新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 下 (ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 下)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2021年1月1日から日本経済新聞に連載された辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)26回から30回までのなかで、同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容に重なる、「深掘り」とも言うべき話を、掲載順に並べました。

◆履歴書26回(1/27)

この回では、米国・ボストン美術館の日本美術の総カタログづくりが1991年に始まり、このプロジェクトが佳境に入った1992年6月に、当時の定年である60歳を迎えたこと、再就職先が京都市にある国際日本文化研究センター(日文研)になったことなどが書かれています。

◆履歴書27回(1/28)

この回では、1995年11月に新設された千葉市美術館の館長に就任し、開会記念の展覧会は「喜多川歌麿展」。1998年4月の「曽我蕭白展」も好評で、1999年8月に開いた「絵巻物―アニメの源流」展も話題を集めた、と書かれています。

蕭白といえば、「日経TRENDY」2021年1月号臨時増刊に「曾我蕭白展(仮)」が愛知県美術館を会場に2021年10月8日~11月21日の会期で開催される、と書いてありました。今から楽しみです。

◆履歴書28回(1/29)

この回では、千葉市美術館長の後に多摩美術大学の学長兼教授に就き、2002年には米国・ニューヨークのジャパン・ソサエティーで開催された「KAZARI(かざり)」展のために出張したこと、出張後の学長選には落選して2003年に多摩美術大学を辞したことなどが書かれています。

◆履歴書29回(1/30)

この回では、滋賀県信楽町にあるMIHO MUSEUMの館長に就任し、美術家の村上隆さんと一緒に美術雑誌で面白い連続企画をしたことなどが書かれています。若冲と重なる内容は、伊藤若冲の《象と鯨図屏風》をMIHO MUSEUMが購入してくれたこと(若冲p.229~236)と、2013年に「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展が実現したこと(若冲p.210)の二つです。

なお、《象と鯨図屏風》については若冲のほうが詳しいので、「深掘り」はありません。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年28回を読むと

 上記の「若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」展ですが、ジョー・プライス氏の「私の履歴書」28回(2017年)によれば、東日本大震災で被災した人たちの心の復興支援になればと思い立ち、東北大学で教べんをとっていたことのある辻惟雄氏にジョー・プライス氏が国際電話をかけ、仙台市博物館の内田純一学芸室長を紹介してもらって実現した、とのことです。また、子どもに来てほしいので高校生まで無料にしたほか、記念グッズの売り上げも展覧会を開催した3館(仙台市博物館、岩手県立美術館、福島県立美術館)に寄付することを決めた、とも書いてありました。

◆更に、日本経済新聞・ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回も読むと

若冲に書かれていたものの、履歴書では触れていない話が二つあります。

第一は、2000年の展覧会。若冲「あとがき」に「2001年、京都国立美術館で催された若冲展は、『知っていますかこの画家を』というサブタイトルがついており、企画した狩野博幸室長はじめ館員たちが心配したとおり、最初のころは会場に閑古鳥が鳴くありさまでした。それが、会期の後半になると、にわかに観客が増え始め、最後には、七万という、当時としては記録的な入場者数となりました」(p.248~249)と書かれています。これに重なる記述が、2017年に日本経済新聞に連載されたジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回にありますので、以下、引用します。

待ち望んでいた伊藤若冲再評価の兆しが現れ始めた。「こんな絵かきが日本にいた」。こんなキャッチフレーズで若冲の没後200年を記念した特別展覧会が、2000年秋に京都市の京都国立博物館で開かれた。私どものコレクションから17点を出品した。はじめはまばらだった入館者の出足が、日を追うごとに増え、熱を帯び終盤は押すな押すなの列。1カ月間で約9万6000人が見た。(引用終り)

なお、以上の二つは開催年、会場、サブタイトル、入場者数という4つ点で違っています。京都国立博物館のHPなどで調べてみると、日本経済新聞に書かれた内容の方が正しいようです。

第二は、2006年から2007年にかけて開催された展覧会。若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」には「2006年に『若冲と江戸絵画』展(東京国立博物館)として公開された」と書かれています。これに重なるのがジョー・プライス氏の「私の履歴書」27回で「東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東京国立博物館を含む4館で約82万人を記録した」と書かれています。

◆履歴書30回=最終回(1/31)

この回では、「奇想の系譜」の著者として、伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになったこと、「奇想の系譜」で紹介した6人の画家たちは当時ほとんど忘れられた存在だったのが、今や江戸画壇のスター扱いされていることなどが書かれており、「深掘り」はありません。

◆履歴書の感想

読んでいて個人的に盛り上がったのは、21回と22回です。最終回の重要なフレーズ「伊藤若冲を世に広めた男として少しは知られるようになった」ことについては21回に、「奇想の系譜」の執筆については22回に書かれていましたから、著者の思いも私と同じようなものかもしれません。

なお、履歴書で言及した若冲の展覧会は、MIHO MUSEUM「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(2015.7.4~8.30)と2013年の3月から9月にかけて仙台、盛岡、福島を巡回した「若冲が来てくれました」展の二つだけ(いずれも29回に掲載)でした。2000年の展覧会(京都国立博物館)、2006~2007年の展覧会(東京国立博物館、京都国立近代美術館、九州国立博物館、愛知県美術館)、2016年の展覧会(東京都美術館)は、若冲では触れていたものの、履歴書ではスルー。少し残念でしたが「著者の関与が少なかった」ということなのでしょうね。

◆「ちくまプリマー新書349「伊藤若冲」の深掘り」としてまとめると

辻惟雄氏の「私の履歴書」とジョー・プライス氏の「私の履歴書」のうち「若冲の深掘り」に該当すると思われる事柄を、若冲のページ順にまとめてみました。なお、行頭のページは若冲のもので、(  )内は履歴書の掲載回を示します。

p.208 4行目 プライス氏は、ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家。また、戦後若冲を初めて評価した人でもある。著者は2番手だが、若冲ブームをプライスさんらとともに牽引(21回)

プライス氏が戦後若冲を初めて評価したのは1953年。建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア」で若冲の《葡萄図》に出会い、600ドルほどで購入した(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年1回・18回)

p.208 5行目 二幅の彩色画は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》(21回)

p.208 15行目 1964年の春、西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室に持ち込んだ。まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた(21回)。

p.209 11行目 1971年6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港でプライス夫妻の出迎えを受け、その後、プライス邸に招かれた(23回)

p.210 2行目 東京国立博物館では約32万人が見たほか、京都国立近代美術館、翌年は九州国立博物館、愛知県美術館に巡回。入館者数は東博を含む4館で約82万人を記録(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

p.247 3行目 『奇想の系譜』は1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、同年7月号から12月号に6回連載。1969年に長沢芦雪を書き加え、1970年3月に単行本として出版(22回)

p.248 12行目~p.249 1行目 正しくは、2000年、京都国立博物館で催された若冲展は「若冲、こんな絵かきが日本にいた。」というサブタイトルがついており(略)最後には、約9万6000人という、当時としては記録的な入場者数となりました。(ジョー・プライス「私の履歴書」2017年27回)

Ron.

新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 上(ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 上)

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2021年1月1日から日本経済新聞で辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)の連載が始まりました。履歴書には同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容のうち、忘れられた画家であった若冲が戦後再評価されたことに重なる、「深掘り」とも言うべき話が幾つも書かれています。以下、掲載順に並べてみました。

◆履歴書21回(1/22)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、アメリカ人の若い金持ちの御曹司ジョー・プライスが買い付けて手付金を支払った二幅の若冲を、画商から一日だけ借り受け美術史研究室の後輩に見せたという話(若冲p.208~209)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①ジョー・プライス氏が「ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家」であったこと、②後輩に見せたのは「1964年の春」で、二幅の若冲は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》、③持ち込んだのは「西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室」で「まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた」ことの3点です。

履歴書は更に、ジョー・プライス氏について「戦後若冲を初めて評価した人、つまり第一発見者である」と書き、著者については「私は2番手だが、今の絶大な若冲人気を博している、この画家のブームをプライスさんらとともにけん引したと思っている」と踏み込んでいます。

なお、「ジョー・プライス氏が戦後若冲を初めて評価した」というのは、2017年3月に連載された日本経済新聞「私の履歴書」(ジョー・プライス)の1回・18回に書かれた、1953年、浮世絵の収集家でもあった建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア(瀬尾商店)」で、若冲の《葡萄図》に出会い600ドルほどで購入した、という話を指すと思われます。

◆履歴書22回(1/23)

若冲の「あとがき」の「1970年3月、私は『奇想の系譜』という著書を出版」(若冲p.247)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、著者が同年7月号から12月号に6回連載したこと、②連載が好評であったため、1969年に長沢芦雪(ろせつ)を書き加え、その後、単行本として出版したことの2点です。

◆履歴書23回(1/24)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、「現在まで、私とプライス夫妻との交流は続いています」(若冲p.209)という文章の具体的な内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、1971年5月に著者が文学部東洋・日本美術史学科の助教授として東北大学に赴任し、その年の6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港ではプライス夫妻の出迎えを受け、シアトル美術館を見た後、プライス邸に招かれた、という話です。なお、この回は「ボストン美術館の日本美術の主任研究員のモネ・ヒックマンさんなど多くの知己を得て収穫の多い旅だった」という文章で締めくくられています。

◆履歴書24回(1/25)

この回では、東北大学における生活の様子と研究内容が書かれ、1977年9月から翌年1月まで米国・プリンストン大学の短期講義に赴いたことにも触れています。

◆履歴書25回(1/26)

この回では、1980年4月から東京大学の教授を併任し、1981年4月に東京大学へ戻ったこと、日本美術全体を見通す重要なキーワードとして「遊び」を見いだしたことなどが書かれています。

◆中間まとめ

連載は続きますが、一先ず「中間まとめ」とします。連載は、あと5回です。履歴書がどこまで21世紀の「若冲ブーム」に言及するのか見守り、連載終了後に「最終まとめ」をしたいと思います。

Ron.

読書ノート  辻 惟雄(つじ のぶお)著  よみがえる天才1『伊藤若冲』ちくまプリマ―新書349  発行所 株式会社筑摩書房  2020年4月10日発行

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1月2日、NHK総合テレビで正月時代劇「ライジング若冲」が放送され、とても面白くて引き込まれました。番組の最後に出た「時代考証に基づいたフィクション」という文字を見て「どこまでが本当なのか」知りたくなり、本屋で出会ったのがこの本です。

◆正月時代劇「ライジング若冲」について

若冲(中村七之助)と相国寺の学僧・大典顕常(永山瑛太)の二人の出会い・交流によって傑作《動植綵絵》が完成されるまでの話を軸に、謎の仙人・売茶翁(石橋蓮司)や若き日の円山応挙(中川大志)など、同時代の人物が絡み合うドラマです。本編の終了後、《動植綵絵》完成後のエピソードとして、①若冲と大典が淀川下りをして、若冲の描く風景と大典の漢詩を組み合わせた拓版画《乗興舟》を制作したこと、②天明の大火で、若冲が財産を失ったものの、その後も《伏見人形図》などの作品を制作したこと、③明治維新で窮乏に陥った相国寺が《動植綵絵》30幅を宮内庁に献上し、下賜金一万円で敷地と建物を維持したことの3つが紹介されました。

◆ちくまプリマ―新書『伊藤若冲』について

 本書で気に入ったのは、①内容が充実していること、②新書版なのにカラー図版が豊富なこと、③文章が読みやすいことの3点です。本書の第1章は若冲の生い立ちと、時代背景、第2章は《動植綵絵》の制作、第3章は若冲画の世界、第4章は画業の空白時期と新しい若冲像、第5章は天明の大火で激変した晩年の生活を書いています。いずれの章も、読み応えのある内容でした。

本書の「あとがき」によると、著者の『若冲』(1974)の本文をもとにして、編集者によるインタビューや最近の研究成果なども取り入れて「若い世代の人たちにも親しみやすい文体と内容にしようと努力しました」とのことです。確かに、難しい漢字にはふりがなが振られ、ひらがなが多く、とても読みやすい文章でした。

以下は、本書のなかで特に面白いと思った内容のご紹介です。

・若冲はたんなる絵画オタクではなかった!(本書p.165~170)

これは、最近の研究による発見で、50歳代半ばを過ぎた若冲が、「年寄役(町役人)」として、京都の東町奉行所に差し止められた錦小路青物市場の再開を実現するまでのお話です。最後に近い部分には「この間、錦高倉四町の間の微妙に異なる利害関係を調整し、百姓に熱を込めて窮状を訴えかけ、五条問屋町の駆け引きに応ぜず、役所と粘り強い交渉を続け、最後の段階では陰に回って、ついに市場の再開を勝ち取るに至ったドラマの主役は、まさに若冲その人でした。資料はそれを如実に物語っています。若冲は『絵を描くことしかできない男』ではなかったのです。(本書p.170)」と書かれています。

・アメリカ人コレクター、プライスさん(本書p.208~210)

著者が「アメリカ人の若い金持ちの御曹司(本書p.208)」ジョー・プライスが買い付けて手付金を支払った二幅の若冲を、画商から一日だけ借り受け美術史研究室の後輩に見せたという話から始まります。続いて、その翌年にジョープライスが著者が勤める文化財研究所に訪ねて来てから現在までの交流が書かれ、最後の方では2019年に出光美術館がプライス・コレクションの一部を購入して、190点もの作品が日本に里帰りしたこと、その中には「モザイク屏風」として知られる《鳥獣花木図屏風》が含まれていることを紹介(本書p.210)しています。

なお、1月1日から日本経済新聞に著者の「私の履歴書」が連載されています。1月20日の回で、著者が東京国立文化財研究所に就職しましたから、もうすぐ、このエピソードが書かれると思います。楽しみですね。

・工房制作への切り替え(本書p.213~215)

 「ライジング若冲」で本編終了後に紹介された《伏見人形図》について、本書は以下のように書いています。

「このころから若冲は、意図的に弟子をつくり、工房で制作していく方式に切り替えていったと考えられます。弟子の数は四、五人いたようですが、彼らに水墨などを描かせては、出来のよいものに自分のハンコを押して、多くの「若冲作」の絵として世に出していきました。そのようにして描かれたものに《伏見人形図》があります。伏見人形は伏見土産として知られる素朴な土人形で、若冲が以前から好んでいた画題のひとつです。モチーフの性格にふさわしく、《動植綵絵》の執拗さやシャープさとは対照的に、丸みのある形につつまれた、童画のような表現となっています。(本書p.213)」

◆最後に

「あとがき」によると本書は、『若冲』(1974)に続く、若冲の伝記と作品全体に関する、著者の二冊目の本になります。図版が多いので定価は1,000円+税と高めですが、お買い得だと思いますよ。

    Ron.

展覧会見てある記 わが青春の上杜会+コレクション展 豊田市美術館

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令和3年の展覧会巡りは、豊田市美術館(以下「豊田市美」)から始まりました。豊田市美の受付では「『わが青春の上杜会』は美術館でチケットを販売していますが、『デザインあ展』のチケットは販売していません。『デザインあ展』は、コンビニ等で日時指定チケットをお求めのうえ、お越し下さい」との案内がありました。

「デザインあ展」の日時指定チケットは持っていないため、1階インフォメーションカウンターで「わが青春の上杜会」のチケットを購入。会場入口で手指消毒を済ませ、検温を受けて会場に入りました。

◎わが青春の上杜会 昭和を生きた洋画家たち:1F展示室8

「わが青春の上杜会 昭和に生きた洋画家たち」(以下「本展」)は、東京美術学校(現:東京藝術大学)洋画科の1927(昭和2)年卒業生の作品を展示した展覧会です。「上杜会(じょうとかい)」は卒業生で結成した団体で、「上杜」は「上野の森(=杜)」に因んだ名称です。なお、豊田市美・常設展で作品を展示している洋画家・小堀四郎は上杜会の会員。この外、文化勲章を受章した三人の洋画家・牛島憲之、小磯良平、荻須高徳に加え、猪熊弦一郎、岡田謙三、中西利雄、山口長男など著名な洋画家が会員だった、とのことです。

・序章(1 結成前夜-東京美術学校と関東大震災、2 いざ、上杜会結成)

本展は「序 1922-1927」から始まり、年代順に「Ⅰ 1927-1936」「Ⅱ 1937-1945」「Ⅲ 1946-1994」と続きます。なお、1994年は上杜会展の最終回展が開催された年です。

「序-1」は教授たちの作品を展示。和田英作《カーネーション》(1939)の色彩が鮮やかでした。次の「序-2」は学生の作品を展示。第7回帝展で特選となった小磯良平《T嬢の肖像》(1926)を見て、「首席で卒業した」ということが納得できました。

・Ⅰ章(1 画家としての始まり、パリ留学、2 それぞれの選択、3 帝展騒動と「新制作派協会」結成)

「Ⅰ-1」では、小磯良平《ブルターニュ・ソーゾン港》(1928)や中西利雄《トリエール・シュル・セーヌ》(1930)、橋口康雄《シドナム・ウエスト・ヒル》(制作年不詳)など、フォービスムの影響を受けたと思われる作品が目立ちます。「Ⅰ-2」では永田一脩《『プラウダ』を持つ蔵原惟人》(1928)や山本宣二の葬儀を描いた大月源二《告別》(1929)などのプロレタリア美術の作品のほか、山口長男《池》(1936)のような抽象画もあります。「Ⅰ-3」の猪熊弦一郎《馬と裸婦》(1936)、中西利雄《人物》(1936)は、マティス風の作品でした。

・Ⅱ章(1 戦時中の制作活動、2 戦争と疎開)

「Ⅱ-1」には、小磯良平の作戦記録画《日緬(にちめん)条約調印図》(1944)など、戦争に関連した作品が何点も出品されています。外には、同じ風景を描いた岡田謙三《ラマ寺》(1941)と荻須高徳《熱河喇嘛廟(くねっからまびょう)》(1941)を並べて展示していたのが印象的です。作風の違いなどがよく分かりました。「Ⅱ-2」では、枯れた植物や鳥の巣を描いた《冬の花束》(1946)の枯れた色彩は、「序-1」に出品されていた《カーネーション》の鮮やかな色彩と頭の中で対比させながら鑑賞しました。

・Ⅲ章(1 新たな時流の中で 葛藤と開花、2 上杜会再開-年々去来の花)

「Ⅲ-1」の高野三三男《デコちゃん(高峰秀子)》(1953)は、人物は丹念に描かれているのですが背景がほぼ真っ白な作品。ソファも単純な線で描かれているだけなので、デコちゃんが宙に浮いているように見えました。牛島憲之《まるいタンク》(1957)は、ガスタンクを描いた写実画ですが、単純化した描写なので抽象画のような雰囲気があります。「Ⅲ-2」の牛島憲之《青田》(1992)は「人が空に浮かんでいる不思議な絵」だと思ったのですが、よく見ると空は描かれておらず「空だ」と思ったのは水田でした。

・感想など

協力会から郵送されたチラシだけでは本展のイメージがつかめなかったのですが、時代の移り変わりや画家の個性などを知ることができる面白い展覧会でした。小堀四郎は豊田市美術館、荻須高徳は稲沢市荻須記念美術館、小磯良平は神戸市立小磯記念美術館、猪熊弦一郎は丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に、まとまったコレクションがあるとはいうものの、これだけの規模で上杜会会員の展覧会を開催するための準備作業は大変だったろうと思われます。来てよかったですね。2月9日からは後期の展示になるので、それも楽しみです。

なお、当日中であれば、本展チケットの提示で再入場可。また、本展チケットで常設展と「開館25周年記念コレクション展VISION」、高橋節郎記念館の観覧もできます。

◎常設展:1F展示室6、展示室7

 展示室6は「わが青春の上杜会」の関連で、小堀四郎だけでなく和田英作、藤島武二、荻須高徳の作品も展示。また、2階の展示室を「デザインあ展」に使っているので、クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》と、その習作の外、エゴン・シーレ《カール・グリュンヴァルトの肖像》の展示もありました。一方、展示室7では通常通り、宮脇晴・綾子夫妻の作品を展示しています。

◎開館25周年記念コレクション展VISION:作っているのは誰?―「一つの私」の(非)在について:1Fギャラリー

 「開館25周年記念コレクション展VISION」の3回目となる「作っているのは誰?-『一つの私』の(非)在について」は、1階のギャラリーで開催していました。コロナ禍に伴う日程調整の結果、「わが青春の上杜会」と「デザインあ展」も同時に開催されるので、これまでの2回に比べると小規模です。

会場に入ると、ムンクの版画、イケムラレイコの彫刻に並んで古池大介のヴィデオ《ディソリューション》(1998)が上映されています。キリスト像が溶解して、次々と別のイメージに変わっていくという作品でした。

外には、女性の写真家ナン・ゴールディンの作品が4点あります。キリストが磔になるまでの14の場面を描いた、村上友晴《十字架の道》(1994)は、どれも全面を黒く塗っているので同じように見えましたが、解説に書かれていたことを一口でいえば、「一つ一つに祈りを込めて描いた作品」ということのようです。イヴ・クライン《Monochrome IKB 65》(1960)は、199×152.2㎝の大画面を全て、あの独特の青色で塗った作品で、迫力がありました。

また、徳富満《My Attribute》(1966)は台形のカンヴァスに本人の名前(MITSURU TOKUTOMI)を描いた作品のほか、(MY BLACK)を始め、白、赤などの色の名前を描いた8点、計9点の作品で河原温の ”Today” シリーズを想起させるものでした。今回のコレクション展では外にも、青いボールペンで塗りこめられた11点組の、アリギエロ・ボエッティ《ONONIMO》や、黒い地に白い絵の具で数字を描き続けるローマン・オパルカの作品3点に加え、2人の作家の「河原温の ”Today” シリーズを想起させる」作品が展示されています。

◎コロナ禍でミュージアムショップは入店制限、年間パスポートも……

帰りがけにミュージアムショップの前を通ると行列が出来ていました。ショップ内の三密を避けるため、お客の人数が一定数を超えると「入店ストップ」になるのです。先客が買い物を済ませショップを出るまで、じっと我慢して行列に並ばなければなりません。

豊田市美の年間パスポートも「新型コロナウイルスの感染拡大が収束するまで、販売の予定はありません」とのこと。今はただ、ひたすら感染予防を心がけ、コロナ禍が終息する日を祈るばかりです。

Ron.

巣ごもりの日々の読書ノート(再開2)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆文春美術館「東洋美術逍遥」(9)橋本麻里 (週刊文春2020年12月17日号)

膨大な破片から蘇った美 特別展「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~」

 12月6日(日)放送の NHK・Eテレ「日曜美術館 アートシーン」で、大倉集古館で開催中の「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~」の紹介動画を見て「面白い展覧会が開催されているのだな」と思っていたら、週刊文春でも取り上げました。

橋本麻里によれば、展覧会の第1部は「伊万里焼」の歩み、第2部は第2次世界大戦後に旧ソ連兵士によってことごとく破壊された古伊万里コレクションの、復元作品の展示です。

橋本は「マイセン窯の白磁大壺などは、これほど細かい細工をどうやって元にもどしたのか、まるで魔法を見るようだ。ありがたいことに、修復手法の解説パネルや道具も紹介されているので、後世のために『修復した痕跡を残す』という文化財修復の考え方まで、併せて理解できる。一連の調査からわかってきたのは、ロースドルフ城のコレクションが非常に広い時代、地域の窯の作品を集めていること、また古伊万里金襴手をモデルに、中国・景徳鎮窯が日本から市場を奪回した『チャイニーズイマリ』や、ヨーロッパ各地の窯で焼かれた模倣製品が多いことなどだという」とも、書いています。

「伊万里」については、NHK「ブラタモリ」が2週にわたって放送した「有田町特集」を視聴していたので身近な感じがします。今年、岡崎市美術博物館で開催された「マイセン動物園展」で装飾壺や動物の置物などを見たので、「マイセン窯の白磁大壺」にも興味が湧きます。

NHK・Eテレ「日曜美術館 アートシーン」によれば、「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~」は2021.4.10~6.13の会期で愛知県陶磁美術館に巡回、とのこと。

今から楽しみです。

    Ron.

展覧会見てある記 豊橋市美術博物館「コレクション展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

巣ごもり中ですが、豊橋市美術博物館に行ってきました。1階の講義室と第2企画展示室では愛好家団体の写真展が、一番奥の特別展示室ではコレクション展が開催されていました。

◎1階・特別展示室2020コレクション展 郷土の美術「白い情景」

 展示室の入口には平川敏夫の《白樹》(1960)が展示されています。画面の下4分の1ほどは真っ暗、下草でしょうか。枯れたように真っ白な樹木が何本も生えていますが、よく見ると樹木の下には若木。「死と生」を対比させているのでしょうか。コレクション展の説明書きには「白をテーマにした日本画を展示」と書いてあります。

最初の展示ケースには、中村正義の《松梅菊(しょうばいきく)》(1959)と《斗士(とうし)》が並び、その右に大森運夫(かずお)の《皓(しろ)き修羅[小下図]》(1984)。《松梅菊》は、淡いモノトーンの静物画、《斗士》は細長く直線的な仏像を描いたもので「自画像のバリエーションとみなすこともできます」との解説がありました。《皓き修羅》は長野県飯田市の浄瑠璃人形を描いたもの、人形の表情が印象的です。次の展示ケースには平川敏夫の四曲一隻の屏風《白松(はくしょう)》(1978)と四曲二双の屏風《雪后閑庭(せつごかんてい)》(右隻1985)(左隻1992)が並んでいます。《雪后閑庭》の白は「アラビアゴムなどの防色材で描いた上から墨を施し、防色材を除去することであらわした地色」とのことです。三つ目の展示ケースには星野眞吾の作品が4点。抽象画や和紙のコラージュ、人拓などバリエーションに富んでいます。

最後の展示ケースは「冬景色のスケッチ」。日本画ではなく、石川新一、浅田蘇泉、平川敏夫、大森運夫のスケッチです。展示室に置いてあった展示解説シートには、浅田蘇泉は「中村正義に次いで中村岳陵の門下生になった」、石川新一は「豊橋高等女学校(現:豊橋東高等学校)の美術教師。高畑郁子は女学校在学中に石川新一から絵を学び、彼を通じて中村正義の画室を訪ねるようになった」などと書いてありました。石川新一のスケッチ《[豊橋百景第87景]大池雪景》は、豊橋市民の憩いの場、女学校の近くの池の景色を描いたものです。

展示解説シートには「昭和26年、正義は絵画塾『中日美術教室』を発足させました。正義のほか、星野・大森・平川・高畑の5名が参加」とも書いてあります。特別展示室2020コレクション展に展示されているのは「全て、中村正義ゆかりの画家の作品」ということになりますね。

◎2階・第Ⅲ期コレクション展・シンボル展示コーナー「海外に渡った現代美術家 ―荒川修作と飯田善國―」

 2階へのスロープを登ると、荒川修作《S.A.方程式》(1962)が展示されています。解説によれば「S.A.方程式は、Syusaku Arakawa方程式のこと。落下によって人間から他のものになる方法を示している」そうです。画面右下から右上に向って直線と矢印、2つの円錐が、画面上部には右から左に向かう矢印と2本の直線が、画面左下には、中に格子のある円が描かれています。解説には「矢印に沿って2つの円錐が進み、左端で爆発して円形の格子に落下しており、我々の視点を別次元に導いているかのようです」と、書いてあります。

荒川修作といえば、受付でもらった「Nagoya art news No.176」に、名古屋市美術館の「名品コレクション展Ⅰ」(2021.1.5~3.14)では同時に、特集として荒川修作の初期平面の仕事を紹介する、と載っていました。

◎2階・第Ⅲ期コレクション展・第4展示室「洋行画家たちの夢」

 2階の第4展示室は、フランスやアメリカに渡った画家たちの作品を展示。最初の作品は黒田清輝《夕陽》(1898)、芦ノ湖の夕暮れを描いたものです。佐分眞、荻須高徳、鬼頭鍋三郎、北川民次など、名古屋市美術館の常設展でお馴染みの作家の作品もあります。藤田嗣治の鉛筆画《ユキのポートレート》も目を惹きました。ユキの本名はリュシー・バドゥー、1920年代のパリで藤田の絶頂期を共にした女性です。そういえば、名古屋市美術館所蔵の《自画像》(1929)にもユキのポートレートが描かれていましたね。

◎1階・休憩コーナー「連続テレビ小説 エール展」

 スロープを降りると、休憩コーナーで「連続テレビ小説 エール展」が12月27日(日)までの会期で開催されていました。出演者の等身大パネルの外、関口音が出演した学芸会「竹取物語」で使われた烏帽子などの小道具も展示されています。

◎最後に

 会期は、特別展示室のコレクション展が来年1月31日(日)まで、第Ⅲ期コレクション展が来年1月11日(日)まで、いずれも入場無料。以上の展示を見て回り「コレクション展は大事」だと再認識しました。

コレクション展といえば、12月7日付け日本経済新聞・文化面「回顧2020 美術」に「横浜美術館で開催中の『トライアローグ』展では同館と愛知県美術館、富山県美術館がタッグを組んだ。それぞれの所蔵品からピカソらの名作を厳選し、20世紀の西洋美術史を通観する企画展を実現したのだ。『今後はコレクションを生かすことが一層求められる。一つのモデルケースになればいい』と同館担当者」と書いてありました。「トライアローグ」展は、2021.4.23~6.27の会期で愛知県美術館に巡回予定のようです。楽しみですね。

Ron.

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