「写真の都」物語 - 解説会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

名古屋市美術館で「写真の都」物語―名古屋写真運動史:1911-1972-(以下「本展」)が開幕。先日、名古屋市美術館協力会主催の解説会に参加しました。担当は竹葉丈学芸員(以下「竹葉さん」)。参加者は20人。2階講堂でレクチャーを受講後、展示室に移動。竹葉さんを交えての自由鑑賞となりました。なお、協力会主催の解説会などのイベントは、岸田劉生展(昨年1月12日に開催)以来、1年1か月ぶり。新型コロナウイルス感染防止のため、マスク着用、手指消毒、検温、ソーシャル・ディスタンスの確保などの対策を実施した上での開催、となりました。

◆2階講堂

○深谷副館長のあいさつ(要旨)

 新型コロナウイルスの感染拡大により名古屋市美術館の休館が余儀なくされたことと、秋に予定していた改修工事を前倒ししたことにより、本展の開催は当初の予定から大幅に遅れました。常設展は今年の1月に開幕していたものの、来館者は少なく、本展の開催でようやく美術館に活気が戻ってきました。本日は、美術館にお越しいただき、ありがとうございます。

○竹葉さんのトーク(要旨)

・展覧会の名称について

 名称を「名古屋写真運動史」としたのは、名古屋の団体・グループが、写真でどういう表現を目指したのかを示す展覧会だからです。「1911」という数字は西暦年で、年号だと明治44年。表現としての写真を目指したグループ<愛友写真俱楽部>が名古屋で創立された年です。創立者の名前は日高長太郎。知多郡東浦町に住む大地主の息子です。愛友写真俱楽部が目指した写真は「絵画主義」(ピクトリアリズム)。彼らは写真のネガや印画紙に手を加え、絵画のように美しい写真を制作することを目指し、1920年代前半には全国レベルを突破しました。

 名古屋の団体・グループが、全国レベルを突破したのは過去に2回あります。1回目は愛友写真俱楽部で、2回目は1939年(昭和14)。2回目は1年半ほど続きました。この時期に名古屋の団体・グループが制作したのは「前衛写真」です。

本展は名古屋の団体・グループに注目した展覧会ですが、例外は第Ⅴ章。写真家・東松照明の作品に焦点を当てています。また、最後の第Ⅵ章は学生の写真運動を取り上げました。「1972」という数字も西暦年で、札幌オリンピックが開催された年です。また、あさま山荘事件などが契機となって学生運動が衰退していった年でもあります。学生運動の衰退とともに、学生写真運動も衰退していきました。

第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>

日高長太郎が愛友写真俱楽部を創立した明治40年代は、日本で自然主義文学が興った時代で、絵画や写真でも自分の好きな身近な自然を記録に残すようになりました。この時代の写真は近くの草木にピントを合わせ、背景に雄大な自然を配するものが主流でした。名古屋の団体・グループのレベルが高かったのは、海と山に近く、景勝地に恵まれたからです。当時の写真は現在と違い、「ポケットにスマホを入れて行けば写せる」という手軽なものではありません。フィルムに当たるのはガラス乾板で、写真撮影の機材はレンズ、組み立て式カメラ、三脚など。重装備のため、大きくて重く割れやすいガラス乾板は10~20枚くらいしか持って行けません。名古屋だと、このような重装備でも中央線に乗って運ぶことができるので、便利でした。

・ゴム印画

初期のプリントは密着プリント、つまり、現像したガラス乾板を印画紙に密着させ、太陽光で感光していました。これでは、ガラス乾板よりも大きなサイズの作品は制作できません。大きな作品を制作するためには、ガラス乾板を引き延ばしてポジ(陽画)を制作し、陽画にリタッチ(加筆・修正)して大きなガラス乾板で撮影することが必要です。大きな作品の印画紙は、水に強い水彩画用紙の表面にアラビアゴムと水彩絵の具、感光材の溶液を混合したものを塗って乾燥させたものを使います。この印画紙に大きなガラス乾板を密着させて、屋根の上に運んで太陽光で感光。太陽光が当たった場所のアラビアゴムが固くなるので、水洗いして感光していない部分を除去。1回だけの感光では像が薄いので、何回も同じ作業を繰り返して、1週間かけて1枚の作品を仕上げるという、手間暇のかかるものでした。お金持ちで、暇を持て余していた旦那衆だからできた作業です。

・ソフトフォーカス・レンズ

1921年(大正10)、東京・銀座で資生堂を経営する福原有信の三男・福原信三が、パリ滞在中(1913)に撮影した写真から24枚を選んで「巴里とセーヌ」という写真集を刊行しました。福原信三は芸術家志向で写真術も学び、パリで印象派の絵画を見て「写真の印象派」を目指しました。パリ滞在中はソフトフォーカス・レンズを付けたカメラで、水墨画のような写真を撮影しています。彼は写真雑誌も刊行し、彼の「光と其の階調」という理論はアマチュア写真愛好家たちに歓迎され、しばらくの間ブームになりましたが、1923年(大正12)の関東大震災で写真雑誌は中断しました。神戸の淵上白陽は1922年(大正11)、写真画集「白陽」を創刊しましたが、その後、経済的に行き詰まり1927年(昭和2)に大連へ渡っています。名古屋でも、愛友写真倶楽部のメンバー・高田皆義が1922年(大正11)に芸術写真研究雑誌「銀乃壺」を創刊しました。

第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験

1930年代になると、ドイツの「新興写真」の影響を受け「リアリズム」写真が主流になっていきます。名古屋では1936年(昭和11)、アマチュア向け写真雑誌「カメラマン」が創刊され、5000部作った創刊号は全て売り切れました。当時の名古屋には写真の現像・焼付・引き伸ばしを行う写真店が61軒あり、アマチュア写真家は20万人いた、と言われます。

第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂

1934年(昭和9)、関西の「法華写真倶楽部」のメンバー・坂田稔が名古屋昭和区に移住し写真店を開業。店に集まるアマチュア写真愛好家を集めて<なごや・ふぉと・ぐるっぺ>を結成し、前衛写真のグループが生まれました。彼らのうち、詩人の山本悍右は、身近なものでオブジェを作って撮影し、下郷羊雄は、自然の中にオブジェを見出して撮影しました。坂田稔は、その後、報国のため報道写真家として徴用されます。

なお、美術館のミュージアム・ショップでは、山本悍右の作品、題不詳(《伽藍の鳥籠》のバリエーション)をプリントしたTシャツを販売していますので、よろしければお求めください。

第Ⅳ章 客観と主観の交錯 戦後のリアリズムと主観主義写真の対抗

戦後の名古屋では、高田皆義、山本悍右、服部義文、後藤敬一郎によって<VIVI社>が結成されシュルレアリスムの写真が制作されます。なお、後藤敬一郎は「青柳ういろ」の社長です。これに対抗したのが、臼井薫です。彼は俳優・天知茂の兄。大曽根で写真店を経営する傍ら、木村伊兵衛・土門拳が審査員を務める写真雑誌に写真を投稿し、「土門拳の弟子」と言われました。

◆展示室内の自由鑑賞

午後5時になったため、以上でレクチャーは終了。参加者は講堂を後にして1階に移動し、ソーシャル・ディスタンスを保ちながらの自由鑑賞となりました。なお、いくつかの作品については、竹葉さんの「独り言」があったのでご紹介します。

第Ⅰ章 写真芸術のはじめ 日高長太郎と<愛友写真倶楽部>

松浦幸陽《朝日を受けて》(1926)=撮影した松浦幸陽は営業写真家。アマチュアと営業写真家の違いは「人物が撮影できるかどうか」。人物を撮影するには、写真を修正する技術も必要/ 榊原青葉《電車道》(1922)=光と影の描写に注目/ 三國庄次郎《円い柱の習作》(1923)=撮影者は、放送タレント・三國一朗の父親

第Ⅱ章 モダン都市の位相 「新興写真」の台頭と実験

海部誠也《野間にて》(1936)=撮影者は、元首相・海部俊樹の父親

第Ⅲ章 シュルレアリスムか、アブストラクトか 「前衛写真」の興隆と分裂

坂田稔《危機》(1938)=仰向けになった女性の喉元に輪切りのレンコンを載せた写真と雲間から日の光が見える写真を組み合わせたもの。坂田稔は現在の瑞穂区曙町で現像の店を営業/ 下郷羊雄・写真集『メセム属』=「メセム属」というのは植物の名前

第Ⅴ章 東松照明登場 リアリズムを超えて

《伊勢湾台風・名古屋》=1959年(昭和34)に名古屋を襲った伊勢湾台風では、東松照明の実家も被災/ 《熊本・天草下島》のシリーズ(1959)=廃屋を撮影/ 《混血児》(1952)=守山で撮影した作品。混血児の赤ん坊は贅沢なベビー服。背景の日本人の子どもと服装を比べると貧富の差(日本人の方が貧乏)が見えてくる。日本人は撮影者の東松照明を見ているのですが、写真では赤ん坊の方を見ているように感じられる。東松照明によって、戦後写真のリアリズムが一皮むけた/ 《プロテスト1 東京・新宿》(1969)=1969年の10月21日(国際反戦デー)に新宿で起きたデモ隊と機動隊との衝突を撮影した作品。いわゆる「アレ、ブレ、ボケ」で、時代の体温を表現した

第Ⅵ章 <中部学生写真連盟> 集団と個人、写真を巡る青春の模索

 中部学生写真連盟は、1951年11月に東松照明が設立/ 写真集「大須」(1969)=名古屋電気工業高等学校写真部が撮影したもの/ 「高橋章写真集」(1974)=撮影者は兵庫県・尼崎高校の生徒。クラスメートを撮影した写真が認められ、写真集が刊行された。写真部では、作品は写真部として発表していたので、個人名の写真集刊行は異例のこと/ 写真集「郡上」(2016)=名古屋女子大学写真部が1968年(昭和43)~1970年(昭和45)に岐阜県・郡上市の郡上踊りを中心に撮影したもの。当時、写真集の刊行が予定されたが中断。撮影から48年後、写真部OBが当時のネガを出版社から取り戻して刊行した

最後に

 竹葉さんによれば、展示された写真は約500枚とのこと。さすがに、東松照明の写真は一味違っていました。

Ron

名古屋写真運動史 解説会

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会長のあいさつ

 令和3年2月7日、名古屋市美術館が改修のために閉館していたため、再開後初めての企画展となった、「写真の都」物語-名古屋写真運動史:1911-1972 の協力会向け解説会が行われました。

 最初に協力会会長のあいさつがあり、感染症の拡大などで長らく活動を休止していた協力会が久々にイベントを開催出来る感慨を会員とともに分かち合いました。当日参加した会員は20名でしたが、解説会が開催出来たことが何よりうれしいことでした。

担当竹葉学芸員、解説ありがとうございました

 そのあとは担当の竹葉学芸員による1時間あまりの解説。熱のこもった解説に会員たちも集中して話に聞き入っている様子でした。

 解説後は閉館した美術館内での静かな鑑賞の時間。会員は竹葉学芸員の話もときおり聞きながら、静かに展示室を観覧しました。

令和元年度名古屋市美術館協力会総会

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 令和元年6月9日日曜日、例年のとおり、名古屋市美術館講堂にて、名古屋市美術館協力会の総会が行われました。協力会会員28名が出席し、美術館の深谷副館長のあいさつに続いて協力会の佐々木剛志会長が進行を務め、昨年度の決算や事業報告などが行われました。

 途中、出席した会員からは、協力会のイベントについて、活発な意見や質問、提案がなされ、協力会役員からもそれらに対する丁寧な回答が聞かれました。全ての提案をそのまま実施することは不可能でしたが、それらの貴重なご意見をこれからの活動に出来るだけ反映すべく、検討していくことが確認されました。

 総会終了後は、そのまま講堂にて、深谷副館長による常設企画展の解説が始まりました。現在名古屋市美術館の地下常設展示室にて開催されている『新たなる木彫表現を求めて』にとりあげられて展示されている、平櫛田中、舟越桂、薮内佐斗司らについて、画像をスクリーンに映しながら解説していただきました。

 その後は、実際に作品の展示されている地下会場に移動して更に鑑賞し、約1時間のギャラリートークは終了しました。深谷副館長さん、ありがとうございました。

平成30年度 名古屋市美術館協力会 総会

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 6月10日日曜日、午後4時から名古屋市美術館の講堂にて会員30名あまりが集まり、平成30年度の協力会総会が開催されました。今年は参加者は例年より多く、役員らを含めた28名が参加して、活発な議論が展開されました。

発言する事務局長深谷さん

発言する事務局長深谷さん


当日参加してくださった会員のみなさん

当日参加してくださった会員のみなさん


 事務局からは平成29年度の活動内容報告や決算報告がなされ、また参加くださった会員のみなさまからは、協力会の活動についての率直なご意見を賜りました。ギャラリートークの開催日時や時間についてのご要望、イベントでの協力会の役割など、今後の協力会の活動に参考になるご意見をいただきましたので、これから反映していきたいと思います。貴重なご意見、ありがとうございました!
 事務局