愛知県美術館「アイチアートクロニクル」展ミニツアーに参加して

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6月16日、愛知県美術館リニューアル・オープン記念「アイチアートクロニクル展1919-2019」のミニツアーに参加した。参加者は21名いたが、愛知県美術館の石崎学芸員より50分程、展示室内の作品の前で、解説を聞かせていただくことができた。 展示室に入る前に、ロビーで展覧会の概要を聞く。1年半近くの大規模改修工事を終えた後の今回の展覧会。1919年の愛美社第1回展を起点に、今までの100年間の愛知のアートシーンを揺り動かしてきたムーブメントをたどるものになっている。全館を使って9章立ての展示。ボリュームがあり、期待が高まる。

第1章は「博覧会・博物館 愛知洋画のはじまり1871~」。交通の便が発達していなかった当時、中央と地方の隔たりは非常に大きなものがあった。そんな中、高橋由一より洋画を学んだ河野次郎や、その門下の野崎華年が名古屋に洋画をもたらす。野崎華年の《武具》(1895)という作品がおもしろい。油彩画だが、欄間に掛けられるように横長のサイズ。しかもモチーフは和の武具。日本家屋に合うように工夫されている。

第2章は「愛美社とサンサシオン」。1917年、岸田劉生らによる草土社の展覧会が名古屋に巡回。その写実性に感銘を受けた大澤鉦一郎が中心となり、愛美社が結成された。緻密に描かれた愛美社の作品は、名古屋市美術館でも馴染み深い。官展志向のグループ、サンサシオンの作品も並ぶ。サンサシオンの創設メンバーで、後年まで中部洋画壇を牽引した鬼頭鍋三郎の《手をかざす女》(1934)が出ている。これは名古屋市美術館のコレクションのひとつ。他館で見ると、いつもと少し違った表情をみせてくれる気がする。安藤邦衛は19年もの間海外で学び、帰国後、画塾を開く。この画塾から、次章で紹介されている名古屋のシュルレアリスムの作家も出ているそうだ。ボリュームのある裸婦像が目を引く太田三郎は、画家としてだけではなく、愛知県文化会館の初代美術科長(実質的な美術館長)として活躍。幅広い人脈を活かし、芸術行政に貢献したとのこと。他の章で愛知県文化会館講堂のガラス扉が展示してあり、とても懐かしい。ここのロゴマークのデザインを手がけたのは宮脇晴と知り、驚く。

第3章「シュルレアリスムの名古屋」。戦前の名古屋は、日本のシュルレアリスムの中心地の一つだった。名古屋のシュルレアリスムのコレクションが充実しているのは、もちろん名古屋市美術館。市美収蔵の絵画と写真が多数並んでいる。わが子の活躍を見るようで、嬉しい。シュルレアリスム絵画のモチーフには、よく地平線が出てくる。これには、あの地平線、あの海の向こうには何があるのだろうと想像させる働きがあるとのこと。牛もまた、よく描かれている。牛は大陸と結びつき、左翼的傾向のシュルレアリストたちの、中国大陸に近い心情が牛を描かせていたのかもしれないとの考察を伺い、興味深かった。

第4章の「非常時・愛知」。戦時中は絵具やキャンパスを取り寄せるにも許可が必要で、政府が認める活動にのみ絵具が配給された。鬼頭鍋三郎の戦争画の習作がある。女性像を常に描いていた画家が兵隊を描く。制作が戦争と結びつかざるを得ない時代だ。

第5章「日本画と前衛」。東松照明の出発点、伊勢湾台風の災厄と被災者の暮らしを撮った写真が並ぶ。5000人を超える犠牲者を出したこの台風は、美術にも影響を与えたとのこと。東日本大震災がアーティストに与えた影響の大きさを思い起こす。

第6章「桜画廊とその周辺」。1960年代を過ぎると、徐々に愛知と中央の距離感が近くなっていく。水谷勇夫は東京の美術メディアからも評価され、久野真はNYの展覧会で紹介されたりする。こういうことが増えていくにつれ、地元の自信につながり、活動が活発になっていったそうだ。久野真《鋼鉄による作品#272》(1975)は、ステンレスの表面が鈍い光を反射し、かっこいい作品だ。

第7章「美術家たちの集団行動」。1960年代以降、美術家によるグループ活動が全国的に広がっていく。愛知からも「ゼロ次元」や「ぷろだくしょん我S」という個性的なグループが出てくる。彼らは日常空間でハプニングをして、世の中を茶化したり街の人々を驚かす。栄の歩道を這いずって進む男がいたら、誰だってぎょっとする。こうしたパフォーマンスは、美術を見ない人に、出向いて行って無理やり美術を見せるという、行為による表現とのこと。当時を知らないので、その熱量は正直よくわからないが、今モニターで見るだけでも面白い。「ぷろだくしょん我S」の《人形参院選》(1974年)は名古屋市美術館の収蔵作品。服を着た空気人形のとぼけた表情が、思わず笑いを誘う。 石崎学芸員による解説はこの章まで。この先は自由鑑賞となる。

第8章「現代美術の名古屋」。1980年代と1990年代の名古屋には現代美術を扱うギャラリーが数多く存在し、優れたコレクターもいて、現代美術の名古屋と言われていたらしい。久野利博や山本富章、櫃田伸也など、協力会のカレンダーを制作して頂いた作家の作品もある。

第9章「美術館の内と外」では、あいちトリエンナーレやあいちトリエンナーレのプレイベント「放課後のはらっぱ」展、名古屋市美術館の「ポジション」展でみた作家の作品などが並んでいる。多彩な表現が見ていて飽きない。栗木義夫の《glove stand》(2008)の陶器と鉄を使った造形が面白い。油絵と組み合わせたインスタレーションになっている。この作家の父親は木村定三コレクションで展示してある、陶芸家の栗木枝茶夫。同じく陶芸家、加藤華仙の息子、加藤昭男の彫刻作品が、12階の屋上庭園にある。 父子で美術に携わり、その作品が同じ館内に展示されている。これは解説を聞かないと気が付かない。

展覧会を見終わると、2時間半が過ぎていた。この地域の美術の歴史の検証を、200点程の作品でたっぷりと体感することができ、見応えのある展覧会だった。図録を買って帰る。

最後に、当初の予定を大幅に延長して、詳しく解説してくださった石崎学芸員には、この場を借りて、厚く御礼申し上げます。                            MaT

「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」展 ミニツアー

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名古屋市博物館(以下「市博」)で開催中の特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」(以下「芳芳展」)の協力会ミニツアーが3月24日(日)に開催されました。当日、午後2時に市博1階の展示説明室に集合した参加者は22名。神谷浩・市博副館長(以下「神谷さん」)の解説を聴いた後、自由観覧となりました。

レクチャ風景

レクチャ風景

◆展示説明室における解説(14:00~15:20)の抜粋
神谷さんの解説は、とても楽しくて時間の経過を忘れるほどでした。限られた紙面に収まりきらないので、申し訳ございませんが解説の抜粋を書かせていただきます。
◎芳芳展の概要
特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」という展覧会名は長いので、関係者の間では「芳芳展」と呼んでいます。芳芳展を開催する目的の第一は、市博の浮世絵コレクションを使って「幕末・明治に浮世絵がどういう変化を見せたか」を知ってもらうことです。一方、歌川国芳(以下「国芳」)は一番作品数が多い浮世絵師です。浮世絵師は歌麿、写楽、北斎、広重だけではない「国芳がいる」ということを知ってもらうのが第二の目的です。
芳芳展は5章構成です。「1章 ヒーローに挑む」は武者絵。国芳が最も得意としたものです。「2章 怪奇に挑む」は、怖い絵。幕末には、歌舞伎・講談・浮世絵などで怖いものが流行った時代です。なかでも血みどろ絵は、三島由紀夫が大好きだった作品です。「3章 人物に挑む」は美人画。歌麿とは違う国芳の美人画を楽しんでください。「4勝話題に挑む」は時事ネタ。浮世絵は、いつの時代でも人気者や時事ネタを描いてきました。「終章 「芳」ファミリー」はその他の作品です。
なお、芳芳展は全作品、撮影O.K.です。
◎1章 ヒーローに挑む
108人の豪傑を描いた《通俗水滸伝》は人気を博した国芳の代表作です。国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一人 花和尚魯知深初名魯達》は、木の幹を鉄棒でたたき切るほどの怪力の持ち主・花和尚を描いた作品で、入れ墨もすごいですね。武者絵は、もともと武者に扮した役者を描いた「役者絵」でした。役者絵ですから「役者本人を描かざるを得ない」という制約があります。それに対し、国芳は原典からイマジネーションを膨らませて自由に描きました。
国芳《大江山酒呑童子》は、勝川春亭《源頼光酒呑童子退治》のアイデアを借用していますが、単に借りるだけではなく「プラスアルファ」があります。この作品で国芳は、鬼に半ば変身した酒呑童子を描いているので、動画のように見えます。
魅力的な武者絵にするためには、①「どの場面を描いたか」に加えて、②「どのように描いたか」が大事です。この二つを備えた武者絵を描いた最初は、国芳の先輩・葛飾北斎です。曲亭馬琴とコンビを組んで数多くの「読本(よみほん)」を世に出しました。一方、国芳は読本ではなく一枚刷りの浮世絵にアイデアを盛り込みました。
国芳《八犬伝之内芳流閣》は三枚続のワイド画面です。役者絵の三枚続は、三枚セットだけでなく、贔屓の役者を描いた一枚だけを買っても大丈夫なように、登場人物を均等に描いています。しかし、この《八犬伝之内芳流閣》は三枚セットで鑑賞することを前提に描くことで「視覚の驚き」を出しています。
国芳の弟子・月岡芳年(以下「芳年」)の《東名所墨田川梅若之古事》(終章に展示)は、更に完成度を求めた三枚続です。梅若丸伝説の一場面で、人買いと力尽きた梅若丸、墨田川に映る朧月が緊張感のある構図で描かれています。
◎2章 怪奇に挑む
血みどろ絵は歌舞伎の一場面を描いたもので、鶴屋南北「東海道四谷怪談」からスタートしました。残虐シーンが強烈であるほど、前後のシーンが際立つのです。
落合芳幾(以下「芳幾」)と芳年の合作《英名二十八衆句》は2章の見どころですが、可哀そうな評価を受けている作品です。それは、芳幾・芳年とも「血を好む残虐な人間」だと誤解する人が多いからです。確かに《英名二十八衆句》の絵は芳幾・芳年ですが、《英名二十八衆句》は絵だけでなく俳句と一流文化人の文章がワンセットになった作品です。幕末は残虐趣味が世に満ち満ちていた時代で、絵師と文化人のグループで知恵を持ち寄り、時代受けする作品を世に出したということなのです。
絵の技法としては「正面摺(しょうめんずり)」といって、絵の正面からバレンで擦るようにして光沢のある模様が浮かび上がらせる手法や赤い絵の具に膠を混ぜて「てかり」を出す手法などが使われています。
◎3章 人物に挑む
3章は、主に美人画です。鈴木晴信は男・女を同じ顔で描きました。歌麿の大首絵は、クローズ・アップで描くことにより表情や気持ちを表現しました。また、渓斎英泉(けいさいえいせん)が描く遊女は猫背で足は甲高、下顎が突き出ているという「くせのある」ものです。これに対し、国芳の美人画は「近所の普通のお姉さん」を描いたものです。国芳《江戸じまん名物くらべ こま込めのなす》は、歌麿の作品からモチーフを持ってきた作品ですが、歌麿の色っぽさ・艶っぽさを抜いた普通の人の仕草を描いています。
国芳《満月の月》では画面右の子どもが左足を上げています。足を上げる必要は無いのですが、子どもが足を上げた一瞬を描いたことで、スナップ写真のような、現実感にあふれる作品になっています。芳年《見立多以尽(みたてたいづくし) 洋行がしたい》では、女性が横文字の本や着物の下に赤地に黒の弁慶格子(ギンガムチェック)のシャツを着ています。これは当時流行した風俗を描いたものです。また、芳年《風俗三十二相 暗さう 明治年間細君の風俗》は色っぽく、江戸時代とは随分違ってきます。浮世絵は、その時代の世相・風俗を描いたものです。写真家・アラーキー(荒木 経惟=あらき のぶよし)は現代の浮世絵師といえるでしょう。
◎4章 話題に挑む
国芳は幕府の御禁制を逃れるために様々な仕掛けをしています。《亀喜妙々》は亀の顔が役者、甲羅が役者の紋という趣向で、「役者絵」の御禁制逃れをしています。《里すゞめねぐらの仮宿》は遊女屋の宣伝ですが、御禁制逃れのため、人物をすべて雀にしています。人物の顔よりも表情が豊かなのが面白いですね。
「一ツ家伝説」を描いた作品もあります。「一ツ家伝説」には二系統あり、一つは浅茅が原の一軒家に住む老婆の話です。この老婆は宿を借りた旅人に石を落として殺し、金を奪っていました。ある時、少年が宿を借りたので、いつものように石を落として殺したところ死んでいたのは実の娘。少年は浅草の観音様の化身で、老婆は悪行を悔いたという物語です。もう一つは、奥州安達ケ原に住む老婆の話です。こちらは、老婆が胎児の生き血を手に入れるため、宿を求めてきた身ごもった娘を殺害したところ、殺された娘は老婆の生き別れた実の娘だったという話です。
浅茅が原の「一ツ家伝説」は、国芳が奉納した絵馬を弟子の歌川芳盛が浮世絵にしています。また、絵馬が生人形のネタになったので、それを国芳が浮世絵にしたというものです。芳年は殺害場面を描かない「一ツ家伝説」《月百姿 弧家月》を描いています。
奥州安達ケ原の「一ツ家伝説」は芳年《奥州安達がはらひとつ家の図》。逆さ吊りになっている妊婦の下で老婆が包丁を研いでいる作品です。
◎終章 「芳」ファミリー
歌川芳藤《端午の節句》は「おもちゃ絵」で、切り抜いて端午の節句飾りを作るものです。展示室には組み立てた節句飾りも展示しています。芳幾《東京日々新聞 百十一号》は力士が火消しをしたという記事を錦絵にした新聞です。浮世絵はワイドショウのようなもので、ニュースを「見てきたように」描いています。
芳年《延命院日当話》は大奥のスキャンダルを描いた、浮世絵師、彫師、摺師の技術が最高の時の作品です。芳年の美人画は四条派の影響を受けており、芳年の弟子筋には水野年方、鏑木清方、伊東深水など、近代日本画の主流の人物が名を連ねています。
◎会場のキャプション等について
芳芳展ではキャプション(作品の説明)をよみやすくてわかりやすくするように、そして、「作品に何が描かれているか」だけでなく「なぜ、この作品を出品したのか」を書くよう努めました。
国芳の作品は遊び心満載です。お腹はいっぱいになりませんが、胸はいっぱいになると思います。
◆自由観覧(15:20~17:00)
当日は日曜日で人出が多く、少しずつしか進めませんでした。しかし、ノロノロと歩いて鑑賞したため、1時間40分かけて作品をじっくりと鑑賞することができました。結果オーライ、大満足です。
解説のなかで神谷さんは「ヨーロッパでは国芳と芳年は一続きのものと捉えている。明治のものを低くみるのはまずい。芳年は最後の浮世絵師で最初の近代日本画家」と話していましたが、芳年の出品は全く、神谷さんの言葉どおりのものでした。
見逃せない展覧会です。会期は4月7日(日)まで。

解説してくださった神谷副館長、ありがとうございました

解説してくださった神谷副館長、ありがとうございました

Ron.

「佐藤玄々展」ミニツアー

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今回の目的地は碧南市藤井達吉現代美術館でした。参加者17名で、現在開催中の碧南市制70周年記念事業 開館10周年記念「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」(以下「本展」)を鑑賞しました。展覧会の案内は特別主任学芸員の北川智昭さん(以下「北川さん」)。ギャラリートーク形式の解説を聴いた後は自由観覧で、楽しいひと時を過ごすことができました。北川さん、ありがとうございました。以下は、北川さんによるギャラリートークの概要で(注)は私の補足です。

解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます

解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます


◆佐藤玄々について
江戸時代まで、わが国に「彫刻」という言葉はありませんでした。「彫刻」という言葉は西洋から近代彫刻が紹介された後、明治30年代から使われるようになった言葉です。近代日本の彫刻家としては高村光雲(1852-1934)や平櫛田中(ひらくしでんちゅう:1872-1979)が有名ですが、佐藤玄々(1888-1963)は平櫛田中の10歳ほど年下。「彫刻」という言葉が使われるようになってからの作家で、日本美術院・彫塑部の最初のメンバーです。
佐藤玄々は「日本精神を重視する」という日本美術院の方針に忠実にやろうとした人です。「日本精神」といえば神道ですが、神道では神の姿はみえないものであり、「神の像」はありませんでした。(注:北川さんの言葉どおり、神社には「神さま」ではなく、神が宿る「依り代」(よりしろ)=鏡・玉・剣・神木などを祀っていることが多いですね)佐藤玄々は「ご神体」を作ろうとした人で、日本橋三越本店にある個性的な作品《天女(まごころ)像》も「ご神体」です。
佐藤玄々は1922年(大正11)から約2年間、フランスに留学。その後、東京にアトリエを構えて多くの作品を制作しましたが、空襲でアトリエ・作品ともに焼失。戦後は京都・妙心寺の塔頭にアトリエを構えて作品を制作。亡くなったのも京都です。

◆佐藤玄々のデビュー作《永遠の道(問答)》について(Ⅱ.大正期 留学まで)
一本の木から彫り出した佐藤玄々のデビュー作《永遠の道(問答)》は不思議な作品です。座っている釈迦が立ち姿の婆羅門と対面しているというものですが、二人が異常に接近しています。(注:釈迦の右脚と婆羅門の左足との隙間は紙一枚ほどしかありません)二人の人間が理解しあうためには、お互いの間に一定の距離が必要です。しかし、この作品では二人が接近しすぎて「理解しあうために必要な一定の距離」を壊しています。
また、二人は目線を合わせていません。お互いに、どこを見ているかわかりません。「視線を合わせていない」という点では、この現代美術の作品と同じです。(注:北川さんは、展覧会のチラシを見せてくれました)これは、豊橋市美術博物館で2月16日から3月24日まで開催している「美術のみかた自由自在」で展示しているロレッタ・ラックス《アイルランドの少女たち》です。コンピューターグラフィックスで描いた二人の少女の絵ですが、隣り合っているのに視線を合わせず、別々の方向を向いています。これは「近くにいるのに、お互い、遠くの誰かの方を向いている」という現代のコミュニケーションのあり方を表現した作品です。
皆さんは展示ケース越しに見ているのであまり感じないと思いますが、この作品を買った人は感じる所があって「春日大社でお祓いを受けた」そうです。

◆《筍》について(Ⅲ.昭和初期)
本展では《筍》という題名の作品を2点展示しています。「超絶技巧」で有名な安藤碌山の作品にも象牙を彫った本物そっくりの「筍」がありますが、佐藤玄々の作品は超絶技巧を前面に出しておらず、彼の「問題意識」を感じます。2点のうち1点(注:作品番号45)は筍の根元を薄く緑に彩色しているため、自然の筍に宿る生命力を感じます。

◆《牝猫》について(Ⅲ.昭和初期)
この作品、一見するとブロンズに見えますが実は木彫です。佐藤玄々はフランス留学中にルーブル美術館でエジプト彫刻を見ており、この作品はそこで見たエジプト彫刻をもとにしています。この作品で、佐藤玄々は猫の首を後ろに向け、猫に動きを持たせています。

◆《神狗(かみこま)》について(Ⅳ.昭和戦中戦後)
これは熱田神宮所蔵のご神体です。一木造りですが、顔の部分だけは嵌め込みです。隣の大きな《神狗》は試作品で、この小さな《神狗》のほうが完成品です。晩年の佐藤玄々は、小さな作品を作るようになりました。なお、狗犬は「戦いの前に生贄(いけにえ)にされた犬」という話もあります。

◆《麝香猫(じゃこうねこ)》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
木彫ですが、顔の周りの毛にはふわふわ感があります。武者小路実篤はこの《麝香猫》を絶賛していました。

◆《聖大黒天》《大黒天像》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
サイズは小さいですが、とても手の込んだ豪華絢爛な作品です。彫刻・彩色は佐藤玄々の手によるものですが、截金(きりがね=金箔を細長く切って模様を作る技術)は他の職人に任せたのではないかと思います。

◆《天女(まごころ)像》について(Ⅴ.天女(まごころ)像)
日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》の注文を受けたとき、佐藤玄々は10メートルを超えるようなサイズのものは意図していませんでしたが、制作を進めるうちに巨大なサイズになってしまいました。《天女(まごころ)像》は、大きすぎて東京から運搬することはできないので本展では3D映像で見ていただきますが、お手元のチラシのように、3月6日(水)から12日(火)まで日本橋三越本店 本館1階に「佐藤玄々展」が巡回しますので、よろしければ《天女(まごころ)像》の実物と併せてご覧ください。
佐藤玄々は「天才」とよばれた彫刻家です。主要な作品が空襲で焼失したこともあって忘れられた存在でしたが、最近、再び評価されるようになってきました。

◆最後に
ギャラリートークの最後、北川さんに「次の展覧会のテーマは何ですか」と尋ねたところ、「4月27日から6月9日まで北大路魯山人展を開催します。名古屋・八事の八勝館さんのご協力もあります」とのご返事でした。次回の展覧会も楽しみですね。
また、北川さんからいただいた佐藤玄々展のチラシをみて「日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》を見たい」と言った参加者が何人もいました。
北川さんから紹介のあった豊橋市美術博物館「美術のみかた自由自在」のチラシを見たところ、「美術のみかた自由自在」には「平成30年度独立行政法人国立美術館巡回展 国立国際美術館コレクション」という副題がついており、国立国際美術館のコレクションのうち、セザンヌ、ピカソを始めゲルハルト・リヒター、奈良美智など45作家、55点を紹介する展覧会のようです。「みること」をテーマに「イメージと物質」「表層と深層」「可視と不可視」という3つの切り口で構成しています。こちらも「今度、見にいてみようかな」という参加者が何人もいました。
                            Ron.

「特別展 画僧 月僊」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

平成31年最初のミニツアー、目的地は名古屋市博物館(以下「市博」)です。参加者22名で、現在開催中の「特別展 画僧 月僊」(以下「本展」)を鑑賞。学芸員の横尾拓真さん(以下「横尾さん」)のレクチャー「月僊作品の見どころ」を聴講してから自由観覧となりました。

◆「月僊作品の見どころ」(概要)
以下は横尾さんのレクチャーを要約筆記したもので、見出しと(注)は私の補足です。

◎月僊の生涯
本展で紹介する月僊(注:げっせん 1741-1809)は、名古屋城下で生誕した画僧です。7歳で仏門に入り、江戸・増上寺(注:山号は三縁山。徳川幕府の庇護を受け、一時は浄土宗を統括した大本山)で修業しました。江戸では桜井雪館に弟子入りして絵を学び、30歳を過ぎて上洛。京都・知恩院(注:山号は華頂山。法然が入滅した場所に建立された浄土宗の総本山。三門は国宝に指定されている)で修業を続け、絵では円山応挙の影響を強く受けます。ただ、月僊が応挙に弟子入りしたかどうかについては不明です。
月僊は34歳の時に伊勢の寂照寺の住職となり、69歳で他界するまで30年以上にわたり僧侶・画家として活躍しました。なお、「奇想の画家」といわれる伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白は月僊の同時代人です。
寂照寺は、伊勢神宮の下宮と上宮の真ん中あたりにある「間の山」(あいのやま)の上にあり、周りは遊郭街の「古市」(ふるいち)でした。月僊は絵を描いてお金を稼ぎ、そのお金で、寂れていた寂照寺を再興しました。月僊が建てた建物のうち現在まで残っているものは寂照寺の山門と経蔵です。
当時の月僊は、人気があって金を稼いだ画僧でした。彼はまた、「社会福祉事業家」の顔も持っており、貧しい人、恵まれない人を援助したと伝わっています。少なくとも、月僊が貧民救済のためにお金を出したことは事実で、伊勢では今でも敬われています。
◎本展の構成
本展は5章で構成されています。第1章「画業のはじまり」は、月僊と桜井雪館・円山応挙との関係に焦点を当て、第2章から第4章までは「信仰」「神仙」「山水と花鳥」と、ジャンル別に展示、第5章は「寂照寺の月僊」です。
◎雪館風のユーモラスなキャラクターを応挙に学んだ写実的表現が下支え(第1章)
桜井雪館という名前、現在では知らない方も多いと思いますが、当時は人気があり「雪舟の弟子」を標榜していました。中国風の人物をアクの強い画風で描く絵師で、絵にインパクトがあります。対する円山応挙は、雪館とは真逆の画風で、穏やかで写実的な画風です。
月僊の人物画は、漫画のように誇張と歪曲を加えたユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています。つまり、月僊の人物画の基本は円山応挙の写実ですが、それに雪館の画風(気持ち悪さやアクの強さ)が加味され、分かりやすい絵になっています。
私(注:横尾さん)は「円山応挙+オリジナリティー」という点で、月僊と長沢芦雪はよく似ていると思っています。オリジナリティーでは長沢芦雪が応挙の弟子中ナンバーワンですが、月僊は芦雪に次ぐと考えます。
◎仏画について(第2章)
チラシやポスターの図版として使った《朱衣達磨図》も「誇張した姿で分かりやすく表現した絵」です。この絵で「写実的表現が下支え」しているのは、先ず「目」です。瞳と虹彩を描き分け、目尻に赤い絵の具で充血を表現しています。白目の上下に薄く墨をさして、まつ毛の影と目が球体であることをあらわしています。また、月僊は、おでこの盛り上がり具合を、輪郭線は使わずに色彩で表現しています。
市博所蔵の《仏涅槃図》は伝統的な図柄を引き継いでいます。釈迦の上の方に描かれている金色の人物は菩薩さまですが、この絵では、ご覧のとおり、敢えて漫画のように人間臭く描いています。
《釈尊図》の台の下を見ると、邪鬼が釈尊の台を支えていることがわかります。本来、邪鬼は懲らしめられる存在ですが、この絵の邪鬼は愛らしく描かれています。三福図の《布薩本尊》では、上空から諸衆が来襲していますが、誰もが「ゆるキャラ」のような人物に描かれています。
◎神様と仙人(第3章)
月僊はクセのある人物を描くことを得意としており、仙人を多く描きました。《人物図衝立(鍾離権・呂洞賓)》が描くのは道教の仙人。二人は師弟ですが、見つめ合う姿は愛し合っているようにも見えます。このようにスターを面白おかしく、ふざけて描くことや人物のアクの強さは雪館風です。一方、手のひらや足の指先の写実的表現はうまく、破綻のない造形力を見ることができます。《恵比寿図》の顔は目が離れて鼻が大きく、神様というよりは漁師のような生々しさがあります。ご覧のように、ぱっと見は漫画チックな「面白いおじさん」ですが、その一方で、烏帽子を透かして髷が見えたり、活きているような鯛を抱えていたりと、写実的な表現がされているとわかります。
《張公図》は医者の像です。月僊の肖像画は、同時代の曾我蕭白よりも上品です。それは「月僊は蕭白ほどに突き抜けることは無かった」ということでもあります。月僊は、生々しさを残しながらも円山応挙のような上品さを保った画僧でした。そのため、月僊は上流階級の人々にも愛されました。皇族の京都・妙法院門跡もその一人で、月僊は多くの襖絵を妙法院のために描きました。本展では《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》を展示しています。淡白で美しい襖絵ですが、妙な生々しさが感じられます。
◎《百盲図巻》について(第5章)
《百盲図巻》(京都・知恩院所蔵)は、本展の最後に展示している作品です。描かれている人たちはふざけて合っているようにも見えますが、月僊は信仰心が無く六道をさまよう人々に対して「宗教的な戒め(いましめ)」を説くためにこの絵を描いています。ただ、この絵を描いたのは「戒め」のためというだけではありません。この絵の登場人物にはリアリティーがあり、楽しそうにみえます。この図巻の最後には漢文が書かれていますが、その大意は「盲人は目が見えないといっても、琵琶や鍼灸などの技術を持ち、他の人と変わるところはない」というものです。この言葉に、月僊の愛、社会福祉事業家としての姿を見ることができます。

◆自由観覧
横尾さんのレクチャーは10時40分に終了。その後、各自、自由観覧となりました。
◎《仏涅槃図》
今回のミニツアーでは市博所蔵《仏涅槃図》を始め4点の「仏涅槃図」を見ることができました。4点いずれも基本的な構図は同じですが、細かい点は少しずつ違っています。なかでも面白かったのは市博所蔵のもので、獣や鳥だけでなくカエル、セミ、トンボ、カマキリ、ナメクジなども描いており、図鑑を見ているような気がしました。他の3点はいずれもお寺の所蔵品で、全て文化財指定(菰野町、愛知県、伊勢市)を受けています。寺宝だったのですね。
◎ユーモラスなキャラクターとは無縁の肖像画
横尾さんはレクチャーで「ユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています」と解説されましたが、さすがに知恩院御影堂の肖像画を写した《円光大師座像》や岡崎・隨念寺15世倫誉達源の正装と墨染姿を描いた《倫誉上人像》におふざけは無く、写実に徹した上品な絵でした。
◎顔は緻密に、衣は一筆で描く
横尾さんがレクチャーで解説した《朱衣達磨図》と《恵比寿図》ですが、顔や手足は細筆で緻密に描写している一方、衣は襞を一筆でサラリと描いており、描写方法の対比と月僊の筆さばきに舌を巻きました。
◎床の間だけは写真パネルの《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》
横尾さんがレクチャーで解説した襖絵は、満月を鑑賞する仙人と山水を描いたものでした。仙人が見ているのは、床の間の壁を撮った写真パネル。襖は取り外して運ぶことができますが、床の間の壁を取り外して運ぶことは難しいので写真パネルになったのでしょうね。この写真パネル、ぱっと見には「シミのある鼠色の壁」で、絵が描いてあるようには見えません。それでも目を凝らしてみると、「観月」という作品名が示すように、丸い形と樹影がかすかに見えました。
◎《富士の図》三重・寂照寺(伊勢市指定文化財)
第4章には「人気絵師の多様な題材」というサブタイトルが付いており、山水画・花鳥画が出品されています。ミニツアーに参加したメンバーと「いかにも売れそうな絵ですね」とか「収集家は、自分の教養の高さを示すためにこの絵を買ったのでしょうね」とか、勝手な話をしながら鑑賞。《富士の図》では「帆掛け船・三保の松原と富士山・愛鷹山ですね。薄墨でシンプルな構図。控えめな表現で、横山大観の富士とは対極」などと話が弾みました。
◎ネズミ・唐辛子と猫の組み合わせとは?
第5章には《鼠と唐辛子図》《猫図》の2幅が並べてされています。説明には「大津絵に描かれた教訓をもとにしている」と書いてありましたが、唐辛子が鼠の好物とは思われず、モヤモヤが残った作品でした。
家に帰って調べてみると、元になった大津絵の題名は「猫と鼠の酒盛り」。うまそうに酒を飲んでいる猫、その横で鼠は猫に唐辛子を勧めてご機嫌を取っており、画面には「聖人の教えを聞かず 終に身を滅ぼす人のしわざなり」という説明が書いてありました。
解釈としては「猫に食われることも知らずに呑気に酌をしている鼠」というものと「鼠は猫をだまして酒を飲ませ、肴に唐辛子をやろうとしているが、猫のエサは鼠。策に溺れると自滅する意」というものがあります。どちらの解釈が正しいのか良く分かりませんが、わざわざ赤い唐辛子を描いているので、私としては後者の解釈の方が腑に落ちました。
◎まるや八丁味噌の大田家との交流も
第5章には資料として、まるや八丁味噌の大田家当主・弥次右衛門宛書翰巻も出品されており、ショップでは八丁味噌の販売もありました。

◆最後に
年表によれば、月僊の没年には、貧民救済のための基金が1500両まで積み上がったと書いてありました。1月14日に放送されたEテレ「趣味・猫世界」という番組で「天璋院篤姫が飼い猫の世話をするために使った費用は年25両、現在のお金で250万円でした」というエピソードが紹介されていましたが、Eテレが使ったレート・一両=10万円で換算すると1500両は1億5千万円という大金になります。貧民救済のための基金だけでなく寂照寺再建の資金も画業で稼ぎ出したことを考えると、まさに月僊は「売れっ子の画僧」だったのですね。年表には「江戸の絵師・谷文晁が月僊を訪問」という記載もあったので、当時は有名人だったのでしょう。
そのため、ミニツアー参加者からは「いい絵を描いたのに、なんで現在は広く知られていないの?」と、疑問の声が数多く聞かれました。県や市の指定文化財に指定されている作品が多いので、月僊の作品の価値はそれなりに評価されていると思います。寺のお宝で一般の人が目にする機会が少なかったために「現在は広く知られていない」という結果になったのでしょうか。
ミニツアー参加者は帰り際、「楽しかったね」と口々に感想を述べていました。この感想のとおり、今回のミニツアーで月僊の作品に出会えたことは幸運でした。名古屋市博物館の皆さんに感謝します。
Ron.