長が「泉屋博古館を横山大観展のあとにして正解だった」と、ツアーの感想を語っていましたが、「正に、そのとおり」と参加者一同納得。
 企画展の後、青銅器も見たのですが、時間がなく駆け足になったのは残念でしたね。
◆復路:交通渋滞に遭遇するも、30分の遅れで到着
 帰り道は天王町交差点を左折して南下、左に真々庵(パナソニック所有・非公開)右に京都市動物園の裏門、琵琶湖疏水記念館の裏門を見ながら走り、東山の山間を抜けて京都東ICから阪神高速道路に入りました。帰りの渋滞を心配していたところ「阪神高速道で通行止」という表示。新名神高速道路に経路変更する車が増えることが予想されましたが「成り行きに任せる」覚悟で前進。土山SAまでは予定通りの走行でしたが、SAを出てしばらくすると渋滞に遭遇。30分ほどノロノロ運転が続きましたが、軽めの夕食として「いなり寿司」が配られ、誰のお腹も空いていないので焦る人はいません。名古屋駅(太閤通口)に到着し、参加者が解散した時は午後8時前。予定から30分足らずの遅れで済みました。
運転手さん、ガイドさん、旅行担当の松本さん、ありがとうございました。最後に、参加された皆さま、お疲れさまでした。
◆蛇足
 名古屋駅に到着した時、ガイドさんが「まだ、西郷(せご)どんに間に合います。」と言っていましたが、家に帰って調べたら西郷隆盛と愛加那の間に生まれた長男・西郷菊次郎は第2代目京都市長として、疏水による発電・上下水道・市電の3大事業を推進した人物だったとか。ツアーの最後でも京都との縁があったようです。             Ron.