お知らせ

2018年7月3日

2018年協力会イベント情報

現在、募集中のイベントは下記のとおり。

1.平成30年8月5日(日)17時~
・名古屋市美術館:『至上の印象派 ビュールレ・コレクション』展ギャラリートーク

2.平成30年8月26日(日)14時~
・碧南市藤井達吉現代美術館:『長谷川利行』展ミニツアー
(希望者はお食事会も参加可能)

会員の皆様は、ファックスか、お電話でお申込ください。
なお、ホームページからもお申込可能です。
(右側の”Gトーク”申込ボタンから)

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会員の皆様へ、以下のアンケートにご回答をお願いします。
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ギャラリートークの開催日に関するアンケート
(アンケート募集期間:2018年7月7日から8月31日まで)

印象派が描く女性たち ~ビュールレ・コレクションの傑作から~

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋地方気象台が「東海地方が梅雨明けしたとみられる」と発表した7月9日、名古屋市美術館・深谷副館長(以下「深谷さん」)の講演を聴くため中区大井町のイーブルなごや(e–able–Nagoya:正式名称は、名古屋市男女平等参画推進センター、名古屋市女性会館)まで足を運びました。会場の3階ホールは、ぱっと見満席。ポツリポツリと空席があるので「300人以上の入り」と見ました。入場無料とはいえ平日の午後としては盛況。以下は講演の概要です。

◆講演中の注意事項について
深谷さんが登場すると、開口一番「午後の一番眠い時間帯なので講演中に眠ってもかまいませんが、イビキはご遠慮ください」との注意事項。モネ展の解説会でアンケートを取ったところ「隣の人のイビキがうるさくて講演が理解できなかった」という苦情があったとか。会場全体が「クスッ」としたところで、本題に入りました。

◆「LIFE」誌に掲載されたE.G.ビュールレ氏の写真
講演の主題は7月28日から名古屋市美術館で開催される「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下「本展」)で展示される女性像を中心にした作品の解説です。
スクリーンに映された最初の画像は1954年にアメリカの雑誌「LIFE」が掲載したエミール・ゲオルク・ビュールレ氏の写真。コレクションが公開される前、自宅で5点のコレクションとともに写されたもので、本展では写真の5点全てが展示されるとのことでした。
スクリーンに向かって左下の作品はポール・セザンヌ《赤いチョッキの少年》、右下がアンドレ・ドラン《室内の情景(テーブル)》、右上はパブロ・ピカソ《花とレモンのある静物》、左上がフィンセント・ファン・ゴッホ《花咲くマロニエの枝》、奥の部屋はエドガー・ドガ《ピアノの前のカミュ夫人》で、「自分と一緒の写真を撮らせたのですからお気に入りの作品だったと思われます」との解説がありました。(注:「LIFE」「ビュールレ」等のキーワードを入れたら、Webで写真を見ることができました)

◆E.G.ビュールレ氏と彼のコレクションについて
ビュールレ氏と彼のコレクションについては、次のような解説がありました。
1890年 ドイツ生まれ。1909年 大学で文学、美術史を学ぶ。1924年からスイスの工作機械会社で20ミリ機関砲を製造。1936年 最初の作品4点の素描を購入。1956年 死去。1958年 E.G.ビュールレ財団が設立され、自宅のすぐ横の邸宅に美術館を開館。
ビュールレ氏が生涯で収集したコレクションは600点。バーンズ・コレクション(1994年(平成6年)に国立西洋美術館で開催した「バーンズ・コレクション展」の入場者は100万人を超え、最終日は入場に7~8時間待ち)の3,000点に比べると控えめの数字だが、全て一級品。どれも代表作ばかりで「質で勝負」のコレクション。ビュールレ・コレクションは印象派から始まるが、大学で美術史を学んだことから印象派以前の作品もコレクションに含まれる。
第二次世界大戦後の1948年には戦時中に収集した13点がナチスの略奪品と判明した。うち9点は元の所有者と話をして再度代金を支払い、自分の物にしたが、残り4点は元の持ち主に返却している。
ビュールレ美術館開館後の2008年には銃を持った強盗団に作品4点が盗まれるという事件が発生。盗まれたのは「LIFE」の写真に写っていた《赤いチョッキの少年》と《花咲くマロニエの枝》に加えて、エドガー・ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》とクロード・モネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》。うち、モネとドガはその月のうちに回収されたが、残り2点は4年後の2012年にセルビアで回収された。本展では盗難に遭った4点すべてを展示。
なお、ビュールレ美術館は2015年に閉館。ビュールレ・コレクションは2020年に開館予定のチューリッヒ美術館新館(現在、建設中)の1フロアに展示される予定。

◆ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《アングル夫人の肖像》(1814頃)
これはフランス古典主義を代表する作品。19世紀フランス絵画の二大潮流は古典主義とロマン主義。古典主義のトップはアングルで、ロマン主義のトップがドラクロア。
アングルは画家の登竜門・ローマ賞を受賞しローマに派遣されることとなったが、ナポレオン戦争のためにローマへの派遣は4年延期された。アングルはローマに派遣された後24年間、現地にとどまって制作。この作品はアングル初期のもので、34歳の時にローマで制作している。アングルは1914年に結婚。新婚ほやほやの妻を描いたのがこの作品。
アングルがフランス統治下のイタリアでフランス役人を描いた《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》(1811)(本展で展示)を見ても分かるように、アングルは質感表現がうまく、ウール、シルク、コットンの違いを描き分けている。また、緻密な描写で筆跡を感じさせない滑らかな画面に仕上げている。
《アングル夫人の肖像》は《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》に比べ、顔の描写は精緻だが体の描写は大雑把。発表する気がないプライベートな作品だったのか、それとも未完成の作品だったのか、この作品の描写が大雑把な理由は不明。

◆アングルの作品は「どこか変」
本展の展示作品ではないがアングルの《グランド・オダリスク》は美しく均整の取れた女性のヌードだが、よく見ると胴体が長い。元になった素描では正しく人体デッサンをしているが、油絵では人体の比率を無視している。人体の比率を無視したのは「カーテンと胴体とで形成されたU字形の曲線を描きたかったからではないか」と私は思う。アングルは写実性よりも絵画的な美しさを優先するため、「よく見るとおかしい」作品をいくつも描いている。
これは後世のセザンヌと同じ考え方。《赤いチョッキの少年》も、よく見ると「右腕が長すぎる」と分かる。

◆アングルの肖像画について
アングルにとって肖像画は本意ではなかった。彼にとって大切なものは歴史画。歴史画は大画面に歴史的な場面を描いたものだが、注文が無いと描けないし、巨大すぎて注文は少ない。そのため、アングルは生活のために肖像画を数多く描いた。今になってみると、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の《座るモワテシエ夫人》など肖像画に傑作が多い。ただ、《座るモワテシエ夫人》は胸から下の衣服の描写が平べったくて「よく見るとおかしい」。
アングルが奥さんを描いた肖像画にはデッサン(素描)も残っている。これが素晴らしい。ローマ時代、アングルはフランス人からの肖像画の注文が多かった。油絵は数カ月から数年をかけて制作しているが、素描は一日から半日という短時間で完成。しかし、これがうまい。デッサン力が素晴らしい。描き直しがない。線だけの描写だが作品に存在感がある。

◆エドガー・ドガ《ピアノの前のカミュ夫人》(1869)
ドガは印象派の画家だが精神的には古典派、アングルを神のように崇拝していた。ドガは人生の途中から視力を落としている。この作品に描かれた「カミュ夫人」は、ドガが治療を受けていた眼科医の夫人でピアノの先生。さっきまで演奏していたところに来客が来たため立ち上がったという瞬間を描いた、スナップ・ショット的作品。ドガはこの作品を1896年のサロン展に出品したが落選。落選理由は、右手がちゃんと描かれていないなど「細かい点まできちんと描いていない」ためだったと思われる。ドガは1870年のサロン展に《カミュ夫人》(ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵)を出品して、ようやく入選を果たした。

◆エドガー・ドガ《14歳の小さな踊り子》ブロンズ彫刻
1880-81年 ワックスによる原作、1932-36年 ブロンズによる鋳造
この彫刻、ワックスによるオリジナルはワシントン・ナショナルギャラリー所蔵。ブロンズの鋳造作品は数点制作されている。
ドガは後半生に彫刻を制作しているが、第6回の印象派展に《14歳の小さな踊り子》のオリジナルを一点のみ出品した。彼は絵を描くための材料として彫刻を制作したため、それを作品とは考えていなかった。何枚ものスケッチを元に制作した彫刻は様々な方向から自由に観察することができるので、絵を描くときに役立った。ドガは馬の彫刻も多数制作。彫刻だけでなく、写真も何点か撮影している。
印象派展にオリジナルの彫刻を出品した時、ワックスで制作した本体は本物のモスリンで作ったスカートや金色のベスト、本物のトゥシューズを身に着けていた。この試みに対する当時の評価は「彫刻の基本から外れる」として反対する意見とドガの意図に賛成する意見とに二分された。

◆ピエール=オーギュスト・ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》(1880)
 これは、とても有名な作品で「目にしたことがある」という人が多いと思う。
 イレーヌは、お金持ちの銀行家カーン・ダンヴェール氏の三人姉妹の長女で当時8歳。次女のエリザベスは6歳、三女のアリスは4歳だった。
 1870年に印象派の中心にいたルノワールだったが、この作品を制作した1880年には印象派から方向転換していた。その理由は「印象派の絵を描いても評価されない、売れない」というもので、1878~79年から方向転換を始めた。
 どのように方向転換したかと言えば、古典的なものに方向転換した。今日配ったチラシに「絵画史上、最強の美少女(センター)。」というキャッチ・コピーが書いてあります。このコピーは私が考えたものではありませんが、コピーが示すように「多くの人に受け入れてもらえる」方向に転換したということです。
 この作品のどこが古典的かというと、顔の部分の筆のタッチです。アングルの絵は筆跡を感じさせない描き方をしますが、印象派は筆跡を残します。これは、画家の個性を強く残すということです。イレーヌの顔を見ると滑らかで筆のタッチはありません。また、この絵はダンヴェール家の庭で描いており、バックは深い緑色です。数年前の作品ならば、光源が分かるような描き方をしていますが、この絵では光が良く回り、均一な光が当たっています。
また、顔から胸までは丹念に描かれていますが、手の辺りになると筆のタッチが分かります。伝統的な要素と新しい要素をうまく融合させた作品です。横顔を描いた肖像画は堅苦しくなりがちですが、この作品では柔らかな印象を受けます。かといって自由な感じもしない、うまくバランスが取れています。
 ダンヴェール家の三姉妹の肖像画、最初の予定では一人ずつ描くことになっていました。しかし、長女を1880年に描いただけで、次女・三女の肖像画は1881年になってから描かれました。しかも、一人ずつではなく二人一緒です。スクリーンに映したのは、その《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》(サンパウロ美術館所蔵)で、向かって左が三女のアリス、右が次女のエリザベスです。

◆歴史に翻弄された作品《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
 スクリーンに映しているのは、1963年にイレーヌが91歳で死亡した時フランスの死亡記事に掲載された8歳の時の写真と、三女のアリスが1898年にイギリス貴族と結婚した時写真です。4歳のアリスと大人のアリスを比べることは難しいですが、《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は写真のイレーヌよりぽっちゃりしており可愛く描かれています。
 カーン・ダンヴェール家はユダヤ人の金持ちであったため、イレーヌの両親はナチスによるホロコーストの犠牲になり、次女のエリザベスも収容所で死亡しています。
 イレーヌは19歳の時にユダヤ人の銀行家と結婚し、男・女二人の子どもに恵まれますが6年で別居。その後、離婚しています。離婚後のイレーヌはイタリア人と再婚し、カトリックに改宗。女の子が一人生まれます。カトリックへの改宗はユダヤ人社会から非難を浴びたようです。
 《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》はイレーヌの最初の娘が相続しますがナチスの略奪に遭い、イレーヌの娘は収容所で死亡。第二次世界大戦後、イレーヌが作品の所有権を主張して取り戻しますが、直ぐビュールレに売却しました。
 カーン・ダンヴェールは《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》と《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》の2点とも気に入らなかったらしく、《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》は女中部屋に飾ってあったとのこと。《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》はイレーヌ本人も好きではなかったようで、良い場所には飾ってなかったと思われます。作品を取り戻しても直ぐにビュールレへ売り払ったのは、そのためかもしれません。

◆肖像画の比較・アカデミズムと印象派との違い
 本展の展示作品ではありませんが、パリ社交界の花形を描いたルノワール《シャルパンティエ夫人と子供たち》(1878)を見ると、ルノワールは絵の注文主が望む方向へ少し美人に描くのが得意だったようです。
 ルノアールの画風ですが、1876年制作の《陽光を浴びる裸婦》では「木洩れ日」を表現。一方、古典時代のピーク1887年に制作した《大水浴》では輪郭線をはっきりと描き、人物が背景と分離していて固い表現になっています。
これも本展の展示作品ではありませんが、当時一番人気の画家カロリュス=デュランが描いた《ルイーズ・カーン・ダンヴェールの肖像》(1870)は、すごくうまいがよそよそしい作品で、アカデミズムと印象派の違いが良く分かります。

◆フランス映画「勝手にしやがれ」にも《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》が登場
 ヌーベル・バーグの代表作・ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」にも《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》が登場します。ジーン・セバーグが演じるアメリカ娘・パトリシアがジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルに向かって「どちらがきれい」と聞くシーンに登場。《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は本物ではなく部屋の壁に貼られたポスター。映画では「美の基準」として使われています。

◆ポール・セザンヌ《扇子を持つセザンヌ夫人の肖像》(1878-88)
 制作年が(1878-88)とされているのは1878年に描いて、10年後の1888年にかなりの部分に手を加えて制作したため。この作品は最初、アメリカ人著作家のガートルード・スタインが購入しました。彼女は、アメリカ人が山のようにパリへと渡った1920年代にパリでサロンを主宰した人物です。彼女はピカソとも交流があり、ピカソは1806年に《ガートルード・スタインの肖像》(メトロポリタン美術館所蔵)を描いています。

◆ポール・セザンヌ《赤いチョッキの少年》(1888-90)
 この作品はセザンヌの代表作だが、よく見ると右手と腰が長くておかしい。右手と腰が長いのは「よい構図」を作るための仕掛け。この作品のモデルはイタリア人の少年。この少年をモデルにした作品は外に3点あるが、4点を比べるとビュールレ・コレクションの《赤いチョッキの少年》の出来栄えが一番。
 講演会の終了時刻が迫って来たので、残りは本展の解説会でお話しします。

◆Q&A
Q1 カミーユ・コロー《読書する少女》(1845-50)はスライドが映されただけで解説は聞けなかったので、解説をお願いします。
A1 コローは風景画家だが、60代になってから人物画を描き始めた。コローの風景画には必ず点景として人物が出て来る。人物画は自分の楽しみのために描いたが、風景画の勉強のためでもあった。とはいえ《読書する少女》はいい作品。コローの風景画は手馴れすぎていて新鮮さに欠ける。人物画は手馴れていないので新鮮さがある。
この作品のモデルは風景画の点景を描くために雇った女性。スナップ・ショット的に見えるが、ちゃんとポーズをとらせてアトリエの中で描かれた作品。「面白そうだから、ポーズをとってみて」と声をかけて描いたのではないかと、私は勝手に想像している。

Q2 美術館で開催される展覧会では、作品にどこまで近づいてもいいのですか。
A2 本展では絵の前に柵があります。柵を乗り越えて近づかないでください。上半身を乗り出すことは可能ですが、手を出すと監視の女性から注意されるので気をつけて下さい。

◆最後に
 ビュールレ・コレクションとアングル、《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》の解説に力がこもったため他の作品の解説時間が短くなりましたが、当初危ぶまれた「講演中にイビキをかく人」はおらず、1時間半を楽しく過ごすことができました。7月28日からの「至上の印象派展」が楽しみです。
 深谷さんは8月5日(日)午後5時から開催予定の協力会会員向けの「ギャラリートーク」でも解説して下さいますので、こちらについても期待しています。

◆追伸:「至上の印象派展」関係の主なURL
 Web上で検索できる「至上の印象派展」関係の主なURLは下記のとおりです。
◎名古屋市美術館 ビュールレ展

http://www.art-museum.city.nagoya.jp/buhrle

◎ビュールレ展の公式サイト

http://www.buehrle2018.jp/

◎九州国立博物館 ビュールレ展

https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s51.html

 
上記のうち、九州国立博物館のサイトには「出品目録」に加えて「作家名・生没年一覧」や「エミール・ゲオルク・ビュールレの生涯とビュールレ・コレクション」のpdfファイルも掲載されているので参考になります。
Ron.

豊田市美術館『ブリューゲル』展ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

 7月14日土曜日、前の週から続くうだるような暑さのなか、11名の会員が集まり豊田市美術館『ブリューゲル』展ミニツアーが開催されました。集まった人数は少なかったのですが、ブリューゲル展の担当学芸員の北谷正雄さんの「暑いですね、よくぞたどり着かれました」の一言から解説が始まりました。
 この展覧会は、まずはピーテル・ブリューゲルさんから家系が始まり、その子であるピーテル2世、ヤン1世に引き継がれ、そのまた子たち(ピーテル3世やヤン2世ら)につながっていくという画家一族及びその工房のブリューゲル一族の画業を紹介してくださっています。そしてその多くの作品をテーマごとに分けて展示し、その特色について分りやすく解説してくださっています。
 ブリューゲル一族の風景画は、一見フランドル地方の一風景を写生しているように見えますが、実は身の回りの自然をそのまま描いているだけでなく、現実にはそこにはありえない山や川、崖や森などを併せて描いたりして、世界中の風景をちりばめた、いわば世界風景の絵に仕上げているそうです。それは一種の理想的な風景とも言えるのですが、宗教的な要素から逸脱出来ない、宗教画としての役割もあるとのこと。宗教的に良く耕された心の持ち主(つまり、信仰心のある者)には、絵の表す教えが浸透していくといったような側面もあったようです。
 冬の風景画はフランドルでは人気が高かったようです。凍った川の上でスケートやゲームをして遊ぶ子どもたちや民衆を描いたりしたものなど、楽しげな様子が描かれていますが、じつはそんなポジティブな要素だけでなく、いったん氷が割れてしまえば冷たい川のなかに人々が落ちて沈んでしまうといった不安や暗い影が絵には含まれているということです。つまり幸せな営みのなかにも、いつ不幸な災難が訪れるかは分らず、その不幸の訪れを危惧するような要素が含まれているともとれるそうです。
 旅の風景は、当時世界的にも商業が盛んになり、交易などによって富がもたらされることにより描かれるようになったようです。
 寓意画は、16世紀17世紀に古典を復興させようという動きが強まり、愛とか勇気といった抽象的観念を表すものとして描かれるようになったようです。
 その他静物画や昆虫の絵も人気があったようです。そして、よく知られている農民の風景も多く描かれていて、現代を生きている私たちに当時の民衆の生活の様子を伝えてくれています。
 暑い中、私たちにお話してくださった担当の北谷正雄学芸員に感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。
名古屋市美術館協力会

名古屋市美術館協力会  H30春の美術館見学ツアー 京都

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

泉屋博古館にて

泉屋博古館にて


 平成30年度春の美術館見学ツアー(日帰り)の目的地は京都。見学する展覧会は京都文化博物館「オットー・ネーベル展」、京都国立近代美術館「横山大観展」と泉屋博古館(せんおくはくこかん)「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ」です。
開催日の6月24日(日)、明け方は小雨が残ったものの集合時間の午前7時40分に雨はなし。天気予報は幸先よく「晴」。集合場所の名古屋駅噴水前は、バスツアーの客でごった返していました。ツアー参加者は47名、ほぼ予定通りの時刻に全員集合。バスも予定通り午前8時に京都市を目指して出発しました。
◆往路のバス:交通渋滞もなく、予定の30分前に京都文化博物館へ到着
 大阪府北部地震の影響か車の流れはスムースで休憩の土山SAは予定の10分前、午前9時20分に出発できました。運転手さんには更に「予定時刻の30分前に目的地へ到着せよ」という指令が出て、バスは新名神高速道路から草津JCTを経て名神高速道路を快走。
京都東ICから一般道に入り、京都市山科区御陵(みささぎ)の御廟野古墳(ごびょうのこふん:「山科陵(やましなのみささぎ)」=天智天皇の陵とされている)を右に見た後、東山の山間(やまあい)を抜けて京都市東山区粟田口華頂町の京都市蹴上(けあげ)浄水場(ツツジが有名)を左に見て三条通から御池通に入り、バスは停車。バスガイドさんから「京都文化博物館は平安建都1200年記念事業として京都府が建設、1988年(昭和63年)に開館した博物館」という説明がありました。前方には「京都文化博物館(The Museum of Kyoto)」の案内板。バスは入れないので、ここから先は「歩き」です。高倉通を南に下り京都文化博物館に到着したのは指令通り予定の30分前、午前10時30分でした。
オットーネーベル展(京都文化博物館)

オットーネーベル展(京都文化博物館)


◆京都文化博物館:「色彩の画家 ― オットー・ネーベル展」など
◎展覧会の解説
先ず、日本銀行京都支店だった別館(国の重要文化財)2階に移動。暗い階段を昇り、日本銀行時代に営業部だった1階が窓越しに見える部屋で、うえだ学芸員の解説を聴きました。
 解説によれば、オットー・ネーベルという作家はヨーロッパでも2012年にベルン美術館で回顧展が開かれるまでは知られておらず、地元スイス・ベルンでも俳優として知られていたとのことです。オットー・ネーベルは1892年生まれの1973年死去で、ピカソ(1881-1973)より10歳ほど年下。ドイツ・ベルリン生まれですが、抽象画家に対するナチス・ドイツの弾圧を逃れるため1933年に家族でスイスへ亡命し、スイス・ベルンで死去。
 ドイツ・ワイマールのバウ・ハウスでパウル・クレー、ワシリー・カンディンスキーと知り合い親しく交わったほか、直接的な交流はないが「シュトゥルム」という雑誌を経営するヘルヴェルト・ヴァルデンを通じてマルク・シャガールの影響を受けたとのことです。
 また、展覧会のメイン・ビジュアル《ナポリ》と《ポンペイ》(いずれも「イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)1931」を題材に「どちらの作品も、スケッチ・ブックのサイズで、風景から受けたイメージを再構成したもの。《ポンペイ》の下の部分は火山灰を表現。その上の赤と黒は壁画。印刷物では分かりにくいが、実物を見ると絵の具を細かく塗り重ねているのが分かる。」という作品解説がありました。
◎京都文化博物館開館30周年記念 オットー・ネーベル展
 オットー・ネーベル展は、本館の3階と4階。4階が入口で、3階に下りるという順路。英語のタイトル“OTTO NEBEL AND HIS CONTEMPORARIES – CHAGALL, KANDINSKY, KLEE” が示すように、シャガール、カンディンスキー、クレーの作品も展示されているほか、バウ・ハウスや雑誌「シュトルム」に関連する作品、資料、工業製品の展示もありました。
 「シャガールの影響を受けた」という解説のとおり、オットー・ネーベルの初期の作品は「シャガール風」の絵でした。また、「クレーは線描の人、ネーベルは絵の具を塗り重ねる人」という解説もあり、二人の作品を比べると「そうかな」と、納得しました。ネーベルは奥さんが音楽家だったためか、カンディンスキーの抽象画との相性がいいように思いました。リノカット(リノリウム版画)による作品も面白いと思いました。
◎桂離宮のモダニズム ― 高知県立美術館所蔵石元泰博写真作品から
 協力会員の松本さんからの情報で、2階総合展示室で開催中の写真展も急ぎ足で見てきました。作品リストの解説によると石元泰博は「シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニューバウハウス)で写真を学ぶ。桂離宮のモダニズムを写真により見出した作品で高い評価を受け」とあります。三脚とカメラ(リンホフ テヒニカ 4×5)とシャッター付きレンズ(字が小さく、レンズ名・焦点距離・F値は不明)の展示もありました。三脚付き蛇腹カメラで水平垂直を出し、絞り込んで細部までピントの合ったモンドリアンの作品のような桂離宮の姿を切り取った写真が鑑賞できたので、2階まで足を伸ばした甲斐があったというものです。
昼食は賑やかに、六盛にて

昼食は賑やかに、六盛にて


◆昼食:岡崎 六盛(ろくせい) 手をけ弁当
 昼食は、琵琶湖疏水(びわこそすい)に面した料亭「六盛」。六盛のHPには「六盛の名は学区制が敷かれた明治25年以後、錦林(きんりん)学区の六地域(岡崎・吉田・聖護院・東山・浄土寺・川東)の繁栄を願って、学校運営の審議を担当する学区議員の組織「六盛會」に由来します。六盛の先代はこの頃から事務所に出入りし、明治32年に創業」とあり、錦林小学校のHPには「明治2年8月21日 上京第32番組小学校として校舎新築開校。明治5年5月上京第32区小学校と改称。明治8年1月 上京第32区錦織小学校と改称。明治20年7月錦織尋常小学校と改称。明治26年3月 錦林尋常高等小学校と改称(錦織校、吉田校、浄土寺校、鹿ケ谷校の4校が合併)」とありました。なお、「番組」は住民自治組織で、明治時代初期の京都の小学校は「番組」が設立・運営していたのです。
 無駄話はさておき、行きのバスがあまりにも順調に運行したことから「横山大観展」の事前解説がほんの僅かになってしまったので、昼食時にも保崎係長から解説がありました。保崎係長は「鑑賞のポイントとなる年」として、①1898年(明治31年)=岡倉天心が東京美術学校を追放され、日本美術院を設立して絵画の革新を始めた年、②1907年(明治40年)=第一回文展が開催された年。茨城県・五浦海岸(いづらかいがん)に移転した日本美術院で研鑽を積んでいた横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山の4人が、再び表舞台で脚光を浴びるきっかけになった。③1914年((大正3年)=前年9月に岡倉天心が没したため、その遺志を引き継ぐため日本美術院を再興した年を挙げ「見たい作品」として《夜桜》《紅葉(もみじ)》《南溟(なんめい)の夜》などを挙げていました。
(その2へつづく)

名古屋市美術館協力会  H30春の美術館見学ツアー京都 その2

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

◆京都国立近代美術館:「横山大観展」など

ただいま工事中!京都市美術館

ただいま工事中!京都市美術館


◎京都国立近代美術館までの道中
 六盛を出て、岡崎公園をぶらぶら歩いていると大勢の観光客がいます。大阪府北部地震の影響は大分薄れたような感じですね。梅雨の合間の晴で強い光線が降り注ぐため、日傘や帽子が無いと頭や腕がヒリヒリします。建物の中のカフェやレストランは休憩する人で一杯。大鳥居が見えるところまで来ると、リニューアル工事中の京都市美術館が姿を現しました。2020年3月末竣工予定。あと一年半ほど休館が続きます。
生誕150年横山大観展(京都国立近代美術館)

生誕150年横山大観展(京都国立近代美術館)


◎生誕150年 横山大観展
横山大観展の会場は4階。展示室内は混んでいましたが、日曜日なので想定内。鑑賞には支障がない程度の込み具合なので安心しました。展示は「明治」「大正」「昭和」の3章で構成。「明治」の解説には「朦朧体の理論付けや改良はもっぱら春草。大観はあふれる好奇心と人の成果を自分流にアレンジしてしまう才能」と書いてあり、ほめているのかどうか良く分かりませんが、大観はアイデアとパフォーマンスの人だと理解しました。また、《白衣観音》の解説も「足を組んですわる姿勢にデッサン不得手を示す。皺法も岩場の立体感につながっていない。」とけなしています。確かに、左足を上げていれば太極拳の「独立歩(ドウリーブー)」=片足立ちの姿勢です。「へた」かもしれませんが不思議な魅力のある作品です。《朝顔日記》などの「美人画」も美人に見えないので思わず笑ってしまいました。《カンヂスの水》のピンク色の空、ハレー彗星を描いた《彗星》など、好奇心旺盛・アイデアの人だと思いました。
「大正」では何といっても《生々流転》。絵巻を見るために25人ほどの行列が出来ていました。「昭和」は戦前・戦中・戦後の作品。戦前の《夜桜》《紅葉》は絢爛豪華。戦中の「海に因む十題」・「山に因む十題」には「売り上げ50万円が陸海軍に献納。軍用機「大観号」4機になった」という解説。《南溟の海》には「南陽は前線をしのぶ主題に読み替えられた」との解説がありました。《南溟の海》はヤシ・森・星・波を描いているだけですが、南方で散った将兵に思いを馳せた「戦争画」だったのですね。不思議なのは藤田嗣治と違って横山大観の戦争責任が問われなかったことです。富士山や日輪、海ばかりを描いていたためなのか、大観の戦争責任を問い質したら他の画家全ての責任も問われるからなのか、藤田嗣治はスケープゴートだったのか等、様々な思いが湧いてきました。戦後の《霊峰富士》は「いかにも年賀状」という作品。「平和な日本」が感じられます。
◎コレクション・ギャラリー(常設展)
3階の常設展示室には、「A 横山大観と日本美術院の画家達」「B ふたりの巨匠、ピカソとマティスを中心に」「C 近代日本の工業」「D 河井寛次郎作品選」「E 近代洋画に見る動物たち」「F 特集展示:W.ユージン・スミスの写真」が開催されていました。
午前中にオットー・ネーベル展を見た後だったため、「B」のマティス《ジャズ》シリーズ(1947)が目を惹きました。ピカソでは《花飾りをつけた裸婦》(1930)。輪郭を描いただけなのに立体感があり「さすがに、うまいな」と思いました。「F」には水俣シリーズだけでなく、第二次大戦の写真やカントリー・ドクターも展示され、見ごたえがありました。
◎周辺の散策など
集合時間の午後3時40分までは余裕があったのですが、京都国立近代美術館の中はどこも人、人、人。トイレも満員なので、隣の京都府立図書館で用を済ませ、ぶらり散歩。
大鳥居をくぐり、疏水を渡って北に歩くと左手に工事中の京都市美術館、しばらく行くと京都市動物園が見えてきます。疏水の突き当りには琵琶湖疏水記念館。入館したら集合時刻に間に合わないので、あきらめて道路を渡り引き返すと「無鄰菴」の看板。路地を入ると左手に小さな門。どうやら、ここが入口のようですがパス。右を見ると「瓢亭」とあります。谷崎潤一郎「細雪」に「土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭(ひょうてい)で早めに夜食をしたため……」と書かれた、あの料亭ですね。瓢亭の周りをぐるっと回って大鳥居まで引き返すと、集合時刻間際でした。
大鳥居のあたりでバスを待っていると、道路の向こうに停車。急いで乗り込みました。
絵描きの筆ぐせ、腕くらべ(泉屋博古館)

絵描きの筆ぐせ、腕くらべ(泉屋博古館)


◆泉屋博古館(せんおくはくこかん):企画展「絵描きの筆ぐせ、腕くらべ」
 バスは泉屋博古館付近の天王町交差点に差し掛かりましたが、泉屋博古館には向かわず左折して白川通を北上し、銀閣寺道を右折。銀閣寺に向かうと思いきや、その手前で右折して鹿ケ谷通を南下。住友友芳園の門を通り過ぎて、泉屋博古館の駐車場で停車。
 玄関ロビーに集まってから渡り廊下を歩いて講堂に入り、午後4時10分から、かねかた学芸課長のレクチャーを受講しました。
 レクチャーによれば「泉屋博古館は住友家のコレクションを収蔵した美術館。場所は住友家の京都別邸の一角。住友家の古代青銅器のコレクションは中国国外では世界随一のもの。博古館という名は、宋代の徽宗皇帝が編纂した図録「博古図録」に因む。泉屋は、住友家の屋号「泉屋(いずみや)」に因むが、中国風に「せんおく」と読んだもの。企画展のテーマは近代日本画で、住居のある大阪、分店のある京都、東京の画家の作品を展示している。展示は4章で構成。第1章は幕末・明治の絵画。菊池容斎《桜図》は幕臣の子どもで、狩野派や沈南蘋(しん・なんぴん)の写実画を融合した作風。第2章は大阪画壇。村田香谷(むらた こうこく)は文人画の大家。第3章は京都画壇。富岡鉄斎は南画の大家。第4章は東京画壇。東山魁夷は筆ぐせを見せないのが癖」とのことでした。
 企画展示室は講堂の隣。大阪画壇の上島鳳山《六月 青簾(十二ケ月美人)より》は「如何にも美人画」で横山大観の美人画とは別物でした。京都画壇の富岡鉄斎には、うまい・へたを超越した迫力を感じ、ターナー風の竹内栖鳳《禁城松翠》は「うまい絵」でした。東京画壇の小林古径《人形》は、フランス人形を描いたものでチラシには「法隆寺壁画の線描と琳派を再生!」という説明があり、尾竹国観《黄石公張良之図》もレベルの高い絵でした。
 帰りのバスで保崎係長が「泉屋博古館を横山大観展のあとにして正解だった」と、ツアーの感想を語っていましたが、「正に、そのとおり」と参加者一同納得。
 企画展の後、青銅器も見たのですが、時間がなく駆け足になったのは残念でしたね。
◆復路:交通渋滞に遭遇するも、30分の遅れで到着
 帰り道は天王町交差点を左折して南下、左に真々庵(パナソニック所有・非公開)右に京都市動物園の裏門、琵琶湖疏水記念館の裏門を見ながら走り、東山の山間を抜けて京都東ICから阪神高速道路に入りました。帰りの渋滞を心配していたところ「阪神高速道で通行止」という表示。新名神高速道路に経路変更する車が増えることが予想されましたが「成り行きに任せる」覚悟で前進。土山SAまでは予定通りの走行でしたが、SAを出てしばらくすると渋滞に遭遇。30分ほどノロノロ運転が続きましたが、軽めの夕食として「いなり寿司」が配られ、誰のお腹も空いていないので焦る人はいません。名古屋駅(太閤通口)に到着し、参加者が解散した時は午後8時前。予定から30分足らずの遅れで済みました。
運転手さん、ガイドさん、旅行担当の松本さん、ありがとうございました。最後に、参加された皆さま、お疲れさまでした。
◆蛇足
 名古屋駅に到着した時、ガイドさんが「まだ、西郷(せご)どんに間に合います。」と言っていましたが、家に帰って調べたら西郷隆盛と愛加那の間に生まれた長男・西郷菊次郎は第2代目京都市長として、疏水による発電・上下水道・市電の3大事業を推進した人物だったとか。ツアーの最後でも京都との縁があったようです。             Ron.

「モネ それからの100年」第2回ギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor
まずは講堂でレクチャを聴く会員たち

まずは講堂でレクチャを聴く会員たち


名古屋市美術館協力会総会後に開催された「モネ それからの100年」(以下、「本展」)の第2回ギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)、参加者は50人。展示室に多数の来館者が残っていたので、最初は講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。その後、ギャラリートークとなりました。
以下は、展覧会の概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものですが、5月13日に開催された第1回ギャラリートークと重複する内容は省いていますので、ご了承ください。なお、表題と(注)は私が補記したものです。

◆本展の概要
◎オランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」について
モネは1897~1898年頃から睡蓮を描くというアイデアを持っていたが、本格的に縦2メートルの壁画を描きはじめたのは1914年から。直前に妻アリス(注:1911年5月死去)、長男ジャン(注:1914年2月死去)の死去という不幸に見舞われたのが、壁画を作る契機になった。(注:1914年に大画面の絵画を描くためのアトリエを建て、壁画の制作を開始)
本展展示の睡蓮では1906年の《睡蓮》と1907年の《睡蓮の池》が、モネが睡蓮を描いたピークの頃の作品。1914-17年の《睡蓮の池》は、壁画を意識した下絵。(注:この2行は、概要説明の最後で深谷さんが話された内容です。)
オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は1927年5月に開館したが、お客は少なかった。今の人気から考えると不思議だが、それは時代背景が理由。
モネは40歳(1880年)までは人気が無く、40歳を過ぎてから人気が出た。60歳(1900年)には国民的画家になったものの、70歳(1910年)になると人気は下降線をたどった。
パリでフォーヴィスム、キュビスムなどの前衛的美術が主流になると、モネは「過去の人」となった。そして、1926年頃には評価が下がっていた。

◎第1次世界大戦と第2次世界大戦が美術に与えた影響について
1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦が終わると、それまで主流だった前衛芸術運動が止まり、1920年からは復古調の古典主義が主流となる。エコール・ド・パリは1920年代にパリで活躍した画家たちの総称だが、どの画家の作品も写実的・復古的なものだった。一方、1920年代のモネは大胆な表現に突き進んでおり、フランス全体の機運とは逆の方向だった。
モネのリバイバルは第2次世界大戦後、1940年代後半に始まる。ジャクソン・ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコなどの抽象表現主義の画家たちがモネの作品に注目し、ポロック達を支援していた評論家、学芸員、美術館館長もモネを見直すようになった。
第1次世界大戦後の1920年代に復古的なものが主流となったのは、戦争に対する反動。つまり、直前の時代の前衛運動がいけなかったのではないかという発想。前衛運動の前の古典的時代に戻るということで、復古的になった。
第2次大戦後は「復古的運動にもかかわらず戦争が起きた」ということで、復古調には戻らず抽象芸術に進み、モネが見直された。
マーク・ロスコ、デ・クーニングの作品は一見すると何を描いているのかわからない抽象的な絵画だが、全て精神的なものを描いている。到達点は抽象だが、出発点は自然であり、人間である。それで、彼らはモネを手掛かりにした。モネの《睡蓮》に「肉親に対する鎮魂の気持ち」を読み取ったのではないかと、私(深谷さん)は思っている。
デ・クーニング、マーク・ロスコのいずれも出発点は人間や自然であり、作家の祈りが作品に込められている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術
1960年代にアンディ・ウォーホルが制作した《マリリン・モンロー》や《花》の連作は、当時、批評家から「現代風のモネ」と呼ばれた。
1942年にアンリ・マチスの次男=ピエール・マチスが経営していた画廊で開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品した14人のヨーロッパの芸術家たち、イヴ・タンギー、フェルナルド・レジェ、マルク・シャガール、アンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、オシップ・ザッキン、ピエト・モンドリアン、アンドレ・マッソンらは、アメリカの若手、中堅作家と交流して彼らに影響を与え、戦後アメリカ美術の発展を促した。
第2次世界大戦前、世界の美術の中心は言うまでもなくパリだったが、戦後の中心はニューヨークに移った。
本展2点の作品を展示しているモーリス・ルイスはニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York) の館長に「モダン・アートという名称の美術館ならば、印象派の作品コレクションを持つべきだ」という手紙を送っている。

◎戦後アメリカ美術応援のテクニック
戦後アメリカ美術を応援していた評論家、学芸員、美術館館長は「応援のテクニック」として、「モネがルーツだ」という言い方をすることにより、「戦後アメリカ美術はヨーロッパの正統性を受け継ぐものだ」と強調した。
モネの《積みわら》について、有名な逸話がある。カンディンスキーはモスクワの美術館でモネの《積みわら》を見てびっくりした。何が描いてあるかわからなかったのだ。題名を見てようやく「積みわら」を描いた絵だと分かった。「積みわら」だと分かってみると、「何が描いてあるか分からないときのほうが美しかった」と感じた。これが、カンディンスキーが「何が描いてあるか分からない」抽象絵画を描くようになったきっかけだという逸話である。
私(深谷さん)は、この逸話はマユツバものだと思う。この逸話は、1913年にカンディンスキーが《小さな喜び》という作品を発表した時に書いた話。カンディンスキーがモネの《積みわら》を見てから十数年も経ったあとで書いた話なので、「自分のやっていることに対して正統性を持たせるために文章化した」のではないかと思う。
ニューヨーク近代美術館の館長だったアルフレッド・バーは、抽象表現の芸術家たちを持ち上げるときには、モネを持ち出し、カンディンスキーの話をする。歴史的な文脈の中でモネに言及する。モネは踏み台(注:抽象表現の芸術家たちを持ち上げるための踏み台)になっている。

◆1階展示作品のギャラリートーク
 30分ほどで展覧会の概要説明は終わり、1階展示室に移動後、17:40からギャラリートークが始まりました。
◎つまり、モネは印象派ではなく、あらゆる現代美術の生みの親ではないのか
展覧会入口にあるパネルの前で、深谷さんは「このようにインタビューで答えたアンドレ・マッソンはフランスのシュールレアリストで、1942年の『亡命の芸術家たち』という展覧会に出品した14人のヨーロッパの芸術家たちの一人。本展はモネの展覧会だが『モネを通して現代美術を見る。現代美術の再発見』をねらった展覧会でもある」と解説。
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》と丸山直文《puddle in the wood2 5》について
《ヴィレの風景》はポプラ、セーヌ川、土手などを描いているが未完成の作品。隣の丸山直文の作品と共通点があるというと「こじつけではないか」という声もある。確かに、恣意的なところはある。
・モネ《サン=タドレスの断崖》について
《サン=タドレスの断崖》は、名古屋市美術館で今回も入れて4回開催したモネ展のうち3回に展示している作品。今朝放送されたNHKEテレ日曜美術館「もうひとつのモネ ~現代アーティストが語るモネの革新~」(以下、「Eテレ」)では、版画家の湯浅克俊さんが「モネはパレットで色を混ぜない、画面上で色が混ざって見える」と話していたが、実際には原色のままの絵の具を置いている例は少ない。この作品は「風景について、自分の感じた感覚を画面に残した」もの。
・ルイ・カーヌについて
ルイ・カーヌはモネに心酔し、敬愛した作家。
◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
この章の作品について深谷さんは「揺れ動くものを表現しようとした作品」と解説。
・マーク・ロスコについて
マーク・ロスコの作品は閉じられた静かな空間で心を落ち着けて鑑賞するのが望ましいので、他の作家の作品と混ぜたのでは「損をしている」のではないかと思う。
・ゲルハルト・リヒターについて
ゲルハルト・リヒターの作品は強くて引き立つ。平面なのに奥行がある。
・松本陽子《振動する風景的画面Ⅲ》について
松本さんはこの作品を「キャンバスを床に置き、絵の具で描いては拭いて消すという作業を繰り返しながら、1日で完成させた」と、話していた。
・「額縁あり」と「額縁なし」
Eテレでは、画家の児玉靖枝さんが「モネの作品はフレームに区切られた向こうの世界。ここと場つづきでありながら別の世界を描いているのが現代の絵画」と話したのを受けて、湯浅克俊さんが「額縁を外して、ホワイトキューブ(注:「白い立方体」。1929年に開館したニューヨーク近代美術館が導入。展示空間の代名詞)に置くと、違って見えるかも」と返していた。モネの絵は額縁に入っているが、この展示室でも現代美術は額縁が無いか、細いフレームが付いているだけの作品。確かに「額縁なし」だと、絵と世界の境が無い。
・ぼんやり感・空気感
第2章では、ぼんやり感・空気感がテーマ。
◎自由観覧(18:05~18:20)
Eテレ効果により、1階の展示では湯浅克俊《Quadrichromie》(2018:水性木版(4版4色)/和紙)に見入ってしまいました。

◆Eテレの放送内容から
 Eテレでは湯浅克俊さんの版画制作について、以下の通り手順を紹介していました。
①デジタルカメラで身近な素材を撮影、②写真のプリントを版木に転写、③伝統的な技法で版木を彫る、④使う色は、黄・赤・青・黒の4色、⑤色ごとに彫った版木に色をのせて印刷、⑥最初は黄色、黄色が乾く前に赤を重ね、赤が乾く前に青を重ね、青が乾く前に黒を重ねて完成。「完成するまで、どうなるか分からない」とのことでした。
 手順が紹介されると、美術家の小野耕石さんが「細かい線を彫るの、飽きないですか」と質問。湯浅さんは「飽きてますね。飽きない工夫をしながら制作してます。」と回答。
 湯浅さんは、続いて「モネは時間を描きたかったんじゃないかな。睡蓮は、実際にはゆらゆら動いている。しかし、絵画は描き終わった途端に止まる。モネの睡蓮は描き終わったあともゆらゆら揺れるように見える」と、話すと児玉さんが受けて「はっきりと図を結ぶ、その手前のゆらぎの状態で止まっている」と話し、小野さんは「児玉さんの作品、死ぬ瞬間に見える映像のような感じがする」と返しました。児玉さんは「『白(びゃく)』という副題。雪によって視界が閉ざされるように、絵の具で塞いで物理的に見えないようにして、逆に見たくなるようにした。霧でぼやけさせる。必要以上に描かない」と回答。
「深韻(しんいん)」制作のためにデジタルカメラで取材する児玉さんの姿が紹介され「光の当たり具合で見えていたものが変わる。狙わずして出会ったものに美しいと感じる。作品はこの世界を自分自身がどう捉えているか、鑑賞者と自分自身を繋ぐもの」など、児玉さんの言葉が紹介されました。

◆2階展示作品のギャラリートーク
◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
・ルイ・カーヌ《睡蓮》について
ルイ・カーヌは《睡蓮》も描いている。展示しているのは紫色と緑色の2色で描いた9枚の連作。作家が指示したように並べて展示した。
・平松礼二《夏の気流(モネの池)》について
平松礼二はオランジュリー美術館の《睡蓮の壁画》に衝撃を受け、日本画の様式で睡蓮を描いている。今年の11月4日までジヴェルニー美術館で展覧会を開催しているので、フランスに行く予定があれば、展覧会もご覧ください。
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネの《睡蓮》について
モネは睡蓮を描き始めたころ、水面に映った木や雲の影は描くものではないと考えていたが、やがて水面に映った影と睡蓮の実像を同等に描くようになり、画面に奥行きが出た。
◎自由観覧(18:37~19:00)
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。Eテレ効果により、児玉靖枝さんの真っ白な作品と小野耕石さんのスクリーン・プリントの技法で制作した作品に見入る人が多数いました。参加者は少しずつ帰り始め、午後7時には全員が帰路に着きました。

◆NHKEテレ「もうひとつのモネ ~現代アーティストが語るモネの革新~」の再放送
 再放送は2018年6月17日(日)午後8時~8時45分
【ゲスト】画家…児玉靖枝(1961年生まれ)、版画家…湯浅克俊(1978年生まれ)、
美術家…小野耕石(1979年生まれ)
【司会】 小野正嗣 (今回、高橋美鈴アナウンサーは出演せず)
URL=http://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2018-06-10/31/29456/1902764/
Ron.

モネが現代アートに与えた影響について、語ってくれた深谷副館長

モネが現代アートに与えた影響について、語ってくれた深谷副館長

平成30年度 名古屋市美術館協力会 総会

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor


 6月10日日曜日、午後4時から名古屋市美術館の講堂にて会員30名あまりが集まり、平成30年度の協力会総会が開催されました。今年は参加者は例年より多く、役員らを含めた28名が参加して、活発な議論が展開されました。

発言する事務局長深谷さん

発言する事務局長深谷さん


当日参加してくださった会員のみなさん

当日参加してくださった会員のみなさん


 事務局からは平成29年度の活動内容報告や決算報告がなされ、また参加くださった会員のみなさまからは、協力会の活動についての率直なご意見を賜りました。ギャラリートークの開催日時や時間についてのご要望、イベントでの協力会の役割など、今後の協力会の活動に参考になるご意見をいただきましたので、これから反映していきたいと思います。貴重なご意見、ありがとうございました!
 事務局

泉屋博古館にて まずは講堂でレクチャを聴く会員たち 会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます! 「回生の苗床」 光内惟奈 燃やせないもの 夢見たものは 展示室で解説を受ける会員たち プティパレ まずはエントランスホールでの解説 2017_ジャコメッティ_1 富山県立美術館にて