読書ノート  三輪山信仰と聖林寺十一面観音菩薩立像について(再考)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆「東洋美術逍遥 17」(週刊文春6月17日号)

以前、読書ノートで取り上げた「東洋美術逍遥 17」は、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音について、次のように書いています。

<巨石群を神の依りつく「磐座(いわくら)」として祀ることから、三輪山の古代祭祀は始まった。やがてそれは山全体にあまねく神霊が籠り、鎮まっているという神体信仰へと変化していく。(略)聖林寺の十一面観音菩薩立像(略)は大神神社の神宮寺である大御輪寺(旧大神寺、現在の大直禰子(おおたたねこ)神社)に若宮神と共に祀られていたものが、明治初年の神仏分離令によって、聖林寺へ移された>

ここには、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音菩薩立像について、①巨石群を神の磐座として祀る ②神体信仰へと変化 ③大御輪寺に十一面観音を祀る ④神仏分離令により十一面観音が聖林寺に移る、という四つのストーリーが書かれています。この内容をもう少し深く掘り下げようとして出会った本が、以下の2冊です。

◆佐藤弘夫「日本人と神」講談社現代新書2616 2021.04.20発行

山を拝まなかった古代人

著者は<山麓から山を遥拝するという形態や一木一草に神が宿るという発想は、室町時代以降に一般化するものであり、神理念としても祭祀の作法としても比較的新しいあり方であると考えている(p.24)>と記しています。そして、三輪山の信仰遺跡に目を向けると<山を仰ぐことのできる場所に祭祀遺跡が点在している。固定したスポットから山を拝むのではなく、山がみえる所にそのつど祭場を設け、山からカミを呼び寄せていたことがわかる。祭祀の場所はカミの依代となる磐座や樹木のある地が選ばれた。祭りの場に集まった人々は、シャーマンを通じてカミの声を聞いた(p.27)>と書き、<山は神の棲む場所であっても、神ではなかった。太古の人々が山を聖なるものとみなして礼拝したという事実はない(p.29)>と続け、箸墓などの巨大古墳におけるカミ祭りも<墳丘を望む地点で、そのつど首長霊を招き寄せて実施されたと推定される(p.62)>としています。つまり、弥生時代から古墳時代にかけてのカミ祭りは、上記「①の段階」だったというのです。

巨大古墳時代の終焉~神社の成立

 上記「②の段階」については<都から望むことのできる墳丘の連なりは、いまや太古の時代から途切れることなく継承されてきた天皇の聖性と天皇家の永続性を示す象徴的な存在となった(p.67)>と記した後、<しかし、そうした段階は例外なく終わりを告げる。その主要な原因は、強力な超越的存在を有する宗教の隆盛ないしは流入、新たな神々の体系の構築などだった。カミの棲む寺院や神殿が、王宮や王墓をしのぐスケールでもって造営されるようになる。(略)日本列島でそうした動きが加速するのは、陵墓制度が制定されるとともに仏教の国家的受容が本格化する七世紀後半のことだった(p.69)>としています。

排除されるシャーマンたち

 著者は、卑弥呼のようなシャーマンが排除されていった経緯について、<かつてはシャーマンの言葉がそのままカミの言葉だった。その内容がどれほどばかげたものであっても、その託宣を受けた人々はその言葉に従う義務を負った。王も例外ではなかった。しかし、弥生時代後期から古墳時代へと時が流れ、王の地位が強化されるにしたがって、カミの言葉の真偽を判別し対応を決定する権限が俗権の側に移行した(p.085)>と記し、<『古事記』では、仲介者としての女性シャーマンは登場しない。天皇が直接、夢を通じてカミとの意思の疎通を図っている(p.086)>と結んでいます。

◆畑中章宏「廃仏毀釈」ちくま新書1581 2021.06.10発行

「神仏習合」の成立

上記「①の段階」について、本書の記述は「日本人と神」と同様です。また、本書では「③の段階」=神仏習合について、次のように書いています。

<奈良時代に入り、仏教にたいする信仰が篤い聖武天皇が、各国に国分寺・国分尼寺を設け、総国分寺たる東大寺に巨大な廬舎那仏(奈良の大仏)を造立し、これを納める金堂(大仏殿)を造営するなど、仏教を国家の統治に利用していった。その過程で、九州宇佐地方(現在の大分県の北部)にあった八幡神が大仏造立に寄与するなどを経て、日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えかたがうまれるに至ったのである(p.018~019)>

三輪山の神宮寺

三輪山の神宮寺については、次のように書いています。

<三輪明神の神宮寺としては、「大神寺(おおみわでら)」が奈良時代に成立していたことが古文書に記される。大神寺は弘安8年(1285)に真言律宗の再興に努めた叡尊(えいそん)によって大規模な改修がなされ、寺名も「大御輪寺(だいごりんじ)」に改められた。中世には、真言密教の中心仏である大日如来が、三輪山の大物主神や伊勢の天照大神と同体だという説が唱えられた。こうした独自の神仏習合の解釈(三輪流神道)が大御輪寺と、やはり三輪明神の神宮寺である平等寺で発展、継承されていった。大御輪寺には十一面観音が若宮(大直禰子命)の神像とともに祀られていた。この十一面観音こそが、現在、奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院、聖林寺に安置されている国宝の十一面観音菩薩立像(奈良時代)にほかならない>

 なお、大御輪寺の本尊は十一面観音です。また、若宮である大直禰子(おおたたねこ)は、大物主神が麓の村に住む娘、イクタマヨリビメを娶って儲けた子どもです。

戊辰(慶応四)年の太政官布告

 神仏分離令については、次のように書かれています。

<近代の幕開けとともに始まった本格的な「廃仏毀釈」は、慶応4年(1868)3月13日、17日、28日に相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など、いわゆる「神仏分離令」により沸き起こることになる(p.061)>

<しかし神仏分離令には、神仏が混淆・混在している状態を改め、仏教的なものを「取り除け」とは書かれていても、「破壊せよ」などとは書かれていない。(略)結果的に一部の地域では、神域にあった仏像・仏画・仏具が壊され、隣接する神宮寺が廃寺になった>

 なお、元号は慶応4年9月8日に「慶応4年をもって明治元年とする」とされ、旧暦1月1日に遡って適用されているため、「東洋美術逍遥17」に書かれている「明治初年の神仏分離令によって」という表現も、間違いではないようです。ややこしいですね。

聖林寺十一面観音伝説

十一面観音立像が聖林寺に移された経緯については、和辻哲郎『古寺巡礼』の<実をいうと、五十年ほど前に、この像は路傍にころがしてあったのである(p.094)>という文章や白洲正子『十一面観音巡礼』の<発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことにきめたという(p.095)>という文章を引用した上で、<ほかに三輪の古老の話として、廃仏毀釈の際に大御輪寺の宝物や仏具類が、境内の池畔や初瀬川の川堤で焼き払われ、それが何日も続いた。また、川向こうの極楽寺の小堂に仏像が無造作にかつぎこまれたという言い伝えもある。しかし、こうした証言は、現在では廃仏毀釈の惨状を伝えるために脚色されたものだと考えられている(p.095)>としています。

 さらに、<聖林寺の当時の住職は、再興七世の大心という高僧だった。大心は東大寺戒壇院の長老で、また三輪流神道の正統な流れを汲み、三輪明神の本地として十一面観音を拝むことができる立場にあった。また大神神社から聖林寺に観音像を預ける旨を記した証文も残されていることから、大御輪寺の十一面観音は、神仏分離、廃仏毀釈の混乱を回避するのに最もふさわしい場所に遷座されたと考えられるのだ(p.095~096)>と付け加えています。

仏像そのものについては<背面には薬師如来一万体が描かれた板絵があったという。観音像は頭上の化仏(けぶつ)のうち三体を失っているが、かつては瓔珞(ようらく)に飾られ、華やかな天蓋の下に立っていた。光背(奈良国立博物館寄託)は大破しているものの、宝相華文(ほうそうげもん:唐草に架空の五弁花の植物を組み合わせた文様)をちりばめたものだったと想像されている。岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝物調査をおこなったアメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは明治20年に、聖林寺遷座後、秘仏になっていた十一面観音を目の当たりにし、文化財としての保護を提唱した。そして明治30年、旧国宝制度成立とともに国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度移管後にも、第1回の国宝24件のひとつに選ばれている(p.095~096)>とあります。瓔珞を辞書で調べると「珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。もとインドで上流の人々が使用したもの。仏教で仏像の身を飾ったり、寺院内で、内陣の装飾として用いる」とあります。お寺の本堂で、本尊の周りに下がっている金色の装飾ということですね。絢爛豪華な装飾に囲まれて鎮座していた様子が目に浮かびます。

最後に

本年6月22日から東京国立博物館で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」では、大御輪寺に祀られていた《地蔵菩薩立像》や《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》だけでなく、三輪山信仰に関する展示もあるそうです。(会期:9/12まで。その後、奈良国立博物館に巡回:2022.2/5~3/27)

Ron.

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