読書ノート  三輪山信仰と聖林寺十一面観音菩薩立像について(再考)

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◆「東洋美術逍遥 17」(週刊文春6月17日号)

以前、読書ノートで取り上げた「東洋美術逍遥 17」は、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音について、次のように書いています。

<巨石群を神の依りつく「磐座(いわくら)」として祀ることから、三輪山の古代祭祀は始まった。やがてそれは山全体にあまねく神霊が籠り、鎮まっているという神体信仰へと変化していく。(略)聖林寺の十一面観音菩薩立像(略)は大神神社の神宮寺である大御輪寺(旧大神寺、現在の大直禰子(おおたたねこ)神社)に若宮神と共に祀られていたものが、明治初年の神仏分離令によって、聖林寺へ移された>

ここには、三輪山信仰と聖林寺の十一面観音菩薩立像について、①巨石群を神の磐座として祀る ②神体信仰へと変化 ③大御輪寺に十一面観音を祀る ④神仏分離令により十一面観音が聖林寺に移る、という四つのストーリーが書かれています。この内容をもう少し深く掘り下げようとして出会った本が、以下の2冊です。

◆佐藤弘夫「日本人と神」講談社現代新書2616 2021.04.20発行

山を拝まなかった古代人

著者は<山麓から山を遥拝するという形態や一木一草に神が宿るという発想は、室町時代以降に一般化するものであり、神理念としても祭祀の作法としても比較的新しいあり方であると考えている(p.24)>と記しています。そして、三輪山の信仰遺跡に目を向けると<山を仰ぐことのできる場所に祭祀遺跡が点在している。固定したスポットから山を拝むのではなく、山がみえる所にそのつど祭場を設け、山からカミを呼び寄せていたことがわかる。祭祀の場所はカミの依代となる磐座や樹木のある地が選ばれた。祭りの場に集まった人々は、シャーマンを通じてカミの声を聞いた(p.27)>と書き、<山は神の棲む場所であっても、神ではなかった。太古の人々が山を聖なるものとみなして礼拝したという事実はない(p.29)>と続け、箸墓などの巨大古墳におけるカミ祭りも<墳丘を望む地点で、そのつど首長霊を招き寄せて実施されたと推定される(p.62)>としています。つまり、弥生時代から古墳時代にかけてのカミ祭りは、上記「①の段階」だったというのです。

巨大古墳時代の終焉~神社の成立

 上記「②の段階」については<都から望むことのできる墳丘の連なりは、いまや太古の時代から途切れることなく継承されてきた天皇の聖性と天皇家の永続性を示す象徴的な存在となった(p.67)>と記した後、<しかし、そうした段階は例外なく終わりを告げる。その主要な原因は、強力な超越的存在を有する宗教の隆盛ないしは流入、新たな神々の体系の構築などだった。カミの棲む寺院や神殿が、王宮や王墓をしのぐスケールでもって造営されるようになる。(略)日本列島でそうした動きが加速するのは、陵墓制度が制定されるとともに仏教の国家的受容が本格化する七世紀後半のことだった(p.69)>としています。

排除されるシャーマンたち

 著者は、卑弥呼のようなシャーマンが排除されていった経緯について、<かつてはシャーマンの言葉がそのままカミの言葉だった。その内容がどれほどばかげたものであっても、その託宣を受けた人々はその言葉に従う義務を負った。王も例外ではなかった。しかし、弥生時代後期から古墳時代へと時が流れ、王の地位が強化されるにしたがって、カミの言葉の真偽を判別し対応を決定する権限が俗権の側に移行した(p.085)>と記し、<『古事記』では、仲介者としての女性シャーマンは登場しない。天皇が直接、夢を通じてカミとの意思の疎通を図っている(p.086)>と結んでいます。

◆畑中章宏「廃仏毀釈」ちくま新書1581 2021.06.10発行

「神仏習合」の成立

上記「①の段階」について、本書の記述は「日本人と神」と同様です。また、本書では「③の段階」=神仏習合について、次のように書いています。

<奈良時代に入り、仏教にたいする信仰が篤い聖武天皇が、各国に国分寺・国分尼寺を設け、総国分寺たる東大寺に巨大な廬舎那仏(奈良の大仏)を造立し、これを納める金堂(大仏殿)を造営するなど、仏教を国家の統治に利用していった。その過程で、九州宇佐地方(現在の大分県の北部)にあった八幡神が大仏造立に寄与するなどを経て、日本の神が仏に従うこと、日本の神は仏教を信仰するものだという考えかたがうまれるに至ったのである(p.018~019)>

三輪山の神宮寺

三輪山の神宮寺については、次のように書いています。

<三輪明神の神宮寺としては、「大神寺(おおみわでら)」が奈良時代に成立していたことが古文書に記される。大神寺は弘安8年(1285)に真言律宗の再興に努めた叡尊(えいそん)によって大規模な改修がなされ、寺名も「大御輪寺(だいごりんじ)」に改められた。中世には、真言密教の中心仏である大日如来が、三輪山の大物主神や伊勢の天照大神と同体だという説が唱えられた。こうした独自の神仏習合の解釈(三輪流神道)が大御輪寺と、やはり三輪明神の神宮寺である平等寺で発展、継承されていった。大御輪寺には十一面観音が若宮(大直禰子命)の神像とともに祀られていた。この十一面観音こそが、現在、奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院、聖林寺に安置されている国宝の十一面観音菩薩立像(奈良時代)にほかならない>

 なお、大御輪寺の本尊は十一面観音です。また、若宮である大直禰子(おおたたねこ)は、大物主神が麓の村に住む娘、イクタマヨリビメを娶って儲けた子どもです。

戊辰(慶応四)年の太政官布告

 神仏分離令については、次のように書かれています。

<近代の幕開けとともに始まった本格的な「廃仏毀釈」は、慶応4年(1868)3月13日、17日、28日に相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達など、いわゆる「神仏分離令」により沸き起こることになる(p.061)>

<しかし神仏分離令には、神仏が混淆・混在している状態を改め、仏教的なものを「取り除け」とは書かれていても、「破壊せよ」などとは書かれていない。(略)結果的に一部の地域では、神域にあった仏像・仏画・仏具が壊され、隣接する神宮寺が廃寺になった>

 なお、元号は慶応4年9月8日に「慶応4年をもって明治元年とする」とされ、旧暦1月1日に遡って適用されているため、「東洋美術逍遥17」に書かれている「明治初年の神仏分離令によって」という表現も、間違いではないようです。ややこしいですね。

聖林寺十一面観音伝説

十一面観音立像が聖林寺に移された経緯については、和辻哲郎『古寺巡礼』の<実をいうと、五十年ほど前に、この像は路傍にころがしてあったのである(p.094)>という文章や白洲正子『十一面観音巡礼』の<発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことにきめたという(p.095)>という文章を引用した上で、<ほかに三輪の古老の話として、廃仏毀釈の際に大御輪寺の宝物や仏具類が、境内の池畔や初瀬川の川堤で焼き払われ、それが何日も続いた。また、川向こうの極楽寺の小堂に仏像が無造作にかつぎこまれたという言い伝えもある。しかし、こうした証言は、現在では廃仏毀釈の惨状を伝えるために脚色されたものだと考えられている(p.095)>としています。

 さらに、<聖林寺の当時の住職は、再興七世の大心という高僧だった。大心は東大寺戒壇院の長老で、また三輪流神道の正統な流れを汲み、三輪明神の本地として十一面観音を拝むことができる立場にあった。また大神神社から聖林寺に観音像を預ける旨を記した証文も残されていることから、大御輪寺の十一面観音は、神仏分離、廃仏毀釈の混乱を回避するのに最もふさわしい場所に遷座されたと考えられるのだ(p.095~096)>と付け加えています。

仏像そのものについては<背面には薬師如来一万体が描かれた板絵があったという。観音像は頭上の化仏(けぶつ)のうち三体を失っているが、かつては瓔珞(ようらく)に飾られ、華やかな天蓋の下に立っていた。光背(奈良国立博物館寄託)は大破しているものの、宝相華文(ほうそうげもん:唐草に架空の五弁花の植物を組み合わせた文様)をちりばめたものだったと想像されている。岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝物調査をおこなったアメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは明治20年に、聖林寺遷座後、秘仏になっていた十一面観音を目の当たりにし、文化財としての保護を提唱した。そして明治30年、旧国宝制度成立とともに国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度移管後にも、第1回の国宝24件のひとつに選ばれている(p.095~096)>とあります。瓔珞を辞書で調べると「珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。もとインドで上流の人々が使用したもの。仏教で仏像の身を飾ったり、寺院内で、内陣の装飾として用いる」とあります。お寺の本堂で、本尊の周りに下がっている金色の装飾ということですね。絢爛豪華な装飾に囲まれて鎮座していた様子が目に浮かびます。

最後に

本年6月22日から東京国立博物館で開催中の「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」では、大御輪寺に祀られていた《地蔵菩薩立像》や《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》だけでなく、三輪山信仰に関する展示もあるそうです。(会期:9/12まで。その後、奈良国立博物館に巡回:2022.2/5~3/27)

Ron.

令和3年度名古屋市美術館協力会総会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

 雨がふりだしそうな空のもと、6月27日日曜日に、令和3年度の名古屋市美術館協力会総会が行われました。役員はじめ、当日参加してくださった会員は名古屋市美術館の講堂に集まり、事業報告や収支決算などの議題について、報告を聞いたり、承認を確認したりと粛々と議事は進行しました。

総会のようす

 会員みなさまには、詳細な内容について議事録が配布されますので、しばらくお待ちください。

岡崎市美術博物館 「渡辺省亭」展 ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

協力会ミニツアー再開第2回目は、岡崎市美術博物館・開館25周年記念「渡辺省亭」- 欧米を魅了した花鳥画 ― です。参加者は21名。岡崎市美術博物館1階のセミナールームで、酒井明日香学芸員(以下「酒井さん」)のレクチャーを約25分間聴講した後、自由観覧となりました。

◆ 酒井さんのレクチャー(概要)

本日は予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました。皆様にはレクチャー終了後、入場整理券をお渡ししますので、受付で観覧券と入場整理券を提示してから、展示室にお入りください。

さて、ここにお越しの皆さんは、渡辺省亭(1852~1918、以下「省亭」)を知らない人の方が多いのではないかと思います。省亭は存命中、国の内外で高く評価された画家でしたが、死後は次第に忘れられた存在となっていきました。没後100年に当たる2018年に再評価され、ようやく研究が始まりました。その成果が、今回の展覧会です。

〇 渡辺省亭について

幕末の江戸・下町に生まれた省亭は、子どもの頃から浮世絵の模写が好きな少年でした。奉公先でも模写をして追い出され、16歳の時(年齢は数え歳、以下同じ)人物歴史画を描く菊池容斎(きくちようさい)に弟子入りします。容斎の下では、絵の手本は与えられず、書道の練習に明け暮れます。そのため、省亭の筆さばきは見事なものです。また、容斎からは、よく物を観察し、記憶し、写生することを教えられました。

25歳の時、省亭は輸出用貿易品を扱う起立工商会社に就職、工芸品の下絵描き(デザイナー)となります。28歳の時(明治11年(1878))には、日本人画家として初めて、パリに渡ります。これは留学ではなく、社員としてパリ万博に出張したものです。第1章の最初に《鳥図(枝にとまる鳥)》(1878)のパネルを展示していますが、画家たちも集まるサロンで省亭が即興で描き、エドガー・ドガに贈られたものです。

フランスからの帰国後、省亭は江戸琳派、四条円山派の画風を取り入れて作風を確立します。明治20年代=30歳代のことでした。画風確立後、省亭は画風を変えることはありませんでした。これは研究者泣かせです。年譜など制作年を推定する手がかりがないと、作風だけでは制作年が分からないのですから。

明治30年代になると省亭は画壇から距離を置き、ひたすら注文に応じた制作に没頭するようになります。展覧会など広く作品を紹介する機会が無かったため、没後、省亭は次第に忘れられていきました。なお、出品作には「個人蔵」や所蔵者名の無いものが多数ありますが、いずれも個人が所有する作品です。

省亭が画壇から距離を置いたのは、①「画壇政治」を嫌った、②画壇における展覧会の選考基準に不満を持った、③展覧会向けの大型作品を好まず、床の間向けの作品を多く手掛けた、などの理由が挙げられますが、はっきりした理由は不明です。

〇 第1章 作品でたどる渡辺省亭の生涯

省亭の作品は制作年代のはっきりしているものが少ないので、第1章では制作年代のはっきりしているものを、年代順に並べました。最後に展示の「特別出品」《春の野邊(絶筆)》(1918)は、東京会場の会期(3/27~5/23)中に所有者からの連絡で、省亭作と判明したものです。そのため、岡崎会場からの展示です。署名はありませんが、表具に「省亭」と織り込んだ布が使われています。蓮華の上を飛ぶ蝶の羽根が真っ白で、模様が描かれていないので「未完」と思われます。第2章以降はジャンル別に構成しました。

〇 第2章 花鳥画の世界

本展のサブタイトルは「欧米を魅了した花鳥画」ですが、省亭の花鳥画は欧米の美術館では人気トップテンに入るもので、省亭の作品をプリントしたTシャツを売っている美術館もあります。本展ではイギリスの「グレース・ツムギ・ファインアート」アメリカの「メトロポリタン美術館」の所蔵品を展示しています。省亭の作品は伝統的な構図に写実描写を加えたもので、輪郭線を用いないことや、ぼかしを使うことなどの特徴があります。輪郭線を用いないといっても「西洋絵画の勉強をした」という形跡はありません。近い距離で、作品の鳥の眼を見てください。黒目が丸くて可愛いですよ。また、瞳にハイライトが入っています。

〇 第3章 七宝焼に花開く省亭の原画

省亭は、工芸の分野でも活躍。「無線七宝」という新しい技法を開発した濤川惣助(なみかわそうすけ)に原画を提供しました。七宝焼きは、釉薬が混ざらないように金属の表面に銀線を置いて、釉薬を入れて焼成します。これを「有線七宝」と言い、焼成後は金属線が輪郭線となって残ります。無線七宝は、釉薬を入れた後に金属線を取り除く技法で、ぼかしを表現できますが、釉薬を混ぜないためには技術が必要です。本展では、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)「花鳥の間」にある七宝額の原画を展示しています。

〇 出版界でも活躍(第1章、第5章 明治出版界での活躍)

省亭は出版でも活躍しました。明治20年代に、菊池容斎の門下は小説の挿絵や口絵で活躍。省亭も山田美妙「胡蝶」の挿絵に裸婦を描いています(第1章展示)。木版画による美術雑誌「美術世界」の編集にも活躍しました(第1章展示)。「花鳥画譜」と二つの「省亭花鳥画譜」は省亭の作品集ですが、同時に図案集でもあり、工業品の下絵に借用されました(第5章展示)。

〇 第4章 江戸の情緒を描く

省亭は、花鳥画だけでなく美人画・風俗画も手がけています。師の菊池容斎は歴史人物画の大御所でした。人物の表情がリアルなのが、省亭らしさです。風俗画では下町の情緒を描いています。省亭が外国へ行ったのは、明治11年のパリ万博出張だけで、下町に住み続けました。その場に行って写生した情景が、省亭の作品に空気感を与えています。季節の行事を描いたものも多く、床の間に飾って楽しむ絵を数多く描きました。

以上が、酒井さんのレクチャーの概要で、標題や(  )内の注は私の追記です。

◆ 感想など

〇 略年譜と地図

 展示室に入って直ぐの略年譜には「1890(明治23)40歳 6月13日 関本千代との間に長女ナツが生まれる」「1894(明治27)44歳 8月23日 関本千代との間に次女くみが生まれる」と書いてありました。<地図で見る「省亭の暮らした町、歩いた場所」>というパネルには、自宅だけでなく別宅の表示もあります。NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一と同様、省亭にも愛人がいたのですね。

〇 第1章

 《龍頭観音》は、1884年制作の小さな作品と1893年制作の比較的大きな作品が展示されていました。龍頭観音は省亭が好んで描いた題材とのことですが、酒井さんのレクチャーどおり、年を経ても作風は変わっていません。『美術世界』は14冊展示。最後の1冊だけページが開かれ、嘴で桜の花びらをくわえた雀が描かれています。残り13冊は表紙しか見えませんが、いずれも綺麗な本です。

〇 第2章

 海を渡った省亭の作品の写真パネルが4点並んでいます。パネルなので出品リストには載っていませんが、明治10年(1877)の内国勧業博覧会に出品され、さらにパリ万博にも出品された《群鳩浴水盤ノ図》(フーリア美術館・アメリカ)は「パリでマネの弟子のジョゼッペ・デ・ニッティスが購入、筆法を研究したが、その技術の高さに模写はあきらめたという逸話が残る」と解説されていました。《雪中鴛鴦之図》(1909)は「伊藤若冲の《雪中鴛鴦図》に倣って描かれた異色作。サイズも若冲画に合わせた大きさであり、原画をよく研究していることがわかる」と解説されています。若冲からドギツさを除いた、優しく心休まる作品です。第2章の最後の方に《葡萄に鼠図》が2点展示されていますが、どちらも鼠の5本の指が極細の線で克明に描かれており、省亭の技量の高さに感心しました。

〇 第3章

 七宝の皿や花瓶の色彩が綺麗です。釉薬なので鮮やかな色彩が保たれ、美しい作品ばかりです。

〇 第4章

 酒井さんは「師の菊池容斎は、歴史人物画の大御所」という解説していましたが、省亭の人物画も美しい作品が並んでおり、《塩冶判官の妻》では絶世の美人・顔世(かおよ)のヌードを描いています。

〇 第5章

 展示ケースの中に本が並んでいます。地味な展示なので見落としそうになりました。

◆ 最後に

レクチャーの冒頭で「予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました」という話がありましたが、作品を見て入場者が多いことに納得しました。6/22~7/11は後期展示となります。岡崎市美術博物館のホームページに掲載されている作品リストは前期・後期が色分けされ、分かりやすいですよ。

           Ron.

読書ノート「東洋美術逍遥」(17)橋本麻里(週刊文春2021年6月17日号)

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◆ 国宝 聖林寺十一面観音菩薩立像

今回の「東洋美術逍遥」では、東京国立博物館で開催される特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」(6/22~9/12)に出品の十一面観音菩薩立像(以下「十一面観音」)を取り上げています。記事は桜井市の三輪山に対する信仰の起源から始まり「三輪山の麓に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)は、山に鎮まる神霊を遥拝するのが第一義で、神体を祀る本殿を持たない。」と書き。十一面観音については「大神神社の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)に祀られていたものが、明治初年の神仏分離令によって、聖林寺に移された」と書いています。ここまで読んで、令和元年12月1日に参加した協力会・秋のツアーを思い出しました。

◆ 協力会・秋のツアーでは

 秋のツアーでは、聖林寺・観音堂に安置されている十一面観音を拝観しました。聖林寺の解説では「廃仏毀釈の時、大神神社に附属して建てられた大御輪寺から聖林寺に移された。岡倉天心とフェノロサに発見され、当初は本堂に安置していたが、大正時代に観音堂を建設して移設。乾漆像で、天平時代に渡来人がつくった」とのことでした。

 聖林寺の建物は、坂道と石段を上がった所にあり、秋のツアー最大の難所でした。また、石段を登り切ると北に、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳が見えたのが印象的でした。

◆ NHK総合「歴史秘話ヒストリア」でも

十一面観音については、2021年2月10日放送の「歴史秘話ヒストリア」でも「1300年 奇跡のリレー 国宝 聖林寺十一面観音」というタイトルで、廃仏毀釈を逃れて聖林寺に避難してきた話や、明治20年に岡倉天心の案内でフェノロサが聖林寺を訪れ、秘仏だった十一面観音がその姿を現した話、十一面観音に感動したフェノロサが、火事などの非常時に外に運び出せる可動式の厨子を聖林寺に寄進したという話などが、再現ドラマで放送されました。秋のツアーで聞いた話ではありますが、ドラマ仕立てで見ると、臨場感が違いました。

◆ 神と仏の緩やかな共存時代の美

 「東洋美術逍遥」のタイトルは「神と仏の緩やかな共存時代の美」です。記事は「日本古来の神祇信仰と、大陸からもたらされた仏教とが出会い、混淆していく現象を、神仏習合という。早い時期には、神々が仏教に帰依し、修業することを求めていると考え、そのための場として神社の境内などに神宮寺を建立、社僧が仏事をもって神に奉仕するようになった」と書いています。この「緩やかな共存」を断ち切ったのが「神仏分離令」を拡大解釈した「廃仏毀釈」です。

ネットで調べたところ、十一面観音は聖林寺に逃れることができましたが、廃仏毀釈によって大御輪寺の本堂は大直禰子神社の社殿に転用されたとのことです。NHK総合で放送中の「晴天を衝け」の中に水戸の天狗党が出てきますが、幕末から明治初めにかけての混乱の中では、様々な悲劇があったのですね。

 Ron.

愛知県美術館「トライアローグ」展 ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

協力会のミニツアーが再開しました。2020年2月16日の豊田市美術館「岡﨑乾二郎展」以来ですから、約1年4か月ぶりです。コロナ禍での再開とあって、ギャラリートーク無し、解説会と自由観覧のみ、という形です。少し寂しいですが、再開できたことだけでも、何よりの幸せです。

参加者は18名。愛知県美術館12階のアートスペースA(一番広い会議室)で、40分間にわたり、副田一穂さん(以下「副田さん」)の解説を聴きました。

◆ゲルハルト・リヒターの作品を800万円ほどで購入

解説会の冒頭で示されたのは、今回出品の愛知県美術館・横浜美術館・富山県美術館の所蔵作品の制作年を縦軸、所蔵年を横軸にしたチャートです。副田さんが言うには「このチャートで美術館の作品収集姿勢が分かります。富山県美術館の所蔵作品は、チャートの下の方に集中しています。これは、作品が描かれた頃、まだ評価が固まった頃に所蔵しているということです。今回出品されているゲルハルト・リヒターの《オランジェリー》は1982年制作ですが、収蔵したのは1984年。描いたほぼ直後に収蔵したということです。当時、800万円ほどで購入したとのことですが、今なら億円単位になるでしょう。一方、愛知県美術館の収蔵作品は、チャートの上の方、つまり、評価の固まったものを収蔵しています。横浜美術館は、バランスよく所蔵しています。」とのことでした。

◆三点並んだポール・デルヴォー

愛知県美術館と聞いて真っ先に思い浮かべる作品のひとつに、三人の裸婦が歩いている、ポール・デルヴォーの《こだま》があります。「トライアローグ」は三館の共同企画なので、ポール・デルヴォーの作品が三点並んでいて、壮観です。副田さんは「三点のなかでは、《こだま》が一番小さいけれど、一番良いと思う」と話していましたが、同感ですね。

◆ゆったりと鑑賞

コロナ禍という事情から、「押すな、押すな」という風景とはまったく違う、落ち着いた雰囲気のなかで、作品と向き合うことができました。マスクを着用し、人との距離も保っているので、とても静かです。

◆最後に

 コロナ第4波の襲来で、5月は蟄居を強いられました。久々の美術館巡りですが、20世紀西洋美術コレクションと向き合えて、生気が蘇った感じがしました。展覧会は6月27日(日)まで、お勧めですよ。

           Ron.

読書ノート 「もっと知りたい やきもの」 柏木麻里 著  株式会社東京美術 発行

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆特別展「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇」の記憶を呼び戻すために見つけた本

以前に、愛知県陶磁美術館で開催中の特別展「海を渡った古伊万里~ウィーン、ロースドルフ城の悲劇~」(以下「古伊万里展」)のブログを投稿した後、4月29日と5月8日の二回、中日新聞に古伊万里展の記事が掲載されました。この記事に触発され「古伊万里展の記憶を呼び戻したい」との思いが強くなり、近所の図書館で見つけてきたのが本書(アート・ビギナーズ・コレクション「もっと知りたい やきもの」柏木麻里 著 2020年10月25日発行 発行所 株式会社東京美術)です。書名のとおり初心者にも分かりやすい文章で、図版も豊富なので楽しく読むことができました。本書は縄文時代から昭和の陶芸までを通して説明していますが、今回は伊万里焼に焦点を絞ってみます。

◆染付

白磁にコバルト顔料で青い文様を描いた「染付」について、本書は以下のように書いています。

<14世紀に国際色豊かな中国・元朝で誕生した青花(染付の中国名)は、中東産のコバルト顔料を使い、白磁の釉下に鮮麗な青い文様を描いた。その青の輝きは世界を魅了し、東アジア、欧州、イスラム圏などへ輸出され、各地に青い絵のやきものを芽吹かせる。(略)伊万里染付磁器は、江戸時代初期の1610年代、朝鮮人陶工の手によって、九州・佐賀県有田の古唐津を焼いた窯から誕生した。(略)1640年代頃までの染付を初期伊万里と呼び、口径に比べて極端に小さい高台径など、器形に古唐津と同じ朝鮮のルーツを示しながら、その目指した様式は、桃山茶人の好んだ中国・景徳鎮窯の青花であった。17世紀中頃になると、明朝から清朝への王朝交代期の動乱から逃れて来た中国人陶工たちによって、技術も様式も一気に中国風へ舵を切る。そして磁胎、染付の技ともに洗練をきわめた17世紀末期、伊万里染付には和様の形と文様が花開いてゆく。(p.18)>

古伊万里展では「1.日本磁器の誕生、そして発展」のコーナー(以下「1.」)で、初期伊万里と中国の技術が入った後の染付を並べていました。初期伊万里は、上記のとおり小さな高台でしたが「朝鮮のルーツを示していた」ということなのですね。なお、「NHK美の壺 古伊万里 染付(2006.09.25発行)」によれば、初期伊万里の技術だと「高台を小さくしておかなければ(窯の中で焼いたとき、高温でやきものが柔らかくなると)底がずぼっと落っこちてしまう。(同書p.18)」そうです。

◆古九谷と柿右衛門

 古伊万里展では、染付の次に渋めの緑、紫、黄色の色絵が展示されていました。この色絵を、本書は「古九谷」と呼び、以下のように書いています。

<古九谷と柿右衛門は姉妹である。どちらも染付に次いで登場した伊万里の色絵様式で、1640年代、中国の技術を導入して最初に誕生したのが古九谷であった。濃厚に輝く色彩で寛文小袖など、同時代のファッションに通じる意匠を描き、大名家などの国内富裕層を魅了した。柿右衛門様式は古九谷の意匠を受け継ぎながら1650年代に萌芽、17世紀末に完成する。「濁し手(にごしで)」と呼ばれる素地は鉄分による青みを取り除き、やわらかな純白を得た。そこに赤や黄、緑色などの清明な色絵具で、美しい余白をとって文様を描く。古九谷と柿右衛門の大きな違いは、その享受者にある。国内向けの古九谷に対して、柿右衛門は主に欧州の王侯貴族向けに作られた。(略)古九谷に国内の美意識が窺えるように、柿右衛門様式は、欧州貴族の好みに合わせて洗練をとげてゆく。(p.20)>

 柿右衛門の展示は「1.」ではなく、「2.世界を魅了した『古伊万里』」のコーナーでした。

◆鍋島

 鍋島について、本書は以下のように書いています。

<鍋島は伊万里陶磁器の中でも、将軍に献上するために作られた特別な一群である。(略)将軍家や御三家への例年献上が始まるのは17世紀半ばのこと。1690年秋には、日本磁器の最高峰といえる質に達する。元禄期に五代将軍・徳川綱吉による大名屋敷への御成(訪問)が盛んに行われ、将軍の器として、上質磁器への需要が高まったことが要因と考えられている。献上内容の大部分を大小の皿が占め、大きさも三寸、五寸、七寸、一尺と決められていた。(略)五節句など、旧暦の季節行事をモチーフとした意匠も多い。染付で文様の輪郭をとり、その中を清澄な色で染める繊細優美な色絵は、八代将軍・徳川吉宗の時代に奢侈とみなされるようになる。以後、色絵を加えない染付と青磁釉のみの装飾になるが、そこにもまた涼やかで高雅な世界が生まれる。藩窯は、幕藩体制が終焉を迎える19世紀後半まで続いた。(p.22)>

 古伊万里展では「1.」の最後が鍋島で、同じデザインの皿が、色絵と染付のセットで展示されていました。色絵の皿が染付の皿に変わったのは、上記のような事情があったのですね。著者は染付を「涼やかで高雅」と表現していますが、私も展示を見て、同じような感想を持ちました。

◆金欄手

 金襴手は古伊万里展のなかで一番豪華な展示でしたが、本書は以下のように書いています。

<絢爛豪華――金襴手ほどこの言葉のふさわしい日本のやきものはないだろう。柿右衛門に続いて欧州貴族を虜にしたのが、金彩を惜しみなく使った金襴手様式である。(略)重みのある色彩美は、柿右衛門様式の対極をゆく。それは、明清交代期に欧州市場を失い、17世紀末に巻き返してきた中国磁器との競争に勝利するために作られた、量産向けの新機軸であった。金襴手は欧州の城館を飾る人気商品となり、伊万里の後を追う中国の景徳鎮窯、さらに欧州各国の窯が続々と模倣するほどの影響力を誇った。金糸の入る織物を連想させる「金襴手」の名は当時から使われている。国内向けの製品もあり、好景気に沸く元禄文化の担い手となった裕福な商人たちが、贈答や宴席用に華麗な金襴手を好んだからである。欧州向けの多くが美人画や屏風など、いかにも日本風の意匠であるのに対して、国内向けの特に上質な「型物」と呼ばれる鉢には、華麗な色彩を幾何学文様の中に織り込んだ、緻密な作風が多い。18世紀中頃になると、中国との価格競争に敗れた伊万里は、ついに輸出磁器の舞台を降りる。金襴手は、輸出伊万里が最後に咲かせた大輪の花であった。(p.24)>

 古伊万里展では、愛知県陶磁美術館だけの展示ですが「輸出の終焉~国内向け製品」というコーナーがありました。展示されていた「国内向け製品」の記憶は大分薄れてきましたが「緻密な作風が多い」という印象は残っています。

◆世界を駆ける伝言ゲーム

 古伊万里展の第二部には、「3 城内に伝えられた西洋陶器」というコーナーがあり、オランダ、オーストリア、イギリス、デンマーク、ドイツの陶磁が展示され、古伊万里のデザインが少しずつ変化していくのを面白く見た記憶があります。この点について、本書は以下のように書いています。

<ドイツのマイセン窯、フランスのシャンティ―窯、イギリスのウースター窯などの多くの窯で、柿右衛門を写しながら磁器生産が開始され、成長してゆく。この一連の動きには、ちょうど伝言ゲームのように、柿右衛門意匠が少しずつ変化してゆくという楽しいおまけがついていた。柿右衛門の定番意匠「粟鶉文(あわうずらもん)」をみてみよう。17世紀末に輸出を再開し、欧州市場の奪還を狙う中国・景徳鎮の皿には、粟の穂の上にバッタが描き加えられ、中国草虫画(そうちゅうが)の伝統を感じさせる。そしてオランダ・デルフト窯の粟鶉文ときたらクレヨンでぐいぐい描いた童画のように、素朴な雰囲気に大変身。スタート地点の柿右衛門の、典雅な雰囲気は一体どこへ行ったのだろう。(p.70)>

(おまけ)志野と織部

 愛知県陶磁美術館では常設展も見ました。2階の展示室で見た織部と鼠志野が特に印象的でしたが、志野・織部について、本書は以下のように書いています。

<志野と織部も美濃窯で焼かれた。16世紀末に現れた志野は、日本で最初に作られた白いやきものであった。中国白磁への永い憧れの末に、長石釉によって、ふわりと淡雪のような、日本の温かい白を生みだした。志野茶碗を手にとると、見た目の温かさの一方で、どっしりとした石のような冷たさがあり、その意外性も魅力である。釉下に鉄絵で文様を描くことも、大きな革新であった。(略) 志野に少し遅れて生まれたのが、鼠志野である。まず鉄釉をかけ、文様の部分を搔き落としてから、長石釉をかける。すると文様は白く、その余の部分は長石釉の白とあいまって、青味がかった美しい鼠色となる。織部は17世紀初めから作られ、わずか十年ほどの間に、時代を塗りかえる新機軸を打ち立てた。円形を基準とするそれまでの規格を打ち破り、扇面形、誰が袖形、千鳥形など多彩な形のうつわを、艶めく緑釉で飾った。千利休の高弟である武将茶人、古田織部の名に由来するが、織部本人が直接関わったかどうかは不明である。(p.15)>

 また、本書p.5には「作り手がデザインを決定したのではなく、誰が使ったのか、誰に向けて作られたのかという享受者の文化が、やきもののデザインには大きな影響力をもっていた」という文章があります。本書p.26の「平安京以来の都には、志野・織部の注文主であった富豪たちが暮らし」ていた、という文章と合せると、志野・織部のパトロンは京の豪商たちであり、彼らの文化が志野・織部のデザインに大きな影響力をもっていた、と考えることができます。

 Ron.

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