展覧会見てある記「生誕130年 荒川豊蔵展」岐阜県現代陶芸美術館

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岐阜県現代陶芸美術館(以下「美術館」)で開催中(11/17まで)の「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)に行ってきました。利用したのは土・日・祝日だけ運行する「ききょうバス」です。多治見駅南口発の発車時刻は午前中が9:10、10:10、11:10の3本。美術館までは25分ほど。美術館発・多治見駅南口行きの発車時刻は、午前中が9:40、10:40、11:40の3本。午後は13:40からです。

当日、バスが美術館に到着したのは5分遅れの10:40。13:40発のバスだと3時間後なので、11:40発に乗ることを決めました。帰りのバス発車時刻まで、1時間しかありません。

バス停から美術館までは5分ほど。シデコブシ自生地を跨ぐ橋を歩くとトンネルの入口に差し掛かり、トンネルを抜けて、ようやく美術館の全貌が現れました。本展の会場は、美術館に入ってすぐの場所です。観覧料は一般1,000円。以下は本展の内容紹介、感想などです。

◆Ⅰ. プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵(人間国宝に指定された昭和30年前後以降の作品を展示)

本展は8章で構成。荒川豊蔵(以下「豊蔵」)が作陶した陶磁器だけでなく、豊蔵が描いた絵や豊蔵が収集した尾形乾山作の角皿や陶片を金継ぎした茶碗も展示しているので見飽きません。

Ⅰ章で目を惹くのがピンク(薄紅色)に発色した茶釜型の水指《志野山の絵水指》です。可愛らしい形の水指で、山の絵が描かれています。Ⅰ章にはこの外にも同名の水指が、白と赤の2点出品されています。何れも円筒形でした。そのうち、白い水指は本展チラシ(以下「チラシ」)の裏に図版が載っています。

「志野」の茶碗では、薄紅色の《志野茶垸 銘氷梅》(作品リストの表記は「茶垸」)が見逃せません。茶碗に掛かった釉薬が縮れて膨れ、割れ目が生じています。解説は「梅花皮(かいらぎ)状に縮れた志野釉を氷の割れ目にみたて、そこに梅の花が浮かび上がっている」と表現しています。この茶碗の図版は本展のプレスリリース(URL: ARAKAWA_Toyozo_Release (cpm-gifu.jp))やチラシの表に掲載されています。この外《志野茶垸 銘朝暘》(チラシ裏に図版)も薄紅色で、梅花皮がきれいに入っています。同じ茶碗でも《志野鶴絵茶垸》は灰色の地に大きく白鶴を描いており、その肌は梅花皮ではなく、ミカンの皮のようにツルッとしています。解説には「俵屋宗達・画、本阿弥光悦・書の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』に描かれた鶴を思わせる」とありました。

一方、「瀬戸黒」の作品は茶碗と花入です。このうち《瀬戸黒茶垸》には釉薬を掛けた時の指の跡があります。

Ⅰ章には、じっくり見たい作品が多数あります。本展の解説は簡潔で分かりやすく、作品を焼成した窯の表記もあり親切で有難いのですが、解説を一つひとつ丁寧に読んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。観覧時間が限られている場合は、ご注意ください。

◆Ⅱ. 東山窯と星岡窯 - やきものに風情があるのを知る(志野陶片を発見する以前の作品を展示)

Ⅱ章の展示は、日本画家を雇い、瀬戸から取り寄せた素地(素焼きの磁器)に上絵付(釉薬の表面に色絵を描くこと)させたデミタスカップや、京都・伏見の宮永東山窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付(素地に呉須(酸化コバルト)で絵を描き、釉を掛けて焼成すると描いた絵が藍色に発色する)、北大路魯山人の鎌倉・星岡窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付などです。

豊蔵は絵に自信があったこと、豊蔵が手がけていたのは売れ筋の磁器だったことが分かりました。

◆Ⅲ. 荒川豊蔵の陶芸(志野陶片の発見、大萱牟田洞窯の築窯及び乾比根会の結成等に関連する展示)

Ⅲ章の見どころは、名古屋の旅館で北大路魯山人と豊蔵が志野筍絵茶碗を眺める姿を描いた額《古志野発見端緒の図》と、美濃の山で陶片を探す姿を描いた六曲一双の屏風《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》です。志野陶片発見の約50年後に豊蔵が描いた作品ですが、当時の興奮が伝わってきます。

豊蔵は志野陶片を発見した後、昭和8年に岐阜県可児郡久々利村大萱(現、可児市)に窯を作りますが失敗。翌年、40m移動した地に「大萱窯」を築き直し、初窯を焚きます。そのためか、Ⅲ章に展示されているのは昭和10年以降の作品です。腰の張った筒形の《瀬戸黒茶碗 銘寒鴉》(チラシ裏に図版)等が展示されていました。この外、「秋のツアー」のお知らせに掲載されていた《黄瀬戸破竹花入》(図版はプレスリリースとチラシ裏に掲載)もⅠ章に展示されています。解説には「華道家の勅使河原蒼風と写真家の土門拳がこの花入に松を生け、撮影した」とあります。確かに前衛的な生け花にはぴったりですが、裂けた花入れに松をどのように生けたのか、とても気になりました。(水を入れた竹筒などを花入れの中に置いて、花を生けたようです)

Ⅲ章には大萱窯以外に、宮永東山窯で作陶した色絵《古九谷風石庭の図平鉢》(チラシ裏に図版)等も展示されています。解説は「個展の出品には大萱の作品だけ足りないので、宮永東山窯で焼かせてもらった」というもの。古巣とはいえ、豊蔵に焼成を許した宮永東山は太っ腹ですね。宮永東山は豊蔵を信頼していたのでしょう。

以上の外、三重県の財界人・陶芸家の川喜多半泥子(かわきた はんでいし:以下「半泥子」)と豊蔵との関係も見どころです。豊蔵が津市・千歳山の半泥子を訪ねた時の礼状《半泥子宛書簡(千歳山訪間の礼状)》、半泥子・豊蔵・三輪休和(萩焼)・金重陶陽(備前焼)の4人で作陶連盟乾比根会(からひねかい)を結成した時の様子を描いた《陶匠友誼図》、豊蔵の陶房を訪れる人の掟として半泥子が書いた《出入帖(宿帖)》を展示しています。書簡の内容や出入帖の「8か条の掟」の内容は本展の解説に書いてあるので「一見の価値あり」です。

(注)「半泥子」は、16代続く名家の当主が道楽で家を傾けることの無いよう、南禅寺の禅師が命名した号。「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」を意味し「半分泥だらけになりながら没頭しても、半分は冷静に己を見つめよ」という教えです。(出典のURL:【探訪】ろくろのまわるまま−究極の素人・川喜田半泥子(三重県津市、石水博物館)キュレーター・嘉納礼奈 – 美術展ナビ (artexhibition.jp)

◆Ⅳ. 暮らしとともに - 水月窯と大萱窯の食器(戦後、多治見市虎渓山に豊蔵が作った水月窯関係の展示)

戦後、豊蔵は一般家庭向けの器を生産するため、多治見市虎渓山に磁器の焼成や、量産、染付、色絵の制作も可能な水月窯を作ります(水月窯の詳細は、平成22年に多治見市文化財保護センターで開催された企画展「水月窯と荒川豊蔵」のパンフレット(URL: suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp))をご覧ください)。

目を惹いたのは、豊蔵が考案した《梅花文汲出》です。水月窯のベストセラーで、昭和20年代の製品と昭和30年代の製品を展示しています。なお、「汲出(くみだし)」は湯呑よりも浅く、口が広い茶器。上記パンフレットによれば、《梅花文汲出》は粉引(こひき:素地に白い土で化粧を施し、その後、釉薬を掛けて焼成した陶器)です。

◆Ⅴ. 描く、愉しむ(水月窯で可能になった染付や色絵の作品と絵画などを展示)

水月窯では染付、色絵が焼けるので、絵が得意な豊蔵は文人画風の絵を描いた《染付閑居作陶之図四方皿》(チラシ表に図版)や《色絵灌園便図四方飾皿》(チラシ裏に図版)のような飾皿、《壺に桃花流水之図》(チラシ裏に図版)のような絵画を多数制作したようです。

◆Ⅵ.  交友 - 芸術家との共作、五窯歴遊(唐津、萩、備前、丹波、信楽で作陶した作品等を展示)

川合玉堂や前田青邨と共作したやきものの外、萩焼、唐津焼、備前焼、丹波焼、信楽焼の窯元で作陶した作品を展示しています。とはいえ、やきものの特徴がはっきりと分かるのは、釉薬を掛けずに1200度~1300度の高温で焼き締めた備前焼くらいでした。名古屋市美術館で開催予定の「民藝 MINGEI」に地方のやきものが出品されるので、それぞれの特徴をつかもうと思います。

◆Ⅶ. 収集品にみる荒川豊蔵の眼と作品へのひろがり(豊蔵が収集した尾形乾山の角皿などを展示)

出土した陶片を金継ぎした《織部呼継茶碗》は見ものです。解説には「豊蔵は、訪ねてきた随筆家の白洲正子にこの茶碗で茶をふるまっている。飲み干して呼び継ぎに気づいた白洲は衝撃を受けて、のちに随筆『よびつぎの文化』を執筆した」と書いてあります。尾形乾山の角皿も見逃せません。

◆Ⅷ. エピローグ

手控帖、写生・作陶道具などを展示しています。

◆ 最後に

今回の鑑賞時間は、移動時間を除くと実質50分ほどでしたから、一通り駆け足で見てから入口に戻り、「これは」と思った作品に絞って、じっくり眺めました。

Ron.

読書ノート「やきものの里めぐり」著者 永峰美佳 発行所 JTBパブリック 発行 2014.5.1

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本書は、近所の図書館で借りてきた「窯場めぐり」のガイドブックです。主要な窯場の紹介に加え、やきものの原料・技法、やきものと窯場の歴史などの簡潔な解説もあったのでエッセンスをご紹介します。

◆ やきものと窯場の歴史

本書で私が注目したのは、以下の3点です。

1 柳宗悦の民藝運動により、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美が見出された

2 北大路魯山人が料亭で使った食器や自ら制作した食器のスタイルが、現代にも大きな影響を与えている

3 昭和5年(1930)に荒川豊蔵が美濃で志野の陶片を発見し、桃山茶陶の復興ブームが巻き起った

上記「1」に関して、10月5日から名古屋市美術館で「民藝 MINGEI」(以下「本展」)が開催されます。上記「3」に関して、協力会秋のツアー2024の見学先の一つは岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」です。いずれも「やきものを見直す大きな出来事」に関する展覧会なので、楽しみです。

◆ チラシに写真が掲載されているやきものと窯場の紹介

・有田焼【ありたやき】[佐賀県有田町] 

「白くて硬い磁器を日本で最初に焼いた窯場」と紹介。また「白い磁器の登場で、庶民の食卓に並んでいた木椀が磁器に代わり、生活を大きく変えた」とも書いています。磁器の登場は画期的だったのですね。なお、本展のチラシ(以下「チラシ」)に《染付羊歯文湯呑》(江戸時代)の写真を掲載(チラシp.2、以下同じ)。

・小鹿田焼【おんたやき】[大分県日田市] 

「飛び鉋(かんな)、打ち刷毛目など、ロクロを生かした文様。昔ながらの手仕事を今に伝える珠玉の窯場」と紹介。また「昭和6年(1931)に民藝運動の父。柳宗悦が訪れ、『日田の皿山』という文章とともに世に紹介して以来、『小鹿田焼』の名は全国に知られていきます」と続きます。チラシに写真はありませんが、本展の公式サイト(以下「公式サイト」)の動画が、窯場の様子を紹介しています。

 「飛び鉋」「刷毛目」は、褐色の素地を白く見せるために、白い土を水で溶いて掛ける装飾です。本書は、白い化粧土を使った主な装飾技法を、以下のとおり記しています。

粉引    全体に白化粧を施し、要所に見える素地の土との対比を楽しむ

刷毛目   隙間を残しながら、刷毛で白化粧土を勢いよく塗ります

三島    「印花」という判を押し当て、表面に凹凸をつけ、化粧土を埋めます

描き落とし 表面の化粧土を削り、下の素地の色との対比で文様をつくります

飛び鉋   ロクロの回転を利用し、鉋を当てて削り文様を生み出します

化粧絵付け 白化粧で表面を整えて、下絵付けや上絵付けを施します

・牛ノ戸焼【うしのとやき】[鳥取県鳥取市]

「緑釉と黒釉の掛け分けで知られる民藝の器」と紹介。「柳宗悦の薫陶を受けた医師・吉田璋也の指導で息を吹き返し、現在に至ります。伝統を引き継ぐ窯に因州中井窯も挙げられます」と続きます。チラシに《緑黒釉掛分皿》(1931頃)の写真を掲載(p.4)。

・丹波焼【たんばやき】[兵庫県篠山市] 

「茶色い焼き締めの肌に熔け掛かる鮮緑色の釉。『赤』『黒』『白』と色で呼ばれた器たち」と紹介。「民藝の創始者・柳宗悦にとって古丹波は特別な存在であり、美術商で丹波焼の蒐集家。中西幸一と交流を深めました」と続きます。チラシに写真はありませんが、公式サイトの動画が、窯場の様子を紹介しています。

・瀬戸焼【せとやき】[愛知県瀬戸市] 

「陶器も磁器も、あらゆるやきものを焼く旺盛な窯場。いつしか全国の食卓の器の代名詞に」と紹介。チラシに《呉須鉄絵撫子文石皿》(江戸時代)の写真を掲載(p.1)。この石皿については『もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動』(監修 杉山享司 2021年10月5日初版発行 株式会社東京美術)が「台所や煮物屋の店先で使われていたもの。陶画の模様の美しさに柳は心打たれた」と解説しています。

◆ その他のやきものと窯場の紹介

・唐津焼【からつやき】[佐賀県唐津市] 

「釉薬、筆描きの文様、量産のスタイル。日本のやきものに打ち立てた数々の金字塔」と紹介。「文禄・慶長の役で渡来した朝鮮半島の陶工たちにより新しい技術がもたらされ、すぐに最盛期を迎えます」と続きます。

・薩摩焼【さつまやき】[鹿児島県鹿児島市ほか] 

「気品漂う『白もん』、味わい深い『黒もん』。朝鮮半島への郷愁を感じさせる器たち」と紹介。「文禄・慶長の役の際に、島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った80名の陶工が、藩内の各地でやきものを焼き始めたことに由来します」と続きます。

・壺屋焼・読谷山焼【つぼややき・よみたんざんやき】[沖縄県那覇市・読谷村]

「釉を掛けた『上焼』、焼き締めの『荒焼』など、色も形も独特な発展を遂げた『やちむん』」と紹介。なお、沖縄では「やきもの」を「やちむん」と呼びます。民藝運動との関係については「昭和の初めに民藝運動の父・柳宗悦らが壺屋焼を全国に紹介し、昭和60年(1985)に名工・金城次郎が人間国宝に認定されて、一躍脚光を浴びました」と紹介しています。

・京焼【きょうやき】[京都府京都市] 

「茶の湯文化とともに発展した優美なデザイン。仁清、乾山、本米など優れた名工を輩出」と紹介。民藝運動を担い、奔放で濃厚な創作を展開した河井寛次郎の住宅を一般公開した「河井寛次郎記念館」が、東山区五条坂鐘鋳町にあり、近所に江戸後期から八代・清水(きよみず)六兵衛まで250年以上続く老舗の「六兵衛窯」もあります。『名匠と名品の陶芸史』(著者 黒田草臣 講談社選書メチエ 2006.6.10発行)によれば、河井は後援者の援助を受けて、鐘鋳町の五代・清水六兵衛の持ち窯と土地を購入した、とのことです。

・信楽焼【しがらきやき】[滋賀県信楽町] 

「浮き出した長石粒、粗い土肌に熔け掛かる自然釉。野趣あふれる素朴な表情が人の心を惹きつける」と紹介。「信楽には、やきものを求めて逗留した文化人ゆかりの料理店や宿が今も残っており、『魚仙』には北大路魯山人がしばし訪れ、老舗旅館『小川亭』は岡本太郎が常宿としていた」と続きます。

・美濃焼【みのやき】[岐阜県多治見市ほか] 

「桃山文化を担い、花開いたやきものルネサンス。和食器の60%(注)を生産する『陶の都』」と紹介。「焼き上がりを急冷することで深みのある黒を引き出した『瀬戸黒』。白い長石釉をかけた『志野』。灰釉を改良した黄色い釉薬の『黄瀬戸』。緑釉と鉄絵を組み合わせた『織部』。日本で初めて筆描き文様を施したこれらの器は『桃山陶』と呼ばれ、日本のやきものにルネサンスを花開かせました」と続きます。

注:2021年の生産額は、1位・岐阜県54%、2位・長崎県12%、3位・佐賀県11%です(下記にURL)。

 陶磁器(食器)の生産額の都道府県ランキング(令和3年) | 地域の入れ物 (region-case.com)

・益子焼【ましこやき】[栃木県益子町] 

「『用の美』民藝を象徴するやきもの。つくり手の合理性、器の素朴さ、使いやすさが揃う」と紹介。「益子焼は江戸時代末期に始まり、主に土鍋や擂鉢(すりばち)などの日用雑器を製作し、関東一円に流通するまでになります。転機が訪れたのは、大正13年(1924)のこと。柳宗悦とともに民藝運動の中心を担った陶芸家・濱田庄司が移住し、民藝運動の理念『用の美』に基づいた作品を制作します」と続きます。「『つかもと』は益子最大の窯元で、JR信越本線・横川駅『峠の釜めし』の羽釜の容器『釜っ子』を焼く窯としても、馴染み深いのではないでしょうか」との紹介もあります。

◆最後に

 本展では陶磁器以外にも、染織品や木漆工品など、多数の民芸品が出品されるそうです。

                            Ron.

読書ノート 『民藝 MINGEI』 関連書籍の抜き書き

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

1 はじめに

 名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)から「お知らせ」が届きました。『民藝MINGEI― 美は暮らしのなかにある』(以下、本展)を10月5日(土)~12月22日(日)の会期で開催。10月12日(土)には、17:00から協力会向けギャラリートーク(井口智子学芸課長)を開催するほか、14:00~15:00に井口智子学芸課長の一般向け解説会が、15:30~16:30には深谷克典参与によるヨーロッパ最新美術展覧会の報告会があります。

 本展の公式サイト(URL: 『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))によれば、「暮らしのなかで用いられてきた美しい民藝の品々約150点を展示」するとのこと。楽しみですね。

なお、公式サイトは、柳宗悦(やなぎ むねよし)と民藝運動について、次のように記しています。

〈柳宗悦(1889-1961)は、東京府麻布区生まれ。1910年(明治43)、雑誌『白樺』の創刊に参加。(略)1913年(大正2)に東京帝国大学哲学科を卒業。朝鮮陶磁、木喰仏の調査研究、収集を進めるなか、無名の職人が作る民衆の日用雑器の美に関心を抱いた。1925年(大正14)には、その価値を人々に紹介しようと「民藝」という新語を作り、濱田庄司や河井寛次郎ら共鳴する仲間たちと民藝運動を創始した〉

つまり本展は「無名の職人が作る民衆の日用雑器の美」の展覧会です。とはいえ、作品リストには「無名の職人」の作品だけでなく「著名な陶芸家」の作品もあります。そこで、柳宗悦・民藝運動と本展に出品の「著名な陶芸家」との関係について、関連書籍の「抜き書き」を作りました 。その内容は、以下のとおりです。

2 バーナード・リーチ(1887~1979)と富本憲吉(1886-1967)の出会い

 l909年(明治42)にエッチングの教師として来日したバーナード・リーチ(Bernard Howell Leach)は、アート雑誌のデザインなどを通し柳宗悦をはじめとする白樺派の人たちと交流。また、1911年(明治44)英国留学を終えた富本憲吉は9月に上京し、バーナード・リーチと交友。リーチと富本の二人は若い画家が集まっていたパーティーで、余興の楽焼(注:素人が趣味で作る低火度の陶器)を行い、リーチは楽焼に感激。1912年(明治45)リーチは6代目尾形乾山である浦野繁吉に陶芸を教わるようになった(出典B p.39)。通訳としてリーチに同行した富本はリーチに触発されて轆轤(ろくろ)を廻すようになり、陶芸家への転向を決意する(出典C p.123)。

3 バーナード・リーチと河井寛次郎(1890~1966)の出会い

 1912年(明治45)2月、東京高等工業学校窯業科に在学中の河井寛次郎は、『白樺』主催の「ロダン展」でバーナード・リーチの楽焼を見て衝撃を受けた。後日、河井は楽焼きの壺を受け取りに向かった上野桜木町でリーチとはじめて出会った(出典C p.163)。

4 柳宗悦、朝鮮の白磁に魅了される(最初の転機)

1914年(大正3)陶磁器研究家の浅川伯教(のりたか)は、オーギュスト・ロダンの彫刻を見るため、千葉県・我孫子の柳宗悦宅を訪れる。その時、柳は浅川から贈られた李朝秋草文面付壺(URL: 大阪歴史博物館:特別展:没後50年・日本民藝館開館75周年 柳 宗悦展-暮らしへの眼差し- (osakamushis.jp))に魅了される。柳は1916年(大正5)以降、何度も朝鮮を訪れて工芸品の蒐集を行う(出典A、出典E)。

5 バーナード・リーチが再来日、安孫子に住む

1916年(大正5) 柳宗悦は、1915年に北京へ移住したリーチに再来日を勧め、自宅の一部を窯と仕事場のために提供。(出典A)。リーチは我孫子で、伝統的な日本の陶芸に中国、韓国そして英国伝統のスリップウェア(Slipware:スポイトや筆を使い、slip=泥漿(でいしょう:泥状の化粧土)で陶器を装飾する技法)を加味した、独特な作風を作り出すことに成功した(出典B p.40)。

6 一万種の釉薬

1916年(大正5)濱田庄司は京都市立陶磁器試験場に就職。濱田は、1914年(大正3)に就職していた河井寛次郎と東山馬町に下宿を借り、河井と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事。釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約1万種の釉業の調合を試みた(出典C p.165 p.201)。

7 バーナード・リーチと濱田庄司(1894~1978)の出会い

1918年(大正7)12月、濱田庄司は神田の流逸荘でリーチの第2回個展を見て、会場でバーナード・リーチと初対面し、作品について話し合った(出典C p.202)。1919年(大正8)濱田は、我孫子のリーチ窯を訪ねた。同年5月、我孫子のリーチ陶房は火事に見舞われ、図案や技法の記録、数年間の手記、重要な文献、そして製陶用の道具などが失われた。リーチは黒田清輝の好意で麻布の邸内に築かれた東門窯を借りて作陶し、その冬には濱田も泊まり込みで手伝った(出典C p.203)。

8 濱田庄司と益子の出会い

東京高等工業学校窯業科在学中、陶芸家の板谷波山から学んでいた濱田庄司は、波山宅の棚にあった山水絵の土瓶に興味を持ち、波山から「これは栃木の益子焼だ」と聞いた。この話を覚えていた濱田は、1920年(大正9)に益子を訪ねた(出典C p.201)。

9 濱田庄司、バーナード・リーチに誘われて英国へ向かう

1920年(大正9)濱田庄司はリーチの誘いで、イギリス南西端のセントアイヴス(St. Ives)に窯を築くため、リーチと一緒に船で英国へ向かった(出典C p.203)。同年、リーチと濱田は工房の場所探しや粘土や釉(うわぐすり)の調達に奔走し、西洋で初めての日本式登り窯を作った。この登り窯は、近所のダイナマイト工場の中古レンガを使い、各房の人口のアーチの支えには大きな樽の「たが」(樽を締めている鉄の輪)を利用した(出典B p.41)。1921年(大正10)二人は、ようやく初窯を焚いた。英国の土器に使われたガレナ釉(鉛釉)を1000度の見当で焼いて成功した。鉄絵など楽釉の軟陶のものを焼いたが、2~3割は失敗した。1923年(大正12)セントアイヴスで3年が経った春、濱田はロンドンの画廊で初めての個展を開催し、成功を収めた(出典C p.204)。その後、リーチも同じ場所で個展を開催した(出典C p.205)。

10 マイケル・カーデューがバーナード・リーチに弟子入り

1923年(大正12)一人の若者がバーナード・リーチの住むカウント・ハウス (Count House) のドアをノックした。濱田庄司が工房から連れてきたという。彼はマイケル・カーデュー(Michael Ambrose Cardew)と名乗り、ぜひ弟子にしてほしいと懇願した(出典B p.47)。

11 河井寛次郎、スランプに陥る

1917年(大正6)京都市立陶磁器試験場を退職した河井寛次郎は、五条坂の五代 清水六兵衛(きよみず ろくべえ)の顧間となり、2年間、各種の釉薬を作る仕事に着手する。1920年(大正9)30歳になった河井のため、久原(くはら)鉱業監査役・山岡千太郎は鐘鋳(かねい)町の清水六兵衛の持ち窯と土地を購入する援助をした。河井は、地名にちなんで「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名づけた(出典C p.166)。1921年(大正10)河井は東京高島屋で初個展を開催した。陶磁器研究学者の奥田誠一はこの展示会を絶賛。この頃、柳宗悦は、神田流逸荘で「朝鮮鮮民族美術展」を開催。河井は李朝陶磁の美しさに心打たれ、自身の作品に疑問と反省を持ちはじめた。そんな矢先、柳が「河井の仕事は技術の模倣に過ぎない」と酷評した。河井は「中国陶磁を越える作品は生まれていない」と反省。それが葛藤となりスランプに陥った(出典C p.160)。

12 英国から帰国した濱田庄司が、河井寛次郎を訪問

1924年(大正13)濱田庄司が英国から帰国し、河井寛次郎を訪問。再開を果たした二人はそれから2カ月間、寸暇を惜しんで語り合い、互いの進む道を確認しあった(出典D p.168)。英国から送った荷物がようやく河井宅に着いた。スリップウェアの皿10枚と、ドイツの古い水指などであった。そのスリップウェアを賞賛した河井は、すぐに真似た皿を作り上げたが、専門家にも見分けられないほど素晴らしかった(出典C p.206)。

13 柳宗悦、木喰仏と出会う(第二の転機)

1924年(大正13)1月、柳宗悦は、朝鮮の陶磁器を見るために古美術の蒐集家・小宮山清三を訪問した際、暗い庫の前に置かれていた二体の木喰(もくじき)仏に出会う(出典A、出典E)。

14 下手物(雑器)の美

1924年(大正13)前年の関東大震災で被災した柳宗悦は一家で京都へ移住。柳は河井寛次郎に連れられて東寺や北野天神の朝市を回り、そこで出会った「下手物(げてもの)」(一般民衆が使用する雑器。上手物(じょうてもの=精巧に作られた高価な工芸品)の反対語)に惹かれ、蒐集を進めた。1926年(大正15)9月、柳は「下手ものの美」という文章を越後タイムズに発表、その語感に注目が集まる。1927年(昭和2)柳は「下手ものの美」を改題した『雑器の美』(URL:柳宗悦 雑器の美 (aozora.gr.jp))を「民藝叢書」の第一編として刊行し、同年には東京鳩居堂で最初の「日本民藝品展覧会」を開催(出典A)。

15 木喰仏調査の旅先で「民藝」を造語

1925年(大正14)河井寛次郎は濱田庄司に誘われ、吉田山の柳宗悦を訪ねた。河井は柳の家で大津絵に共鳴し、李朝陶などをみて感激。さらに天衣無維な木喰仏を見て、自らの造形と響きあうものを感じ、柳と河井の二人はいっぺんに意気投合。積年のわだかまりが氷解した(出典C p.169)。同年12月、紀州旅行の途中に柳、河井、濱田の三人は木喰上人遺跡を訪ねた。淺川伯教、巧(たくみ)兄弟の影響で李朝陶磁に興味を持った柳は、木喰仏を通じて独自の鑑賞眼を確立した。濱田はスリップウェアや錫の器などに美しさを感じ、河井は民衆の使う雑器に心奪われていた。ここで三人は「民衆の工芸」を略して「民藝」の造語を生んだ(出典C p.206)。

16 濱田庄司、益子に移住

 京都や東京の都会が主な拠点だった濱田庄司も、波山のところで知った益子を訪れ「健康的な心が根付く田舎」に住む気になった(出典C p.206)。濱田が移住した当時の益子は甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・湯たんぼ・片口・山水土瓶・石皿などを量産していた。(注:現在の量産品は「峠の釜めし」用土釜)大正期には一度の登窯で1万個焼いたというほど関東一円の台所用品を生産していた。1924年(大正13)セーターにコールテンのズボンをはいて、外国のホテルや航路で集めたラベルやシールを貼ったスーツケースを持って益子に入った濱田の格好は、田舎の益子では人目についた。(略)警察や役場の人たちに監視される日が6年間続くことになる(出典C p.207)。

17 沖縄への旅

1924年(大正13)濱田庄司は、寒い冬の間、沖縄へ行くことにした。新垣栄徳(1947年没)に世話になり、翌3月まで滞在して壺屋で制作した。その後、妻子と共に1年以上も沖縄で暮らした。沖縄は濱田の気持ちを受け入れてくれるところだった。無意識の創作力を失って久しい濱田にとって、沖縄壺屋での陶工の仕事ぶりには学ぶことが多かった(出典C p.208)。

18 3万坪の土地に住居と窯

1930年(昭和5)濱田庄司は、益子に3万坪の土地を求め、住居は益子の道祖土(さやど)にあった80坪の豪壮な農家が気に入り、住んでいる人に頼み込んだ。相手が渋るのを納得させて移築、翌年には邸内に3室の登窯を築き、昭和17年には8室の登窯を築き、松薪で焼いた(出典C p.209)。

後日、濱田は「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返った(出典C p.198)。

19 河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった

1941(昭和16)以降、河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった(出典D p.12)。

20 富本憲吉が民藝派と決別

1946年(昭和21)12月、富本憲吉は、柳宗悦率いる「民藝派」とのつながりをはっきり断ち切るために国画会工芸部も脱退した。民藝派とはその機関誌である『民藝』の創刊号から10号まで毎回、題字を書いていたこともあるほど長い付き合いであったが、民藝の主張と相いれぬものがあった。「民藝派の主張する民藝的でない工芸はすべて抹殺さるべきだという狭量な解釈はどうにもがまんがならなかった。創作こそ美術家の根本理念である。河井、濱田らの民藝派グループの工芸は創作性の僅少な、むしろ伝統の繰り返しを平気でやっている」と、国画会と手を切ったのである(出典C p.135)。

出典の一覧

A 民藝運動 Wikipedia  URL: 民藝運動 – 民藝運動の概要 – わかりやすく解説 Weblio辞書

B 『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』著者 加藤節男 

発行所 株式会社河出書房新社 2020年2月28日発行

C 講談社選書メチエ『名匠と名品の陶芸史』著者 黒田草臣 2006年6月10日発行

D 「陶工・河井寛次郎」著者 松原龍一 京都国立近代美術館 副館長

 京都国立近代美術館編 川勝コレクション『河井寛次郎』2019年3月31日発行 発行所 光村推古書院 所収

E 【先人たちの底力 知恵泉】URL: 【先人たちの底力 知恵泉】柳宗悦 多様性社会をどう築くか? Eテレ 6月4日夜放送 – 美術展ナビ (artexhibition.jp) 

読書ノート 黒田 草臣 著『名匠と名品の陶芸史』「荒川豊蔵」編

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

講談社選書メチエ363 発行所 株式会社講談社 2006年6月10日発行

名古屋市美術館協力会「秋のツアー 2024」では岐阜県現代陶芸美術館『生誕130年 荒川豊蔵展』を見学するというので、SNSを検索して本書を見つけました。著者の黒田草臣氏は東京・渋谷の(株)「黒田陶芸」代表取締役。草臣氏の父親・黒田領治氏は「黒田陶芸」の創業者で、多くの陶芸家と交流がありました。本書は「この交流から得た秘話も盛り込み、名匠たちの思想と名品の作陶ぶりを追うことで、近代陶芸史を新たに語り直そうと試みたものである」(本書p.18、以下はページ数のみを記載)とのことです。

以下は、本書「第一章 荒川豊蔵」のうち「秘話」を中心に要約したものです。

志野はどこで焼かれたか

昭和5年(1930年)4月8日、名古屋を訪れた北大路魯山人(以下「魯山人」)と荒川豊蔵(以下「豊蔵」)は、名古屋の古美術商・横山守雄から名古屋の関谷家が所有する志野筒茶碗・銘「玉川」(現在は、徳川黎明会所蔵、URL: 竹の子文志野筒茶碗 歌銘 玉川 文化遺産オンライン (nii.ac.jp))を見せられた。(略)3年前、36箇所の瀬戸古窯址を徹底的に発掘したのに、志野陶片の一片すら見つけることができなかった魯山人は「瀬戸で焼かれたものだろうか」と半信半疑。豊蔵も茶碗の高台内に付着したハマコロ(窯詰の時に使う焼台)が赤い(瀬戸のハマコロなら白い)ことに疑問を持った。(略)その夜、豊蔵は大正14年(1925年)正月に美濃で青織部の陶片を拾ったことを思い出した。(p.22)

筍の破片

翌日、魯山人は鎌倉の星岡窯に戻るが、「志野は美濃で焼かれたもの」と思った豊蔵は、美濃で陶片を調査するため、休暇を取る。(略)豊蔵は従兄と友人の長男を伴って陶片を調査し、「玉川」に描かれた小さい方の筍と同じ図柄の陶片を発見。それは4月11日、豊蔵36歳の春であった。(p.22~24)

続々と出る古志野のかけら

数日後、豊蔵が持ち帰ったその陶片に魯山人は興奮した。(略)魯山人は計画的に発掘することにした。5月の下旬より豊蔵の案内で美濃に出向いて人を雇った。労賃として6円50銭を現金で支払って、ミカン箱32箱分を発掘した。(p.24~26)

コメント:ブログに添付の「瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感」には、魯山人が豊蔵に「美濃に行って古い釉薬でも探して来いと言ってやると、二、三日して(略)志野の破片を持って来た」と、書かれています。

パトロンからの援助

陶片発見後、大萱牟田洞に窯を完成させるまで、豊蔵は何度も何度も美濃と鎌倉を往復し、昭和7年(1932年)、志野を再現するために陶片を拾った岐阜県可児郡久々利村大萱牟田洞(URL:美濃桃山陶の聖地・可児 (minomomoyamato.jp))で独立することを決意した。(略)資金不足の豊蔵を救ったのは、日本文化を深く理解するスエーデン人のトルエドソン夫人である。運転資金100円を出してくれた。(p.29~30) 

コメント:豊蔵はトルエドソン夫人の帰国後、魯山人を通じて知った田邊加多丸からも資金の援助を受けています。気難しい魯山人ともウマが合っていたようですから、人柄がよかったのでしょうね。

半地下式穴窯築窯

 トルエドソン夫人の援助のもと、古窯址からヒントをえて、豊蔵は半地下式穴窯を築窯し、昭和8年(1933年)12月、初窯の窯焚をする。(略)この初窯は失敗し、翌年、その窯から40メートル北の小高い現在地に窯を築窯。試行錯誤を繰り返したが失敗。途絶えていた技術で、頼りは発掘した陶片と窯道具であった。窯の構造、燃料、窯道具などはすべて手探りであり、瀬戸黒だけはどうにかとれたが志野は焼けず、豊蔵の前途に暗い影が落ちてきた。試行錯誤を繰り返していた昭和11年(1936年)、作品を持って魯山人を訪ねた時、陶芸に専念することとなった魯山人(注)を1年間手伝った。(p.30)

注:魯山人は昭和11年に会員制料亭・星岡茶寮を追われ、星岡窯の看板を「魯山人陶芸研究所」に塗り替え、陶芸家として再起に踏み切った。(p.262~264)

コメント:豊蔵は昭和8年に独立した時に魯山人と縁を切ったわけではなく、その後も交流が続いていたということになりますね。

ジャージャー漏りの作品

資金難で困っていた豊蔵に新しい後援者が現われた。魯山人を通じて知った日本勧業銀行筆頭理事の田邊加多丸(たなべ かたまる)である。豊蔵は、美術に見識のある田邊に援助を依頼した。(略)田邊は、茶碗などの作品を各20口×20円で頒布し、毎回400円を資金提供することを豊蔵に提案し、頒布する作品の配達・集金は黒田領治に依頼した。黒田は「ジャージャー水漏れする」花入や茶碗など、頒布品の苦情処理にも対応。花入にはコールタールを流し込み、茶碗はお粥を何度も焚いて水漏れを止め、顧客に届けた。(略)黒田は、何度もボテ籠(竹で編んだ籠)を背負って大萱へ通い、その度に豊蔵の田舎家に泊まった。(p.31~32)

初個展

黒田は、豊蔵の初個展を大阪梅田の阪急百貨店で開催した。戦前に行われた唯一の個展である。阪急の社長は田邊の兄・小林一三であり、個展の会期は昭和16年(1941年)10月7日から12日と決まった。(略)しかし、準備不足のため、自信がもてる志野や瀬戸黒の作品はわずかしかない。急遽、個展の1ヵ月前から古巣の東山窯の素地に色絵、染付などの模様を入れて制作し、初日に作品を運び込んだ。(略)志野などはあまり売れなかった。阪急展の後、黒田は豊蔵の志野作品をボテ籠に詰めて日本橋三越に持ち込んだ。茶碗の売値は50円。委託販売なので三越に35円を納め、豊蔵に20円、桐箱屋に箱代8円を支払ったが、あまり売れなかった。千歳山の川喜田半泥子(注:陶芸家・実業家。政治家。東の魯山人、西の半泥子と称される)のところに、三輸休雪(注:陶芸家・後に萩焼の人間国宝)、金重陶陽(注:陶芸家・後に備前焼の人間国宝)とともに集まり、4人で『からひね会』を結成したのはこの頃(昭和17年)である。(p.32~34)

コメント:大物の陶芸家と4人で『からひね会』結成というのも、豊蔵の人柄ゆえでしょう。

大萱での作陶

素焼はせず、たっぷりと鬼板(鬼瓦に似た板状の褐鉄鉱)を含ませて骨太な絵を描く。志野釉は結晶化して透明性を失うので細かな絵は適さず、単純で素朴な絵が似合う。(略)古窯址を参考にして傾斜15度の穴窯を設計した。秋から冬にかけて大萱の谷から吹き上げる北西の季節風を利用する焚口は手前の一箇所で、赤松を700~800束使い、1150度で瀬戸黒を引き出し、その後、1250度まで上げる。焼成時間は三昼夜から四昼夜かけた。(p.34~35)

静かな大往生

第1回の重要無形文化財(人間国宝)に認定(注)された昭和30年(1955年)、戦後はじめての個展を三越で開催。昭和39年の「大萱築窯30周年記念展」には昭和18年に制作した志野茶碗など代表作30点、新作50点を展示した。(略)桃山時代の黄瀬戸は灰が掛らないように匣鉢(さや:焼成の際に製品の保護と窯内部に効率よく積み上げるために使う耐火容器)に入れられているものが多いが、豊蔵は匣鉢に入れずに、焼成した。力強い轆轤と箆捌(へらさば)きが見事な竹花入や砧(きぬた)花入は、火前の荒い炎のために割れや歪みを生じた荒々しいものもあり、桃山時代の黄瀬戸に比べ、極めて挑戦的なものとなった。(略)筍の陶片を発見してから55年後の昭和60年8月11日午後2時10分、多治見市の安藤病院で老衰による急性肺炎のため天寿をまっとうした。享年91歳であった。(p.36~38)

注:同年、魯山人は文化財保護委員会から「織部焼」の重要文化財保持者(いわゆる人間国宝)の認定を打診されたが、生涯無冠を貫いた魯山人はこれを断り、翌年も拒否した。(p.267)

コメント:『生誕130年 荒川豊蔵展』には、火割れした黄瀬戸の花入も出品されるようです。

緑に随う

昭和39年夏、豊蔵の信念でもある「縁に随(したが)う」にあやかり、随縁碑という記念の石碑を据えた。13歳で嫁いできた糟糠(そうこう)の妻・志づ に志野符絵茶碗・銘「随縁」(美濃焼 《志野筍絵筒茶碗 銘隨縁》 – 荒川豊蔵 (1894-1985) — Google Arts & Culture)を贈った。昭和5年に見た銘「玉川」よりやや大きめの筒茶碗で、土見せと高台がある。(p.38)

◆北大路魯山人が書いた志野・瀬戸黒・織部の論考(青空文庫)

 豊蔵の志野陶片発見には北大路魯山人が深く関わっており、魯山人も志野・瀬戸黒・織部に関心を寄せていたことから、魯山人が書いた論考もご紹介します。

☆志野焼の価値  北大路魯山人 (昭和5年)URL: 北大路魯山人 志野焼の価値 (aozora.gr.jp)

☆織部という陶器 北大路魯山人 (昭和6年)URL: 北大路魯山人 織部という陶器 (aozora.gr.jp)

☆瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感 北大路魯山人 (昭和8年)URL: 瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感 – 北大路魯山人 | 青空書院 (aozorashoin.com)

☆瀬戸黒の話   北大路魯山人 (昭和28年)URL: 北大路魯山人 瀬戸黒の話 (aozora.gr.jp)

    Ron.

人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒について

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 名古屋市美術館協力会から7月19日付で「秋のツアー 2024」の開催日は11.09(土)、目的地は関が原人間村生活美術館と岐阜県現代陶芸美術館(以下「陶芸美術館」)になった、との通知がありました。

 陶芸美術館で見学するのは「生誕130年 荒川豊蔵展」。岐阜県多治見市出身で「志野」と「瀬戸黒」の無形需要文化財保持者(人間国宝)となった荒川豊蔵の人となりを振り返る展覧会、とのことです。

 以下は、人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒に関する書籍の抜き書きとSNS記事の紹介です。

1 人間国宝(重要無形文化財保持者)について

 1950(昭和25)年5月に制定・公布された「文化財保護法」は1954(昭和29)年5月に改正され、無形文化財の価値の観点から、その「わざ」を高度に体得している者(又は正しく体得し、かつそれに精通している者)を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)として認定するよう定められた。

 この新制度のもと、陶芸の分野では1955(昭和30)年2月に〈色絵磁器・富本憲吉〉〈鉄釉陶器・石黒宗麿〉〈民芸陶器・濱田庄司〉〈志野・瀬戸黒・荒川豊蔵〉について、1956(昭和31)年4月に〈備前焼・金重陶陽〉について、重要無形文化財の指定及び保持者の認定が行われた。

出展:『人間国宝事典 工芸技術編』 美術品出版株式会社 芸艸堂 2009年9月28日発行(以下「A」)p.8

2 人間国宝・荒川豊蔵について

 荒川豊蔵(あらかわとよぞう)は1894(明治27)年3月21日生まれ、1985(昭和60)年8月11日没。1922年京都宮永東山窯の工場長となり、その後、北大路魯山人が鎌倉に築いた星ケ岡窯の窯場主任となる。1930年美濃大萱(おおがや)で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯趾を発見、1933年この古窯趾の近くに桃山時代と同様の半地下式の単室窯を築き、窯跡から発見した陶片をたよりに、桃山の志野・瀬戸黒の復興に尽力した。1955年重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者に認定。1965年紫綬褒章。1971年文化勲章。

〇 桃山時代の古窯跡を発見した経緯

1930(昭和5)年4月、星ケ岡窯の展覧会が名古屋で開かれた時、同地で筍の絵のある志野筒茶碗を見せてもらったのが機縁となって、故郷に近い現在の可児市久々利大萱で、桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸を焼いた古窯趾を発見した。その事は、桃山の志野は瀬戸で焼かれたという通説を覆す画期的な発見となった。(略)

出展:前出A、p.21

3 志野(しの)について

志野は、桃山時代の天正(1573~91)・文禄(1592~95)の頃、現在の岐阜県多治見市、土岐市、可児市、笠原市にまたがる東美濃地方で焼かれたわが国独特の陶芸である。(略)

 志野は幾つかの様式に類別されるが、(略)桃山時代のものでは文様のない無地志野、鬼板(おにいた)と呼ばれる酸化鉄の泥漿で釉下に簡素な文様を描いた絵志野、鬼板の泥漿を化粧掛けし、文様を白く象嵌風に表した鼠志野、鬼板の化粧掛けの上に長石釉を薄く掛けて赤く発色させた赤志野がある。(略)

出展:前出A、p.22

4 瀬戸黒(せとぐろ)について

瀬戸黒は、志野・黄瀬戸とともに、桃山時代に、現在の岐阜県可児市大萱周辺で焼かれた茶陶である。(略)轆轤で成形された直截な円筒形の茶碗で、底が平たく、高台は極めて低く小さい。16世紀後半の天正(1573~91)頃に最もすぐれたものが焼かれたので「天正黒」と呼ばれる。

 釉薬は長珪石と土灰(雑木を焼いた灰)を合わせ、これに鬼板を加えたもので、志野と同じ窯に入れて焼く。温度が1,150度ぐらいに上って、釉薬が熔けはじめたころを見はからって、色見穴から鉄の鋏で茶碗を挟み、窯の外に引き出して急冷すると、漆黒色に発色するので、一名「引出し黒」とも呼ばれる。

 鉄鋏が届く範囲が限定されるので一窯に窯詰めされる数は、せいぜい15箇ぐらいと言われる。引き出しの時機によって漆黒の釉調に変化が表われ、古来その豪快な作調とともに侘びた味わいが賞玩される。

出展:前出A、p.20

補足:SNSで「瀬戸黒の技法」(URL:瀬戸黒の技法 (touroji.com))を検索すると「高台の周りに釉薬がかかっていない」ことが瀬戸黒の特徴だと分かります。また、名古屋市博物館所蔵の黒楽茶碗(URL: 黒楽茶碗 銘「時雨」と森川如春庵|名古屋市博物館 (city.nagoya.jp)を検索すると、黒楽茶碗は高台まで釉薬で覆われており、瀬戸黒との違いがはっきり分かります。

5 美濃・瀬戸の陶磁器の歴史

 古代から中世にかけて、愛知県周辺の陶器焼成には一般に「窖窯(あながま)」と呼ばれる、丘陵の傾斜地を地表に沿って掘り、トンネル状に構築された半地下式ないし地下式の単室窯が用いられてきた。(略)戦国時代の大規模窯業地は瀬戸・美濃、常滑、越前、信楽・伊賀、丹波、備前の六カ所に限定されることから、当期は「六古窯の時代」とも呼ばれる。(略)窯業考古学においては、当期の瀬戸窯は県境を挟んで隣接する岐阜県の美濃窯と一体的にとらえて、「瀬戸・美濃窯」と称している。(略)16世紀後半、瀬戸市域における窯炉の存在が確認できず、岐阜県土岐市など岐阜県東濃地域において陶器生産が展開したようである。この現象は(略)「瀬戸山離散」と呼ばれる。かつては戦国の戦乱にともなう陶工の流出と解されてきたが、近年は織田信長による産業経済政策の一環としての陶工の移動と評価されつつある。瀬戸市域における陶器生産の再開は、江戸時代初期における尾張藩と名古屋城下町の成立を待たねばならなかった。(略)

出展:梅本博志 編 『日本史のなかの愛知県』 株式会社山川出版社 2024年5月31日発行 所載の 4章〈中世〉やきもので見る中世愛知 執筆者 小川浩紀・愛知県陶磁美術館学芸員 p.83

補足:つまり、16世紀後半の陶器生産は東農地方で展開されましたが、江戸時代初期、尾張藩の初代藩主・徳川義直が美濃の陶工を呼び戻したことにより、瀬戸で陶器生産が再開した(出典URL: 歴史 | 知る | 瀬戸焼振興協会 (setoyakishinkokyokai.jp))ということです。

6 志野の歴史

志野の降盛期は天正年間(1573-91)から慶長年間(1596-1614)の初頭にかけてのことで、美術史的には安土挑山時代に当たる。この桃山時代には美術工芸の活力が最も充溢し、和物志向が強まり、侘び茶が流行して、陶芸文化が花開いた。志野、瀬戸黒、黄瀬戸、織部が茶の場の美的感性に裏打ちされ、変化に富んだ新しい造形美を展開したといってよい。

慶長以後の陶芸史では、京都でやきものが新しく興隆し、同時に志野陶の内容が低下した。製陶の中心が肥前に移る江戸時代には、釉胎、器形、作風ともに劣り、幕末の加藤春岱(しゅんたい)の志野などもあるが、桃山志野に比べるといずれも冴えが足りない。明治時代以後の志野作りは瀬戸の赤津が中心で、春岱風志野が有名である。(略)

出展:責任編集・大滝幹夫『人間国宝の技と美 陶芸名品集成 一 陶器』 発行2003年7月15日 発行所 株式会社講談社 所載の「日本陶芸小史」執筆者 大滝幹夫 p.158

補足:志野の隆盛期は桃山時代。その後、京焼の興隆と同時に志野の内容は低下。江戸時代から幕末・明治以降、志野の制作は瀬戸が中心だった、ということです。なお、加藤春岱については、瀬戸市美術館で「稀代の名工 春岱」(URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)が開催されました。

7 人間国宝・荒川豊蔵に関する「読み物」

 人間国宝・荒川豊蔵について、古志野の陶片発見後に起きた北大路魯山人との決別や志野・瀬戸黒の再現に至るまでの生活苦の中での粘り強い努力、荒川豊蔵が制作した茶碗の図版などを盛り込んだ記事が下記のURLで閲覧できます。「学術記事」ではなく「読み物」として書かれているので、とても読みやすいですよ。

URL: 美濃桃山陶を再び!人間国宝・荒川豊蔵の『志野再現』と作陶にかけた人生に迫る! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)

Ron.

展覧会見てある記「松本竣介《街》と昭和モダン」碧南市藤井達吉現代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.08.07 投稿

現在、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「松本竣介《街》と昭和モダン」(以下「本展」)を見てきました。以下は、本展のレポート・感想です。

◆本展の成り立ち

美術館の受付で受け取ったチラシには、本展は公益社団法人糖業協会(以下「糖業協会」)の日本近代洋画コレクションと、公益財団法人大川美術館(以下「大川美術館」)のコレクションから選りすぐった約140点による、「昭和モダン」をテーマに構成した展覧会、と書かれています。後で調べると、糖業協会は1936年設立。公益事業として、全国の国公立等の美術館へ所蔵美術品の貸し出しを行っています(注1)。また、大川美術館は桐生市出身の実業家・大川栄二氏が収集したコレクションを中心として1989年に開館した美術館。大川美術館のURLに掲載された大川栄二氏の経歴は、1946年に三井物産株式会社入社、1969年ダイエー株式会社入社・副社長就任後、サンコー(現・マルエツ)社長、ダイエーファイナンス会長を経て勇退、というもの。「会長で勇退」ですから、優秀な社員だったのですね(注2)。

注1 URL:協会概要|公益社団法人糖業協会 (sugar.or.jp)

注2 URL:概要・沿革 | 大川美術館 (okawamuseum.jp)

◆第1章 自然をながめる(展示室1・2階)

〇第1章-1 海と山

本展の入口は2階。第1章は「海と山」から始まります。小振りな作品が並ぶ中、大画面に波が岩にぶつかり、真っ白な波しぶきが高く上がる様子を描いた松田文雄の《海(波)》(1959)が目を引きました。有島生馬は「有島武郎の弟の画家」という知識だけで作品は未見だったので、《春雪》(1940)を見ることが出来て、うれしくなりました。梅原龍三郎の作品は、愛知県美術館の「第2期コレクション展」で《北京紫禁城》(1939)を見たばかりでしたが、本展では《紫禁城の黄昏》(1939)、《桜島遠景》(1956)の2点を見ることが出来ました。本展の図録には「糖業協会の所蔵品はオフィスビルの部屋を飾るために購入、寄贈された作品群とされます」と書いてありましたが、確かに穏やかな気持ちで鑑賞できる多くの作品を見ることが出来ました。

〇第1章-2 くつろぎの庭

「くつろぎの庭」というサブタイトルのとおり、庭を描いた作品が並んでいます。その中で、萬鐵五郎《風景》(1926)と川口軌外《息子・京村のいる風景》(1927頃)は、少し雰囲気が違います。よく見ると、2点とも大川美術館の所蔵でした。2つのコレクションの所蔵品が出品されているので、収集傾向の違いを楽しむことができます。

◆第2章 テーブルの上の物語(展示室1・2階)

〇第2章-1 花の彩り

糖業協会の所蔵品の中に、フォービスムの里見勝蔵《椿》(1935)やシュルレアリスムの福沢一郎《花とてんとう虫》(1974)が入っていました。愛知県美術館の「第2期コレクション展」で見た里見勝蔵《裸婦》(1928-29頃)は激しい色使いの作品でしたが、《椿》は優しい感じでした。この外、三岸節子《花》(1986)にも目を引かれました。

〇第2章-2 静物のささやき

糖業協会所蔵の熊谷守一《玩具》(1957)、笠井誠一《独楽と玩具》(1977)と、大川美術館所蔵の靉光《洋梨》(1942)、川口軌外《静物》(1920)に目を引かれました。静物画では、収集傾向に大きな違いは感じられませんね。

◆第3章 松本竣介(展示室2・2階)

〇第3章-1 街

本展の核となる章です。本展では、松本竣介《街》(1942)だけは撮影、SNS投稿OKでした。大川美術館から出品作は、ほとんどが松本竣介のもので、他の作家の作品は野田英夫《無題(カフェにて)》(1938頃)と清水登之《パリの床屋》(1924)でした。本展の図録によれば、野田英夫はディエゴ・リベラの助手として壁画運動に携り、松本竣介が影響を受けた作家とのこと。《無題(カフェにて)》には《街》との共通点が見えます。清水登之の作品は、名古屋市美術館の「北川民次展」でも見ました。「北川民次展」の図録には「ニューヨークで北川民次と同じ美術学校に通っていた」と書かれていましたね。

なお、本展図録によれば、本展出品の松本竣介《ニコライ堂の横の道》(1941)との出会いが「大川栄二氏が美術収集を始めるきっかけだった」とのことです。

〇第3章-2 モダンガール

糖業協会の所蔵品を中心に女性像が並んでいます。安井曽太郎《女と犬》(1940)と東郷青児《羊飼》(1935)は、いかにも「昭和モダン」という感じの作品で、本展チラシに図版が掲載されています。また、猪熊弦一郎《婦人の像》(1941)はピカソ風の作品でした。以上3点はいずれも糖業協会の所蔵品ですが、長谷川利行《婦人像》(1937)と藤田嗣治《婦人》(1950-55)は大川美術館の所蔵品です。「モダンガール」には松本竣介の作品が数多く出品されており、《婦人像A》(1942)は油彩画、他にデッサンが9点あります。

〇ヨーロッパ留学の画家たち

荻須高徳《ヴェネツィア、リオ・テ・レ・ベカリエ》(1935)始め5点の大川美術館所蔵品を展示しています。

◆第4章 人の形-肖像画から人間像へ(多目的室A・2階)

多目的室Aでは、戦中から戦後の作品を展示。最初の作品は、松本竣介《自画像》(1943頃)です。7月27日(土)22:00に放送された【新美の巨人たち】「松本竣介・立てる像×緒方直人」を思い出しました。番組では松本竣介について、俳優の緒形拳が息子・緒方直人に「名前だけでも覚えておけ」と言った話や緒形拳が松本竣介の遺族宅を2度訪れて、遺されたデッサンを熱心に見ていた話が紹介され、《立てる像》を所蔵している神奈川県近代美術館の長門佐季・館長も出演していました。

この外、印象に残ったのは、戦死した息子を描いた清水登之《育夫像》(1945)、福沢一郎《作品》(1957)、秀島由己男の油彩画《コマと太郎》(1978)と版画5点(1972~1989)、浜田知明の《初年兵哀歌(歩哨)》(1952)を始めとする版画10点などです。浜田知明の作品は、三重県立美術館で開催された「シュルレアリスムと日本」でも《初年兵哀歌-風景(一隅)》(1957)他1点を見ました。

◆第5章 まだ見てない「かたち」 ― 幻想と抽象(展示室3・1階)

第5章は、全て戦後の作品。猪熊弦一郎《Hill》(1956)や桂ゆき《作品》(1965)などの抽象画や瑛九の幻想的な版画などが並んでいます。

◆令和6年度コレクション展2期「墨色百景」(展示室4・1階)

展示室4は、藤井達吉の作品を展示しています。出品作は10点ですが、うち2点は着物。松葉を描いた《白地松葉散し着物》と梅を描いた《白地梅絵着物》です。どちらの着物も袖から背中まで柄が繋がり、見事な仕上がりでした。作品の解説については、スマホアプリ「ポケット学芸員」のお世話になりました。

◆鑑賞を終わって

本展では、最近見た三重県立美術館「シュルレアリスムと日本」、名古屋市美術館「北川民次展」、愛知県美術館「第2期コレクション展」、テレビ愛知【新美の巨人たち】で見た作家の作品との出合いがありました。不思議な縁を感じますね。

◆美術鑑賞の後は

当日は、あまりに暑くて冷たいものが欲しくなり、道を横断して西に進んだ「K庵」で、かき氷を味わいました。「季節のおすすめ」3種(柚子みりんシロップのかき氷、いちごとみりん粕ミルクのかき氷、みりん粕クリームとほうじ茶のかき氷)の中から、好きなものが選べます。温かいほうじ茶もセットなので、有難いです(注3)。入口に予約機があるので、大人・子どもの人数を入力し、予約ボタンを押すと予約番号を印刷した紙が出て来ます。順番待ちの行列に並ばなくても良いので、番号を呼ばれるまで、お土産を物色することが出来ました。

注3 URL:K庵|九重味淋株式会社 (kokonoe.co.jp)

Ron.

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