「佐藤玄々展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

今回の目的地は碧南市藤井達吉現代美術館でした。参加者17名で、現在開催中の碧南市制70周年記念事業 開館10周年記念「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」(以下「本展」)を鑑賞しました。展覧会の案内は特別主任学芸員の北川智昭さん(以下「北川さん」)。ギャラリートーク形式の解説を聴いた後は自由観覧で、楽しいひと時を過ごすことができました。北川さん、ありがとうございました。以下は、北川さんによるギャラリートークの概要で(注)は私の補足です。

解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます

解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます


◆佐藤玄々について
江戸時代まで、わが国に「彫刻」という言葉はありませんでした。「彫刻」という言葉は西洋から近代彫刻が紹介された後、明治30年代から使われるようになった言葉です。近代日本の彫刻家としては高村光雲(1852-1934)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう:1872-1979)が有名ですが、佐藤玄々(1888-1963)は平櫛田中の10歳ほど年下。「彫刻」という言葉が使われるようになってからの作家で、日本美術院・彫塑部の最初のメンバーです。
佐藤玄々は「日本精神を重視する」という日本美術院の方針に忠実にやろうとした人です。「日本精神」といえば神道ですが、神道では神の姿はみえないものであり、「神の像」はありませんでした。(注:北川さんの言葉どおり、神社には「神さま」ではなく、神が宿る「依り代」(よりしろ)=鏡・玉・剣・神木などを祀っていることが多いですね)佐藤玄々は「ご神体」を作ろうとした人で、日本橋三越本店にある個性的な作品《天女(まごころ)像》も「ご神体」です。
佐藤玄々は1922年(大正11)から約2年間、フランスに留学。その後、東京にアトリエを構えて多くの作品を制作しましたが、空襲でアトリエ・作品ともに焼失。戦後は京都・妙心寺の塔頭にアトリエを構えて作品を制作。亡くなったのも京都です。

◆佐藤玄々のデビュー作《永遠の道(問答)》について(Ⅱ.大正期 留学まで)
一本の木から彫り出した佐藤玄々のデビュー作《永遠の道(問答)》は不思議な作品です。座っている釈迦が立ち姿の婆羅門と対面しているというものですが、二人が異常に接近しています。(注:釈迦の右脚と婆羅門の左足との隙間は紙一枚ほどしかありません)二人の人間が理解しあうためには、お互いの間に一定の距離が必要です。しかし、この作品では二人が接近しすぎて「理解しあうために必要な一定の距離」を壊しています。
また、二人は目線を合わせていません。お互いに、どこを見ているかわかりません。「視線を合わせていない」という点では、この現代美術の作品と同じです。(注:北川さんは、展覧会のチラシを見せてくれました)これは、豊橋市美術博物館で2月16日から3月24日まで開催している「美術のみかた自由自在」で展示しているロレッタ・ラックス《アイルランドの少女たち》です。コンピューターグラフィックスで描いた二人の少女の絵ですが、隣り合っているのに視線を合わせず、別々の方向を向いています。これは「近くにいるのに、お互い、遠くの誰かの方を向いている」という現代のコミュニケーションのあり方を表現した作品です。
皆さんは展示ケース越しに見ているのであまり感じないと思いますが、この作品を買った人は感じる所があって「春日大社でお祓いを受けた」そうです。

◆《筍》について(Ⅲ.昭和初期)
本展では《筍》という題名の作品を2点展示しています。「超絶技巧」で有名な安藤碌山の作品にも象牙を彫った本物そっくりの「筍」がありますが、佐藤玄々の作品は超絶技巧を前面に出しておらず、彼の「問題意識」を感じます。2点のうち1点(注:作品番号45)は筍の根元を薄く緑に彩色しているため、自然の筍に宿る生命力を感じます。

◆《牝猫》について(Ⅲ.昭和初期)
この作品、一見するとブロンズに見えますが実は木彫です。佐藤玄々はフランス留学中にルーブル美術館でエジプト彫刻を見ており、この作品はそこで見たエジプト彫刻をもとにしています。この作品で、佐藤玄々は猫の首を後ろに向け、猫に動きを持たせています。

◆《神狗(かみこま)》について(Ⅳ.昭和戦中戦後)
これは熱田神宮所蔵のご神体です。一木造りですが、顔の部分だけは嵌め込みです。隣の大きな《神狗》は試作品で、この小さな《神狗》のほうが完成品です。晩年の佐藤玄々は、小さな作品を作るようになりました。なお、狗犬は「戦いの前に生贄(いけにえ)にされた犬」という話もあります。

◆《麝香猫(じゃこうねこ)》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
木彫ですが、顔の周りの毛にはふわふわ感があります。武者小路実篤はこの《麝香猫》を絶賛していました。

◆《聖大黒天》《大黒天像》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
サイズは小さいですが、とても手の込んだ豪華絢爛な作品です。彫刻・彩色は佐藤玄々の手によるものですが、截金(きりがね=金箔を細長く切って模様を作る技術)は他の職人に任せたのではないかと思います。

◆《天女(まごころ)像》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》の注文を受けたとき、佐藤玄々は10メートルを超えるようなサイズのものは意図していませんでしたが、制作を進めるうちに巨大なサイズになってしまいました。《天女(まごころ)像》は、大きすぎて東京から運搬することはできないので本展では3D映像で見ていただきますが、お手元のチラシのように、3月6日(水)から12日(火)まで日本橋三越本店 本館1階に「佐藤玄々展」が巡回しますので、よろしければ《天女(まごころ)像》の実物と併せてご覧ください。
佐藤玄々は「天才」とよばれた彫刻家です。主要な作品が空襲で焼失したこともあって忘れられた存在でしたが、最近、再び評価されるようになってきました。

◆最後に
ギャラリートークの最後、北川さんに「次の展覧会のテーマは何ですか」と尋ねたところ、「4月27日から6月9日まで北大路魯山人展を開催します。名古屋・八事の八勝館さんのご協力もあります」とのご返事でした。次回の展覧会も楽しみですね。
また、北川さんからいただいた佐藤玄々展のチラシをみて「日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》を見たい」と言った参加者が何人もいました。
北川さんから紹介のあった豊橋市美術博物館「美術のみかた自由自在」のチラシを見たところ、「美術のみかた自由自在」には「平成30年度独立行政法人国立美術館巡回展 国立国際美術館コレクション」という副題がついており、国立国際美術館のコレクションのうち、セザンヌ、ピカソを始めゲルハルト・リヒター、奈良美智など45作家、55点を紹介する展覧会のようです。「みること」をテーマに「イメージと物質」「表層と深層」「可視と不可視」という3つの切り口で構成しています。こちらも「今度、見にいてみようかな」という参加者が何人もいました。
                            Ron.

「特別展 画僧 月僊」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

平成31年最初のミニツアー、目的地は名古屋市博物館(以下「市博」)です。参加者22名で、現在開催中の「特別展 画僧 月僊」(以下「本展」)を鑑賞。学芸員の横尾拓真さん(以下「横尾さん」)のレクチャー「月僊作品の見どころ」を聴講してから自由観覧となりました。

◆「月僊作品の見どころ」(概要)
以下は横尾さんのレクチャーを要約筆記したもので、見出しと(注)は私の補足です。

◎月僊の生涯
本展で紹介する月僊(注:げっせん 1741-1809)は、名古屋城下で生誕した画僧です。7歳で仏門に入り、江戸・増上寺(注:山号は三縁山。徳川幕府の庇護を受け、一時は浄土宗を統括した大本山)で修業しました。江戸では桜井雪館に弟子入りして絵を学び、30歳を過ぎて上洛。京都・知恩院(注:山号は華頂山。法然が入滅した場所に建立された浄土宗の総本山。三門は国宝に指定されている)で修業を続け、絵では円山応挙の影響を強く受けます。ただ、月僊が応挙に弟子入りしたかどうかについては不明です。
月僊は34歳の時に伊勢の寂照寺の住職となり、69歳で他界するまで30年以上にわたり僧侶・画家として活躍しました。なお、「奇想の画家」といわれる伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白は月僊の同時代人です。
寂照寺は、伊勢神宮の下宮と上宮の真ん中あたりにある「間の山」(あいのやま)の上にあり、周りは遊郭街の「古市」(ふるいち)でした。月僊は絵を描いてお金を稼ぎ、そのお金で、寂れていた寂照寺を再興しました。月僊が建てた建物のうち現在まで残っているものは寂照寺の山門と経蔵です。
当時の月僊は、人気があって金を稼いだ画僧でした。彼はまた、「社会福祉事業家」の顔も持っており、貧しい人、恵まれない人を援助したと伝わっています。少なくとも、月僊が貧民救済のためにお金を出したことは事実で、伊勢では今でも敬われています。
◎本展の構成
本展は5章で構成されています。第1章「画業のはじまり」は、月僊と桜井雪館・円山応挙との関係に焦点を当て、第2章から第4章までは「信仰」「神仙」「山水と花鳥」と、ジャンル別に展示、第5章は「寂照寺の月僊」です。
◎雪館風のユーモラスなキャラクターを応挙に学んだ写実的表現が下支え(第1章)
桜井雪館という名前、現在では知らない方も多いと思いますが、当時は人気があり「雪舟の弟子」を標榜していました。中国風の人物をアクの強い画風で描く絵師で、絵にインパクトがあります。対する円山応挙は、雪館とは真逆の画風で、穏やかで写実的な画風です。
月僊の人物画は、漫画のように誇張と歪曲を加えたユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています。つまり、月僊の人物画の基本は円山応挙の写実ですが、それに雪館の画風(気持ち悪さやアクの強さ)が加味され、分かりやすい絵になっています。
私(注:横尾さん)は「円山応挙+オリジナリティー」という点で、月僊と長沢芦雪はよく似ていると思っています。オリジナリティーでは長沢芦雪が応挙の弟子中ナンバーワンですが、月僊は芦雪に次ぐと考えます。
◎仏画について(第2章)
チラシやポスターの図版として使った《朱衣達磨図》も「誇張した姿で分かりやすく表現した絵」です。この絵で「写実的表現が下支え」しているのは、先ず「目」です。瞳と虹彩を描き分け、目尻に赤い絵の具で充血を表現しています。白目の上下に薄く墨をさして、まつ毛の影と目が球体であることをあらわしています。また、月僊は、おでこの盛り上がり具合を、輪郭線は使わずに色彩で表現しています。
市博所蔵の《仏涅槃図》は伝統的な図柄を引き継いでいます。釈迦の上の方に描かれている金色の人物は菩薩さまですが、この絵では、ご覧のとおり、敢えて漫画のように人間臭く描いています。
《釈尊図》の台の下を見ると、邪鬼が釈尊の台を支えていることがわかります。本来、邪鬼は懲らしめられる存在ですが、この絵の邪鬼は愛らしく描かれています。三福図の《布薩本尊》では、上空から諸衆が来襲していますが、誰もが「ゆるキャラ」のような人物に描かれています。
◎神様と仙人(第3章)
月僊はクセのある人物を描くことを得意としており、仙人を多く描きました。《人物図衝立(鍾離権・呂洞賓)》が描くのは道教の仙人。二人は師弟ですが、見つめ合う姿は愛し合っているようにも見えます。このようにスターを面白おかしく、ふざけて描くことや人物のアクの強さは雪館風です。一方、手のひらや足の指先の写実的表現はうまく、破綻のない造形力を見ることができます。《恵比寿図》の顔は目が離れて鼻が大きく、神様というよりは漁師のような生々しさがあります。ご覧のように、ぱっと見は漫画チックな「面白いおじさん」ですが、その一方で、烏帽子を透かして髷が見えたり、活きているような鯛を抱えていたりと、写実的な表現がされているとわかります。
《張公図》は医者の像です。月僊の肖像画は、同時代の曾我蕭白よりも上品です。それは「月僊は蕭白ほどに突き抜けることは無かった」ということでもあります。月僊は、生々しさを残しながらも円山応挙のような上品さを保った画僧でした。そのため、月僊は上流階級の人々にも愛されました。皇族の京都・妙法院門跡もその一人で、月僊は多くの襖絵を妙法院のために描きました。本展では《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》を展示しています。淡白で美しい襖絵ですが、妙な生々しさが感じられます。
◎《百盲図巻》について(第5章)
《百盲図巻》(京都・知恩院所蔵)は、本展の最後に展示している作品です。描かれている人たちはふざけて合っているようにも見えますが、月僊は信仰心が無く六道をさまよう人々に対して「宗教的な戒め(いましめ)」を説くためにこの絵を描いています。ただ、この絵を描いたのは「戒め」のためというだけではありません。この絵の登場人物にはリアリティーがあり、楽しそうにみえます。この図巻の最後には漢文が書かれていますが、その大意は「盲人は目が見えないといっても、琵琶や鍼灸などの技術を持ち、他の人と変わるところはない」というものです。この言葉に、月僊の愛、社会福祉事業家としての姿を見ることができます。

◆自由観覧
 横尾さんのレクチャーは10時40分に終了。その後、各自、自由観覧となりました。
◎《仏涅槃図》
 今回のミニツアーでは市博所蔵《仏涅槃図》を始め4点の「仏涅槃図」を見ることができました。4点いずれも基本的な構図は同じですが、細かい点は少しずつ違っています。なかでも面白かったのは市博所蔵のもので、獣や鳥だけでなくカエル、セミ、トンボ、カマキリ、ナメクジなども描いており、図鑑を見ているような気がしました。他の3点はいずれもお寺の所蔵品で、全て文化財指定(菰野町、愛知県、伊勢市)を受けています。寺宝だったのですね。
◎ユーモラスなキャラクターとは無縁の肖像画
横尾さんはレクチャーで「ユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています」と解説されましたが、さすがに知恩院御影堂の肖像画を写した《円光大師座像》や岡崎・隨念寺15世倫誉達源の正装と墨染姿を描いた《倫誉上人像》におふざけは無く、写実に徹した上品な絵でした。
◎顔は緻密に、衣は一筆で描く
横尾さんがレクチャーで解説した《朱衣達磨図》と《恵比寿図》ですが、顔や手足は細筆で緻密に描写している一方、衣は襞を一筆でサラリと描いており、描写方法の対比と月僊の筆さばきに舌を巻きました。
◎床の間だけは写真パネルの《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》
 横尾さんがレクチャーで解説した襖絵は、満月を鑑賞する仙人と山水を描いたものでした。仙人が見ているのは、床の間の壁を撮った写真パネル。襖は取り外して運ぶことができますが、床の間の壁を取り外して運ぶことは難しいので写真パネルになったのでしょうね。この写真パネル、ぱっと見には「シミのある鼠色の壁」で、絵が描いてあるようには見えません。それでも目を凝らしてみると、「観月」という作品名が示すように、丸い形と樹影がかすかに見えました。
◎《富士の図》三重・寂照寺(伊勢市指定文化財)
 第4章には「人気絵師の多様な題材」というサブタイトルが付いており、山水画・花鳥画が出品されています。ミニツアーに参加したメンバーと「いかにも売れそうな絵ですね」とか「収集家は、自分の教養の高さを示すためにこの絵を買ったのでしょうね」とか、勝手な話をしながら鑑賞。《富士の図》では「帆掛け船・三保の松原と富士山・愛鷹山ですね。薄墨でシンプルな構図。控えめな表現で、横山大観の富士とは対極」などと話が弾みました。
◎ネズミ・唐辛子と猫の組み合わせとは?
第5章には《鼠と唐辛子図》《猫図》の2幅が並べてされています。説明には「大津絵に描かれた教訓をもとにしている」と書いてありましたが、唐辛子が鼠の好物とは思われず、モヤモヤが残った作品でした。
家に帰って調べてみると、元になった大津絵の題名は「猫と鼠の酒盛り」。うまそうに酒を飲んでいる猫、その横で鼠は猫に唐辛子を勧めてご機嫌を取っており、画面には「聖人の教えを聞かず 終に身を滅ぼす人のしわざなり」という説明が書いてありました。
解釈としては「猫に食われることも知らずに呑気に酌をしている鼠」というものと「鼠は猫をだまして酒を飲ませ、肴に唐辛子をやろうとしているが、猫のエサは鼠。策に溺れると自滅する意」というものがあります。どちらの解釈が正しいのか良く分かりませんが、わざわざ赤い唐辛子を描いているので、私としては後者の解釈の方が腑に落ちました。
◎まるや八丁味噌の大田家との交流も
 第5章には資料として、まるや八丁味噌の大田家当主・弥次右衛門宛書翰巻も出品されており、ショップでは八丁味噌の販売もありました。

◆最後に
 年表によれば、月僊の没年には、貧民救済のための基金が1500両まで積み上がったと書いてありました。1月14日に放送されたEテレ「趣味・猫世界」という番組で「天璋院篤姫が飼い猫の世話をするために使った費用は年25両、現在のお金で250万円でした」というエピソードが紹介されていましたが、Eテレが使ったレート・一両=10万円で換算すると1500両は1億5千万円という大金になります。貧民救済のための基金だけでなく寂照寺再建の資金も画業で稼ぎ出したことを考えると、まさに月僊は「売れっ子の画僧」だったのですね。年表には「江戸の絵師・谷文晁が月僊を訪問」という記載もあったので、当時は有名人だったのでしょう。
そのため、ミニツアー参加者からは「いい絵を描いたのに、なんで現在は広く知られていないの?」と、疑問の声が数多く聞かれました。県や市の指定文化財に指定されている作品が多いので、月僊の作品の価値はそれなりに評価されていると思います。寺のお宝で一般の人が目にする機会が少なかったために「現在は広く知られていない」という結果になったのでしょうか。
ミニツアー参加者は帰り際、「楽しかったね」と口々に感想を述べていました。この感想のとおり、今回のミニツアーで月僊の作品に出会えたことは幸運でした。名古屋市博物館の皆さんに感謝します。
                            Ron.

名古屋ボストン美術館「ハピネス展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor


名古屋市美術館協力会主催のミニツアーで、名古屋ボストン美術館で開催中の「ハピネス展」(以下「本展」)に行ってきました。参加者は33名、多かったですね。午前9時45分に1階壁画前に集合。午前10時の開館を待って5階・レクチャールームに移動し、吉田俊英特別顧問の解説を聴講した後は自由観覧となりました。
以下は、解説等の要約筆記です。(「注」は、私の補記)

◆吉田俊英特別顧問の解説要旨
◎自己紹介
名古屋市美術館開館の数年前から開設準備に従事しました。最初、職員は私一人でした。名古屋市美術館開館後も引き続き美術館に勤め、2000年に奈良県立美術館へ異動、2011年には豊田市美術館へ異動し(注:2015年3月まで館長)、現在は名古屋ボストン美術館特別顧問として閉館に向けた様々な仕事をしています。

◎本展のテーマ
本展のテーマは「ハピネス~明日の幸せを求めて」です。「ハピネス=”Happiness”」だけだと「幸せのかたち」がテーマですが、「幸せのかたち」は人さまざまです。
「幸せのかたち」ではなく「幸せを求める姿勢」なら皆に共通のテーマになるので「ハピネス~明日の幸せを求めて=”In Pursuit of Happiness”」というテーマにしました。

◎本展の概要
本展は名古屋ボストン美術館の最終展ということから、米国のボストン美術館からの出品75点に加え、名古屋市博物館から5点、名古屋美術館から1点(馬場駿吉氏寄託)、馬場俊吉氏個人蔵4点の特別出品があります。(注:馬場俊吉氏は名古屋ボストン美術館・館長)
4階展示室入口に記念の絵ハガキ(注:絵はジム・ダイン《ダイナマイト》)を置いていますので、ご希望のかたは一人1枚お持ち帰り下さい。
以下、各章ごとに主な作品などを解説します。

◎第1章 愛から生まれる幸せ~日常の情景から~
 第1では家族や恋人、友人の親しい関係を描いた作品を展示しています。
最初の展示はピラミッドから発掘されたエジプトの役人(執事)とその妻の仲睦まじい石像。王族の肖像ではありません。ボストン美術館はハーバード大学のエジプト発掘に協力したので、このような収蔵品があります。
次に、若い男女の口づけを描いた酒杯の裏にはキューピッドが描かれています。
ミレー《縫物のお稽古》は、彼の最晩年・1874年の作品で未完成と思われます。カサット《授乳》は歌麿《母と子》と並べて展示。浮世絵の影響が見られます。
スコット・ブライア《ナニーとローズ》は画家の夫人とペットを描いたスーパーリアリズムの作品で、本展入場者の関心を惹いています。(注:女性の姿が浮き出て見えます。「なぜ立体的に見えるのだろう」と不思議に思い、目が釘付けになりました)

◎第2章 日本美術に見る幸せ
第2章では自然との共生を表現した日本美術の作品を展示しています。
《江戸四季風俗絵巻》は江戸の四季を描いた絵巻です。通常は絵巻の一部を広げての展示ですが、本展では全部を広げて展示しているので見終わるまでに時間がかかり、絵巻を見る人の行列が出来ています。(注:吉田さんが解説されたとおり行列の人数があまりに多いので、最後尾について順番を待つことは断念しました)
鳥文斎栄之《美人舟遊び》は三枚続きの錦絵。隅田川の向こうに三囲神社(みめぐりじんじゃ)の鳥居が見えます。(注:展示室の解説には「鎌倉の鶴岡八幡宮で、源頼朝を前にして舞う静御前を見立てたもの」と書いてありました)
曾我蕭白《琴棋書画図》(きんきしょがず)は中国の知識人が嗜むべき四つの芸事(琴=音楽、棋=囲碁、書=書道、画=絵画)を描いたもの。ボストン美術館が収集した時は六曲一双の屏風でした。修復にあたり調査したところ、取手の痕跡があるなど、襖絵を屏風に仕立てことがはっきりしたため襖絵に戻しました。修復後、世界初の展示が本展です。なお、この作品には「棋」を描いた部分が収集時から欠けていました。
曾我蕭白の保有点数が世界一多い美術館は、ボストン美術館です。

◎第3章 ことほぎの美術
第3章では幸せを祈る「ラッキー・グッズ」を展示しています。
葛飾北斎《寿字と唐子》は98歳の花井白叟が「壽」の字を書いた上に86歳の北斎が唐子を描いたもので、二人の合作です。
《浅黄繻子地宝船模様掛袱紗》は江戸時代の掛袱紗。掛袱紗は持って行く品物の上に掛けて使ったもので、おめでたい図柄を刺繍しています。《紅綸子地松鶴波亀模様打掛》は結婚式の衣装で、展示室には赤、黒、白の打掛を展示しています。ただし、白の打掛は産着に仕立て直したものです。(注:掛袱紗も打掛も金糸をたっぷり使って刺繍した豪華なものです。幕末・明治の動乱期だったから、このような「お宝」でも売りに出されたのでしょうか)
ヴァージニア・ローデン《水壺》はアメリカ・インディアンの伝統的図柄の土器です。

◎第4章 アメリカ美術に見る幸せ
Ⅰ 幸せを彩った芸術~アメリカン・フォークアートの世界~
第4章は2部構成です。第1部ではアカデミックな芸術が入る前の民衆に密着した芸術を展示しています。
サルヴァトーレ・チェルニリアーロ《メリーゴーラウンドの豚》はメリーゴーラウンドの座席として使われていたもので、豚は幸せの象徴です。
ジョン・F・フランシス《3人の子ども》に描かれた子どもは、ごつい感じがします。

Ⅱ 東西の出会い~心の平安を求めて~
第2部ではボストニアンが収集した東洋美術と収集家が描いた東洋風の作品を展示しています。
西山芳園《白衣観音図》はフェノロサが収集したものです。《山間望月》は収集家のフランシス・ガードナー・カーティスが描いた水墨画で、ジョン・ラファージ《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》は歌川広重の影響を受けた油絵です。
《踊るシヴァ像》はアーナンダ・クマロスワミが収集したものです。3階ロビーにシヴァ神の変身セットが置いてあるので、帰りにシヴァ神のポーズで写真撮影することができます。皆さん、いかがですか。
ボストン美術館には、かつて「テンプル・ルーム」という寺院風の展示空間がありました。仏像も、お寺ではローソクの明かりで見ていたということを踏まえ、暗い照明で展示しています。

◎第5章 アートの世界に包まれて~現代における幸せの表現~
第5章では現代美術を展示しています。
ピーター・コフィン《無題》は、作家が子どもの頃に見た広告版をイメージした作品です。彼が見た広告版はカラフルな板を並べた上に、活字で案内を描いたもの。出品作品は、その広告版から文字を取り去ったものです。
第5章にはハートをかたどった、ジム・ダインのポップアートを多数展示しています。ジム・ダインの「ハート」にちなんで、ハート形の紙に名古屋ボストン美術館に対するコメントを書いて通路の壁などに貼るというキャンペーンをしています。9月15日現在で2400枚の「ハート」が集まりました。よろしければ、皆さんもハート形の紙に名古屋ボストン美術館に対するコメントを書いて通路の壁などに貼ってください。

◆自由観覧
吉田さんの解説は午前11時に終了し、各自、自由観覧となりました。
 展示室の入口を覗くと、部屋いっぱいの人が見えます。三連休の中日ですから人が多くて当然ですが、少し心配になりました。と言っても、なんとか作品の鑑賞ができたので安心しました。正午近くになると、昼食のためか人数が少し減り、ゆったりと鑑賞することができるようになりました。
 本展は名古屋ボストン美術館の最終展。「10月8日には閉館を迎えるのか」と、淋しい思いを抱いて美術館を後にしました。
                            Ron.

長谷川利行展 食事会とミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor


名古屋市美術館協力会主催の食事会とミニツアーが開催され碧南市の大濱旬彩大正館(以下「大正館」)と碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。以下は、そのレポートです。
◆食事会
名鉄碧南駅前の大正館で開催された食事会は正午の開始。早めに大正館に到着した参加者は大広間に案内され、食事会の開始まで涼しく過ごすことができました。参加者は26名。予定通り正午に始まった食事会は、おしゃべりを交えながら前菜のゆでた落花生やメイン・ディッシュのメバルの煮魚などを楽しみ、午後1時過ぎにお開きとなりました。
ミニツアー開始まで、まだ一時間近くあるので、参加者は美術館の近所の見どころを求め二手に分かれて散策。一手が向かったのは清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)。清澤満之は真宗大学(現大谷大学)初代学長を務めた宗教哲学者。清澤満之が暮らした西方寺(さいほうじ)に併設(観覧料300円)されています。
もう一手は今年7月にオープンしたレストラン・カフェのK庵(九重味淋株式会社内)に向かいました。美術館西の横断歩道を渡り土塀に挟まれた路地を20メートルほど歩くと右に門があります。門の向こうにはお目当てのK庵。中に入ると、残念ながら満員。順番待ちをしないと席につけません。仕方がないのでK庵の隣にある「石川八郎治商店」を覗くと、本みりんや本みりんを使った芋けんぴ等の「本みりん関連商品」を売っていました。本みりん使用のジャムを買った参加者もいました。人気があったのは本みりん使用のソフトクリームとロールケーキ。350円のソフトクリームは本みりんの上品な甘さが素敵でした。

◆長谷川利行展ミニツアー
ミニツアーの参加者は35名と、多め。集合時刻の午後2時少し前に美術館の特任学芸員・北川智昭さん(以下「北川さん」)の案内で美術館の2階ロビーに向かいました。
北川さんは先ず美術館について紹介。美術館は商工会議所の建物を増改築したものであるため、天井高が低い、展示室が狭いなどの制約があるとのことでした。
北川さんは続いて長谷川利行(以下「長谷川」)について解説。概要は以下の通りです。なお、「注」は私の補記。

◎2階ロビーでの説明
長谷川は1891年7月9日に5人兄弟の3男として生まれる。本名は「はせがわ・としゆき」。歌人の出た家柄であり、本人も最初は歌人を目指して上京。1923年9月1日に関東大震災に遭遇。震災の経験を契機に「文字」から「絵」に方向転換した。当初から「専業の絵描き」を目指し「絵で食う」という覚悟だった。長谷川は美術学校で絵を学ぶことはなかったが、作品を二科会に出品。しかし、応援してくれる人は熊谷守一など数人に限られた。父の逝去で仕送りが途絶えたことなどから、ドヤ街暮らしとなる。アトリエを持っていないので、じっくり描くことはできない。そのため、30分以内に描く、その場で描いて絵を完成させる、というスタイルで絵を描き続けた。1940年、49歳で死去。胃癌だった。

◎Ⅰ 上京―1929 日暮里:震災復興の中を歩く
(注:展示室に移動し、主な作品を取り上げたギャラリートークが始まりました)
 長谷川は「あたらしもの好き」で最先端の東京を描いた。当時の最先端は電化。変電所や電線などを描いている。また、《地下鉄道》は当時最先端の地下鉄駅を描いたもの。「カフェ」も最先端の風俗。現在の喫茶店とは違いコーヒーだけでなくお酒も提供し、店によっては女給さんによるサービスもあった。最盛期には東京に1000軒ほどのカフェがあったという。《カフェ・パウリスタ》は「開運 なんでも鑑定団」で鑑定された作品。30分ほどで描いたと思われるが、エプロン姿の女給さんを活き活きと描いている。
長谷川は国産品ではなく、フランス製の絵の具を愛用していた。《汽罐車庫》はカドミウム・レッドというフランス製の絵の具をたっぷりと使った大作。《靉光像》に描かれた画家・靉光は長谷川を画家の先輩として尊敬していた。こうして見ると長谷川は似顔絵の才能が高いと思う。追加出品の《子供》は元「安藤組の組長」で映画俳優の安藤昇がモデル。安藤が子供の時に長谷川利行が絵を描いたということが確認されている。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その1)
長谷川の生き方を見ていると「お金がなかったからドヤ街を転々とした」というよりも、「都会のなかで異邦人、自由人として暮らす」という生き方をしたのだと思う。
第2章の絵からは「線」が出てくる。《女》は二科展の出品作。長谷川利行展の出品作品のなかで大きいサイズの絵は展覧会の出品作品。
長谷川は戸籍上「はせがわ・としゆき」だが、絵のサインは「TOSHIUKI HASEKAWA」と書いており、仲間内では「ハセガワ・リコウ」と呼ばれていた。
《熊谷守一像》はお世話になった熊谷守一を描いたものだが、あまり尊敬の念が感じられないように思う。熊谷守一の次女の熊谷榧(くまがい・かや)さんから「あるとき、長谷川利行が着物を濡らして熊谷の家を訪ねてきたので代わりの着物を貸してやったところ、いつまでたっても返しに来なかった。」というお話を聞いた。
《水泳場》は、震災復興の象徴で飛び込み台付きのプールを描いたもの。この絵に飛び込み台は描かれていないが、画面右に頭を下にして斜めに空中を飛んでいる人が描かれているので、飛び込み台の存在が分かる。
《カフェ・オリエント》は第1章の《カフェ・パウリスタ》とは作風が変わり、白いバックに色鮮やかな線で描いた作品。これ以降、長谷川の作品は明るいものになる。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その2)
(注:まだ美術館の2階ですが、ここから展示室が変わります)
写真は天城画廊で撮ったもの。天城画廊では2年間に何回も長谷川の個展を開催して多くの絵を売った。長谷川と画商の天城俊彦が一緒に写っており、壁に掛けられている絵は《浅草の女》。《花》《百合の花》は、花が活き活きしている。長谷川利行の描く花は一点一点違う。「一期一会」で描いているので、同じ絵は二度と描けないのだろう。(注:この部屋に展示されている《大根の花》の説明版に「名古屋市美術館蔵」と記されていました)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その1)
ガラスケースの中にヌードをまとめて展示。長谷川は会話をしながら絵を描いたのではないかと思う。真ん中の《青布の裸婦》をはじめ、どのヌードもモデルがリラックスしており、素直に描いている。《足を組む裸婦》は賛否が分かれる問題作。左脚を膝から曲げて右脚の上で組んでいる姿だが、右脚が体の真ん中から突き出ているように見える「解剖学的にありえない」作品。「解剖学的な正しさ」にとらわれずに見た印象を表現しようとしたので、こうなったと思う。《三河島風景》は「その場で描いた」というより「記憶に残っている所を描いた」のではないかと思う。

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その2)
(注:美術館1階北側の小部屋におけるギャラリートークです)
 この部屋には「かわいい絵」を集めた。入口を入って直ぐのところに展示の《ノアノアの少女》《ノアノアの少女図》《モナミの少女》は、いずれもカフェの女性を描いたもの。(注:ノアノア ”noa noa” はタヒチ語で「芳しい香り」。モナミ ”mon ami” はフランス語で「私の友達、私の恋人」)《ノアノアの少女》は異様に首が長いが、違和感はない。《ノアノアの少女》と反対側の壁に展示の《トルソーの女》は表情をうまくとらえている。
 長谷川の描く女性像は可愛くて魅力的だが、男性像は魅力的でない感じがする。(注:《天城俊彦像》は確かに顔が四角くて少し異様な感じがする絵ですが、2階に展示されていた写真と見比べると特徴をよく捉えていると思います。)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その3)
(注:最後の展示室、美術館1階南側の部屋におけるギャラリートークです)
 部屋の奥の壁に展示している《白い画面の人物》は2018年3月に発見された作品。一見、未完成のように見えるがサインがあるので完成作だと思われる。二科会に出品記録のある最後の作品ではないか。《白い画面の人物》は、とりあえず付けた無難なタイトル。二科会に出品した《道化師》ではないかという意見もある。これから調べるところであり、タイトルが変わる可能性がある。宗教画のような雰囲気を持っている。《男の顔(自画像)》は数少ない自画像の一つ。この部屋はお墓のような感じがする。
 長谷川は現在、注目されている作家。《白い画面の人物》のように、新しく発見される作品がこれからも出てくると思われる。

◎北川さんによる「締め」の挨拶
私のギャラリートークはこれで終わりです。引き続き長谷川利行展をご覧ください。
また、美術館の西には大谷大学の初代学長を務めた宗教哲学者を紹介する清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)と今年7月にオープンしたレストラン・カフェがあります。よろしければ、美術館の帰りにお立ち寄りください。

◆自由観覧
ギャラリートークの終了は午後2時35分頃。その後は自由観覧となりました。
 北川さんのギャラリートークでは触れていませんが、最後の部屋に展示されていた数点のガラス絵は小さなサイズでヒビの入ったものもありますが、発色が鮮やかで魅力的な作品でした。
                            Ron.

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

会場にて「inferno」 解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます 2018ArtLabTokyoここにもアートラボ 石切り場 前室にて 音のアーキテクチャ トンネルでピクニック 佐川美術館 ギャラリートークの様子 展示会場で話をきく会員たち 泉屋博古館にて まずは講堂でレクチャを聴く会員たち 会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます! 「回生の苗床」 光内惟奈 燃やせないもの