展覧会見てある記「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」豊橋市美術博物館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.07.15 投稿

先日、豊橋市美術博物館(以下「豊橋市美」)で開催中の美術展示Ⅱ「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」を見てきました。先ず、豊橋市美までのアクセス、次に美術展示Ⅱの概要について書き、最後に、同時開催の「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」にも触れます。

◆豊橋市美までのアクセス

JR豊橋駅・名鉄豊橋駅から豊橋市美までは「市電」の愛称で親しまれている豊橋鉄道東田(あずまだ)本線(市内線)(以下「市電」)に乗車し、「市役所前」で下車するのが便利です。市電は7分~8分間隔で発車。「市役所前」は「駅前」から4つ目、発車から約7分で到着します。「市役所前」から豊橋市美までの所要時間は約5分です。市電乗り場は豊橋駅2階から続くペデストリアンデッキの下。電車マークのある階段を降りれば、市電「駅前」の乗り場です。運賃は均一料金で大人200円。ICカード(MANACA又はTOICA)なら、運賃箱のIC読み取り機にタッチするだけでOK。歩くことが好きな人でしたら、徒歩約25分~30分で行けます。

◆美術展示Ⅱ「挑む女たち~芥川紗織を中心に~」(1階 展示室4 入場無料)

会場の展示室4は、豊橋市美1階の一番奥。5人の作家による14点の絵画と芥川沙織関係の資料を展示しています。絵画の内訳は、三岸節子が3点、朝倉摂が2点、芥川沙織が5点、丸木俊が1点、高畑郁子が3点、計14点です。三岸節子の作品のうち赤い屋根の家を描いた《グアデイスの家》(1988)を見て、名古屋市美術館所蔵の《雷がくる》(1979)を思い出しました。

芥川沙織の《女・顔Ⅰ》《女・顔Ⅱ》(いずれも1954)には「当初描いた主題は、自らの苦悩や葛藤を反映したかのような女性像が多い」という解説が、《民話より》(1955)には「大きなハサミを振り上げ、毛に覆われた脚を持つたくましい蟹の姿が現れる」という解説が、《天を突きあげるククノチ》(1955)には「茨城に伝わる樹木神」が付いていました。《作品D》(1955)は植物のようにも、女性のようにも見えます。

なお、芥川沙織の作品の図版は、下記のURLに掲載されています。

URL: 展示作品詳細−豊橋市美術博物館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

〇ミュージアム展示ガイド「ポケット学芸員」について

 展示室4の入口には、ミュージアム展示ガイド「ポケット学芸員」のダウンロード方法、操作方法の掲示がありました。QRコード(App Store用、Google Play用の2種)を読み取るか、スマホやパソコンで「ポケット学芸員」と入力・検索すれば、アプリをダウンロードできます。ポケット学芸員の操作方法ですが、アプリを起動して、①「関東地方」「中部地方」等の地域を選択、②表示された中から希望の施設を選択、③施設のプロフィールが表示されるので、「リスト」を選ぶと展示物のリストを表示、④「ダウンロード」を選ぶと施設の情報がスマホにダウンロードされます(24時間後に消去)。作品解説を読むときに便利なアプリです。

◆「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」(2階 展示室7~9,展示コーナー 観覧料 一般500円)

現在、市電と渥美線を運営している豊橋鉄道株式会社が「豊橋電気軌道株式会社」として創立したのが大正13(1924)年3月7日。豊橋で路面電車(市電)が開業したのは、大正14(1925)年7月14日。豊橋と田原を結ぶ渥美線が、渥美電鉄株式会社により高師~豊島間が開通したのが大正13(1924)年5月、新豊橋~三河田原が全通したのが大正14(1925)年5月1日。市電と渥美線の歴史をたどり、豊橋鉄道株式会100年の歩みを振り返る展覧会が「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」です。観覧券売り場は、2階エレベータ前。

〇市電について

展示品で目を引いたのは「豊橋市新市街地図」です。現在、豊橋市美のある豊橋公園一帯は、歩兵第18聯隊と練兵場、射撃場で、市電の「市役所前」は「営門前」でした。市電を降りて豊橋市美に向かう途中に通過する門は、歩兵第18聯隊の営門だったのです。営門には哨舎(歩哨が24時間常駐した場所)跡が残っています。

〇渥美線について

展示品で目を引いたのは「空中ヨリ見タル高師[絵葉書] 昭和初年」です。写っていたのは、騎兵25,26聯隊、教導学校(下士官の養成所)、憲兵分隊、旧第15師団司令部所在地。陸軍第15師団は明治38(1905)年から大正14(1925)年まで渥美郡高師村(現在は豊橋市)に駐留していた師団です。芥川沙織は大正13(1924)年5月24日渥美郡高師村生まれ。芥川沙織が生まれた当時の渥美郡高師村は、陸軍第15師団の駐留地だったのです。なお、「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」の作品リストは「沙織は軍に所属していた父親の赴任先である豊橋に生まれました」と記載しています。

Ron.

生誕130年記念「北川民次 メキシコから日本へ」展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

2024.07.06(土)17:00~18:30

名古屋市美術館(以下「市美」)で開催中の、生誕130年記念「北川民次 メキシコから日本へ」(以下「本展」)の協力会向けギャラリートークに参加しました。参加者は〇〇名。講師は、勝田琴絵学芸員(以下「勝田さん」)。企画展示室1、2に加え、地下1階の常設展示室3も使った大規模な回顧展です。勝田さんの解説を聞きながら本展を鑑賞し、とても楽しく、為になる一時を過ごすことができました。以下は、勝田さんの解説を聴いて私が知ったことや、本展の感想・補足などです。思い違いが混じっているかもしれませんが、その点はご容赦ください。

◆本展の概要(1階・展示ホール)

 参加者は1階のブリッジを渡り、大理石で囲まれた展示ホールに集合。勝田さんの解説で理解したのは、

① 本展は、約30年ぶりに開催される大規模な回顧展であるということです。前回の大規模な回顧展は、1996(平成8)年に愛知県美術館で開催された「北川民次展」。その前の1989(平成元)年にも、名古屋市美術館で「北川民次展」が開催されています。ギャラリートーク後に調べると、1989年は4月に北川民次が死去した年。同年には、名古屋市内の画廊でも追悼展が開催されました。

② 過去2回の回顧展と比較した場合の本展の特色は、一つには、副題を“メキシコから日本へ”としたことから分かるように、北川民次のメキシコでの経験を重視しメキシコで活躍した画家や写真家なども紹介していること。もう一つは、美術教育者としての北川民次や、壁画・絵本の制作にも注目していることです。

◆Ⅰ 民衆へのまなざし Painting Ordinary People(1階)

〇ニューヨークでの北川民次

Ⅰ章で先ず、勝田さんが解説したのは、ジョン・スローン《ヴィレッジ監獄の解体》(1929)と国吉康雄《帽子の女》(1920頃)、清水登之(とし)《建築現場(ワーガーデン)》(1923)です。

勝田さんの解説によって、先ず、アメリカに渡った北川民次はニューヨークに住み、昼は働き、夜は美術学校で学んでいたこと。ジョン・スローンは美術学校における北川民次の師で、北川民次はスローンから民衆をリアリステックに描く姿勢を学んだということが、次に、国吉康雄とは深い交流があり、清水登之は、北川民次と共にスローンに学んだ仲だった、ということが分かりました。ギャラリートークの冒頭で勝田さんが解説したとおり、本展は北川民次の作品だけでなく、彼の周辺の作家についても目を配っている、ということが分かりました。

〇キューバにも滞在

 《やしの木のある風景》(1921)については、1993年に発見された最初期の作品で、セザンヌの影響がみられる、ということが分かりました。

〇メキシコで制作した作品

 《トランクのある風景》(1923)からはメキシコで制作した作品を展示しています。《水浴》(1929)については、水浴は生きる象徴で、この作品はセザンヌの水浴図に刺激をうけた可能性がある、ということが分かりました。《トラルパム霊園のお祭り》(1930)については、いくつもの場面をひとつにした作品で、生と死が描かれている。メキシコの死生観では、死は生に変わる一過程。この作品が描かれた年に長女が生まれた、ということが、《子供を抱くメキシコの女(姉弟)》(1935)については、外国人から見たメキシコの風俗を描いたものだ、ということが分かりました。

〇日本に帰国

 1936年、北川民次は日本に帰国しています。《ランチェロの唄》(1938)については、ランチェロとは農園や牧場で働く人で、国家に踊らされる民衆を比喩的に描いた、ということが分かりました。《[出征兵士]》(1944)については、北川民次の本心が見え隠れする作品である、ということが分かりました。

◆Ⅱ 壁画と社会 Murals and Society(1階)

〇メキシコ壁画運動

Ⅱ章の最初に展示されているのは、写真家のティナ・モドッティが撮影した、メキシコ公教育省壁画の写真です。勝田さんによれば、北川民次はメキシコ壁画運動から大きな影響を受けたとのことです。北川民次がメキシコでどんな刺激を受けたのかについて理解を深めることができる展示だと思いました。

〇藤田嗣治との交流

 壁画運動の写真に続いて、藤田嗣治が中南米旅行中に描いた北川民次の肖像画2点を展示しています。勝田さんによれば、藤田はメキシコで北川民次との交流を深め、北川民次が1936年に帰国した時、二科会への出品や大画面の作品を描くよう勧めるなど、後ろ盾になったのが藤田、とのことです。藤田嗣治と知り合うことが、その後の北川民次の活動にとって大きな助けになった、ということが分かりました。

〇帰国後に描いた作品

 《タスコの祭》(1937)については、藤田の後援者であった平野政吉が所有していた作品だが、現在は静岡県立美術館の所蔵品、ということが、《メキシコ戦後の図》(1938)については、大砲が砲口を向けているのはメキシコの山・ポポカテペトルなのに、山の形が富士山に似ていたため“富士山に向けて大砲を撃とうとしている”と物議を醸した、ということが分かりました。

〇戦時下の北川民次

 ギャラリートークでは、戦時下の北川民次についても言及があり、以下のことが分かりました。

戦時下の北川民次は戦争記録画に手を染めず、戦後には反戦を強調していたとはいえ、北川民次と同じく、池袋モンパルナスのメンバーとされる画家で、滝口修造(評論家)と共に逮捕、拘禁された福沢一郎とは異なり、大っぴらに軍国主義を批判するような作家ではなかった。反戦の思いを表すにしても、暗示的に描くなど、慎重に対応したということでしょうね。

勝田さんは、帰国後間もない時期の北川民次は、船から富士山が見えた時の思いを“僕の芸術が恋ひ慕ってゐる日本の山だ!”と書いている、という話も披露してくれました。

◆Ⅲ 幻想と象徴 Fantasy and Symbolism(1階)

〇ルフィーノ・タマヨからの影響

Ⅲ章の最初に展示されているのは、ルフィーノ・タマヨ《苦悶する人》(1949)とマリア・イスキエルド《巡礼者たち》(1945)の2点。いずれの作品もシュルレアリスム的な主題を描いたものです。勝田さんの解説により、北川民次はタマヨからの影響を受けてシュルレアリスムの非現実的・暗示的な手法を使っていた、ということが分かりました。

〇暗示的な手法で制作した作品

暗示的な手法ということについて、《メキシコ静物》(1938)では、画面左に二つの裂けた木の幹、画面下には切断される途中の木の幹や包丁、鋏、銃が、画面右上には切断された頭部が描かれている。これは戦時下の雰囲気を表したもの、ということが、《岩山に茂る》(1940)では、紀元二千六百年奉祝美術展に出品。植物を描いたものだが、ねじれた人体がもがき苦しんでいるようにも見える。暗示的な手法なので、問題にはならなかった。また、当時は画材が手に入らなかったので、この作品は白粘土でキャンバスの地塗りをして、陶磁器の上絵付けに使う顔料を利用して描いた、ということが分かりました。

◆Ⅳ 都市と機械文明 The city and the Machine Age(2階)

〇フリーダ・カーロのアトリエ

Ⅳ章の最初は《赤い家とサボテン》(1936)です。勝田さんの解説により、作品はフリーダ・カーロのアトリエ兼住居を描いたものであり、遠近法を歪めて色々な方向から見た姿を一つの画面に収めている、ということが分かりました。

〇帰国後に描いた作品

《池袋風景》《落合風景》《都会風景》の3点はいずれも1937年制作です。参加者からは「池袋モンパルナスの時代の作品だ」という声が上がりました。勝田さんの解説により、池袋付近(注:現在の豊島区千早1丁目付近、その後、長崎2-25に転居)に住んでいた時期に制作した作品で、いずれも遠近法を無視して、色々な方向から見た姿を一つの画面に収めており、《落合風景》には人物も描かれている、ということが分かりました。

 《海王丸(舷側)》《海王丸(甲板)》《海王丸(通風筒)》(いずれも1939)については、大日本海洋少年団の嘱託画家として練習船・海王丸に乗船して約60日間の航海をした時の作品で、船だけでなく少年団の姿も描かれている、ということが、版画シリーズ《瀬戸十景》(1937)については「風景を描いた作品だが、労働者に焦点を当てている、ということが分かりました。

〇戦後に描いた作品

《瀬戸のまちかど》(1946)については、北川民次のお気に入りの風景だ、ということが、《砂の工場》(1959)については、フェルナン・レジェの影響を受け、太い輪郭線で機械や人物を平面的に描いた作品、ということが、《赤いオイルタンク》(1960)については、石炭窯から重油窯に移行する時期を象徴する“赤いオイルタンク”が目立つように描いた作品、ということが分かりました。

◆Ⅴ 美術教育と絵本の仕事 Work in Art Education and Picture Books(2階)

〇版画とメキシコ野外美術学校(メキシコ時代)

 Ⅴ章では再びメキシコ時代に戻り、メキシコの版画や美術教育、戦時中に制作した絵本の仕事をテーマ別にまとめ、年代順に展示しています。

 1番目のテーマはポサダなどの版画。北川民次もメキシコ時代に版画の技法を学んだ、ということが分かりました。ポサダの版画は、正にメキシコの伝統。「メキシコから日本へ」という副題に合致していると思います。

 2番目のテーマはメキシコ野外美術学校。資料の展示が多いですが、《老人》(1932)については、ただの老人ではなく、ガラガラヘビも捕まえる「蛇取り名人」ということと、北川民次は子どもから影響を受けていた。つまり、子どもの作品を手本として作品を描いていた、ということが分かりました。《ロバ》(1928)については、メキシコでは身近な存在だ、ということを理解しました。

〇戦時中の絵本制作

 3番目のテーマは北川民次が戦時中に制作した絵本。勝田さんの解説により、北川民次は、児童画に関心を持っていた栃木県真岡(もおか)町(現:真岡市)の久保貞次郎と知り合い、良心的な絵本制作を目指すことになる。当時の絵本は、絵も文もが画一的で印刷の質も悪かったため、絵と文にこだわった絵本の制作を目指した。『ジャングル』では、職人任せにせず北川民次自身が石版に描いた、ということが分かりました。

 ギャラリートーク後に調べると、石版(せきばん)印刷は、石版石という大理石に似た石を加工して、その表面に油性の画材で絵や文字を描き(描画)、化学反応を利用してインクが付く(=水を弾く)ところとインクを弾く(=水を受ける)ところを作る(製版)、水で版を湿らせてからインクをつけると、インクは油性の画材で絵や文字を描いたところにしか付かないので、付いたインクを紙に転写する(印刷)という印刷方法でした。北川民次がやったのは、上記の(描画)に当たります。

 勝田さんは「真岡市教育委員会所蔵の資料にも注目してください」と話されました。真岡市教育委員会所蔵の資料として展示しているのは、絵本『マハフノツボ』原画、絵本『ジャングル』下絵、絵本『うさぎのみみはなぜながい』の原画でした。絵本『ジャングル』だけ「原画」ではなく「下絵」となっているのは、下絵を元に本人が石版に直接描画したものが「原画」にあたるからでしょうね。

 また、勝田さんによれば、『ジャングル』の絵は北川民次ですが文は佐藤義美(よしみ:童謡作詞家・童話作家、代表作は『犬のおまわりさん』)。『うさぎのみみはなぜながい』は1942年に準備できていたが、出版は20年後の1962年になった、とのことです。

〇名古屋動物園児童美術学校

 最後は、1949年の夏、名古屋市東山動物園で開催された児童美術学校をテーマにした展示です。勝田さんの解説により、児童美術学校の目的は、子どもが上手な絵を描けるようになることではなく、美術を通して子どもの自由な精神を作ることだった。一部では賛同を得られたものの、管理型教育にそぐわないとして短期間で終わった、ということと、《画家の仲間たち》(1948)は、名古屋動物園児童美術学校を開校することになる同志たちを描いた作品だ、ということが分かりました。

◆エピローグ 再びメキシコへ Back in Mexico(地下1階 常設展示室3)

 ギャラリートークの最後は「エピローグ」。地下1階・常設展示室3に移動して勝田さんの解説を聴きました。

勝田さんの解説により、北川民次は1955年にメキシコを再訪して、二つの発見をした。一つはモザイク壁画の可能性で、メキシコではフレスコ技法の時代が去り、モザイク壁画が流行していることを知った。もう一つはメキシコ陶器に触れて、瀬戸の陶磁器産業の技術が世界に通用することを再発見したこと。そして、1959年、CBC会館(名古屋市)を皮切りに瀬戸市民会館、旧カゴメビル(名古屋市)、瀬戸市立図書館の壁画を完成したことが分かりました。

エピローグに展示されていた原画は、《名古屋CBC会館壁画原画》(1958)、《瀬戸市民会館陶壁画原画》(1959:現在は尾張瀬戸駅近くの瀬戸蔵に移設)、《名古屋旧カゴメビル壁画原画 TOMATO》(1962:2024.06.05付の中日新聞に記事があります)、《瀬戸市立図書館陶壁原画》(1970)です。

瀬戸市立図書館陶壁は建物の外壁に2面、内壁に1面あるのですが、そのうち内壁「勉学」を撮影した写真について、勝田さんは「“勉学”の前には棚が置かれていたので、棚を移動させないと写真が撮れません。撮影時には、図書館の方にも棚の移動を手伝っていただき、何とか写真を撮影できました」と、苦労話を語ってくださいました。

◆最後に

 ギャラリートークが終わったのは、午後6時25分。解散予定の6時30分ぎりぎりまで熱いトークが続きました。本展は、展示室の作品解説が分かりやすくて内容が充実しており、作品だけでなく資料も豊富です。力のこもった展覧会だということが、ひしひしと伝わってきました。メキシコ・ルネサンスに関する名古屋市美術館の所蔵品を活用していることにも目を引かれました。

 壁画のうち、名古屋CBC会館壁画の材質は大理石。陶磁タイルでも原画の色を再現するのは大変ですが、大理石だと色を再現するためには、随分と苦労されたのでしょうね。

Ron

令和6年度名古屋市美術館協力会総会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

 令和6年7月6日土曜日、蒸し暑い中今年も名古屋市美術館協力会の総会が開催されました。今年は参加者が例年に比べ多く、24名が参加して総会が行われました。

 総会では、コロナウイルス感染症の拡大により中止されていた美術館ツアーや作家を囲む会などが再開されていき、少しずつコロナ以前の活動内容に戻ってきていることが報告されました。会員のみなさまが、安心して、より満足できる活動を増やしていきたいと思っています。

展覧会見てある記「芥川(間所)沙織 生誕100年記念」名古屋市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.07.07 投稿

先日、名古屋市美術館(以下「名古屋市美」)の常設展示室で開催中の「名品コレクション展Ⅱ」(以下「本展」)を見てきました。本展で目を引いたのは「生誕100年記念 芥川(間所)沙織プロジェクトについて」というパネルに書かれた内容です。

その内容を要約すると、芥川(間所)沙織(1924-66)は愛知県出身の画家で、前衛美術の分野で活躍。名古屋市美では、全長6mを超える代表作《古事記より》(1957)や晩年の油彩《朱とモーヴA》(1963)など計6点を所蔵。一昨年、ご遺族の代表者から「生誕100年に当たる2024年を芥川(間所)沙織の作品を多くの方に見ていただきたい一年にしたいと考えている」との相談を受け、名古屋市美も協力することになった。愛知県では、豊橋市美術博物館(会期:6.8~7.21)刈谷市美術館(会期:6.8~7.21)も予定している、というものでした。

◆芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイトの概要

 「芥川(間所)紗織 生誕100年」の活動については、下記URLで特設サイトが開設されています。芥川(間所)紗織の経歴、活動に参加している美術館と展覧会・出品作品が掲載されていますので、ご一読ください。

URL: 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

◆コレクション解析学 芥川(間所)紗織《古事記より》

常設展示室の入口には「コレクション解析学」(名古屋市美のコレクションから1点を選び、学芸員が紹介する講座)についての掲示がありました。掲示の内容は、講座の日時は2024.08.31(土)14:00~、演題は「生みの苦しみ、怒り、悲しみ」、講師は清家三智学芸員、というものです。

◆現代の美術 生誕100年記念 芥川(間所)沙織と150年代

「現代の美術」の解説パネルを読んで、1950年代に活躍した作家の活動について、よく分かりました。その内容は、下記「解説リーフレット」URLで検索できます。芥川(間所)沙織の作品は、下記「作品展示詳細」URLでご覧ください。芥川(間所)沙織の作品を除くと、小山田二郎の油彩と荒川修作の最初期オブジェが目を引きました。

〇解説リーフレット

 URL:Microsoft Word – ¶9 H_8-UM iêüÕìÃÈ_2024 ³ìa.docx (city.nagoya.jp)

〇作品展示詳細:名古屋市美術館

URL: 展示作品詳細−名古屋市美術館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

◆県内美術館で展示の芥川(間所)沙織作品

豊橋市美術博物館と刈谷市美術館で展示の芥川(間所)沙織作品は、以下のとおりです。いずれの美術館の展覧会もコレクション展ですから観覧は無料です。興味を持ったら、各館に足をお運びください。

〇作品展示詳細:豊橋市美術博物館

URL: 展示作品詳細−豊橋市美術博物館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

〇作品展示詳細:刈谷市美術館

URL: 展示作品詳細−刈谷市美術館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

Ron.

映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」(2023年制作 ドイツ映画)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2025.06.24 投稿

伏見ミリオン座で上映中の映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」(以下「映画」)を見てきました。映画は、戦後ドイツを代表する芸術家であり、ドイツの暗黒の歴史を主題とする作品で知られたアンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer)の生涯と現在の状況を追った、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)監督のドキュメンタリーです。名古屋市美術館の常設展にアンゼルム・キーファー《シベリアの王女》(1988)が展示されていますが、最近まで作家に対して興味は湧きませんでした。しかし、「2025年3月下旬から6月下旬まで、世界遺産・二条城でアンゼルム・キーファーの個展が開催される」というニュース(注1)を目にしたり、東京で開催中の個展の展覧会評(注2)を読んで、キーファーに対する興味が湧き、伏見ミリオン座まで足を運ぶことにしました。

なお、以下の内容はネタバレを含みますので、ご注意ください。

注1:アンゼルム・キーファーの大規模個展、二条城で開催へ|美術手帖 (bijutsutecho.com)

注2:ガラス箱の中の小宇宙と性。アンゼルム・キーファー「Opus Magnum」展(ファーガス・マカフリー 東京)レビュー(評:香川檀)|Tokyo Art Beat

◆映画の内容

① 導入部

最初に登場するのは、顔のない女性像です。近代的な純白のドレスを固めて立体的にした作品で、映画では「古代の女性」と説明していました。やがて女性像は2体に増えます。ひとつは天球儀の顔を、ひとつは白い塔の模型の顔を持っていました。その後、温室のような建物の中に無数の女性像が登場します。ネットを検索すると、この女性像はアンゼルム・キーファー大規模個展のレポート(注3)に登場していました。

注3:アンゼルム・キーファーの大規模個展「Fallen Angels」がフィレンツェのストロッツィ宮で開催中。出展作品と見どころを現地レポート!|Tokyo Art Beat

② キーファーの巨大なアトリエ(フランス・バルジャック)と現在のキーファーの姿

 映画は、巨大な工場のようなアトリエの中を自転車で移動するキーファーや巨大な作品を運ぶキーファーの姿に切り替わります。

③ 自伝的な再現映像

写っているのは《悪い子たちの部屋》を描いている子ども。映画の予告記事(注4)によれば、子役は監督ヴィム・ヴェンダースの孫甥(兄弟姉妹の孫)アントン・ヴェダース(Anton Wenders)とのことです。

注4:ヴィム・ヴェンダースが映すドキュメンタリー映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』 – ファッションプレス (fashion-press.net)

④ P.CとM.H

 P.Cは両親をホロコーストで亡くし、自身も収容所から奇跡的に助け出された詩人パウル・ツェラン(Paul Celan)を指し、M.Hはドイツの著名な哲学者マルティン・ハイデガー(Maltin Heidegger)を指します。映画では、ハイデガーの脳が毒キノコによる癌に侵されて崩れ去る動画が流れます。1967年7月25日、パウル・ツェランは哲学者に会いに行きますが「哲学者は過去に口を閉ざした」とナレーションが入りました。

⑤ 現在のキーファーの制作風景

 映画には藁を燃やすキーファーが登場。ぼろ布と藁にアルコールをかけ、バーナーで燃やしてから水をかけるという姿や、巨大な油絵の具を塗る姿もあります。

⑥ 青年期のキーファーの再現映像

 再現映像に登場するのはキーファーの息子、ダニエル・キーファー(Daniel Kiefer)です。パノラマカメラ(違っているかもしれませんが、画面サイズが6cm×12cmのLinhof Technorama 612PCⅡと思われます)で枯れた向日葵を撮影するキーファーが写ります。キーファーはアトリエに戻り、巨大なキャンバスに向日葵の写真を投影して、作品を制作。

⑦ ヨーゼフ・ボイスの特別クラスを受講する青年・キーファー

 キーファーはヨーゼフ・ボイスに手紙を出し、フォルクスワーゲンに荷物を積み込んでデュッセルドルフに向かいます。当時の動画が流れ、キーファーがヨーゼフ・ボイスの特別クラスに招かれたことが分かりました。

⑧ 「ネオ・ファシスト」と非難されるキーファー

 青年期のキーファーは、ナチスが崇拝した人物の肖像画をビエンナーレに出品。この作品によって、キーファーが「ネオ・ファシスト」として非難される騒動が発生。キーファーは、自分が描いたヘルダーリンについて「彼の祖国はギリシア。ナチスはヘルダーリンを悪用しただけ。私は、反ファシスト」と反論します。

⑨ ナチス式の敬礼をした自分の姿を撮影

1968年から1969年にかけて、キーファーは世界各地の有名なスポットを背景にナチス式敬礼をしている自身の姿を写真に収め、物議を醸します。キーファーは「過去を思い出すためにナチス式敬礼の写真を撮影した。ナチス式敬礼をしていた時代を忘れないために写真を撮影しただけだ」と反論します。

⑩ 1992年、キーファーは南仏・バルジャックにアトリエを移す

バルジャックのアトリエの広大な敷地と、巨大な工場のようなアトリエを始めとする、多くの建物が映し出されます。以下、様々な映像が出てくるので、波乗りを楽しむように見ていました。なかでも目を引いたのはベッドが並んだ「革命の女たち」(注5)と、錆びた飛行機、錆びた潜水艦が写る場面でした。

注5:革命の女たち / アンゼルム・キーファー (セゾン現代美術館) | リセットする / To Reset (placestoreset.com)

⑪ ヴェネツィアの宮殿を歩くキーファー

映画が終わる少し前に、ヴェネツィアの宮殿の回廊を歩くキーファーと縄梯子から降りて来る少年のキーファーが登場します。どうやら、2022年にヴェネツィアのドゥカーレ宮殿で開催した個展の会場で撮影した画像のようです。天井は宮殿のままですが壁面はキーファーの巨大な作品で覆われていました。2025年に二条城で開催される展覧会がどんな内容になるのかな、と思いを巡らしながら、この場面を見ていました。

⑫ 映画の終結部

映画の終結部で印象に残ったのは、第二次世界大戦後の瓦礫(がれき)の中で遊ぶ子どもたち、枯れた向日葵を天秤の代わりに持って綱渡りをするキーファー、10歳のキーファーと現在のキーファーが並んで森の中を歩く姿、導入部に登場した女性像、金属の翼を持った彫像でした。なお、「金属翼を持った彫像」など、ブログで紹介した内容の一部は、映画の公式HP(注6)で閲覧できます。

注6:映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』公式HP (unpfilm.com)

Ron.

映画評を読む「ヴィム・ヴェンダース監督インタビュー」Tokyo Art Beat

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.06.27 投稿

◆記事との出会い

6月26日にスマホを見ていたら、「ヴィム・ヴェンダース監督インタビュー」という記事が出てきました。伏見リオン座で上映中の映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」関連の記事で、公開日は6月20日でした。なお、記事のURLは、次のとおりです。

URL: ヴィム・ヴェンダース監督インタビュー。アンゼルム・キーファーに迫るドキュメンタリー映画『アンゼルム』に込められた女性観や制作意図を聞く|Tokyo Art Beat

◆アンゼルム・キーファーのアトリエ、敷地は何と35ha

「映画は見たし、ブログも書いたし」と思いながら記事を読んでいたら、次の文章に引き付けられました。それは、ヴィム・ヴェンダース監督が語った「映画製作の転機」です。

転機は2019年。キーファーから電話を受けたヴェンダースは、キーファーが居を構えていたフランスのバルジャック村へと向かった。そこには35haに及ぶ広大な土地にキーファーのアトリエがあり、「その風景とともにある彼の作品群を見て、いまなら映画が作れると思いました」(ヴェンダース)

35haといえば、熱田神宮(19ha)の1.8倍、名城公園(80ha)の半分弱(44%)。映画では敷地の広さに圧倒されましたが、35haなら納得です。

◆映画に出て来る女性像に関するやりとりも

記事では、Tokyo Art Beat のインタビューアー・福島夏子氏と監督が次のようなやりとりをしています。

Q:本作はバルジャック村に佇(たたず)む、キーファー作の女性を模(かたど)った立体作品《古代の女性》を映したシーンから始まります。女性の身体とその不在を扱った本作から、この映画を始めた理由はなんでしょうか? これ以降も、同じく女性をモチーフにした作品《革命の女たち》への言及もあります。(略)

A:アンゼルムの作品のなかに、女性という存在が強くあるからです。南仏のバルジャックにいると、森の中や彼が屋外に作り上げたギャラリーなど、至る所にその存在を感じます。(略)彼女たちはこの映画のなかでつねに存在しているし、最後にはもう一度登場することからもわかる通り、私にとって彼女たちは仲間であり、ある種の協働者です。私は彼女たちに声を与えていたのだと思っています。(略)作中で彼女たちが発する言葉がはっきりと聞こえることはほとんどないですが(略)彼女たちのささやきがこの映画に女性の美しい存在を加えていると感じています。

 映画では顔のない女性像=《古代の女性》がとても印象的でしたが、福島夏子氏も同じ思いだったと分かりました。彼女は《革命の女たち》にも目を引かれたようですね。

 記事は「2025年春には京都・二条城での新作個展が予定されている」とも書いています。2025年春の展覧会が楽しみですね。

Ron.

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