生誕100年 中村正義展ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

 令和7年2月22日、今年何度か目の寒波が訪れる中、生誕100年中村正義展が豊橋市美術博物館にて開幕を迎えました。午前中は、豊橋ではかなり珍しいであろう降雪のせいか、会場は閑散としており、そんな中でも学芸員の丸地加奈子さんの解説が1階の展示室でスタート。大きく5章に分けられた中村正義の作品、そして正義に関わった作家たちの作品について、エピソードなどを交えながら解説してくださいました。

 日展に入選した初期のころから、蒼野社時代、一采社などの時代の活動について、更には自身が病に侵されて変わっていく画風についてなど、時間が限られる中、興味深い解説をしていただきました。

 午後には、作家の長女で中村正義の美術館館長の中村倫子さんと、われらが名古屋市美術館にて中村正義の展覧会を担当して開催してくださった山田諭氏との対談が行われ、午前中とはうって変わって会場には入りきらないほどの聴衆が集まりました。対談では、作家について、更に深く解析、解説していただき、長女倫子さんからは様々なエピソードも紹介されました。

 この展覧会では、その後も毎週豪華なゲストによるトークが開催、予定されています。

太田龍峰会長を偲んで

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

去る2月13日、協力会の太田龍峰会長が逝去されました。1週間ほど前に心筋梗塞で倒れられ、そのまま意識を回復することなく旅立ってしまわれました。あまりに突然のことで、ただただ茫然とするばかりです。
 太田さんは名古屋市美術館の副館長を2年間勤められ、その間私は学芸課長としてお仕えしました。最初お会いした時は、少し怖い方かなと思ったのですが、すぐに皆さんおなじみの笑顔を見せられ安堵したのを覚えています。ただ、その後市役所の方に伺ったところでは、若い頃はずいぶん厳しい面もお持ちだったようで、年齢を重ねられる中で穏やかになっていかれたことを知りました。私がお仕えした2年間は、厳しいお叱りを受けることもありませんでしたが、議会対応などで夜遅くまで、何度も本庁にご一緒したことが記憶に残っています。
記憶に残ると言えば、私は健康のためもあり、金山駅から美術館まで歩いて通っていた(現在も)のですが、途中でしばしば太田さんの姿をお見かけすることがありました。美術館まで一緒に話をしながら歩くこともあったのですが、その折、市役所に勤務されていた時は、金山から市役所まで歩いていたとお聞きして、さすがに驚いたことを覚えています。健脚もそうですが、それを続けていられたことに感服しました。
定年退職後に美術館の協力会にお入りになり、令和3年度からは会長として精力的に活動されておられました。このブログをお読みになっていらっしゃる方はよくご存知だと思いますが、美術展の紹介はもちろん、美術に関連する雑誌や新聞の記事の紹介、映画の感想など、本当に幅広く、かつ積極的に美術に触れておられ、またその文章の記述の詳細なことは驚くばかりでした。当館での講演会や解説会などでも、熱心にメモを取られながら聴き入る姿が今も目に焼き付いています。
あれほどお元気で精力的な太田さんが、こんなにあっという間に他界されてしまったことが、未だに信じられません。人の命のはかなさをつくづく思い知らされますが、はかないからこそ、今を大切に生きていかなければならないことを伝えてくださったのだと思います。心からのご冥福をお祈りいたします。 (名古屋市美術館参与・深谷克典)

「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館(以下「市美」)で「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展(以下「本展」)が開催されています。1月24日(金)付・中日新聞「Culture欄」に本展の特集記事が掲載されていましたね。
さて、3週間ほど前になりますが、1月11日(土)に開催された協力会向けギャラリートークに参加しましたので、レポートします。ギャラリートークは、17:00から18:00まで開催され、参加者は〇〇名でした。講師は久保田舞美学芸員(以下「久保田さん」)。受付は2階講堂で、開始時刻の17:00に1階へ移動。展示室の中で久保田さんのギャラリートークを聴き、その後は自由観覧・自由解散でした。
以下は久保田さんのトークの概要を箇条書きにして、私の補足・感想を加えたものです。

◆久保田さんのトークの概要
1 エントランス・ホールでのトーク
・本展は30年ぶりの大回顧展です(補足:前回は1995年。静岡、東京、京都で開催)。
・ジャン=ミッシェル・フォロン(以下「フォロン」)は、もともと建築家志望。ブリュッセルの芸術学校で学んだ後、1960年に彼の描いた作品が米国の雑誌『ザ・ニューヨーカー』『タイム』などの表紙に掲載されて、広く名前が知られるようになります。その後、イタリア「オリベッティ社」のタイプライターのポスターを手がけました(補足:1970年に開催の、日本初となるフォロン展は、毎日新聞社とオリベッティ社の共催でした)
・フォロンはマルチアーティスト。本展では230点を紹介。本展の構成は、年代順ではなく、「空想旅行」という趣向で、テーマ別に章立てをしています。
・本展の巡回先は、①東京ステーションギャラリーから始まり②名古屋市美術館、③あべのハルカス美術館の3館です。

2 プロローグ 旅のはじまり(1階)
・本展のタイトル「空想旅行案内人」(AGENCE DE VOYAGES IMAGINAIRES)は、フォロンが使っていた名刺の肩書によるものです。最初に展示の《二重の視覚(千里眼)》は、眼鏡をかけて空想の旅に出発しようと、来場者を誘っている作品。(補足:コート姿でシルクハット、眼鏡の案内人は“リトル・ハット・マン=Little Hatted Man”とのこと)
・「プロローグ」には、コートを着た人物の頭部に、金属製のフックをコラージュした《無題》を始めとして、日常の物を顔に見立てた作品が多数展示されています。その中には、頭部がドリルの先端になった彫刻もあります。
(感想:以上の外、人の顔のように見える建物やドア、スイッチ、蛇口などを撮影した写真の数々にも目を引かれました。ゼンマイ式掛け時計に使うネジ巻きのハンドルのようなモチーフを描いた作品にも興味が湧きました)

3 第1章 あっち・こっち・どっち?(1階)
・この章では、思考を惑わせる沢山の矢印が登場。フォロンは、矢印だけでなく堅牢な都市のビルも描いています。
・フォロンはルネ・マグリットの《見せられた領域》という壁画に出会い、絵が世界を再発見させてくれることを知ります。
(感想:フォロンの作品にシュールな感じがするのは、ルネ・マグリットの影響を受けているからだと思いました。作品を理解するには、絵が問いかけて来る謎を解く必要があると感じましたね)

4 「第2章 なにが聴こえる?」(1階)
・この章では、現実の世界で起こっている出来事、戦争や環境破壊などのほか、宇宙についても描いています。
・白と黒のシンプルなドローイングを描いていたフォロンは、最初の妻であるコレット・ポルタルに触発されて美しい水彩画を描くようになります。シンプルで、マンガっぽい表現。
(感想:荒波に飲み込まれそうになる船を描いた《波》は、北斎《神奈川沖浪裏》を想起させる作品でした)

5 「第3章 なにを話そう?」(1階・2階)
第3章のトークは2階。主にポスターと「世界人権宣言」の解説でした。
・フォロンはオリベッティ社のためにタイプライターのポスター原画を描いただけでなく、アニメーションも制作。また、オリベッティ社の外、「死刑反対」「人種差別反対」、美術展、映画、音楽祭などのポスター原画も手がけました。
・「世界人権宣言」の挿絵は、人権宣言の内容をイメージで表現したものです。なお、「世界人権宣言」の日本語訳は谷川俊太郎が手がけています。
(感想:タイプライターのポスターについて、最初見た時は何も感じなかったのですが、自由観覧のときに間近で見たら、何と、タープライターのキーボードの部分にタイピングをしている人物がひしめいていました。びっくりです)

6 「エピローグ つぎはどこへ行こう?」(2階)
・この章には船の絵がいくつも出品されています。船と言えば、フォロン自身も“ブルー・シャドウ=Blue Shadow”と名付けた船にアトリエを作っていました。展示室の壁に映している映像作品「イメージの誕生(水彩画制作風景)」でも船を描いています。
・人の眼のような太陽が人物を見つめる《対話》は、フォロンの実体験を描いたものです。
(感想:フォロンが1970年開催の大阪万博で来日し、箱根・宮ノ下や東京から友人に送った《メイル・アート》(複製)は、封筒に「太陽」という文字の印鑑が朱肉でいくつも押されるなど、ユーモア溢れる作品でした。また、久保田さんが解説した《対話》を始めとする、最後の部屋に展示されている作品の数々は風景画というよりも、フォロンの心象風景を描いたものだと感じました。参加者の多くはいつまでも作品を眺めていましたね)

最後に
フォロンについては全く知りませんでしたが、1970年には来日していたのですね。不思議な作品が多く、その一つ一つに新鮮な発見がありました。お勧めです。
Ron

2025オリジナルカレンダーのお知らせ 横野明日香氏

カテゴリ:オリジナルカレンダー 投稿者:editor

2025年協力会オリジナルカレンダーの作家は、横野明日香氏に決定しました。
横野明日香氏は愛知県出身で、愛知県立芸術大学美術学部油画、同大学院美術研究科博士前期課程油画・版画領域を修了。現在も、愛知県で制作を続けています。
名古屋市美術館で2021年に開催された「現代美術のポジション2021-2022」と、翌年の国際芸術祭「あいち2022」にも参加しており、ご存じの方も多いと思います。

会員の方には、順次発送させていただきます。お手元に届くまで、少々、お待ちください。

横野 明日香 ≪立ち上がる風景≫ 2024 ed.143

作家の言葉
立ち上がる風景シリーズは、具体的な風景の再現ではありません。これまで描いてきた風景の記憶や、キャンバスの形、しっくりとくる手の動きや色選び、それらが合わさって一つの風景が立ち上がります。様々なモチーフを描くようになってから、タッチに柔らかさが出てきたように思います。キラキラとした水面のゆらぎは、その成果だと自分で思っています。

横野明日香氏プロフィール https://www.yokonoasuka.com

「没後100年 富岡鉄斎」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2024.11.17 開催 

2月17日(土)に名古屋市美術館協力会主催のミニツアーが開催され、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。美術館で開催中の展覧会は「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」(以下、「本展」)で、ミニツアーの参加者は7名。前半は美術館の豆田誠路学芸員(以下「豆田さん」)のギャラリートークで、後半は自由観覧となりました。以下は、そのレポート、(注)は私の補足です。

◆「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」のギャラリートーク(午後1時~1時40分)

集合場所は美術館1階ロビー。定刻の午後1時、参加者は豆田さんの案内で2階ロビーに移動し、豆田さんのギャラリートークが始まりました。

〇2階ロビーでの解説

豆田さんによれば、富岡鉄斎(以下「鉄斎」)は1924年(大正13)12月31日、数え89歳で逝去。2024年12月31日で没後100年になる、とのことでした。生家は京都の洛中の商家で、石門心学(注:江戸時代の思想家・石田梅岩が町人に説いた倫理・道徳)を重んじていた。鉄斎は石田心学を基本に、儒学、漢詩文、国学などを学び、特定の師はいないが文人(注:教養ある知識人)のたしなみとして絵を描いた。儒者であって専門の画家ではないが、文人画家として認められていた、と解説されました。

〇2階展示室1

・序章 鉄斎の芸術 画と書

 豆田さんによれば、本展の「序章」は入場者に鉄斎の芸術の全貌をつかんでもらう章。最初の展示は、正宗得三郎の油彩画《富岡鉄斎像》(1925)でした。鉄斎逝去の翌日に鉄斎邸に駆け付け、約一か月後の2月3日、この肖像画を家族に贈った、との解説でした。次の《扶桑神境図》(1924)は89歳の時の作品。豆田さんは「90歳の落款があるので、数え90歳を目前にした時期に制作した作品。日本の理想郷を描いている。画面下部の岩で出来た門のような所が理想郷の入口」との解説がありました。

(注)《扶桑神境図》の画賛前半「九十行栄啓期 太平多樂幸男児」という文は、鉄斎の絶筆とされる作品でも書かれ、「私は栄啓期と同じ90歳まで長生きし、太平の世に楽しみの多い幸福な男子」という意味で、栄啓期は中国・周代の隠者。孔子と出会い長寿の喜びなどを説いた伝説上の人物です。鉄斎は年末までいくつかの作品の制作に取り組み、大みそかに医者と談笑し、うどんを医者にすすめ、自らも食して眠り、そのまま帰らぬ人になったとのことです。(出典:2024年3月3日付の日本経済新聞)

《大田垣蓮月肖像》(1877)は、鉄斎42歳の作品です。豆田さんによれば、大田垣蓮月は夫と子どもに先立たれ、二人目の夫と死別後33歳で剃髪して蓮月と号した。和歌と書に優れ、自作の和歌を彫った茶碗を売って生計を立てていた。鉄斎の父・維叙は蓮月の知り合いで、蓮月から相談を受け、鉄斎20歳、蓮月65歳の頃、鉄斎が蓮身の回りの世話をすることになった、とのことです。序章には、この作品の外、蓮月が茶碗を作り、鉄斎が茶碗筒を作った《秋草図選煎茶碗/茶碗筒》も展示されています。ツアー参加者から「小振りの茶碗ですね」という声が上がると、豆田さんは「煎茶碗は小振りなんですよ」と答えていました。(注)大田垣蓮月については、蓮月と鉄斎 というURLが参考になります。なお、煎茶道は、中国の文人茶の影響を受けており、知識人や芸術家が自然の中でお茶を楽しみ、書画をたしなみながら談笑する場として発展。その発展には、隠元禅師、売茶翁(ばいさおう)や石川丈山などが重要な役割を果たしたそうです。(出典:URL:煎茶道とは?茶道の違いや歴史について解説 | みんなの日本茶サロン

 序章の見どころは6曲1双の屏風《高士隠栖図・松雪僊境図》(1870)、鉄斎35歳の作品です。豆田さんによれば、この作品も理想郷を描いたもの。序章に展示の《携琴訪友図》(鉄斎30歳代の作品)と同様、若い頃の鉄斎は蓮月の影響を受けており、賛文は細い文字で書かれているとのことです。屏風左隻の《松雪僊境図》には「大酔してこの絵を描いた」という内容の賛が書かれており、文字が途中から大きくなっている、とのことでした。

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究

 《鯉魚図》(1914)について豆田さんが「急流を登った鯉は龍になるという伝説がある」と解説したところ、ツアー参加者から「この鯉には龍になる雰囲気が見られない」という声が上がり、豆田さんは「急流を登る前の鯉を描いているのです」と返していました。確かに、のんびりとした表情の鯉です。

 《通天紅葉図》(1882)について、豆田さんは東福寺・通天橋の紅葉を描いたもので、禅僧の売茶翁(ばいさおう)が河原で煎茶を振る舞っている様子も描いています、と解説がありました。

(注)第一章にも同じ内容の《高遊外売茶図》(70歳代)を展示。売茶翁は煎茶道具を担って歩き、人々に煎茶を供した禅僧で、伊藤若冲・池大雅とも交友があり、2021年1月2日にNHK総合で放送されたドラマ(2024.11.02再放送)『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』にも登場していました。

〇2階展示室2

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究(つづき)

 《蝦夷人熊祭図》(70歳代)について、豆田さんは「鉄斎は北海道に渡っているが、海岸線に沿って移動しているので、熊祭は見ていないと思われる。多くの文献を読み、人からの話も合わせて、この作品を描いた、と解説。《嫦娥奔月図》(1923)については、夫が得た不老不死の薬を妻が盗み飲んで、月に逃げて仙女の嫦娥になったという話を描いた作品、と解説。《不尽山頂上図》(1920)について豆田さんは、画面左の「表口頂上之印」は鉄斎が登頂して受けた朱印ではなく、京都虎屋が登頂した時の記念。鉄斎自身は1875年、40歳の時に登頂しており、その時の記憶を元に富士山頂の様子を書いた、と解説されました。

〇2階多目的室

・終章 鉄斎の到達点 老熟と清新

 2階での解説の最後は、三幅対の《西王母図》《瀛州仙境図》《福禄寿図》(いずれも1923)。豆田さんは、この三幅対は碧南市の大浜地区で味醂製造業を営む石川八郎右衛門家の25代・石川三碧の80歳、夫人70歳に達したことを祝って描かれたもの。右の仙女・西王母は三千年に一度実をつけるという桃を持ち、印章の文字は「子孫千万」、中央は神山、左の老人は寿老人で、右手に長寿のシンボル桃を持ち、左には寿命を記した巻物付けた杖。画面右の蝙蝠は「福」と、画面左の鹿は「禄」と同音。寿老人の「寿」とあわせて「福禄寿」。三幅対いずれも、縁起の良いものを描いている、と解説されました。

〇1階 展示室3

・第一章 鉄斎の日常 多癖と交友(つづき)

 1階・展示室3は、第一章のつづきの展示。《西王母図》に押印された「子孫千万」の印章も展示されていました。「桑名鉄城刻/富岡鉄斎造/四代清水六兵衛焼」と書いてあります。陶磁器の印でした。

〇1階 ロビー 「富岡鉄斎と碧南」パネル

 ギャラリートークの最後は1階ギャラリーのパネル「富岡鉄斎と碧南」です。富岡鉄斎は1889年8月に石川三碧邸に逗留し、1895年にも滞在している、との解説がありました。パネルには、富岡鉄斎が逗留した石川三碧邸(九重味醂)の写真なども掲載されていました。

◆自由観覧とその後

ギャラリートークを聴いた後は、自由観覧。四代清水六兵衛と関係する展示は印以外にも3点ありました。清水六兵衛窯HPの「歴代 清水六兵衛(URL: 歴代 清水六兵衛 | 六兵衛窯 (rokubeygama.com))を見ると、「とくに富岡鉄斎とは深い交遊があり、そこから多くの共作も生まれた」と書かれていました。

 自由観覧後は、九重味淋直営レストラン and カフェ K庵で、期間限定・本展とのコラボスイーツ「みりん黒ごまぷりん」を注文。本展観覧券を提示して、50円割引の600円で味醂の甘さを味わいました。おいしかったですよ。

Ron.

名古屋市美術館協力会  秋のツアー2024(岐阜) 

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 2024.11.09開催 



119日に名古屋市美術館協力会秋のツアー(以下「ツアー」)が開催されました。目的地は岐阜県現代陶磁美術館(岐阜県多治見市:以下「陶磁美術館」)とせきがはら人間村生活美術館(岐阜県関ケ原町:以下「生活美術館」)です。目的地はいずれも岐阜県で近いため、集合時刻は午前815分でした。予定時刻に同行も含めた参加者23名が名古屋駅太閤口広場に集合したので、予定時刻2分前の828分にバスは発車しました。



ツアーの添乗員はJR東海ツアーズの服部さん、ツアー同行は山田諭さん(以下「山田さん」)です。山田さんの同行は2016年「秋のツアー箱根」以来。8年ぶりです。当時は名古屋市美術館学芸課長。翌年、京都市美術館に異動。京都市美術館を退職後、現在は県内にお住まいなので同行を引き受けて下さいました。



往路:渋滞したものの、到着時刻はほぼ予定通り



 往路は名古屋都市高速道路、東名高速道路、中央自動車道を通過し、多治見ICから陶磁美術館に向かうという経路。早く着きすぎるため内津峠PA20分休憩したのですが、何と多治見IC2km前から渋滞。「陶磁美術館の開館時刻(午前10時)に間に合わないのでは」と、大いに焦りましたが、なんとか10時ギリギリに入館できました。運転手さんの話では「イオンモール土岐に向かう車が多いのが渋滞の主因」とのことです。



岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」10001100



陶芸美術館のバス停から陶芸美術館までは、シデコブシの群生地を跨ぐ橋とトンネルを歩きました。山田さんは「陶芸美術館は、アプローチが素晴らしい」と話していましたが、山田さんが言われたとおり、異郷に向かっている感じのアプローチです。トンネルを抜けると、眼前には美濃の山並みが広がっていました。



陶磁美術館は、地上3階・地下1階の複合施設セラミックパークMINO(以下「セラミックパーク」)の2階。セラミックパーク3階のエントランスホールからエスカレーターで降りると、陶磁美術館の岡田学芸員(以下「岡田さん」がお出迎え。「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)のギャラリートークが始まりました。岡田さんによれば、荒川豊蔵は抹茶茶碗のスーパースター、安土桃山期が黄金時代で、明治以降には廃れてしまった志野・瀬戸黒を復興した作陶家とのこと。本展では美濃焼の展示に加え、荒川豊蔵の絵(絵描きを目指しており、絵が上手だった)と人間的な全体像を紹介、との解説でした。



〇Ⅰ.プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵



最初の部屋は、荒川豊蔵の代表作を展示しています。岡田さんは、白い円筒状の《志野山の絵水指》や真っ黒で指跡の付いた《瀬戸黒茶垸(ちゃわん)》などの代表作を紹介し、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒で人間国宝(注:正式には「重要無形文化財技術保持者」)に指定された、と解説。また、灰色の地に白い鶴が描かれた《志野鶴絵茶垸》については「鉄釉を掛けてから、鶴の絵を掻き落とした鼠志野」と話されました。



なお、解説はありませんでしたが、茶釜型でピンク色の《志野山の絵水指》は可愛いやきものでした。



〇Ⅱ.東山窯と星岡窯 やきものに優美なのがあるのを知る



通路には、初期作品の展示がありました。岡田さんは「荒川豊蔵は絵が得意だったので、宮永東山窯(みやながとうざん)と北大路魯山人の下で磁器の絵付けもした」と解説。京都・深草の宮永東山窯や北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯(ほしがおかがま)で焼成した磁器を見ることが出来ました。



〇Ⅲ.荒川豊蔵の陶芸



次の部屋には荒川豊蔵が描いた大画面の《古志野発見端緒の図》《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》が展示されています。岡田さんは、その絵の前で「志野・瀬戸黒は、桃山期の作品は残っているものの、明治には作られていない。尾張の港から積み出されたので「瀬戸で制作」と思われていたが、昭和9年(1934)に大事件が起きる。荒川豊蔵が美濃・大萱(おおがや:現在の可児市大萱)で志野の陶片を発見し、志野は美濃で焼かれていたことが判明した。荒川豊蔵は志野の復活に取り組むが、手がかりは陶片だけなので、志野が焼成できるようになるまで数年を要した。荒川豊蔵の作品は、伝統の復活に作家の個性、創意も加えた芸術的なスタイル持っている。また、地元からは荒川豊蔵の後を追って多くの陶芸家が育った(補足:陶芸美術館は「人間国宝 加藤孝造 追悼展」(11/302025/03/16)「卒寿記念 人間国宝 鈴木蔵の志野展」(2025/03/2906/10)を開催予定)」と解説。



岡田さんは荒川豊蔵の作品を「オリジナル+クリエイティブ」と評しましたが、焼成中に裂けた《黄瀬戸破竹花入》は、まさに意表を突く作品です。「裂けた花入れでは水が漏れるのに、どうやって花を生けたのでしょうか」と山田さんに尋ねたら「竹筒を使う」との答え。竹籠を使って花を生ける時と同じ方法でした。



岡田さんに「織部が見当たりませんね」と尋ねたら、「織部は簡単だからやらない」との答え。「志野は水が漏れやすい、瀬戸黒は焼成中に窯から取り出して水で急冷させて黒色にする。ゆっくり冷やすと黒くならず茶色になってしまう。急冷するので割れることが多い。釉薬に異変がなくても中にヒビが入っていて、使用中に割れることもある。萩焼も焼きがあまくて水漏れしやすいが、水が滲みて器の表情が変わるのを『かせ』と呼んで珍重する。志野は薪を使う窯でないと焼成できないが、薪を使う窯以外で志野を焼成したのが鈴木蔵(おさむ)。彼は天才だよ」と、話が続きました。



〇Ⅳ.暮らしとともに 水月窯と大萱窯



岡田さんによれば、荒川豊蔵は戦後、一般向けのやきものを焼成するため、多治見市虎渓山町に連房式の新たな窯・水月窯(すいげつがま)を築く。可児市の大萱窯は薪を使う大窯で量産はできない。水月窯は量産が可能で、一般向けの磁器も焼成できた。一時休止したが孫弟子の水野繁樹さんが継いでいる、とのことでした。



水月窯の製品では、《染付扇面詩文山水画向付》や《梅花文汲出》が目を引きました(補足:汲出(くみだし)は和菓子を食べるときや来客時に茶托とセットで使う半球形の煎茶用茶器。湯呑は円筒形のものを指します)。



水月窯については次のURLをご覧ください。URL Home |
suigetugama
URL
suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp)



〇Ⅵ.交友 芸術家との共作、五窯歴遊



萩焼、信楽焼、丹波焼、肩津焼、備前焼の窯元を訪ねて焼成した作品を展示しています。岡田さんは「Ⅲ章の展示ですが、荒川豊蔵は萩焼の第10代三輪休雪(隠居後は、休和)備前焼の金重陶陽、陶芸家・実業家の川喜多半泥子の4人で“乾比根(からひね)会”を結成して交友を深めた。萩焼・備前焼とは焼成方法や作風が違うものの、“古典の復興“という共通点があったため、交友を深めた」と、解説がありました。



〇自由鑑賞1035-1100



 ギャラリートークの時間が30分近くになったため、Ⅵ章で岡田さんの解説は終了。参加者各人の自由鑑賞となりました。岡田さんが「Ⅲ章の展示」と話していたのでⅢ章に戻ると、《半泥子宛書簡(千歳山訪問の礼状》《師匠友誼図》を展示。《師匠友誼図》の解説には「三重県津市千歳山の川喜多半泥子宅で作陶連盟乾比根会を結成」と書かれていました。その後、陶芸美術館のギャラリーⅡで開催中の「美濃のラーメンどんぶり展
The Art of RAMEN Bowl」(内容は、下記URLのとおり)を見ていたら、1050分を過ぎたので駐車場のバス停まで駆け足で戻り、何とかバス発車の11時に間に合いました。「美濃のラーメンどんぶり展」のURLは、以下の通り。



URL: 岐阜県現代陶芸美術館 | 美濃のラーメンどんぶり展 The Art of
RAMEN Bowl



食事会場までの車内では11001200



 出発後、国道19号に入ると、反対車線は依然として渋滞。イオンモール土岐の集客力には驚きました。



 多治見ICから中央自動車道に入ると、山田さんのトークが始まりました。山田さんは、今夏に陶芸美術館で開催された「リサ・ラーソン展」を見たとのこと。陶芸美術館の岡田さんについては同年齢で、岡田さんが岐阜県立美術館の学芸員だった時「荒川修作研究会」を立ち上げ、月1回ペースで意見を交わした仲だったとのことです。「展覧会の名前は違うけれど、同じ“荒川”つながりで、旧交を温めることが出来た」と喜んでいました。



 ツアー参加者から「陶磁美術館では、もう少し自由鑑賞の時間が欲しかった」との声もありましたが、食事会場の予約時刻や移動時間を考慮すると、陶磁美術館の滞在時間は10001100がギリギリだったようです。



昼食:関ケ原ウォーランド・Sekigahara 花伊吹12001320



 「昼食会場までの所要時間は80分ほど」の予定でしたが、バスの運行が極めて順調だったため、予定時刻より20分早い1200に到着。「近江牛・飛騨牛食べ比べ」のすき焼きを楽しみました。すき焼きを食べ始めた時は、協力会しか居ませんでしたが、食べ始めると次々に団体客が入り、たちまち満席になりました。ツアーを企画したMさんの話では「食事会場の選択肢が、他に無い」とのことでした。



 予定より20分も早く昼食が始まりましたが、次の見学先・生活美術館の受け入れ態勢が整うのが1330なので、ツアー参加者は1320までSekigahara 花伊吹の売店での買い物などを楽しんで過ごしました。



◆生活美術館13301600



昼食会場から向かったのは生活美術館ではなく「関ケ原製作所」の駐車場です。バスが停車すると、生活美術館のスタッフが出迎えて下さいました。「関ケ原製作所って、何の会社?」という疑問や「何故、関ケ原製作所の駐車場に生活美術館のスタッフが?」という疑問を抱えたまま、徒歩で生活美術館に向かいました。



〇せきがはら人間村財団理事長のレクチャーと紹介ビデオ13401410



関ケ原製作所を出て国道365号を北に向い、関ケ原製作所の敷地北東の生活道路を西に進み、向かって左(道路の南)にある民家の切れ目を左に曲がると人間塾の建物が見え、その周囲がニイヅマガーデンでした。



ツアー参加者が案内されたのは、人間塾の2階。講義室のような部屋です。生活美術館の側はせきがはら人間村財団(以下「財団」)の福本武彦理事長(以下「理事長」)と「せきがはらゼネラルサービス」の山口さん、松原さんの3名が出席されました。理事長のレクチャーと紹介ビデオの内容によれば、生活美術館の母体は関ケ原製作所。関ケ原製作所の創業者は「矢橋(やばし)大理石株式会社」の創業者一族である矢橋五郎(やばしごろう)で、1946年に「関ケ原産業株式会社」の名称で日本国有鉄道向けの軌道用機器生産を開始したのが始まりで、現在は、油圧機器、商船機器、鉄道機器など7つの事業部門があるとのことです。



財団設立のきっかけは、3度の危機。1978年の石油ショック、1988年の円高不況、1996年のバブル崩壊です。二代目の社長矢橋昭三郎は「不況は仕方ないが、せめて明るく愉しい生活を送ろう」と、1988年にフランスの彫刻家ピエール・セーカリーに彫刻の制作を依頼。以来、2000年に平和の杜、2005年に人間塾、2018年に未来食堂、2021年にCafé Mirai 等、施設を充実させてきた、とのことです。



〇せきがはら人間村の散策14151600



・蔵ミュージアム



山口さんの先導でニイズマガーデンを抜けて「蔵ミュージアム」に向かいました。「蔵ミュージアム」は中で左右に分かれており、入口を入ると渡り廊下に近持イオリの彫刻《水の家》、向かって右の部屋は全体が若林奮のインスタレーション《胡桃の葉Ⅱ》。渡り廊下に戻り、次の部屋に入ると、若林奮の彫刻に加えて、スペインの彫刻家エドゥアルド・チリーダの彫刻と李禹煥の絵画。奥の部屋の床には大理石を彫った古郡弘の《Banco 盤古》。壁に取り付けられた250kgの重さの古郡弘《Ermafroid 両性具有》は向かって左が女性、右が男性とのこと。庭に出ると新妻実の彫刻《地平線》。素材はインド産御影石で「触ってもよい」とのことでした。



・生活美術館本館エリア



次に向かったのは「生活美術館本館エリア」。最初に目に入ったのは、庭に置かれた若林奮のブロンズ作品《自分の方へ向かう犬I》でした。生活美術館本館では「Homage to MINORU NIIZUMA」を開催中で、新妻実の彫刻の外、高松次郎、関根伸夫、若林奮、李禹煥の作品を展示でした。解説はありませんでしたが、何れも抽象美術なので、ツアー参加者は各人の感性に従って、作品を楽しんでいました。



 生活美術館本館を出ると、前面に観音開きのガラス製扉がある立方体の建物があります。名称は「地蔵堂」で、中には若林奮の彫刻《近い縁Ⅰ》が置かれています。丁度、矢橋昭三郎氏がツアー参加者の様子を見に来られたので、矢橋昭三郎氏を交えて「地蔵堂」の前で記念写真を撮影。最後、生活美術館本館エリアを出るところで見たピエール・セーカリー《Dragon family》は苔むし、草も生えています。設置以来の歳月を感じました。



・創業者邸



「生活美術館本館エリア」から少し歩き、細い道を横断するとcafe mirai と「創業者邸」があります。芝生の上にあったのは李禹煥《関係項-応答》。自然石と分厚い鉄板が向かい合っている作品で「石と鉄が対話しているので設置した」とのことです。石材会社と鉄鋼会社を興した創業者=八橋五郎の姿と作品が重なりますね。



・古戦場を歩き、平和の杜へ



創業者邸から南に道があります。向かって左は「せきがはら人間村」の敷地ですが、右は「島津義弘陣跡」と神明神社の杜があります。しばらく歩くと、世界平和を祈るモニュメント、ピエール・セーカリー《関ケ原》が現れました。鎧武者の頭部を思わせる彫刻が10個。通常は下から4個、3個、2個、1個の順で4段に積み上げるのでしょうが、4段目に彫刻は無く、1段目が5個となっています。ツアー参加者のHさんが「4段に積み上げると一番上の1個が全体を支配する姿になる。1番上の1個が無いのは、10個が協調して平和を守る形になるから、と聞いたことがあります」と話すと、山口さんから「その通りです」と、お誉めの言葉がありました。



 南に向かう道を更に進むと左右をススキに覆われ、まさに「一本道」になります。右側のススキの向こうには「関ケ原古戦場開戦地」と書かれた幟(のぼり)。赤い井筒(「井」の字)を染め抜いた井伊家の幟も見えました。



・散策のゴールへ



 一本道を左に曲がると「未来食堂」が見えてきます。せきがはら人間村の敷地に戻り、北へ向かうとピエール・セーカリーの彫刻《ムッシュライオン & マダムライオン》がお出迎え。芝生広場の向こうには、インド・ネパール・日本の彫刻家が制作した《アジアの苑》。そして、散策のゴールは李禹煥《関係項-アーチ・関ケ原》。自家用車で来ると《関係項-アーチ・関ケ原》が入口になるようです。なので、芝生広場に向かって、《関係項-アーチ・関ケ原》を背に、記念写真を撮影しました。山田さんからは《関係項-アーチ・関ケ原》について「鉄のテンションを石が受け止めている形。石と鉄は押し合っている」との解説がありました。



なお、せきがはら人間村関係のURLは次のとおりです。URL: 人間村について|せきがはら人間村



名古屋駅までの車内では16001710



 予定では1530の出発でしたが、ツール参加者が熱心に鑑賞するので山口さんのテンションも上がり、予定時刻を30分オーバー。でも、楽しく過ごせたのでOK。山田さんもトークで「スタッフが楽しんで案内しているのが素晴らしかった。」と絶賛していました。山田さんは、年明け後に見るべき展覧会として、豊橋市美術博物館の「生誕100
中村正義展」(2.223.30)を挙げていました。協力会のミニツアーで行けると良いですね。



 帰路は、関ケ原ICから名神高速道、小牧ICで名古屋都市高速道路に入り、黒川出口から一般道という経路。行楽帰りの車両の影響で速度が少し落ちましたが、名古屋駅太閤通口着は1710。発車時の30分遅れを20分縮めました。



最後に



天候に恵まれ、事故もなく、バスの車内では山田さんのトークを8年ぶりに聴くことが出来ました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバーさま、参加された皆さま、ありがとうございました。



Ron.



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