展覧会見てある記 豊田市美術館「ねこのほそ道」ほか 2023.03.06 投稿

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「ねこのほそ道」(”Cat’s Narrow Road”、以下「本展」)に行ってきました。当日は本展と「徳富満―テーブルの宇宙」「コレクション展 小さきもの―宇宙/猫」も開催。以下、印象を書きます。

◆「ねこのほそ道」1階・展示室8

落合多武   CAT Carving                  

 展示室に入ると目に飛び込んで来るのは、キーボードの上に寝そべった猫。落合多武《CAT Carving(猫彫刻)》(2007/2022)です。2019年に豊橋市美術博物館で開催された「国立国際美術館コレクション:美術のみかた自由自在」でも同じ作家の作品《cat sculpture》(2007)を見ました。ただし、本展は「個人蔵」。キーボード本体の色も黒→灰色、作品名も “cat sculpture” → “CAT Carving” と違っています。とはいえ、のんびりとした猫の表情と、切れ間なく鳴るキーボードの音は変わっていません。

左から、タオル(オレンジ)、バスマット、バスタオル(赤)、タオル(青)
佐々木健 ふきん

次に対面したのは、本展のメイン・ビジュアル=佐々木健《ねこ》(2017)。現代美術展では珍しい具象の作品です。面白いのはキャンバスに描いた油彩画、《タオル(オレンジ)》(2018)、《バスマット》(2018)、《バスタオル(赤)》(2019)、《タオル(青)》(2018)という4つの作品です。タオルやバスマットの肌触りを再現しようと試みた一種の「だまし絵」ですが気の抜けたような雰囲気があり、思わず「クスッ」としました。「ふきん」や「ぞうきん」、「のれん」も描いています。中山英之 + 砂山太一《「きのいし」の建築模型》(2023)は、ミニチュアの岩石やミース・ファン・デル・ローエが設計した椅子のミニチュアを使った作品。近くで見ると、岩石は石材の模様をプリントした合板で組み立てたものでした。

大田黒衣美  springler(左)

次の区画は全て大田黒衣美の作品。《springlet》(2023)は、ホログラムシートにウズラ卵の殻や絵の具で描いたもの。丸くなった猫らしき姿があります。《旅する猫笛小僧》(2013)は題名のとおり、「猫を描いた」とわかります。ポケットティッシュに絵を描いた作品が、たくさん展示されていました。

岸本清子     空飛ぶ猫3(左)

その次の区画は全て岸本清子(さやこ、1939-88)の作品。《空飛ぶ猫》シリーズ、《[アリス]》(1980頃)、《[骰子の自画像]》(1988)、《[赤猫の自画像]》(1988)だけでなく、なんと《政見放送》(1983)まで「アート作品」として展示されています。

泉太郎のインスタレーション《クイーン・メイヴのシステムキッチン(チャクモールにオムファロスを捧げる)》(2023)は、「ゲルハルト・リヒター展」で《カラー・チャート》等を展示していた空間を「そのまま」使ったもの。キャプションも残っています。最初は「え、《カラー・チャート》の展示は無いのに」と驚きましたが、それも作家の茶目っ気。ほほえましい気持ちになりました。

◆「ねこのほそ道」(つづき)2階・展示室1~3階・展示室2

五月女哲平 black,white and others

 2階の展示室1には、巨大な作品が並んでいました。五月女哲平《black, white and others》(2023)は、短冊状の黒い板に白線を描いたり、丸い穴を開けたりして何枚も並べたもの。巨大な写真・大田黒衣美《sun bath》(2020)は、何を撮ったものか分かりませんでしたが、作品リストには「野良ねこのうえに、ガムで象った人形を置いて撮影したもの」と書かれていました。3階に上る階段の近くには巨大な岩(模型)があります。中山英之 + 砂山太一《きのいし かみのいし》(2019/2017)でした。

 展示室2の入口脇には、五月女哲平のカラフルな立体作品《sunset town》(2023)が置かれています。

◆「コレクション 小さきものー宇宙/猫」 3階・展示室4~2階・展示室5

アルベルト・ジャコメッティ  ディエゴの頭部

 3階・展示室3「徳富 満―テーブルの上の宇宙」の展示を見た後、展示室4に入ると佐藤克久のカラフルな作品や岡崎乾二郎の作品がならんでいます。アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの頭部》(1953-54年頃)やジャン・アルプの作品も目を引きます。

ジャン・アルプ ひげー時計、へそ、ひげー帽子、数字の8、泡だて器、へそ-びん、海

 2階・展示室5では、荒木経惟(のぶよし)《冬の旅》(1989-90)などの作品を展示。「陽子夫人の闘病・旅立ちから30年以上の歳月が過ぎたのだな」と思いつつ、《冬の旅》を一枚一枚見返しました。

◆最後に

 3つの展覧会はどれも現代アートなので、好みは分かれるかもしれませんね。会期は長く、5月21日(日)まであります(前期・後期で作品の入れ替えあり)。

Ron.

INAXライブミュージアム「常滑の岡本太郎1952」ミニツアー

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常滑市のINAXライブミュージアムで開催中の「常滑の岡本太郎1952 タイル画も陶彫も、1952年の常滑から始まった」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。参加者は8名。本展の会場「窯のある広場・資料館」2階に集合して、INAXライブミュージアムの後藤泰男学芸員(以下「後藤さん」)から本展の解説を聞いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆ 後藤さんの解説(PM2:00~2:30)

 以下は、後藤さんの解説を私なりにまとめたものです。

〇 岡本太郎が制作した最初のタイル画は《太陽の神話》(1952)

岡本太郎(以下「太郎」)が制作した最初のタイル画《太陽の神話》は、《人々》というタイトルで制作を開始、《朝昼夜》、《夜と晴れを捕える太陽》と次々にタイトルが変わり、《太陽の神話》に落ち着いたとのことです。後藤さんは「太陽は万物に平等に降り注ぐことから、タイトルが《太陽の神話》になりました。そういう意味で、《太陽の神話》は大阪万博の《太陽の塔》の原型です」と解説しています。また「《太陽の神話》の中央は太陽で、向かって右は木、左は鳥」とのことです。

〇 《太陽の神話》制作のきっかけは、岡本太郎が世田谷の自宅に作ったタイルの浴槽

1951年、岡本太郎は世田谷の自宅に風呂を作りました。タイル張りの浴槽を気に入った太郎は、伊奈製陶(現:INAX)の営業社員・小林凱金氏(よしかね、以下「小林さん」)から、太郎の作品をタイル画で表現してはどうかと持ち掛けられます。伊奈製陶は1947年、羽田空港ターミナルビルのロビーに10mm角のタイルを組み合わせたタイル壁画を制作しています。小林さんは太郎に、伊奈製陶のタイル画を宣伝したのです。常滑に送られた《群像》(1949)を伊奈製陶の職人がタイル画にして、小林さんが送り届けたところ太郎は気に入り、自分でもタイル画の制作を考え始めました。

〇 《太陽の神話》の制作

1951年12月11日、太郎は《太陽の神話》の原画を描き始め、1952年1月14日、小林さんに「原画ができた」と連絡。2月12~15日、太郎は常滑の伊奈製陶に滞在してタイル画を制作。同月23日、太郎は伊奈製陶の東京事務所に行き、出来栄えを確認。同月27日、東京都美術館でタイル画の目地に色付け、28日には同館で開催の「第4回アンデパンダン展」に出品。後藤さんは「通常よりも短期間で制作しています。伊奈製陶も張り切っていたのでしょう」と付け加えました。太郎はタイル画を制作するだけでなく、3月1日付の博報堂月報に「芸術の工業化」というタイトルで、タイル画に関する投稿をしています。

〇 建築家・坂倉準三からタイル壁画《創生》制作の依頼を受ける

1952年3月3日、岡本太郎は付き合いのあった建築家・坂倉準三からタイル壁画(地下鉄日本橋駅に面する高島屋地下通路の壁画)の依頼を受けます。3月5日、デザイン制作。4月10~13日、常滑に滞在して伊奈製陶でタイル壁画を制作。「常滑の岡本太郎 1952」フライヤー(URLは下記のとおり)に掲載の《創生》制作風景を撮った写真を見ると、タイルを並べているのは伊奈製陶の職人ですが、太郎も手伝っています。なお、これらの写真のいくつかは、雑誌『毎日グラフ』のために撮影されたものです。PRが上手な太郎は、写真家・記者を常滑に呼んだのです。完成した壁画は2m×15mと大きなもので、当時の『毎日グラフ』には土門拳が撮影した壁画の写真と記事も掲載されています。

INAXライブミュージアム「常滑の岡本太郎1952」フライヤーPDF

同じく1952年に制作した高島屋大阪店・大食堂のタイル壁画《ダンス》は、5月20日に30㎝四方のベニヤ板に貼りつけた状態で東京に運ばれ、東京都立美術館で組み立てられた後、同館で5月22日に開会した「第一回日本国際美術展」に出品。展覧会終了後、大阪に運ばれました。この《ダンス》は2011年に再生されましたが、LIXILのホームページに詳しい記録が載っていますので、リンクを張っておきます。

INAX|INAXについて|News Release 蘇れ!岡本太郎の「ダンス」プロジェクト 岡本太郎が常滑で制作したタイル画再生の記録 (lixil.co.jp)

〇 岡本太郎が初めて取り組んだ陶彫《顔》(1952)

1952年4月、岡本太郎は初の立体作品にして、最大の焼き物《顔》を三体制作します。太郎の養女・岡本敏子氏の話によれば三体も作ったのは、伊奈製陶から「割れるから予備として三体作ってほしい」とお願いされたからとのこと。現在は、一体が太郎の父・一平の墓に、一体が川崎市岡本太郎美術館蔵(「岡本太郎展」に出品)、一体が個人蔵(本展に出品)。伊奈製陶が「割れる」と言った理由は、《顔》が中空でなく、作品の中まで土が詰まっているからです。中空だと軽く、内側と外側から乾燥、焼成ができるので均一な乾燥・焼成ができます。しかし、作品の中まで土が詰まっていると重いだけでなく、外側は乾燥しても中は湿ったままという状態になりやすく、乾く過程で表面から崩れてしまいます。そのため、作品を濡らした布で覆い、徐々に乾燥させないと、均一になりません。焼成時も、表面と内部で縮み方が違わないように気を付けないと、窯のなかで割れてしまいます。三体とも無事に完成したのは、伊奈製陶の技術が優れていたからだと、後藤さんは言われました。なお、《顔》が納品されたのは、ようやく9月になってからです。

岡本太郎が「焼き物」に取り組んだのは、1951年11月に東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受けたから、とのこと。太郎は、縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みずゑ』1952年2月号に発表。縄文土器で「焼き物」に興味を抱き《顔》を制作したのだと、後藤さんは言います。

《顔》を制作したのは、《創生》制作のために常滑に滞在した4月10~13日の4日間です。しかし、4日間で三体も作品を制作するのは無理と思われます。実は、2月12~15日の常滑滞在時、太郎はマケット(試作品)を4体制作し、釉薬を検討しています。この時に制作したマケットを元に、伊奈製陶が大まかな形を作って用意しておいたようです。仕上げなら、4日間でも可能だったと思われます。

現在展示されている《顔》の頭からは、草が一本伸びています。本展開始時には無かったのですが、花器として使うために開けた穴に草の種が入り、展示中に発芽したと思われます。《顔》は長い間、屋外に置かれていました。展示前に十分洗浄したのですが、穴に詰まった小石と土は取り切れなかったようです。

なお、大阪万博《太陽の塔》と同じように《顔》の裏にも顔があるので、鑑賞時は両面を見てください。

《顔》の展示 後ろの写真は、制作中の岡本太郎(ネクタイ着用なので、写真撮影用のポーズか?)
《顔》のマケット(左は裏、右は表。表・裏の両面に顔がある)

◆ 自由観覧

 後藤さんの解説を聞いた後、参加者は「世界のタイル博物館」の展示やミュージアムショップなどを見学して、帰路に就きました。

          Ron.

展覧会見てある記 INAXライブミュージアム「常滑の岡本太郎1952」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

愛知県美術館で開催中の「展覧会 岡本太郎」に関連する展覧会が常滑市のINAXライブミュージアム(以下「ミュージアム」)で開催されていると聞いて、早速。出かけて来ました。展覧会名はズバリ「常滑の岡本太郎1952」(以下「本展」)。なお、ミュージアムは複合施設。いくつもの建物で構成され、本展の会場は総合受付のある「窯のある広場・資料館」の2階。一つの観覧券で、他の施設にも入場できます。

◆窯のある広場・資料の岡本太郎館(1階)

 窯のある広場・資料館は、土管を焼いた大正時代の窯と建物・煙突を保存した施設で、建物は木造。1階にある大きな窯では、土管を焼いたときの様子を「窯プロジェクション」で投影。廊下には大きな土管や土管を運ぶときに使った「伊奈式運搬車」などを展示していました。

◆窯のある広場・資料館(2階)「常滑の岡本太郎1952」

 本展で展示しているのは、岡本太郎が常滑市の伊奈製陶(現LIXIL)で制作した陶彫《顔》(1952)とマケット(試作品)の外、《太陽の神話》の原画(1952)、タイル画《太陽の神話》《創生》《ダンス》に関する雑誌記事と常滑で撮影された岡本太郎の制作風景。いずれも1952年のものです。このうち、陶彫《顔》は花器として3点制作され、本展と「展覧会 岡本太郎」に展示の外、岡本太郎の父・岡本太郎の墓碑になっているようです。

《太陽の神話》(原画)1952

 本展の解説によると、油彩作品をタイル画にする試みは岡本太郎の油絵《群像》(1949)をモザイク画する試みから始まり、岡本太郎は《太陽の神話》でタイル画の第一作を発表。《創生》(1952)は、地下鉄日本橋駅に面する高島屋地下通路の壁画として制作され、タイル画による初のパブリックアートになったとのこと。陶彫《顔》とタイル画《創生》の、常滑・伊奈製陶における制作風景は、本展チラシにも掲載。

陶彫《顔》1952 花器として制作

 10ミリ角の色タイルが出たことにより岡本太郎のタイル画に火が付き、パブリックアートが始まったことを、本展で知ることができました。愛知県美術館で開催中の「展覧会 岡本太郎」最初のコーナーのうち1952年に的を絞った内容ですが、当時の制作風景と雑誌記事からは、岡本太郎の意気込みが伝わってきます。なお、本展のフライヤー(チラシ)のURLは、下記のとおりです。

◆世界のタイル博物館

 本窯のある広場・資料館に隣接する「世界のタイル博物館」では、約4700年前から美しい青色を保ち続けるエジプトのタイルを始め、世界と日本の装飾タイル、古便器コレクションやミュージアムショップもあります。名古屋市本庁舎に使われたタイㇽには瀬戸・山茶窯のものが納入されたことを知りました。

◆建築陶器のはじまり館・テラコッタパーク

 窯のある広場を挟んで世界のタイㇽ博物館の向かいにある「建築陶器のはじまり館」にはフランク・ロイド・ライトが設計した「帝国ホテル旧本館」の柱(常滑産の黄色い煉瓦を使用)をはじめ、建築陶器が多数展示され、屋外の「テラコッタパーク」には、かつて日本のビルを飾った焼き物の装飾「テラコッタ」が展示されていました。

◆見逃した、土・どろんこ館 企画展示室「Fashion On Tiles」

 総合受付で「Fashion On Tiles」のチラシをもらったのですが、しっかりと読まず、展覧会をスルーしてしまいました。チラシには「世界のタイル博物館所蔵の人物タイㇽから80余点を厳選し、そこに見られるさまざまな服飾を、タイルの用途や技法、さらに人物タイルが好まれた文化的背景などに触れながら読み解きます」と書いてあったので、スルーしてしまったのは悔やまれてなりません。

          Ron.

豊田市美術館「ゲルハルト・リヒター展」ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「ゲルハルト・リヒター展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は21名、豊田市美1階の講堂で豊田市美の鈴木俊晴学芸員(以下「鈴木さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆ 鈴木さんの解説(14:00~45)の概要

〇本展の入場者等について

ミニツアーの当日の昼頃、豊田市美の駐車場を見ると、ほぼ満車の状態。車の出入りがあるので、駐車場付近に渋滞はありませんでしたが、人出の多さにびっくり。観覧券売り場でも行列。話を聞くと、年間パスポートを求める人が多いので、行列が長くなりやすいそうです。コインロッカーも、空きが僅かという状態でした。「何が起きているの?」という感じです。

 講堂に入ってこられた鈴木さんは、開口一番「今日は、本展で最も入場者数が多い日になりそう」と話し「本展は、豊田市美で開催した外国人作家の現代美術展としては最多の入場者数になるのではないか」という言葉が続きました。私が思うには、東京と豊田の2会場だけで開催ということもあるのでしょうが、ゲルハルト・リヒター(以下「リヒター」)が、今一番注目されている作家だから、ということでしょう。

〇現代美術家になるまでのリヒター

鈴木さんの解説を、私なりに要約すると、以下のとおりです。

リヒターは1932年のドレスデンに生まれ。30歳近くまで東ドイツで暮らし、壁画作家として生計を立てていました。当時の東ドイツの壁画は、「健康的な生活」「労働は未来を創る」といったポジティブな未来像を国民に示す、プロパガンダのための芸術でした。プロの壁画家という仕事に対し、リヒターは「これが自分の本当の仕事では無いのでは?」と疑問を抱くようになっていきます。

一方、西ドイツでは1954年に、東ドイツとの国境に近いカッセルで、第1回ドクメンタが開催されます。第1回はナチ政権下で「退廃芸術」とされた作品の名誉回復を行い、1959年開催の第2回では最新の芸術作品を展示。当時はまだ東西の交流があったので、リヒターは第2回ドクメンタでポロックやフォンタナなどの現代美術を見て、衝撃を受けます。(注:芸術の世界でも冷戦の真っただ中、ということです。)

ベルリンの壁が建設される数カ月前の1961年、リヒターは西ドイツに出国、1962年にはデュッセルドルフの芸術アカデミーに入学します。(注:次の項目から現代美術家リヒターの経歴が始まります)

〇リヒターの足跡

 以下、鈴木さんは、主に展示室8に出品された作品を紹介しながら、リヒターの足跡をたどります。

1 《モーターボート》(1964) 〈フォト・ペインティング〉

新聞・雑誌・手許の写真をプロジェクターで投影して、絵筆で描いた作品。リヒターは壁画のプロなので、複数の人物を組み合わせてプロパガンダを描くことはお手のもの。しかし、リヒターは「プロパガンダの芸術」から逃れたかったので、「写真を元に、それを模写する」という方法をとることにより、作家の意図や絵に描かれたものの意味、絵画技法に縛られない作品を制作しました。(注:鈴木さんの解説そのままではなく、私なりに受け取ったものです。)

2 《グレイ》(1973)、《グレイ》(1973)、《グレイ》(1976)

グレイ一色の抽象的な表現を行うシリーズ。1960年代~80年代。

3 アブストラクト・ペインティング

抽象画の表面をアクリル板で削り取るシリーズ。アクリル板で削り取るだけでなく、ヘラで細かく削り取るなど、同じ作業を繰り返して制作。1990年代から。

4 《4900の色彩》(2007)

縦5枚、横5枚、計25枚の小片で1枚(25色)のパネルを制作し、196枚のパネルを組み合わせて作品とするもの。展示するたびに、196枚のパネルの組み合わせを変える(注:本展では、196枚のパネルを組み合わせて、4つの四角形を展示していた)。自己表現を介入させずに作品を制作。

5 《8枚のガラス》((2012)

 8枚のガラスを、微妙に角度を変えて並べた作品。作品の周りを巡ると、ガラス面に不思議な反射が現れる。

 鑑賞するとき、壁と壁の間に隙間があるので、壁面をみると別の時代に描かれた作品が隙間から見える。そのため、制作された年代が違う作品を同時に見ることができる瞬間がある。これも展示の工夫。

6 《ビルケナウ》(2014)

 アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で隠し撮りされた写真を元にして、2014年に着手。4枚のフォト・ペインティングを描いたが、それでは「何かを語った」ことにはならないため、塗りつぶしてアブストラクト・ペインティングの作品とした。塗りつぶされてはいるが、一番下の層には隠し撮りした写真が描かれている。リヒターは、大虐殺を直接描くことはしたくない。出来事を問いかけることは出来ないか考えて《ビルケナウ》に到達。作品は、アブストラクト・ペインティング、アブストラクト・ペインティングの写真パネル、隠し撮りされた写真の複製、灰色のガラスで構成。どれが本物で、どれがコピーか、区別出来ない。

Q&A

Q:《ビルケナウ》のアブストラクト・ペインティングの写真パネルは、技術的な問題で1枚のパネルには制作できなかったのですか、それとも、あえて4枚のパネルに分割したのですか?

A:あえて、4枚に分割したのだと思います。1枚のものを、あえて4枚に分割することによって相対化するという意図があります。宗教は意識していないと思われますが、分割線は「十字架」を表したものでしょう。

7 展示室1~3(2階・3階)の作品

《ビルケナウ》以後にリヒターが描いた作品はエネルギッシュでビビッドになります。リヒターは人気の作家ですが、今後10年は日本で展覧会の開催はないと思われるので、しっかり見ていってください。

鈴木さんの解説は以上で終了。当日は、15:30からも鈴木さんのスライド・トークが開催されるため、講堂の周りには行列ができていました。それだけではなく、観覧券売り場にも行列。閉館まで2時間余りしかありませんが、この時刻でも次々に入場者が集まって来ていました。

◆ 自由鑑賞

〇なぜ、本展に人が集まるのか?

自由鑑賞中、参加者の間で話題になったのは「なぜ、本展に人が集まるのか」ということでした。

最初の疑問の答えとしては「ナチ政権下に叔母さんが収容所で毒ガスの犠牲になる。東ドイツで社会主義リアリズムの手法を身に着けるが、壁画家としての生き方に疑問を持ち、デュッセルドルフに出て、現代美術家としてデビュー。作家として成功するも、東ドイツ出身であり、現代美術の大きなうねりからは少し遅れて世に出てきたという、ストーリー性のある作家だから、というのが腑に落ちる意見でした。《花》(1992)のように、美しい絵を描く実力のある作家だから、というのもうなずける意見です。

◆ 最後に

豊田市美が人で一杯になるのは、最近では、2020年2月16日開催の「視覚のカイソウ」ミニツアー以来のことではないでしょうか。この時は展示室8の前のロビーが人で一杯になり、お祭りのようでした。また、2020.3.12週刊文春の平松洋子「この味」は「これはどうしても見ないと、と決心して2月23日に豊田市美術館に駆け込んだ」、豊田市を訪れるのは2013年の「フランシス・ベーコン展」以来のことだが「期待を上回るすばらしさだった」と「視覚のカイソウ」の感激を綴っています。コロナ禍に巻き込まれる寸前の、三密回避やマスク生活とは無縁の、今となっては夢のような時代の思い出です。

Ron.

展覧会見てある記 愛知県美術館「展覧会 岡本太郎」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日、愛知県美術館で開幕した「展覧会 岡本太郎」(以下「本展」)に出かけて来ました。平日の昼頃でしたが、若い世代が目立ちます。大阪万博(1970)から50年以上経ち、没後27年経過というのに、来場者が多いことにも驚きました。岡本太郎、いまだに人気があるのですね。

◆最初のコーナーは、モザイクタイルの壁画に関連する作品

 会場が愛知県美術館ということから、最初のコーナーは地元の産業・モザイクタイル関連の展示でした。《太陽の神話》(1952)はモザイクタイルの作品です。旧東京都庁舎を飾ったモザイクタイルの壁画は1991年に取り壊されたため、その原画《日の壁》《月の壁》(いずれも1957)を展示。オリエンタル中村の壁画も取り壊されたため、模型を展示。建物が解体される時、壁画を保存したくても大きくて費用が嵩むので保存は難しく、建物と運命を共にせざるを得ないということでしょう。会場には、岡本太郎と旧東京都庁舎を設計した丹下健三が、モザイクタイル工場で一緒に写っている大きな写真も展示されていました。二人の間には、大阪万博以前から交流があったのですね。

オリエンタル中村の壁画《星・花・人》
  (模型)
旧東京都庁の壁画《日の壁》(原画) 

◆パリ時代の作品

本展の開催前から「岡本太郎がパリ時代に描いた可能性が極めて高い作品が3点発見された」というニュースが話題になっていたので、野次馬根性で見ました。展示されていたのは抽象画。岡本太郎の初期の作品といえば、抽象画ではなく、シュルレアリスムの《傷ましき腕》(1936/再制作1949)。抽象画では満足できなくなった、ということでしょう。

パリ時代に描いた可能性が高い作品

◆戦中・戦後の作品

NHKのドラマで、岡本太郎が30歳を過ぎてから徴兵され、中国の最前線で危険な任務に就いていたことは知っていました。それでも、師団長からの命令で制作した《師団長の肖像画》(1942)と個人的に描いたと思われる《眠る兵士》(1945)を見たときは、少し驚きました。肖像画の依頼があればともかく、従軍中に「眠る兵士」をスケッチすることは出来たのでしょうか。

《燃える人》(1955)は、ビキニ環礁水爆実験の巻き込まれた第五福竜丸事件をテーマにしたもの。東京国立近代美術館所蔵の作品には、《明日の神話》と同じように「第五福竜丸」を擬人化したモチーフが描かれていました。

◆《太陽の塔》と《明日の神話》

《太陽の塔》と《明日の神話》は、独立したコーナーがあります。もちろん、「本物」を展示することはできないので、模型やスケッチ、下絵を展示。《明日の神話》の展示は、《ドローイング》(1967)と《3枚目の下絵》《4枚目の下絵》(いずれも1968)ですが、そのうち名古屋市美術館所蔵の《3枚目の下絵》だけ、壁画と同様、画面左右の下部に空白があります。展示室では、《明日の神話》の修復から世田谷駅前通路に設置されるまでを収録したビデオも上映していました。

《明日の神話》(3枚目の下絵:名古屋市美術館所蔵)

◆写真撮影について

展示室内での写真撮影は、特に制限はありませんでした。ただ、写真撮影に夢中になると作品を鑑賞する時間が無くなるだけでなく、作品の記憶まで飛んでしまうので要注意。

また、10回のロビーには記念撮影コーナーがあります。「TARO MAN」と「太陽の塔」、2つのコーナーでは入れ替わり立ち代わり、記念撮影する人が来ていました。

          Ron.

「女性の服飾文化史 新しい美と機能性を求めて」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

日置久子 著 西村書店 2006年9月15日初版第1刷発行

投稿 2023.01.16

今回ご紹介するのは、今年に入って3冊目の、女性の服飾文化史に関する本です。フランス革命前後から現代までの服飾文化史について書いているので、「マリー・ローランサンとモード」で展示される前後の時代のモードについても触れます。(注:p.○は、該当ページを表します)

1 「マリー・ローランサンとモード」以前の女性服

(1)フランス革命前後のモード

フランス革命前の女性服は、装飾過多で細いウエストの胴着を着て、パニエ(スカートを膨らませる籠型)で膨らませた大きなスカートを着けていましたが(p.11)、革命期にはパニエ、コール・ピケ(ウエストを締める胴衣)、ヒップ・パッド(腰当)などの人工的なものを身に着けないイギリス調のシンプルなドレスになり(p.16)、第一帝政期にはネグリジェかランジェリーのように見える、ギリシャ・ローマ風スタイルのシュミーズ・ドレスが流行します(p.44)。大きな変化ですね。

(2)ロマンティック・モード

第一帝政が崩壊し王政復古となると女性の服装は貴族風になります。胴は細く、スカートは釣鐘型、袖は上部が大きく、肘から手首にかけて細くなります(p.54)。1830年を過ぎる頃からドレスの肩幅が狭まり、1840年代に入ると、袖は余分な膨らみがだんだん無くなって、細くなります(p.56)。

1857年には、クリノリンと呼ばれる、細い針金で出来た半球型のフープ(枠)が登場。クリノリンは大量生産され安価だったため、家政婦や農婦にまで行きわたります(p.59)。クリノリンの流行は1860年代末まで続きますが、1868年には、スカートの後部に強調部分がおかれる半クリノリンに変化。19世紀末には、スカートの後ろにバッスル(籠)を入れて腰を膨らませる、バッスル・スタイルが流行します(p.86)。なお、明治時代に鹿鳴館で女性が着たのは、バッスル・スタイルです。

(3)アール・ヌーヴォー・スタイル

19世紀末から20世紀初期にかけては、アール・ヌーヴォー・スタイルが流行。女性服のシルエットはバッスルによる人工的な膨らみから解放され、ウエストが細く、バストとヒップを目立たせるSカーブ・ラインに変わります(p.156)。

2 「マリー・ローランサンとモード」の女性服

(1)ジャポニスム

1900年にパリ万国博覧会で着物姿が話題となり、「キモノ・サダヤッコ」「ジャパニーズ・ガウン」などと名づけられた着物風の室内着が売り出されます。「体を締めつけない女性服」の復活でした。

ア ポール・ポワレ

ポール・ポワレも1903年、着物にヒントを得た女性服を制作します。直線的な裁断で、自然なゆるやかさのある、日本風の衣装です。ポワレは女性をコルセットから解放し、Sカーブ・ラインのスタイルをストレート・ラインに変えます。ストレートなキモノ・スリーブを着け、着物風の打ち合わせを取り入れました(p.160)。ポワレの周辺に集まった画家は、ヴラマンク、ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサンなど。彼の邸宅は優れた近代絵画のコレクションで飾られていました(p.163)。「マリー・ローランサンとモード」でポワレがデザインした作品が展示されるのも納得です。

しかし、全盛期を過ぎたポワレは、1925年のアール・デコ展で全財産を使い果たし、まもなく破産。再起することはありませんでした(p.177)。

 

イ マドレーヌ・ヴィオネ

 マドレーヌ・ヴィオネは第一次大戦後、着物にインスピレーションを得て、平面性とゆとりを特徴とする直線裁断の服をデザイン、さらにバイアス・カットで自由なデザインを発想します(p.160)。

(2)ギャルソンヌ・スタイル

「ギャルソンヌ」とはフランス語の「ギャルソン(少年)」を女性形にした言葉です。第一次大戦後、理想的なタイプが、肉感的な女性から、バストとヒップが平たく、脚線美のスリムな女性に変化。テーラード・スーツやコート、短いシュミーズ・ドレスが好んで着用され、これを「ギャルソンヌ・スタイル」と呼ぶようになります(p.180)。しかし、1930年代までにギャルソンヌ・スタイルは完全に姿を消して、女性服に体の自然な曲線がよみがえり、成熟した女性のスタイルに復帰。スカート丈も長くなります(p.187)。

(3)ガブリエル・シャネル

ア 第一次大戦前

ガブリエル・シャネル(1883-1972)は、1910年にパリのカルボン通りに帽子店を開店。当時、帽子は服よりも重要なアイテムでした。1913年にはビーチ・リゾート、ノルマンディーのドーヴィルにブティックをオープン。スポーツ好きのシャネルが考案した新しい服は飛ぶように売れました(p.191)。

イ 第一次大戦中

シャネルは裁断や縫製が簡単なジャージー(ニット生地)を使って、女性服をつくり始め、1916年5月、モード雑誌にジャージー・スーツを掲載します(p.192)。

ウ プティット・ローブ・ノワール(英語では、little black dress)

 1926年、米国の『ヴォーグ』誌10月号は、ギャルソンヌ・スタイルに近い黒いシュミーズ・ドレス(little black dress)を、一種の“ユニフォーム”になるだろうと予言します。それは、2-3メートルの生地で出来る、大量生産向きのデザインでした。コピーされてもそれが普及すればビジネスは成功すると信じ、シャネルはコピーを許していました(p.194)。

3 「マリー・ローランサンとモード」以後の女性服

(1)クリスチャン・ディオール

1947年にクリスチャン・ディオールが披露した「ニュールック」は、すっきりと目立つバストライン、細いウエスト、たっぷり広がったロングスカート、豪華な生地を贅沢に使い、洗練したスタイルで登場します(p.209)。

服飾史から見ると、ニュールックは18世紀のパニエ・スタイル、19世紀のクリノリンに通じる伝統的なスタイルでした。この古くて新しいスタイルは、第二次大戦中のミリタリー・ルックや実用服に飽きていた女性たちには、この上なく新鮮に見えました。しかし、終戦直後の、品不足の貧困生活に喘いでいる人々にとっては贅沢極まりないもので、激しい反感を買いました(p.211)。

(2)ガブリエル・シャネル、71歳の再登場

1939年に香水とアクセサリー部門だけ残して閉店したシャネルですが、第二次大戦後の1954年、71歳で再登場します。復活の理由は「クリスチャン・ディオールの独裁を排除するため」でした。

実用性と機能性とプレーンさを重視したシャネルには、ディオールのコルセットで固めた、着にくい服を黙認することはできませんでした。彼女が発表したコレクションは英仏では不評を買いましたが、米国のモード記者たちは絶賛。ツイードの襟なし、ブレード縁取りのシャネル・スーツは、応用範囲の広い、キャリアウーマンのためのスーツでした(p.195)。

Ron.

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