展覧会見てある記 愛知県美術館「古代エジプト展」など

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協力会から送付された資料の中に愛知県美術館「古代エジプト展」(以下「本展」)のチラシと2020年度第3期コレクション展の案内・出品リストが入っていたので、行ってきました。本展のチラシに「土日祝日・日時指定券(事前予約)」と印刷されていたので、予約不要の平日にしたのですが、入場券売り場には午前10時の開館を待つ数十人の行列。「入場券所持」でも十数人の行列ができていました。マスク着用で行列に並び、開館時刻到来で入場。先ず、手指の消毒。サーモカメラ映像のモニターを見ている係員さんから「どうぞ、お進みください」と、声を掛けられて会場へ。展示室入口で「出品リストはありますか?」と聞いたところ「申し訳ございませんが、今回は置いておりません。本展HPから印刷してください」との回答。リサーチ不足でした、残念。

◎第1章 エジプトを探検する

A ヨーロッパによるエジプトの探検

 最初に展示されていたのはロゼッタ・ストーン。ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったものです。本物は花崗緑閃岩ですが、出品されていたのはプラスチック製。ロゼッタ・ストーンは3段に分れ、上段はヒエログリフ(神聖文字)、中段はデモティック(民衆文字)、下段はギリシア文字、上段と下段には白い点線で囲った文字列があります。当時のファラオはギリシア人のプトレマイオス(アレクサンドロス大王の後継者のひとり)なので、点線で囲まれたギリシア文字は“ΠΤΟΛΕΜΑΙΟΣ”(ラテン文字表記=PTOLEMAIOS)だと思ったのですが、“ΠΤΟΛΕΜΑΙΟY”と読めました。《ツタンカーメン王の倚像(いぞう)》(新王国時代・第18王朝、前1330年頃)は、なぜか頭部が欠けています。10月1日付け中日新聞に写真が載っていましたね。

B ライデン国立古代博物館によるエジプトの発掘調査

 《円筒形壺》(初期王朝時代、第1王朝、前2900~2730年頃)は美しい乳白色のアラバスター(方解石)の壺。どうやって石を削ったのでしょうか?《椀》(後期メロエ時代、2~4世紀)は土器。《コプト十字架の断片》(古ヌビア時代、8~15世紀頃)は青銅製で、十字架の4本のうち1本が欠けています。当たり前ですが、キリスト教伝来以降の品物です。なお、コプトはアラビア語で「エジプト」を表すとのことです。

◎第2章 エジプトを発見する

A 古代エジプト史の概要

 《ワニの描かれた椀》(先王朝時代、ナカーダ期、前3750~3650年頃)は彩色土器、エジプトが統一される前の品物です。《クウと家族の供養碑》(中王国時代、第12王朝、アメネムハト2世の治世、前1878~1843年頃)は石灰岩製の四角い碑。人物と供物は浮彫で、ヒエログリフも彫られています。《タネトアメンのブタハ・ソカル・オシリス像》(第3中間期、第21王朝、前1076~944年頃)は木製の彩色像で、ヒエログリフは縦に書かれています。《イシスの像》(グレコ・ローマン時代、ローマ時代)は花崗閃緑岩の像で「姿勢はエジプト風、写実的な描写はギリシア・ローマ様式」という説明が付いていました。

(参考)古代エジプト史の歴史(2分間のビデオ+本展HPの内容)

 本展で上映されていたビデオの内容と本展HPの記事によれば、古代エジプトが存在したのは、紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝がローマに滅ぼされるまでの約3000年間。時代区分は、下記のとおりです。

○第1~第2王朝が「初期王朝時代」(前2900~2590年頃)

○第3~8王朝が「古王国時代」(前2592~2118年頃)で、ピラミッドが作られた時代

○第9~10王朝が「第1中間期」(前2118~1980年頃)で、混乱の時代

○第11~12王朝が「中王国時代」(前1980~1760年頃)で、流麗なスタイルが流行し後代にも影響を与えた時代

○第13~17王朝が「第2中間期」(前1759~1539年頃)で、再び混乱に突入し、第18~20王朝が「新王国時代」(前1539~1077年頃)で、ツタンカーメンは第18王朝のファラオでした

○第21~24王朝が「第3中間期」(前1076~723年頃)で、第25 ~30王朝と第2次ペルシア支配の時期が「後期王朝時代」(前722頃~332年)。「第3中間期」から「後期王朝時代」にかけては、リビア人や海の民、ヌビア人など、様々な外国勢力の侵入を受けた時代です

○アレクサンドロス大王の後継者のひとり=プトレマイオスがファラオとなったプトレマイオス朝から、プトレマイオス朝が滅ぼされ、ローマの属領となった時代までが「グレコ・ローマン時代」(前332年~後395年)で、ギリシアなどの影響を強く受けた美術様式が主流となった、とのことです

B 古代エジプト史の宗教

 古代エジプトは多神教で、上部が半円形の石灰岩に浮き彫りされた《イシスとオリシスが彫られた石碑》(新王国時代、第18王朝から第19王朝、前1300年頃)のような人間の形をした神だけでなく、《猫の像》《コブラ》《コウモリ》(いずれも青銅製、後期王朝、前722~332年頃)のような動物の神もいます。

◎第3章 エジプトを解読する

A 死後の世界

 古代エジプト人は「永遠の生」を信じており、パピルスに書かれた《ネスナクトの『死者の書』》(グレコ・ローマン時代、プトレマイオス朝、前304~30年)の解説には「来世への死者の旅路を案内する呪文の集成、通称『死者の書』と呼ばれる。この案内は(略)死者を守り、彼/彼女が来世における多くの障害を乗り越えるための手助けであった」と、書かれていました。《心臓スカベラ》(年代不詳)は、緑色の石で出来たフンコロガシで「古代エジプト人は、人間の思考をつかさどるのは心臓と考え、ミイラ制作時に体内に残した」という解説がついていました。《醸造所の模型》(中王国時代、前1980~1760年頃)は木製の副葬品で、11月3日付け中日新聞に「ビール醸造 詳細な工程」という表題の写真付き解説が載っていました。《護符とビーズの首飾り》(新王国時代、前1539~1077年頃)は9月30日付け中日新聞に写真が載っていました。

B 埋葬習慣の変化

 ミイラを納める棺、ミイラの制作方法、来世のための護符が出品されています。展示を見て知ったのですが、ミイラを埋葬する時は、ミイラの上に「ミイラ覆い」を載せて「内棺」に納め、「内棺」を更に「外棺」に納めたのですね。ミイラの棺はどれも大きくて、本展のハイライトのひとつです。詳細は本展HPをご覧ください。

《男のミイラの肖像》(グレコ・ローマン時代、ローマ時代、1~2世紀)は、ポンペイの壁画を思わせる肖像です。エジプトがローマの属領となった後もミイラの習慣はあったのですね。《ハビ神の護符》(年代不詳)は、11月4日付け中日新聞に「青色に『再生復活』願い」という表題の写真付き解説が載っていました。きれいな青緑色なのでトルコ石製かと思ったのですが、実は「ファイアンス」という、青色が特徴の焼き物でした。

◎第4章 エジプトをスキャンする

A 永遠の命:ミイラのベールを取る

展示の最後は、ミイラと、それをCTスキャンで透視したビデオで、本展の「もうひとつのハイライト」です。「科学の進歩はここまで来たのか」と、思いました。詳細は本展HPをご覧ください。

◎感想

本展チラシの「土日祝日・日時指定券」の説明に「館内での滞在時間は1時間半を目安にご鑑賞・ご利用いただくようお願いいたします」と印刷されていましたが、今回の鑑賞時間も1時間半。本展の鑑賞には「1時間半というのがちょうど良い頃合い」ということなのですね。

◎2020年度第3期コレクション展

協力会から案内・作品リストが送られてきたので、コレクション展も鑑賞しました。

・展示室8 《黒漆厨子 千体観音図貼付》愛知県文化財指定記念 木村三コレクションの仏教美術

今回は、仏教美術の工芸品が出品されていました。愛知県文化財に指定された《黒漆厨子》は厨子の内側に千体の観音像を描いた絵が貼り付けられたもの。外にも2点の黒漆厨子が出品されています。銅三鈷杵や銅独鈷杵、銅経筒、携帯できる仏像の《愛染明王香合仏》など、多数の仏具が並んでいました。

・展示室7 新収蔵記念かたかげり ―秋岡美帆とともに―

秋岡美帆(1952-2018)は「風景を撮影した写真を大きく引き伸ばした作品で知られる作家」との解説があり、仲田好江、島田鮎子、辰野登恵子の作品も出品されています。

・展示室6 クリンガーと「ブリュッケ」 ―令和元年度新収蔵作品を中心に―

クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》のほか、マックス・クリンガーやエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケルの版画などが出品されていました。

・展示室5 私は生まれなおしている ―令和2年度新収蔵作品を中心に―

愛知県美術館のHPに「新型コロナウィルス感染拡大の影響により、作品発表の場が減っている作家・アーティストを支援するため、愛知県では、今年度から3年間、美術品等取得基金に1億円の特別枠を設け、愛知県美術館で若手作家の現代美術作品を重点的に購入します」と、書いてあります。展示室5は、令和2年度に購入した作品のお披露目ですね。展示室に入って正面奥にネオンサインで制作したような作品があったので近寄ってみると、横山奈美《Sexy Man and Sexy Woman》(2018)でした。今年の6月に豊田市美術館のコレクション展でみた《LOVE》(2018)と同じ作者の作品です。遠目にはネオンサインの作品に見えますが、実は油絵でした。水戸部七絵《I am a yellow》(2019)は、大量の油絵具を盛り上げた塑像のような油絵。山田七菜子《海みずから泳ぐ海》(2012)は、青く塗られた大画面の中に赤が点在する作品。本山ゆかり《画用紙(柔道_左)》と《画用紙(柔道_右)》は、ハリガネ細工の人形を描いたような作品。山下拓也《TALIONの子(TALION GALLERRYの壁を使って欄陵王の彫刻を制作する》(2014-15)は、題名のとおりギャラリーの壁面で制作した立体作品でした。

美術館が若手作家の現代美術作品を重点的に購入するのは、好い試みだと思いますね。必見です。なお、会期は「古代エジプト展」「2020年第3期コレクション展」のいずれも、12月6日まで。

Ron.

読書ノート 『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)など

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豊橋市美術博物館で「手塚治虫展」が11月23日までの会期で開催されているので、手塚治虫を始めとする戦後まんがに関する書籍を2冊ご紹介します。

◆『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)

 皆さんご存知のとおり「トキワ荘」は、手塚治虫を始めとするマンガ家たちが住んだ木造2階建てのアパートです。特集には2020年7月にオープンした豊島区立トキワ荘マンガミュージアムを紹介するグラフ「ようこそ! トキワ荘マンガミュージアムへ」のほか、「トキワ荘 居住期間年表」「トキワ荘の青春」「黎明期のマンガ進化論」「水野英子と『少女マンガ』誕生」「トキワ荘こぼれ話」「マンガ家たちのそれから」など、読み応えのある記事がひしめいています。

○トキワ荘 居住期間年表

主なマンガ家の居住期間は次のとおりです。手塚治虫=昭和28年1月~29年10月、藤子・F・不二雄/藤子不二雄A=昭和29年10月~36年10月、石ノ森章太郎=昭和31年5月~36年12月、赤塚不二夫=昭和31年8月~36年10月、水野英子=昭和33年3月~10月。このうち、藤子不二雄の二人は手塚治虫と入れ替わりに入居。また、水野英子はトキワ荘に住んだ唯一人の女性マンガ家です。7か月入居した後、故郷の下関に戻りますが、また上京して「少女マンガ」のパイオニアになります。

○絵物語 「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部

11のエピソードで構成されています。①「ジャングル大帝」最終回、藤子A感涙のアシスタント、⑥手塚治虫行方不明?「ぼくのそんごくう」代筆事件、⑧紅一点、水野英子来る!⑩赤塚不二夫がギャグマンガでついにブレイク!など、エピソードのタイトルを読むだけでも興味津々です。

○黎明期のマンガ進化論 文:中条省平

「戦後日本マンガは手塚治虫とともにはじまったといっても過言ではないでしょう」という言葉で始まります。「『新宝島』の衝撃」という章では、手塚治虫の『新宝島』(1947刊行)を見て藤子不二雄A(安孫子素雄)が発した「これは映画だ。紙に描かれた映画だ」という驚きの言葉が紹介され、「後にトキワ荘に集まる藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫のマンガ人生の軌跡は、手塚治虫のマンガとの出会いから始まったのです」と続けています。また、「卓抜な石ノ森のセンス」という章では「いちばん最初に独創的なマンガ表現に踏みだしたのは、4人のなかで最年少の石ノ森章太郎でした。(略)石ノ森のスタイルの唯一無二の特色が鮮やかに表れたのは、意外なことに少女マンガのジャンルにおいてでした」と、書かれています。

○水野英子と「少女マンガ」誕生 構成・文 図書の家

 筆者は「恋愛を描くことがタブーとされていた少女マンガ黎明期、ロマンティックな恋愛を最初に持ち込んだのは水野英子である。(略)人と人の関係性や繊細な感情の機微を描くことを重要視する、今ある少女マンガの原型を、1950年代末にすでに完成させていた功績は高く評価されるべきである。(略) 69年からスタートした「ファイヤー!」は、その当時世界を席巻していたロック、ヒッピー・ムーブメントを描き、社会問題も色濃く反映した作品で、同性愛にも深く切り込んでいる。余談だが、そうした水野作品を読みながら育ち、強く影響されマンガ家を志した、いわゆる“花の24年組”と呼ばれる主な作家たちがデビューしたのは、実にこの69年前後である」と、その功績をたたえています。

○ミニコラム トキワ荘こぼれ話

「⑧他にもあったマンガ家コミュニティ」で紹介されるコミュニティは先ず、トキワ荘が一杯になった頃に上京した松本零士に、ちばてつや、牧美也子、トキワ荘を出た後再び上京していた水野英子ら女性マンガ家も加わった「本郷グループ」。次に、手塚・トキワ荘的なストーリーマンガとは一線を画す一派をなした、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを等の劇画制作集団「劇画工房」です。

○エピローグ マンガ家たちのそれから

「早すぎた死」という章が切なかったですね。「平成元年(1989)2月、手塚治虫が亡くなった。胃がんだった。(略)手塚の最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」だったという。平成8年(1996)9月には、藤子・F・不二雄が仕事場で倒れ、その3日後に死去。石ノ森章太郎は、平成10年(1998)1月に亡くなった。手塚と石ノ森は60歳で、藤子Fは62歳だった。若い頃から徹夜は当たり前で、無理に無理を重ねて、膨大な量の仕事をこなしてきただろうか。あまりにも早すぎる死だ」と書かれています。本当に「もう少し生きていてほしかった」と、思いました。

◆『まんがでわかる まんがの歴史』大塚英志 角川書店 2017年11月4日発行

 「まんが日本の歴史」などの「学習まんが」と同じような「日本まんがの歴史書」です。近所の図書館で借りてきました。以下は、面白いと思った内容です。

「日本型のまんが」とは

著者は、戦後日本まんがのキャラクターについて、①額や目や鼻や口や耳の各パーツ(「記号」)を組み合わせる「描き方」(「ミッキーの書式」)をしている、②ミッキーマウスは「記号」の組み合わせなので、ガケから落ちても死なないし、成長しない。しかし、戦後日本のキャラクターは「ジャングル大帝」に登場するレオのように成長するし、死ぬこともある、③リアルな身体を持っているので、心があり、思い悩むことも可能という、三つの特徴があるとしています。

また、このキャラクターに「映画的手法」と「ストーリー」が組み合わさって「日本型のまんが」になる、とも説明しています。

16歳の手塚治虫少年のノートの中で戦後まんがは生まれた

著者は「映画的手法は、戦争中のまんがに文化映画が侵入する過程で成立し、それを手塚が長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て、ノートに描いた習作『勝利の日まで』に持ち込んだのであって、誰か個人の発明というわけではない(略) 「新宝島」で映画的手法が「発明された」という説は否定されるが、この作品に衝撃を受けたまんが少年たちが多数いたことは重要」と解説。藤子不二雄Aの『まんが道』や自伝を引用して、その衝撃の大きさを書いていました。

少女まんがについて

著者は「第5講 ミュシャと与謝野晶子から少女まんがは生まれた ―アール・ヌーヴォーと『明星』の挿絵―」で、「少女まんがの絵。実はその起源は「外国」にあるのです。それがミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーの「絵」です。ただ、この「絵」によってもたらされたものが、まんがの様式と最終的に結びついていくのは戦後少女まんが史のことです。しかし始まりは明治にあります!」として、一条成美が雑誌『明星』誌上で晶子の詩に付したイラストや『明星』の表紙などを紹介しています。この内容は、同じ著者の角川新書「ミュシャから少女まんがへ」(2019年7月10日発行)にも書かれていますが、まんがによる解説の方が、感性に訴えるので分かりやすいと感じました。

◆最後に

 「手塚治虫展」の年表には、手塚治虫が「ジャングル大帝」の連載中に東京へ進出し、トキワ荘に住んだことが書かれていました。また、「映画的手法」「ストーリーマンガ」についても、詳細な解説がありました。とはいえ「手塚治虫展」では図録が見当たらなかったので、上記の2冊は「手塚治虫展」で知った内容を更に深めたり広げたりするのに、とても役立ちました。

 蛇足ですが、豊橋市美術博物館の「手塚治虫展」・玄関ホールでは、100人に近いキャラクターが来館者をお迎えしているそうですよ。

    Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館のコレクション展 第2幕

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豊田市美術館(以下「豊田市美」)開館25周年記念展の第2幕が始まったので、行ってきました。第1幕のテーマは「光について/光をともして」でしたが、今回のテーマは「DISTANCE いま見える景色」。展覧会は5展示室から第8展示室までを使った「豊田市美術館25年のあゆみ―展覧会ポスターとコレクション」と、第1展示室から第4展示室までを使った「距離のたのしみ―所蔵作品にみる遠近の感覚」の2つで構成され、2階通路でも特集展示「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUTUS こざかほんまち」を開催しています。

◎「豊田市美術館開館25周年のあゆみー展覧会ポスターとコレクション」

 1階の第8展示室に入ると、最初に展示されていたのはコロマン・モーザー《花入れ》(製作1904;→1724)とヨーゼフ・ホフマン《フラットウエア・サーヴィス》(製作1904:ナイフ、フォークのセット)。続いて、マルセル・ブロイヤー《ワシリーチェア》(デザイン1925;→117)、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ《アームチェア(MR534)》(デザイン1927;→352)などの名作椅子も展示。前者はオーストリア(ウィーン工房)、後者はドイツ(バウハウス)のデザインですが、オランダのデ・スティルに参画したヘリット・トーマス・リートフェルト《ベルリン・チェア》(デザイン1923、再製作1958;→1794)の展示もありました。蛇足ですが《ワシリーチェア》は名古屋市美術館のロビーに置かれており、来館者は自由に腰掛けることができますよ。

ワシリーチェア

次に目を引いたのが、プラスチックの破片を虹のように散りばめた、トニークラッグ《スペクトラム》(1979;→1737)。2011年に開催された「Play / Pray あそぶ美術、おもう美術」に出品された作品です。森村泰昌《なにものかへのレクイエム(創造の劇場/ヨーゼフ・ボイスとしての私》(2010)は、デュッセルドルフ芸術アカデミーで講義しているボイス(?)に扮した作品。豊田市美術館では来年、「ボイス+パレルモ」の開催を予定しているので出品したのでしょうか。先日見た、ゲルハルト・リヒターをモデルにした映画『ある画家の数奇な運命』の講義シーンを思い出しました。

「1億1000万円で購入」と新聞報道のあった奈良美智の大きな(220×195cm)作品《Through the Break in the Rain》(2020)は第8展示室にあり、その左の床には同じ作者の人形《Girl on the Boat》(1994;→11267)も出品されています。第6、第7展示室は、いつもどおり小堀四郎と宮脇晴・綾子の作品を展示。

2階に移動して「距離の楽しみ――所蔵作品にみる遠近の感覚」を鑑賞した後、第5展示室で目を引いたのがフジイフランソワの作品《鶏頭蟷螂図》(2008)《コブコブラ》(2008)《桃太郎》(2007;→17675)の3点です。遠目には「明治の日本画?」と思ったのですが、展覧会ポスターには「綯交(ないまぜ)-remix- フジイフランソワ、いったいこやつのアートはいかに。2008.04.22-06.27」という文字が印刷されています。家に帰って豊田市美術館HPで「過去の展覧会」を検索すると「名古屋在住のコテコテの日本人でありながら、フランソワという男の名を語る女絵師、フジイフランソワ」という解説がありました。摩訶不思議な作品です。また、黒田辰秋《拭漆家具セット》(1964;→6986)は、とても立派なもの。岸田劉生の《自画像》(1913→4773)《麗子洋装之図(青果持テル)》(1921;→462)も出品されています。

黒田辰秋の家具

◎「距離のたのしみー所蔵作品にみる遠近の感覚」

 2階の第1展示室に入ると、アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの胸像》(1954;→1291)が展示され、その向こうには若林奮の作品が「これでもか」というほど並んでいます。3階の第2展示室には松江泰治の写真などが、第3展示室には中西夏之、設楽知昭の作品などが、第4展示室には河原音温の「Todayシリーズ」などが並んでいます。抽象的な作品が数多く並んでいるなかで、山本丘人の日本画《海の微風》(1936;→7658)を見つけた時は、思わずホッとしました。

◎「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS こざかほんまち」

 2階の廊下には、コロナ禍のなかで岡﨑乾二郎がアトリエに籠って集中的に描いた150点を越える絵画シリーズ「TOPICA PICTUS」の中から10点が展示されています。作品リストはありませんが、作品ごとにリーフレットが印刷されケースに入っているので、自由に持ち帰ることができます。

◎最後に

 年間パスポートを購入しようとしたのですが「現在は販売していない」との回答なので、観覧券を購入して展覧会を鑑賞しました。豊田市美術館の全館と高橋節郎館を見て300円ですから「とてもお値打ち」ですよ。

 家に帰ってから作品リストを読み返し、作品リストのコレクション・オーディオガイド番号(上記「;→」の後に記載)を豊田市美術館HPで入力して音声ガイドが聞けることを知りました。「利用の際は当館Free Wi-Fi(Museum_Toyota_Free_Wi-Fi)をご活用ください」とのこと。音声ガイドを聞くときはイヤホンをお忘れなく。

Ron.

展覧会見てある記 「手塚治虫展」 豊橋市美術博物館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日、豊橋市美術博物館で開催中の「手塚治虫(てづか・おさむ)展」(以下「本展」)に行ってきました。マスクを着用し、手指の消毒と検温を済ませると、鉄腕アトムの人形が出迎えてくれました。展示室は4つ。第1企画展示室と第2企画展示室では手塚治虫の生い立ちと描いたマンガの直筆原稿などを、特別展示室ではアニメーションの原画・絵コンテなどを、第3企画展示室では手塚治虫の作品に込められたメッセージを展示しています。

アトムの人形

◎手塚治虫の生い立ちと描いたマンガ(第1企画展示室・第2企画展示室)

 手塚治虫は1928年11月3日生まれ。9歳(小3)の時に「ピンピン生チャン」を描いています。また、「紙の砦」(「週刊少年キング」1975.1.1号)の直筆原稿には、旧制中学校の軍事教練における教官の暴力や軍需工場における勤労動員、空襲の体験など、戦時中の様子が描かれていました。

 1945年、大阪大学付属医学専門部に入学。在学中に「ママチャンの日記帳」(「小國民新聞」(現在の「毎日小学生新聞)」1946.1.1~3.31)で漫画家としてデビューし、「ジャングル大帝」(「漫画少年」1950年11月号~1954年4月号)にも着手。1952年に医師の国家試験合格後、東京へ進出します。

手塚治虫のマンガの特徴やマンガの描き方についての解説もあります。手塚治虫のマンガの特徴は、映画的手法を採り入れたこととスターシステムの二つです。手塚治虫の映画的手法は、1大胆な構図、2移動する視点、3動き(流線、集中線などの効果線)、4クローズアップ、5擬音としての描き文字、6陰影、7群衆シーン、8モンタージュ(断片を組み合わせる)の8つで、具体例付きの解説がありました。なお、「スターシステム」と「マンガの描き方」については、本展をご覧ください。

1989年2月9日、手塚治虫は胃ガンのために死去。絶筆作品となった「ルードウィッヒ・B」(「コミックトム」1987.6月号から1989.2月号)、「グリンゴ」(「ビッグコミック」1987.8.10号~1989.1.25号)、「ネオ・ファウスト」(「朝日ジャーナル」1988.1.1号~1988.12.16号)の直筆原稿も展示されています。

◎アニメーション(特別展示室)

 「鉄腕アトム」(フジテレビ系 1963.1.1~1966.12.3)を始めとするアニメーションの直筆原画、セル画などが展示されています。なかでも興味深かったのは「手塚治虫のテレビアニメ制作システム」と題する解説です。手塚治虫は、時間と予算に制約のあるテレビアニメの制作を可能にするため、①1秒間に撮影する枚数を減らす、②口パク、目パチ(口、目だけを描いたセルを重ねて撮影)、③同じ絵を使いまわす、④動く絵を描くのではなく、絵そのものを動かすようにした、というものです。「テレビアニメはアニメーション映画とは別物」ということが、よく分かりました。

また、「セル画アニメーションの制作工程」と題して、企画、シナリオから始まって、編集、音楽・効果音・セリフの録音までの工程を解説したコーナーもあります。特に、原画(節目にあたるポーズを描く)と動画(原画の間の絵を埋めて動きを完成する)の違いは、NHK連続テレビ小説「なつぞら」で主人公・奥原なつが勤めていたアニメーション制作会社の様子を思い浮かべながら読みました。

◎手塚治虫のメッセージ(第3企画展示室)

 「鉄腕アトム」(「少年」1952.4月号~1968.3月号)には「科学と人間のディスコミュニケーション」という表題の、「ブラック・ジャック」(「少年チャンピオン」1973.11.19号~1983.10.14号)には「医者は何のためにあるか」という表題の解説があり、直筆原画も展示されています。手塚治虫の作品の制作意図などをもう一度考えてみる良い機会になりました。手塚治虫の死後31年過ぎましたが、「鉄腕アトム」や「ブラック・ジャック」に込められたメッセージは、今でも古びていないと感じます。

◎最後に

本展の企画制作は株式会社手塚プロダクション。直筆原稿等は約300枚、映像・資料・愛用の品々も展示されており、じっくりと鑑賞するだけの価値がある展覧会だと思います。ただ、直筆原稿やアニメの絵コンテなどは小さな物が多いので、鑑賞用の単眼鏡があると便利です。会期は11月23日まで。

手塚氏愛用の机と椅子

なお、大人の当日観覧券は1,000円ですが、公共交通機関を利用する場合はセット販売(豊橋鉄道市内線1日乗車券+当日観覧券=1,000円)がお得です。豊橋鉄道「新豊橋駅」(JR豊橋駅の東)で販売していますよ。

Ron.

映画『ある画家の数奇な運命』

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

『ある画家の数奇な運命』は2018年制作のドイツ映画、ドイツを代表する現代美術家ゲルハルト・リヒター(以下「リヒター」)をモデルにした作品です。協力会のS氏から「リヒターの映画が10月2日から上映される」というメールを受けた後、9月25日発売の『芸術新潮』10月号「art NEWS」が取り上げ、10月1日発売の『週刊文春』10月8日号でも「Cinema Chart」「Close Up」と、二つの記事で取り上げていたので、矢も楯もたまらず伏見ミリオン座に出かけました。伏見ミリオン座では手指の消毒とマスク着用が求められたものの、入場制限はありませんでした。映画の上映前に、室内の換気が徹底されていることをアピールする動画が流され、テレビでお馴染みの愛知医科大学病院・三鴨医師も太鼓判を押していたので、新型コロナ感染予防策については安心しました。

序盤=話の中心はエリザベト叔母さん

映画の上映時間は189分。3時間を超す大作です。映画の舞台は大きく三つに分かれ、第二次世界大戦前と戦中のドイツが序盤の舞台です。リヒターの叔母(母親の妹)エリザベトを中心にストーリーが展開します。始まりは1937年、「頽廃美術展」のドレスデン会場(史実では1933年開催)。作品を解説する人物が口汚く罵るモンドリアンやカンディンスキーの抽象画を見ながら、エリザベトが5歳のクルト(モデルはリヒター)に「わたしはこの作品が好き」(日本語字幕の映画なので、話しているのはドイツ語)とささやく場面が印象的でした。

エリザベトが統合失調症と診断され、数人の病院職員の手で救急車に押し込まれるとき、クルトに向って「目をそらさないで」と叫ぶ場面は、見ていて辛かったですね。当時のドイツでは、優生思想(遺伝的に劣った人間を社会から排除すべきという考え方)に基づき、障害者を「青の-=断種手術」と「赤の+=無価値な命」とに区分することを決定。彼女は病院のゼーバント院長(産婦人科医)に何度も「助けて」と懇願しましたが、「赤の+」との鑑定を受けます。直ちにグロスシュヴァイトニッツの施設に送られ、その後、多くの精神障害者・知的障害者と一緒にガス室に送られます。大空襲でドレスデンの街が真っ赤になり、多くの人命が失われ、美しい街並みがことごとく破壊された後、1945年5月8日にソ連軍がやって来て戦争関係者を取り調べる場面で序盤は終わります。

中盤=義父の圧力で重苦しい展開

第二次大戦終結後の東ドイツが中盤の舞台です。1951年、クルトは工場で看板の文字を書く仕事をしていますが、その才能が認められ、ドレスデンの美術学校に入学することができます。美術学校でクルトは被服科の女学生エリザベト(以下「エリー」)と知り合い、二人は恋に落ちます。クルトがエリーの家に行くと、そこは3階建ての豪邸。何と、エリーの父親は叔母のエリザベトを「赤の+」と鑑定したゼーバント院長でした。彼はナチ政権による障害者の大量殺人に加担した疑いでソ連軍の取り調べを受けましたが、ある事情で釈放され、病院長に復職していたのです。一方、クルトの父親はナチス党員だったことで教師の職を失い、病院の清掃夫をしていましたが、自殺してしまいます。(リヒターの父は自殺していません)1956年、ドレスデンの美術学校の卒業制作が評価されてクルトは壁画制作をまかされますが、社会主義リアリズムの絵画に疑問を感じるようにもなっています。

その後、ナチ政権における障害者大量殺人の関係者を捜索するソ連軍の動きが迫っていることを知ったゼーバント院長は、捜索を逃れるため西ドイツに渡り、西ドイツで職を得ます。クルトとエリーも1961年3月31日に、西ベルリンを経由して、西ドイツに渡ります。中盤はここまで。なお、ベルリンの壁ができたのは1961年8月13日。映画の終盤に、クルトが壁の建設を知る場面があります。

終盤(前半)=苦闘するクルト

西ドイツが終盤の舞台です。先に西ドイツに渡った仲間は、クルトに「絵画を続けるのなら、前衛的なデュッセルドルフはやめておけ」と忠告しますが、クルトは敢えてデュッセルドルフの芸術アカデミーへの入学を選択。デュッセルドルフの芸術アカデミーには、木製の机や椅子に釘を打ち付けて作品を制作するハリー、角材を組み合わせたオブジェにジャガイモを貼り付けるアーレント、壁紙のような作品を制作し、商売上手なアドリアン・シンメルなど個性的な学生が揃っていました(いずれも、モデルの作家あり)。極めつけは、いつも帽子を被り、フェルトと脂で作品を制作するフェルテン教授(モデルはヨーゼフ・ボイス)。クルトは、彼の指導の下で学びます。

前半の最後近くに、フェルテン教授がクルトに「作品を見せてほしい」という場面があります。クルトの作品を見たフェルテン教授は、「タタール人は頭の傷口に脂を塗り、体をフェルトで包んだ。1年間、彼らに世話をしてもらった後、米軍の捕虜となった。それ以来、脂とフェルトは私に染みついている」と、第二次世界大戦中に乗っていた爆撃機が墜落して、タタール人に助けられた話(「ボイスによるフィクション」とWikipediaが書いてるエピソード)をします。そして、クルトに「君は誰だ。何者なのだ。これは君じゃない」と言って、部屋を去ります。教授が去った後、クルトは、それまでの作品をすべて燃やし、白いキャンバスに向いますが、何も描けません。

その後、義父のゼーバントはクルトに「30歳にもなって、まだ学生か」と言い、金銭の支援を申し出ますが、クルトは拒絶。それではと、義父は病院清掃作業のパートを斡旋。クルトは一日3時間、掃除夫の仕事を始めます。

終盤(後半)=成功に向けてまっしぐら

ある日、義父はクルトを喫茶店に呼び出し、パスポートの申請に必要な資料を役所に届けるよう依頼。そこに、新聞売りが「安楽死の首謀者逮捕」と言って、障害者大量殺人の首謀者ブルクハルト・クロル(史実では、ヴェルナー・ハイデ)の写真が1面に載った新聞を売りに来ます。新聞をちらっと見た義父は、あわてて退席。クルトは店から出るとき、見ず知らずの客から、逮捕記事が載った新聞を譲り受けます。

クルトはアトリエで、新聞に載った首謀者の写真に縦・横の線を等間隔に引き、キャンバスにも同様に縦・横の線を等間隔に引いて、縦横の線を基準にして写真をキャンバスに模写。首謀者の写真の模写が完成すると、次にエリザベトとクルトが一緒に写っている写真を模写。この模写が完成すると、義父のパスポート写真を模写に投影。その後、エリザベトとクルトが一緒に写っている写真の模写の上から刷毛で白い絵の具を塗り重ねて像をボカします。そう、「フォトペインティング」の完成です。クルトは更に、エリザベトと義父、首謀者の写真を重ねて、模写を制作。ある日、クルトのアトリエに入ってきた義父は、エリザベトと義父、首謀者の三人が描かれた作品を見て、ひどく取り乱します。隣のアトリエにいたハリーはびっくりして、義父が取り乱した理由を聞きますが、クルトにもわかりません。クルトは、それとは知らずに、義父を告発する作品を描いていたのです。

クルトは自分の進むべき道を見出しただけでなく、妻の妊娠も知ります。クルトは、アカデミーの階段を下りてくる全裸のエリーをローライの二眼レフで撮影して、フォトペインティングの作品を制作します。

映画の中盤で、自殺した父親と統合失調症の叔母を持つクルトの遺伝子を受け継ぐ孫の誕生を嫌悪した義父は、嘘を言って、自宅でエリーに人工妊娠中絶を施術しています。この手術の影響でエリーは妊娠しにくい体になっていたため、「妊娠できたこと」はクルトとエリーにとって、この上ない喜びでした。

1966年、アドリアン・シンメルはクルトのために個展を企画。テレビ局の記者が、《母と子》(エリザベトとクルトが一緒に写っている写真を模写)の前で、「無作為に選ばれた写真を模写しているが、何故か力がある。死んだと言われた絵画は、『作者なき作品』という手法で復活した」と、個展を紹介。個展は大成功でした。個展会場を後にしたクルトは路線バスの車庫を見つけ、運転手にお願いして複数のバスのクラクションを一斉に鳴らすという、エリザベトが好んだ悪戯をしました。クルトはバスのクラクションを全身で受けとめ、個展の成功に酔いしれます。クルトの成功は、今は亡きエリザベトが導いたものだったのです。

映画の中のフィクションと事実

週刊文春の「Close Up」には「リヒターは映画化にあたって、登場人物の名前を変えること、何が事実かを明かさないことを条件に出した」と書いてあります。現在、NHKで放送中の「エール」も、作曲家・古関裕而をモデルにしていますが、主人公の名前は古山裕一。また、そのストーリーは事実とフィクションが入り混じったものです。この映画も「エール」と同じですね。「パラレルワールドのリヒター伝」と割り切って鑑賞しました。

映画に登場した作品について

『芸術新潮』の記事によれば「映画に出てくる作品はリヒターの実作をもとに、彼のアシスタントが制作した」とのことです。私は、映画に出てくる作品のうち《母と子》のモデルを、2014年、名古屋市美術館に巡回した「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展」という実に長い題名の展覧会で見たことがあります。それは《叔母マリアンネ》(1965)という、赤ん坊を抱く、あどけない少女の像でした。説明を読んでも、何で描いたのか良く理解できなかったのですが、この映画で、作品が制作された背景を窺うことができました。また、全裸のエリーを描いた作品のモデルは《エマ 階段を降りる裸婦》。ネットを検索すれば見ることができます。

映画の題名について

ドイツ語の原題は、“WERK OHNE AUTOR”(作者なき作品)で、リヒターの制作手法を表わしたものです。英語の題名は、”Never Look Away”(目をそらさない)。映画の中でエリザベト叔母が叫んだ言葉によるものです。また、週刊文春「Close Up」は、リヒターは「何を質問したとしても、この人は賢いとか愚かだとか考えずに答えてくれるんです。まさに ”Never Look Away” を体現している人」と書かれています。

『ある画家の数奇な運命』という日本語の題名は映画の内容を説明していますが、この作品はクルト個人の数奇な体験だけではなく、ナチス政権化のドイツ、東西分裂後の東ドイツ、前衛芸術の運動が爆発していたデュッセルドルフなど、激動の時代も描いている広くて深い内容のものでした。

最後に

来年、フェルテン教授のモデルになったヨーゼフ・ボイスの展覧会「ボイス+パレルモ」が豊田市美術館(ヨーゼフ・ボイスの作品を所蔵)で開催されます。「開催時期は調整中」とのことですが、楽しみですね。

Ron.

大塚信一 著 『長谷川利行の絵』と『中村正義の世界』

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

今年の梅雨明け後は、新型コロナ感染予防だけでなく熱中症対策も必要となり、再び巣ごもり生活に戻ってしまいました。そんな中で読んだ本を二冊、ご紹介します。

◆『長谷川利行の絵 芸術家と時代』 大塚信一著(作品社) 2020.5.25発行

 一冊目は8月9日付け中日新聞で知った本です。2018年に碧南市藤井達吉現代美術館などを巡回した「長谷川利行展」の監修者・原田光氏が書評を書いていたので、早速購入しました。

著者の大塚信一(おおつか・のぶかず)氏は岩波書店の元社長。長谷川利行(はせかわ・としゆき)の絵画だけでなく著作や展覧会評なども丹念に読み込んで、「芸術家」としての魅力の源泉を解き明かしています。荒っぽく要約すると、長谷川利行は①関東大震災の強烈な体験で「物を見る眼」を鍛えられ、②京都に戻った二年間の研鑽のなかで「子供のように、幼児の如く、知識や先入観に捉われることなく、ひたすら無心に、自由奔放に描く」(本書p.69)ことを体得し、③その芸術は正宗得三郎、有島生馬、そして熊谷守一に評価され、④吉井忠、麻生三郎などの若い画家の信頼を集め、⑤文筆活動においても「日本画を含めて世界の美術状況を把握した上で、日本洋画壇に対する根源的な批判を行った」(本書p.193)というものです。

2018年に協力会ミニツアーで、碧南市藤井達吉現代美術館で開催された「長谷川利行展」を鑑賞したときは『木葦集』や吉井忠、麻生三郎など若い画家の集合写真の展示を見ても、あまりピンとこなかったのですが「当時この本が出版されていたら、もう少し深く鑑賞できたのでは」と、残念に思いました。

最後に、この本で一番驚いたのは「あとがき」に書かれた「私は2017年8月に『反抗と祈りの日本画――中村正義の世界』(集英社ヴィジュアル新書)を上梓した。(略)病気がちの正義は、病床で壁に掛けられた長谷川利行の《安来節の女》を眺める度に、画家としての自戒の念を新たにしていたというエピソードを知って(略)書き始めたのが本書である」(本書p.227)という文章です。そのため、『反抗と祈りの日本画――中村正義の世界』も買う羽目になってしまいました。

◆『反抗と祈りの日本画――中村正義の世界』大塚信一著(集英社ヴィジュアル新書)2017.8.24発行

 この本で確かめると、上記の「あとがき」が言及した、病気見舞いとして画商から贈られた長谷川利行《安来節の女》について、中村正義は「……この作品は長く私の座右にあって私に良く話しかけた。絵を描くことを“商売”としていた私に、『絵かき屋さん』と、いつもこんなふうに話しかけるのだった。そして時には私を辱め、また時には、私を嘲笑しているかのように見えることもあった。日展をやめるようにすすめてくれた恩人も長谷川さんだったかもしれない」(本書p.20)と書いていました。

 木賃宿や簡易宿泊所を転々とする悲惨な放浪生活を送った長谷川利行が、旧態然とした画壇と格闘し、厖大な作品を制作するだけでなく友人や後輩を助けた中村正義を勇気づけたというのは不思議な取り合わせです。中村正義は長谷川利行が絵画に取り組む姿勢よく理解し、作品から感銘を受けたというのでしょうね。著者が『長谷川利行の絵 芸術家と時代』を書かざるを得なくなったのも、納得です。

 本書は第Ⅰ部で中村正義の生涯を記し、第Ⅱ部で作品を分析しています。特に力を入れているのが「舞妓」のシリーズ。なかでも《舞子(黒い舞妓)》については、2011年に名古屋市美術館で開催された『日本絵画の風雲児 中村正義 新たなる全貌展』(以下『中村正義展』)の図録から「日本文化の華として雛人形のように着飾った舞妓の隠された正体を暴いたのである」(山田諭「限りなく変貌を続ける絵画―中村正義の芸術について」)という文章を引用しています。この外、《舞妓》シリーズや《顔》シリーズについて、個々の作品を区別するため『中村正義展』に付された番号を使うなど、過去の展覧会の図録や先行の研究書を読み込んで、分かりやすく書いています。5月に豊橋市美術博物館の常設展で展示されていた《舞妓》や《女(赤い舞妓)》についても触れており、手に入れやすい「中村正義の解説書」です。『中村正義展』の図録は手元にないので、この本を買ってよかったと思いました。

    Ron.

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