藤田嗣治展 記念講演会「藤田とランス」ランス美術館館長 カトリーヌ・ドゥロ

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

「生誕130年記念 藤田嗣治展 ―東と西を結ぶ絵画―」の記念講演会に行ってきました。チラシの表示は「先着順 定員180名 午後1時30分開場」。午後0時30分に名古屋市美術館2階講堂に行くと、待っている人は一人。展覧会を見てから並ぶことにして、午後1時に行列の最後尾へ。午後1時30分の開場と同時に入場券が配布され、私の入場券番号は「26」。開場時刻には長い行列が出来ており、直ちに満席となりました。以下は後援会の概要です。
◆後援会のテーマ、深谷副館長の解説など
 講堂正面のスクリーンには「FOUJITA AND REIMS by Catherine Delot Chief Curator Director of the Museum des Beaux–Arts of Reims」の文字。
午後2時に深谷副館長が登場して解説。解説は、以下のような内容でした。
「本展は、ランス(Reims)市と名古屋市の姉妹友好によるもの。ランスはパリの東。急行で約1時間、人口20万人ほどの市。フランスの国王の戴冠式が行われる大聖堂で有名。シャンパーニュ地方に位置し、シャンパン製造のマム社(G.H.MUMM)の社長は藤田のパトロンでした。1959年に藤田はランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、1966年にノートル・ダム・ド・ラ・ペ(Notre Dame-de-la-Paix = 平和の聖母)礼拝堂、通称フジタ・チャペル(Foujita chapelle)を建てて、ランスに寄贈。君代夫人の相続人はランス美術館に多数の作品・資料を寄贈。本展の展示作品150点中、3分の1がランス美術館の所蔵。本日の講演は礼拝堂をめぐる話が中心。」
◆マム社社長ルネ・ラルー(René Lalou)と藤田の出会い
ランス美術館館長カトリーヌ・ドゥロさん(以下、「館長」といいます。)によれば、マム社の社長(以下、「社長」といいます。)と藤田が出会うきっかけは、1956年に藤田がパリの大ギャラリーで開催したバラの連作の展覧会。社長は展覧会で見たバラの花が気に入り、藤田に近づいたとのことです。そして、藤田はマム社のシャンペン「コルドン・ロゼ」のマークのためにバラの花(このマークは現在も使われています)を描き、また、マム社のクリスマスカードのために「バラを持つ少女」も描きました。
◆カトリックの洗礼を受けるまで
 1959年、藤田はランスの聖レミ大聖堂(Saint Remi de Reims)を訪れました。聖レミ大聖堂はフランス王の戴冠式が行われた所です。藤田が大聖堂でお祈りをしていると、「洗礼を受けなさい。」という神からの啓示を受けた気がして「カトリックの洗礼を受けたい。私は結婚・離婚を繰り返してきたが、それでも洗礼は受けられるのか。」と聞いたそうです。答えは「あなたは一度も教会で結婚式を挙げていないので、洗礼を受けることは可能。」というもので、藤田は洗礼を受けることに決めました。
洗礼は、ノートルダム大聖堂(Notre Dame de Reims)で1959年10月14日(日)午前10時30分から行われることとなり、洗礼に備えて、藤田は2人の司祭から教えを受け、君代夫人には藤田が教えたそうです。 また、藤田は感謝の印としてノートルダム大聖堂に絵を寄贈。この絵は、現在、ランス美術館に寄託されており、レオナール・フジタ(Léonard Foujita)と署名された最初の絵です。(注:《聖母子》142 本展で展示されています。) 
洗礼の当日は1000人以上の列席者、取材のジャーナリストは200人以上と、藤田はスター扱いでした。当日の午前11時30分からはシャンパン製造のテタンジュ(TAITTINGER)社主催の祝賀会、午後1時からはマム社主催の昼食会が開催されました。
◆平和の聖母礼拝堂(Notre Dame-de-la-Paix á Reims)の建設
 その後、藤田は礼拝堂の建設を思い立ち、建設にふさわしい土地を探し始めました。やがて、マム社のゲストハウス=ヴィラ・コルドン・ルージュ(Villa Cordon Rouge)のすぐ隣に適地が見つかったのでマム社が自社の敷地として取得し、藤田に提供(所有権はマム社)。
礼拝堂の建設は社長の友人モーリス・コージェが担当。藤田は礼拝堂の模型を作るだけでなく、建物の外観や門、祭壇など多数のデッサンを描き、コージェは藤田の手による模型やデッサンに基づいて図面を作成したのです。
 礼拝堂の工事は1966年3月に始まり、藤田は1966年5月1日から礼拝堂の隣のヴィラ・コルドン・ルージュに居を構え、1966年6月6日からフレスコ画の制作に取り掛かりました。
礼拝堂は、1966年10月18日に落成式を迎え、その数か月後にランスに寄贈されました。しかし、藤田はフレスコ画作成による疲れで健康を害し、寄贈式には代理人が出席。
健康を害した藤田は、1968年1月29日にチューリッヒの病院で逝去。亡骸はランスに戻り、2月2日に葬儀が行われ、遺言により礼拝堂に埋葬されました。
◆藤田の亡骸、遺品の行方
礼拝堂に埋葬された藤田の亡骸は、1971年8月19日に、藤田の家があるパリ郊外のヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le Bacle)に移されました。2002年に君代夫人が「ランスの地で」という藤田の言葉を見つけ、亡骸は2003年10月6日再びにランスの地へ。2009年4月2日に君代夫人が死去すると、その亡骸は、同年4月25日に礼拝堂へ埋葬されました。
また、君代夫人は藤田の描いた油絵3点をランス美術館に遺贈。その後、君代夫人の12人の相続人は2013年、2014年の2回に分けて藤田の作品やコレクション、資料をランス美術館に寄贈しました。ランス美術館では240平方メートルの展示室を作って12人の寄贈者のプレートを飾り、寄贈された藤田の作品やコレクションなどの遺品を交替で展示する予定。
◆Q&A
講演後、3つの質問に館長が答えました。
Q1 藤田の宗教画は、フランスでどのような評価を受けているか。
A1 藤田は様々な絵画を描いており、宗教画も高く評価されている。ただ、人気が高いのは乳白色の裸婦と小動物。宗教画は、それらほどの人気ではない。
Q2 NHKの番組で「洗礼のときに神秘的な体験があった」と聞いたが、どんな体験か。
A2 聖レミ大聖堂でお祈りしているときに、神様からの「洗礼を受けなさい」という啓示 を聞いたような気がしたということ。洗礼のときではない。
Q3 藤田を受け入れなかった日本について、どう思うか。
A3 つらいこともあったが、当時としては仕方がなかったのではないか。藤田は、長いフランス暮らしで、日本とのギャップを感じていたかもしれない。また、フランスで好きな生活ができてよかったかもしれない。
◆最後に
深谷副館長から「来年、ランス美術館名品展の開催を予定しています。今回の展覧会で出なかった藤田の作品が展示されるかもしれません。楽しみにしていてください。」という話があり、講演会は終了しました。
6月4日(土)には、美術史家・文化庁芸術文化調査官の林洋子さんの記念講演会が、5月21日(土)、6月18日(土)には深谷副館長の作品解説会があります。     Ron.

名古屋市美術館 「FOUJITA」上映会と小栗康平監督の講演会

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

4月28日に開会する「生誕130年記念 藤田嗣治展 ―東と西を結ぶ絵画―」のプレイベントとして開催された映画「FOUJITA」の上映会と小栗康平監督の講演会に行ってきました。
往復ハガキによる申し込みに当たった人だけが入場できる完全予約制ですが、午前11時30分から入場整理券配布というので並びました。しかし、整理券配布時に並んでいた人は約50名。「座る席にこだわらないので、上映会開始間近に来てもよかったな。」と、ちょっぴり後悔。
上映会終了は午後3時10分頃。午後3時20分から午後4時40分頃まで小栗康平監督の講演。映画「FOUJITA」のパンフレット販売と小栗監督のサイン会が続きましたが、それには参加せず名古屋市美術館を後にしました。

◆映画と講演会の内容など
 分量が多いのでテーマを絞って講演の概要を書き、必要に応じて講演の概要に対するコメントや映画の内容を付け加えました。なお、映画のシーンやセリフの内容は記憶に頼っているので正確ではありません。また、講演の概要の(  )書きは、私が勝手に付け加えたものです。

1 映画制作に至るまで
○講演の概要
藤田嗣治も、また、遺産を相続した君代夫人も作品の著作権管理に厳しい人だった。特に、戦争画の取り扱いがデリケート。また、面白おかしく作るには格好の素材なので、今まで、なかなか映画制作の許可が下りなかったが、ある人が許諾を得て私のところに話を持ってきた。
藤田嗣治のエピソードは、それなりに知っていて「騒がしい人、話題の多い人、自己顕示欲の強い人」という印象だった。話を持ちかけられたときは、「あのフジタ?」という思いだったが、調べていくと、とても単純な人だと分かった。何よりも勤勉。子供っぽくて、有名になりたい人。絵の世界では「画狂」、様々な挑戦をして絵を描き続けた人だと思う。

2 「つながりが分からない」という、映画に対する感想について
○ 講演の概要
絵の場合だと、リンゴの絵を見て「食べられるかな?」と考えることはない。絵の中と現実の世界とは別ものだと分かって鑑賞しているからだ。
しかし、映画だと行為と言葉が結びついて物語が作られることで、現実の世界と錯覚する。現実の世界では「それが有用かどうか」の判断は(生きる上で)避け難いが、映画に「有用性」を持ち込むと映画の根本が奪われてしまう。映画表現は「有用性から離れる」ことが大切。
今の観客はTVドラマで悪い癖がついており、「物語に結びつかないもの」には反射的に「わからない」といってしまう。映画のベースは「物が映っている」こと。
なお、映画「FOUJITA」は、今まで撮った6本の中では最高の仕事だと思う。

3 戦争画について
○ 講演の概要
敗戦後、マッカーサー司令官の指示で戦時中に描かれた戦争画を集めることになった。この時、日本側で担当したのが藤田。その後、アメリカ内部で戦争画がプロパガンダか、芸術かで意見が分かれ結論がでないまま、戦争画はアメリカに持って行かれた。
その後、戦争画は展示されないままアメリカの倉庫にしまい込まれていたが、1970年代になって永久貸与という形で日本に返還され、東京国立近代美術館が収蔵している。映画で取り上げた《アッツ島玉砕》は「反戦」か「戦争協力」か、時代によって評価が違う。
アッツ島は、日本が初めて経験した「負け戦」で、陸軍はこれを「玉砕」つまり、「玉と散る」と美しく言い換えるキャンペーンを行った。藤田嗣治は、このキャンペーンの下で《アッツ島玉砕》を描いた。藤田が公式に発言していることと、絵は分裂している。映画でも「絵を描く藤田」と「社会人としての藤田」は錯綜している。
戦後、藤田は戦争画を描いたことに対する批判に怯まなかった。それは、背後に猛烈な孤独感を抱えているヨーロッパの競争社会で学習してきたから。多くの戦争賛美詩を書いた高村光太郎が、戦後、田舎に引っ込んでしまったのとは好対照。
 Ron.

山口晃さんの講演会

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 午後1時半の開場時間に間に合わず、1時40分頃に講演会場の市美術館2階の講堂に入ると、席は8割以上埋まっていました。若い人が目立ちます。講演後にはサイン会があるので、サインを書いてもらうための本を、今日、ミュージアムショップで買った人も多数いるようです。
 開始時刻の2時になり、山口晃さんが入場して来ました。演台のところまで来て会場を見渡したあと舞台袖のスピーカーの後ろに姿を隠したので、何事が起きたかと、一瞬、会場のざわめきが止みます。ひと呼吸おいて、にこやかな表情をして山口晃さんが顔を出すと、会場は喝采の渦です。山口さんが、聴衆の心を掴んだ一瞬ですね。お茶目でサービス精神豊かな方だと感心しました。
 講演は、中日新聞などに連載中の五木寛之「親鸞」の挿絵のエピソードから始まり、「よく日本画家と紹介されるけれど、実は油絵科の出身なのです」ということから、高橋由一、黒田清輝など日本の油絵画家の苦労話へと繋がり、最後は、市美術館の「高橋コレクション展」で展示している3つの作品の話で締め括られました。ホワイト・ボードに字や絵をかきながら話を進めるのですが、これがウマイ。「親鸞」の挿絵は、一度に2日分の原稿が送られ、翌日(?と記憶してますが…)には完成した挿絵を新聞社に渡すという話を聞き「短い時間で構想をまとめて描く。それも、何年も延々と続けるのだから、気力、体力、技術が揃ってないと出来ないんだなあ」と、驚きました。
 講演会のあとはサイン会。人数が100人と多い上、サインだけでなく言葉を交わすなどサービス精神が豊かなので、終わった頃は5時をだいぶ過ぎていました。お疲れ様です。

東松照明展記念鼎談を聞いて

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

 4月23日、東松照明展が始まった。
 東松氏の写真をまとめてみるのは2006年の「愛知曼陀羅」(愛知県美術館)以来なのでとても楽しみにしていた。今回の展覧会は回顧展ということもあり、1960年代のドキュメンタリーなものから最近のオブジェ風なものまで540点余の作品で会場内があふれかえっていた。

 その展覧会初日、中区役所ホールで記念鼎談「”写真事始”ふたたび」が催された。演壇には、赤いベストに赤いキャップをかぶった中平卓馬氏(写真家)、黒いジャケットの倉石信乃氏(明治大学理工学部准教授、写真史)、今展を担当した名古屋市美術館の竹葉丈学芸員の姿が見られたが、東松氏本人は年初からの体調不良のため来名せず、スクリーンに大きく映し出されたポートレートと電話での参加となった。
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