お知らせ

2018年10月30日

2019年協力会イベント情報

現在、募集中のイベントは下記のとおり。

平成31年3月3日(日)17時~
・名古屋市美術館:『辰野登恵子』展ギャラリートーク

平成31年2月17日(日)14時~
・碧南市藤井達吉現代美術館:『佐藤玄々』展ミニツアー

平成31年3月24日(日)14時~
・名古屋市博物館:『国芳から芳年へ‐浮世絵』展ミニツアー

会員の皆様は、ファックスか、お電話でお申込ください。
なお、ホームページからもお申込可能です。
(右側の”Gトーク”申込ボタンから)

読書ノート「日本画の歴史」(近代篇)(現代篇)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

草薙奈津子 著 中公新書2513・2514 2018年11月25日発行

 カラー版の新書です。内容は著者が一般市民を対象に平塚市美術館で行った館長講座に数章を加筆したもの。読みやすい本でした。新書化するにあたり(近代篇)「第二章 幕末・明治の浮世絵」や(現代篇)「第六章 女性画家の台頭と活躍」など数章を加筆しており、浮世絵や女性作家に多く言及しているのが特色です。このうち(近代篇)第二章は以下のように始まります。

(浮世絵は)明治時代になっても庶民の間では根強い人気がありました。むしろ技術的には江戸期より明治の浮世絵のほうが優れていたといわれます。(略)作者としては歌川貞秀、落合芳幾、三代歌川広重、月岡芳年、揚州周延、豊原国周など。そして西洋絵画を意識した光線画を生んだ小林清親もいます。

また、(近代篇)第二章は月岡芳年について以下のとおり紹介しています。

月岡(大蘇)芳年 最後の浮世絵師 ― 1839~92
江戸末に活躍した歌川国芳の門からは多くの浮世絵師が輩出しました。その中で特筆すべきは月岡芳年と河鍋暁斎です。河鍋暁斎は狩野派の絵師でもありますから、他の章で述べたいと思います。芳年は明治期の浮世絵師としてよく知られています。しかも国芳の師風をよく受け継ぎ、それを発展させていきました。(略)芳年の師歌川国芳(1797~1861)は江戸末を代表する浮世絵師です。奇想の画家ともいわれ、今、とても人気があります。(略)芳年の絵が“ちみどろ絵”といって評判となるのは1866年です。同門の落合芳幾との合作《英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)》を発表してからです。(略)幕末には残酷な場面が歌舞伎や講談でも表現されていましたから“ちみどろ絵”は芳年ただ一人の傾向というよりも、残酷趣味を求める当時の大衆の風潮であり、時代の好みだったといえそうです。(略)明治に入ると狩野派の画家ばかりでなく、浮世絵師たちも生活に困窮しました。芳年もそうだったようで、作品数が極端に減っています。(略)挙句、1872年には強度の神経衰弱にかかってしまったのです。しかし翌年には回復したのでしょう。大いによみがえるという意味の“大蘇”と号するようになりました。75年になると作画活動も安定を迎え、錦絵新聞、美人絵、そして戦争画に取り組んでいます。錦絵新聞の先駆けは74年の『東京日日新聞』でした。挿絵を担当したのは芳年の兄弟子落合芳幾です。芳幾と芳年は兄弟弟子であると同時にライバルでもあったのです。芳幾の成功にあやかろうと、芳年は75年『郵便報知新聞』の挿絵を手掛けました。(略)1877年には《西郷隆盛切腹図》を描いています。1882年には絵入り自由新聞に月給100円という破格の高給で雇われていますから、芳年の挿絵の人気ぶりが推し量られます。(略)明治10年代後半から晩年にかけて、芳年は江戸時代に回帰したとも評されます。まさに“最後の浮世絵師”といわれる所以です。(略)しかし浮世絵の人気も1887(明治20)年になると陰りがみられるようになり、明治30年代には加速度的に出版点数が減っていきました。写真に取って代わられたのです。しかし芳年の門からは、その後の日本画を担う作家たちが続々と出てきました。例えば、水野年方、鏑木清方、池田輝方・蕉園夫妻、伊東深水らは、自ら歌川派を継ぐ物といってはばかりませんでした。その意味でも、月岡芳年は、まさに幕末から明治という時代を代表する画家の一人なのです。

この記述に関連して、(近代篇)「第七章 官展の歩み - 東京画壇・京都画壇」のなかの「松園・清方・深水に代表される美人画家たち」という項目に以下の記述があります。

深水は松園、清方、そして自分自身を次のようになぞらえています。「清方先生はやはり(鈴木)春信だと思う。色彩画家であり美しい夢を非常にもっている。そうしてなんか清潔な感じがする。松園先生は非常に本格的な技術を身に付けているのですね。そうして非常に気品があるということね。ほかの浮世絵画家にはない品格がある。これは(勝川)春草ですよ、春草に該当する人です。(鳥居)清長は傾向としては私なんです。というのは非常にリアルで割合に均衡がとれて、すこし常識的であり、そうして非常にエネルギッシュであるということ」(『三彩』1956年7月)実に言い得て妙です。

 女性画家については(現代篇)「第一章 昭和戦前期の日本画」で以下のとおり小倉遊亀を紹介しています。

小倉遊亀 崇高な精神と温かみのある人間性 ― 1895~2000
 滋賀県大津に生まれた遊亀は、戦前、関西の優秀な女性に唯一開かれていた奈良女子高等師範学校に学び、首席で卒業しています。(略)遊亀はそこを卒業すると、京都や名古屋で先生をしながら絵の勉強を続け、横浜の捜真女学校の講師時代、誰の紹介もなく安田靫彦に会いに行ったのです。(略)遊亀は安田靫彦という新古典主義を代表する画家に学んでいますから、その作品は線描を主としたものがほとんどです。特に戦前の作品にはそのことがいえます。それにもかかわらず、遊亀の作品には多少の歪みが感じられるのです。遊亀自身は次のように語っています。「描いていくうちにね、そこの形をどうしても歪めていかないと落着かないんです。ですから歪めてしまうんです。そうすると落ち着くんですねえ。……近代的な感覚じゃないですね、あれは。その絵を落着かせる、形のうえの、自分勝手な……自分が美しいと思った形です」。(略)遊亀の作品に指摘されるデフォルメは、東京藝術大学美術館の古田亮なども指摘するようにマチスの影響といわれます。(略)しかしそれだけではないような気もします。日本画の装飾性を遊亀なりに考えて生まれたのではないでしょうか。日本画を学ぶ段階で得た装飾に対する親しみが、マチスの作品を見たときに遊亀の心に感応したのではないかと、私は思っています。(略)マチスなどを学んでいるという意味で、遊亀の作品は理知的というべきかもしれません。しかし実際彼女の作品を目の前にすると、理知的というよりも、温かく人を包み込むような包容力と優しさを感じます。伝統的に日本美術院の作家に顕著なのが、絵画に精神性をもたせるということです。(略)遊亀には高く深く崇高な精神と同時に、優しく温かみのある人間性が見られるのです。

 (現代篇)「第六章 女性画家の台頭と活躍」は最初に秋野不矩を取り上げています。内容は以下のとおりです。

秋野不矩 強い意志 悠然たる気分 - 1908~2001
(略)彼女の本領が発揮されるのは戦後、1948年に仲間と創造美術を結成してからです。息子たちをモデルに描いた《少年群像》(1950年)の裸像の少年らの初々しさ、群像としての構図の取り方、色彩や描法の大胆さなど、戦前作品の細い描線はなくなり、もっと大らかで自由で、我が道を行く泰然とした姿勢が感じられ、その後の不矩の歩みを示唆しているのです。この作品によって第一回上村松園賞を受賞したのでした。上村松園賞とは松園没後の1950年に設けられた賞で、精力的に活躍する実力派女性画家を対象とするものでした。第二回から五回(最終回)までに、小倉遊亀、広田多津、堀文子、朝倉摂が受賞しています。1962年54歳の時、秋野不矩は突然インドに行きました。不矩が教鞭をとっていた京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の同僚教授、佐和隆研の「日本画の先生でインドに行ってくれる人はありませんか」という一言に乗ったのです。(略)秋野不矩のインドに取材する作品を、私はすべて好きです。そこには深く、大きく、計り知れないインドの大地にそそぐ不矩の愛が感じられるからです。それが秋野不矩の哲学なのだと思います。

◆協力会ミニツアーについて
 平成31年3月24日(日)午後2時から、名古屋市博物館「挑む浮世絵 国芳から芳年展」鑑賞ミニツアーを開催するとの案内がありました。集合は博物館1階。展示説明室で神谷浩・博物館副館長の解説を聴いた後、自由観覧となります。(詳細は、協力会ホームページをご覧ください)
 歌川国芳は「今、とても人気の浮世絵師です」が、上記の「日本画の歴史」によれば弟子の月岡芳年も「まさに幕末から明治という時代を代表する画家の一人」です。「挑む浮世絵 国芳から芳年展」は国芳の個性が芳年を始めとする弟子たちに継承され、変化していくさまを間近で鑑賞できるまたとない機会だと思います。

◆協力会・春の美術館見学ツアーについて
 詳細は未定ですが見学先は、①浜松市美術館「浜松市美術館リニューアル1周年記念 没後70年上村松園展」、②静岡市美術館「小倉遊亀と院展の画家たち(滋賀県立近代美術館所蔵品による)」、③静岡近代美術館・所蔵品展に決まったとの案内がありました。
①について:平成25年に名古屋市美術館で開催された「上村松園展」は素晴らしかったですね。再び上村松園の作品に出合うのが楽しみです。今回は、上記の「日本画の歴史」が取り上げた秋野不矩始め上村松園賞受賞作家の作品も併せて展示されるようです。
②について:「院展の画家」は上記「日本画の歴史」(近代篇)でも多くのページを割いて紹介しています。展覧会の中心となる小倉遊亀については「宗達を敬慕すると同時にマティスやピカソにも刺激を受ける彼女の画業」(山本香瑞子・静岡市美術館学芸員=「美術の窓」2019年1月号より)を是非とも鑑賞したいですね。
③について:「芸術新潮」2019年1月号に「静岡市葵区にある静岡近代美術館。ここは徳川十五代将軍慶喜公の住まいがあった場所で、駿府城公園や静岡浅間神社にもほど近い。閑静な住宅街に囲まれて立ち、2016年に開館した時は知る人ぞ知る「隠れ家的」美術館だったが、近頃その収蔵品の質の高さが密かに話題を呼んでいる。(以下、略)」という紹介記事が載っていました。どんな作品が鑑賞できるか、楽しみですね。
Ron.

読書ノート 「魯山人の器」など

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

〇「魯山人の器」(2006年10月30日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版
 近所の図書館で借りた本です。書名のとおり、北大路魯山人(1883~1959。以下「魯山人」)が制作した食器の魅力を語っています。魯山人といえば「美食家」。漫画「美味しんぼ」の登場人物・海原雄山のモデルというイメージが強かったので、「食器」という切り口は新鮮でした。また、本が薄くて「サクッと読めそうだ」と感じたのも手に取った理由です。
まず、「美食家」魯山人が「陶芸家」になった経緯ですが、以下のように書いています。

はじめ書家として世に出た魯山人に、大きな転機が訪れたのは、36歳の折。友人の中村竹四郎と共同で古美術骨董を扱う「大雅堂芸術店」(のちに大雅堂美術店と改称)を開き、いつからか店内で友人知己を集めて手料理をふるまうようになった。ここから会員制の「美食倶楽部」が生まれ、本格的な会員制料亭「星岡茶寮」の開業へとつながった。そして、茶寮で使う食器をそろえるため、魯山人は作陶に手を染めていった。(抜き書き終わり)

 「美食家」になる以前は「書家」「古美術店経営者」であった魯山人。作陶に向かった動機は、「茶寮で使う食器をそろえるため」でした。まさに、目まぐるしい変化です。
本の主題である「魯山人の器」の魅力については、以下のように書いています。

使ってこそわかる器の魅力(略)第一のツボは、ここにある。料理を盛って、器と料理の響きあいを楽しむ心。魯山人の器は、料理を生かし、料理に生かされる器なのです。(略)
自由に線を引く筆さばき(略)魯山人は、陶芸家としてでも美食家としてでもなく、まず書家として名を成した。(略)魯山人の器を鑑賞する第二のツボは、この独特の筆さばきを味わうことにある。「器に書の至芸をみる」のだ。(略)
鍛え上げた目だけを頼りに、己の作品を生み出していった魯山人。こんな言葉も残している。「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。なにかしらコピーでないものはないのだ。但し、そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」(『愛陶語録』)(略)魯山人のコレクションルームには「坐辺師友(ざへんしゆう)」の扁額が掲げられていたという。(略)魯山人は名品に学びながら、独自の器をつくり出した。魯山人鑑賞の第三のツボは、そこにこそ見出せる。「自在な作陶ぶりを味わう」ということである。たとえば、織部について見てみる。(略)魯山人の手になる俎皿(まないたざら)は伝統的な織部には、まったくないものだった。魯山人が、調理場にあるまな板をヒントに案出したものなのだ。しかも、緑釉の部分にも、従来の織部にはない微妙な濃淡がつけられている。(略)魯山人は、それまでなめらかに仕上げるのが絶対とされていた土の表面を、あえて石で叩き、細かい凹凸をつけた。この凹凸が、緑釉に微妙な濃淡と輝きをもたらしたのだ。(略)魯山人は備前焼でも、革新的な作陶を行っている。土の風合いが持ち味とされる備前に、銀の粉をにかわで溶いた「銀泥」を施したのである。(抜き書き終わり)

魯山人の器を鑑賞する第一のツボは「美食家」の、第二のツボは「書家」の、第三のツボは「古美術店経営」の経験に基づいています。「魯山人の器」の魅力は彼の多彩な経験に裏打ちされたものだったのですね。
 抜き書きの中では「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。(略)そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」という魯山人の言葉が特に印象的でした。そして「名品に学びながら、独自の器をつくり出した」例として、織部焼の俎皿と備前焼の銀彩を上げています。
この「独自の器をつくり出した」という点については「美の壺」シリーズの「織部焼」「備前焼」でも、以下のとおり魯山人の業績に触れています。

〇「織部焼」(2007年10月25日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
古田織部と織部焼の謎
 古田織部の存命中、単に「瀬戸茶碗」や「瀬戸皿」と呼ばれていた織部好みの器が、「織部焼」の名で呼ばれるようになるのは、織部の死から80年近く過ぎた江戸も中期頃からだという。そしてそれが瀬戸ではなく美濃で焼かれたことがわかったのは、つい80年ほど前のことだ。昭和5年、後に人間国宝となる美濃の陶芸家、荒川豊蔵(1894~1985)は、現在の岐阜県可児市にある牟田洞の古窯跡で、筍の絵が描かれた志野の陶片を発見する。これが端緒となって、桃山茶陶の粋、志野と織部がともに美濃で焼かれていたことが明らかになったのだ。(略)長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは、何といっても昭和初期の古窯跡の発掘をきっかけに、陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎(1898~1985)だ。桃山陶を換骨奪胎し、ともに大きな成果を遺した二人だが、稀代のプロデューサーだった魯山人が、織部焼はそれ以前から美濃で焼かれていたやきものを古田織部が「発見」したと考えているのに対し、自ら轆轤を挽き、窯を焚いた唐九郎が、織部を優れたデザイナーにして近世の幕を開けた芸術家ととらえているのは面白い。(抜き書き終わり)

 抜き書きの中では「長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは(略)陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎だ」という箇所が特に印象的でした。
「魯山人でもてなす。」(2009年5月20日発行 コロナ・ブックス編集部 平凡社)の巻末年表には「1927年(昭和2)京都の宮永東山窯から荒川豊蔵を招く。1930年(昭和5)荒川豊蔵とともに、大萱牟田洞窯、窯下窯、大平窯などの窯跡発掘。1936年(昭和8)荒川豊蔵、美濃大萱へ」とあり、昭和2年から昭和8年まで、荒川豊蔵は魯山人と一緒に仕事をしていたことが分かります。Wikipediaは荒川豊蔵について「1955年(昭和30年)-志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される」と記載していました。
 前述の「魯山人でもてなす。」には志野・織部に関する記述もあります。志野に関しては「魯山人は志野に純日本的美意識を見た。そして言う。『志野は稀にみる純日本的陶器であり、珍重すべき陶器である。簡単にこれだけで充分だ』と。いくら口を極めて説明しても、わかる者にしかわからないのが志野の魅力だ、とも」というもので、織部に関しては「魯山人の食器中もっとも数が多いのが織部。手描きの素朴な絵と鮮やかな緑色の釉を日本独特の美として好んだ。1955年に魯山人は小山富士夫を通じて重要無形文化財の指定を打診されるが、このとき対象となったのが織部であった。ちなみに、魯山人はこの指定を固辞した」というものです。
 
〇「備前焼」(2008年9月20日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
 当時、美濃では荒川豊蔵(1894~1985)が志野の陶片を発掘し、桃山志野の再現に意欲を燃やしていた。刺激を受けた金重陶陽は、後に豊蔵と親交を結ぶ。30代にして本格的に轆轤に立ち向かった陶陽は、つてをたどって備前焼の茶陶を見せてもらい、茶道を学んだ。窯に改良を重ね、良質の田土を探して精製法を工夫し、桃山備前をみごとに再現した陶陽は、1956年、備前焼最初の人間国宝に認定される。息子たちを筆頭に多くの後継を育て、その功績は計り知れない。(略)
[達人のことば  備前 ― その土味 窯変の妙]   黒田草臣(渋谷「黒田陶苑」代表取締役)
(略)はじめ魯山人の指導で信楽土の焼締や伊賀、志野、織部釉でオブジェを制作していたイサム・ノグチは、魯山人作品の中で備前焼に興味をもち、備前土で制作したいという強い希望をもった。(略)魯山人は、「無釉の陶器のなかで群を抜いて備前は美しい。備前は何といっても土そのものに変化があり、味わいがある。土と火との微妙な関連によって渋い奥行きのある色が出るなど世界に類をみない。無釉の備前土こそ芸術的才能がそのまま表れる」といい、昭和27年の5月、ノグチを伴い備前を訪れた。(略)昭和24年にも陶陽窯で制作している魯山人は、「備前で作陶している人は伝統の中に居眠りをしているのではないかな。こんなに良い土があるのに、もったいないことだ」といいながら、備前土の感触をみながら、針金で四角くスライスする。これを大きな手の平でとんとんと叩き、縁を処理してうねりをつける。みるみるうちにできた四方皿や俎皿に陶陽は舌を巻いた。それは備前の陶工たちが忘れていた土味の良さを引き出す方法だった。(抜き書き終わり)

荒川豊蔵の活躍は備前焼にも刺激を与えていたのですね。また、前述の「魯山人でもてなす。」は備前焼について「備前は魯山人がもっとも愛したやきもの。絵や釉薬の施されることのなかった備前に釘で絵を彫り、銀彩などの釉薬をかけることによって備前に新しい世界を拓いたのも魯山人である」と書いています。
Ron.

《天女(まごころ)像》の記事を発見しました

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日(2019.1.25)発売の「芸術新潮」2月号特集「奇想の日本美術史」では、陶芸家・宮川香山と彫物師・石川雲蝶の”やりすぎスピリット“の後継者として佐藤玄々(1888~1963)と《天女(まごころ)像》を紹介しています。その内容は以下のとおりです。

p.78
ご存知、日本橋三越本店中央ホールにそびえる像は、畢生の大作。絢爛な装飾物に彩られた天女は悠然と微笑むが、そりかえった足指の先にまでゆき届く緊張感に、作者のひたむきな情熱を感じて、胸がジーンとする。
p.79(写真の説明)
生誕130年を記念した佐藤玄々の本格的回顧展が巡回中。2月24日までは碧南市藤井達吉現代美術館で、3月6日から12日は本作を囲んで日本橋三越本店のホールを舞台に、作品が展示される。●《天女(まごころ)像》昭和35年(1960)木彫彩色 高10.91m 日本橋三越本店蔵

p.79の写真は日本橋三越本店の本館1階中央ホール吹き抜けに設置された、4階の天井に届くほどの《天女(まごころ)像》。写真をみると、天女像そのものは像全体の四分の一ほどの高さ、像の大半を台座と光背が占めています。
また、「日本橋三越本店 Nihombashi Mitsukoshi」のfacebook:2015年4月10日付の記事も《天女(まごころ)像》に触れていました。内容は以下のとおりです。

~三越歴史再発見①~ 【天女(まごころ)像】
みなさま日本橋三越本店の天女像をご存知ですか?天女像とは、本館1階中央ホールに鎮座する高さ10.91m、重さ6.45トンもある極彩色の巨大な木像です。
彫刻家 佐藤玄々によって、京都の貴船神社の山中にあった樹齢500年の檜を使い、約10年の歳月をかけて1960年に完成いたしました。
計画当初は6m程度の小さな像で予算も400万円でしたが、最終的には製作費1億5000万円(現在の価値で約10億円)の大作となりました。
今年の日本橋三越本店のテーマは「アート」。現代美術として再評価される天女像をアートの象徴として、日本橋三越本店は、これから、アートを楽しむ暮らしを提案していきます。 http://mitsukoshi.mistore.jp/…/nihombas…/history/list03.html
◆日本橋三越本店 本館1階 中央ホール

 《天女(まごころ)像》は三越にとって「アートの象徴」なのですね。
Ron.

碧南市藤井達吉現代美術館「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)では「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」(以下「本展」)を2月24日(日)まで開催しています。「天才と呼ばれた稀代の彫刻家」という副題に誘われ、碧南まで足を伸ばしました。以下は、作品を見た感想です。
◆展示の構成
本展の入り口は2階。「碧南市制70周年記念事業」かつ「開館10周年記念」という位置づけで、1階と2階にある4つの部屋すべてを使った大掛かりな展示でした。2階は概ね時代順の展示、1階は東京・日本橋三越本店の《天女(まごころ)像》関連の展示です。
佐藤玄々の本名は清蔵、旧号は朝山。作品の制作時期ごとに使っていた名前が違うため、本展の名称が「佐藤玄々(朝山)」となっているようです。出品リストも時代区分ごとに(清蔵)(朝山)(玄々)と、その時期に使っていた名前を添えていました。
◆Ⅰ.修業時代(清蔵)
 本展のキーワードは「天才」。10代で制作した木彫からも「天才」ぶりを感じました。墨絵の展示もありました。木彫だけでなく、墨絵も上手いですね。
◆Ⅱ.大正期 留学まで(朝山)
 デビュー作の《永遠の道(問答)》でびっくりしたのは、向かい合っている師(婆羅門)弟子(釈迦)が異常に接近していることです。黒澤明監督の映画「椿三十郎」ラストの「椿三十郎」を名乗る素浪人(三船敏郎)と室戸半兵衛(仲代達也)の決闘シーンのような緊迫感がありました。《沙倶牟多羅姫と陀遮迦陀王》は台座にも彫刻をしている大作です。
《花林》は、何故か前のめりになった女性像。「芸術新潮」2018年11月号特別企画の対談では、増淵鏡子・福島県立美術館学芸員が「おそらく、木の流れをそのままに彫っているのではないかと思います。(略)木への信仰心のようなものでしょうか」と話していました。
《上宮太子(聖徳太子像)》はシンプルなフォルムで、愛知県三河地方各地に伝わる素朴な土人形を連想し、《鹿》からは新年に熱田神宮で買った一刀彫の「えと守」を連想しました。
大正期に佐藤玄々が渡仏してブールデルに弟子入りして制作した、ブロンズ像の《女性像》《達磨》も展示されています。
◆Ⅲ.昭和初期(朝山)
昭和初期の展示は、二つの部屋に分かれています。二つの部屋の境に展示されているのが《白菜》と《筍》。どちらも「食べ物」ということで、美術館のカフェではこの《白菜》《筍》をイメージした和菓子セットを期間限定メニューとしています。
最初入った部屋最後の展示《白菜》はリアルに彩色された作品ですが、敢えて鑿跡を残し「私は木彫ですよ」と主張している作品でもあります。見飽きません。
次の部屋最初の展示《筍》は本展チラシの表面に使われている作品です。「当然のことだけど、実物は2次元のチラシ画像より遥かに迫力があるな」と思ったら、同じ題材の作品が二つ展示されているではありませんか。二つの作品は「まったく同じ」ではなく、微妙に違っています。何度も見比べ「部屋の入り口ではなく、その奥に展示されている作品をチラシに使ったのでは」と最終的に判断しましたが、果たして正解だったでしょうか。佐藤玄々は《筍》の他にも、「鼠」「鷹」「銀鳩」など同じ題材で、少しずつ異なる複数の木彫を制作しています。
小品ですが、「これは凄い!」と思ったのが《蜥蜴》です。トカゲが枯れた竹にまたがっているという作品ですが、トカゲも竹も同じ木を彫ったのだとは信じられないほどリアルです。《冬眠》は一見大きな土の塊。説明を読んでようやく、ヒキガエルだとはわかりました。「リアルだが抽象彫刻のようにも見える」という趣旨の説明もあり、その通りだと思いました。
◆Ⅳ.昭和戦中戦後(清蔵)
 戦中戦後の作品で一番目を引くのは《神狗》。オオカミのような極彩色の狛犬で、迫力があります。大小2点の作品が展示されており、小さな作品は熱田神宮所蔵、大きな作品は妙心寺大心院所蔵。小さな作品は習作で大きな作品が最終作品だと思いましたが、よく見ると大きな作品の頭部には切り込みがあります。どちらも習作で「完成品は熱田神宮に鎮座している」ということなのでしょうか。
ツギハギの《和気清麻呂(習作)》も見ものです。展示室にあるパネルの解説を読むと、佐藤玄々はブロンズ像の試作を木彫で作ったので「木材をツギハギして作品のボリュームを変更した」というのです。完成したブロンズ像がどこにあるのかと探したら、2階の本展入り口を入ったところに皇居大手濠に設置されている和気清麻呂像(1940)の写真パネルがありました。
◆Ⅴ.《天女(まごころ)像》(玄々)
 1階に降り向かって左側の部屋に入ると、東京・日本橋三越本館の《天女(まごころ)像》(以下《天女像》)関連の展示があります。入口の脇に展示されているのはド派手な《麝香猫》。《天女像》との関連はわかりませんが、「極彩色の木彫」という点では同じですね。
佐藤玄々のアトリエがあった妙心寺大心院が所蔵している《天女(まごころ)像(習作)》は真っ黒で、シルエットのような木彫。これが《天女像》の原点なのでしょう。この部屋に展示されている手、腕、花弁、雲など様々な《天女像》関連の試作を見て、「佐藤玄々は膨大な人手と時間とお金をかけて《天女像》を制作したのだ」ということがわかりました。
◆《天女(まごころ)像》の3D映像
 本物の《天女像》は高さ11メートル総重量6,750トンで、日本橋三越本店から美術館まで運んで展示することは不可能。本展では最後の部屋で《天女像》の3D映像を上映していました。3D映像を見ると、「天女」よりも光背のほうが遥かに大きいのです。また、背面には飛んでいる鳥の彫刻が数多く配置され、「背面のほうが豪華なのでは」と思うくらいでした。
最初は「天女の表情がどぎつすぎる」と感じたのですが、「日本橋三越本店の《天女像》は間近ではなく遠くから眺めるものなので、これくらいどぎつくて丁度いいのかもしれない」と思うようになりました。舞台俳優の化粧がどぎついのと同じです。
◆1階ロビーでは《天女(まごころ)像》除幕式の記録を上映
1階ロビーではTV受像機で昭和35年(1960)4月19日に開催された《天女像》除幕式の記録映画を上映していました。上映時間は17分。映画のラスト近くで「《天女像》には化学的に合成した岩絵の具を使用。一部には木彫原型を使用した金属や化学合成素材も使われている」という説明がありました。
◆最後に
 「天才と呼ばれた稀代の彫刻家」という本展の副題は間違っていませんでした。おすすめです。見逃せませんよ。
なお、名古屋市美術館協力会では2019年2月17日(日)午後2時から「生誕130年 佐藤玄々(朝山)展」鑑賞ミニツアーを開催します。詳しくは、協力会のホームページをご覧ください。
                            Ron.

「きみはモディリアニーニを知っているか」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「高校生のための美術鑑賞入門講座」(高校生のための芸術の日の企画)

名古屋市美術館協力会から届いたチラシで、深谷克典・名古屋市美術館副館長の講演が開催されることを知り、名古屋市美術館(以下「市美」)に行ってきました。以下は講演を要約筆記したもので、見出しと(注)は私(Ron.)が補足しました。

◆高校生のための芸術の日について
本日は「高校生のための芸術の日」です。この「高校生のための芸術の日」は、名古屋市美術館としては初めての試み。お隣の名古屋市科学館では以前から、「高校生のための科学の日」を定めて高校生のための科学の祭典を開催しています。そして、「科学だけでなく美術でも」という話があり、今回「高校生のための芸術の日」の行事として「高校生のための美術鑑賞入門講座」を開催することになりました。
座席を見渡すと、現役の高校生に混じって「だいぶ前に高校生だった人」も参加しているようですが「対象は高校生だけでなくどなたでもOK」の講座ですから、ご心配なく。

◆きみはモディリアーニを知っているか
講演のタイトルは、ご覧のとおり「きみはモディリアーニを知っているか」です。お気づきの人もいらっしゃると思いますが、このタイトルはベストセラーの「君たちはどう生きるか」をもじりました。
さて、現役の高校生の皆さんに質問です。皆さん、モディリアーニを知っていますか?(注:挙手なし)そうですか。それでは、《おさげ髪の少女》は知っていますか?(注:挙手あり)《おさげ髪の少女》は知っている人が多いようですね。
《おさげ髪の少女》は市美が開館する一年ほど前に購入した作品で、市美の「看板娘」と呼ばれています。東京や関西からこの作品を見るため、市美に来る人も多く、先ごろ亡くなられた、スタジオ・ジブリの高畑勲さんも「《おさげ髪の少女》を見るために名古屋に来る」という方でした。
《おさげ髪の少女》の作者アメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)は1884年生れで1920年死去。2020年は「没後100年」に当たります。

◆市美の収集方針は
スライドは市美の収集方針です。ご覧のとおり、1.郷土の美術(注:画像は宮脇晴《自画像》)、2.エコール・ド・パリ(注:画像はマルク・シャガール《二重肖像》)、3.メキシコ・ルネサンス(注:画像はディエゴ・リベラ《プロレタリアートの団結》)、4.現代美術(注:画像はフランク・ステラ《説教》)の4分野です。

◆現代と近代の区分は
「現代美術」という時「現代と近代はどのように区分されるのか」ということですが、美術の場合は現代と近代の区分について特に決まった定義はありません。一般的には第二次世界大戦後を「現代」としていますが、市美では「おおむね1980年代以降」を「現代美術」に区分しています。ただし、例外もあります。

◆エコール・ド・パリについて
スライドの写真は地元の作家・荻須高徳(1901~1986)。稲沢市出身の洋画家です。彼は1927年から40年までパリに滞在した後に帰国。1948年に再渡仏して1986年までフランスで活躍し、当地で死去されました。この荻須高徳にゆかりのある芸術家の集団がエコール・ド・パリ(École de Paris)です。エコールには「学校」又は「学派」という意味があり、「エコール・ド・パリ」は「パリ派」と翻訳されています。
エコール・ド・パリの主な作家は、ドンゲン(オランダ)、ブランクーシ(ルーマニア)、パスキン(ブルガリア)、モディリアーニ(イタリア)、アーチペンコ(ウクライナ)、ザツキン(白ロシア)、リプシッツ(リトアニア)、シャガール(白ロシア)、キスリング(ポーランド)、スーチン(ロシア)、藤田嗣治(日本)などです。国籍を見てください。彼らは、いずれもフランス国籍ではありません。
エコール・ド・パリの作家は主に、パリ南部の14区・モンパルナス(Montparnasse)に集まっていました。パリには1区から20区までの行政区があります。1区はパリの中心地で、そこから時計回りに2区、3区と、らせん状に行政区が並んでいます。19世紀半ばから後半まで、当時場末だったパリ北部の18区・モンマルトル(Montmartre)は物価が安く、芸術家たちが集まっていました。20世紀になると、モンマルトルが発展して住みにくくなり、エコール・ド・パリの作家はモンパルナスに集まるようになったのです。

◆狂騒の1920年代
スライドは1920年代に撮影された仮装パーティーの写真です。この時代、人々は仮装パーティーを頻繁に開きました。1920年代は「狂乱の時代」「狂騒の時代」(英:Rolling Twenties、仏:Les années folles)と呼ばれ、人々は第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた、この平穏な時代を刹那的に楽しんだのです。写真に写っている眼鏡の人物は、女装した藤田嗣治です。1920年代の彼は「名前を知らないものは無い」というほどの有名人でした。
ヘミングウェイが書いたエッセイ「移動祝祭日」(英:A Moveable Feast、仏:Paris est une fête)を読むと、当時の雰囲気がわかります。ヘミングウェイは1920年代をパリで過ごしており、エッセイに書かれた「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」という文が有名です。

◆モディリアーニについて
スライドは1958年に公開された映画「モンパルナスの灯」に出演したジェラール・フィリップ(Gérard Philipe、モディリアーニ役)とアヌーク・エメ(Anouk Aimée、妻・ジャンヌ役)の写真です。ジェラール・フィリップは「フランスのジェームス・ディーン」と呼ばれた俳優。アヌーク・エメはアヌーク・エーメとも言いますが、この映画で人気を博し、映画「男と女」でもヒロインを演じています。(注:イタリア映画まで範囲を広げると、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「甘い生活」「8 1/2」にも出演しています)なお、「モンパルナスの灯」は日本公開時の題名で、原題は「モンパルナスの恋人たち」(Les amants de Montparnasse)でした。
モディリアーニは様々な伝説のある作家で、有名なものは「モディリアーニが36歳の若さで死んだ二日後、二人目の子供を妊娠していた妻のジャンヌはアパートから身を投げて自殺した」というものです。モディリアーニはエピソード先行で見られるため、作品が歪められて評価されがちな作家です。映画の影響も強く、誤解を受けることも多かったようです。モディリアーニの評価に伝説や映画の影響がなくなるのは、最近のことです。
スライドはモディリアーニの写真です。イケメンでしょう。「モンパルナスの灯」を監修したジャン・コクトーは「映画のジェラール・フィリップよりもモディリアーニ本人のほうが遥かに男前だった」と語っています。
次のスライドはモディリアーニの裸婦像です。2015年のオークションで売れた上の作品には210億円の、2018年のオークションで売れた下の作品には172億円の値がつきました。モディリアーニは、生前ほとんど絵が売れませんでしたが、今では天文学的な価格で作品が売買されています。
モディリアーニは1884年7月2日、イタリア・トスカーナ地方の港町リヴォルノに生まれました。リヴォルノはフィレンツェの西に位置し、ユダヤ人が多かった町です。
1906年1月、22歳のモディリアーニはパリに出て、モンマルトルに住みます。1910年頃から彫刻に専念し、絵画を描かなくなります。しかし、幼いころ肋膜炎などに罹っているモディリアーニは、体力を必要とする彫刻を続けることが難しくなり、再び絵画を制作することになります。

◆美術品の海外流出について(少し脱線)
スライドはモディリアーニ《ユダヤ女》で、2008年に市美で開催したモディリアーニ展(開館20周年記念)に出品した作品です。当時、大阪市在住の個人が所有していました。しかし、先日、当人に問い合わせたら「2015年にオークションで売却した」とのことでした。
日本にある美術品のうち、個人や企業が所有していたものが、ここ10年、めちゃくちゃな勢いで海外に流出しています。モネの作品も、かつては日本に200点あったのが、今では100点ほどに減っています。バブルの頃に収集した作品は、バブル崩壊直後にはそれほどでもなかったのですが、特にここ10年ものすごい勢いで海外に流出しています。この現象は「日本の凋落の証拠」だと思います。

◆再びモディリアーニについて
スライドは、20世紀初めにおけるピカソの作風の変化です。1907年から1920年の間に、同じ作家とは思えないほど目まぐるしく作風を変えていますね。
ピカソは極端な例ですが、20世紀の初めは前衛的な風潮が主流になったものの、第一次世界大戦が終わった後は社会のあらゆる層で「秩序への回帰」が起き、美術の分野でも写実的、伝統的表現に戻っていきました。
スライドは1912年のサロン・ド・ドートンヌ=秋の展覧会の写真で、モディリアーニは彫刻を出品しています。20世紀の美術はアフリカ、オセアニアの彫刻に影響を受けており、モディリアーニの作品にもアフリカの仮面など影響が見られます。
モディリアーニの絵画は、ほとんどが人物画で、静物画が少し、風景画はありません。スライドの《黄色いセーターのジャンヌ》は1918年制作で「縦に長い体型で目に瞳がない」という特徴があります。ただ、この特徴はモディリアーニだけのものではありません。「縦に長い体型」は、マニエリスム(注:ルネサンス後期の美術。美術史ではルネサンスとバロックの合間)のイタリアの画家・パルミジャーノ《首の長い聖母》に例があり、「瞳のない目」はゴシック期のイタリアの彫刻家・ティーノ・ディ・カマイーノの彫刻に例があります。さらに言えば、モディリアーニはこれらの作品を、ボッティチェリの《ヴィーナス誕生》や《春》などの伝統を意識しながら描いたのだと思います。
ここで、実験です。《黄色いセーターのジャンヌ》の首を通常のプロポーションに直した絵を用意しました。オリジナルの絵と並べたスライドをお見せします。いかがですか?首を通常のプロポーションに直すと、作品のインパクトが減りますね。
モディリアーニには瞳を描いた人物画もあります。「瞳の有、無」で、その影響を比べてみましょう。ご覧のとおり、瞳が無いと表情が消えてしまいますが、その反面、形や色に注意が集中します。一方、瞳があると表情に意識がとらわれてしまいます。彫刻でも比べてみましょう。やはり、瞳の無いほうが造形性に目が行きますね。

◆《おさげ髪の少女》のモデルは誰?
市美の看板娘《おさげ髪の少女》のモデルは「近所にいた10代前半の女性」と言われており、「モデルは誰か」ということは、それ以上追及してきませんでした。ところが、最近、スイスの美術館が所蔵するモディリアーニの作品のモデルが分かったことから、《おさげ髪の少女》のモデル探しが始まりました。
モデル判明の経緯ですが、ある日本人画家が自伝のなかで「自分の奥さんが若いころ、モディリアーニのモデルをしたことがある」と書いたことから、その奥さんがスイスの美術館が所蔵するモディリアーニの作品のモデルと同一人物だと分かったのです。モデルになった女性ですが、最初は藤田嗣治が自分のモデルに採用しました。その後、彼女はパリに出てきて、モディリアーニのモデルを務めたのです。
スライドを見てください。藤田嗣治が描いた彼女の絵とスイスの美術館が所蔵する作品、《おさげ髪の少女》を比べると「3つの絵は同じ女性を描いたのでは」と思えてくるのです。ただし、この推理に確たる証拠はありません。

◆偽物と本物の判別
テレビ番組「開運 なんでも鑑定団」では、「真っ赤な偽物です」と鑑定されることが良くありますね。実は、モディリアーニは「にせものが多い作家」です。作品の特徴がはっきりしており、マネしやすいことから贋作=偽物が出回るのです。日本でも国立の美術館が購入したモディリアーニの作品に贋作説が出て、国会で追及されたことがありました。
今から、皆さんに偽物と本物の判別をしていただきます。スライドには2枚の絵があります。一つはモディリアーニの贋作者エミール・ド・ホーリー(Elmyr de Hory)、もう一つはモディリアーニの作品です。いかがですか?左の絵が本物だと思う人は手を上げてください。一名だけですか。それでは、右の絵が本物だと思う人は手を上げてください。かなりいらっしゃいますね。本物は「右の絵」です。なかなか、お目が高いですね。
「開運 なんでも鑑定団」を見ていて「本物と偽物を見分けることは、本当にできるのか」と疑わしく思った経験をお持ちの方もいらっしゃると思いますが、見分けることはできるのです。その理由を言う前に、一つお話をします。

◆羊飼いの話
100匹の羊の世話をしている羊飼いがいました。ある時、羊飼いは1匹の羊がいないことに気がつきました。この羊飼いは、羊の数を数えていません。数えなくても、羊が1匹いなくなったことがわかったのです。
それでは、皆さんに質問です。なぜ、羊飼いは羊の数を数えなくても羊が1匹いなくなったことがわかったのでしょうか?
いかがですか。むずかしいですか。お答えが無いようなので、答えをお教えします。
その理由は「羊飼いは羊の顔が分かるから」。
我々が見ると、どの羊も同じ顔に見えますが、羊飼いは羊が100頭いても、その一頭一頭の顔の違いが頭に入っているのです。だから、一頭でもいなくなったら気がつくのです。
絵画も同じです。毎日見ていれば真贋の見分けがつくようになります。いいものをたくさん見ていれば、無意識のうちにデータベースができて、いいものが分かるようになるのです。
いろいろな世代のなかで、いちばん美術館に来ないのが「高校生」です。一方、高校生など10代の後半は、物事をいちばん吸収する世代でもあります。新鮮な感受性を持って、たくさんの経験をして、その経験を養分にしていただきたいと思います。
これで、私の講演は終わりです。最後まで聞いていただき、ありがとうございました。

◆最後に
「対象は高校生に限らずどなたでもOK」という言葉どおり、どの世代でも楽しめる講演でしたが、今後のことを考えると「高校生向け」という姿勢は大事だと思います。これからも開催していただきたいですね。
「羊飼いの話」の質問、だれも正解を答えられませんでしたが、NHKのチコちゃんとは違って「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱られることもなく、ほっとしました。そして、「たくさんの本物・良いものを見る」ことはいくつになっても大切だと、改めて認識することができました。ありがとうございました。
Ron.

充実した収蔵品が話題の静岡近代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「芸術新潮」2019年1月号に面白い記事があったので、ご紹介します。127ページの「ARTCafe 芸術新潮と読者を結ぶページ 1|JANUARY」に掲載されていました。内容は以下のとおりです。

国内外の近代美術の巨匠がずらり 充実した収蔵品が話題の静岡近代美術館
文・功刀知子(以心伝心)
 (注:記事の文字は「功」ではなく、旁が「刀」でした)
静岡市葵区にある静岡近代美術館。ここは徳川十五代将軍慶喜公の住まいがあった場所で、駿府城公園や静岡浅間神社にもほど近い。閑静な住宅街に囲まれて立ち、2016年に開館した時は知る人ぞ知る「隠れ家的」美術館だったが、近頃その収蔵品の質の高さが密かに話題を呼んでいる。収蔵品は県内で衣料品会社を経営する大村明館長が、10年程前から集めた約400点の絵画コレクションで、季節ごとにテーマ展示する。コレクション作家のラインアップが凄い。藤島武二、岡田三郎助、和田英作、梅原龍三郎、安井曾太郎、中川一政、林武、小山敬三、荻須高徳、小磯良平ら文化勲章受章者の他、熊谷守一、藤田嗣治、佐伯祐三など、日本の近代美術史を彩る豪華な顔ぶれがずらりと揃う。さらには、ルノワール、コロー、マルケ、ヴラマンク、ユトリロ、ローランサン、シャガール、ビュッフェといった海外作家の優品も常設展示されている。現在は「梅原龍三郎展・熊谷守一展」を開催中だが、出品作のクオリティは個人コレクションとは思えぬハイレベルだ。「地元文化力アップに貢献したい」と語る館長だが、その思いは静岡県民だけにとどまらず、他県からも共感を呼んでいる。
●梅原龍三郎展・熊谷守一展/会期:~2019年1月27日/休館日:月曜・火曜/会場:静岡近代美術館 静岡市葵区西深草町4-5/開館時間:10:30~16:00(入館は~15:30)/問合せ:☎054-255-5556 shizuoka-kinbi.jp

上記の文章を書いた方についてインターネットで調べると「株式会社以心伝心の代表取締役・功刀知子」さんでした。また、Facebookの自己紹介には「美術雑誌作りに携わって、はや20年以上。「美術の窓」を経て、いまは主に月刊「アートコレクター」の営業・編集を致しております。連載では「美術の窓」と「アートコレクター」の両方で山下裕二先生を担当。「今月の隠し球」では毎回、「タヌキ」の愛称で登場させていただいてます。(略)」と書いてあります。なお、「今月の隠し球」は「美術の窓」の連載記事です。
静岡近代美術館、開館時間は少し短いですが気になりますね。
Ron.

2018ArtLabTokyoここにもアートラボ 石切り場 前室にて 音のアーキテクチャ トンネルでピクニック 佐川美術館 ギャラリートークの様子 展示会場で話をきく会員たち 泉屋博古館にて まずは講堂でレクチャを聴く会員たち 会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます! 「回生の苗床」 光内惟奈 燃やせないもの 夢見たものは 展示室で解説を受ける会員たち