名古屋市美術館協力会  秋のツアー2024(岐阜) 

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 2024.11.09開催 



119日に名古屋市美術館協力会秋のツアー(以下「ツアー」)が開催されました。目的地は岐阜県現代陶磁美術館(岐阜県多治見市:以下「陶磁美術館」)とせきがはら人間村生活美術館(岐阜県関ケ原町:以下「生活美術館」)です。目的地はいずれも岐阜県で近いため、集合時刻は午前815分でした。予定時刻に同行も含めた参加者23名が名古屋駅太閤口広場に集合したので、予定時刻2分前の828分にバスは発車しました。



ツアーの添乗員はJR東海ツアーズの服部さん、ツアー同行は山田諭さん(以下「山田さん」)です。山田さんの同行は2016年「秋のツアー箱根」以来。8年ぶりです。当時は名古屋市美術館学芸課長。翌年、京都市美術館に異動。京都市美術館を退職後、現在は県内にお住まいなので同行を引き受けて下さいました。



往路:渋滞したものの、到着時刻はほぼ予定通り



 往路は名古屋都市高速道路、東名高速道路、中央自動車道を通過し、多治見ICから陶磁美術館に向かうという経路。早く着きすぎるため内津峠PA20分休憩したのですが、何と多治見IC2km前から渋滞。「陶磁美術館の開館時刻(午前10時)に間に合わないのでは」と、大いに焦りましたが、なんとか10時ギリギリに入館できました。運転手さんの話では「イオンモール土岐に向かう車が多いのが渋滞の主因」とのことです。



岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」10001100



陶芸美術館のバス停から陶芸美術館までは、シデコブシの群生地を跨ぐ橋とトンネルを歩きました。山田さんは「陶芸美術館は、アプローチが素晴らしい」と話していましたが、山田さんが言われたとおり、異郷に向かっている感じのアプローチです。トンネルを抜けると、眼前には美濃の山並みが広がっていました。



陶磁美術館は、地上3階・地下1階の複合施設セラミックパークMINO(以下「セラミックパーク」)の2階。セラミックパーク3階のエントランスホールからエスカレーターで降りると、陶磁美術館の岡田学芸員(以下「岡田さん」がお出迎え。「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)のギャラリートークが始まりました。岡田さんによれば、荒川豊蔵は抹茶茶碗のスーパースター、安土桃山期が黄金時代で、明治以降には廃れてしまった志野・瀬戸黒を復興した作陶家とのこと。本展では美濃焼の展示に加え、荒川豊蔵の絵(絵描きを目指しており、絵が上手だった)と人間的な全体像を紹介、との解説でした。



〇Ⅰ.プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵



最初の部屋は、荒川豊蔵の代表作を展示しています。岡田さんは、白い円筒状の《志野山の絵水指》や真っ黒で指跡の付いた《瀬戸黒茶垸(ちゃわん)》などの代表作を紹介し、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒で人間国宝(注:正式には「重要無形文化財技術保持者」)に指定された、と解説。また、灰色の地に白い鶴が描かれた《志野鶴絵茶垸》については「鉄釉を掛けてから、鶴の絵を掻き落とした鼠志野」と話されました。



なお、解説はありませんでしたが、茶釜型でピンク色の《志野山の絵水指》は可愛いやきものでした。



〇Ⅱ.東山窯と星岡窯 やきものに優美なのがあるのを知る



通路には、初期作品の展示がありました。岡田さんは「荒川豊蔵は絵が得意だったので、宮永東山窯(みやながとうざん)と北大路魯山人の下で磁器の絵付けもした」と解説。京都・深草の宮永東山窯や北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯(ほしがおかがま)で焼成した磁器を見ることが出来ました。



〇Ⅲ.荒川豊蔵の陶芸



次の部屋には荒川豊蔵が描いた大画面の《古志野発見端緒の図》《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》が展示されています。岡田さんは、その絵の前で「志野・瀬戸黒は、桃山期の作品は残っているものの、明治には作られていない。尾張の港から積み出されたので「瀬戸で制作」と思われていたが、昭和9年(1934)に大事件が起きる。荒川豊蔵が美濃・大萱(おおがや:現在の可児市大萱)で志野の陶片を発見し、志野は美濃で焼かれていたことが判明した。荒川豊蔵は志野の復活に取り組むが、手がかりは陶片だけなので、志野が焼成できるようになるまで数年を要した。荒川豊蔵の作品は、伝統の復活に作家の個性、創意も加えた芸術的なスタイル持っている。また、地元からは荒川豊蔵の後を追って多くの陶芸家が育った(補足:陶芸美術館は「人間国宝 加藤孝造 追悼展」(11/302025/03/16)「卒寿記念 人間国宝 鈴木蔵の志野展」(2025/03/2906/10)を開催予定)」と解説。



岡田さんは荒川豊蔵の作品を「オリジナル+クリエイティブ」と評しましたが、焼成中に裂けた《黄瀬戸破竹花入》は、まさに意表を突く作品です。「裂けた花入れでは水が漏れるのに、どうやって花を生けたのでしょうか」と山田さんに尋ねたら「竹筒を使う」との答え。竹籠を使って花を生ける時と同じ方法でした。



岡田さんに「織部が見当たりませんね」と尋ねたら、「織部は簡単だからやらない」との答え。「志野は水が漏れやすい、瀬戸黒は焼成中に窯から取り出して水で急冷させて黒色にする。ゆっくり冷やすと黒くならず茶色になってしまう。急冷するので割れることが多い。釉薬に異変がなくても中にヒビが入っていて、使用中に割れることもある。萩焼も焼きがあまくて水漏れしやすいが、水が滲みて器の表情が変わるのを『かせ』と呼んで珍重する。志野は薪を使う窯でないと焼成できないが、薪を使う窯以外で志野を焼成したのが鈴木蔵(おさむ)。彼は天才だよ」と、話が続きました。



〇Ⅳ.暮らしとともに 水月窯と大萱窯



岡田さんによれば、荒川豊蔵は戦後、一般向けのやきものを焼成するため、多治見市虎渓山町に連房式の新たな窯・水月窯(すいげつがま)を築く。可児市の大萱窯は薪を使う大窯で量産はできない。水月窯は量産が可能で、一般向けの磁器も焼成できた。一時休止したが孫弟子の水野繁樹さんが継いでいる、とのことでした。



水月窯の製品では、《染付扇面詩文山水画向付》や《梅花文汲出》が目を引きました(補足:汲出(くみだし)は和菓子を食べるときや来客時に茶托とセットで使う半球形の煎茶用茶器。湯呑は円筒形のものを指します)。



水月窯については次のURLをご覧ください。URL Home |
suigetugama
URL
suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp)



〇Ⅵ.交友 芸術家との共作、五窯歴遊



萩焼、信楽焼、丹波焼、肩津焼、備前焼の窯元を訪ねて焼成した作品を展示しています。岡田さんは「Ⅲ章の展示ですが、荒川豊蔵は萩焼の第10代三輪休雪(隠居後は、休和)備前焼の金重陶陽、陶芸家・実業家の川喜多半泥子の4人で“乾比根(からひね)会”を結成して交友を深めた。萩焼・備前焼とは焼成方法や作風が違うものの、“古典の復興“という共通点があったため、交友を深めた」と、解説がありました。



〇自由鑑賞1035-1100



 ギャラリートークの時間が30分近くになったため、Ⅵ章で岡田さんの解説は終了。参加者各人の自由鑑賞となりました。岡田さんが「Ⅲ章の展示」と話していたのでⅢ章に戻ると、《半泥子宛書簡(千歳山訪問の礼状》《師匠友誼図》を展示。《師匠友誼図》の解説には「三重県津市千歳山の川喜多半泥子宅で作陶連盟乾比根会を結成」と書かれていました。その後、陶芸美術館のギャラリーⅡで開催中の「美濃のラーメンどんぶり展
The Art of RAMEN Bowl」(内容は、下記URLのとおり)を見ていたら、1050分を過ぎたので駐車場のバス停まで駆け足で戻り、何とかバス発車の11時に間に合いました。「美濃のラーメンどんぶり展」のURLは、以下の通り。



URL: 岐阜県現代陶芸美術館 | 美濃のラーメンどんぶり展 The Art of
RAMEN Bowl



食事会場までの車内では11001200



 出発後、国道19号に入ると、反対車線は依然として渋滞。イオンモール土岐の集客力には驚きました。



 多治見ICから中央自動車道に入ると、山田さんのトークが始まりました。山田さんは、今夏に陶芸美術館で開催された「リサ・ラーソン展」を見たとのこと。陶芸美術館の岡田さんについては同年齢で、岡田さんが岐阜県立美術館の学芸員だった時「荒川修作研究会」を立ち上げ、月1回ペースで意見を交わした仲だったとのことです。「展覧会の名前は違うけれど、同じ“荒川”つながりで、旧交を温めることが出来た」と喜んでいました。



 ツアー参加者から「陶磁美術館では、もう少し自由鑑賞の時間が欲しかった」との声もありましたが、食事会場の予約時刻や移動時間を考慮すると、陶磁美術館の滞在時間は10001100がギリギリだったようです。



昼食:関ケ原ウォーランド・Sekigahara 花伊吹12001320



 「昼食会場までの所要時間は80分ほど」の予定でしたが、バスの運行が極めて順調だったため、予定時刻より20分早い1200に到着。「近江牛・飛騨牛食べ比べ」のすき焼きを楽しみました。すき焼きを食べ始めた時は、協力会しか居ませんでしたが、食べ始めると次々に団体客が入り、たちまち満席になりました。ツアーを企画したMさんの話では「食事会場の選択肢が、他に無い」とのことでした。



 予定より20分も早く昼食が始まりましたが、次の見学先・生活美術館の受け入れ態勢が整うのが1330なので、ツアー参加者は1320までSekigahara 花伊吹の売店での買い物などを楽しんで過ごしました。



◆生活美術館13301600



昼食会場から向かったのは生活美術館ではなく「関ケ原製作所」の駐車場です。バスが停車すると、生活美術館のスタッフが出迎えて下さいました。「関ケ原製作所って、何の会社?」という疑問や「何故、関ケ原製作所の駐車場に生活美術館のスタッフが?」という疑問を抱えたまま、徒歩で生活美術館に向かいました。



〇せきがはら人間村財団理事長のレクチャーと紹介ビデオ13401410



関ケ原製作所を出て国道365号を北に向い、関ケ原製作所の敷地北東の生活道路を西に進み、向かって左(道路の南)にある民家の切れ目を左に曲がると人間塾の建物が見え、その周囲がニイヅマガーデンでした。



ツアー参加者が案内されたのは、人間塾の2階。講義室のような部屋です。生活美術館の側はせきがはら人間村財団(以下「財団」)の福本武彦理事長(以下「理事長」)と「せきがはらゼネラルサービス」の山口さん、松原さんの3名が出席されました。理事長のレクチャーと紹介ビデオの内容によれば、生活美術館の母体は関ケ原製作所。関ケ原製作所の創業者は「矢橋(やばし)大理石株式会社」の創業者一族である矢橋五郎(やばしごろう)で、1946年に「関ケ原産業株式会社」の名称で日本国有鉄道向けの軌道用機器生産を開始したのが始まりで、現在は、油圧機器、商船機器、鉄道機器など7つの事業部門があるとのことです。



財団設立のきっかけは、3度の危機。1978年の石油ショック、1988年の円高不況、1996年のバブル崩壊です。二代目の社長矢橋昭三郎は「不況は仕方ないが、せめて明るく愉しい生活を送ろう」と、1988年にフランスの彫刻家ピエール・セーカリーに彫刻の制作を依頼。以来、2000年に平和の杜、2005年に人間塾、2018年に未来食堂、2021年にCafé Mirai 等、施設を充実させてきた、とのことです。



〇せきがはら人間村の散策14151600



・蔵ミュージアム



山口さんの先導でニイズマガーデンを抜けて「蔵ミュージアム」に向かいました。「蔵ミュージアム」は中で左右に分かれており、入口を入ると渡り廊下に近持イオリの彫刻《水の家》、向かって右の部屋は全体が若林奮のインスタレーション《胡桃の葉Ⅱ》。渡り廊下に戻り、次の部屋に入ると、若林奮の彫刻に加えて、スペインの彫刻家エドゥアルド・チリーダの彫刻と李禹煥の絵画。奥の部屋の床には大理石を彫った古郡弘の《Banco 盤古》。壁に取り付けられた250kgの重さの古郡弘《Ermafroid 両性具有》は向かって左が女性、右が男性とのこと。庭に出ると新妻実の彫刻《地平線》。素材はインド産御影石で「触ってもよい」とのことでした。



・生活美術館本館エリア



次に向かったのは「生活美術館本館エリア」。最初に目に入ったのは、庭に置かれた若林奮のブロンズ作品《自分の方へ向かう犬I》でした。生活美術館本館では「Homage to MINORU NIIZUMA」を開催中で、新妻実の彫刻の外、高松次郎、関根伸夫、若林奮、李禹煥の作品を展示でした。解説はありませんでしたが、何れも抽象美術なので、ツアー参加者は各人の感性に従って、作品を楽しんでいました。



 生活美術館本館を出ると、前面に観音開きのガラス製扉がある立方体の建物があります。名称は「地蔵堂」で、中には若林奮の彫刻《近い縁Ⅰ》が置かれています。丁度、矢橋昭三郎氏がツアー参加者の様子を見に来られたので、矢橋昭三郎氏を交えて「地蔵堂」の前で記念写真を撮影。最後、生活美術館本館エリアを出るところで見たピエール・セーカリー《Dragon family》は苔むし、草も生えています。設置以来の歳月を感じました。



・創業者邸



「生活美術館本館エリア」から少し歩き、細い道を横断するとcafe mirai と「創業者邸」があります。芝生の上にあったのは李禹煥《関係項-応答》。自然石と分厚い鉄板が向かい合っている作品で「石と鉄が対話しているので設置した」とのことです。石材会社と鉄鋼会社を興した創業者=八橋五郎の姿と作品が重なりますね。



・古戦場を歩き、平和の杜へ



創業者邸から南に道があります。向かって左は「せきがはら人間村」の敷地ですが、右は「島津義弘陣跡」と神明神社の杜があります。しばらく歩くと、世界平和を祈るモニュメント、ピエール・セーカリー《関ケ原》が現れました。鎧武者の頭部を思わせる彫刻が10個。通常は下から4個、3個、2個、1個の順で4段に積み上げるのでしょうが、4段目に彫刻は無く、1段目が5個となっています。ツアー参加者のHさんが「4段に積み上げると一番上の1個が全体を支配する姿になる。1番上の1個が無いのは、10個が協調して平和を守る形になるから、と聞いたことがあります」と話すと、山口さんから「その通りです」と、お誉めの言葉がありました。



 南に向かう道を更に進むと左右をススキに覆われ、まさに「一本道」になります。右側のススキの向こうには「関ケ原古戦場開戦地」と書かれた幟(のぼり)。赤い井筒(「井」の字)を染め抜いた井伊家の幟も見えました。



・散策のゴールへ



 一本道を左に曲がると「未来食堂」が見えてきます。せきがはら人間村の敷地に戻り、北へ向かうとピエール・セーカリーの彫刻《ムッシュライオン & マダムライオン》がお出迎え。芝生広場の向こうには、インド・ネパール・日本の彫刻家が制作した《アジアの苑》。そして、散策のゴールは李禹煥《関係項-アーチ・関ケ原》。自家用車で来ると《関係項-アーチ・関ケ原》が入口になるようです。なので、芝生広場に向かって、《関係項-アーチ・関ケ原》を背に、記念写真を撮影しました。山田さんからは《関係項-アーチ・関ケ原》について「鉄のテンションを石が受け止めている形。石と鉄は押し合っている」との解説がありました。



なお、せきがはら人間村関係のURLは次のとおりです。URL: 人間村について|せきがはら人間村



名古屋駅までの車内では16001710



 予定では1530の出発でしたが、ツール参加者が熱心に鑑賞するので山口さんのテンションも上がり、予定時刻を30分オーバー。でも、楽しく過ごせたのでOK。山田さんもトークで「スタッフが楽しんで案内しているのが素晴らしかった。」と絶賛していました。山田さんは、年明け後に見るべき展覧会として、豊橋市美術博物館の「生誕100
中村正義展」(2.223.30)を挙げていました。協力会のミニツアーで行けると良いですね。



 帰路は、関ケ原ICから名神高速道、小牧ICで名古屋都市高速道路に入り、黒川出口から一般道という経路。行楽帰りの車両の影響で速度が少し落ちましたが、名古屋駅太閤通口着は1710。発車時の30分遅れを20分縮めました。



最後に



天候に恵まれ、事故もなく、バスの車内では山田さんのトークを8年ぶりに聴くことが出来ました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバーさま、参加された皆さま、ありがとうございました。



Ron.



映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(2024年制作 日本映画)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.28 投稿

伏見ミリオン座で上映中の映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(原題:Viva Niki The Spirit of Niki de Saint Phalle、以下「映画」)を見てきました。映画は、カラフルで大きな女性像=ナナで有名なニキ・ド・サンファル(1930-2002、以下「ニキ」)が20年以上かけてイタリア・トスカーナの森に作った、巨大な彫刻庭園タロット・ガーデン(Tarot Garden)を主題に、ニキの画業を紹介するドキュメント映画です。

監督・撮影・脚本は写真家の松本路子(みちこ)、ナレーションは小泉今日子。映画の公式ホームページは次の通りです。 Viva Niki タロット・ガーデンへの道 公式ホームページ

◆映画の内容

① 導入部

最初に上空から撮影した森が登場し、続いてアントニ・ガウディの「グエル公園」を思わせる柱や彫刻(というよりも構造物)のある庭=タロット・ガーデンが出現します。

② ニキと監督の出会い

 監督がニキと出会ったのは1981年。1枚の肖像写真を撮影する予定でしたが、監督はニキの家でタロット・ガーデンの構想を聞き、以来、ニキの写真を撮影し続けることになります。

③ 3人のナナ

続いて紹介されるのは、1974年にドイツ・ハノーファー(Hannover)に設置された《3人のナナ》。ポリエステル製の彫刻で「カロリーナ」「シャルロッテ」「ゾフィー」の3体です。「1974年当時は、設置反対の声が渦巻き、設置賛成の声と激しく衝突していた」と紹介され、続いて、ハノーファー市民にすっかり受け入れられている現在の様子が映し出されました。

④ ニキが「ナナ」を生み出すまで

 ニキは富豪の家に生まれますが、彼女の誕生間もなく世界恐慌で家は没落。ニキは20代で精神疾患を発症し、アートセラピーとして絵を描き始めます。そして、1961~62年にニキが発表した作品は「ナナ」ではなく「射撃絵画」。石膏のレリーフを銃で撃ち、その衝撃で石膏の中に埋め込まれた絵具がレリーフを様々な色に装飾するという作品です。1963-64年には《薔薇色の出産》など女性の苦悩を表現した作品を発表。1960年代になって、友人の妊婦姿にインスピレーションを受けた「ナナ」シリーズの制作が始まった、と紹介されます。

⑤ 巨大化した「ナナ」は構造物に

 1966年には、ストックホルム近代美術館から依頼された企画で、《ホン》という高さ6m、長さ26mの体内を巡るインスタレーションを発表。続いて、ベルギーの富豪からの依頼で高さ6.4m、長さ33.4mのプレイハウス《ドラゴン》を制作。《ドラゴン》の2階には寝室があり、そこから滑り台で外に出ることが出来ます。監督は「《ドラゴン》の寝室で宿泊した」と語っています。

1983年には、フランス・パリのポンピドゥー・センター隣のストラヴィンスキー広場の池に、公私のパートナーである彫刻家のジャン・ティンゲリーと共同で16個の彫刻噴水《ストラヴィンスキーの泉》を制作。監督は、野外での写真撮影を嫌うニキに頼み込んで《ストラヴィンスキーの泉》を背景にしたニキを撮影します。

⑥ 日本で見ることができる「ナナ」

 日本でも多数の「ナナ」が展示されています。映画が紹介したのは香川県のベネッセアートサイト直島の《ベンチ》《猫》《ラクダ》等とベネッセホールディングス東京本部の《恋する大鳥》《蛇の樹》の外、箱根・彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》などでした。

⑦ 上野千鶴子がニキの作品を分析

 映画には上野千鶴子が登場し、「射撃絵画」や《薔薇色の出産》などを見て、ニキは神経症を患っていると分析。その原因については、ニキが自分の著書に12歳の時に父親から性的虐待を受けたことが原因と書いていることを紹介。70歳近くになって、ようやくカミングアウトしたことについて、衝撃の重さ・苦しみについて語っています。

⑧ 「タロット・ガーデン」の制作

 ニキはアントニ・ガウディのグエル公園を見て、自分でも同じような公園を実現したいと思っていました。イタリアのトスカーナの森に土地を見つけ、1978年からタロット・カードの22枚の札を彫刻作品にした公園の整備に着手し、20年の歳月をかけて1998年から一般公開していることが紹介されます。

 再び、冒頭のシーンが現れ、グエル公園のように見えたのはタロット・ガーデンのNo.4 The Emperor だったと分かります。斜めの柱があり、構造物の表面はカラフルな陶板や鏡、色ガラスで覆われています。この外、No.1 The Magician、No.10 The Wheel of Fortune、No.3 The Empressを始めとする主な作品を紹介。なかでも、The Empress(女帝)は乳房の内部が住居になっており、ニキが7年間アトリエ兼住居として使用。監督は1985年5月に建築現場を訪問しました。

現在、タロット・ガーデンの公開は4月から10月の午後の5時間限り。世界中から、年間10万人が来場しています。閉館期間は、古くなった陶板を外して貼り付け直す等、彫刻の補修をしていますので、管理スタッフの休む間は無いとのことです。

⑨ アメリカ・サンディエゴへの移住・晩年の作品

ニキはポリエステルで作品を制作していたため、長年にわたって呼吸器疾患に悩まされていました。1993年に、温暖な気候のアメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴに移住して療養。移住した頃は毎日酸素ボンベのお世話になっていましたが、症状が落ち着いた晩年には、カリフォルニア州エスコンディードで、彫刻庭園《カリフィア女王の魔法の輪(Queen Califia’s Magical Circle)》やドイツ・ハノーファーのヘレンハウゼン王宮庭園のグロッテ(洞窟)の修復・再設計等に取り組み、2002年にサンディエゴで永眠しました。

◆最後に

ニキ・ド・サンフィルの作品は、協力会のツアーで見学した彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》を見ただけで、作家のニキについては全く知識がありませんでした。

この映画では、ニキがファッションモデルだったことや、正規の芸術教育を受けたことが無く、統合失調症のアートセラピーで絵を描き始めたこと、アントニ・ガウディのグエル公園を見て《タロット・ガーデン》の制作を思い立ち、20年という歳月をかけて一般公開を行ったことなど、ニキの生涯と作品について広く知ることが出来ました。

映画に登場する作品はカラフルで見ごたえのあるものばかりです。早めにご覧になることをお勧めします。

Ron.

「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

2024.10.12(土)17:00~18:30

名古屋市美術館(以下「市美」)で開催中の「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」(以下「本展」)の協力会向けギャラリートークに参加しました。参加者は43名。講師は、井口智子学芸課長(以下「井口さん」)。先ず、2階講堂で井口さんのレクチャーを聴き、その後は自由観覧。自由観覧には井口さんも参加されました。以下は、井口さんのレクチャーの要点、本展の感想・補足などです。

◆井口さんのレクチャーの要点(2階・講堂)17:00~17:50

 井口さんのレクチャーの内容を箇条書きにしました。

1 本展の巡回先

①大阪中之島美術館から始まり②いわき市立美術館、③東広島市立美術館、④世田谷美術館、⑤富山県美術館、⑥名古屋市美術館、⑦福岡市美術館の7館。市美は6館目。「民藝」の展示は、市美で初めて。

2 美術館で「民藝 MINGEI」を開催する意味

民藝運動を始めた柳宗悦(やなぎ・むねよし:英語ではSoetsu Yanagi、以下「柳」)が見た美にフォーカスしたい、という観点から「美術館で開催する」こととなった。

3 民藝運動が広がるまでのターニング・ポイント

(1)ロダンに浮世絵を贈り、そのお返しに彫刻3点を贈られた

柳は、学習院時代の仲間と雑誌「白樺」を創刊。西洋美術に興味を持ち、ロダンに手紙を送る。手紙だけでなく、ロダンが関心を寄せていた浮世絵を贈ったところ、ロダンからお返しとして《ロダン夫人》始め彫刻3点が贈られた。

(2)朝鮮の磁器に魅了された

柳が手許に置いていたロダンの彫刻を見るために、「白樺」の愛読者・浅川伯教(あさかわ・のりたか)が柳を訪問。柳は、浅川が持参した手土産《染付秋草文面取壺》に魅了された。

本展に《染付秋草文面取壺》の展示は無いが、第Ⅰ章の《白磁水滴》第Ⅱ章の《蝋石製薬煎》は朝鮮の物。

(3)木喰仏に出会った

柳は、朝鮮陶磁器を調査するために蒐集家を訪ねて山梨県まで出掛けた。その時、訪問先、の蔵の前に置かれた仏像に目が止まった。その仏像が「木喰上人が彫ったもの=木喰仏」と知った柳は、日本各地を調査して350体の木喰仏を見つけた。(現在、木喰仏は1000体が確認されている)

(4)地方の手仕事に出会った

木喰仏を訪ねて全国各地を調査する旅の中で、柳は地方の手仕事に出会った。

(5)京都の朝市で「下手物」を買い集めた

関東大震災に被災して京都に移住した柳は、朝市で「下手物」と呼ばれていた、無名の工人が作った工芸品を見つけ、買い集めた。朝市で第Ⅱ章に展示の唐津焼《緑釉指描文鉢》を買った時、鉢の値段よりも帰りのタクシー料金の方が高かったと、柳が書いている。また、第Ⅲ章で展示のバーナード・リーチが描いた絵《染付皿下絵 小屋(軽井沢)》の表装は、柳が朝市で買ってきた丹波布。

(6)「民藝」の創設

 無名の工人が作った工芸品にふさわしい、「下手物」に替わる呼び名として、民衆的工芸=「民藝」という言葉を作った。

(7)日本民藝美術館設立趣意書

 1926年に河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦、富本憲吉の4名連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。1936年には、東京・駒場に「日本民藝館」を開館した。

4 本展の構成と主な展示品

第Ⅰ章 1941生活展-柳宗悦によるライフスタイル提案

 1941年に日本民藝館の館内で「生活展」を開催。モデルルームのような展示だったが、本展ではこの「生活展」を再現。土瓶のように見えるのは、濱田庄司の《紅茶器》。椅子はイギリス製の《ラダーバックチェア》。燭台は熊代重延が制作したもの。支柱がらせん状で、蝋燭立てを溝に沿って回転する、蝋燭の高さを変えることが出来る。

第Ⅱ章 暮らしのなかの民藝-美しいデザイン

 本展では「衣」「食」「住」「沖縄」という仕分けで展示。

Ⅱ-1「衣」を装う

《波に鶴文夜着(よぎ)》は寝具で、元々は綿入だった(注:夜着は、掻巻(かいまき)とも言う。合わせ目を背中に向け、袖に両手を通して体に掛ける)。《刺子稽古着》は全面に刺子を施し、布を補強。装飾でもあった。《厚司(アットゥシ)》はアイヌの着物。樹皮からの繊維で織り、木綿の布を縫い付けている。《蓑文一ツ身浴衣》は、鳴海・有松絞の幼児用浴衣。

Ⅱ-2「食」を彩る

 《染付羊歯文湯呑》有田の磁器は「日本民藝美術館設立趣意書」の表紙を飾った。《呉須鉄絵撫子文石皿》は瀬戸焼。柳は「日本民藝図鑑」で次のように書いている。「路傍に咲いた二輪の撫子を描いたものにすぎぬが(略)美を狙いそれに囚われる吾々の心の不自由さと、何か違うものがあった為ではないであろうか。さしたる絵心もなく、こんなに描けるということは、大した事だと云ってよい」展示室で石皿の下に敷いているのは「大井川葛布」。日本民藝館の内装にも大井川葛布が使われている。

 《いっちん行平(ゆきひら)》は、おかゆ用の土鍋。「いっちん」とは化粧土のこと。丸っこくて、可愛い姿をしている。《スリップウエア角皿》はイギリスの陶器。「スリップウエア」とは化粧土による装飾だが、忘れ去られた技法。バーナード・リーチと濱田庄司が蘇らせた。《網袋(鶏卵入れ)》は蛇・鼠の害を防ぐために朝鮮半島で使われていたもの。《茶碗籠》は広島県で使われていた水切り籠。

Ⅱ-3「住」を飾る

 《桐文行燈》《卍文行燈》は、中に明りをつけて展示。《燭台》《芯切鋏》は、実用的で美しい形をしている。

Ⅱ-topic 気候風土が育んだ暮らし-沖縄

 見どころは《芭蕉布島着物》《クバ団扇》《流水に桜河骨(こうほね)文紅型着物》《蝶小花文紅型着物》など

第Ⅲ章 ひろがる民藝―これまでとこれから

Ⅲ-1 『世界の民藝』-新たな民藝の世界

 『世界の民藝』は、週刊誌の連載をまとめたもので、芹沢銈介美術館が所蔵。ペルーの《人形》は素朴で温かみがある。メキシコの《入れ子土鍋》は良いアイデアの鍋だけれど、壊れやすいので数が減った。

Ⅲ-2 民藝の産地-作り手といま

 五つの産地と製品=小鹿田焼(大分県)・丹波布(兵庫県)・鳥越竹細工(岩手県)・八尾和紙(富山県)・倉敷ガラス(岡山県)を紹介。井口さんは丹波布を調査。

 柳が朝市で目にしたのが丹波布。生産地も分からないほど忘れられた存在だったが、染色研究家の上村六郎に頼んで調査し、1931年に『丹波布』を刊行。丹波市青垣町で織られていた、手紡ぎの絹と木綿を交織りした布で1954年に復興。現在は「丹波伝承館」で技術の伝承活動を行っている。

 井口さんが紹介したのはイライズム千尋(ちひろ)さん。糸を紡ぐ作業の動画を1階の展示室で見ることができる。糸の染織は草木染め。機織りは手機。製品は座布団、ポーチ、枕カバーなど。

 井口さんは、丹波布を制作している河津年子さんが書いた、次の言葉を紹介されました。

「そうじしたり/洗たくしたり/するように/布を織る/生活の中から/生まれる布/丹波布」

Ⅲ-topic Mixed MINGEI Style by MOGI

 東京・高円寺でセレクトショップ「MOGI Folk Art」を主宰するテリー・エリスさんと北村恵子さんが使っているものを展示している。巡回先ごとに関係の深いものを選んでおり、名古屋会場では瀬戸焼の石皿を展示。

 北村恵子さんは「品物を選ぶときに大きいものと小さいものがあった時は、大きいものを手に入れる」とアドバイス。「大きいものだと大事にするので、世界が広がる」「情報から入るのではなく、見た時の印象を大事にする」「自分が良いと思ったものを選ぶ」のだとか。

〇市美の催事PRなど

・講演会「民藝:伝統/産地と今をつなぐもの」 講師:濱田琢司(関西学院大学教授:祖父は濱田庄司)

11月2日(土)14:00~15:30(開場は13:30)

・地下1階 常設展示室3で「西方寺所蔵 棟方志功襖絵」を開催しています。31年ぶりの展示なので、是非、ご覧ください。

◆自由観覧 17:50~18:30

 参加者が目を留めたのはⅡ-1の《屋号入革羽織》。井口さんは「鹿革製でとても重い。火消しは革の頭巾、革羽織を着て、頭から水をかぶって火事場に向かった」と解説。Ⅱ-2の《湯釜》には「丸に一文字」の紋が付いた厚い木蓋。調べると「丸に一文字」の紋で有名なのは那須与一でした。また、《スリップウエア角皿》は予想以上に大きなものでした。Ⅲ-topicでは「OKINAWA」と刺繡の入ったスタジアムジャンパーが目を惹きました。

Ron

展覧会見てある記「瀬戸染付 -軌跡そして美と技-」瀬戸市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.08 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「磁祖加藤民吉没後200年事業 国際芸術祭「あいち」地域展開事業連携企画 瀬戸市市制95周年記念 瀬戸市美術館特別企画展 瀬戸染付 - 軌跡そして美と技 -」(以下「本展」)を見てきました。以下は、その概要と感想などです。

◆本展の構成

本展は、青色の顔料で絵付けした「染付」の生産が瀬戸で始まってから、昭和中期に至るまでの作品を三つの時代に分けて展示。皇居の宮殿を飾る「大盆栽」用の「盆鉢」の特別展示も開催しています。

本展は、加藤民吉の作とされる《染付山水図大花瓶》を1階ロビーに展示。通常の順路とは違い、1階・第2展示室から第1章が始まり、第2章と第3章の一部は1階・第1展示室に展示。第3章の残りは2階・第4展示室から第3展示室にかけて展示。特別展示の第4章は第3展示室を使用しています。

◆第1章 瀬戸染付の始まり-初期瀬戸染付(1階・第2展示室)

本展の解説によれば、瀬戸で染付の生産が始まったのは1801年。磁祖とされる加藤民吉が九州で磁器製造の技術を習得したのが1804年から1807年。最初の展示品《染付山水図水指》は享和年間(1801~04)制作です。解説は「素地の白さや呉須の青色は、技術的な改善の余地がある」としています。それが、文化年間(1804~18)制作の《染付山水人物図桐葉型皿》では、素地の白さ呉須の青色のいずれも鮮やかです。文政9年(1826)頃に制作の《染付竹図水指》では、更に技術的な進展が見られます。

この外に目を惹かれたのは《染付馬図水指》です。磁器以外に、陶器の染付があることを知りました。

◆第2章 瀬戸染付の発展-川本治兵衛・川本半助を中心に(1階・第1展示室)

第2章は、江戸時代後期から幕末にかけて制作された作品を展示。目を惹かれたのは《染付雲鶴文火入(一対)》で、鶴を青、雲を金色で描いています。「火入」について、解説は「煙草盆の中に組み入れる道具で、煙草に火をつける火種を入れておく器」としています。茶道における火入の使い方を調べると、次のとおりでした(URL: 水の茶の湯の徒然 火入の灰型 (fc2.com))。

鮮やかな瑠璃色の手桶《瑠璃釉貼花彫牡丹獅子文手桶》は、獅子と牡丹が浮き彫りのように盛り上がっています。技術の高さを感じました。

銅版転写で模様を描いた《銅版染付丸窓絵大植木鉢》の解説は「同じ模様を施すことが出来ることが銅版転写の利点であるが、当時の銅版転写は手描きと比べて、決して効率のよいものではなかったと言われている」というものでした。調べると、銅版に彫った模様を紙に印刷し、その紙を素地に貼り付けて転写したようです(URL: やきものの技法・印版・銅版絵付け・銅版転写【うまか陶】 (umakato.jp))。

《磁胎蒔絵鶴図蓋付碗》は、染付の蓋付碗に蒔絵を施した作品です。解説は「やきものと分かった時に、驚きとそれに対する話題を誘う器である」と書いていました。

◆第3章 瀬戸染付の飛躍-国内外で際立つその美と技

〇1階・第1展示室

第3章は、明治から昭和中期までの作品を展示しています。1階・第1展示室の作品では、青磁と染付の技法を融合させた《青磁染付窓絵草花図花瓶》が目を惹きました。展示は、更に2階へ続きます。

〇2階・第4展示室

第4展示室入口近くに展示の《染付桜花文台鉢》は、鉢の内・外すべてに桜花文が散らされた清楚な作品でした。余白の割合が大きいので素地の白と模様の青が引き立て合って、鮮やかに見えます。

その次の《釉下彩唐草虫文花瓶》には「釉下彩で蝶やバッタのなどの昆虫が描かれている。(略)後に流行するアール・ヌーヴォーの作品に影響を与えた可能性のある図柄」という解説が付いています。なお、釉下彩については、次の解説があります(URL:釉下彩作品 – E ミュージアム大阪 (emosaka.com))。

第2章には蒔絵を施した作品がありましたが、第3章には染付を七宝で装飾した作品がありました。《磁胎七宝花唐草文花瓶》です。解説は「明治時代初期に盛んに生産されたが、明治10年代(1877~86)後半にはほとんどその姿を消した」「海外からの里帰り品である」と書いていました。

「高浮彫」と言えば宮川香山が有名ですが、本展でも高浮彫を展示しています。《染付高浮彫花鳳凰図花瓶》です。

〇2階・第3展示室

写真の《釉下彩花鳥図花瓶(一対)》は、青だけでなくピンク、黄色、茶色も使われた華やかな作品です。これも「海外からの里帰り品」です。

◆第4章 特別展示 皇室の盆器(2階・第3展示室)

第4章は、季節ごとに宮殿の大空間を飾る「大盆栽」に使用された「盆器」7点を展示しています。盆栽に使う鉢は「盆栽鉢」ですが、宮内庁では、それを「盆器」と呼ぶそうです。

鮮やかな瑠璃色の《瑠璃釉貼花彫葵文水盤》が展示室の中央に展示されています。「高浮彫」も施されています。隣で鑑賞していた来場者が、「よく見ると、釉薬を掛け残した白い点がある。でも、大型なのでこれくらいのキズは問題にならない。この部屋で見るべきものは《瑠璃釉貼花粟穂雀文六角大植木鉢(一対)》の右側の鉢。何のキズもない完璧な作品ですよ」と教えて下さいました。

展示室には、宮内庁の盆栽を管理している「宮内庁大道(おおみち)庭園」の写真が掲載されていました。管理用なので、いずれも地味な盆器ですが、 宮内庁のホームページを見ると、皇居に盆栽を飾る時は季節にふさわしい盆器に植え替えて展示しているようです。

以下、URLを2つご紹介します。

① URL: 新年春飾り作成 – 宮内庁 (kunaicho.go.jp)

② URL: 宮殿を飾る盆栽(春飾り) – 宮内庁 (kunaicho.go.jp)

◆最後に

本展公式サイトのURLは、下記のとおりです。

URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)

なお、当日は時間が無くて寄れませんでしたが、本展の帰りには「瀬戸蔵ミュージアム」(URL: 瀬戸蔵ミュージアム | 瀬戸市 (city.seto.aichi.jp))もご覧になることをお勧めします。陶磁器の製造工程や瀬戸焼の歴史の展示などがあります。

Ron.

展覧会見てある記「民藝 MINGEI」名古屋市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.07 投稿

名古屋市市美術館(以下「市美」)で開催中の「民藝  MINGEI 美は暮らしのなかにある」(以下「本展」)を見てきました。以下は、その概要と感想などですが、本展監修者の森谷美保氏(以下「森谷さん」)の講演会「暮らしのなかの民藝」(10.05開催)の内容も加えています。

◆第Ⅰ章 1941生活展―柳宗悦によるライフスタイル提案

本展は通常と異なり、市美の2階が入口です。受付を済ませて展示室に入ると、柳宗悦邸の書斎・食堂を再現した空間が広がっています。テーブルや食器棚、ビューロー(蓋を開けると机になる戸棚)に皿やティーカップ、燭台、硯などを並べて、柳宗悦のライフスタイルを提案していました。

同じような展示方法は2023年春、2024年春にジェイアール名古屋タカシマヤで開催された北欧デザイン展で見て「新鮮な展示方法だな」と感心しましたが、森谷さんによれば、柳宗悦は1941(昭和16)年に日本民藝館で実施していたのです。本展はその時の再現とのこと。「1941年の時、入館者は椅子に座ることも出来た」そうです。

当時の写真は本展公式サイト(以下「公式サイト」 URL: みどころ|『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))に掲載されているので、興味があれば検索してください。

本展はロープ越しに展示品を見ることになります。細部を観察したい方は単眼鏡をご持参ください。

上記写真は展示の一部です。黄色いガレナ釉鉢はバーナード・リーチの一番弟子・マイケル・カーデューの作品。六角鉢は沖縄の壺屋焼、陶製のレンゲは島根県・布志名焼、ティーセット(つる付のポットと砂糖入れ)とティーカップは濱田庄司の、青い角鉢は河井寛次郎の作品です。森谷さんによれば「民藝は、民衆的工藝品の略。無名の工人がつくり、一般民衆が日常で用いる器、衣類、品物」とのこと。この定義を徹底すると、マイケル・カーデュー、濱田庄司、河井寛次郎といった個人作家の作品は「民藝」か、否か、微妙なものがありますが、柳宗悦は個人作家の作品を排除せずに収集したということですね。

◆第Ⅱ章 暮らしのなかの民藝―新しいデザイン

第Ⅱ章は「衣」「食」「住」「沖縄」の4つのパートに分かれています。

〇Ⅱ-1 「衣」を装う

先ず目を惹くのが「刺子稽古着」(江戸時代)です。近寄らないと分かりませんが、細かい刺し子が施されています。近藤勇や土方歳三も、このような稽古着を着て剣術修業に励んでいたのでしょう。《剣酢漿草大紋山道模様被布(けん かたばみ だいもん やまみちもよう かつぎ)》について森谷さんは「草花を刺繍した古い着物を染め直したもの」と紹介。染め直した箇所をご確認ください。有松絞の浴衣もあります。

〇Ⅱ-2 「食」を彩る

先ず目を惹くのが、佐賀県・有田焼の湯呑2点と猪口。猪口は公式サイトに画像があります。滋賀・信楽焼の《焼締黒流茶壺》も見応えがあります。焼締は釉薬を掛けない陶器ですが、この壺は部分的に掛けられた釉薬が、見る者に強い印象を与えます。愛知県・瀬戸焼の《呉須鉄絵撫子文石皿》は、名古屋展サイト(URL: 特別展 「民藝 MINGEI-美は暮らしのなかにある」 | 展覧会 | 名古屋市美術館 (city.nagoya.jp))に画像があります。10月6日放送のNHK・Eテレ「美の壺」(絵皿)でも瀬戸焼の石皿(絵は柳の葉:本展のⅢ-topicでも同様の皿を展示)を紹介。石のように丈夫だから「石皿」と呼ばれ、台所や煮物屋の店先で使われていた日常使いの皿です。石皿を生産している様子も放映されました。皿の真ん中で緑と黒に色分けされた鳥取県・牛ノ戸焼《緑黒釉掛分皿》(公式サイトに画像あり)も印象的です。朝鮮半島で作られた《蠟石製薬煎》は、森谷さんが「見ておくべき」と推奨の展示品です。

なお、名古屋会場の「食」の展示について、森谷さんは「6つの巡回先で一番」と評価していました。

〇Ⅱ-topic 気候風土が育んだ暮らしー沖縄

Ⅱ章 topicから、会場は1階に移動。先ず出会うのは、《白掛燭台》《笠》《クバ団扇》など。目を惹いたのは紅型2点です。沖縄県・壺屋焼の《焼締按瓶》《白掛呉須唐草文蓋付碗》も見ものです。

〇Ⅱ-3 「食」を彩る

《灰ならし》《手箒》《芯切鋏》などの生活道具が並ぶ中で目を惹くのは、鉄製の《桐文行燈》。森谷さんは、浜松市で1931年に日本民藝美術館を開館した浜松市の収集家・高林兵衛宅の所蔵品と解説。

◆第Ⅲ章 ひろがる民藝―これまでとこれから

〇Ⅲ-1 『世界の民藝』―新たな民藝の世界

第Ⅲ章は「『世界の民藝』-新たな民藝の世界」「民藝の産地-作り手といま」及び「topic」の3つのパートに分かれています。パート1には、ペルーの人形やギリシアの踊り衣装などを展示しています。

〇Ⅲ-2 民藝の産地―作り手といま

パート2は、大分県・小鹿田(おんた)焼、兵庫県・丹波布、岩手県・鳥越竹細工、富山県・八尾和紙、岡山県・倉敷ガラスの5つの産地と製品を紹介。小鹿田焼で目を惹くのは《鉄釉黒黄流文字入せんべい壺》。壺には「せんべい入」の文字があります。焼きたてのせんべいを入れていたのでしょうか。

5つの産地、それぞれに現行品と映像を展示したコーナーがあります。公式サイトの「ホーム」をクリックすると動画があります。公式サイトの「スペシャル」(URL: MINGEI Guide_HP DL (exhibit.jp))をクリックすると、5つの産地の「民藝ガイド」をダウンロードできます。

この外、大津絵《大黒外法の相撲》も見逃せません。

〇Ⅲ-topic  Mixed MINGEI Style by MOGI

Topicは、現代の民藝を配置したインスタレーションです。写真はその一部で、瀬戸焼の石皿、牛ノ戸焼の皿、柳宗悦の長男・柳宗理(本名:やなぎ・むねみち、インダストリアル・デザイナーとしては、やなぎ・そうり、と読む)がデザインしたバタフライスツール(天童木工製)が写っています。柳宗理は、父親に反発してインダストリアル・デザイナーの道に進みましたが、後年は日本民藝館の館長を務めています。

◆最後に

受付に作品リストが見当たらなかったので、作品リストを持たずに本展を鑑賞しました。第Ⅰ章には写真付きの作品リストが掲示されていますが、紙の作品リストが欲しい方は、下記のURLからダウンロードできます。

※ 作品リストのURL: af8c8d21534b199770a809c2459bee99.pdf (city.nagoya.jp)

〇補足

地下1階・常設展示室3では、民藝運動に参加した棟方志功作の西枇杷島町小田井・渡河山西方寺襖絵を展示しています。前回の展示は1993年ですから31年ぶりのお目見えなので、必見です。

Ron.

展覧会見てある記「生誕130年 荒川豊蔵展」岐阜県現代陶芸美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

岐阜県現代陶芸美術館(以下「美術館」)で開催中(11/17まで)の「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)に行ってきました。利用したのは土・日・祝日だけ運行する「ききょうバス」です。多治見駅南口発の発車時刻は午前中が9:10、10:10、11:10の3本。美術館までは25分ほど。美術館発・多治見駅南口行きの発車時刻は、午前中が9:40、10:40、11:40の3本。午後は13:40からです。

当日、バスが美術館に到着したのは5分遅れの10:40。13:40発のバスだと3時間後なので、11:40発に乗ることを決めました。帰りのバス発車時刻まで、1時間しかありません。

バス停から美術館までは5分ほど。シデコブシ自生地を跨ぐ橋を歩くとトンネルの入口に差し掛かり、トンネルを抜けて、ようやく美術館の全貌が現れました。本展の会場は、美術館に入ってすぐの場所です。観覧料は一般1,000円。以下は本展の内容紹介、感想などです。

◆Ⅰ. プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵(人間国宝に指定された昭和30年前後以降の作品を展示)

本展は8章で構成。荒川豊蔵(以下「豊蔵」)が作陶した陶磁器だけでなく、豊蔵が描いた絵や豊蔵が収集した尾形乾山作の角皿や陶片を金継ぎした茶碗も展示しているので見飽きません。

Ⅰ章で目を惹くのがピンク(薄紅色)に発色した茶釜型の水指《志野山の絵水指》です。可愛らしい形の水指で、山の絵が描かれています。Ⅰ章にはこの外にも同名の水指が、白と赤の2点出品されています。何れも円筒形でした。そのうち、白い水指は本展チラシ(以下「チラシ」)の裏に図版が載っています。

「志野」の茶碗では、薄紅色の《志野茶垸 銘氷梅》(作品リストの表記は「茶垸」)が見逃せません。茶碗に掛かった釉薬が縮れて膨れ、割れ目が生じています。解説は「梅花皮(かいらぎ)状に縮れた志野釉を氷の割れ目にみたて、そこに梅の花が浮かび上がっている」と表現しています。この茶碗の図版は本展のプレスリリース(URL: ARAKAWA_Toyozo_Release (cpm-gifu.jp))やチラシの表に掲載されています。この外《志野茶垸 銘朝暘》(チラシ裏に図版)も薄紅色で、梅花皮がきれいに入っています。同じ茶碗でも《志野鶴絵茶垸》は灰色の地に大きく白鶴を描いており、その肌は梅花皮ではなく、ミカンの皮のようにツルッとしています。解説には「俵屋宗達・画、本阿弥光悦・書の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』に描かれた鶴を思わせる」とありました。

一方、「瀬戸黒」の作品は茶碗と花入です。このうち《瀬戸黒茶垸》には釉薬を掛けた時の指の跡があります。

Ⅰ章には、じっくり見たい作品が多数あります。本展の解説は簡潔で分かりやすく、作品を焼成した窯の表記もあり親切で有難いのですが、解説を一つひとつ丁寧に読んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。観覧時間が限られている場合は、ご注意ください。

◆Ⅱ. 東山窯と星岡窯 - やきものに風情があるのを知る(志野陶片を発見する以前の作品を展示)

Ⅱ章の展示は、日本画家を雇い、瀬戸から取り寄せた素地(素焼きの磁器)に上絵付(釉薬の表面に色絵を描くこと)させたデミタスカップや、京都・伏見の宮永東山窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付(素地に呉須(酸化コバルト)で絵を描き、釉を掛けて焼成すると描いた絵が藍色に発色する)、北大路魯山人の鎌倉・星岡窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付などです。

豊蔵は絵に自信があったこと、豊蔵が手がけていたのは売れ筋の磁器だったことが分かりました。

◆Ⅲ. 荒川豊蔵の陶芸(志野陶片の発見、大萱牟田洞窯の築窯及び乾比根会の結成等に関連する展示)

Ⅲ章の見どころは、名古屋の旅館で北大路魯山人と豊蔵が志野筍絵茶碗を眺める姿を描いた額《古志野発見端緒の図》と、美濃の山で陶片を探す姿を描いた六曲一双の屏風《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》です。志野陶片発見の約50年後に豊蔵が描いた作品ですが、当時の興奮が伝わってきます。

豊蔵は志野陶片を発見した後、昭和8年に岐阜県可児郡久々利村大萱(現、可児市)に窯を作りますが失敗。翌年、40m移動した地に「大萱窯」を築き直し、初窯を焚きます。そのためか、Ⅲ章に展示されているのは昭和10年以降の作品です。腰の張った筒形の《瀬戸黒茶碗 銘寒鴉》(チラシ裏に図版)等が展示されていました。この外、「秋のツアー」のお知らせに掲載されていた《黄瀬戸破竹花入》(図版はプレスリリースとチラシ裏に掲載)もⅠ章に展示されています。解説には「華道家の勅使河原蒼風と写真家の土門拳がこの花入に松を生け、撮影した」とあります。確かに前衛的な生け花にはぴったりですが、裂けた花入れに松をどのように生けたのか、とても気になりました。(水を入れた竹筒などを花入れの中に置いて、花を生けたようです)

Ⅲ章には大萱窯以外に、宮永東山窯で作陶した色絵《古九谷風石庭の図平鉢》(チラシ裏に図版)等も展示されています。解説は「個展の出品には大萱の作品だけ足りないので、宮永東山窯で焼かせてもらった」というもの。古巣とはいえ、豊蔵に焼成を許した宮永東山は太っ腹ですね。宮永東山は豊蔵を信頼していたのでしょう。

以上の外、三重県の財界人・陶芸家の川喜多半泥子(かわきた はんでいし:以下「半泥子」)と豊蔵との関係も見どころです。豊蔵が津市・千歳山の半泥子を訪ねた時の礼状《半泥子宛書簡(千歳山訪間の礼状)》、半泥子・豊蔵・三輪休和(萩焼)・金重陶陽(備前焼)の4人で作陶連盟乾比根会(からひねかい)を結成した時の様子を描いた《陶匠友誼図》、豊蔵の陶房を訪れる人の掟として半泥子が書いた《出入帖(宿帖)》を展示しています。書簡の内容や出入帖の「8か条の掟」の内容は本展の解説に書いてあるので「一見の価値あり」です。

(注)「半泥子」は、16代続く名家の当主が道楽で家を傾けることの無いよう、南禅寺の禅師が命名した号。「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」を意味し「半分泥だらけになりながら没頭しても、半分は冷静に己を見つめよ」という教えです。(出典のURL:【探訪】ろくろのまわるまま−究極の素人・川喜田半泥子(三重県津市、石水博物館)キュレーター・嘉納礼奈 – 美術展ナビ (artexhibition.jp)

◆Ⅳ. 暮らしとともに - 水月窯と大萱窯の食器(戦後、多治見市虎渓山に豊蔵が作った水月窯関係の展示)

戦後、豊蔵は一般家庭向けの器を生産するため、多治見市虎渓山に磁器の焼成や、量産、染付、色絵の制作も可能な水月窯を作ります(水月窯の詳細は、平成22年に多治見市文化財保護センターで開催された企画展「水月窯と荒川豊蔵」のパンフレット(URL: suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp))をご覧ください)。

目を惹いたのは、豊蔵が考案した《梅花文汲出》です。水月窯のベストセラーで、昭和20年代の製品と昭和30年代の製品を展示しています。なお、「汲出(くみだし)」は湯呑よりも浅く、口が広い茶器。上記パンフレットによれば、《梅花文汲出》は粉引(こひき:素地に白い土で化粧を施し、その後、釉薬を掛けて焼成した陶器)です。

◆Ⅴ. 描く、愉しむ(水月窯で可能になった染付や色絵の作品と絵画などを展示)

水月窯では染付、色絵が焼けるので、絵が得意な豊蔵は文人画風の絵を描いた《染付閑居作陶之図四方皿》(チラシ表に図版)や《色絵灌園便図四方飾皿》(チラシ裏に図版)のような飾皿、《壺に桃花流水之図》(チラシ裏に図版)のような絵画を多数制作したようです。

◆Ⅵ.  交友 - 芸術家との共作、五窯歴遊(唐津、萩、備前、丹波、信楽で作陶した作品等を展示)

川合玉堂や前田青邨と共作したやきものの外、萩焼、唐津焼、備前焼、丹波焼、信楽焼の窯元で作陶した作品を展示しています。とはいえ、やきものの特徴がはっきりと分かるのは、釉薬を掛けずに1200度~1300度の高温で焼き締めた備前焼くらいでした。名古屋市美術館で開催予定の「民藝 MINGEI」に地方のやきものが出品されるので、それぞれの特徴をつかもうと思います。

◆Ⅶ. 収集品にみる荒川豊蔵の眼と作品へのひろがり(豊蔵が収集した尾形乾山の角皿などを展示)

出土した陶片を金継ぎした《織部呼継茶碗》は見ものです。解説には「豊蔵は、訪ねてきた随筆家の白洲正子にこの茶碗で茶をふるまっている。飲み干して呼び継ぎに気づいた白洲は衝撃を受けて、のちに随筆『よびつぎの文化』を執筆した」と書いてあります。尾形乾山の角皿も見逃せません。

◆Ⅷ. エピローグ

手控帖、写生・作陶道具などを展示しています。

◆ 最後に

今回の鑑賞時間は、移動時間を除くと実質50分ほどでしたから、一通り駆け足で見てから入口に戻り、「これは」と思った作品に絞って、じっくり眺めました。

Ron.

error: Content is protected !!