お知らせ

2024年8月23日

2024年協力会イベント情報

お知らせ

深谷さんによる再度のヨーロッパ滞在記講演が決まりましたので、ご案内いたします。前回はホームページでの告知のみで見逃してしまった会員の方も多くいらっしゃったと思いますので、今回はお見逃しなく!協力会会員の方は、時間までに名古屋市美術館講堂にお集まりください。事前申し込みは必要ありません。

1.深谷さんによる、ヨーロッパ最新美術展覧会の報告会

日時:令和6年10月12日(土)午後3時半より、名古屋市美術館講堂にて

主目的はドイツ、ポツダムのバルベリーニ美術館で開催中の「モディリアーニ展」。同館は印象派のコレクションでも有名で、モネだけで30点以上!を所蔵しています。 またパリのオルセー美術館では第1回印象派展を再現する展覧会が開かれています。2024年は第1回展が開かれた1874年から150周年にあたるために企画されたものです。 他にも間もなく改修工事のために閉館するポンピドー・センターではブランクーシの回顧展、ブーローニュの森にあるルイ・ヴィトン財団ではマティスとエルズワース・ケリーの展示など、面白そうな企画が目白押し。最新のヨーロッパ美術館事情をご報告したいと思います。

 

現在、下記のイベントの申し込みを受け付けています。

1.民藝展ギャラリートーク 名古屋市美術館 令和6年10月12日 午後5時より

参加希望の会員の方は、ファックスか電話でお申し込みください。ホームページからの申し込みも可能です。

参加の際は、感染症対策にご協力をお願い致します。、体調の優れない場合は、参加をご遠慮ください。

最新の情報につきましては随時ホームページにアップさせていただきますので、そちらをご確認ください。皆さま方にはご迷惑をおかけしますが、なにとぞご理解のほど、お願いいたします。

また、くれぐれも体調にはご留意ください。

秋の旅行について

令和6年度の秋の旅行は、岐阜方面への旅となります。

日時は、令和6年11月9日土曜日、行先は、せきがはら人間村生活美術館と岐阜県現代陶芸美術館「荒川豊蔵展」です。会員の皆さまには申し込み方法など、郵送で案内を送っておりますので、それに従ってお申込みください。

これまでに制作された協力会オリジナルカレンダーのまとめページを作りました。右側サイドメニューの「オリジナルカレンダー」からご覧ください。

事務局

人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒について

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 名古屋市美術館協力会から7月19日付で「秋のツアー 2024」の開催日は11.09(土)、目的地は関が原人間村生活美術館と岐阜県現代陶芸美術館(以下「陶芸美術館」)になった、との通知がありました。

 陶芸美術館で見学するのは「生誕130年 荒川豊蔵展」。岐阜県多治見市出身で「志野」と「瀬戸黒」の無形需要文化財保持者(人間国宝)となった荒川豊蔵の人となりを振り返る展覧会、とのことです。

 以下は、人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒に関する書籍の抜き書きとSNS記事の紹介です。

1 人間国宝(重要無形文化財保持者)について

 1950(昭和25)年5月に制定・公布された「文化財保護法」は1954(昭和29)年5月に改正され、無形文化財の価値の観点から、その「わざ」を高度に体得している者(又は正しく体得し、かつそれに精通している者)を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)として認定するよう定められた。

 この新制度のもと、陶芸の分野では1955(昭和30)年2月に〈色絵磁器・富本憲吉〉〈鉄釉陶器・石黒宗麿〉〈民芸陶器・濱田庄司〉〈志野・瀬戸黒・荒川豊蔵〉について、1956(昭和31)年4月に〈備前焼・金重陶陽〉について、重要無形文化財の指定及び保持者の認定が行われた。

出展:『人間国宝事典 工芸技術編』 美術品出版株式会社 芸艸堂 2009年9月28日発行(以下「A」)p.8

2 人間国宝・荒川豊蔵について

 荒川豊蔵(あらかわとよぞう)は1894(明治27)年3月21日生まれ、1985(昭和60)年8月11日没。1922年京都宮永東山窯の工場長となり、その後、北大路魯山人が鎌倉に築いた星ケ岡窯の窯場主任となる。1930年美濃大萱(おおがや)で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯趾を発見、1933年この古窯趾の近くに桃山時代と同様の半地下式の単室窯を築き、窯跡から発見した陶片をたよりに、桃山の志野・瀬戸黒の復興に尽力した。1955年重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者に認定。1965年紫綬褒章。1971年文化勲章。

〇 桃山時代の古窯跡を発見した経緯

1930(昭和5)年4月、星ケ岡窯の展覧会が名古屋で開かれた時、同地で筍の絵のある志野筒茶碗を見せてもらったのが機縁となって、故郷に近い現在の可児市久々利大萱で、桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸を焼いた古窯趾を発見した。その事は、桃山の志野は瀬戸で焼かれたという通説を覆す画期的な発見となった。(略)

出展:前出A、p.21

3 志野(しの)について

志野は、桃山時代の天正(1573~91)・文禄(1592~95)の頃、現在の岐阜県多治見市、土岐市、可児市、笠原市にまたがる東美濃地方で焼かれたわが国独特の陶芸である。(略)

 志野は幾つかの様式に類別されるが、(略)桃山時代のものでは文様のない無地志野、鬼板(おにいた)と呼ばれる酸化鉄の泥漿で釉下に簡素な文様を描いた絵志野、鬼板の泥漿を化粧掛けし、文様を白く象嵌風に表した鼠志野、鬼板の化粧掛けの上に長石釉を薄く掛けて赤く発色させた赤志野がある。(略)

出展:前出A、p.22

4 瀬戸黒(せとぐろ)について

瀬戸黒は、志野・黄瀬戸とともに、桃山時代に、現在の岐阜県可児市大萱周辺で焼かれた茶陶である。(略)轆轤で成形された直截な円筒形の茶碗で、底が平たく、高台は極めて低く小さい。16世紀後半の天正(1573~91)頃に最もすぐれたものが焼かれたので「天正黒」と呼ばれる。

 釉薬は長珪石と土灰(雑木を焼いた灰)を合わせ、これに鬼板を加えたもので、志野と同じ窯に入れて焼く。温度が1,150度ぐらいに上って、釉薬が熔けはじめたころを見はからって、色見穴から鉄の鋏で茶碗を挟み、窯の外に引き出して急冷すると、漆黒色に発色するので、一名「引出し黒」とも呼ばれる。

 鉄鋏が届く範囲が限定されるので一窯に窯詰めされる数は、せいぜい15箇ぐらいと言われる。引き出しの時機によって漆黒の釉調に変化が表われ、古来その豪快な作調とともに侘びた味わいが賞玩される。

出展:前出A、p.20

補足:SNSで「瀬戸黒の技法」(URL:瀬戸黒の技法 (touroji.com))を検索すると「高台の周りに釉薬がかかっていない」ことが瀬戸黒の特徴だと分かります。また、名古屋市博物館所蔵の黒楽茶碗(URL: 黒楽茶碗 銘「時雨」と森川如春庵|名古屋市博物館 (city.nagoya.jp)を検索すると、黒楽茶碗は高台まで釉薬で覆われており、瀬戸黒との違いがはっきり分かります。

5 美濃・瀬戸の陶磁器の歴史

 古代から中世にかけて、愛知県周辺の陶器焼成には一般に「窖窯(あながま)」と呼ばれる、丘陵の傾斜地を地表に沿って掘り、トンネル状に構築された半地下式ないし地下式の単室窯が用いられてきた。(略)戦国時代の大規模窯業地は瀬戸・美濃、常滑、越前、信楽・伊賀、丹波、備前の六カ所に限定されることから、当期は「六古窯の時代」とも呼ばれる。(略)窯業考古学においては、当期の瀬戸窯は県境を挟んで隣接する岐阜県の美濃窯と一体的にとらえて、「瀬戸・美濃窯」と称している。(略)16世紀後半、瀬戸市域における窯炉の存在が確認できず、岐阜県土岐市など岐阜県東濃地域において陶器生産が展開したようである。この現象は(略)「瀬戸山離散」と呼ばれる。かつては戦国の戦乱にともなう陶工の流出と解されてきたが、近年は織田信長による産業経済政策の一環としての陶工の移動と評価されつつある。瀬戸市域における陶器生産の再開は、江戸時代初期における尾張藩と名古屋城下町の成立を待たねばならなかった。(略)

出展:梅本博志 編 『日本史のなかの愛知県』 株式会社山川出版社 2024年5月31日発行 所載の 4章〈中世〉やきもので見る中世愛知 執筆者 小川浩紀・愛知県陶磁美術館学芸員 p.83

補足:つまり、16世紀後半の陶器生産は東農地方で展開されましたが、江戸時代初期、尾張藩の初代藩主・徳川義直が美濃の陶工を呼び戻したことにより、瀬戸で陶器生産が再開した(出典URL: 歴史 | 知る | 瀬戸焼振興協会 (setoyakishinkokyokai.jp))ということです。

6 志野の歴史

志野の降盛期は天正年間(1573-91)から慶長年間(1596-1614)の初頭にかけてのことで、美術史的には安土挑山時代に当たる。この桃山時代には美術工芸の活力が最も充溢し、和物志向が強まり、侘び茶が流行して、陶芸文化が花開いた。志野、瀬戸黒、黄瀬戸、織部が茶の場の美的感性に裏打ちされ、変化に富んだ新しい造形美を展開したといってよい。

慶長以後の陶芸史では、京都でやきものが新しく興隆し、同時に志野陶の内容が低下した。製陶の中心が肥前に移る江戸時代には、釉胎、器形、作風ともに劣り、幕末の加藤春岱(しゅんたい)の志野などもあるが、桃山志野に比べるといずれも冴えが足りない。明治時代以後の志野作りは瀬戸の赤津が中心で、春岱風志野が有名である。(略)

出展:責任編集・大滝幹夫『人間国宝の技と美 陶芸名品集成 一 陶器』 発行2003年7月15日 発行所 株式会社講談社 所載の「日本陶芸小史」執筆者 大滝幹夫 p.158

補足:志野の隆盛期は桃山時代。その後、京焼の興隆と同時に志野の内容は低下。江戸時代から幕末・明治以降、志野の制作は瀬戸が中心だった、ということです。なお、加藤春岱については、瀬戸市美術館で「稀代の名工 春岱」(URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)が開催されました。

7 人間国宝・荒川豊蔵に関する「読み物」

 人間国宝・荒川豊蔵について、古志野の陶片発見後に起きた北大路魯山人との決別や志野・瀬戸黒の再現に至るまでの生活苦の中での粘り強い努力、荒川豊蔵が制作した茶碗の図版などを盛り込んだ記事が下記のURLで閲覧できます。「学術記事」ではなく「読み物」として書かれているので、とても読みやすいですよ。

URL: 美濃桃山陶を再び!人間国宝・荒川豊蔵の『志野再現』と作陶にかけた人生に迫る! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)

Ron.

展覧会見てある記「松本竣介《街》と昭和モダン」碧南市藤井達吉現代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.08.07 投稿

現在、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「松本竣介《街》と昭和モダン」(以下「本展」)を見てきました。以下は、本展のレポート・感想です。

◆本展の成り立ち

美術館の受付で受け取ったチラシには、本展は公益社団法人糖業協会(以下「糖業協会」)の日本近代洋画コレクションと、公益財団法人大川美術館(以下「大川美術館」)のコレクションから選りすぐった約140点による、「昭和モダン」をテーマに構成した展覧会、と書かれています。後で調べると、糖業協会は1936年設立。公益事業として、全国の国公立等の美術館へ所蔵美術品の貸し出しを行っています(注1)。また、大川美術館は桐生市出身の実業家・大川栄二氏が収集したコレクションを中心として1989年に開館した美術館。大川美術館のURLに掲載された大川栄二氏の経歴は、1946年に三井物産株式会社入社、1969年ダイエー株式会社入社・副社長就任後、サンコー(現・マルエツ)社長、ダイエーファイナンス会長を経て勇退、というもの。「会長で勇退」ですから、優秀な社員だったのですね(注2)。

注1 URL:協会概要|公益社団法人糖業協会 (sugar.or.jp)

注2 URL:概要・沿革 | 大川美術館 (okawamuseum.jp)

◆第1章 自然をながめる(展示室1・2階)

〇第1章-1 海と山

本展の入口は2階。第1章は「海と山」から始まります。小振りな作品が並ぶ中、大画面に波が岩にぶつかり、真っ白な波しぶきが高く上がる様子を描いた松田文雄の《海(波)》(1959)が目を引きました。有島生馬は「有島武郎の弟の画家」という知識だけで作品は未見だったので、《春雪》(1940)を見ることが出来て、うれしくなりました。梅原龍三郎の作品は、愛知県美術館の「第2期コレクション展」で《北京紫禁城》(1939)を見たばかりでしたが、本展では《紫禁城の黄昏》(1939)、《桜島遠景》(1956)の2点を見ることが出来ました。本展の図録には「糖業協会の所蔵品はオフィスビルの部屋を飾るために購入、寄贈された作品群とされます」と書いてありましたが、確かに穏やかな気持ちで鑑賞できる多くの作品を見ることが出来ました。

〇第1章-2 くつろぎの庭

「くつろぎの庭」というサブタイトルのとおり、庭を描いた作品が並んでいます。その中で、萬鐵五郎《風景》(1926)と川口軌外《息子・京村のいる風景》(1927頃)は、少し雰囲気が違います。よく見ると、2点とも大川美術館の所蔵でした。2つのコレクションの所蔵品が出品されているので、収集傾向の違いを楽しむことができます。

◆第2章 テーブルの上の物語(展示室1・2階)

〇第2章-1 花の彩り

糖業協会の所蔵品の中に、フォービスムの里見勝蔵《椿》(1935)やシュルレアリスムの福沢一郎《花とてんとう虫》(1974)が入っていました。愛知県美術館の「第2期コレクション展」で見た里見勝蔵《裸婦》(1928-29頃)は激しい色使いの作品でしたが、《椿》は優しい感じでした。この外、三岸節子《花》(1986)にも目を引かれました。

〇第2章-2 静物のささやき

糖業協会所蔵の熊谷守一《玩具》(1957)、笠井誠一《独楽と玩具》(1977)と、大川美術館所蔵の靉光《洋梨》(1942)、川口軌外《静物》(1920)に目を引かれました。静物画では、収集傾向に大きな違いは感じられませんね。

◆第3章 松本竣介(展示室2・2階)

〇第3章-1 街

本展の核となる章です。本展では、松本竣介《街》(1942)だけは撮影、SNS投稿OKでした。大川美術館から出品作は、ほとんどが松本竣介のもので、他の作家の作品は野田英夫《無題(カフェにて)》(1938頃)と清水登之《パリの床屋》(1924)でした。本展の図録によれば、野田英夫はディエゴ・リベラの助手として壁画運動に携り、松本竣介が影響を受けた作家とのこと。《無題(カフェにて)》には《街》との共通点が見えます。清水登之の作品は、名古屋市美術館の「北川民次展」でも見ました。「北川民次展」の図録には「ニューヨークで北川民次と同じ美術学校に通っていた」と書かれていましたね。

なお、本展図録によれば、本展出品の松本竣介《ニコライ堂の横の道》(1941)との出会いが「大川栄二氏が美術収集を始めるきっかけだった」とのことです。

〇第3章-2 モダンガール

糖業協会の所蔵品を中心に女性像が並んでいます。安井曽太郎《女と犬》(1940)と東郷青児《羊飼》(1935)は、いかにも「昭和モダン」という感じの作品で、本展チラシに図版が掲載されています。また、猪熊弦一郎《婦人の像》(1941)はピカソ風の作品でした。以上3点はいずれも糖業協会の所蔵品ですが、長谷川利行《婦人像》(1937)と藤田嗣治《婦人》(1950-55)は大川美術館の所蔵品です。「モダンガール」には松本竣介の作品が数多く出品されており、《婦人像A》(1942)は油彩画、他にデッサンが9点あります。

〇ヨーロッパ留学の画家たち

荻須高徳《ヴェネツィア、リオ・テ・レ・ベカリエ》(1935)始め5点の大川美術館所蔵品を展示しています。

◆第4章 人の形-肖像画から人間像へ(多目的室A・2階)

多目的室Aでは、戦中から戦後の作品を展示。最初の作品は、松本竣介《自画像》(1943頃)です。7月27日(土)22:00に放送された【新美の巨人たち】「松本竣介・立てる像×緒方直人」を思い出しました。番組では松本竣介について、俳優の緒形拳が息子・緒方直人に「名前だけでも覚えておけ」と言った話や緒形拳が松本竣介の遺族宅を2度訪れて、遺されたデッサンを熱心に見ていた話が紹介され、《立てる像》を所蔵している神奈川県近代美術館の長門佐季・館長も出演していました。

この外、印象に残ったのは、戦死した息子を描いた清水登之《育夫像》(1945)、福沢一郎《作品》(1957)、秀島由己男の油彩画《コマと太郎》(1978)と版画5点(1972~1989)、浜田知明の《初年兵哀歌(歩哨)》(1952)を始めとする版画10点などです。浜田知明の作品は、三重県立美術館で開催された「シュルレアリスムと日本」でも《初年兵哀歌-風景(一隅)》(1957)他1点を見ました。

◆第5章 まだ見てない「かたち」 ― 幻想と抽象(展示室3・1階)

第5章は、全て戦後の作品。猪熊弦一郎《Hill》(1956)や桂ゆき《作品》(1965)などの抽象画や瑛九の幻想的な版画などが並んでいます。

◆令和6年度コレクション展2期「墨色百景」(展示室4・1階)

展示室4は、藤井達吉の作品を展示しています。出品作は10点ですが、うち2点は着物。松葉を描いた《白地松葉散し着物》と梅を描いた《白地梅絵着物》です。どちらの着物も袖から背中まで柄が繋がり、見事な仕上がりでした。作品の解説については、スマホアプリ「ポケット学芸員」のお世話になりました。

◆鑑賞を終わって

本展では、最近見た三重県立美術館「シュルレアリスムと日本」、名古屋市美術館「北川民次展」、愛知県美術館「第2期コレクション展」、テレビ愛知【新美の巨人たち】で見た作家の作品との出合いがありました。不思議な縁を感じますね。

◆美術鑑賞の後は

当日は、あまりに暑くて冷たいものが欲しくなり、道を横断して西に進んだ「K庵」で、かき氷を味わいました。「季節のおすすめ」3種(柚子みりんシロップのかき氷、いちごとみりん粕ミルクのかき氷、みりん粕クリームとほうじ茶のかき氷)の中から、好きなものが選べます。温かいほうじ茶もセットなので、有難いです(注3)。入口に予約機があるので、大人・子どもの人数を入力し、予約ボタンを押すと予約番号を印刷した紙が出て来ます。順番待ちの行列に並ばなくても良いので、番号を呼ばれるまで、お土産を物色することが出来ました。

注3 URL:K庵|九重味淋株式会社 (kokonoe.co.jp)

Ron.

展覧会見てある記「アブソリュート・チェアーズ」「第2期コレクション展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.07.03 投稿

愛知県美術館(以下「県美」)で開催中の「アブソリュート・チェアーズ」(以下「本展」)と同時開催の「2024年度第2期コレクション展」(以下「第2期展」を見てきました。以下は、そのレポートと感想等です。

◆「アブソリュート・チェアーズ」

県美に入り、廊下の奥に目をやると木箱が見えます。それが本展の目印。木箱に近寄ると、本展の受付がありました。この木箱は、本展の出品作家・副産物産店が制作した《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》(2024)。県美が使っていたロダンの彫刻の運搬箱に4本の脚をつけて「椅子」に仕立てた作品で、座ることも出来ます。運搬箱には彫刻の写真等が貼ってありました。

本展のタイトル「アブソリュート・チェアーズ:Absolute Chairs」は「唯一・絶対な椅子」という意味ですが、前記の《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》を見ると「反語的なタイトル」と思われます。「椅子」を主題にした展覧会ですが、本年4/18-5/5にジェイアール名古屋タカシマヤで開催された「椅子とめぐる20世紀のデザイン展」URL:椅子とめぐる20世紀のデザイン展 (takashimaya.co.jp) とは違い、岡本太郎《座ることを拒否する椅子》等が並ぶ「へそ曲がりの展覧会」です。でも、それが本展の魅力。「椅子とは何か」を考えさせる仕掛けがいっぱいでした。

★第1章 美術館の座れない椅子 Unsittable Chairs in Museum

本展は5章で構成。第1章のタイトルが「美術館の座れない椅子」。メインの作品がマルセル・デュシャン《自転車の車輪》(1913/1964)というのですから、挑戦的ですね。《自転車の車輪》と椅子の関係ですが、自転車の車輪の台座は4本脚の「丸椅子」なのです。見方を変えれば「椅子を使った作品」とも言えます。しかし、この丸椅子は「台座」ですから、人は座れません。その横に展示の竹岡雄二《マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1913)へのオマージュ》(1986)に描かれているのは「丸椅子」だけ、「自転車の車輪」は影も形もありません。シュールですね。

草間彌生《無題(金色の椅子のオブジェ)》(1966)は木製の椅子。しかし、詰め物の入った金色の小袋で覆われており、座ることは出来ません。なお、豊田市美術館の「コレクション展」では、この作品と同シリーズの《チェア》(1965)を、9/23まで展示中です。岡本太郎《座ることを拒否する椅子》(1963/c.1990)は5個で1組。「座ることを拒否」とはいえ、オレンジと黒だけは座ることができます。ジム・ランビー《トレイン イン ヴェイン: Train in Vain》(2008)は、切断した中古の椅子を組立て、バッグをぶら下げた作品。本展のチラシに使われていますが、椅子の機能としては「in vain=むだな」オブジェ。Absolute Chairsとは真逆ですが、それが狙いなのでしょう。

★第2章 身体をなぞる椅子 Tracing the Human Body

最初の作品は、フランシス・ベーコン《Triptych(三連画)》1974-77と《座れる人物》(1983)。崩れた人物を描いた作品ですが、ちゃんと椅子に座っています。アンナ・ハルブリン《シニアズ・ロッキング:Seniors Rocking》(2005/2010)は、ロッキングチェアに座った高齢者のエクササイズを撮った映像作品。水鳥の群れが水面に下りる場面もあります。

一番目立つのは檜皮(ひわ)一彦《Knitting_record [SPEC_APMoA]》(2023-2024)ですね。本展は「walkingpractice/CODE:Kitting_record [SPEC_APMoA]」という「ワークショップ」の参加者を本展のチラシで募集。その内容は、本展出品作家・檜皮一彦と共に「車いす編み機」を連れて名古屋の街を歩くというもので、実施は7/27(土)でした。本展では、ワークショップで使用した車いす編み機(車いすの動きに連動して円筒状のマフラーを織る機械)と編んだマフラーを展示。名古屋市の観光名所(名古屋城、名古屋市科学館、名古屋市美術館、愛知県美術館、セントラル・ブリッジ等)を巡ったワークショップの記録映像も併せて展示しています。当然ですが、本展チラシに掲載の画像は7/27に実施のワークショップのものではなく、埼玉県立近代美術館で実施した「荒川河川敷から埼玉県立近代美術館を目指して約7㎞の道のりを歩いた」イベントの写真です。

★第3章 権力を可視化する椅子 Chairs to Visualize Authority

最初の作品は、有名な現代美術コレクター夫妻を石膏で型撮りした肖像=ジョージ・シーガル《ロバート& エセル・スカルの肖像》(1965)です。夫妻が座っているソファが玉座(ぎょくざ)の役割を持ち、二人の権威を可視化する、という仕掛けになっているようです。クリストヴァオ・カニャヴァート《肘掛け椅子》(2012)は、写真だと分かりにくいのですが、実物を見れば、銃の部品を組み立てたアームチェアだと分かる作品です。アンディ・ウォーホル《電気椅子》(1971)は、新聞記事を元にしたシルクスクリーンの版画が10点。Wikipediaによると、電気椅子は絞首刑に代わる「人道的な死刑執行方式」として採用されたもの。映画『グリーン・マイル』(主人公の看守は死刑執行も担当)では、木製の椅子に被執行者を座らせて革ベルトで拘束し、高圧の電気を流す様子も描かれており、刑を執行する手順を一つ抜いて悲惨な結果になった場面は衝撃的でした。

ミロスワフ・バイカ《φ51×4, 85×43×49》(1998)は、電気コードで宙吊りになった椅子。作品名のφ51×4は、腕輪(椅子に取付け)と足元の足輪のサイズでしょうか? また、85×43×49は椅子のサイズでしょうか? 足元の大きな輪の中には塩。拷問具の雰囲気が漂っています。渡辺眸(ひとみ)の《東大全共闘 1968-69》は、安田講堂に立て籠もった全共闘の記録写真です。安田講堂の長椅子を取り外してバリケードにした写真は、見るからに痛々しいものでした。

★第4章 物語る椅子 Narrative Chairs

一番目立つ作品は宮永愛子《waiting for awaking – chair》(2017)。大原美術館を創設した実業家・大原孫三郎の別邸(有隣荘)で使われていた椅子をナフタリンで造形し、透明な樹脂に封じ込めた作品です。作品の説明には「樹脂に貼られたシールをめくるとナフタリンが気化する」と書いてあります。ナフタリンが全て気化すると、椅子の跡は空洞。シールで封印されている間、作品は目覚めを待っている(waiting for awaking)ということでしょうね。

潮田登久子(うしおだ・とくこ)《マイハズバンド》シリーズから、10枚(9/2021~1984/2023)の写真を展示。写真は、夫(島尾伸三・写真家、作家。父親は作家・島尾敏雄)と娘(しまおまほ・現在は漫画家)の日常風景を撮影したものですが、本展では、出品作に写り込んだ椅子に焦点を当ててるようです。確かに、写り込んだ椅子には存在感があります。

名和晃平《PixCell-Tarot Reading (jan.2023)》は、無数の透明な球体で覆われた椅子。韓国の作家YU SORA《my room》(2019)の連作4点は、綿を入れた白布に黒糸で、椅子に掛けた衣服を刺繍した作品。椅子に掛けられた衣服が何かを語りかけてくるようです。

★第5章 関係をつくる椅子 Chairs Which Establish Relationships

6展示室から8展示室に作品を展示していますが、オノ・ヨーコ《白いチェス・セット/信頼して駒を進めよ》(1966/2015)の展示場所は廊下の突き当り。タイトルどおり、チェスの駒は白・黒のセットではなく白・白のセットなので、先手・後手の駒を区別するには、自分の記憶と対戦相手への信頼だけが頼りです。正に、信頼の上に成り立つ「平和的なチェス・セット」ですね。

6展示室のミシェル・ドゥ・ブロワン《樹状細胞》(2024)は会議用の椅子で組み立てた球体。椅子の脚は全て外を向いているので、コロナウイルスのような攻撃的な物体に見えます。

7展示室には、本展受付の前に置かれていた《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》(2024)と同じ、副産物産展が制作した廃材を使った作品が並んでいます。ダイアナ・ライヒ《Interventions》(2020-)の連作写真は、人が公園ベンチに寝そべることを防ぐため、わざわざ中央部に肘掛けを取り付けたベンチなど、いわゆる「排除アート」を撮影したものです。花で装飾したベンチもありますが、底意地の悪さが透けて見えます。

8展示室は、映像作品《Re:ローザス!》を展示。《Re:ローザス!》はTVモニターで上映。この外、壁面にダンスワークショップ 「《Re:ローザス!》を踊る!」で募集したメンバーによるパフォーマンスを投影しています。上記のワークショップは本展のチラシで参加者を募集し、7/23~7/25に開催。ローザス創設メンバーの一人・池田扶美代氏が講師となって椅子を使ったダンスを講習。ワークショップに参加したメンバーは、覚えたダンスを芸文センター1階、2階、10階のロビーで披露。8展示室の映像は、ダンスワークショップで撮影したものを編集したようです。知り合いが写っているかもしれませんね。

(参考資料)埼玉県立美術館で開催された「アブソリュート・チェアーズ」展覧会評のURL

本展が巡回した埼玉県立近代美術館の展覧会評はネットで検索することができます。なかでも、以下に掲げた2つのURLは会場写真も掲載されているので、参考になると思われます。

「アブソリュート・チェアーズ」(埼玉県立近代美術館)レポート。ウォーホルやベーコン、名和晃平らの作品を通じて「椅子の絶対的魅力」に迫る|Tokyo Art Beat

芸術家たちは椅子を使って何を表現したか。 「アブソリュート・チェアーズ」 | FEATURE【アートニュース・特集記事】 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ (artagenda.jp)

◆2024年度第2期コレクション展

本展を鑑賞した後、同時開催の第2期展も鑑賞しました。通常なら企画展を開催する展示室を使っているので会場が広く、内容も見ごたえのあるコレクション展でした。いつもより質・量ともに多く「推し」の展覧会ですね。以下のとおり、4つの章で構成されています。

★県美の名品、裏話(展示室2)

グスタフ・クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》(1903)、マックス・エルンスト《ポーランドの騎士》(1954)などの名品が目白押しですが、ポール・デルヴォー《こだま(あるいは「街路の神秘」)》(1943)の隣には、キャンバスの裏に描かれたものの、黒く塗りつぶされたデルボー夫妻の肖像画のX線写真も展示しています。正に「裏話」です。

★木村定三コレクション 加藤孝一のセラミック(展示室2)

作品リストには「木村定三が愛好した多数の焼き物作品をご紹介する、当館で受贈後初となる特集展示です」と書かれていました。

★明治から昭和初期の洋画(展示室2)

黒田清輝《暖き日》(1891)の解説を読み、高橋由一《厨房具》(1878-79)と見比べて「旧派」「新派」の違い(断絶?)を実感しました。古賀春江《夏山》(1927)、藤田嗣治《青衣の女》(1925)、里見勝蔵《裸婦》(1928₋29頃)、猪熊弦一郎《馬と裸婦》(1935)など、「また会えて良かった」と感じる作品が並んでいました。

★明新制作派協会彫刻部の創立メンバーたち(展示室3)

本郷新、柳原義達、舟越保武、佐藤忠良という重鎮の作品が並ぶ中、舟越桂の作品は《つばさを拡げる鳥がみえた》(1985)、《肩で眠る月》(1996)の2点。故人を追悼する思いを込めて作品を鑑賞しました。

Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館「エッシャー 不思議のヒミツ」  

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 2024.07.24 投稿

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「エッシャー 不思議のヒミツ」(以下「本展」)に行ってきました。以下は本展のレボートと感想です。

◆本展の会場構成

 本展の会場は1階の展示室6~8。受付で観覧券を受け取ると、展示室8に案内されます。

〇1章 デビューとイタリア Debut and Italy

1章の展示は、初期の作品とイタリア滞在時に制作した作品です。エッシャーは「だまし絵のグラフィックデザイナー」と思っていたのですが、1章の作品を見て「エッシャーはすぐれた技量の版画家だ!」と強く感じました。当たりすぎる感想ですね。

1章前半=初期の作品のうち《イースターの花》(1921)の連作は、精細な図柄を彫った、白と黒のコントラストが鮮やかな木版画です。ただ、120mm×90mmという小さな画面(ハガキは148mm×100mm)なので、近づかないと細かいところまではよく見えません。《エンブレマータ》(1931)の連作になると、少し大きく(180mm×140mm)なります。

1章後半=イタリア滞在中に制作した作品は、明るい部分と暗い部分のコントラストをうまく使った大判の風景画です。《サン・ミケーレ・デイ・フリゾーニ聖堂(ローマ)》(1932)は、近景のサン・ミケーレ・デイ・フリゾーニ聖堂を多くの線を使って黒く描き、遠景のサン・ピエトロ大聖堂を細い線を使って白く描いています。このように彫り方を変えることで、遠近感が際立っています。435mm×491mmというA2(420mm×594mm)に近い画面なので、遠くの小さな建物もはっきり見えます。風光明媚な村を描いた《スカンノの街路、アプルッツィ地方》(1930)も近景の黒い人物から遠景の山頂までの黒から白までの階調描き分けにより、奥行きと遠近感を強く感じる作品です。少し大きな画面(627mm×431mm)で、見応えがあります。

〇2章 テセレーション(敷き詰め)Tessellations

「エッシャー」と聞いて思い浮かべるのは、2章以降の作品です。2章のタイトル「テセレーション」は、幾何学においては「タイル張り」(出典:タイル張り – Wikipedia)とも呼ぶようです。

《平面の正則分割1》(1957)は、画面を分割して1~12の番号を付け番号順に、①分割されていない平面、②平行四辺形に分割、③市松模様の平面へと変化し、最後の⑫では白いトビウオと黒い鳥を敷き詰めた画面になっています。番号順に眺めると、変化が面白くて見飽きません。《平面の正則分割Ⅵ》(1957)では、画面の一番上は1匹のトカゲですが、画面下に向かうに従って、同じ形を繰り返しつつ、次第に縮小し、数を増やしながら、最後は小さな黒と白の三角形の組み合わせになります。

《太陽と月》(1948)は、貼り付ける絵が違う作品で、おまけに多色刷りという作品でした。《蛇》(1969)は、エッシャー最後の作品で、最も完成度が高いそうです。

〇3章 メタモルフォーゼ(変容)metamorphosis

《昼と夜》(1938)は、昼の景色と夜の景色を一つの画面に描き、しかも昼から夜へ、夜から昼への変化も描いた有名な作品です。会場には、細部までよく観察できるように、大きく引き延ばした画像を展示しています。大画面だと少し離れ、時間をかけてじっくり眺めることが出来るので、良いですね。

〇4章 空間の構造 The structure of space

一番目を引いたのは《写像球体を持つ手》(1935)。左手で支えた球体の中に、エッシャーを取り巻く世界が全て写っているという不思議な作品です。入場者がこの作品の中に没入した写真を撮影できるコーナーもありました。表と裏が繋がっている世界を描いた《メビウスの輪Ⅱ(1963)》も面白い作品です。

〇5章 幾何学的なパラドックス(逆説)Geometric paradoxes

平面的な袖から陰影を施した立体的な手首が出てきて、平明的な袖を描くという《描く手》(1948)は、いわゆる「だまし絵」です。4章を象徴する作品だと思いました。我々が絵を見ると、陰影の付け方や大きさの違い、色彩の濃淡から、明るい方が上で暗い方が下、大きなものは近い、小さなものは遠い、濃い方が近く、淡い方が遠い、などと無意識に判断して頭の中で立体像を作り上げます。陰影を施した手首は「立体」と判断できますが、輪郭線だけで描いた袖はペチャンコです。このような人間の認識の「癖」を逆手にとって、不思議な世界を描くのが「だまし絵」です。そして、私たちは「だまし絵」にだまされることが大好きです。

 《物見の塔》(1958)に描かれた三階建ての塔は、一見すると不思議な要素はありません。しかし、よく見ると平行になっていると思われた二階と三階は90度ねじれています。二階と三階をつなぐ柱も変です。三階手前側の角(かど)に繋がっていた柱は、二階になると奥の角(かど)に繋がり、柱は斜めになっています。《物見の塔》は大きく引き延ばした画像も展示されています。大画面だとねじれ具合がよく分かります。《滝》(1961)は、本展の垂れ幕に使われていました。

・蓮實重彦『伯爵夫人』にも登場するドロステ社のココア缶(1904年デザイン)

 5章ではエッシャーがデザインしたドロステ社のココア缶も展示。それは、2016年に第29回三島由紀夫賞を受賞した蓮實重彦『伯爵夫人』の中に出て来たココア缶でした。

〈(略)伯爵夫人が語り始めたのは、和蘭陀(オランダ)製のココアの話だった。(略)あの缶に謎めいた微笑を浮かべてこちらを見ているコルネット姿の尼僧が描かれていますが、誰もが知っているように、その尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、この図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです。(略)〉(出典:『伯爵夫人』蓮實重彦 新潮文庫 平成31年1月1日発行 p.83)

 小説では、切れ目なく続く無限連鎖は尼僧の視線が断ちきっている、尼僧が見つめているのは戦争以外の何ものでもない、と伯爵夫人が語る場面が続きます。そして、ココア缶はその後、何度も登場。なお、『伯爵夫人』は周りに人がいない所で、こっそりとお読みください。

〇6章 依頼を受けて制作した作品

6章では、依頼を受けて制作した蔵書票、グリーティングカード、切手などを展示しています。

◆展示室6、7

 展示室6は「鏡の迷路」を展示。小さな部屋ですが、中に入ると、かなり戸惑いました。どちらに進んだらよいか、すぐには判断できないのです。

展示室7では、床と垂直に立っているつもりなのに倒れそうになり、人の身長が違って見える「相対的な部屋?」(別の名前かも)を展示しています。

展示室6、7は、いずれも遊園地のアトラクションのような仕掛けで、とても楽しめます。子どもの入場者が多いと、長い行列ができるかもしれませんね。

◆展示室5(2階、コレクション展)

 コレクション展を開催している2階・展示室5でもエッシャー《方形の極限》(1964)と「《方形の極限》の版木(1956)」を展示しています。テセレーション(敷き詰め)の作品で、同じパターンが4回繰り返されるため、版木は作品を四つに割った三角形。赤色印刷用・黒色印刷用の2種を展示しています。版木も展示しているので、本展が「面白い」と思ったら、コレクション展も併せて見ると良いでしょう。

◆最後に

 当日は平日の午前中でしたが「入場者が多い」と感じました。本展の2章以降は「タイルの敷き詰め」や「だまし絵」のような作品が並ぶので「肩の力を抜いて楽しめのではないか」と期待して来場する人が多いのでしょう。作品を鑑賞する以外に、「試してみましょう」という質問に答えることで「人間の認識の癖」を知ることが出来る体験型のパネルで遊ぶこともできます。とはいえ、一番の収穫は、1章の展示で「すぐれた技量の版画家・エッシャー」を知ることができたことです。

Ron

展覧会見てある記「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」豊橋市美術博物館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.07.15 投稿

先日、豊橋市美術博物館(以下「豊橋市美」)で開催中の美術展示Ⅱ「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」を見てきました。先ず、豊橋市美までのアクセス、次に美術展示Ⅱの概要について書き、最後に、同時開催の「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」にも触れます。

◆豊橋市美までのアクセス

JR豊橋駅・名鉄豊橋駅から豊橋市美までは「市電」の愛称で親しまれている豊橋鉄道東田(あずまだ)本線(市内線)(以下「市電」)に乗車し、「市役所前」で下車するのが便利です。市電は7分~8分間隔で発車。「市役所前」は「駅前」から4つ目、発車から約7分で到着します。「市役所前」から豊橋市美までの所要時間は約5分です。市電乗り場は豊橋駅2階から続くペデストリアンデッキの下。電車マークのある階段を降りれば、市電「駅前」の乗り場です。運賃は均一料金で大人200円。ICカード(MANACA又はTOICA)なら、運賃箱のIC読み取り機にタッチするだけでOK。歩くことが好きな人でしたら、徒歩約25分~30分で行けます。

◆美術展示Ⅱ「挑む女たち~芥川紗織を中心に~」(1階 展示室4 入場無料)

会場の展示室4は、豊橋市美1階の一番奥。5人の作家による14点の絵画と芥川沙織関係の資料を展示しています。絵画の内訳は、三岸節子が3点、朝倉摂が2点、芥川沙織が5点、丸木俊が1点、高畑郁子が3点、計14点です。三岸節子の作品のうち赤い屋根の家を描いた《グアデイスの家》(1988)を見て、名古屋市美術館所蔵の《雷がくる》(1979)を思い出しました。

芥川沙織の《女・顔Ⅰ》《女・顔Ⅱ》(いずれも1954)には「当初描いた主題は、自らの苦悩や葛藤を反映したかのような女性像が多い」という解説が、《民話より》(1955)には「大きなハサミを振り上げ、毛に覆われた脚を持つたくましい蟹の姿が現れる」という解説が、《天を突きあげるククノチ》(1955)には「茨城に伝わる樹木神」が付いていました。《作品D》(1955)は植物のようにも、女性のようにも見えます。

なお、芥川沙織の作品の図版は、下記のURLに掲載されています。

URL: 展示作品詳細−豊橋市美術博物館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)

〇ミュージアム展示ガイド「ポケット学芸員」について

 展示室4の入口には、ミュージアム展示ガイド「ポケット学芸員」のダウンロード方法、操作方法の掲示がありました。QRコード(App Store用、Google Play用の2種)を読み取るか、スマホやパソコンで「ポケット学芸員」と入力・検索すれば、アプリをダウンロードできます。ポケット学芸員の操作方法ですが、アプリを起動して、①「関東地方」「中部地方」等の地域を選択、②表示された中から希望の施設を選択、③施設のプロフィールが表示されるので、「リスト」を選ぶと展示物のリストを表示、④「ダウンロード」を選ぶと施設の情報がスマホにダウンロードされます(24時間後に消去)。作品解説を読むときに便利なアプリです。

◆「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」(2階 展示室7~9,展示コーナー 観覧料 一般500円)

現在、市電と渥美線を運営している豊橋鉄道株式会社が「豊橋電気軌道株式会社」として創立したのが大正13(1924)年3月7日。豊橋で路面電車(市電)が開業したのは、大正14(1925)年7月14日。豊橋と田原を結ぶ渥美線が、渥美電鉄株式会社により高師~豊島間が開通したのが大正13(1924)年5月、新豊橋~三河田原が全通したのが大正14(1925)年5月1日。市電と渥美線の歴史をたどり、豊橋鉄道株式会100年の歩みを振り返る展覧会が「豊橋鉄道100年 市電と渥美線」です。観覧券売り場は、2階エレベータ前。

〇市電について

展示品で目を引いたのは「豊橋市新市街地図」です。現在、豊橋市美のある豊橋公園一帯は、歩兵第18聯隊と練兵場、射撃場で、市電の「市役所前」は「営門前」でした。市電を降りて豊橋市美に向かう途中に通過する門は、歩兵第18聯隊の営門だったのです。営門には哨舎(歩哨が24時間常駐した場所)跡が残っています。

〇渥美線について

展示品で目を引いたのは「空中ヨリ見タル高師[絵葉書] 昭和初年」です。写っていたのは、騎兵25,26聯隊、教導学校(下士官の養成所)、憲兵分隊、旧第15師団司令部所在地。陸軍第15師団は明治38(1905)年から大正14(1925)年まで渥美郡高師村(現在は豊橋市)に駐留していた師団です。芥川沙織は大正13(1924)年5月24日渥美郡高師村生まれ。芥川沙織が生まれた当時の渥美郡高師村は、陸軍第15師団の駐留地だったのです。なお、「挑む女たち~芥川沙織を中心に~」の作品リストは「沙織は軍に所属していた父親の赴任先である豊橋に生まれました」と記載しています。

Ron.

生誕130年記念「北川民次 メキシコから日本へ」展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

2024.07.06(土)17:00~18:30

名古屋市美術館(以下「市美」)で開催中の、生誕130年記念「北川民次 メキシコから日本へ」(以下「本展」)の協力会向けギャラリートークに参加しました。参加者は〇〇名。講師は、勝田琴絵学芸員(以下「勝田さん」)。企画展示室1、2に加え、地下1階の常設展示室3も使った大規模な回顧展です。勝田さんの解説を聞きながら本展を鑑賞し、とても楽しく、為になる一時を過ごすことができました。以下は、勝田さんの解説を聴いて私が知ったことや、本展の感想・補足などです。思い違いが混じっているかもしれませんが、その点はご容赦ください。

◆本展の概要(1階・展示ホール)

 参加者は1階のブリッジを渡り、大理石で囲まれた展示ホールに集合。勝田さんの解説で理解したのは、

① 本展は、約30年ぶりに開催される大規模な回顧展であるということです。前回の大規模な回顧展は、1996(平成8)年に愛知県美術館で開催された「北川民次展」。その前の1989(平成元)年にも、名古屋市美術館で「北川民次展」が開催されています。ギャラリートーク後に調べると、1989年は4月に北川民次が死去した年。同年には、名古屋市内の画廊でも追悼展が開催されました。

② 過去2回の回顧展と比較した場合の本展の特色は、一つには、副題を“メキシコから日本へ”としたことから分かるように、北川民次のメキシコでの経験を重視しメキシコで活躍した画家や写真家なども紹介していること。もう一つは、美術教育者としての北川民次や、壁画・絵本の制作にも注目していることです。

◆Ⅰ 民衆へのまなざし Painting Ordinary People(1階)

〇ニューヨークでの北川民次

Ⅰ章で先ず、勝田さんが解説したのは、ジョン・スローン《ヴィレッジ監獄の解体》(1929)と国吉康雄《帽子の女》(1920頃)、清水登之(とし)《建築現場(ワーガーデン)》(1923)です。

勝田さんの解説によって、先ず、アメリカに渡った北川民次はニューヨークに住み、昼は働き、夜は美術学校で学んでいたこと。ジョン・スローンは美術学校における北川民次の師で、北川民次はスローンから民衆をリアリステックに描く姿勢を学んだということが、次に、国吉康雄とは深い交流があり、清水登之は、北川民次と共にスローンに学んだ仲だった、ということが分かりました。ギャラリートークの冒頭で勝田さんが解説したとおり、本展は北川民次の作品だけでなく、彼の周辺の作家についても目を配っている、ということが分かりました。

〇キューバにも滞在

 《やしの木のある風景》(1921)については、1993年に発見された最初期の作品で、セザンヌの影響がみられる、ということが分かりました。

〇メキシコで制作した作品

 《トランクのある風景》(1923)からはメキシコで制作した作品を展示しています。《水浴》(1929)については、水浴は生きる象徴で、この作品はセザンヌの水浴図に刺激をうけた可能性がある、ということが分かりました。《トラルパム霊園のお祭り》(1930)については、いくつもの場面をひとつにした作品で、生と死が描かれている。メキシコの死生観では、死は生に変わる一過程。この作品が描かれた年に長女が生まれた、ということが、《子供を抱くメキシコの女(姉弟)》(1935)については、外国人から見たメキシコの風俗を描いたものだ、ということが分かりました。

〇日本に帰国

 1936年、北川民次は日本に帰国しています。《ランチェロの唄》(1938)については、ランチェロとは農園や牧場で働く人で、国家に踊らされる民衆を比喩的に描いた、ということが分かりました。《[出征兵士]》(1944)については、北川民次の本心が見え隠れする作品である、ということが分かりました。

◆Ⅱ 壁画と社会 Murals and Society(1階)

〇メキシコ壁画運動

Ⅱ章の最初に展示されているのは、写真家のティナ・モドッティが撮影した、メキシコ公教育省壁画の写真です。勝田さんによれば、北川民次はメキシコ壁画運動から大きな影響を受けたとのことです。北川民次がメキシコでどんな刺激を受けたのかについて理解を深めることができる展示だと思いました。

〇藤田嗣治との交流

 壁画運動の写真に続いて、藤田嗣治が中南米旅行中に描いた北川民次の肖像画2点を展示しています。勝田さんによれば、藤田はメキシコで北川民次との交流を深め、北川民次が1936年に帰国した時、二科会への出品や大画面の作品を描くよう勧めるなど、後ろ盾になったのが藤田、とのことです。藤田嗣治と知り合うことが、その後の北川民次の活動にとって大きな助けになった、ということが分かりました。

〇帰国後に描いた作品

 《タスコの祭》(1937)については、藤田の後援者であった平野政吉が所有していた作品だが、現在は静岡県立美術館の所蔵品、ということが、《メキシコ戦後の図》(1938)については、大砲が砲口を向けているのはメキシコの山・ポポカテペトルなのに、山の形が富士山に似ていたため“富士山に向けて大砲を撃とうとしている”と物議を醸した、ということが分かりました。

〇戦時下の北川民次

 ギャラリートークでは、戦時下の北川民次についても言及があり、以下のことが分かりました。

戦時下の北川民次は戦争記録画に手を染めず、戦後には反戦を強調していたとはいえ、北川民次と同じく、池袋モンパルナスのメンバーとされる画家で、滝口修造(評論家)と共に逮捕、拘禁された福沢一郎とは異なり、大っぴらに軍国主義を批判するような作家ではなかった。反戦の思いを表すにしても、暗示的に描くなど、慎重に対応したということでしょうね。

勝田さんは、帰国後間もない時期の北川民次は、船から富士山が見えた時の思いを“僕の芸術が恋ひ慕ってゐる日本の山だ!”と書いている、という話も披露してくれました。

◆Ⅲ 幻想と象徴 Fantasy and Symbolism(1階)

〇ルフィーノ・タマヨからの影響

Ⅲ章の最初に展示されているのは、ルフィーノ・タマヨ《苦悶する人》(1949)とマリア・イスキエルド《巡礼者たち》(1945)の2点。いずれの作品もシュルレアリスム的な主題を描いたものです。勝田さんの解説により、北川民次はタマヨからの影響を受けてシュルレアリスムの非現実的・暗示的な手法を使っていた、ということが分かりました。

〇暗示的な手法で制作した作品

暗示的な手法ということについて、《メキシコ静物》(1938)では、画面左に二つの裂けた木の幹、画面下には切断される途中の木の幹や包丁、鋏、銃が、画面右上には切断された頭部が描かれている。これは戦時下の雰囲気を表したもの、ということが、《岩山に茂る》(1940)では、紀元二千六百年奉祝美術展に出品。植物を描いたものだが、ねじれた人体がもがき苦しんでいるようにも見える。暗示的な手法なので、問題にはならなかった。また、当時は画材が手に入らなかったので、この作品は白粘土でキャンバスの地塗りをして、陶磁器の上絵付けに使う顔料を利用して描いた、ということが分かりました。

◆Ⅳ 都市と機械文明 The city and the Machine Age(2階)

〇フリーダ・カーロのアトリエ

Ⅳ章の最初は《赤い家とサボテン》(1936)です。勝田さんの解説により、作品はフリーダ・カーロのアトリエ兼住居を描いたものであり、遠近法を歪めて色々な方向から見た姿を一つの画面に収めている、ということが分かりました。

〇帰国後に描いた作品

《池袋風景》《落合風景》《都会風景》の3点はいずれも1937年制作です。参加者からは「池袋モンパルナスの時代の作品だ」という声が上がりました。勝田さんの解説により、池袋付近(注:現在の豊島区千早1丁目付近、その後、長崎2-25に転居)に住んでいた時期に制作した作品で、いずれも遠近法を無視して、色々な方向から見た姿を一つの画面に収めており、《落合風景》には人物も描かれている、ということが分かりました。

 《海王丸(舷側)》《海王丸(甲板)》《海王丸(通風筒)》(いずれも1939)については、大日本海洋少年団の嘱託画家として練習船・海王丸に乗船して約60日間の航海をした時の作品で、船だけでなく少年団の姿も描かれている、ということが、版画シリーズ《瀬戸十景》(1937)については「風景を描いた作品だが、労働者に焦点を当てている、ということが分かりました。

〇戦後に描いた作品

《瀬戸のまちかど》(1946)については、北川民次のお気に入りの風景だ、ということが、《砂の工場》(1959)については、フェルナン・レジェの影響を受け、太い輪郭線で機械や人物を平面的に描いた作品、ということが、《赤いオイルタンク》(1960)については、石炭窯から重油窯に移行する時期を象徴する“赤いオイルタンク”が目立つように描いた作品、ということが分かりました。

◆Ⅴ 美術教育と絵本の仕事 Work in Art Education and Picture Books(2階)

〇版画とメキシコ野外美術学校(メキシコ時代)

 Ⅴ章では再びメキシコ時代に戻り、メキシコの版画や美術教育、戦時中に制作した絵本の仕事をテーマ別にまとめ、年代順に展示しています。

 1番目のテーマはポサダなどの版画。北川民次もメキシコ時代に版画の技法を学んだ、ということが分かりました。ポサダの版画は、正にメキシコの伝統。「メキシコから日本へ」という副題に合致していると思います。

 2番目のテーマはメキシコ野外美術学校。資料の展示が多いですが、《老人》(1932)については、ただの老人ではなく、ガラガラヘビも捕まえる「蛇取り名人」ということと、北川民次は子どもから影響を受けていた。つまり、子どもの作品を手本として作品を描いていた、ということが分かりました。《ロバ》(1928)については、メキシコでは身近な存在だ、ということを理解しました。

〇戦時中の絵本制作

 3番目のテーマは北川民次が戦時中に制作した絵本。勝田さんの解説により、北川民次は、児童画に関心を持っていた栃木県真岡(もおか)町(現:真岡市)の久保貞次郎と知り合い、良心的な絵本制作を目指すことになる。当時の絵本は、絵も文もが画一的で印刷の質も悪かったため、絵と文にこだわった絵本の制作を目指した。『ジャングル』では、職人任せにせず北川民次自身が石版に描いた、ということが分かりました。

 ギャラリートーク後に調べると、石版(せきばん)印刷は、石版石という大理石に似た石を加工して、その表面に油性の画材で絵や文字を描き(描画)、化学反応を利用してインクが付く(=水を弾く)ところとインクを弾く(=水を受ける)ところを作る(製版)、水で版を湿らせてからインクをつけると、インクは油性の画材で絵や文字を描いたところにしか付かないので、付いたインクを紙に転写する(印刷)という印刷方法でした。北川民次がやったのは、上記の(描画)に当たります。

 勝田さんは「真岡市教育委員会所蔵の資料にも注目してください」と話されました。真岡市教育委員会所蔵の資料として展示しているのは、絵本『マハフノツボ』原画、絵本『ジャングル』下絵、絵本『うさぎのみみはなぜながい』の原画でした。絵本『ジャングル』だけ「原画」ではなく「下絵」となっているのは、下絵を元に本人が石版に直接描画したものが「原画」にあたるからでしょうね。

 また、勝田さんによれば、『ジャングル』の絵は北川民次ですが文は佐藤義美(よしみ:童謡作詞家・童話作家、代表作は『犬のおまわりさん』)。『うさぎのみみはなぜながい』は1942年に準備できていたが、出版は20年後の1962年になった、とのことです。

〇名古屋動物園児童美術学校

 最後は、1949年の夏、名古屋市東山動物園で開催された児童美術学校をテーマにした展示です。勝田さんの解説により、児童美術学校の目的は、子どもが上手な絵を描けるようになることではなく、美術を通して子どもの自由な精神を作ることだった。一部では賛同を得られたものの、管理型教育にそぐわないとして短期間で終わった、ということと、《画家の仲間たち》(1948)は、名古屋動物園児童美術学校を開校することになる同志たちを描いた作品だ、ということが分かりました。

◆エピローグ 再びメキシコへ Back in Mexico(地下1階 常設展示室3)

 ギャラリートークの最後は「エピローグ」。地下1階・常設展示室3に移動して勝田さんの解説を聴きました。

勝田さんの解説により、北川民次は1955年にメキシコを再訪して、二つの発見をした。一つはモザイク壁画の可能性で、メキシコではフレスコ技法の時代が去り、モザイク壁画が流行していることを知った。もう一つはメキシコ陶器に触れて、瀬戸の陶磁器産業の技術が世界に通用することを再発見したこと。そして、1959年、CBC会館(名古屋市)を皮切りに瀬戸市民会館、旧カゴメビル(名古屋市)、瀬戸市立図書館の壁画を完成したことが分かりました。

エピローグに展示されていた原画は、《名古屋CBC会館壁画原画》(1958)、《瀬戸市民会館陶壁画原画》(1959:現在は尾張瀬戸駅近くの瀬戸蔵に移設)、《名古屋旧カゴメビル壁画原画 TOMATO》(1962:2024.06.05付の中日新聞に記事があります)、《瀬戸市立図書館陶壁原画》(1970)です。

瀬戸市立図書館陶壁は建物の外壁に2面、内壁に1面あるのですが、そのうち内壁「勉学」を撮影した写真について、勝田さんは「“勉学”の前には棚が置かれていたので、棚を移動させないと写真が撮れません。撮影時には、図書館の方にも棚の移動を手伝っていただき、何とか写真を撮影できました」と、苦労話を語ってくださいました。

◆最後に

 ギャラリートークが終わったのは、午後6時25分。解散予定の6時30分ぎりぎりまで熱いトークが続きました。本展は、展示室の作品解説が分かりやすくて内容が充実しており、作品だけでなく資料も豊富です。力のこもった展覧会だということが、ひしひしと伝わってきました。メキシコ・ルネサンスに関する名古屋市美術館の所蔵品を活用していることにも目を引かれました。

 壁画のうち、名古屋CBC会館壁画の材質は大理石。陶磁タイルでも原画の色を再現するのは大変ですが、大理石だと色を再現するためには、随分と苦労されたのでしょうね。

Ron

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