読書ノート 『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)など

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊橋市美術博物館で「手塚治虫展」が11月23日までの会期で開催されているので、手塚治虫を始めとする戦後まんがに関する書籍を2冊ご紹介します。

◆『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)

 皆さんご存知のとおり「トキワ荘」は、手塚治虫を始めとするマンガ家たちが住んだ木造2階建てのアパートです。特集には2020年7月にオープンした豊島区立トキワ荘マンガミュージアムを紹介するグラフ「ようこそ! トキワ荘マンガミュージアムへ」のほか、「トキワ荘 居住期間年表」「トキワ荘の青春」「黎明期のマンガ進化論」「水野英子と『少女マンガ』誕生」「トキワ荘こぼれ話」「マンガ家たちのそれから」など、読み応えのある記事がひしめいています。

○トキワ荘 居住期間年表

主なマンガ家の居住期間は次のとおりです。手塚治虫=昭和28年1月~29年10月、藤子・F・不二雄/藤子不二雄A=昭和29年10月~36年10月、石ノ森章太郎=昭和31年5月~36年12月、赤塚不二夫=昭和31年8月~36年10月、水野英子=昭和33年3月~10月。このうち、藤子不二雄の二人は手塚治虫と入れ替わりに入居。また、水野英子はトキワ荘に住んだ唯一人の女性マンガ家です。7か月入居した後、故郷の下関に戻りますが、また上京して「少女マンガ」のパイオニアになります。

○絵物語 「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部

11のエピソードで構成されています。①「ジャングル大帝」最終回、藤子A感涙のアシスタント、⑥手塚治虫行方不明?「ぼくのそんごくう」代筆事件、⑧紅一点、水野英子来る!⑩赤塚不二夫がギャグマンガでついにブレイク!など、エピソードのタイトルを読むだけでも興味津々です。

○黎明期のマンガ進化論 文:中条省平

「戦後日本マンガは手塚治虫とともにはじまったといっても過言ではないでしょう」という言葉で始まります。「『新宝島』の衝撃」という章では、手塚治虫の『新宝島』(1947刊行)を見て藤子不二雄A(安孫子素雄)が発した「これは映画だ。紙に描かれた映画だ」という驚きの言葉が紹介され、「後にトキワ荘に集まる藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫のマンガ人生の軌跡は、手塚治虫のマンガとの出会いから始まったのです」と続けています。また、「卓抜な石ノ森のセンス」という章では「いちばん最初に独創的なマンガ表現に踏みだしたのは、4人のなかで最年少の石ノ森章太郎でした。(略)石ノ森のスタイルの唯一無二の特色が鮮やかに表れたのは、意外なことに少女マンガのジャンルにおいてでした」と、書かれています。

○水野英子と「少女マンガ」誕生 構成・文 図書の家

 筆者は「恋愛を描くことがタブーとされていた少女マンガ黎明期、ロマンティックな恋愛を最初に持ち込んだのは水野英子である。(略)人と人の関係性や繊細な感情の機微を描くことを重要視する、今ある少女マンガの原型を、1950年代末にすでに完成させていた功績は高く評価されるべきである。(略) 69年からスタートした「ファイヤー!」は、その当時世界を席巻していたロック、ヒッピー・ムーブメントを描き、社会問題も色濃く反映した作品で、同性愛にも深く切り込んでいる。余談だが、そうした水野作品を読みながら育ち、強く影響されマンガ家を志した、いわゆる“花の24年組”と呼ばれる主な作家たちがデビューしたのは、実にこの69年前後である」と、その功績をたたえています。

○ミニコラム トキワ荘こぼれ話

「⑧他にもあったマンガ家コミュニティ」で紹介されるコミュニティは先ず、トキワ荘が一杯になった頃に上京した松本零士に、ちばてつや、牧美也子、トキワ荘を出た後再び上京していた水野英子ら女性マンガ家も加わった「本郷グループ」。次に、手塚・トキワ荘的なストーリーマンガとは一線を画す一派をなした、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを等の劇画制作集団「劇画工房」です。

○エピローグ マンガ家たちのそれから

「早すぎた死」という章が切なかったですね。「平成元年(1989)2月、手塚治虫が亡くなった。胃がんだった。(略)手塚の最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」だったという。平成8年(1996)9月には、藤子・F・不二雄が仕事場で倒れ、その3日後に死去。石ノ森章太郎は、平成10年(1998)1月に亡くなった。手塚と石ノ森は60歳で、藤子Fは62歳だった。若い頃から徹夜は当たり前で、無理に無理を重ねて、膨大な量の仕事をこなしてきただろうか。あまりにも早すぎる死だ」と書かれています。本当に「もう少し生きていてほしかった」と、思いました。

◆『まんがでわかる まんがの歴史』大塚英志 角川書店 2017年11月4日発行

 「まんが日本の歴史」などの「学習まんが」と同じような「日本まんがの歴史書」です。近所の図書館で借りてきました。以下は、面白いと思った内容です。

「日本型のまんが」とは

著者は、戦後日本まんがのキャラクターについて、①額や目や鼻や口や耳の各パーツ(「記号」)を組み合わせる「描き方」(「ミッキーの書式」)をしている、②ミッキーマウスは「記号」の組み合わせなので、ガケから落ちても死なないし、成長しない。しかし、戦後日本のキャラクターは「ジャングル大帝」に登場するレオのように成長するし、死ぬこともある、③リアルな身体を持っているので、心があり、思い悩むことも可能という、三つの特徴があるとしています。

また、このキャラクターに「映画的手法」と「ストーリー」が組み合わさって「日本型のまんが」になる、とも説明しています。

16歳の手塚治虫少年のノートの中で戦後まんがは生まれた

著者は「映画的手法は、戦争中のまんがに文化映画が侵入する過程で成立し、それを手塚が長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て、ノートに描いた習作『勝利の日まで』に持ち込んだのであって、誰か個人の発明というわけではない(略) 「新宝島」で映画的手法が「発明された」という説は否定されるが、この作品に衝撃を受けたまんが少年たちが多数いたことは重要」と解説。藤子不二雄Aの『まんが道』や自伝を引用して、その衝撃の大きさを書いていました。

少女まんがについて

著者は「第5講 ミュシャと与謝野晶子から少女まんがは生まれた ―アール・ヌーヴォーと『明星』の挿絵―」で、「少女まんがの絵。実はその起源は「外国」にあるのです。それがミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーの「絵」です。ただ、この「絵」によってもたらされたものが、まんがの様式と最終的に結びついていくのは戦後少女まんが史のことです。しかし始まりは明治にあります!」として、一条成美が雑誌『明星』誌上で晶子の詩に付したイラストや『明星』の表紙などを紹介しています。この内容は、同じ著者の角川新書「ミュシャから少女まんがへ」(2019年7月10日発行)にも書かれていますが、まんがによる解説の方が、感性に訴えるので分かりやすいと感じました。

◆最後に

 「手塚治虫展」の年表には、手塚治虫が「ジャングル大帝」の連載中に東京へ進出し、トキワ荘に住んだことが書かれていました。また、「映画的手法」「ストーリーマンガ」についても、詳細な解説がありました。とはいえ「手塚治虫展」では図録が見当たらなかったので、上記の2冊は「手塚治虫展」で知った内容を更に深めたり広げたりするのに、とても役立ちました。

 蛇足ですが、豊橋市美術博物館の「手塚治虫展」・玄関ホールでは、100人に近いキャラクターが来館者をお迎えしているそうですよ。

    Ron.

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