ゲルハルト・リヒター アブストラクト

カテゴリ:アート見てある記 投稿者:editor

ゲルハルト・リヒターの「アブストラクト」を見てきました。

といっても、美術館の展覧会ではなく、心斎橋のルイ・ヴィトン大阪の企画です。

展覧会のお知らせ

 作品点数は少なめですが、制作年代も幅広く、油彩の他、写真に彩色したもの、ガラス板の裏側から絵の具を塗ったものなど、多彩な技法の作品を見ることができます。

展示風景

会場では、おしゃれな若いお客様も熱心に作品を見ていました。

場所柄なのか、どなたもファッショナブルで、ジーンズにスニーカーを履いていたのは一人だけだったように思います。

展示風景

小振りで地味な印象の作品も、近くで見るとびっしりと線描で埋まっています。

作品脇のキャプションのQRコードをスキャンすると、簡単な解説を読むことができます。

展示風景

 展覧会の会期は2022年4月17日までです。

会期には比較的余裕があるので、機会があれば、いかがでしょうか。

なお、会場内が混雑する場合は入場待ちの場合があるそうです。

杉山 博之

展覧会見てある記 愛知県美術館「曽我蕭白展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

三重県立美術館や名古屋ボストン美術館で強いインパクトを受けた曽我蕭白。その作品が一堂に会するというので、前々から期待していた展覧会です。ただ、混雑が予想されたので敬遠してきましたが、ようやく新型コロナウイルスの新規感染者数が下がり、「今なら大丈夫」とばかり、重い腰を上げました。愛知県美術館で開催中の「曽我蕭白 奇想ここに極まれり」は、作品保護のため展示室は洞窟のなかのように暗く、作品の周辺だけが淡く照らされている様子は幻想的でした。

◆プロローグ 奇想の絵師、蕭白

 無邪気に遊んでいる子どもたちを描いた、カラフルな《群童遊戯図屏風》。子どもたちの動きは可愛らしく、母親と思しき女性も普通ですが、子どもたちの表情は何か変。《雪山童子図》(1764頃)の子どもも、無邪気というより「少し、グロテスク」です。でも「これが、奇想の絵師・蕭白の持ち味で魅力なのだ」と思い、納得することにしました。

◆第一章 水墨の技巧と遊戯

《富士三保松原図屏風》(1758-61頃)は雄大。妖怪を描いた《柳下鬼女図屏風》は、とても気味が悪く、蕭白ならではの作品だと感心しました。中国風の《月夜山水図》はしっかりと描かれています。蕭白でも「グロテスクな人物」が居なければ、違和感はありません。

◆第二章 ほとばしる個性、多様化する表現

重要文化財の「旧永島家襖絵」が7点展示されていたのは壮観でした。また、同じく重要文化財の松坂市・朝田寺《唐獅子図》(1764頃)も、迫力のある作品でした。

◆第三章 絵師としての成功、技術への確信

《松竹梅図襖》は、力強い描写。美人と仙人を描いた《群仙図屏風》はグロテスクさを抑えた作品。これなら、違和感はありません。

◆第四章 晩年、再び京へ

重要文化財《楼閣山水図屛風》や《富嶽清見寺図》などの山水画は、どれも蕭白の本領を発揮した見応えのある作品でした。《雲竜図》は、龍の表情がユーモラス。大胆な筆さばきの作品でした。

◆最後に:「平安人物志」と同時代の絵師

第四章に安永4年(1775)発行の「平安人物志」が展示されています。曽我蕭白は15位ということでした。ちなみに、この時の1位は円山応挙、2位は若冲、3位は池大雅、4位は与謝蕪村。蕭白と同じページの12位「松 月渓 松村文蔵」は、四条派の始祖「呉春」のことです。

蕭白以外の五人は、いずれも澤田瞳子の小説「若冲」に登場しています。たとえフィクションであっても、蕭白と若冲との接点は書きにくかったのでしょうね。

一方で、「奇想の系譜」(辻惟雄著)は「当時の売れっ子である池大雅とは、ふしぎにもうまが合ったらしい」と書き、《富士・三保松原図屏風》(1762頃:「プロローグ」に11/17~11/21展示予定。当日は写真パネルでした)について「大雅の影響がさらに高度な芸術的結実をもたらしている例」と書いています。蕭白と大雅に交流があったことを知り、名古屋市博物館の「大雅と蕪村」(2021.12.4~2022.1.30)が楽しみになりました。

Ron.

展覧会見てある記 瀬戸市美術館「池袋モンパルナス展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

瀬戸市美術館で開催中の「池袋モンパルナス ―画家たちの交差点―」(以下「本展」)ですが、会期末(11月14日)が迫ったので慌てて見てきました。名鉄瀬戸線の終点・尾張瀬戸駅の改札口を出ると、左に大きな交差点があります。道路の案内標識によれば、矢印の方向に0.8km進むと美術館に到着とのこと。「10分ほどの行程か」と思い、交差点を渡って歩き始めたのですが、坂道の勾配がきついので、足を大きく持ち上げないと前進できません。息を切らせながら15分近くかけて、ようやく到着できました。

美術館は南公園の中。建物は緑に囲まれています。玄関を入ると、壁に大きく引き伸ばされた「長崎アトリエ村模型」(注:長崎は東京都豊島区の地名)の写真が貼られ、撮影スポットになっていました。

アトリエ村再現

◆ 池袋モンパルナスとは?

 本展のチラシは「池袋モンパルナス」について、次のように書いています。

〈1920年代以降、池袋界隈には芸術家向けの安価なアトリエ付き住宅が建ち並び、そこには日本各地から上京した芸術家たちが集い、いくつかの「アトリエ村」と呼ばれる一画が形成されていきました。この地域では、芸術家同士の交流も盛んで、新たなアートシーンを生み出しました。その様子は、パリの芸術家の街になぞらえて「池袋モンパルナス」と呼ばれています〉(引用終り)

 ロビーに置いてあった1941年頃の「池袋モンパルナス」のマップを見ると、アトリエ村の住居は「外光を取り入れる北向きの天窓と作品を出し入れする大きな窓や細長い扉が特徴」で「池袋モンパルナス」の区域には、熊谷守一、北川民次、麻生三郎、山下菊二、靉光らが住んだとのことです。本展には「仙人」と呼ばれた画家・熊谷守一や、たびたびアトリエ村に立ち寄った長谷川利行の作品も出品されています。

◆ 第1章 池袋モンパルナスと小熊秀雄(1階)

 小熊秀雄(おぐまひでお)は北海道出身の詩人・画家。12歳年下の隣人・寺田政明(俳優・寺田農の父)から絵の手ほどきを受け「池袋モンパルナス」の名付け親になります。展示室の入口には、作品リスト、作家解説と並んで「池袋モンパルナス」の由来となった小熊秀雄の詩(『サンデー毎日』第17年 第37号1938年に掲載)を印刷した紙が置いてあります。詩の内容は、次のとおりです。( / は、行替え)

 池袋モンパルナスに夜が来た/学生、無頼漢、芸術家が街に/出る/彼女のために、神経をつかへ/

 あまり太くもなく、細くもない/ありあはせの神経を―――。(引用終り)

第1章に展示されているのは、2点の油彩《夕陽の立教大学》(1935)と《すみれ》(1930年代)及び素描9点です。《夕陽の立教大学》は、空や建物だけでなく、道路まで真っ赤。強烈な印象を与える作品です。素描にも、立教大学を描いたものがありました。近所なので、何度も通ってスケッチしたのでしょう。

◆ 第2章 画家たちが描いた肖像画・風景画(1階)

 本展チラシにも使われている、赤色で陰影を描いた麻生三郎《自画像》(1934)は、こちらを見つめる目に引き込まれそうなります。長谷川利行《靉光像》(1928)は、2018年に碧南市藤井達吉現代美術館で開催された「長谷川利行展」(以下「利行展」)で出会った作品だと、直ぐ分かりました。吉井忠《長谷川利行》(1968)には「新明町車庫近く市電内で」という文字。長谷川利行と池袋モンパルナスの画家との交流を物語る作品だと感じました。

肖像画の次は、風景画の部屋です。アトリエ村の一つ「さくらが丘パルテノン」を描いた斎藤求《パルテノンへの道》(1971)や田中佐一郎《建物のある風景》(1935年頃)など、戦前のアトリエ村を描いた作品が多い中、春日部たすく《池袋駅池前豊島師範通り》(1928)は、東京府豊島師範学校(現東京学芸大学の前身校の一つ)の正面を描いた作品です。鶴田吾郎《池袋への道》(1946)は、焼け跡の風景。建物はわずかしか残っていません。絵を見て「池袋モンパルナスの画家たちが住むアトリエの多くも戦災で焼失したのだろう」と思いました。カラフルな榑松正利《アトリエ村》(1960)は、心象風景でしょうね。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(1階)

 最初に展示されているのは、長谷川利行の作品3点と里見勝蔵《職工》(1917)。長谷川利行の作品のうち《水泳場》(1932)は、利行展で見て画面右上のダイビングする人物にびっくりした記憶があります。残念ながら、《四人裸婦》(1935)と《支那之白服》(1939)は、記憶にありません。《職工》はフォーヴィスム風で、モディリアーニ風にも見える作品でした。

 上記以外の作品は、画家の団体ごとにまとめて展示していました。

・池袋美術家クラブの結成

池袋美術家クラブは、池袋モンパルナスに集った画家たちで結成された団体です。田中佐一郎《黄衣の少女》(1931)は、シャガール風の作品。竹中三郎《裸婦》(1934)は、ピカソを想起させます。難波田龍起(なんばだ・たつおき)の作品3点は、いずれもシュールレアリスム風、寺田政明《夜(眠れる丘)》(1938)は、マックス・エルンストみたいで、桑原実《雲湧く山》(1938)はドイツ表現主義のようでした。

1階の展示は、この作品まで。次の作品は、2階に展示されていました。

◆ 第3章 池袋モンパルナスの画家たち(つづき:2階)

・様々な団体の作家たち

灰色の背景の中で裸の父親が立ち、子どもを背中におんぶしている姿を描いていた福沢一郎《父と子》(1937)やバイオリン・ベース・ピアノの三重奏を描いた井上長三郎《トリオ》(1943)など、シュールレアリスムの作品が並んでいます。アンリ・ルソーを思わせる榑松正利《夢》(1940)も出品されていました。

・新人画会

新人画会は、松本俊介の自宅を事務所とした団体です。松本俊介《鉄橋近く》(1943)は、鉛筆、木炭、墨で描いた風景。同《りんご》(1944)は、リンゴを持つ子どもを描いた可愛い作品です。寺田政明《たけのこ》(1943)は、彫刻のような雰囲気を持つ作品でした。

・戦後の池袋モンパルナス

第3章の最後は、戦後も池袋モンパルナスに集って制作を続けた作家の作品です。大塚睦、入江比呂、山下菊二、高山良策、桂川寛の5人の作品が展示されていました。いずれも、社会問題に対する批判を込めたものです。

◆ 第4章 池袋モンパルナスと瀬戸市美術館ゆかりの画家(2階)

 最後の章では、瀬戸市美術館ゆかり画家・北川民次の作品を展示していました。なかでも、瀬戸市図書館陶壁の原画《知恵の勝利》、《無知と英知》、《勉学》(全て1970)の3点は、オロスコ、リベラ、シケイロスらのメキシコ壁画運動の流れを汲むものです。バッタの絵柄の磁器や陶器も出品。解説には「バッタは個体では弱くても、特定の目的を持って集団になると、その全体は凶暴なものとなる」と書いてありました。

◆ 最後に

出品点数は107点。瀬戸市美術館の4つの展示室を全て使用する展覧会です。数多の作家の作品を鑑賞することができました。「池袋モンパルナス」のことは全く知らなかったのですが、本展で様々な知識が得られました。なお、本展の観覧料は大人500円ですが、65歳以上の高齢者は無料です。

Ron.

◆ おまけ:愛知県美術館「2021年度第2期コレクション展」でも「池袋モンパルナス」に出会えました

愛知県美術館で開催中の「2021年度第2期コレクション展」を見たら、展示室5に松本俊介《ニコライ堂》(1941)、熊谷守一《麥畑》(1939)、長谷川利行《霊岸島の倉庫》(1937)の3点が、横一列に展示されていました。なかでも《ニコライ堂》は「池袋モンパルナス展」に展示の《鉄橋近く》に似たモノクロームの風景画で、《霊岸島の倉庫》は利行展で見た記憶のある作品でした。

TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」の感想など

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」が11月6日(土)午前10時30分からNHK・Eテレで始まり、第1回は「リトルミーがやってきた」でした。

◆ 第1回「リトルミーがやってきた」のあらすじ

冬眠中のムーミン一家に、お客様=ミムラ夫人が大勢の腕白な子どもたちとやって来ました。おかげで、一家は大迷惑。ミムラ夫人が「夏至まで滞在する」と言うので、春も来てないのに「夏至になった」と、必死になって見え透いたお芝居を打つ、という「クスッと笑える」お話でした。

最初に「クスッと笑った」のは、ムーミンパパが「パジャマ姿ではお客さんに失礼なので着替える」と言って、真っ裸になるシーン。「パジャマ姿は失礼」というのは現代人と同じ感覚ですが、結論は真逆でした。確かに、ムーミン一家は裸が正装ですからね。

訪問先に大迷惑をかけても全く気にしないミムラ夫人の天真爛漫さや、「冬眠中なので出て行って欲しい」とはっきり言えずに、直ぐバレる嘘でゴマかそうというムーミン一家の対応も面白かったですが、一番は何といっても、ずけずけとストレートに物を言い、頭の回転も速いリトルミーの言動でした。何事も丸く収めようというムーミン一家とは対照的の鋭い物言いで、ムーミントロールは言い負かされっぱなしです。このほか、規則を厳格に守るへムル族の消防士も登場します。

春が来て「春になれば、あの人がやって来る」と、リトルミーが語るシーンで第1回はおしまい。あの人とは、誰?トーベの小説「楽しいムーミン一家」だと、春になって姿を現すのはス〇〇キンでしたが……。第2回で、はっきりするでしょう。

◆ ムーミンコミックスとの関連

「ムーミンコミックス展」ミニツアーで、清家学芸員から「ムーミンに口はあるのですが、前からは見えません」という解説がありました。コミックスならムーミンの表情を「目・眉・身振り・手振り等で表現」することもできますが、アニメだと台詞に合わせて口が動かないと不自然です。どうするのかな?と思っていたら、横顔の頭と首の境目の所で、小さな口が動いていました。

「平和的な話」というのもコミックスと共通しています。「リトルミーがやってきた」でも、事態を平和的に解決していました。

◆ 日本製「ムーミン」アニメとの違い

以下は、ムーミン公式サイトのブログ記事「昭和から平成、令和へ。ムーミンアニメの歴史」2021.11.05(URL= https://www.moomin.co.jp/blogs/fourseasons/98912)によるものです。

上記の記事でショックだったのは、次の部分です。

〈1969年と1972年からの二期にわたってフジテレビ系で放送された『ムーミン』、通称「昭和ムーミン」「昭和アニメ」は原作とあまりにも違っていたため、現在では放映もソフト化も許可されていません。(略)キャラクターは歪曲されていて、本来とはかけ離れた設定になっており、ムーミンパパがムーミントロールを叩く場面があったり、ムーミン谷で戦争が勃発したり、非暴力を徹底している原作本の世界とは根本的に違ったものになっていたのだ。そして、ムーミントロールは体の色まで変えられてしまっていた。トーベはすぐに動いた。日本での放映を止めることはできないが、外国での放映をストップさせたのである〉(引用終り)

ブログの画像を見ると、ブログに書いてあるとおり、「昭和ムーミン」は、ムーミンの色を白から緑へ、スナフキンの楽器もハーミニカからギターへと、原作とは違っていました。

ただ、1990年からテレビ東京系で新たに始まった『楽しいムーミン一家』、通称「平成ムーミン」は、製作段階から原作者が関わり、英語版がyoutubeのMoomin Officialアカウントで公開されているとのことです。詳細は、上記URLをご覧ください。

Ron.

名古屋市博物館 「ムーミンコミックス展」 ミニツアー

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名古屋市博物館で開催中の「ムーミンコミックス展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は7名。1階の展示説明室で清家三智学芸員(以下「清家さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。なお、清家さんは、本年4月に名古屋市美術館から名古屋市博物館に異動。本展は、彼女が異動後最初に担当する展覧会とのことでした。

◆清家さんの解説(10:00~35)の要旨(注は、筆者の補足です)

・これまでに日本で開催された、ムーミン関連の展覧会

2014年はムーミンの作者トーベ・ヤンソン(1914~2001)の生誕100周年にあたることから、2つの展覧会が開催されました。一つは「MOOMIN! ムーミン展」で、全国9カ所に巡回。もう一つは「生誕100周年 トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」です。この展覧会は彼女の全仕事を紹介するもので、ヘルシンキ・アテネウム国立美術館で開催された後、全国5カ所を巡回しました。

2019年秋から2021年秋にかけて全国を巡回したのは、フィンランドと日本の国交100周年を記念した「ムーミン展 “Moomin The art and The story”」。名古屋では松坂屋美術館で開催され、小説、雑誌の挿絵、絵本、一コマ漫画、舞台、日本との交流、浮世絵の影響などムーミンの魅力を紹介しました。

・本展について

本展は「ムーミンコミックス」にフォーカスした展覧会です。2020年秋に「松屋銀座」から巡回が始まり、名古屋市博物館は7館目。残りの巡回先は4館。次の会場は「横浜そごう」。最後の会場「東京富士美術館」の会期終了は2022年8月になります。

・「ムーミン」の誕生など

スクリーンに映したのはトーベと彼女の下の弟ラルス・ヤンソン(1926~2000)の写真です(注:本展チラシの裏面に掲載)。二人の左に写っている彫刻は父親の作品。撮影したのは上の弟(注:ペル・ウーロフ・ヤンソン=写真家、1920~2019)です。

ムーミンは、トーベがスウェーデン語で書いた小説(注:「小さなトロールと大きな洪水」1945年出版)に初めて登場します。なお、フィンランドの公用語は二つ、フィンランド語とスウェーデン語です。フィンランドはスウェーデンに支配されていたため(注:13世紀から600年間。その後、100年間はロシアが支配。独立はロシア帝国崩壊後の1917年)、スウェーデン語も公用語になっていますが、少数派です(注:現在は、国民の5.5%)。トーベの父親ヴィクトル・ヤンソン(1886~1958)は、スウェーデン語系フィンランド人の彫刻家。母親シグネハマルテルステン・ヤンソン(1882~1970)はスウェーデン人。家族はスウェーデン語で会話し、トーベはスウェーデン語で小説を書きました。

トーベが書いたムーミンの小説は、フィンランドではなかなか受け入れられませんでした。理由は二つあります。一つは言葉の壁です。フィンランドではスウェーデン語は少数派なので、読者が広がりません。もう一つは「想像上の動物が主人公」だったからです。フィンランド人が好むのは、活劇や恋愛小説。「想像上の動物の話」は、受け入れられなかったのです。

トーベはムーミンを普及するため舞台化(注:1947年に初のムーミン劇「ムーミン谷の彗星」を初演)や絵本化(注:1952年に初の絵本「それからどうなるの」をスウェーデン語とフィンランド語で出版)に取り組み、フィンランドのスウェーデン語紙に「ムーミンコミックス」を掲載しました(注:1947年に「ムーミントロールと世界の終り」の連載開始)。しかし、ムーミンパパの発言が批判されるなど、フィンランド国内では受け入れられない状況が続きます。

・英国「イヴニング・ニューズ」紙に「ムーミンコミックス」を連載

1950年に小説「楽しいムーミン一家」が英語に翻訳(注:”FINN FAMILY MOOMINTROL”) されると外国で評価され始め、ムーミン人気はフィンランドに逆輸入されます。

英国でムーミンの人気が高まったことから、世界最大の夕刊紙「イヴニング・ニューズ」を発行している英国・ロンドンのイヴニング・ニューズ社からトーベに「ムーミンコミックス」連載の話が舞い込みます。しかし、スウェーデン語を英語に翻訳するのは大変な仕事で、英語力が高い人材が必要になります。トーベの下の弟ラルス・ヤンソンは子どものころから英語の小説に親しんでいました。彼は、ムーミン谷の世界観もよく理解していました。そのため、トーベはラルスを共同制作者として、イヴニング・ニューズ社と契約。トーベが、あらすじ・作画・セリフを考え、ラルスが英語に翻訳するという役割分担でした。

厄介なのは、イヴニング・ニューズ社との契約内容でした。「奴隷契約」とも言うべき厳しいもので、連載原稿は半年先の分まで用意しておくこと、王室批判、政治批判は駄目、理不尽な死を描写することも駄目など、制約が多く、印税の配分もトーベにとっては不利なものでした。

今なら、下書きも電子ファイルで瞬時に送信できますが、当時の通信手段は郵便。下書きのやり取りだけでも時間がかかるため、夕刊紙への連載は過酷なものとなりました。そのため、ラルスは、あらすじの構想も手助けし、キャラクター制作についても提案するようになりました。このようにして、1954年9月20日から1959年12月末までの約5年半の間、トーベとラルスの共同制作が続きました。

・「ムーミンコミックス」連載は、ラルス・ヤンソン単独で制作することになる

トーベは1959年末で「ムーミンコミックス」の連載を終了し、1960年の契約更新はしないと決心します。しかし、イヴニング・ニューズ社との契約には「トーベ・ヤンソン以外でも連載を継続できる」という条項がありました。母親のシグネに相談すると、彼女は「弟のラルスが一人で連載を継続するべきだ。ムーミンの世界観を引き継げるのはラルスだけだ」と答えました。母親のシグネは挿絵画家で切手原画のデザイナーでした。トーベもテンペラ、素描、挿絵、油絵となんでもO.K.です。しかし、母親や姉と違い、ラルスはこれまで絵の勉強をしてきませんでした。そこで、ラルスはシグネやトーベから「ムーミンコミックス」制作の指導を受け、1960年から1975年まで、ラルス単独で「ムーミンコミックス」を制作しました。ラルス単独で制作した期間に読者が増えています。ラルスは作画力も持ち合わせていたのです。

・本展の構成

本展は、大きく二つに分かれています。前半は「黄色」の壁で、トーベとラルス共同制作の作品。後半は「ブルー」の壁で、ラルス単独制作の作品です。

・トーベが描いた原画など

トーベが描いた「ムーミンコミックス」の下絵・原画は、トーベの許にはほとんど残っていませんでした。トーベの許には彼女のファンが多数押しかけ、子どものファンにはコミックスの原画をプレゼントしていたのです。展示しているキャラクターのスケッチや構想図は、トーベの遺族の手許にあったものです。

スクリーンに映したのは、キャラクターのスケッチです(注:本展チラシの裏面に掲載)。英語で書かれているので、イヴニング・ニューズ社との打ち合わせ用と思われます。ムーミンに口はあるのですが、前からは見えません。そのため、ムーミンの表情は、目・眉・身振り・手振り等で表現しなければなりません。口を描かないという制約はありますが、ムーミンは表情豊かです。

・ラルスが描いた原画など

ラルスが描いたコミックスの原稿は残っていました。ラルスの原稿が発表されるのは、日本初です。

なお、本展は、ラルスが設立したムーミンキャラクターズ社の特別協力を得ています。ムーミンキャラクターズ社は、ムーミンに登場するキャラクターの版権等を管理する会社で、現在はラルスの娘ソフィア・ヤンソンが会長を務めています。

以上で、清家さんの解説が終了。参加者は自由観覧となりました。

◆自由観覧

当日は、日曜日ということもあり子ども連れが目立ちましたが、若いカップルや高齢者の姿も多く、名古屋市博物館は、にぎやかでした。ムーミンといえば「子ども向けアニメ 」のイメージが強かったので、「大人向けムーミン」は新鮮でした。展示されていた「イヴニング・ニューズ」には、4つのコミックが印刷されています。日本のマンガ雑誌だと、人気の低いマンガは早々と連載打ち切りの羽目に陥ります。展示されたコミックスを見て、20年以上も連載が続いた訳が分かりました。「ムーミンコミックス」は、安心して読むことができるのです。

◆TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」

名古屋市博物館のホームページから本展の公式サイトを経由して「ムーミン公式サイト」に入ったところ、TVアニメの記事にたどり着きました。〈フィンランドとイギリスの共同制作によるフルCGアニメーション「ムーミン谷のなかまたち」(2019年4月にNHKのBS4Kで放送)が、2021年11月6日(土)午前10時30分からNHK・Eテレで放送開始決定〉というものです。午前中の放送なので「子ども向けアニメ」という位置づけになりますが、大人も楽しめると思います。

     Ron.

展覧会見てある記 コレクション展:絶対現在 ほか 豊田市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館では「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」にあわせて、河原温「Todayシリーズ」を中心とした「コレクション展:絶対現在」を始めとする「コレクション展」も開催中。以下は、そのレポートです。

1F:展示室8「コレクション展:絶対現在」

展示室に入った正面にあるのは、ボリス・ミハイロフ《イエスタデイズ・サンドイッチ12》(1965-81)。二つのカラースライドを重ね合わせた作品のようです。「重ね合わせ」という行為で「時間」を表現しているのでしょうか。その向かいにある3点の作品は、下道基行《Torii》(2006-12)。かつて、日本人が住んでいた異国の地に建てられた「鳥居」を撮影したシリーズです。公園のベンチに再利用されている鳥居や海岸の草むらの中にポツンと立っている鳥居、墓地にある場違いな鳥居が写っていました。鳥居が立てられた時から現在までに過ぎ去った時間を感じることができます。ローマン・オルパカ《オルパカ1965/1-∞》は、数字を書き込んだ痕跡を示す作品。《ディテイル2601104-2626001》をよく見ると、2601104から2626001までの数字がぎっしりと書き込まれていました。

「コレクション展:絶対現在」の中心である河原温「Todayシリーズ」は、壁4面にわたって《MAY 1.1971》から《MAY 31.1971》まで31点が勢ぞろいするという、普段はできない大掛かりな展示です。見応えがありました。

杉本博司《カントン・パレス・オハイオ》(1980)は、劇場シリーズの一つ。2020.7.15付日本経済新聞「私の履歴書」に、ニューヨーク・イーストビレッジの映画館で撮影した時の話が書いてありました。《初めの七日間》(1990-2003)は、海景シリーズの7点。一番左の作品は霧に覆われていますが、一番右の作品は空と海がくっきりと分かれ、波もはっきり見えます。2020.7.19付「私の履歴書」には〈先祖が見ていた海は、今私が見ている海と、おそらく大きくは変わっていないのではないのかと思った〉と、書かれています。古代の海と現在の海のつながりを表現しているのですね。

李禹煥の《線より》(1977)と《線より》(1981)は、どちらも青い縦線が何本も描かれた作品。一つだけでも、時間の経過を表現していますが、二つを並べると時の隔たりも感じることができます。

ミケランジェロ・ピストレット《窃視者(M.ピストレットとV.ピサーニ》(1962,72)を離れたところから見たら、高松次郎《赤ん坊の影No.122》(1965)が写り込み「鏡の効果はすごい」と感心しました。

1F:展示室6・展示室7

普段は、主に小堀四郎の作品を展示している展示室6ですが、今回はクリムト、エゴンシーレ、ココシュカ及びアンソールの作品に加えて浅野弥衛、北川民次の作品も展示されています。展示室7は、いつもどおり宮脇晴(はる)、宮脇綾子の作品でした。

2F:展示室5

入口近くに、藤田嗣治の作品が3点並んでいます。真ん中は《美しいスペイン女》(1949)。いつ見ても、うっとりします。両脇は、第二次世界大戦中に描かれた《キャンボシャ平原》(1943)と《自画像》(1943)。《自画像》は「おかっぱ」ではなく、時局を反映して丸刈り。映画「FOUJITA」(2015)にも、複製が登場していました。

河原温の「Todayシリーズ」も2点。《June 30.1978》と《Oct 21.1981》がありました。

展示室の中央は工芸品。青色が鮮やかな河合寛次郎の陶器《碧釉扁壺》(1964)と鮑貝が美しい黒田辰秋の漆器《乾漆螺鈿捻稜水指》(1965)と《螺鈿牡丹紋筐》(1941-45頃)。いずれも印象的でした。ステンレス製の抽象彫刻=毛利武士郎《Mr.阿からのメッセージ 第3信》(1966)は、図面も展示しています。

展示ケースの中には、多数の日本画が展示されています。中でもミミズクと極細の月を描いた、前田青邨《二日月》(1946)の描線はきれいでした。ただ、二日目なら、月の右側がうっすらと見えるはずなのですが、この作品は月の左側が細く見えています。なぜなのでしょう。構図の関係ですか???

Ron.

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