展覧会見てある記 「ストラスブール美術館展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

今回の展覧会の名前は「豊橋市美術博物館開館40周年記念 ストラスブール美術館展 印象派からモダンアートへの眺望」(以下「本展」)という長いものです。フランス語表記 の展覧会名 “De I’impressionnisme à l’art moderne dans les collections des musées de Strasbourg” のとおり、本展には印象派からモダンアートまで、ストラスブール美術館の収蔵品から92点が出品されています。

◆第1室(第一企画展示室)

本展は四つの展示室に分かれており、観覧券売り場に一番近いのが第1室(第一企画展示室)で「1章 印象派とポスト印象派」のうち「印象派以前の風景画」「印象派の風景画」の作品を展示しています。なかでも重要な作品は台座付きで展示。この部屋ではカミーユ・ピサロ《小さな工場》、アルフレッド・シスレー《家のある風景》、クロード・モネ《ひなげしの咲く麦畑》の3点が「台座付き」でした。ただ、中日新聞・地方版の「ミュージアムだより」で学芸員が紹介していたのはカミーユ・コロー《オルレアン、窓から眺めたサント=パテルヌの鐘楼》です。レンガの茶色を基調にした風景画で、右下に猫がいました。この外、シャルル=フランソワ・ドービニー《風景》も良いと思いましたが、「ストラスブール美術館展」ですからストラスブールの画家を外してはいけませんね。馴染みのない画家でしたが、ロタール・フォン・ゼーバッハ《ラ・ドゥアンヌからストラスブールへの道、雨の効果》には、題名の通り雨の感じがよく出ていました。同じ画家の《冬の森》は枯葉の赤と白い空の対比が美しく、垂直の木々がアクセントになっています。説明板には「アルザスの印象派」と書いてありました。また、浮世絵を思わせる作品もあります。アンリ・リヴィエールのリトグラフで、《夜の海(「自然の諸相」連作より》、《オーステルリッツ河岸「パリ風景」連作より》の2点です。説明板には「浮世絵のコレクターでもあり『エッフェル塔三十六景』の連作を制作」と書いてありました。

◆第2室(第二企画展示室)

第2室(第二企画展示室)には「1章」のうち「筆触(タッチ)」の作品と「2章 近代絵画におけるモデルのかかわり」の一部を展示しています。台座付きの作品は、ポール・ゴーギャン《ドラクロワのエスキースのある静物》、ポール・シニャック《アンティーヴ、夕暮れ》、ピエール・ボナール《テーブルの上の果物》、ラウル・デュフィ《3つの積み藁のある風景》の4点でした。ウジェーヌ・カリエールの作品が4点も展示されているほか、モーリス・ドニ《内なる光》とシャルル・カモワン《タピスリー刺繍を制作するマティス夫人》にも目が止まりました。カリエールについては説明板に「幼少期をストラスブールで過ごした」と書いてあります。

◆第3室(特別展示室)

第3室(特別展示室)は第2室の、通路を挟んだ反対側にあります。入口でロートレック《ディヴァン・ジャポネのポスター》がお出迎え。マリー・ローランサン《マリー・ドルモアの肖像》も入口近くに展示されていました。この部屋では「2章」の続きと「3章 アヴァン=ギャルド」のうち「キュビスム」の3点を展示しています。台座付きの作品ありません。その理由は「ガラスケース内に展示されている作品が多い」ためでしょうか。ストラスブールの画家を探したところ、リュック・ヒューベリック《後ろを向いてたたずむ女性、開いた窓の前》、ポール・ウェルシュ《赤いベストの女性》、ロベール・エイツ《自画像》がありました。

◆第4室(第三企画展示室)

最後の第4室(第三企画展示室)には「3章 アヴァン=ギャルド」のうち「キュビスム」の残りと「抽象絵画」「シュルレアリスム」の作品を展示しています。台座付きの作品は、モーリス・ド・ヴラマンク《都市の風景》、ヴァシリー・カンディンスキー《冷たい隔たり》、ヴィクトール・ブラウナー《求婚者》の3点です。ヴィクトール・ブラウナーの作品は、他にも6点出品されています。説明板には「ストラスブール美術館では35点以上の作品を所蔵している」と書いてありました。ストラスブールの画家といえばジャン・アルプ。本展の出品は《オーベットのフレスコ画に基づくシルクスクリーン》の1点のみですが説明板には「ドイツ人の父とアルザス人の母(略)ストラスブール美術館には約60点の作品が所蔵されている」と書いてありました。

◆最後に

調べてみると、ストラスブールはフランス北東部アルザス地方の中心都市で、欧州議会の本部が置かれています。アルザス地方は昔からドイツとフランスが争奪戦を繰り広げた地域であり、17世紀にフランス王国の支配下になったものの1871年の普仏戦争後にプロイセンの一部となり第一次大戦後の1919年にフランスが奪還しています。公用語はフランス語ですがアルザス語(ドイツ語の方言)も使われるバイリンガルの地域です。

本展の会期は3月29日(日)まで。開館時間は午前9時~午後5時(入場は午後4時30分まで)です。

Ron.

豊田市美術館「岡崎乾二郎 視覚のカイソウ」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

今回のミニツアーのお目当ては、豊田市美術館で開催中の「岡崎乾二郎 視覚のカイソウ」(以下「本展」)でした。参加者は9名。いつものミニツアーとは違い、豊田市美術館が企画した千葉学芸員(以下「千葉さん」)のギャラリートーク(以下「トーク」)に参加させてもらいました。トークが始まる時刻になると集合場所の1階ロビーは人で溢れんばかりの状態。参加者は我々も入れて約60名もいました。トークは約1時間続き、終了後は自由観覧・自由解散でした。以下はトークの概要。(注)は私の補足です。

◎1階ロビーと展示室8

◆「視覚のカイソウ」とは?

 展示室に移動する前の短い時間、1階のロビーで千葉さんがトーク。その概要は、「視覚のカイソウ」というサブタイトルの「カイソウ」には「回想」「階層」といった意味があり、「回想」は過去を想起しながら作品を制作するという思考をあらわす。また、「階層」は1階から3階まで各階層を使って展示するという豊田市美術館の展示の方法をあらわす。本展に《論理のカイソウ》というタイトルの作品が出品されていることもタイトルのヒントになった。本展は回顧展(注: 1979年から2019年まで、40年間の活動を回顧)なので「新作から過去の作品までを行き来しながら見る」ということにも関連する、というものでした。

◆レリーフ=《あかさかみつけ》の連作について

 1階・展示室8に入って最初に見たのは《あかさかみつけ》というタイトルのついたレリーフの連作(注:素材はプラスチック製の段ボール。カッターで簡単に切れるので工作しやすい)でした。千葉さんのトークは、《あかさかみつけ》は1981年制作。1987~1989年にもシリーズを制作している。《あかさかみつけ》のシリーズは全て同じ型を使用しているが、絵具の色彩・質感は少しずつ違う。前の作品を想起しながら次の作品を見る。また、一見しただけでは、レリーフの形状はつかめない。そして、見る方向によって少しずつ形が違って見える。「記憶とは何か」を考えることができる作品。色彩は軽やかで、きれい。マンションや団地の部屋はどれも同じ形だが、少しずつ違う。それぞれに固有の空間・場所がある。いくつも並べることで、それが際立つ、というものでした。

◆ドローイングについて

 レリーフと向かい合う壁面には《T.A.O.I.N.S.H.R.D.L. / COME HERE AT ONCE》とタイトルが付いた、20枚組のドローイングが展示されています。千葉さんのトークは、このドローイングは「描画ロボット=Drawing Machine」を使って描いている。タブレットに原画を描くと、支持体(注:筆などを取り付けて絵を描く部分?)が動いて原画を再現するが、描くたびに微妙にずれる。再現した絵は自分が描いている訳ではないため変な感覚に捕らわれる。つまり、原画を描いたのは自分なのに支持体に絵を描かされているような気になる。自分と描画ロボットの間で、主体が交錯する、というものでした。

 千葉さんのトークから、おぼろげながら伝わってきたのは、岡崎乾二郎という作家は「同じだけれど、少しずつ違うということに強い関心を持っている」ということです。生物学者の福岡伸一がよく使う「動的平衡」という概念は「変化しながら同じ状態を保っている」ことですが、岡崎乾二郎は動的平衡のなかの「ゆらぎ」に強く惹かれ、「ゆらぎ」を表現するために制作活動を続けているのかな、と思いました。

◆《あかさかみつけ》のオリジナル

 展示室8を直進し、左折した所の左側の壁に「おおもと」、つまり、1981年制作の《あかさかみつけ》が展示されていました。千葉さんのトークは、この《あかさかみつけ》を制作する前、岡崎乾二郎は《かたがみのかたち》(注:1979年制作、3階・展示室2に展示)を作った。洋服は「立体」だが、その「型紙」は「平面」。《かたがみのかたち》は、立体と平面、抽象と具象の間の作品。一方、《あかさかみつけ》は「型紙」を組み合わせた立体作品。岡崎乾二郎はフレスコ画に関心を持っていたので、《あかさかみつけ》ではフレスコ画の再現を目指しており、絵具が漆喰の壁に浸透しているざらざら感を出そうとしている。最初のタイトルは《たてもののきもち》。「小さいけれども、建物」というタイトル。《あかさかみつけ》のほか《おかちまち》《かっぱばし》《うぐいすだに》と、駅の名前をひらがなで表記したのは、具体的な形は無いがイメージを想起させるから。タイトルを「漢字」ではなく「ひらがな」にすることで、イメージを広げようとしている。岡崎乾二郎の作品はタイトルだけでも、色々なイメージを想起させる、というものでした。

◆ペインティングについて

 《あかさかみつけ》が展示されていたところから更に進んで左折すると、右側の壁にはレリーフが、左側の壁にはペインティングが展示されています。ペインティングのサイズは、小さなものから大きなものまで様々です。千葉さんのトークは、小さなペインティングは「ゼロ・サムネイル=Zero Thumbnail」。小さな作品のシリーズ(注:豊田市美術館のレストラン「ミュゼ(味遊是)」では「ZERO THUMBNAIL/ゼロ・サムネイル 」という名前の会期限定デザートを販売していました)。パネル式のペインティングは最近の、二枚組のペインティングは昔の作品。岡崎乾二郎のペインティングは「抽象画」ではあるが、画家はそれぞれの形を、彼の思い出を想起して描いているので、「写実」ではないが、具体的なイメージを持たせて描いている。彼は、絵具も自分で調合している。薄塗り用やドロッとしているもの、ざらついたものなど、さまざまな絵具を使い分けている、というものでした。

◎2階・展示室1

◆パーティクルボード製の立体作品

 2階に移動して、一番大きな展示室1に入ると、パーティクルボード(木材の小片と接着剤を混ぜ、熱を加えて成形した板)を組み合わせた立体作品が2点鎮座していました。千葉さんのトークは、重さはあるけれど、浮遊している感じの作品。二つのパーツが一か所で支え合い、自立している。多くの彫刻は台座で支えられているが、この作品は台座から自由になっている。本展では鉄板に固定しているが、それは大理石の床を保護するためであって、台座ではない。二つのうち大きな方の作品は、2002年に開催されたヴェネツィア・ビエンナーレの建築部門で展示された。無駄なものを削ぎ落した作品、というものでした。

◆セラミックの作品

 展示室1には粘土細工のような作品もあります。千葉さんのトークは、常滑のINAX(注:現LIXIL)と共同して、1998年から2000年にかけて制作した作品。粘土に顔料を入れて練ったものを素材にして制作した。大地が盛り上がっていくような感じがある。割れないように、時間をかけて中まで乾燥させた後、焼成して完成させたもの。焼成によって縮むことも計算に入れて制作。乾燥が不十分で、焼成中に作品が爆発したこともあった。中まで粘土が詰まっているので、とても重い、というものでした。

◎3階・展示室2

 この展示室には《かたがみのかたち》等、切り抜いた布や型紙が散りばめられた作品が展示されています。千葉さんのトークは、《かたがみのかたち》はドイツのスタイルブックに掲載されていた型紙を切り抜いて制作。《まだ早いが遅くなる》は、布を組み合わせて絵のように見える。山水画を参照して制作。素材が違っても、やれることはたくさんある。岡崎乾二郎が《かたがみのかたち》を制作した1979年頃は、鉄や石を素材にした大きな物体の作品を制作するという風潮が主流だったが、彼はそれとは違う手仕事的な作品を制作、というものでした。

◎展示室3

◆タイルの作品

 展示室3には、様々な色とサイズの四角いタイルを組み合わせた巨大な作品《Martian canals / streets》を貼った壁が立っています。千葉さんのトークは、岡崎乾二郎はハンザ池袋の壁面装飾も手掛けている。《Martian canals / streets》は成形してから釉薬を塗って一つ一つ焼成したタイルを貼り付けた作品。普通、タイルは焼成してから必要な大きさにカットするが、この作品ではカットしたものに釉薬を塗って焼成しているので、タイルの縁が白くなっている。タイルの形や大きさは様々で、色のバリエーションは60色もある。同じ釉薬を塗っても酸化炎と還元炎では発色が違う。この作品は岡崎が指示して職人が焼成し、組み立てた、というものでした。

◆ポンチ絵

 南側の壁面には色鉛筆で描いた作品が展示されています。千葉さんは、《ポンチ絵》といって、設計用紙(注:「丘設計事務所」と印刷されていました)を2枚重ね、切り抜きながら制作したもの、と解説していました。

◎展示室4

 ペインティングの展示です。千葉さんのトークは、2枚組の作品の間にゼロ・サムネイルの作品を展示。ゼロ・サムネイルは、2枚組の作品を凝縮したようなものになっている。2枚組の作品は左右が対応し、関連性を持たせている。左右の作品は「全く同じ」ではなく、少しずつズレながら関係を保っている。また、作品とタイトルとは、関係していないようで、関係している、というものです。以上で、トークは全て終了しました。

◎最後に

 本展は軽やかで綺麗な作品が並んでいたものの難解なところがあり、取っ付きにくかったのですが、千葉さんのトークを聴いて親しみが持てるようになりました。参加者が多くて「話が聞こえるかな?」と危ぶんでいたのですが、千葉さんの声は良く通り、明瞭で中身も詰まっていたので、気が付いたら1時間以上経っていました。

千葉さん、楽しいトーク、ありがとうございました。

Ron.

山田諭さんの「記念講演会」と「囲む会」

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor

現在、名古屋市美術館では「没後90年記念 岸田劉生展」(以下「本展」)が開催中ですが、2月2日(日)午後2時から記念講演会が開催されました。講師は、本展監修者の京都市美術館(通称:京都市京セラ美術館)山田諭・学芸課長(以下「山田さん」)でした。山田さんは2017年まで名古屋市美術館に勤め、名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)との交流が長かったことから、同日午後5時から協力会員向けに「山田さんを囲む会」も開催されました。以下は、その概要です。

◆記念講演会

会場は、名古屋市美術館2階の講堂。定員180人の会場は満席でした。演壇の壁に投影されていた講演会タイトルは「岸田劉生の道」でしたが、講演会開始時のアナウンスでは「岸田劉生 孤独なる者の道」との紹介を受けました。

山田さんは冒頭で「岸田劉生は、日本の近代洋画の歴史のなかで唯一人、自分自身の眼と頭で自分の芸術を作り上げていった作家。他の作家たちは、主にフランス近代美術を追いかけていた。岸田劉生は、フランスの近代美術から始まり、西欧の古典絵画、東洋の美と追い続け、「その次」というところで死去。講演では38年の画業を順番に見ていく。彼は、作品を描いた順番がほとんどわかる画家。本展でも描いた順番に並べることを心がけた。彼が西欧の古典絵画に戻っていったときは「時代錯誤」と批判され、日本画を描き始めたときには、全然評価されなかった」と語り、作品の画像を投影しながら、岸田劉生の画風が変遷していく様子が次々と紹介されました。

講演を聴いて、岸田劉生は大下藤次郎の本を頼りに独学で水彩画を描いて以来、黒田清輝の画塾で学んだことを除いては、山田さんが話されたとおり「自分自身の眼と頭で自分の芸術を作り上げていった」ということが良く分かりました。岸田劉生が自分自身に取り込んでいった画家についても、ゴッホ、マティス、レンブラント、デューラー、ヤン・ファン・アイク、顔輝、南画、彦根屏風、肉筆浮世絵など、多数紹介されました。1921年制作の《麗子洋装之像》については「ゴヤ《白衣のアルバ女公爵》の妖しげな雰囲気を学んだ」との解説でした。最後に、1929.11制作の《満鉄総裁邸の庭》について「印象派風の作品に戻る」との解説があり、予定を20分ほど超えて講演は終わりました。

「その次」の変化が期待されただけに、岸田劉生が38歳で死去したのは残念ですね。記念講演会も、予定時間というものがあるので仕方ないのですが、用意した画像はまだ残っていたようですので「もう少し聴きたかった」と思いました。

◆山田さんを囲む会

会場は名古屋市美術館1階のスギヤマコーヒー。参加者は山田さんを入れて26名でした。最初にビールやソフトドリンクで乾杯。キッシュなどの手料理のほか、鱧天の差し入れもあり、近況報告や思い出話などに花が咲きました。囲む会の最後、山田さんの挨拶の中に「私も歳をとりましたが、皆さんも歳をとりましたねえ。安心しました」という言葉があり、一同大爆笑。

本当に楽しいひと時を過ごすことができました。山田さん、ありがとうございました。

Ron.

山田諭氏を囲む会

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor

 2月2日、現在名古屋市美術館で開催されている岸田劉生展を記念して、平成28年度まで名古屋市美術館にいらっしゃった山田諭さんによる記念講演会が行われました。山田さんは、岸田劉生展の準備にも関わってこられ、劉生についても非常に詳しい学芸員さんであり、記念講演会でも、見どころや劉生の人生について、熱く語ってくださいました。

 講演会が終わって夕方の5時、美術館内のカフェ「スギウラコーヒー」にて、名古屋市美術館協力会の会員たちが集まり、山田さんを囲んで楽しい食事や会話を楽しみました。

会員のみなさんもお料理と会話を楽しまれました

 話題は、岸田劉生のみならず。山田さんが名古屋市美術館にいらっしゃったころの懐かしい話や、現在の山田さんの生活ぶりなど、様々に及びました。

「コートールド美術館展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

今回のミニツアーは愛知県美術館で開催中の「コートールド美術館展」(以下「本展」)で、参加者は39名。愛知芸術文化センター12階アートスペースAで担当学芸員の石崎尚さん(以下「石崎さん」)のレクチャーを聴いた後、自由鑑賞となりました。

1 石崎さんのレクチャー(10:00~10:30)

石崎さんは、午前11時から同じ会場で講演を予定していたため、ミニツアーのレクチャーは10時30分で終了。以下はレクチャーの概要で、(注)は私の補足です。

◆コートールド美術館について

コートールド美術館は、英国・ロンドンの中心部、テムズ川河畔近くにあります。クラシックな外観のサマセット・ハウスの中にある美術館で、現在は改修工事中。2021年3月にリニューアルオープンする予定なので、今、作品が日本に貸し出されコートールド美術館展が開催されています。

◆サミュエル・コートールドとは?

コートールド美術館を設立したサミュエル・コートールド(1876-1947)は絹織物業を営んでいました。そして、レーヨン(注:セルロースを溶解し、細孔から凝固液の中に引出して製造する再生繊維。人絹)の開発で莫大な資産を築きました。名前から推測されるように、コートールド一家はフランスの出身です。フランスでは銀製品を作っていた家系ですが、宗教の関係でイギリスに移住しました。彼らはプロテスタントの少数派・ユニテリアン(注:父なる神・神の子イエス・精霊の三つを一体とする三位一体論に反対し、神の単一性を主張。イエスの神性を否定する教派)でした。ユニテリアンは信者に社会貢献を勧めていたため、サミュエル・コートールドは美術で社会貢献をしました。一方、彼の妻・エリザベスは音楽が趣味で、労働者階級向けのコンサートを開催するなど、音楽で社会貢献をしました。本展では、ホロヴィッツが演奏した演奏会のプログラムを資料として出品しています。エリザベスは美術にも関心があり、初期のコレクションには彼女が収集したものが数多くあります。

◆美術に対するサミュエル・コートールドの貢献は二つ

美術に対するサミュエル・コートールドの貢献は、①自分のコレクションをコートールド美術研究所として提供しただけでなく、②国立美術館の委員を務め、国立美術館(注:以下「ナショナルギャラリー」)への購入資金提供もしました。当時、ナショナルギャラリー所蔵作品の購入は、国民の税金を使うということから、イギリス人作家の作品に限られていました。サミュエル・コートールドは「印象派を買わない手はない」と委員会で発言し、購入資金を寄付することにより作品の購入をサポートしました。ナショナルギャラリーが所蔵しているゴッホ《ひまわり》やスーラ《アニエールの水浴》は彼の資金で購入したものです。彼は、特にセザンヌの作品をプッシュしました。当時、フランス人画家の作品は認めても「セザンヌだけはダメ」という委員が多い状況でした。セザンヌの作品は完成した絵とは認められなかったのです。そのような中で「セザンヌは近代絵画の父」と主張したサミュエル・コートールドには、先見の明がありました。

◆作品購入の判断基準

サミュエル・コートールドは美術評論家・ロジャー・フライ(1866-1934)と親交がありました。ロジャー・フライは、日本でいえば白樺派に当たるブルームズベリー・グループに所属しており、「マネとポスト印象派展」を企画しています。

サミュエル・コートールドが美術品を買う時の判断基準は「生活する中で、じっくり見る。長く見続けられる作品だけを買う」というものでした。お試し期間は2・3カ月。長い時間をかけて気に入ったものだけを買うので、数は多くありませんが、質の高さは優れています。作品のサイズがそれほど大きくないのは、自宅に飾って楽しんでいたからです。彼の自宅は大英図書館の南のマーモント・ストリート(Marchmont Street)にあるホーム・ハウス(Home House)。日本でいえば銀座の高級マンションです。現在、ホームハウスは登録料25万円、初年度会費5万円の高級会員制クラブで、内装は建築家のザハ・ハディドが手がけています。

◆印象派が誕生した時代背景

印象派が誕生した時代背景は、①パリ大改造が生んだ「街の美しさ」を楽しむ、②鉄道によるリゾート地へのアクセス、③チューブ入り絵具による戸外での絵画制作、の三つです。

〇パリの大改造

大改造前のパリは、路地が狭くて太陽が当たらず、道路はゴミ捨て場のようで、コレラも流行する場所でした。大改造により道が広くなってパリの中心部から放射状に道が繋がり、ルーブル宮殿やオペラ座などの美しい建物が建てられ、街角にはカフェが誕生し、日常生活を楽しむ人々が増えました。

〇鉄道によるアクセス

馬車よりも安価な移動手段として、鉄道が登場。1850~60年代にパリからフランス各地に伸びた鉄道を使って、リゾート地で余暇を楽しむ人々が増え、画家たちもリゾート地で絵を描きました。

<主な作品とコメント>(注:作品名に続いて、石崎さんのコメントを記します)

ウジェーヌ・ブーダン《ドーヴィル》【コメント】近くに画家本人もいて、この絵を制作しています

カミーユ・ピサロ《ロードシップ・レーン駅、ダリッジ》【コメント】イギリスの鉄道を描いています(注:パリコミューンを避け、イギリスに疎開していた時の作品)

〇チューブ入り絵具の普及

1841年にアメリカ人画家ジョン・G・ランドが錫製の押し出しチューブを発明し、戸外での絵画制作が可能になりました。それまでは、画家自身が絵具を調合。豚の膀胱や注射器のようなシリンダーに入れて運んだので、戸外での絵画制作は簡単ではありませんでした。チューブ入り絵具の普及で、物の色が際立つ太陽光を活かした作品を、屋外で制作できるようになりました。

◆本展のみどころ

 本展のみどころは、次の三つです。

〇マネ《フォリー=ベルジェールのバー》を中部東海圏で初公開

〇ルノワール・セザンヌ・ゴーガンなど、巨匠たちの代表作が勢ぞろい

〇画家が語った言葉・時代背景が分かる=科学的な研究成果から作品を読み解く

◆別の「みどころ」も

 本展には、三つのみどころ以外の「みどころ」もあります

〇小品に注目

 小さな作品は見落としがちですが、面白いものがあります。

<主な作品とコメント>

 アンリ・ルソー《税関》【コメント】みどころは、描き分けられた緑です

エドゥアール・ヴュイヤール《屏風のある室内》【コメント】ジャポニスムの影響を受けた作品。外からの光と水平・垂直の構図に注目です

ジョルジュ・スーラ《舟を塗装する男》【コメント】船を塗っている姿が、スーラの自画像のように見えます。点描ではない、普通の絵です

〇彫刻に注目

 本展では絵画に目が行きがちですが、彫刻にも注目してください。紹介した作品は、いずれも片足を上げているもので、展示室の真ん中に配置しています。

<主な作品とコメント>

 エドガー・ドガ《右の足裏を見る踊り子》【コメント】ドガの死後、アトリエに残されていた彫刻の一つで、作家の死後に鋳造されたものです。ドガはモデルのポーズを様々な視点から眺めるために彫刻を制作しました

オーギュスト・ロダン《ニジンスキー》【コメント】モデルはロシア・バレエの名手。サミュエル・コートールドの前の所有者は元バレエダンサーでした

オーギュスト・ロダン《パ・ド・ドゥB》【コメント】パ・ド・ドゥは、二人のダンサーによる踊り。見る角度によっては一人に見えます

〇額縁に注目

 何気なく見ている額縁ですが、少し変わった額縁の作品もあります。

<主な作品とコメント>

ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー《少女と桜》【コメント】額縁には渦巻きのような模様があります

アンリ・ルソー《税関》【コメント】額縁には大・小の、ヒラヒラと舞っているような模様があります

ポール・ゴーガン《干し草》【コメント】額縁はシンプルな木工品です

2 自由鑑賞(10:30~ )

10階の展示室に入ると目に飛び込んできたのは、サミュエル・コートールドの自宅内部を撮影した、大きく引き伸ばされたモノクロ写真。豪華な室内に本展の出品作が飾られており、美術館で鑑賞するよりも遥かにゴージャスです。また、日曜日のお昼頃とあって、鑑賞に支障が出るほどではありませんでしたが、多くの人出がありました。

〇第1室

 クロード・モネ《アンティーブ》を始め、ジャポニスムの影響を受けたと思われる作品が飾られています。

〇第2室

主にセザンヌの部屋です。ポール・セザンヌ《カード遊びをする人々》について詳細な解説を書いたパネルが壁に貼られていました。セザンヌの手紙も出品されており、石崎さんが「画家が語った言葉・時代背景が分かる=科学的な研究成果から作品を読み解く」と言っていた通りです。

〇第3室

サミュエル・コートールドに関する資料を多数展示していました。コートールドの自宅の写真には、セザンヌ《パイプをくわえた男》、ロートレック《ジャヌ・アヴリル、ムーランルージュの入口にて》及びモディリアーニ《裸婦》が写っています。

〇第4室

主にルノワール、ピサロ、シスレーの部屋です。ルノワール《アンブローズ・ヴォラールの肖像》と《靴紐を結ぶ女》は、自宅の写真もありました。

〇第5室

劇場の桟敷席に関する資料が多数展示されていました。ルノワール《桟敷席》の解説パネルには、描かれた女性の名前はニニ・ロペスでお気に入りのモデル、と書いてありました。ロートレック《個室の中(「ラ・モール」にて)》には妖しげな女性が描かれています。解説には「高級娼婦」と書いてありました。

〇第6室

この部屋の主役は、何といってもマネ《フォリー=ベルジェールのバー》(以下「本画」と表記)です。解説パネルには、X線写真だけでなく《「フォリー=ベルジェールのバー」の習作》(以下「習作」と表記)の画像もありました。本画のバーメイドは正面向きで、衣装に白いレースや花飾りがありますが、習作の衣装は、ほぼ黒一色です。また、習作のバーメイドは正面向きではなく、画面に向かってやや右を向いています。本画では、鏡に写ったバーメイドの像は大きく右にずれていますが、習作ではバーメイドのすぐ近くです。バーカウンターの酒瓶についても、本画ではありえない位置に鏡像があり酒瓶の本数も違いますが、習作ではバーカウンターは鏡に写っていません。二階席周辺を見ると、本画では白いドレスの女性(解説は「マネのモデル・友人・恋人であったメリー・ローラントされる」と書いています)や空中ブランコの脚、左右に球形の照明がある等、にぎやかです。これに対し習作の二階席は、ほぼ黒一色、空中ブランコは無く、球形の照明は左側だけ。バーメイドの鏡像を右にずらしたり、二階席に白いドレスの女性を配したり、空中ブランコの脚や球形の照明を描いた本画の表現には、強さがありました。

〇第7室

主にスーラとゴーガンの部屋です。スーラは5点。うち、点描は《クールブヴォワの橋》と《グラヴリーヌの海辺》の2点でした。ゴーガンの《ネヴァーモア》の解説パネルにはX線写真も付いています。また、自宅の写真にはスーラ《クールブヴォワの橋》とゴーガン《テ・レオリア》が写っていました。

〇第8室

 主にモディリアーニ、ボナールと彫刻の部屋ですが、ゴーガン《干し草》も展示されています。解説には「形態と色彩を簡略化」と書いてありました。愛知県美術館コレクション展で展示中の熊谷守一の作品に通じるものを感じます。石崎さんが紹介してくれたヴュイヤール《屏風のある室内》も、この部屋に展示されています。普通の油絵とは違う艶消しの作品です。モディリアーニ《裸婦》にも、X線写真付の解説パネルがありました。

◆最後に

 最初は解説をじっくり読みながら鑑賞していたのですが、途中から疲れてきて拾い読みになりました。それでも時計を見ると午前11時45分。見ごたえのある展覧会ですよ。

                            Ron.

「没後90年記念 岸田劉生展」ギャラリートーク

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館で「没後90年記念 岸田劉生展」(以下「本展」)が開催されています。先日、名古屋市美術館協力会主催のギャラリートークに参加しました。担当は井口智子学芸課長(以下「井口さん」)。参加者は93人。2階講堂で簡単な説明を受けた後、展示室に移動してギャラリートークが始まりました。

◆2階講堂でのトーク

集まった参加者の前に井口さんが登場すると、着ていたのは協力会の会員さんからプレゼントされた手編みのケープ。麗子像の肩掛けに似た配色の素敵な品でした。「参加者が多いので、どこにいるか良く分かるように着てきました。近いうちに名古屋市美術館でも毛糸の肩掛けとおかっぱ頭のかつらを用意して、『成りきり麗子』が撮影できるコーナーを設けます」というお知らせもありました。

麗子ちゃん風ケープを羽織った井口学芸課長

また、井口さんが資料を入れていたのは、しりあがり寿が描いた「麗子ちゃんトートバッグ」。「主催者の御厚意でギャラリートーク終了までグッズ売り場が開いています。売り場では2種類の図録を販売しています。一つは《麗子微笑》を表紙にした図録。もう一つは《道路と土手と塀(切通之坂道)》を表紙にした東京会場・山口会場で販売していた図録です。違うのは表紙だけで中身は同じ。図録に収録された『岸田劉生活動記録(山田諭編)』は、数多くの資料を読み込んで編集した、価値の高いものです」というコメントがありました。(注:「岸田劉生活動記録」は劉生に密着取材して書いたような中身が濃いものでした。井口さんの「岸田劉生と名古屋 ― 劉生の《舞妓図》と杉本健吉」も図録に載っています。図録は税込2,500円。この外、毛糸の肩掛けは税込13,200円、トートバッグは税込1,100円です)

岸田劉生(以下「劉生」)については「17歳で絵を学び始めて、38歳で死亡。20年を駆け抜けた天才画家」と、紹介があり「本展は、山田諭・京都市美術館学芸課長が名古屋市美術館に勤務していた頃から企画していた展覧会である」ことも紹介されました。

◆第一章 「第二の誕生」まで 1907-1913

劉生について井口さんは「1891年に東京銀座で生まれ、1900年代には独学で水彩画を描き始める。1907年制作の水彩画を見ると、才能があったことが分かる。転機は1911年。彼は、当時発行された雑誌「白樺」が紹介したゴッホやマチスの作品に影響を受けた。作品を真似るだけでなく、興味を持った要素を取り入れて自分のものとして積み上げていった。物を見る目の鋭さが、彼の能力」と解説。この外、作品番号(以下「No」)14《自画像》については「自分を主観的に見た、ゴッホやマチス風の作品」、No17《築地居留地風景》・No18《築地居留地風景》については「表現主義的な画風」と、コメントがありました。

作品の数が多いので、水彩画、外光派の油絵、当時流行のポスト印象派風の作品と、岸田劉生の作風が目まぐるしく変化していく様子がよく分かりました。

◆第二章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで 1913-1915

井口さんは「劉生は流行を追うのではなく、古典に逆行。友人の顔や自画像を数多く描いた。彼の描写は、だんだん細かくなっていくとともに写実的になっていく」と、解説。この外、No21《B.L.の肖像(バーナードリーチ像)》・No24《裸婦》を紹介。No40《黒き帽子の自画像》(注:1階エントランスの画像の右側の作品)については「帽子はお気に入りのもの。パレットを手にしており、画家としての自分を描いている。自分の道を見つけていった」と、コメントがあり、「美しさを見いだす能力が高かった」と劉生を評した、武者小路実篤の言葉も紹介。

また、第二章の最後のほうに展示されているNo52《高須光治君之肖像》については「デューラーやファン・エイクの影響を受けて、初期のものと比べると写実的になり、肌の状態を生々しく描いている」と、コメントがありました。

第二章には「これでもか」というほど、数多くの自画像が並んでいます。壮観というだけでなく、作風が変わっていく様子がよく分かります。次から次に自画像を見ていると、劉生の熱気が伝わってくるようでした。

◆第三章 「写実の神秘」を超えて 1915-1918

第三章の前半は主に風景画、後半は主に静物画です。風景画については「劉生が代々木に引っ越した頃は開発が進んでいる時代。彼は外に出て、自然に人間が手を入れている風景を写生。No56《代々木付近(代々木付近の赤土風景)》を見ると、重要文化財の《道路と土手と塀(切通之坂道)》に描かれた二本の黒い影が電柱だったのが分かる。No61《冬枯れの道路(原宿付近写生)》は名古屋展のみの出品。こってり描いているところと、ざっと描いているところを描き分けている」と、コメントがありました。

No65《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》については「着物の形、肌の様子など、写実性の高い作品」と、コメントがあり、静物画のNo69《林檎三個》については麗子が「父 劉生」のなかで「この絵は病と斗う父が、自分の一家三人を林檎に託して描いたときいている」と書いていることと「茶色の机は劉生のお気に入りだった」ことが紹介されました。更に、No70《初夏の小路》については「二科展で最高賞の二科賞を受賞し、賞金100円を受け取った」こと、No75《川幡正光氏之像》については「デューラーの絵を基にしているが、アルファベットの代わりに右に漢字を書いている」こと、No78《静物(手を描き入れし静物》は「二科展で落選。手が描かれており、悪趣味といわれた。現在、手は塗りつぶされている。塗りつぶしたのは劉生ではないが、塗りつぶした人物が誰かは分かっていない」こと、などが紹介されました。

第三章には、井口さんが紹介した以外にも数多くの静物画を展示しています。No73《静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)》やNo77《静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)》などの作品を指して、ある会員が「ジョルジョ・モランディの静物画みたい」と感想を呟きました。モランディの作品は2011年に名古屋ボストン美術館で開催された「恋する静物」展で見ただけですが、「確かに、そんな感じがする」と、私も思います。

◆第四章 「東洋の美」への目覚め 1919-1921

第四章には、数多くの麗子像が展示されています。井口さんは「劉生は、麗子を通じて自分の描きたいものを追求した。それは、劉生と麗子の共同作業。彼は麗子だけでなく、近所に住むお松さんもモデルにした。お松さんは麗子より年上で、利発な田舎娘。麗子像の肩掛けは、元はお松さんのもの。劉生は、ほころびのある肩掛けを気に入って、麗子のために用意した肩掛けと取り換えた。お松さんも喜んでいた」と、コメント。この外、No90《麗子座像》(注:1階エントランスの画像の左側の作品)については「この時期から、劉生は水彩画を描くようになる。油絵はじっくり描くが、水彩画は素早く描くことが出来る」と、No111《麗子微笑》(注:名古屋展の図録の表紙)については「肩掛けの質感にリアリティーがある。程よい感じで微笑んでいる。どこか現実、どこか非現実。超現実の世界」と、No108《麗子洋装之図(青菓持テル)》については「水彩画で、バーナード・リーチとお別れするときに着ていた洋服を描いている」と、コメントがありました。《麗子微笑》については、更に「おかっぱ頭、着物、肩掛けなど現実にあるものを、現実を超えた美しさで描いている。敢えて、顔を横長にしたり、手を小さくしたり、アンバランスにして描いている」と、解説がありました。

1階展示室の出口付近のケース内に5歳の頃の麗子の写真が展示されていました。麗子像よりもかわいい顔をしています。そういえば、2019年9月29日(日)にNHK/Eテレで放映された日曜美術館「異端児駆け抜ける! 岸田劉生」では、《麗子微笑》について「丸い顔に鼻筋が通っているのは、仏像を思わせる。仏像のような微笑みは際どい。俗っぽくなるかどうかの瀬戸際」という画家の証言や「西洋の油絵に東洋の美を盛り込んだもの。異端児がたどり着いた極み」という学芸員の解説がありました。

◆第五章 「卑近美」と「写実の欠如」を巡って 1922-1926

井口さんは「1923年9月1日の関東大震災で、劉生の自宅が半壊。9月13日に名古屋の片野元彦が劉生を訪ねてきて、名古屋に移住することになる。劉生が名古屋に住んだのは半月ほど。その後、京都に引っ越したが、名古屋は劉生にゆかりがある土地」と話し、No113《二人麗子図》について「名古屋展のみの出品で、二人とも麗子という不思議な世界」と、No116《麗子微笑》・No117《麗子》については「グロテスク」と、No125《童女舞姿》については「名古屋展のみの出品」と、No135《少年肖像(村上巌氏十七歳)》については「能面のようで、日本画のようにのっぺりとした作品」と、コメントがありました。

第五章には、数多くの日本画を展示しています。井口さんから「劉生の日本画がこれほど集まる展覧会はない。No138《瓜之絵》は、日本画の冬瓜。京都時代の劉生は、あまり評価されていないが、力を蓄えていた時代」と、解説がありました。

第五章の日本画は、それまでの劉生と違い、肩の力が抜けたというか、ヘタウマというか、作風が大きく変わったことが分かります。

◆第六章 「新しい余の道」へ 1926-1929

井口さんから「孤立していた劉生のために、武者小路実篤が1927年に第1回大調和展を企画。劉生は《舞妓図》を出品(注:図録に、《舞妓図》について書いた井口さんの文章が載っています)。1929年には、南満州鉄道株式会社から招聘があり、再起をかけて満州に渡りますが、いい結果が出ず、帰国後、徳山で急逝します。No152《塘芽庵主人閑居之図》には、丸々と太った自分を描きこんでいます。太ったことも病気の原因かもしれません。彼は、癇癪もちでしたが、人間的な人でした。情の熱い人で、キリスト教を捨てたとしているが、人を超えた何かを信ずる人でした」という話があり、ギャラリートークは終わりました。

No160《満鉄総裁邸の庭》など、満州で制作した明るい色彩の作品を見ていると、徳山で急逝しなければ数多くの新たな作品が生まれていたように思え、残念でなりません。

◆最後に

本展を見終わって、監修した山田諭・京都市美術館学芸課長の意気込みを強く感じました。まさに「緻密な研究に裏付けられたすぐれた展示」という展覧会評(日経新聞2019.12.10文化欄)のとおりだと思います。見逃せない展覧会です。図録もお忘れなく。

Ron