常滑市のINAXライブミュージアムで開催中の「常滑の岡本太郎1952 タイル画も陶彫も、1952年の常滑から始まった」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。参加者は8名。本展の会場「窯のある広場・資料館」2階に集合して、INAXライブミュージアムの後藤泰男学芸員(以下「後藤さん」)から本展の解説を聞いた後、自由観覧・自由解散となりました。
◆ 後藤さんの解説(PM2:00~2:30)
以下は、後藤さんの解説を私なりにまとめたものです。
〇 岡本太郎が制作した最初のタイル画は《太陽の神話》(1952)
岡本太郎(以下「太郎」)が制作した最初のタイル画《太陽の神話》は、《人々》というタイトルで制作を開始、《朝昼夜》、《夜と晴れを捕える太陽》と次々にタイトルが変わり、《太陽の神話》に落ち着いたとのことです。後藤さんは「太陽は万物に平等に降り注ぐことから、タイトルが《太陽の神話》になりました。そういう意味で、《太陽の神話》は大阪万博の《太陽の塔》の原型です」と解説しています。また「《太陽の神話》の中央は太陽で、向かって右は木、左は鳥」とのことです。
〇 《太陽の神話》制作のきっかけは、岡本太郎が世田谷の自宅に作ったタイルの浴槽
1951年、岡本太郎は世田谷の自宅に風呂を作りました。タイル張りの浴槽を気に入った太郎は、伊奈製陶(現:INAX)の営業社員・小林凱金氏(よしかね、以下「小林さん」)から、太郎の作品をタイル画で表現してはどうかと持ち掛けられます。伊奈製陶は1947年、羽田空港ターミナルビルのロビーに10mm角のタイルを組み合わせたタイル壁画を制作しています。小林さんは太郎に、伊奈製陶のタイル画を宣伝したのです。常滑に送られた《群像》(1949)を伊奈製陶の職人がタイル画にして、小林さんが送り届けたところ太郎は気に入り、自分でもタイル画の制作を考え始めました。
〇 《太陽の神話》の制作
1951年12月11日、太郎は《太陽の神話》の原画を描き始め、1952年1月14日、小林さんに「原画ができた」と連絡。2月12~15日、太郎は常滑の伊奈製陶に滞在してタイル画を制作。同月23日、太郎は伊奈製陶の東京事務所に行き、出来栄えを確認。同月27日、東京都美術館でタイル画の目地に色付け、28日には同館で開催の「第4回アンデパンダン展」に出品。後藤さんは「通常よりも短期間で制作しています。伊奈製陶も張り切っていたのでしょう」と付け加えました。太郎はタイル画を制作するだけでなく、3月1日付の博報堂月報に「芸術の工業化」というタイトルで、タイル画に関する投稿をしています。
〇 建築家・坂倉準三からタイル壁画《創生》制作の依頼を受ける
1952年3月3日、岡本太郎は付き合いのあった建築家・坂倉準三からタイル壁画(地下鉄日本橋駅に面する高島屋地下通路の壁画)の依頼を受けます。3月5日、デザイン制作。4月10~13日、常滑に滞在して伊奈製陶でタイル壁画を制作。「常滑の岡本太郎 1952」フライヤー(URLは下記のとおり)に掲載の《創生》制作風景を撮った写真を見ると、タイルを並べているのは伊奈製陶の職人ですが、太郎も手伝っています。なお、これらの写真のいくつかは、雑誌『毎日グラフ』のために撮影されたものです。PRが上手な太郎は、写真家・記者を常滑に呼んだのです。完成した壁画は2m×15mと大きなもので、当時の『毎日グラフ』には土門拳が撮影した壁画の写真と記事も掲載されています。
INAXライブミュージアム「常滑の岡本太郎1952」フライヤーPDF
同じく1952年に制作した高島屋大阪店・大食堂のタイル壁画《ダンス》は、5月20日に30㎝四方のベニヤ板に貼りつけた状態で東京に運ばれ、東京都立美術館で組み立てられた後、同館で5月22日に開会した「第一回日本国際美術展」に出品。展覧会終了後、大阪に運ばれました。この《ダンス》は2011年に再生されましたが、LIXILのホームページに詳しい記録が載っていますので、リンクを張っておきます。
INAX|INAXについて|News Release 蘇れ!岡本太郎の「ダンス」プロジェクト 岡本太郎が常滑で制作したタイル画再生の記録 (lixil.co.jp)
〇 岡本太郎が初めて取り組んだ陶彫《顔》(1952)
1952年4月、岡本太郎は初の立体作品にして、最大の焼き物《顔》を三体制作します。太郎の養女・岡本敏子氏の話によれば三体も作ったのは、伊奈製陶から「割れるから予備として三体作ってほしい」とお願いされたからとのこと。現在は、一体が太郎の父・一平の墓に、一体が川崎市岡本太郎美術館蔵(「岡本太郎展」に出品)、一体が個人蔵(本展に出品)。伊奈製陶が「割れる」と言った理由は、《顔》が中空でなく、作品の中まで土が詰まっているからです。中空だと軽く、内側と外側から乾燥、焼成ができるので均一な乾燥・焼成ができます。しかし、作品の中まで土が詰まっていると重いだけでなく、外側は乾燥しても中は湿ったままという状態になりやすく、乾く過程で表面から崩れてしまいます。そのため、作品を濡らした布で覆い、徐々に乾燥させないと、均一になりません。焼成時も、表面と内部で縮み方が違わないように気を付けないと、窯のなかで割れてしまいます。三体とも無事に完成したのは、伊奈製陶の技術が優れていたからだと、後藤さんは言われました。なお、《顔》が納品されたのは、ようやく9月になってからです。
岡本太郎が「焼き物」に取り組んだのは、1951年11月に東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受けたから、とのこと。太郎は、縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みずゑ』1952年2月号に発表。縄文土器で「焼き物」に興味を抱き《顔》を制作したのだと、後藤さんは言います。
《顔》を制作したのは、《創生》制作のために常滑に滞在した4月10~13日の4日間です。しかし、4日間で三体も作品を制作するのは無理と思われます。実は、2月12~15日の常滑滞在時、太郎はマケット(試作品)を4体制作し、釉薬を検討しています。この時に制作したマケットを元に、伊奈製陶が大まかな形を作って用意しておいたようです。仕上げなら、4日間でも可能だったと思われます。
現在展示されている《顔》の頭からは、草が一本伸びています。本展開始時には無かったのですが、花器として使うために開けた穴に草の種が入り、展示中に発芽したと思われます。《顔》は長い間、屋外に置かれていました。展示前に十分洗浄したのですが、穴に詰まった小石と土は取り切れなかったようです。
なお、大阪万博《太陽の塔》と同じように《顔》の裏にも顔があるので、鑑賞時は両面を見てください。
《顔》の展示 後ろの写真は、制作中の岡本太郎(ネクタイ着用なので、写真撮影用のポーズか?)
《顔》のマケット(左は裏、右は表。表・裏の両面に顔がある)
◆ 自由観覧
後藤さんの解説を聞いた後、参加者は「世界のタイル博物館」の展示やミュージアムショップなどを見学して、帰路に就きました。
Ron.