展覧会見てある記「ANIMALS 2021 IN TOYOHASHI三沢厚彦」豊橋市美術博物館

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豊橋市美術博物館で開催中の「ANIMALS 2021 in TOYOHASHI 三沢厚彦」(以下「本展」)を見てきました。皆さんお馴染みのクマ、ライオン等の大型動物の木彫作品だけでなく、ヤモリ等の小型動物や抽象彫刻、油彩も出品されています。夏休み中なので家族連れが多く、子どもたちが作品を楽しんでいる様子を見て頬が緩みました。子どもたちの良い思い出になると、いいですね。

Ⅰ BEARS(第1会場=第1企画展示室)← 撮影可能

 第1会場に出品されているのは、全てクマ。白、黒、茶色と色も様々で、寝転んでいるクマもいます。彫刻だけでなく、パネルに描かれたクマもいます。どのクマも「猛獣」という雰囲気はなく、「クマのプーさん」や「パディントン・ベア」のような愛嬌があります。動物園の生きているクマとは違い、人間みたいな雰囲気も持っているので安心して鑑賞できるのでしょう。

Ⅱ 動物大行進(第2会場=第2企画展示室)← 撮影不可

 第2会場では、入口から出口に向かってゾウ・キリンからネコ・ウサギに至るまで大小の動物が並んで行進していました。壁にはテナガザルがぶら下がっています。パネルも多数飾られて壮観ですが、残念ながら撮影不可。動物がひしめき合っているので、写真撮影を許可すると、接触事故があってもおかしくないと感じました。

北ラウンジ ← 撮影可能

ユニコーン、フェニックス、ミミズク
ミミズク

 普段は三沢厚彦のウサギを展示している北ラウンジには、ユニコーン、フェニックスとミミズクを展示。茶色のクマと追い出されたウサギは、ラウンジの外からこちらを見ていました。

Ⅲ 過去×現在(第3会場=特別展示室)← 撮影可能

 会場に入ると、サメが大きな口を開けています。その奥にはカラフルなヒトウマ。ここには初期の《彫刻家の棚(画家へのオマージュ)》から最近の抽象彫刻までが出品されており、作品点数が一番多い部屋です。ミミズクやネコなどの小動物の彫刻が多数展示され、カーペットの上には、豊橋公園で拾った石に着色した、見落としてしまうほど小さなウサギもいました。小さなウサギのことは、案内の女性が教えてくれた話。出品リストには掲載されていません。

Ⅳ ホワイトアニマル他(第4会場=第3企画展示室)← 撮影可能

カモシカ、アイベックス

 第4展示室ではライオン、カモシカとアイベックスが目を引き、第5展示室では空想上の動物であるキメラ(有翼で、尻尾はヘビ)と麒麟の存在感が圧倒的です。

キメラ
後ろ姿

◆最後に

本年9月18日に名古屋市美術館で開会する「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」も、本展と同じく動物彫刻の展覧会です。チラシには〈ポンポンは入念な観察にもとづいて、動物の体つきや動きの核心をつかみ、形を磨き上げることでその魅力を引き出しました〉と書いてあります。チラシに印刷されている《シロクマ》や《大黒豹》は、シンプルなのに今にも動き出しそうな感じです。これに対して、三沢厚彦の動物彫刻は、我々が持っている動物のイメージを形にした作品。ポンポンとは対照的な作風ですね。作風の違う二人の作家の展覧会を続けて鑑賞できるという機会は、滅多にありません。「フランソワ・ポンポン展」の開会が、今から楽しみです。

Ron.

展覧会見てある記 名古屋市美術館「名品コレクション展 1(前期)」

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名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」を見た後、地下1階に降りて「名品コレクション展」を見てきました。その中で目を引いたのが「現代の美術」に出品されていた、三木富雄《耳》(1972)です。名古屋ボストン美術館・館長を務められた馬場駿吉氏所蔵の、アルミ合金で出来た手のひらサイズの「耳」の彫刻を展覧会で見た記憶はあるのですが、名古屋市美術館で大きなサイズの彫刻を見るのは初めてでした。美術館の人に聞くと「前にも展示したことがありますよ」との返事。ネットで調べると、2012年の「名品コレクション展Ⅰ(前期)」(4/7~5/20)に出品された記録があります。そうすると「田渕俊夫展」のときに見たはずなのですが、全く記憶にありません。当時は、三木富雄《耳》に対する関心が無かったということですね。

◆ 今回、《耳》に目が止まった理由は

2012年の展示を見たはずなのに記憶がなく、今回になって惹きつけられたのは何故か?それは、現代美術作家・杉本博司氏(NHK大河ドラマ「青天を衝け」の題字を書いています)の「私の履歴書」(2020年7月に日本経済新聞へ連載)を読んだからです。杉本博司氏は1970年代半ばにニューヨークに移り住み、篠原有司男、オノ・ヨーコ、荒川修作、河原温などの作家と交流しますが、一番親しくなったのが三木富雄でした。「私の履歴書」第12回は、次のように書いています。

〈三木富雄は「耳の三木」と呼ばれ、耳の彫刻をアルミで作っていた。「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」。これは当時語り草になった。(略)三木が帰国するまでの1年間、多くの時を共に過ごした。(略)三木は私に、「僕は粘土で耳を作りながら壊していく。その過程を写真に撮ってくれ」という。(略)私は意気投合して撮影したが、この作品が後に思わぬ展開を生むことになる。〉(引用終り)

「私の履歴書」第16回の概要は、以下のとおりです。

〈1977年1月、長男の慧が生まれた。(略)私は5年ぶりに、妻と初孫の顔を両親に見せるためもあって帰国した。(略)三木富雄は先に帰国していて、私との共同制作作品を、南画廊の志水楠男氏に見せて、展覧会の開催を迫っていた。(略)ところが志水さんは、記念写真だけで売り物のない展覧会はできないと突っぱねたのだ。失意の三木富雄は、それでも私の帰国に合わせて志水さんを訪ねるよう約束を取ってくれた。私は白熊のシリーズと映画館の新作を大きなポートフォリオケースに入れて、南画廊に持ち込んだ。中に入ると志水さんと美術家のリー・ウーファン氏が歓談していた。(略)1作品ずつゆっくりと、志水さんは魅入られるように見た。私の説明を聞きながら、志水さんの顔が上気してくるのがわかった。(略)19作品を見終わると、志水さんはおもむろに手帳を広げた。いつ展覧会を開こうかというのだ。ちょうど2週間後に2週間の空きがある。カタログも作ろう、というのだ。驚いたのはリーさんと私だった。(略)三木富雄が会場に顔を出すことはなかった。そして8カ月後、京都で急死した。その死はジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスのような、不摂生の極みによるものだった、享年41。私は大切な友人を失った。そしてその翌79年。今度は志水さんも他界してしまった。私は大切な画商を失った。〉(引用終り)

三木富雄氏の斡旋で杉本博司氏は現代美術家としてデビューするチャンスをつかんだ一方、三木氏富雄は展覧会が開催できず、京都で急死。二人の人生は、明暗が分かれてしまいました。

「私の履歴書」第16回を読み「グランマ・モーゼス展」の協力会向け解説会で聴いた話を思い出しました。グランマ・モーゼスも作品を置いていたドラッグ・ストアでアマチュアのコレクターに見出され、彼の仲介により画廊を経営するオットー・カリアーと出会うことで、画家のスタートを切りました。ベストセラーになった彼女の自伝『私の人生』もオットー・カリアーの勧めで出版したものです。画家が世に出るには、画商の存在が欠かせないということですね。蛇足ながら、ネットで調べたところ、馬場駿吉氏が三木富雄氏の耳の彫刻を買ったのも南画廊だったそうです。

Ron.

展覧会見てある記 「モンドリアン展」 豊田市美術館

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豊田市美術館で開催中の「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画をもとめて」(以下「本展」)に行ってきました。会場は1階・展示室8。平日でしたが「入場者が多いな」と感じました。

◆ モンドリアン展 1F:展示室8

・ 印象派を思わせる風景画が並ぶ

モンドリアンといえば、中学校の美術で「風景画」から「抽象画」に画風が変化していく過程を教わった覚えがありますが、本展も「風景画」から始まります。モンドリアンの風景画は「精密描写」よりも「色面の組み合わせ」に関心があるようで、《干し物のある風景》(1897)を見ると、中央に描かれた、ロープに吊るされた白いシーツと屋根の赤、家の壁の茶色の対比が印象的です。本展には「枝を切り落とされた柳」を描いた作品が3点並んでいますが、何故かゴッホの絵を思い浮かべてしましました。

・ ルオーを思わせる肖像画2点と点描の風景画の数々

次の区画に入ると肖像画が2点。《少女の肖像》(1908)と《二人の肖像》(1908-09)ですが、ルオーのような神秘性を感じました。風景画は《ドンブルグの協会》(1909)や「砂丘」を描いた3点など、大きな斑点で描いた作品が並んでいます。ただ、《ドンブルグの協会塔》(1911)だと、背景は葉っぱを思わせる三角形や四角形の斑点で埋っていますが、ピンクの建物は点描ではなく、作風の変化を感じました。

・ キュビスム風の作品からコンポジションへ(撮影可能エリア)

細い通路を抜けると撮影可能エリアです。最初に並んでいるのはキュビスム風の《風景》(1912)と《女性の肖像》(1912)。それに続く《コンポジション 木々2》(1912-13)から数点は、画面の中に数多くの線が描かれたキュビスムの延長のような作品が並びます。次の《色面のコンポジション No.3》(1917)は色紙を切って貼り付けたような作品で、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》(1921)に至って「モンドリアンらしい作品」になりました。雑誌『デ・ステイル』に参加したテオ・ファン・ドゥースブルフなどの幾何学的な抽象絵画も並んでおり、展示室はとてもカラフルでした。

・ ヘリット・トーマス・リートフェルトの作品も(撮影可能エリア)

撮影可能エリアには『デ・ステイル』に参加した建築家ヘリット・トーマス・リートフェルト(以下「リートフェルト」)が設計した「シュレーダー邸」のパネルと映像資料に加え、彼が設計した椅子4脚も展示されています。椅子は全て豊田市美術館所蔵で《アームチェア》(1919年頃)と《ジグザグ・チェア》(デザイン:1932-33年、制作:1950年)は、木目を生かした透明な塗料で仕上げたものです。シュレーダー邸の映像資料は短いものですが、チラッと写った《レッドアンドブルー ラウンジチェア》(上記の《アームチェア》を、モンドリアンの《コンポジション》のように赤、黄、黒、青色で塗り分けた椅子)が印象に残ったほか、横長の窓の開閉がスイング式(窓の右寄りに支点があり、窓の左側を外に押して開く開閉方式)なので「こんなに外に飛び出して、強い風が吹いたら大丈夫か」と心配になりました。

◆ コレクション ひとつの複数の世界 2F:展示室1

モンドリアン展を後にして、2階の展示室に入ると、抽象美術の後継者たちの作品が並んでいます。岡﨑乾二郎の「おかちまち」シリーズが5点、「かたがみのかたち」が2点。色紙を切って貼り付けたように見える杉戸洋《guadⅡ》(2009)は、モンドリアン展の延長のようです。展示室の中央には巨大な「メビウスの帯」とも言うべき、徳富満《2Ⅾ or not 2Ⅾ》。寺内曜子の立体作品も3点あります。高松次郎の《板の単体(青)》《板の単体(黒)》《板の単体(赤)》(いずれも1970)の色彩もモンドリアンを想起させます。田中敦子《Work1963》は、モンドリアンとは違い、円と曲線で構成された抽象画でした。

・ 寺内曜子 パンゲア 3F:展示室2

展示室2全部を使ったインスタレーションです。真っ白に塗られた展示室2の壁には水平に赤い線が引かれ、中央に四角柱が立っています。四角柱の上には小さな白い球体。近寄って見ると、球体の表面には細かなシワがあり、赤い線もみえます。この球体、どうやら紙を丸めたもののようです。

・ コレクション ひとつの複数の世界 3F:展示室3

展示室1の続きで、床にはカラフルなプラスチック容器の破片が敷き詰められています。トニー・クラッグ《スペクトラム》(1979)でした。その向こうには白い大理石で出来た長屋2棟の周りには白米が山並みのような形に盛られています。ヴォルフガング・ライブ《ライスハウス》(1996)でした。壁面には丸山直文《breeze of river2》(2009)、村瀬恭子《White Coat》(2009)、杉戸洋《Untitled》(2016)の3点を展示しています。

アームチェア

最初の展示は、高橋節郎が課題演習で描いた図面?ですが、抽象絵画のように見えました。展示室4の見ものだと思ったのは、椅子のコレクションです。マルセル・ブロイヤー《クラブチェア B3》の別名は「ワシリーチェア」。ワシリー・カンディンスキーが高く評価して注文リストの一番目に名前を描いてくれたことによるものとか(出典「もっと知りたいバウハウス」東京美術発行)。名古屋市美術館の地下1階ロビーには量産品が「休憩用」として置いてあり、入場者は誰でも座ることができます。オットー・ワーグナー《郵便貯金局証券取引所のアームチェア》(1918)は、クリムト関連の椅子。当然のことながら、クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》も展示されていました。フランク・ロイド・ライト設計の《アーヴェリー・クーンレイ邸の椅子》(制作・設計年不詳)やチャールズ・レニー《ヴィンディヒルのホールのハイバックチェア》(1901)などのほか、ブランクーシの抽象彫刻やジャン・アルプの抽象画(レリーフ?)、エゴン・シーレのポスターやココシュカの版画もありなど、密度の高い展示です。

・ コレクション 美術とデザイン 3F:展示室4

・ コレクション モンドリアンと同時代の日本美術 2F:展示室5

「モンドリアンと同時代」という切り口ですが、さすがに抽象画はありません。入口近くに展示されているのは豊田市出身で、主にロンドンで活動した画家・牧野義雄の《サーペンタイン橋から望むハイドパーク》(制作年不詳)と《倫敦空襲の図》(1940)。展示室の奥には岸田劉生の作品が並んでいます。《自画像》(1913)《横臥裸婦》(1913)《代々木風景》(1915)の3点でした。横井礼以《新緑の道》(1927)、熊谷守一《花飾りをつけた女》(1935頃)のほか、日本画では下村観山《美人と舎利》(1909)菱田春草《鹿》速水御舟《菊に猫》(1922)などが出品されています。抽象画ばかり見て来たので、ホッとしました。

・ コレクション 小堀四郎 宮脇晴・綾子 1F:展示室6・7

モンドリアン展の会場の隣では、定番のコレクションが展示されていました。「いつもの作家の作品が、いつもの所にある」というのは、心が癒されます。

◆ 特設フォトスポット 1F:ライブラリーの隣(無料エリア)

ジグザグ・チェア

1階ライブラリーの隣には「特設フォトスポット」が開設されていました。リートフェルトがデザインしたシュレーダー邸の写真をバックに《ジグザグ・チェア》と《レッドアンドブルー ラウンジチェア》が置かれ、椅子に座った姿を写真撮影することができます。「椅子に座るだけでなく、写真撮影もできる」というのは、楽しい企画ですね。しかも、無料エリアです。

◆ 最後に

モンドリアン展では、初期の風景画からコンポジションまでの作風の変遷を眺めることができたので、楽しく鑑賞することができました。雑誌『デ・ステイル』に参加した画家だけでなく、リートフェルトのシュレーダー邸や椅子の展示も面白いですよ。コレクション展もモンドリアン展と連動しており、特設フォトスポットもあるので、長時間楽しめます。特設フォトスポットは無料で、モンドリアン展の観覧券でコレクション展も鑑賞できますから、じっくりと時間をかけて美術館全部の展示を見ないと損、だと思います。いかがですか。

特設フォトスポット

Ron.

展覧会見てある記 豊橋市美術博物館「2021コレクション展 第2期」

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豊橋市美術博物館のコレクション展(2階 常設展示室 第2期)を見てきました。考古、歴史、陶磁、美術、民俗の5分野にまたがる展示でしたが、考古(考古資料から探るトヨハシの歴史)を除く4分野について、簡単にレポートします。

◆歴史 床の間動物園Ⅱ(2階 テーマ展示コーナー、第2展示室)

竹に虎図

 2階・通路沿いの「テーマ展示コーナー」には、4枚組の杉戸絵が2点。原田圭岳《鹿図》(1877)と《猿図》(1875)、大迫力です。第2展示室には同じ作者の杉戸絵《竹に虎図》(3枚組)もあります。いずれも豊橋市・石巻地区の宮司・佐藤為継が自宅を飾るために1875年から1881年にかけて描かせたもの、とのことです。

床の間動物園Ⅱでは、虎を描いた掛け軸や龍を描いた屏風、渡辺崋山が25歳のときに描いた写生帖などが展は示されています。いずれも江戸時代から大正時代に描かれたもので、武士や僧侶が描いた作品もあります。

◆陶磁 動物の模様と形(2階 第3展示室)

 《染付梅花文盃/染付梅花吹墨盃台》京焼の陶工永楽保全(1795-1854)の作品で、梅の花に梅の小枝を付けた小さな盃と小鳥が止まっている盃台のセット。デミタスカップとソーサーのように見えました。明治初期の薩摩焼《金襴手風俗草花文鶏頭付沈香壺》は、とても大きな香炉。豪華な伊万里焼の金襴手龍魚文盤もありました。

◆美術 動物集合!!(2階 第4展示室)

 最初に展示されていたのは筧忠治の描いた《猫(No.101)》(1982)と《ポニー4》(1990)。いずれも猫の絵です。北川民次《うさぎ》(1974)や中村正義が二羽の鶏を描いた《鳥》(1961)、中村岳陵《雙鶴》(大正後期)、牛が角で押し合う日本の闘牛を描いた大森運夫《闘牛祭》(1975)など、動物を描いた作品が並んでいます。

以上のほか《特別展示》「鈴木一正~動物と共に」と題して4点の作品も展示されていました。なかでも《共に》(2011)はカエル、ニホンザル、トラ、ウサギ、ゾウ、シロクマ、シマウマ、ウマ、サル(ハヌマンラグーン?)を描いた大きな作品です。

◆民俗 郷土玩具にみる動物たち(2階 第5展示室)

土人形 織田信長

 土人形では、愛知県・大浜(現:碧南市)の《織田信長(桶狭間)》や豊橋の《鯛抱き童子》など、張り子では福岡県・柳川の《虎》や豊橋の鍾馗や鬼、烏天狗、お多福などのお面が展示されていました。なかでも《虎》は、アニメ映画「リメンバー・ミー」に出てきたメキシコの民芸品アルゲブラを思わせるものでした。

土人形 鯛抱き童子

◆展覧会情報

 コレクション展Ⅱ(5.29~8.29)で動物を特集しているのは、企画展で「三沢厚彦 ANNIMALS 2021 in TOYOHASHI」(7.17~8.29)が開催されるためだと思われます。チラシによれば、初期の作品や平面作品、アトリエの再現コーナーもあるようです。楽しみですね。

Ron.

読書ノート  三輪山信仰と聖林寺十一面観音菩薩立像について(再考)

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◆「東洋美術逍遥 17」(週刊文春6月17日号)

以前、読書ノートで取り上げた「東洋美術逍遥 17」は、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音について、次のように書いています。

<巨石群を神の依りつく「磐座(いわくら)」として祀ることから、三輪山の古代祭祀は始まった。やがてそれは山全体にあまねく神霊が籠り、鎮まっているという神体信仰へと変化していく。(略)聖林寺の十一面観音菩薩立像(略)は大神神社の神宮寺である大御輪寺(旧大神寺、現在の大直禰子(おおたたねこ)神社)に若宮神と共に祀られていたものが、明治初年の神仏分離令によって、聖林寺へ移された>

ここには、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音菩薩立像について、①巨石群を神の磐座として祀る ②神体信仰へと変化 ③大御輪寺に十一面観音を祀る ④神仏分離令により十一面観音が聖林寺に移る、という四つのストーリーが書かれています。この内容をもう少し深く掘り下げようとして出会った本が、以下の2冊です。

◆佐藤弘夫「日本人と神」講談社現代新書2616 2021.04.20発行

山を拝まなかった古代人

著者は<山麓から山を遥拝するという形態や一木一草に神が宿るという発想は、室町時代以降に一般化するものであり、神理念としても祭祀の作法としても比較的新しいあり方であると考えている(p.24)>と記しています。そして、三輪山の信仰遺跡に目を向けると<山を仰ぐことのできる場所に祭祀遺跡が点在している。固定したスポットから山を拝むのではなく、山がみえる所にそのつど祭場を設け、山からカミを呼び寄せていたことがわかる。祭祀の場所はカミの依代となる磐座や樹木のある地が選ばれた。祭りの場に集まった人々は、シャーマンを通じてカミの声を聞いた(p.27)>と書き、<山は神の棲む場所であっても、神ではなかった。太古の人々が山を聖なるものとみなして礼拝したという事実はない(p.29)>と続け、箸墓などの巨大古墳におけるカミ祭りも<墳丘を望む地点で、そのつど首長霊を招き寄せて実施されたと推定される(p.62)>としています。つまり、弥生時代から古墳時代にかけてのカミ祭りは、上記「①の段階」だったというのです。

巨大古墳時代の終焉~神社の成立

 上記「②の段階」については<都から望むことのできる墳丘の連なりは、いまや太古の時代から途切れることなく継承されてきた天皇の聖性と天皇家の永続性を示す象徴的な存在となった(p.67)>と記した後、<しかし、そうした段階は例外なく終わりを告げる。その主要な原因は、強力な超越的存在を有する宗教の隆盛ないしは流入、新たな神々の体系の構築などだった。カミの棲む寺院や神殿が、王宮や王墓をしのぐスケールでもって造営されるようになる。(略)日本列島でそうした動きが加速するのは、陵墓制度が制定されるとともに仏教の国家的受容が本格化する七世紀後半のことだった(p.69)>としています。

排除されるシャーマンたち

 著者は、卑弥呼のようなシャーマンが排除されていった経緯について、<かつてはシャーマンの言葉がそのままカミの言葉だった。その内容がどれほどばかげたものであっても、その託宣を受けた人々はその言葉に従う義務を負った。王も例外ではなかった。しかし、弥生時代後期から古墳時代へと時が流れ、王の地位が強化されるにしたがって、カミの言葉の真偽を判別し対応を決定する権限が俗権の側に移行した(p.085)>と記し、<『古事記』では、仲介者としての女性シャーマンは登場しない。天皇が直接、夢を通じてカミとの意思の疎通を図っている(p.086)>と結んでいます。

◆畑中章宏「廃仏毀釈」ちくま新書1581 2021.06.10発行

「神仏習合」の成立

上記「①の段階」について、本書の記述は「日本人と神」と同様です。また、本書では「③の段階」=神仏習合について、次のように書いています。

<奈良時代に入り、仏教にたいする信仰が篤い聖武天皇が、各国に国分寺・国分尼寺を設け、総国分寺たる東大寺に巨大な廬舎那仏(奈良の大仏)を造立し、これを納める金堂(大仏殿)を造営するなど、仏教を国家の統治に利用していった。その過程で、九州宇佐地方(現在の大分県の北部)にあった八幡神が大仏造立に寄与するなどを経て、日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えかたがうまれるに至ったのである(p.018~019)>

三輪山の神宮寺

三輪山の神宮寺については、次のように書いています。

<三輪明神の神宮寺としては、「大神寺(おおみわでら)」が奈良時代に成立していたことが古文書に記される。大神寺は弘安8年(1285)に真言律宗の再興に努めた叡尊(えいそん)によって大規模な改修がなされ、寺名も「大御輪寺(だいごりんじ)」に改められた。中世には、真言密教の中心仏である大日如来が、三輪山の大物主神や伊勢の天照大神と同体だという説が唱えられた。こうした独自の神仏習合の解釈(三輪流神道)が大御輪寺と、やはり三輪明神の神宮寺である平等寺で発展、継承されていった。大御輪寺には十一面観音が若宮(大直禰子命)の神像とともに祀られていた。この十一面観音こそが、現在、奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院、聖林寺に安置されている国宝の十一面観音菩薩立像(奈良時代)にほかならない>

 なお、大御輪寺の本尊は十一面観音です。また、若宮である大直禰子(おおたたねこ)は、大物主神が麓の村に住む娘、イクタマヨリビメを娶って儲けた子どもです。

戊辰(慶応四)年の太政官布告

 神仏分離令については、次のように書かれています。

<近代の幕開けとともに始まった本格的な「廃仏毀釈」は、慶応4年(1868)3月13日、17日、28日に相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など、いわゆる「神仏分離令」により沸き起こることになる(p.061)>

<しかし神仏分離令には、神仏が混淆・混在している状態を改め、仏教的なものを「取り除け」とは書かれていても、「破壊せよ」などとは書かれていない。(略)結果的に一部の地域では、神域にあった仏像・仏画・仏具が壊され、隣接する神宮寺が廃寺になった>

 なお、元号は慶応4年9月8日に「慶応4年をもって明治元年とする」とされ、旧暦1月1日に遡って適用されているため、「東洋美術逍遥17」に書かれている「明治初年の神仏分離令によって」という表現も、間違いではないようです。ややこしいですね。

聖林寺十一面観音伝説

十一面観音立像が聖林寺に移された経緯については、和辻哲郎『古寺巡礼』の<実をいうと、五十年ほど前に、この像は路傍にころがしてあったのである(p.094)>という文章や白洲正子『十一面観音巡礼』の<発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことにきめたという(p.095)>という文章を引用した上で、<ほかに三輪の古老の話として、廃仏毀釈の際に大御輪寺の宝物や仏具類が、境内の池畔や初瀬川の川堤で焼き払われ、それが何日も続いた。また、川向こうの極楽寺の小堂に仏像が無造作にかつぎこまれたという言い伝えもある。しかし、こうした証言は、現在では廃仏毀釈の惨状を伝えるために脚色されたものだと考えられている(p.095)>としています。

 さらに、<聖林寺の当時の住職は、再興七世の大心という高僧だった。大心は東大寺戒壇院の長老で、また三輪流神道の正統な流れを汲み、三輪明神の本地として十一面観音を拝むことができる立場にあった。また大神神社から聖林寺に観音像を預ける旨を記した証文も残されていることから、大御輪寺の十一面観音は、神仏分離、廃仏毀釈の混乱を回避するのに最もふさわしい場所に遷座されたと考えられるのだ(p.095~096)>と付け加えています。

仏像そのものについては<背面には薬師如来一万体が描かれた板絵があったという。観音像は頭上の化仏(けぶつ)のうち三体を失っているが、かつては瓔珞(ようらく)に飾られ、華やかな天蓋の下に立っていた。光背(奈良国立博物館寄託)は大破しているものの、宝相華文(ほうそうげもん:唐草に架空の五弁花の植物を組み合わせた文様)をちりばめたものだったと想像されている。岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝物調査をおこなったアメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは明治20年に、聖林寺遷座後、秘仏になっていた十一面観音を目の当たりにし、文化財としての保護を提唱した。そして明治30年、旧国宝制度成立とともに国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度移管後にも、第1回の国宝24件のひとつに選ばれている(p.095~096)>とあります。瓔珞を辞書で調べると「珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。もとインドで上流の人々が使用したもの。仏教で仏像の身を飾ったり、寺院内で、内陣の装飾として用いる」とあります。お寺の本堂で、本尊の周りに下がっている金色の装飾ということですね。絢爛豪華な装飾に囲まれて鎮座していた様子が目に浮かびます。

最後に

本年6月22日から東京国立博物館で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」では、大御輪寺に祀られていた《地蔵菩薩立像》や《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》だけでなく、三輪山信仰に関する展示もあるそうです。(会期:9/12まで。その後、奈良国立博物館に巡回:2022.2/5~3/27)

Ron.

岡崎市美術博物館 「渡辺省亭」展 ミニツアー

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協力会ミニツアー再開第2回目は、岡崎市美術博物館・開館25周年記念「渡辺省亭」- 欧米を魅了した花鳥画 ― です。参加者は21名。岡崎市美術博物館1階のセミナールームで、酒井明日香学芸員(以下「酒井さん」)のレクチャーを約25分間聴講した後、自由観覧となりました。

◆ 酒井さんのレクチャー(概要)

本日は予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました。皆様にはレクチャー終了後、入場整理券をお渡ししますので、受付で観覧券と入場整理券を提示してから、展示室にお入りください。

さて、ここにお越しの皆さんは、渡辺省亭(1852~1918、以下「省亭」)を知らない人の方が多いのではないかと思います。省亭は存命中、国の内外で高く評価された画家でしたが、死後は次第に忘れられた存在となっていきました。没後100年に当たる2018年に再評価され、ようやく研究が始まりました。その成果が、今回の展覧会です。

〇 渡辺省亭について

幕末の江戸・下町に生まれた省亭は、子どもの頃から浮世絵の模写が好きな少年でした。奉公先でも模写をして追い出され、16歳の時(年齢は数え歳、以下同じ)人物歴史画を描く菊池容斎(きくちようさい)に弟子入りします。容斎の下では、絵の手本は与えられず、書道の練習に明け暮れます。そのため、省亭の筆さばきは見事なものです。また、容斎からは、よく物を観察し、記憶し、写生することを教えられました。

25歳の時、省亭は輸出用貿易品を扱う起立工商会社に就職、工芸品の下絵描き(デザイナー)となります。28歳の時(明治11年(1878))には、日本人画家として初めて、パリに渡ります。これは留学ではなく、社員としてパリ万博に出張したものです。第1章の最初に《鳥図(枝にとまる鳥)》(1878)のパネルを展示していますが、画家たちも集まるサロンで省亭が即興で描き、エドガー・ドガに贈られたものです。

フランスからの帰国後、省亭は江戸琳派、四条円山派の画風を取り入れて作風を確立します。明治20年代=30歳代のことでした。画風確立後、省亭は画風を変えることはありませんでした。これは研究者泣かせです。年譜など制作年を推定する手がかりがないと、作風だけでは制作年が分からないのですから。

明治30年代になると省亭は画壇から距離を置き、ひたすら注文に応じた制作に没頭するようになります。展覧会など広く作品を紹介する機会が無かったため、没後、省亭は次第に忘れられていきました。なお、出品作には「個人蔵」や所蔵者名の無いものが多数ありますが、いずれも個人が所有する作品です。

省亭が画壇から距離を置いたのは、①「画壇政治」を嫌った、②画壇における展覧会の選考基準に不満を持った、③展覧会向けの大型作品を好まず、床の間向けの作品を多く手掛けた、などの理由が挙げられますが、はっきりした理由は不明です。

〇 第1章 作品でたどる渡辺省亭の生涯

省亭の作品は制作年代のはっきりしているものが少ないので、第1章では制作年代のはっきりしているものを、年代順に並べました。最後に展示の「特別出品」《春の野邊(絶筆)》(1918)は、東京会場の会期(3/27~5/23)中に所有者からの連絡で、省亭作と判明したものです。そのため、岡崎会場からの展示です。署名はありませんが、表具に「省亭」と織り込んだ布が使われています。蓮華の上を飛ぶ蝶の羽根が真っ白で、模様が描かれていないので「未完」と思われます。第2章以降はジャンル別に構成しました。

〇 第2章 花鳥画の世界

本展のサブタイトルは「欧米を魅了した花鳥画」ですが、省亭の花鳥画は欧米の美術館では人気トップテンに入るもので、省亭の作品をプリントしたTシャツを売っている美術館もあります。本展ではイギリスの「グレース・ツムギ・ファインアート」アメリカの「メトロポリタン美術館」の所蔵品を展示しています。省亭の作品は伝統的な構図に写実描写を加えたもので、輪郭線を用いないことや、ぼかしを使うことなどの特徴があります。輪郭線を用いないといっても「西洋絵画の勉強をした」という形跡はありません。近い距離で、作品の鳥の眼を見てください。黒目が丸くて可愛いですよ。また、瞳にハイライトが入っています。

〇 第3章 七宝焼に花開く省亭の原画

省亭は、工芸の分野でも活躍。「無線七宝」という新しい技法を開発した濤川惣助(なみかわそうすけ)に原画を提供しました。七宝焼きは、釉薬が混ざらないように金属の表面に銀線を置いて、釉薬を入れて焼成します。これを「有線七宝」と言い、焼成後は金属線が輪郭線となって残ります。無線七宝は、釉薬を入れた後に金属線を取り除く技法で、ぼかしを表現できますが、釉薬を混ぜないためには技術が必要です。本展では、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)「花鳥の間」にある七宝額の原画を展示しています。

〇 出版界でも活躍(第1章、第5章 明治出版界での活躍)

省亭は出版でも活躍しました。明治20年代に、菊池容斎の門下は小説の挿絵や口絵で活躍。省亭も山田美妙「胡蝶」の挿絵に裸婦を描いています(第1章展示)。木版画による美術雑誌「美術世界」の編集にも活躍しました(第1章展示)。「花鳥画譜」と二つの「省亭花鳥画譜」は省亭の作品集ですが、同時に図案集でもあり、工業品の下絵に借用されました(第5章展示)。

〇 第4章 江戸の情緒を描く

省亭は、花鳥画だけでなく美人画・風俗画も手がけています。師の菊池容斎は歴史人物画の大御所でした。人物の表情がリアルなのが、省亭らしさです。風俗画では下町の情緒を描いています。省亭が外国へ行ったのは、明治11年のパリ万博出張だけで、下町に住み続けました。その場に行って写生した情景が、省亭の作品に空気感を与えています。季節の行事を描いたものも多く、床の間に飾って楽しむ絵を数多く描きました。

以上が、酒井さんのレクチャーの概要で、標題や(  )内の注は私の追記です。

◆ 感想など

〇 略年譜と地図

 展示室に入って直ぐの略年譜には「1890(明治23)40歳 6月13日 関本千代との間に長女ナツが生まれる」「1894(明治27)44歳 8月23日 関本千代との間に次女くみが生まれる」と書いてありました。<地図で見る「省亭の暮らした町、歩いた場所」>というパネルには、自宅だけでなく別宅の表示もあります。NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一と同様、省亭にも愛人がいたのですね。

〇 第1章

 《龍頭観音》は、1884年制作の小さな作品と1893年制作の比較的大きな作品が展示されていました。龍頭観音は省亭が好んで描いた題材とのことですが、酒井さんのレクチャーどおり、年を経ても作風は変わっていません。『美術世界』は14冊展示。最後の1冊だけページが開かれ、嘴で桜の花びらをくわえた雀が描かれています。残り13冊は表紙しか見えませんが、いずれも綺麗な本です。

〇 第2章

 海を渡った省亭の作品の写真パネルが4点並んでいます。パネルなので出品リストには載っていませんが、明治10年(1877)の内国勧業博覧会に出品され、さらにパリ万博にも出品された《群鳩浴水盤ノ図》(フーリア美術館・アメリカ)は「パリでマネの弟子のジョゼッペ・デ・ニッティスが購入、筆法を研究したが、その技術の高さに模写はあきらめたという逸話が残る」と解説されていました。《雪中鴛鴦之図》(1909)は「伊藤若冲の《雪中鴛鴦図》に倣って描かれた異色作。サイズも若冲画に合わせた大きさであり、原画をよく研究していることがわかる」と解説されています。若冲からドギツさを除いた、優しく心休まる作品です。第2章の最後の方に《葡萄に鼠図》が2点展示されていますが、どちらも鼠の5本の指が極細の線で克明に描かれており、省亭の技量の高さに感心しました。

〇 第3章

 七宝の皿や花瓶の色彩が綺麗です。釉薬なので鮮やかな色彩が保たれ、美しい作品ばかりです。

〇 第4章

 酒井さんは「師の菊池容斎は、歴史人物画の大御所」という解説していましたが、省亭の人物画も美しい作品が並んでおり、《塩冶判官の妻》では絶世の美人・顔世(かおよ)のヌードを描いています。

〇 第5章

 展示ケースの中に本が並んでいます。地味な展示なので見落としそうになりました。

◆ 最後に

レクチャーの冒頭で「予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました」という話がありましたが、作品を見て入場者が多いことに納得しました。6/22~7/11は後期展示となります。岡崎市美術博物館のホームページに掲載されている作品リストは前期・後期が色分けされ、分かりやすいですよ。

           Ron.

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