一宮市三岸節子記念美術館 「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」 ミニツアー

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一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は10名、美術館主催の「学芸員によるギャラリートーク」(事前申込不要)に参加する、というミニツアーでした。ギャラリートークの担当は、課長補佐・学芸員の長岡昌夫さん(以下「長岡さん」)です。ギャラリートークの前後は自由行動。早めに美術館に行き、作品を見てからギャラリートークに参加しました。

◆美術館に着くまで

協力会の案内では、美術館に行くには「名鉄一宮駅の名鉄バス2番のりばからバスに乗車、起工高・三岸美術館で下車」でした。ところが、駅西の広場にあるのは「1番のりば」だけ。バスが到着したので、運転手さんに聞くと「ここじゃない。バスターミナルの中」とのこと。あわてて、駅舎に引き返し、発車時刻の間際で乗車することができました。バスに乗ってしばらくすると、「尾西庁舎」というアナウンス。「この辺は尾西市だった」と分かりました。運賃を節約するため、一つ前のバス停「尾張中島(おわりなかしま)」で下車。昔の地名が「中島郡(なかしまぐん)」なので、「尾張中島」ですか。

交差点を渡って数分歩き、「起工高・三岸美術館」のバス停に到着。美術館の看板はあるのですが、付近にそれらしい建物は見当たりません。民家の屋根越しに赤いタイル壁の建物が見えたので「あれだ」と見当をつけて歩き、ようやく美術館に到着。玄関脇の水面にはゴンドラが浮き、玄関では女性の銅像がお出迎え、大きなガラス窓には自筆のサイン(S.Migishi)が書かれていました。

◆展示室にて

本展は、美術館2階の展示室二つを使って開催。1階受付で観覧料千円を払い、階段を上ると左側が第一展示室です。

<第一展示室>

・第1部 男と女の旅  第1章 プロポーズ

第一展示室に入ると、正面に三岸好太郎(以下「好太郎」)の二作品が展示されています。左が風景画《大塚仲町風景》(1922)、右がアンリ・ルソーのような人物画《二人人物》(1923)でした。

 好太郎と三岸節子(旧姓 吉田、以下「節子」)が出会って、結婚したころの作品を展示。好太郎も節子も、風景画は岸田劉生風。チラシに使われている節子《自画像》(1925)に、強く引き付けられました。

・第1部 第2章 プラチナの指輪

 最初の3点は、中国旅行で制作した作品。好太郎《上海風景》(1926)は、フォーヴィスム風です。続いて、《道化》(1930-31)から《マリオネット》(1930)まで、ルソー風の作品が並んでいます。一転して、好太郎《金魚》(1933)や節子《室内》(1936)になるとマティス風。好太郎《三人家族》は、長谷川利行の作品を思わせます。

・第1部 第3章 貝殻旅行

 本展のサブタイトルと同じ名前の章です。好太郎の作品ばかりです。なお、蝶や貝殻を描いた作品は第2展示室に集まっています。第1展示室は、抽象画のような《ピエロ変形》(1932)や落書きに見える《乳首》(1932)など、前衛的な作品ばかりでした。

・第2部 女流画家の旅路  第1章 いばらの道

 《月夜の縞馬》(1936)は、ルソー風で、《室内》(1939) 《室内》(1939)はマティス風です。

・第2部 第2章 風景を求めて

 《ブルゴーニュにて》(1989)は、下半分が鮮やかな黄色なので、ウクライナ国旗を連想しました。

<第二展示室>

・第1部 第3章 貝殻旅行 + 第2部 第3章 永遠に咲く花 = 二人の晩年の作品

 第二展示室は、好太郎と節子の晩年の作品を展示。《海と射光》(1934)というタイトルの作品は、名古屋市美術館でも所蔵していますね。

・1階 コレクション展、土蔵展示室

 展示室に入った正面に、節子が19歳の時の作品《自画像》(1924)を展示。おおむね制作年代順に、作品が並んでいます。展示室の北の端に、「土蔵展示室」への通用口があります。通用口を抜けると、目の前に古い土蔵。中には、壺やイーゼルなど、節子の愛用した品々が並んでいました。

◆長岡さんのギャラリートーク(14:00~15:10)の要旨(注は、筆者の補足です)

午後2時少し前に館内放送が入り、ギャラリートークの参加者(30~40人)が2階ロビーに集まりました。

<第1部>

・好太郎と節子の出会い

 節子は1905年に現在の一宮市(注:当時は中島郡起町字中島)に生まれ、1921年に上京。好太郎は1903年に札幌市(注:当時は北海道札幌区)に生まれ、1921年に上京。二人は、1922年に出会います。

二人の出会いは、今から百年前。「出会って百年」を記念し、全国巡回しているのが本展です。好太郎と節子の二人展は、今から30年前の1992年に開催されました。節子は1999年、94歳まで生きました。本展は30年ぶりの夫婦展、節子が亡くなってから初の夫婦展です。第二展示室には、好太郎最晩年の二作も展示しています。

・節子の生い立ち

 節子の父は、毛織物工場を経営。節子は名古屋市の私立愛知淑徳高等女学校(注:現在の愛知淑徳中学校・高等学校)に進学します。1920年に不景気で工場が倒産。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返す」と決意し、一人で上京します。最初は東京女子医学専門学校(注:現在の東京女子医科大学)を目指しますが、不合格。「日本画なら許す」という父親に逆らい、ハンガーストライキまでして、親戚の紹介で洋画家・岡田三郎助の洋画研究所に入ります。当時、女性の洋画家は全くいませんでした。

・親との確執

 節子は、生まれつきの股関節脱臼で、軽い歩行障害がありました。親戚が集まるときは、障害のある節子を親戚に見せないよう、節子は蔵に押し込まれました。

・好太郎《大塚仲町界隈》(1922)・《二人人物》(1923)

 二作とも、節子と出会った頃の作品です。大塚は、文京区の地名。最初に出会った頃に、節子が住んでいたアパートの近くを描いたものです。好太郎は、節子に出会った一週間後に猛アタック。《大塚仲町界隈》をよく見ると、画面右端に男の子が、中央に女の子が小さく描かれています。好太郎と節子かもしれません。

・好太郎《檸檬持てる少女》(1923)

 春陽会に初出品した作品です。皆さん、稚拙な印象を持たれませんか?節子にアタックするため、彼女をモデルに描いた《赤い肩掛けの婦人像》(1924)を見てください。好太郎の画力は高いのです。《檸檬持てる少女》が稚拙に見えるのは、当時の春陽会では稚拙さが好まれたためです。好太郎は意識して稚拙に描いたのです。

・二人は、関東大震災をきっかけに近づく

 1923年9月、関東大震災の二三日後に好太郎は、東京女子美術学校に通っていた節子が友人とルームシェアしていた部屋を訪ねます。好太郎は当時、生協でアルバイトをしており、食料を提供するためにやってきたのです。同年の大晦日には、二人で千葉県の安孫子までスケッチ旅行に出かけ、この時、好太郎は節子にプロポーズします。節子が好太郎の所に行くと、部屋は六畳一間で、母・妹との三人暮らし。この貧乏暮らしに、節子は心惹かれました。

・節子《自画像》(1925)について

 ストレートに表現した作品です。春陽会に出品し、女流画家として初入選を果たしました。女性の洋画家がいない時代でした。1階「常設展」にも《自画像》(1924)を展示していますので、ご覧ください。

・二人の結婚生活

 二人は1924年に結婚。しかし、好太郎は1934年に死去。結婚生活は、わずか十年。幸せな結婚生活とは言えませんでしたが、ドラマチックな十年でした。

・好太郎の中国旅行

 当時の画家は皆、フランスに憧れました。好太郎もその一人です。しかし、彼は1926年に中国を旅行。当時の上海には、異国情緒あふれる租界(注:外国人居留地)がありました。フランスには行けませんでしたが、租界で外国文化に触れ、《上海風景》(1926)などの作品を多数制作しています。

・好太郎《黄服少女》(1930)など

 上海旅行後の1926年から1929年までの三年間、好太郎は文人画を描いて大スランプに陥ります。1929年になって、ようやく上海の体験が生かされるようになります。《道化少年》(1929)などの作品は、サーカス団の華やかな舞台から離れたところにいる道化師を描いたものです。「好太郎の自画像ではないか」と思われる、重苦しく、ファンタスティックで、グロテスクな作品です。《黄服少女》のモデルは好太郎の愛人・音楽家の吉田隆子です。第8回春陽会に《マリオネット》(1930)とともに出品。日本画家の鏑木清方は「隣にある少女にもマリオネットの糸がつながっているように見えたのは錯覚かしら」と、感想を述べています。

・前衛的な作品

 好太郎は、1932年12月に開催された「巴里・東京新興美術展」を見て大きな刺激を受け、抽象絵画やシュールレアリスムなどの前衛的な作品を描くようになります。《乳首》(1932)と《花》(1933)は、キャンバスに絵具を塗ってから、それを釘で引っかいて描いたものです。

・好太郎《オーケストラ》(1933)

 《オーケストラ》は、音楽の世界を絵画で表現した作品です。キャンバスを黒く塗り、次に白く塗り、それを釘で引っかいています。その様子を見ていた友人の里見勝蔵が「黒い絵の具の線でなぞってはどうか」と提案。そのため、里見はこの作品を「好太郎と里見の共作」と言っています。好太郎は「お茶漬けのように絵を描いた」と評されますが、死後、おびただしい数のデッサンが見つかりました。好太郎がサラサラと描いた裏には、デッサンの積み重ねがあったのです。

好太郎は、1934年に新しいアトリエを造り、そこで行き着いたのが蝶と貝殻の連作です。

<第2部>

・節子《室内》(1939)など

 ここから、第2部です。節子の作品ばかり並びますが、意識して好太郎と節子の作品を分けたのではありません。年代順に並べると、作品が節子と好太郎に分かれてしまうのです。好太郎の生前、節子はほとんど絵を描きませんでした。子育てと好太郎の家族の世話で手一杯。絵を描く余裕はありませんでした。好太郎が死去した時、節子は「これで、好太郎から解放される。画家として生きていける」と思ったそうです。

 好太郎の死後、節子が描き始めた作品に、風景画はありません。子育てなどに忙しく、室内での制作しかできなかったのです。《室内》はマティス、ボナールに憧れて制作した作品です。1940年代に制作した作品は、絵具が手に入らず、色彩が沈んでいます。戦争画を描く画家には絵具の配給があったのですが、女流美術家奉公隊の結成に参加したものの、進んで戦争画を描く気になれず、節子は絵具の配給を受けていませんでした。

・第二次世界大戦後の活躍

 節子は1945年9月に、それまでに描きためた室内画を日動画廊に展示。戦後初の開催となる、記念的個展でした。とはいえ、絵を売るだけでは食べていけず、1950年までは雑誌の挿絵や文章、座談会などの雑収入で生活していました。1951年に《静物(金魚)》(1950)が国に買い上げられた頃から、絵を売るだけで食べていけるようになりました。

・渡仏と、その後

 1954年、49歳の節子は、憧れのフランスに旅立ちました。しかし、着いてみるとフランスの芸術に閉塞感を抱き、古代エジプトや古代中国の美術のほうに感銘を受けました。帰国後は、埴輪や土器、インカの壺などをモチーフにした静物画を描くようになります。また、見たものをそのまま描くのではなく、内面性が作品に現れるようになりました。

・軽井沢の山荘にこもり、大磯に移住。そして、ヨーロッパへ

 節子は1956年から軽井沢の山荘にこもり、1960年から〈火の山にて〉シリーズを描きます。1964年に神奈川県大磯町に移住して描いたのが《太陽》(1964)です。海の風景に触発され、風景画に挑戦するようになります。しかし、湿潤な日本の気候や風景は水墨画や日本画には合うけれど、油絵には合わないと考え、カラッとした風景を求めて1968年にヨーロッパへ渡りました。

・好太郎の作品を収集、北海道に寄贈

 1960年代になると、好太郎は世間から忘れられていきました。好太郎の名前を残すため、節子は自分の作品に人気が出るようになると、自分の作品を好太郎の作品と交換し、200点以上の好太郎作品を収集します。

1965年、北海道拓殖銀行からカレンダーの原画制作の依頼を受け《摩周湖》(1965)を制作した時、インスピレーションを得て、節子は1967年5月、北海道に好太郎作品220点を寄贈。北海道は同年9月に北海道立美術館(三岸好太郎記念室)を開館しました。

・尾西市三岸節子記念美術館の開館

 ヨーロッパに渡った節子は、1974年にパリで「三岸節子 花とヴェネチア」展を開催。個展が高い評価を得たため、ブルゴーニュ州・ヴェロンで家を購入し移住。息子・黄太郎夫婦と、20年以上にわたるヨーロッパ生活を送ります。1998年に節子の生家跡地に尾西市三岸節子記念美術館が開館しますが、玄関の横にある舟と水路はヴェネチアの運河をイメージしたものです。

・ヨーロッパで制作した作品

 《小運河の家》(1973)は、ヴェネチアの冬を描いた作品です。赤い色が目立つ作品は、南ヨーロッパ・アンダルシア地方のアルクディア・デ・グアディクスの風景を描いたものです(注:名古屋市美術館も同じ地方を描いた《雷がくる》(1979)を所蔵しています)。節子は84歳までヨーロッパで生活し、1989年に帰国しました。

・第二展示室の作品

 好太郎の作品に描かれた蝶と貝殻は、シュールレアリスムのモチーフです。好太郎は1934年3月に、一週間余りで7点の作品を一気に描き、その後、限定100部の筆彩素描集『蝶と貝殻』を仕上げました。好太郎は「小笠原に旅行した場合の写生」と解説していますが、実際には行っていません。節子は日記に「《海と射光》に描かれた女性のモデルは、私」と書いています。

・貝殻旅行

 好太郎の《のんびり貝》が、クラブ化粧品の中山太陽堂(注:現在のクラブコスメチックス)に高値で売れたため、1934年6月、二人は「貝殻旅行」と名付けた数日間の関西旅行に出かけ、京都、大阪、奈良、神戸を巡ります。最初で最後の夫婦水入らずの旅行でした。旅行の後、好太郎は名古屋に立ち寄り、定宿だった中区錦二丁目の銭屋旅館(注:当時の表示は西区御幸本町7丁目)に滞在し、節子は帰郷。6月28日に、好太郎が四度目の吐血。7月1日に心臓発作で逝去しました。享年31歳。

・好太郎の絶筆

 《女の顔》(1934)は、銭屋旅館に残されていた作品です。節子が自宅に飾っていましたが、本展を記念して北海道立三岸好太郎美術館に、遺族から寄贈されました。貝殻旅行の途中、好太郎は「僕の生命線はあと一週間で切れている」「おれが死んだら、絶対、恋をしろ」と、予言のような言葉を残しています。

・晩年の節子の作品

 帰国後の節子は、大磯で花の絵を描きました。「売れる絵」は、花の絵だったからです。どの作品もタイトルは「花」「白い花」等。「さくら」や「チューリップ」といった花の名前は付けていません。それは「描いた後は、自分の分身」と思っていたからです。

1992年に、初めての夫婦展が開催されます。節子は「好太郎は天才、自分は凡才」と意識しており、夫婦の作品を並べることに抵抗がありました。87歳になって「自分の作品のレベルが上がった」ことから、夫婦展開催に踏み切りました。《作品Ⅰ》《作品Ⅱ》(1991)は、夫婦展に向けて制作した作品です。《作品Ⅰ》は、夕日を背に二つの瓶を描いています。二人並んで太陽を見る好太郎と節子かもしれません。

 1988年に節子は尾西市名誉市民となり、1994年には女性洋画家として初の文化功労者になります。尾西市は、節子が生まれた土地を買い戻して美術館を建設。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返し」、故郷に帰ることができました。左半身不随で言語障害もある満身創痍のなかで、散りゆく桜を描いた《さいたさいたさくらがさいた》(1998)は、生命に対する執念、執着を表現したもので、美術館の壁を飾る集大成の作品です。

 美術館開館の一年後、1999年4月18日に節子は死去。《花》(1999)は、節子の絶筆です。本展を記念して美術館に、遺族から寄贈されました。「生まれ変わっても、結婚するなら好太郎」と、節子は言っています。

◆展覧会後に調べたこと

現在の一宮市は、2005(平成17)年4月1日に、一宮市、尾西市及び葉栗郡木曽川町の合併で誕生。美術館も、1998(平成10)年11月3日に尾西市三岸節子記念美術館として開館し、2005年の市町村合併に伴い、一宮市三岸節子記念美術館に改称。建物は織物工場を思わせる「のこぎり屋根」(世界遺産の富岡製糸場と同じように、北側に明かり取りのための窓を設置した屋根)で、敷地内には節子の生前から残る土蔵を改修し、節子が愛着した品々を並べた土蔵展示室があります。

本展は、長岡さんのギャラリートークで「全国巡回」と紹介されましたが、北海道立三岸好太郎美術館(2021.06.26~09.01)を皮切りに、砺波市美術館(2021.09.11~11.07)、神戸市立小磯記念美術館(2021.11.20~2022.02.13)と巡回し、最後が本展(2022.02.19~04.10)です。

◆最後に

参加者は10名でしたが、心から「来てよかった」と思える展覧会でした。節子も好太郎も、名古屋市美術館に所蔵されている作品の作家です。美術館からの帰り道で、「一宮市三岸節子記念美術館とは縁があるのにミニツアーが無かったのは何故?」と思いました。機会があれば、これからも来たいですね。

     Ron.

名古屋市博物館 「大雅と蕪村 文人画の大成者」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

名古屋市博物館で開催中の「大雅と蕪村 文人画の大成者」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は24名。1階展示説明室で横尾拓真学芸員(以下「横尾さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆横尾さんの解説(10:00~30)の要旨(注は、筆者の補足です)

・本展のポイント

本展ポイントは、①大雅と蕪村を比べながら鑑賞できる、②大雅・蕪村と尾張との関係が分かる、という2点です。蕪村の展覧会は開催されるものの、大雅と蕪村の作品を比べながら鑑賞できる機会はあまりありません。大雅・蕪村と尾張との関係については、重要なつながりがひとつあります。それは、国宝『十便十宜図』で、大雅と蕪村の合作です。川端康成が所蔵し、現在は公益財団法人川端康成記念会の所蔵です。『十便十宜図』は、中国の文人・李漁が自分の住いの「十便」(十の便利なところ)と「十宜」(十のよろしいところ)について詠んだ七言絶句の漢詩「十便十宜詩」を絵にしたもので、大雅49歳、蕪村56歳の時の作品です。尾張との関係は、この作品が鳴海宿の豪商・下郷学海(しもさとがっかい)が所蔵していたもので、彼が注文主だと考えられているという点です。本展では、「本当に下郷学海が注文したものなのか」という点を掘り下げました。その結果「下郷学海が注文した」と考えられます。

・本展の構成

プロローグ 文人画とは?

第1章 文人画の先駆者―彭城百川(さかきひゃくせん)

彭城百川は名古屋ゆかりの画家なので、第1章で紹介しています。

第2章 早熟の天才絵師―池大雅

 池大雅は、文字どおり早熟の天才絵師で、20代から30代の作品を紹介しています。

第3章 芭蕉を慕う旅人―与謝蕪村

 池大雅と違って、与謝蕪村は大器晩成型の画家で、若い頃といっても40代から50代の作品を紹介しています。

第4章 『十便十宜図』の誕生

 長い前置きがあります。本なので、一度にお見せできるのは1ページだけです。他のページについては、お配りする『十便十宜図』をご覧いただくか、図録をご覧ください。(注:名古屋市博物館敷地内の北側通路にも、『十便十宜図』のパネル展示があります)

第5章 蕪村の俳諧―尾張俳壇と蕪村

与謝蕪村は名古屋の俳人と交流が深く、蕉風の同志として交流とともに、蕪村の「俳画」を紹介しています。

第6章 かがやく大雅 ほのめく蕪村――ふたりが描く理想の世界

 池大雅と与謝蕪村の代表作を並べています。心ゆくまで楽しんでください。

第7章 尾張の文人画―丹羽嘉言

 付けたりです。尾張の画家を紹介しています。

エピローグ  両雄並び立つ-歴史となった大雅と蕪村

・本展のみどころ

〇張月樵《大雅・蕪村肖像》(プロローグ)

 名古屋の画家なので紹介します。三幅対の肖像画ですが、スクリーンに映しているのは、大雅と蕪村の肖像です。二人を描いた肖像画を元に、滑稽味を加えて描いたものです。

〇池大雅《前後赤壁図屏風》(第2章)

 大雅27歳の時の作品で、彼の魅力が凝縮されています。山水画を「わび・さび」の世界ではなくデザイン的に描いたものです。同じような形の松を繰り返し描き、墨の濃淡で概念的な奥行きを出しています。樹木の葉も楕円形で、抽象的な表現です。楕円をいっぱい並べて、グラデーションをつけています。自然を写実的に描く、というより、形の面白さを表しています。中国で出版された、木版による文人画のお手本のスタイルを取り入れたと思われます。私(注:横尾さん)は琳派の影響があったのではないかと考えています。デザイン的な描き方なので、中国の文人画とは違うものです。

 文人画には、詩・書・画の一致が求められました。大雅は書もうまく、《前後赤壁図屏風》に大きく書かれた「前赤壁」「後赤壁」という篆書は、墨のかすれも計算に入れて書いたもので、画一的にならないよう工夫しています。

〇与謝蕪村《倣銭貢山水画》(第3章)

 蕪村51歳の時の作品で、中国の文人画を写し、お手本の絵と並び立つほどの出来になっています。文人画には決められたスタイルがあります。それは、細い線と点をうまく組み合わせて、山・岩・土の凹凸を表し、親しみやすい空間を描くというものです。

 なお、作品名は「銭貢に倣った山水画」という意味で、明の蘇州の職業画家・銭貢の山水画に倣って描いたものです。自然の中で自由に暮らす様子を描いています。池大雅の絵は圧倒的にうまいですが、中国の文人画風のものは描きません。一方、与謝蕪村の若い頃の絵はぎこちないものです。中国の文人画を丁寧に模写して、それをしっかりと再現するように修練し、それを土台にしてその後の作品を描きました。

〇池大雅《漁楽図》(第6章)

 大雅の代表作です。点描の雨嵐で、中国の文人画にもない表現です。明るく、伸び伸びと文人の理想を表現した大雅らしい作品です。

〇池大雅《蘭亭曲水・龍山勝会図屏風》(第6章)

 大雅41歳の時の作品で、明るく、優しく、伸びやか、朗らかで、登場する文人たちも楽しそうです。

〇与謝蕪村《新緑杜鵑図》(第6章)

 蕪村63歳以降のラフな表現の作品ですが、見る者の想像力を喚起します。余白をうまく使っており、モヤがかかった風景に合う、ぼんやりした表現です。中国風のかっちりとして緻密な表現を、意図的にラフなタッチに崩しています。詩的で情緒的な作品です。

〇与謝蕪村《奥の細道図巻》(第5章)

 蕪村63歳の時の俳画です。一見すると、誰でも描けそうですが、なかなか描けない絵です。いくつかの線を省略していますが、足の向きなどはちゃんとわかります。

◆自由鑑賞

〇彭城百川《十二ケ月押絵貼屏風》(第1章)

会員のNさんたちに評判が良かったのが、八月の天橋立図でした。墨の濃淡が綺麗です。ただ、その場にいた誰も「押絵貼」の意味が分からず、スマホで「押絵」を検索したら羽子板の「押絵」の画像が出て来て途方に暮れました。家に帰って調べたら伊藤若冲《鶏図押絵貼屏風》の画像が出てきて「独立した図を貼る押絵貼屏風という形式をとり」という文章が出て「押絵貼屏風」の意味が分かりました。

〇彭城百川《梅図屏風》(第1章)

 金屏風に墨で描いた、渋いけれど豪華な屏風です。墨で右隻の紅梅と左隻の白梅を描き分けているところに、会員のNさんたちは感心していました。

〇池大雅《前後赤壁図屏風》(第2章)

 横尾さんが「見どころ」として解説された作品ですが、篆書も楷書も良かったですね。

〇与謝蕪村《晩秋飛鴉図屏風》(第3章)

 濃い墨で描いた鴉と、薄い墨で描いた背景の対比にも、会員のNさんたちは感心していました。

〇横井金谷《蕪村筆奥細道図巻模本》(第5章)

 横尾さんが「見どころ」として解説された蕪村《奥の細道図巻》のコピーが展示してあったので、「何故だろう」と思ったところ、解説に「原本である『奥の細道図巻』が、当時の名古屋にあったことの傍証となるのである」と書いてありました。そのために展示しているのですね。

 「来てよかった」「来年の展示替えも見に来る」などの声も聞こえてきました。お勧めですよ。

     Ron.

豊田市美術館 「モンドリアン展」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

豊田市美術館で開催中の「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画を求めて」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。熱中症警戒アラートが発令されていたことなどから参加者は申し込みを下回り、11名でした。講堂で石田大祐学芸員(以下「石田さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。豊田市美術館の年間パスポートを持っている会員がいたので年間パスポートを持っていない参加者に「同伴者割引」が適用され、観覧券は団体料金(1400円→1200円)。このことは警備スタッフにも連絡が届いており、開館後速やかに対応できました。豊田市美術館の皆さま、ありがとうございます。

◆石田さんの解説(10:10~50)の要旨(注は、筆者の補足です)

・ハーグ派の風景画

 モンドリアンは、世界で初めて抽象画を描き始めた画家の一人。オランダ中部の地方都市アメスフォルト(アムステルダムの郊外)に生まれています。スライドはシモン・マリスの絵。自転車のハンドルに絵具箱を取り付け、どこでもスケッチできるように改造しています。モンドリアンは自転車で移動してスケッチを行い、アトリエに帰ってから風景画を描くというやり方で「標準的な絵」を描いていました。

 モンドリアンは、叔父のフリッツ・モンドリアンから絵を習いました。作風はバルビゾン派の影響を受けたハーグ派のもので、リアリズムの絵画です。ハーグ派は、小さなコミュニティーの中でよく似た作品を描いています。しかし、モンドリアンの絵は少し変わっていました。スライドは《田舎道と家並み》(1898-99年頃、No.3=注:作品名のNo.は作品リストの番号。以下同じ)。家が画面の上の方に描かれているので、手で画面の上半分を隠して下半分だけにすると、何が描いてあるかよく分かりません。(注:確かに、下半分だけだと抽象画のように見えます)

・点描の風景画

 スライドは《砂丘Ⅲ》(1908、No.34)。オランダの南の保養地(リゾート)ドンブルグで描いた作品です。次のスライドは《ウエストカペレの灯台》(1909、No.37)。ドンブルグにある灯台を描いたものです。その次は《オランダカイウ(カラー);青い花》(1908-09、No.37)。普通、カラーの花は白又はピンクですが、この作品の花は青色。照明を落とした状態で描いたものです。オレンジ色(注:中心の棒状の部分=小さな花が密集したものです)青色(注:花びらに見えるロート状の部分=苞、つまり小型の葉です)は補色関係なので、目がチカチカする描き方です。

 ドンブルグには点描の画家=ヤン・トーロップのコミュニティーがあり、ジョルジュ・スーラもいました。ヤン・トーロップの描いた農夫の絵を見ると、農夫は正面向きで窓の外には教会の高い塔が克明に描かれています。なお、モンドリアンの灯台や教会の絵も、下絵を見ると建物の外壁や窓を克明に描いています。

 この頃、モンドリアンは神智学に熱中しています。神智学はロシア出身のヘレナ・ブラヴァツキーがギリシャ哲学や仏教、バラモン教などの幅広い宗教や思想を参照しながら、宇宙や生命の神秘にたどり着こうとしたもので、オカルトブームの元祖です。ヤン・トーロップやモンドリアンは、神智学の説く崇高な力の象徴として、灯台や教会などの高い塔を描きました。

・キュビスムの風景画

1911年、モンドリアンはピカソやブラックとともにオランダでキュビスム風の展覧会を開催しました。スライドは《色面の楕円コンポジション2》(1914、No.43)。下絵には「KUB」と書かれた看板のある建物が描かれています。そして、この作品の画面右下にも「KUB」という文字が読み取れます。といっても「K」は一部が欠けていますが……。次のスライド《コンポジション 木々2》(1912-13、No.42)は、何を描いたのかよく分からないと思いますが、下絵を見ると二本の樹木を描いたものです。

キュビスムの作品は、人物画や静物画が多いのですが、モンドリアンは街の風景をキュビスムで描いています。「もともと、風景画家だったから」でしょうか。

このスライド《コンポジション(プラスとマイナスのための習作)》(1916頃、No.45)になると、斜めの線が無くなります。建物の正面を描いたものと思われます。

・補色の対比で画面を構成

《色面のコンポジションNo.3》(1917、No.46)は、白地に青・赤・黄の四角形を描いたものです。モンドリアンは、白地と四角形、補色関係の四角形といった対立関係にあるものは混ぜないで描いています。モンドリアンは「それぞれの色は対等であることが必要」と考えて、作品を制作しています。

《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》は、格子で囲まれた中を青・赤・オレンジで塗り分けたもので、モンドリアンは「特定の何かを描く」ことを避けて制作しています。

 《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》(1921、No.51)の黒い線は十字形がつながっているもので、画面を縦横に区切る線ではありません。それぞれの色面は隣の色面とのバランスを考えて色を塗っています。この作品では灰色が重要で、灰色の色面を見つめた後、隣の色面に目を移すと、その色が鮮やかに見えるような仕掛けを施しています。

・デ・ステイル

モンドリアンは、絵画だけでなく音楽や建築など、生活・芸術全般に関心があり、デ・ステイル(様式)というグループを立ち上げます。展示の最後にはデ・ステイルに参加した画家の作品や建築家ヘリット・トーマス・リートフェルトの作品も展示しています。写真撮影可能なエリアもありますので、お楽しみください。(以上で、解説の要約は終了)

◆自由観覧

石田さんの解説を聴いた後、展示室に入ると、日曜日ということで人出が多く、若い人が目立ちました。とはいえ、展示空間が広いので「密」という感じはありません。石田さんから「本展では展示空間を広く取りました」という説明がありました。どの入館者もマスクをして、お互いの距離を空け、静かに鑑賞しているので、安心して作品を楽しむことができます。ただ、「参加者で小さなグループを作り、小声の会話の楽しみながら鑑賞する」という「以前の鑑賞スタイル」ができないことは、少し寂しいですね。

帰り際、1階と2階をつなぐ大階段で、にぎやかに撮影会?をしている若者のグループがいました。

◆愛知県美術館「点描の画家たち」ミニツアー(2014.03.21)の思い出

石田さんの「補色関係」という言葉を聴いて、2014年3月21日開催の愛知県美術館「点描の画家たち」鑑賞の協力会ミニツアーを思い出しました。「点描の画家たち」はクレラー=ミュラー美術館のコレクションによる展覧会で、愛知県美術館・中西学芸員の解説では、オリジナルコンセプトは「点描」「新印象派」ではなく「分割主義」。分割主義は「色を純粋色に分割して並置する」ということであり、明るく鮮やかな色彩とするため「絵の具を混ぜるのではなく、カンバスの上に並べて、網膜上で一つの色と認識させる」というもので「補色の組み合わせで色彩の鮮やかさを強める手法」とのことでした。

展覧会名は英文表示で ”DIVISIONISM FROM VON GOGH AND SEURAT TO MONDRIAN” =「分割主義 ゴッホ スーラからモンドリアンまで」。「分割主義」の原理で制作されたゴッホやフォーヴィズム、モンドリアンの作品までを5部構成で展示していました。そのうち、第4部はベルギーとオランダの画家の作品。初めて目にするものばかりでした。メモによればヤン・トーロップの作品も見たはずなのですが、記憶にございません。第5部がモンドリアンの作品。ハーグ派の風景画、キュビスムの風景画、白地に四角形を配置した作品、グリッドで囲まれたコンポジションの4点が出品され、後半の2作品は「色を純粋色に分割して並置する」という分割主義の方法に従った作品でした。当時のメモには「モンドリアンの作品は額まで一体となっているので、大きな額の中に額に入った絵があって面白い」と書いてあります。本展でも、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》について、ミニツアーの参加者から「大きな額の中に、額に入った絵がある」と指摘され、「なるほど」とその着眼点に感心しました。それは良いのですが、当時のメモに記した発見が、記憶からすっぽりと抜け落ちていたことにガックリした次第です。

     Ron.

豊田市美術館「岡崎乾二郎 視覚のカイソウ」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

今回のミニツアーのお目当ては、豊田市美術館で開催中の「岡崎乾二郎 視覚のカイソウ」(以下「本展」)でした。参加者は9名。いつものミニツアーとは違い、豊田市美術館が企画した千葉学芸員(以下「千葉さん」)のギャラリートーク(以下「トーク」)に参加させてもらいました。トークが始まる時刻になると集合場所の1階ロビーは人で溢れんばかりの状態。参加者は我々も入れて約60名もいました。トークは約1時間続き、終了後は自由観覧・自由解散でした。以下はトークの概要。(注)は私の補足です。

◎1階ロビーと展示室8

◆「視覚のカイソウ」とは?

 展示室に移動する前の短い時間、1階のロビーで千葉さんがトーク。その概要は、「視覚のカイソウ」というサブタイトルの「カイソウ」には「回想」「階層」といった意味があり、「回想」は過去を想起しながら作品を制作するという思考をあらわす。また、「階層」は1階から3階まで各階層を使って展示するという豊田市美術館の展示の方法をあらわす。本展に《論理のカイソウ》というタイトルの作品が出品されていることもタイトルのヒントになった。本展は回顧展(注: 1979年から2019年まで、40年間の活動を回顧)なので「新作から過去の作品までを行き来しながら見る」ということにも関連する、というものでした。

◆レリーフ=《あかさかみつけ》の連作について

 1階・展示室8に入って最初に見たのは《あかさかみつけ》というタイトルのついたレリーフの連作(注:素材はプラスチック製の段ボール。カッターで簡単に切れるので工作しやすい)でした。千葉さんのトークは、《あかさかみつけ》は1981年制作。1987~1989年にもシリーズを制作している。《あかさかみつけ》のシリーズは全て同じ型を使用しているが、絵具の色彩・質感は少しずつ違う。前の作品を想起しながら次の作品を見る。また、一見しただけでは、レリーフの形状はつかめない。そして、見る方向によって少しずつ形が違って見える。「記憶とは何か」を考えることができる作品。色彩は軽やかで、きれい。マンションや団地の部屋はどれも同じ形だが、少しずつ違う。それぞれに固有の空間・場所がある。いくつも並べることで、それが際立つ、というものでした。

◆ドローイングについて

 レリーフと向かい合う壁面には《T.A.O.I.N.S.H.R.D.L. / COME HERE AT ONCE》とタイトルが付いた、20枚組のドローイングが展示されています。千葉さんのトークは、このドローイングは「描画ロボット=Drawing Machine」を使って描いている。タブレットに原画を描くと、支持体(注:筆などを取り付けて絵を描く部分?)が動いて原画を再現するが、描くたびに微妙にずれる。再現した絵は自分が描いている訳ではないため変な感覚に捕らわれる。つまり、原画を描いたのは自分なのに支持体に絵を描かされているような気になる。自分と描画ロボットの間で、主体が交錯する、というものでした。

 千葉さんのトークから、おぼろげながら伝わってきたのは、岡崎乾二郎という作家は「同じだけれど、少しずつ違うということに強い関心を持っている」ということです。生物学者の福岡伸一がよく使う「動的平衡」という概念は「変化しながら同じ状態を保っている」ことですが、岡崎乾二郎は動的平衡のなかの「ゆらぎ」に強く惹かれ、「ゆらぎ」を表現するために制作活動を続けているのかな、と思いました。

◆《あかさかみつけ》のオリジナル

 展示室8を直進し、左折した所の左側の壁に「おおもと」、つまり、1981年制作の《あかさかみつけ》が展示されていました。千葉さんのトークは、この《あかさかみつけ》を制作する前、岡崎乾二郎は《かたがみのかたち》(注:1979年制作、3階・展示室2に展示)を作った。洋服は「立体」だが、その「型紙」は「平面」。《かたがみのかたち》は、立体と平面、抽象と具象の間の作品。一方、《あかさかみつけ》は「型紙」を組み合わせた立体作品。岡崎乾二郎はフレスコ画に関心を持っていたので、《あかさかみつけ》ではフレスコ画の再現を目指しており、絵具が漆喰の壁に浸透しているざらざら感を出そうとしている。最初のタイトルは《たてもののきもち》。「小さいけれども、建物」というタイトル。《あかさかみつけ》のほか《おかちまち》《かっぱばし》《うぐいすだに》と、駅の名前をひらがなで表記したのは、具体的な形は無いがイメージを想起させるから。タイトルを「漢字」ではなく「ひらがな」にすることで、イメージを広げようとしている。岡崎乾二郎の作品はタイトルだけでも、色々なイメージを想起させる、というものでした。

◆ペインティングについて

 《あかさかみつけ》が展示されていたところから更に進んで左折すると、右側の壁にはレリーフが、左側の壁にはペインティングが展示されています。ペインティングのサイズは、小さなものから大きなものまで様々です。千葉さんのトークは、小さなペインティングは「ゼロ・サムネイル=Zero Thumbnail」。小さな作品のシリーズ(注:豊田市美術館のレストラン「ミュゼ(味遊是)」では「ZERO THUMBNAIL/ゼロ・サムネイル 」という名前の会期限定デザートを販売していました)。パネル式のペインティングは最近の、二枚組のペインティングは昔の作品。岡崎乾二郎のペインティングは「抽象画」ではあるが、画家はそれぞれの形を、彼の思い出を想起して描いているので、「写実」ではないが、具体的なイメージを持たせて描いている。彼は、絵具も自分で調合している。薄塗り用やドロッとしているもの、ざらついたものなど、さまざまな絵具を使い分けている、というものでした。

◎2階・展示室1

◆パーティクルボード製の立体作品

 2階に移動して、一番大きな展示室1に入ると、パーティクルボード(木材の小片と接着剤を混ぜ、熱を加えて成形した板)を組み合わせた立体作品が2点鎮座していました。千葉さんのトークは、重さはあるけれど、浮遊している感じの作品。二つのパーツが一か所で支え合い、自立している。多くの彫刻は台座で支えられているが、この作品は台座から自由になっている。本展では鉄板に固定しているが、それは大理石の床を保護するためであって、台座ではない。二つのうち大きな方の作品は、2002年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレの建築部門で展示された。無駄なものを削ぎ落した作品、というものでした。

◆セラミックの作品

 展示室1には粘土細工のような作品もあります。千葉さんのトークは、常滑のINAX(注:現LIXIL)と共同して、1998年から2000年にかけて制作した作品。粘土に顔料を入れて練ったものを素材にして制作した。大地が盛り上がっていくような感じがある。割れないように、時間をかけて中まで乾燥させた後、焼成して完成させたもの。焼成によって縮むことも計算に入れて制作。乾燥が不十分で、焼成中に作品が爆発したこともあった。中まで粘土が詰まっているので、とても重い、というものでした。

◎3階・展示室2

 この展示室には《かたがみのかたち》等、切り抜いた布や型紙が散りばめられた作品が展示されています。千葉さんのトークは、《かたがみのかたち》はドイツのスタイルブックに掲載されていた型紙を切り抜いて制作。《まだ早いが遅くなる》は、布を組み合わせて絵のように見える。山水画を参照して制作。素材が違っても、やれることはたくさんある。岡崎乾二郎が《かたがみのかたち》を制作した1979年頃は、鉄や石を素材にした大きな物体の作品を制作するという風潮が主流だったが、彼はそれとは違う手仕事的な作品を制作、というものでした。

◎展示室3

◆タイルの作品

 展示室3には、様々な色とサイズの四角いタイルを組み合わせた巨大な作品《Martian canals / streets》を貼った壁が立っています。千葉さんのトークは、岡崎乾二郎はハンザ池袋の壁面装飾も手掛けている。《Martian canals / streets》は成形してから釉薬を塗って一つ一つ焼成したタイルを貼り付けた作品。普通、タイルは焼成してから必要な大きさにカットするが、この作品ではカットしたものに釉薬を塗って焼成しているので、タイルの縁が白くなっている。タイルの形や大きさは様々で、色のバリエーションは60色もある。同じ釉薬を塗っても酸化炎と還元炎では発色が違う。この作品は岡崎が指示して職人が焼成し、組み立てた、というものでした。

◆ポンチ絵

 南側の壁面には色鉛筆で描いた作品が展示されています。千葉さんは、《ポンチ絵》といって、設計用紙(注:「丘設計事務所」と印刷されていました)を2枚重ね、切り抜きながら制作したもの、と解説していました。

◎展示室4

 ペインティングの展示です。千葉さんのトークは、2枚組の作品の間にゼロ・サムネイルの作品を展示。ゼロ・サムネイルは、2枚組の作品を凝縮したようなものになっている。2枚組の作品は左右が対応し、関連性を持たせている。左右の作品は「全く同じ」ではなく、少しずつズレながら関係を保っている。また、作品とタイトルとは、関係していないようで、関係している、というものです。以上で、トークは全て終了しました。

◎最後に

 本展は軽やかで綺麗な作品が並んでいたものの難解なところがあり、取っ付きにくかったのですが、千葉さんのトークを聴いて親しみが持てるようになりました。参加者が多くて「話が聞こえるかな?」と危ぶんでいたのですが、千葉さんの声は良く通り、明瞭で中身も詰まっていたので、気が付いたら1時間以上経っていました。

千葉さん、楽しいトーク、ありがとうございました。

Ron.