お知らせ

2025年8月18日

2025年協力会イベント情報

現在、下記のイベントの申し込みを受け付けています。

1.近代名古屋の日本画界(常設企画展) 協力会向け解説会 名古屋市美術館 令和7年1026

参加希望の会員の方は、ファックスか電話でお申し込みください。ホームページからの申し込みも可能です。

なお、次回特別展の「藤田嗣治 絵画と写真」の解説会は、アンケートを実施しています。ファックスまたは、下記のアンケートサイトから希望時間帯をお知らせください。後日、開催日をお知らせします。

最新の情報につきましては随時ホームページにアップしますので、ご確認ください。また、くれぐれも体調にはご留意ください。

10月からギャラリートークの形式が変更になりますので、会員の皆様の参加希望をアンケートさせていただきます。アンケートはこちら(受付期間:8月10日~9月10日まで)

これまでに制作された協力会オリジナルカレンダーのまとめページを作りました。右側サイドメニューの「オリジナルカレンダー」からご覧ください。

事務局

印象派が描く女性たち ~ビュールレ・コレクションの傑作から~

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋地方気象台が「東海地方が梅雨明けしたとみられる」と発表した7月9日、名古屋市美術館・深谷副館長(以下「深谷さん」)の講演を聴くため中区大井町のイーブルなごや(e–able–Nagoya:正式名称は、名古屋市男女平等参画推進センター、名古屋市女性会館)まで足を運びました。会場の3階ホールは、ぱっと見満席。ポツリポツリと空席があるので「300人以上の入り」と見ました。入場無料とはいえ平日の午後としては盛況。以下は講演の概要です。

◆講演中の注意事項について
深谷さんが登場すると、開口一番「午後の一番眠い時間帯なので講演中に眠ってもかまいませんが、イビキはご遠慮ください」との注意事項。モネ展の解説会でアンケートを取ったところ「隣の人のイビキがうるさくて講演が理解できなかった」という苦情があったとか。会場全体が「クスッ」としたところで、本題に入りました。

◆「LIFE」誌に掲載されたE.G.ビュールレ氏の写真
講演の主題は7月28日から名古屋市美術館で開催される「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下「本展」)で展示される女性像を中心にした作品の解説です。
スクリーンに映された最初の画像は1954年にアメリカの雑誌「LIFE」が掲載したエミール・ゲオルク・ビュールレ氏の写真。コレクションが公開される前、自宅で5点のコレクションとともに写されたもので、本展では写真の5点全てが展示されるとのことでした。
スクリーンに向かって左下の作品はポール・セザンヌ《赤いチョッキの少年》、右下がアンドレ・ドラン《室内の情景(テーブル)》、右上はパブロ・ピカソ《花とレモンのある静物》、左上がフィンセント・ファン・ゴッホ《花咲くマロニエの枝》、奥の部屋はエドガー・ドガ《ピアノの前のカミュ夫人》で、「自分と一緒の写真を撮らせたのですからお気に入りの作品だったと思われます」との解説がありました。(注:「LIFE」「ビュールレ」等のキーワードを入れたら、Webで写真を見ることができました)

◆E.G.ビュールレ氏と彼のコレクションについて
ビュールレ氏と彼のコレクションについては、次のような解説がありました。
1890年 ドイツ生まれ。1909年 大学で文学、美術史を学ぶ。1924年からスイスの工作機械会社で20ミリ機関砲を製造。1936年 最初の作品4点の素描を購入。1956年 死去。1958年 E.G.ビュールレ財団が設立され、自宅のすぐ横の邸宅に美術館を開館。
ビュールレ氏が生涯で収集したコレクションは600点。バーンズ・コレクション(1994年(平成6年)に国立西洋美術館で開催した「バーンズ・コレクション展」の入場者は100万人を超え、最終日は入場に7~8時間待ち)の3,000点に比べると控えめの数字だが、全て一級品。どれも代表作ばかりで「質で勝負」のコレクション。ビュールレ・コレクションは印象派から始まるが、大学で美術史を学んだことから印象派以前の作品もコレクションに含まれる。
第二次世界大戦後の1948年には戦時中に収集した13点がナチスの略奪品と判明した。うち9点は元の所有者と話をして再度代金を支払い、自分の物にしたが、残り4点は元の持ち主に返却している。
ビュールレ美術館開館後の2008年には銃を持った強盗団に作品4点が盗まれるという事件が発生。盗まれたのは「LIFE」の写真に写っていた《赤いチョッキの少年》と《花咲くマロニエの枝》に加えて、エドガー・ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》とクロード・モネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》。うち、モネとドガはその月のうちに回収されたが、残り2点は4年後の2012年にセルビアで回収された。本展では盗難に遭った4点すべてを展示。
なお、ビュールレ美術館は2015年に閉館。ビュールレ・コレクションは2020年に開館予定のチューリッヒ美術館新館(現在、建設中)の1フロアに展示される予定。

◆ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《アングル夫人の肖像》(1814頃)
これはフランス古典主義を代表する作品。19世紀フランス絵画の二大潮流は古典主義とロマン主義。古典主義のトップはアングルで、ロマン主義のトップがドラクロア。
アングルは画家の登竜門・ローマ賞を受賞しローマに派遣されることとなったが、ナポレオン戦争のためにローマへの派遣は4年延期された。アングルはローマに派遣された後24年間、現地にとどまって制作。この作品はアングル初期のもので、34歳の時にローマで制作している。アングルは1914年に結婚。新婚ほやほやの妻を描いたのがこの作品。
アングルがフランス統治下のイタリアでフランス役人を描いた《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》(1811)(本展で展示)を見ても分かるように、アングルは質感表現がうまく、ウール、シルク、コットンの違いを描き分けている。また、緻密な描写で筆跡を感じさせない滑らかな画面に仕上げている。
《アングル夫人の肖像》は《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》に比べ、顔の描写は精緻だが体の描写は大雑把。発表する気がないプライベートな作品だったのか、それとも未完成の作品だったのか、この作品の描写が大雑把な理由は不明。

◆アングルの作品は「どこか変」
本展の展示作品ではないがアングルの《グランド・オダリスク》は美しく均整の取れた女性のヌードだが、よく見ると胴体が長い。元になった素描では正しく人体デッサンをしているが、油絵では人体の比率を無視している。人体の比率を無視したのは「カーテンと胴体とで形成されたU字形の曲線を描きたかったからではないか」と私は思う。アングルは写実性よりも絵画的な美しさを優先するため、「よく見るとおかしい」作品をいくつも描いている。
これは後世のセザンヌと同じ考え方。《赤いチョッキの少年》も、よく見ると「右腕が長すぎる」と分かる。

◆アングルの肖像画について
アングルにとって肖像画は本意ではなかった。彼にとって大切なものは歴史画。歴史画は大画面に歴史的な場面を描いたものだが、注文が無いと描けないし、巨大すぎて注文は少ない。そのため、アングルは生活のために肖像画を数多く描いた。今になってみると、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵の《座るモワテシエ夫人》など肖像画に傑作が多い。ただ、《座るモワテシエ夫人》は胸から下の衣服の描写が平べったくて「よく見るとおかしい」。
アングルが奥さんを描いた肖像画にはデッサン(素描)も残っている。これが素晴らしい。ローマ時代、アングルはフランス人からの肖像画の注文が多かった。油絵は数カ月から数年をかけて制作しているが、素描は一日から半日という短時間で完成。しかし、これがうまい。デッサン力が素晴らしい。描き直しがない。線だけの描写だが作品に存在感がある。

◆エドガー・ドガ《ピアノの前のカミュ夫人》(1869)
ドガは印象派の画家だが精神的には古典派、アングルを神のように崇拝していた。ドガは人生の途中から視力を落としている。この作品に描かれた「カミュ夫人」は、ドガが治療を受けていた眼科医の夫人でピアノの先生。さっきまで演奏していたところに来客が来たため立ち上がったという瞬間を描いた、スナップ・ショット的作品。ドガはこの作品を1896年のサロン展に出品したが落選。落選理由は、右手がちゃんと描かれていないなど「細かい点まできちんと描いていない」ためだったと思われる。ドガは1870年のサロン展に《カミュ夫人》(ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵)を出品して、ようやく入選を果たした。

◆エドガー・ドガ《14歳の小さな踊り子》ブロンズ彫刻
1880-81年 ワックスによる原作、1932-36年 ブロンズによる鋳造
この彫刻、ワックスによるオリジナルはワシントン・ナショナルギャラリー所蔵。ブロンズの鋳造作品は数点制作されている。
ドガは後半生に彫刻を制作しているが、第6回の印象派展に《14歳の小さな踊り子》のオリジナルを一点のみ出品した。彼は絵を描くための材料として彫刻を制作したため、それを作品とは考えていなかった。何枚ものスケッチを元に制作した彫刻は様々な方向から自由に観察することができるので、絵を描くときに役立った。ドガは馬の彫刻も多数制作。彫刻だけでなく、写真も何点か撮影している。
印象派展にオリジナルの彫刻を出品した時、ワックスで制作した本体は本物のモスリンで作ったスカートや金色のベスト、本物のトゥシューズを身に着けていた。この試みに対する当時の評価は「彫刻の基本から外れる」として反対する意見とドガの意図に賛成する意見とに二分された。

◆ピエール=オーギュスト・ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》(1880)
 これは、とても有名な作品で「目にしたことがある」という人が多いと思う。
 イレーヌは、お金持ちの銀行家カーン・ダンヴェール氏の三人姉妹の長女で当時8歳。次女のエリザベスは6歳、三女のアリスは4歳だった。
 1870年に印象派の中心にいたルノワールだったが、この作品を制作した1880年には印象派から方向転換していた。その理由は「印象派の絵を描いても評価されない、売れない」というもので、1878~79年から方向転換を始めた。
 どのように方向転換したかと言えば、古典的なものに方向転換した。今日配ったチラシに「絵画史上、最強の美少女(センター)。」というキャッチ・コピーが書いてあります。このコピーは私が考えたものではありませんが、コピーが示すように「多くの人に受け入れてもらえる」方向に転換したということです。
 この作品のどこが古典的かというと、顔の部分の筆のタッチです。アングルの絵は筆跡を感じさせない描き方をしますが、印象派は筆跡を残します。これは、画家の個性を強く残すということです。イレーヌの顔を見ると滑らかで筆のタッチはありません。また、この絵はダンヴェール家の庭で描いており、バックは深い緑色です。数年前の作品ならば、光源が分かるような描き方をしていますが、この絵では光が良く回り、均一な光が当たっています。
また、顔から胸までは丹念に描かれていますが、手の辺りになると筆のタッチが分かります。伝統的な要素と新しい要素をうまく融合させた作品です。横顔を描いた肖像画は堅苦しくなりがちですが、この作品では柔らかな印象を受けます。かといって自由な感じもしない、うまくバランスが取れています。
 ダンヴェール家の三姉妹の肖像画、最初の予定では一人ずつ描くことになっていました。しかし、長女を1880年に描いただけで、次女・三女の肖像画は1881年になってから描かれました。しかも、一人ずつではなく二人一緒です。スクリーンに映したのは、その《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》(サンパウロ美術館所蔵)で、向かって左が三女のアリス、右が次女のエリザベスです。

◆歴史に翻弄された作品《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
 スクリーンに映しているのは、1963年にイレーヌが91歳で死亡した時フランスの死亡記事に掲載された8歳の時の写真と、三女のアリスが1898年にイギリス貴族と結婚した時写真です。4歳のアリスと大人のアリスを比べることは難しいですが、《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は写真のイレーヌよりぽっちゃりしており可愛く描かれています。
 カーン・ダンヴェール家はユダヤ人の金持ちであったため、イレーヌの両親はナチスによるホロコーストの犠牲になり、次女のエリザベスも収容所で死亡しています。
 イレーヌは19歳の時にユダヤ人の銀行家と結婚し、男・女二人の子どもに恵まれますが6年で別居。その後、離婚しています。離婚後のイレーヌはイタリア人と再婚し、カトリックに改宗。女の子が一人生まれます。カトリックへの改宗はユダヤ人社会から非難を浴びたようです。
 《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》はイレーヌの最初の娘が相続しますがナチスの略奪に遭い、イレーヌの娘は収容所で死亡。第二次世界大戦後、イレーヌが作品の所有権を主張して取り戻しますが、直ぐビュールレに売却しました。
 カーン・ダンヴェールは《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》と《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》の2点とも気に入らなかったらしく、《ダンヴェール家のアリスとエリザベス》は女中部屋に飾ってあったとのこと。《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》はイレーヌ本人も好きではなかったようで、良い場所には飾ってなかったと思われます。作品を取り戻しても直ぐにビュールレへ売り払ったのは、そのためかもしれません。

◆肖像画の比較・アカデミズムと印象派との違い
 本展の展示作品ではありませんが、パリ社交界の花形を描いたルノワール《シャルパンティエ夫人と子供たち》(1878)を見ると、ルノワールは絵の注文主が望む方向へ少し美人に描くのが得意だったようです。
 ルノアールの画風ですが、1876年制作の《陽光を浴びる裸婦》では「木洩れ日」を表現。一方、古典時代のピーク1887年に制作した《大水浴》では輪郭線をはっきりと描き、人物が背景と分離していて固い表現になっています。
これも本展の展示作品ではありませんが、当時一番人気の画家カロリュス=デュランが描いた《ルイーズ・カーン・ダンヴェールの肖像》(1870)は、すごくうまいがよそよそしい作品で、アカデミズムと印象派の違いが良く分かります。

◆フランス映画「勝手にしやがれ」にも《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》が登場
 ヌーベル・バーグの代表作・ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」にも《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》が登場します。ジーン・セバーグが演じるアメリカ娘・パトリシアがジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルに向かって「どちらがきれい」と聞くシーンに登場。《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は本物ではなく部屋の壁に貼られたポスター。映画では「美の基準」として使われています。

◆ポール・セザンヌ《扇子を持つセザンヌ夫人の肖像》(1878-88)
 制作年が(1878-88)とされているのは1878年に描いて、10年後の1888年にかなりの部分に手を加えて制作したため。この作品は最初、アメリカ人著作家のガートルード・スタインが購入しました。彼女は、アメリカ人が山のようにパリへと渡った1920年代にパリでサロンを主宰した人物です。彼女はピカソとも交流があり、ピカソは1806年に《ガートルード・スタインの肖像》(メトロポリタン美術館所蔵)を描いています。

◆ポール・セザンヌ《赤いチョッキの少年》(1888-90)
 この作品はセザンヌの代表作だが、よく見ると右手と腰が長くておかしい。右手と腰が長いのは「よい構図」を作るための仕掛け。この作品のモデルはイタリア人の少年。この少年をモデルにした作品は外に3点あるが、4点を比べるとビュールレ・コレクションの《赤いチョッキの少年》の出来栄えが一番。
 講演会の終了時刻が迫って来たので、残りは本展の解説会でお話しします。

◆Q&A
Q1 カミーユ・コロー《読書する少女》(1845-50)はスライドが映されただけで解説は聞けなかったので、解説をお願いします。
A1 コローは風景画家だが、60代になってから人物画を描き始めた。コローの風景画には必ず点景として人物が出て来る。人物画は自分の楽しみのために描いたが、風景画の勉強のためでもあった。とはいえ《読書する少女》はいい作品。コローの風景画は手馴れすぎていて新鮮さに欠ける。人物画は手馴れていないので新鮮さがある。
この作品のモデルは風景画の点景を描くために雇った女性。スナップ・ショット的に見えるが、ちゃんとポーズをとらせてアトリエの中で描かれた作品。「面白そうだから、ポーズをとってみて」と声をかけて描いたのではないかと、私は勝手に想像している。

Q2 美術館で開催される展覧会では、作品にどこまで近づいてもいいのですか。
A2 本展では絵の前に柵があります。柵を乗り越えて近づかないでください。上半身を乗り出すことは可能ですが、手を出すと監視の女性から注意されるので気をつけて下さい。

◆最後に
 ビュールレ・コレクションとアングル、《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》の解説に力がこもったため他の作品の解説時間が短くなりましたが、当初危ぶまれた「講演中にイビキをかく人」はおらず、1時間半を楽しく過ごすことができました。7月28日からの「至上の印象派展」が楽しみです。
 深谷さんは8月5日(日)午後5時から開催予定の協力会会員向けの「ギャラリートーク」でも解説して下さいますので、こちらについても期待しています。

◆追伸:「至上の印象派展」関係の主なURL
 Web上で検索できる「至上の印象派展」関係の主なURLは下記のとおりです。
◎名古屋市美術館 ビュールレ展
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/buhrle
◎ビュールレ展の公式サイト
http://www.buehrle2018.jp/
◎九州国立博物館 ビュールレ展
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s51.html
 
上記のうち、九州国立博物館のサイトには「出品目録」に加えて「作家名・生没年一覧」や「エミール・ゲオルク・ビュールレの生涯とビュールレ・コレクション」のpdfファイルも掲載されているので参考になります。
Ron.

モネ それからの100年 記念講演会 と 作家を囲む会

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor


5月20日(日)午後2時から名古屋市美術館で「モネ それからの100年 記念講演会」が開催され、「モネ それからの100年」展(以下「本展」)出品作家の松本陽子さん(以下、「松本さん」)が講演されました。また、当日の午後5時からは、松本さんを招待して、名古屋市美術館協力会主催の「作家を囲む会」が名古屋市美術館のスギウラ・コーヒーで開催されました。

◆松本さんの記念講演会=タイトルは「モネの色彩と光」
講演開始の午後2時、会場の名古屋市美術館2階講堂はほぼ満席。深谷副館長の紹介で「モネの色彩と光」をタイトルにした、松本さんの講演が始まりました。以下、一部順序を変えて要点をご紹介します。なお、「注」や(   )書きの文字は、私の補足です。

◎ニューヨーク近代美術館展示の睡蓮の壁画を見て、モネに対する見方が変わった
私は、1967年に訪米し、ニューヨーク近代美術館(以下、「MOMA」)に展示されているモネの睡蓮の壁画(以下、「MOMAの睡蓮」)を見て、モネに対する見方が変わった。モネ、マティス、セザンヌ、そして俵屋宗達の4人は美術の天才だと思う。

◎私のことについて
私は1936年の生まれで、5月22日に82歳になる。私の横にいるのは、山本みすずさん。画廊(注:東京・八丁堀ヒノギャラリー)の娘さんで、パソコンの操作をして下さいます。
スクリーンに投影したのは《光は荒野の中に輝いているⅡ》で、私の代表作。
私の画歴は58年。「どっかで見た絵は描かない。」ということで58年経ってしまったが、あと10年は描きたい。
私は、30数年間ピンクの絵を描いてきた。世界中でピンクの絵を描いている画家は一人もいない。ピンクがきれいな油絵の具は無い。アクリル絵の具にきれいなピンクがあったので、アクリル絵の具で作品を描いてきた。その後、肉体的な問題で、グリーンの油絵の具で絵を描くようになった。
2000年代までは床にカンバスを置き、その周りを動いて絵を描いていた。床にカンバスを置くと、腰を踏ん張って中腰の姿勢で絵を描かなければならない。最近は、それが肉体的に難しくなったので、イーゼルや壁にカンバスを立てかけて絵を描くようになった。緑や青はアクリル絵の具に良い色が無い、そのため、きれいな緑や青がある油絵の具による制作に戻った。
東京芸術大学在学中に、小磯良平先生から「君は僕みたいな絵を描くな。抽象画を描くようにしなさい」と言われ、今もその教えに従って絵を描いている。

◎モネの話
先日、国立西洋美術館(のプラド美術館展)でベラスケス展を見た後ミュージアムショップに寄ったら、お客は皆、モネの《ポプラ並木》と《睡蓮》のポストカードを買い求めていた。その光景を見て「なぜ、モネはこんなに愛されているのか」と、改めて思った。
また、本展を見て私は「こんなに国内に作品があるのか」と、日本国内にあるモネの作品の多さに驚いた。本展の展示作品では《柳》(1897-98頃)が好きだ。

◎MOMAの睡蓮について(その1)
講演の始めで言ったとおり、私は1967年から68年にかけてアメリカに行き、MOMAに展示されている高さ200㎝、横1276㎝のモネの睡蓮に衝撃を受けた。MOMAが睡蓮を収集した経緯については、名古屋市美術館副館長の深谷さんが本展の図録に詳しく書いているので、よく読んで下さい。(注:図録は定価2,400円で発売中)
MOMAの睡蓮は、白がきれい。モネは色彩に対する感覚が鋭い。絵を描くときは白と黒が魔物。白と黒で成功すれば、絵はうまく描ける。モネは白の使い方が上手だった。白を他の色と混ぜない、濁らせない。
モネのグレーにも引き寄せられる。モネのグレーは白と黒を混ぜた色ではない。透明感を持ったグレーで、絵の具の上に色をそっと置いている。モネは丸筆しか使っていない。塗るのではなく、タッチを重ねて色面を作っている。モネは丸筆を使い、縦のタッチが多い。画面から離れるとグレーだが、画面のそばに行くと(様々な色の)筆触が際立って見える。
モネの《睡蓮》は花を描いているように見えるが、そうではない。モネは自分のイメージに自然を合わせている。(注:目の前にある睡蓮を写生しているように見えるが、そうではない。目の前にある睡蓮のイメージを頭の中で再構成してカンバスに描いたという意味か?)
MOMAの睡蓮を見て、私は「アクリル絵の具を使って、水墨画のような形で絵を描く」と決心した。
モネを好いている人は多いが、モネは通俗的ではない。モネは人に媚びていない。セザンヌも通俗的ではない。ピカソは、少し通俗的なところがある。

◎MOMAの睡蓮について(その2)
(注:講演の後半で話された内容ですが、順序を変えてご紹介します)
図録に書かれた、MOMAの学芸員が館長に送った手紙を朗読します。(注:図録の14ページ)
(松本さんが朗読した内容)
その作品は純粋に美しく、またこれ以上ないほど私たちの目的に適(かな)っていると思います。何度も重ね塗りして、絵具を盛り上げ、その上で絵具を描き落としたような作品が何点もあるのですが、その作品はそれらと比べてより自由で、奔放な筆遣いで描かれています。
 (注:これは、ジヴェルニーのアトリエに残されたモネ晩年の大作について書いた手紙。なお、先日のギャラリートークの事前解説で深谷さんは「ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには、『突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている』という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである」と、話していました。)

私は、スランプに陥って絵が描けない時代、MOMAの睡蓮を見て私は「油絵の具の伝統には付いて行けない。日本人には水墨画が合っている」と考え、アクリル水彩絵の具に救われた。

◎積みわらの連作がモネの転機
モネの連作には、ポプラ並木、積みわら、ルーアン大聖堂などがあるが、一番は睡蓮。積みわらの連作は「こんなに面白くないモチーフは無い」と思っていたが「積みわらの色彩が睡蓮を生み出した」と思う。モネは積みわらで発明・発見したような色彩を(睡蓮で?)使っている。積みわらには、(モネが)自分で自分を驚かせた色彩が潜んでいる。(その色彩が)睡蓮の大作につながった。
私は《傘をさす女》や《ポプラ並木》が好きで、積みわらは好きではなかった。しかし、今、積みわらは(モネが)作家として面白い色彩の発明・発見をした作品だと思う。
色彩と光ということでは、積みわらがいちばん光を、その季節による変化、時間経過による変化、外気による変化をとらえているような気がする。
積みわらは、空と大地を意識して描いているが、睡蓮になると描かれているのは水面と睡蓮のみ。空が無いのが、睡蓮の特色。

◎白と黒は魔物
モネのグレーは、ブルーがかったグレー。白が一番よく表れている。白の上に白を塗り重ねている。
絵は、白と黒で失敗する。明るいところは白、影は黒と考えている人が多いが、それが絵を面白く無くする原因。モネは油絵をよく知っていたので、白をうまく使っている。《アルジャントゥイユのカササギ》の絵は、白の変化が、白の上に白を重ねるのがうまい。「白と他の色がまじりあって濁る」ということが無いのがすごい。白は透明感の無くなる色だが、モネは白で透明感を出すのがすごい。
また、線で物を描こうとしないのが偉い。モネは色面で物を描くのがうまい。横山大観も若い頃は朦朧体で始まったが、晩年は線で形を描いた。
モネは頭の中にイメージ・理想を描き、それを、自然を、自分に引き寄せるのがうまい。自然をわしづかみにして、自然に挑みかかった。
モネの絵は、そばに行ってみると筆のタッチだけ。引いてみると、それが色面・色の塊になって見えてくる。とにかく、白が強い。
2009年に《陰鬱な荒野》(東京ステーションギャラリー蔵)を制作して国立新美術館に出品した時、モネが脳裏に刻まれていると感じた。
白には神経を使うが、効果は高い。白はモネが、黒はマネがうまく使った。マネは人物のバックなどの色面に黒を使った。それが新しい。
私は仕事に行き詰まると、佐倉市のDIC川村記念美術館か上野の国立西洋美術館に行ってモネを見る。1972年にオランジュリー美術館に行ってモネの睡蓮の部屋に入った時には、絵が自分に迫ってくるように感じた。3、4年前にオランジュリー美術館に行ったときは、空間が変わっていた。明るすぎると感じた。

◎モネの《睡蓮》、セザンヌの《大水浴図》、マティスの《ダンス》
現代の絵画の一つの頂点はモネの睡蓮の壁画とセザンヌの《大水浴図》、マティスの《ダンス》。この3つが頂点だと思う。マティス《ダンス》のグリーンとブルーはモネの白を受け継いでいる。3人の巨匠の作品は、どれもブルー、白、黒がうまい。
モネは柳と睡蓮で、自然への恐れに対して、自然を光、大気などを媒介として作品を描いている。自然に対する取り組み方が違う。自然を脚色している。
セザンヌは自然を練り直している。セザンヌは自然に恐れをなして練り直す。セザンヌは自然に対してベールをかけた作品。
モネは、水、光、大気、空間、季節など、変化していくものを媒介にした、そういうものをテーマにした作品を描いた。
モネは色彩(が素晴らしい)。(それに対し、)現代アートは色彩を蔑ろ(ないがしろ)にしているような気がする。色彩に対する取り組みがオズオズしていて、臆病。色彩を前に出さない。色彩をバチッと出してくる現代美術が見たい。色彩に対して貪欲に、作品に色彩を出して欲しい。

◎私の制作、今までとこれから
私は、アクリル絵の具で作品を描くときは、午前9時から午後4時までかけて一日で1点描いていた。2017年の《振動する風景的画面》では描き込んだため、完成までに2カ月かかった。この時は、新しい光が自分の前に出てきたような気がした。
モネも積みわらの色彩を描き上げたとき「これが新しい自分なんだ。これで自分は生きられるんだ」という経験があったという。それが、ジヴェルニーの睡蓮、水面、日本の橋を30年間描き続けるきっかけ。
モネは「印象派のモネ」だが、印象派からこれほど離れた作家も珍しい。モネは「モネ以外の何物でもない」という印象を強くした。
私は、あと10点くらい大きな作品を描きたい。もう一歩、理想に近づきたい。より高みから描けるようになったら、それが筆を置くとき。それまでは丸筆で頑張りたい。「絵は塗るものじゃない、描くものだ。丸筆を使いなさい」と、小学校5年生の時に絵画教室の先生から言われたことを、私は今も守っている。

◆講演後のQ&A
Q:本展の出品作品2点のタイトルは、どちらも《振動する風景的画面》。同じタイトルにした理由は何ですか。
A:《振動する風景的画面》は、私の好きなタイトル。「松本さんの絵は、毎日違って見える。揺れ動いているように見える。」と、言ってくれるコレクターがいる。「風景的画面」、それが私の自然。作家は自然に学ぶしかない。深く考えないで、素直に見てほしい。

Q:2017年制作の《振動する風景的画面》は2カ月間描いて、どこで「やめる」という決断をしたのですか。
A:山本さんに励まされて描き続けた。「ここなんだ!」というのは、感覚的なもの。ある日、突然に終わりがやってくる。
ピンクの絵をアクリル絵の具で描いていたときは、強引に中断した。アクリル絵の具で制作しているときは、描き始めたら休めない。

Q:モネの場合、「描きすぎて失敗した」という話はありますか。
A:モネは、しつこい人で粘着質だったと思う。しかし、晩年の睡蓮は思い切りがいい。あそこで人が変わったのではないか。スーとした感覚の人に変わっていった。

◆作家を囲む会
 午後5時から、松本さん、山本さん、名古屋市美術館の関係者を招待して、会員20人の参加で作家を囲む会を開催。軽食とお酒、ソフトドリンクをテーブル並べ、午後7時まで歓談しました。途中、サプライズ企画として、松本さんの誕生日をささやかなバースデー・ケーキと「ハッピー・バースデー」の合唱で祝いました。お開きの前に松本さんから「来年10月から、東京・八丁堀のヒノギャラリー(東京都中央区入船2-4-3 マスダビル1階)で個展を開催する。白い作品に挑戦したい。」というお話がありました。

松本陽子さん、バースデーケーキと

松本陽子さん、バースデーケーキと


お酒とお料理に会員たちもゴキゲンです

お酒とお料理に会員たちもゴキゲンです



松本さんの図録をひろげて…

松本さんの図録をひろげて…

間近で見る松本さんは、82歳とはとても思えないエネルギッシュな方で、目力(めぢから)の強さにも圧倒されました。この精神力・体力があるからこそ、あれだけの大作が描けるのだと納得しました。                                   
Ron.

「モネ それからの100年」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「モネ それからの100年」(以下、「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は80人。参加人数が多かったので、先ず、講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。ギャラリートークは、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
以下は、概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものです。

◆本展の概要について(深谷さん)
◎名古屋市美術館で開催するモネ展は、30年間で4回
本展は名古屋市美術館で開催する4回目のモネ展。第1回は1994年で、内容は回顧展。第2回は2002年で「睡蓮の世界」=睡蓮を描いた作品だけの展覧会。第3回は2008年で、マルモッタン美術館所蔵の《印象 日の出》中心にした展覧会。第4回が本展で、「それからの100年」をテーマにした展覧会。
印象派のコレクションを持たない美術館で、30年の間に4回のモネ展を開催するというのは珍しいケース。なお、4回の展覧会は、全て私が担当しました。

◎「それからの100年」というテーマについて
「それから」とは、モネがオランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」を描いた1914年頃を指す。本展のテーマは「睡蓮の壁画が描かれてからほぼ100年経ち、モネの作品が後世の作家にどのような影響を及ぼしているか」を示そうというもの。
本展は89点の作品を展示しているが、モネは26点で、残り63点は現代美術。現代美術のうち、スティーグリッツとスタイケンの写真は19世紀の終わりから20世紀初めのものだが、大半は1950年代以降のもの。
昨日、閉館後に51名の参加で「名画の夕べ」というイベントを開催したところ、1名の参加者から「モネが26点では、モネ展ではない。」という意見があった。チラシ等には「モネと、彼に影響を受けた現代の作家たちとを比較検討」という断りが入っているが、「全部がモネの作品」だと思って来場する人が出るのは止むを得ないと思う。ただ、残り50名の参加者からは「モネ展ではない。」という声は聞かれず、一安心した。

◎モダン・アートの原点はセザンヌからモネへ
かつては「モダン・アートの原点はセザンヌ」という考えが一般的で、モネをモダン・アートの原点に置く人は少なかった。しかし、最近「セザンヌもモダン・アートに影響を与えているが、モネはそれ以上に大きな影響を与えているのではないか。」という考えの人が増えている。
 美術館の展示室に作品が並んでいるのを見ると、事前に思い描いたイメージとは違っていることがある。本展の展示も事前のイメージとは違っていた。それは「いい方」への変化だった。つまり、展示室の作品を見て「モネと現代美術はシンクロしている、つながっている。」という思いを強くした。本展に来場した大半の人も、感覚的に「つながっている」と感じてくれたのではないかと思う。
 モネが好きな人はたくさんいる。本展で、現代アートにアレルギーを持つ人が少なくなると、うれしい。

◎「睡蓮の部屋」オープン時、モネは「過去の人」だった
モネは1926年12月に死去。その半年後の1927年5月にオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」がオープン。しかし、1910~20年代「モネは過去の人」という評価で、オープン時の「睡蓮の部屋」は閑古鳥が鳴いていた。
それが、1940年代後半から1950年代になって、アメリカ現代美術の作家を中心に「モネは先駆的な活動をしているのではないか。」と、モネの作品全体に対する評価が上がり、現代に至っている。
なお、オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は楕円形の部屋二つで構成されており、睡蓮の大壁画22枚が展示されている。

◎晩年のモネと抽象画
本展に展示の《バラの小道の家》(1925)はモネの絶筆(最後の作品)だが、タイトルがなければほとんど抽象画。モネ晩年の10年間は、白内障のため視力が低下。画商のデュラン・リュエルは「今のモネは、ほとんど目が見えないのでは。」という言葉を残しているが、モネがどこまで見えていたのかは、よくわからない。
ただ、睡蓮の池と太鼓橋を描いた1899年の作品と1919年の作品を比べると、1919年の作品はほとんど抽象画。(注:いずれの作品も、本展では展示していない)
ヨーロッパの美術の歴史をたどると、1910年代はモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの前衛美術や抽象画が勢いを持っていたが、第一次世界大戦後の1910年代終わりから1920年代にかけては流行が古典的なものに戻り、エコール・ド・パリなどが勢いを持った。
1910年代のモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの抽象画と比べたら「睡蓮の部屋」は、少しもおかしくない。しかし、モネが「睡蓮の部屋」を描いた1920年代は、復古的風潮が主流であったため、理解されなくても不思議ではなかった。

◎睡蓮を描くまでの、モネの遍歴
本展に展示の《サン=シメオン農園前の道》(1864)は、ノルマンディーの風景を描いたもの。モネは1840年にパリで生まれたが、5歳の時にノルマンディーに移る。若い頃のモネは、コロー、テオドール=ルソーなどのバルビゾン派の作品をお手本にして絵を描いていた。
ノルマンディーの風景を描いた《ヴァランジュヴィルの風景》は日本美術の影響を受けた作品で、葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1831-34)(注:本展では展示していない)と構図が似ている。北斎の絵の左下に逆三角形の部分があるが、モネの絵の海面も同じように逆三角形。ただし、実際の海岸線はモネの絵と違って、湾曲していない。湾曲した海岸線はモネの創作と思われる。実は、北斎の逆三角形の部分も創作らしい。
1880年代の終わりから、積みわら、ルーアン大聖堂、チャリング・クロス橋などの連作が始まる。睡蓮の連作が始まったのは1906年。最初は、睡蓮だけを描いていたが、だんだんと水面に映っているものも描きはじめ、睡蓮の実体と水面に映っている空や木々の影を等価で描くようになる。ジヴェルニーの睡蓮の庭の写真を見ると、水面に映っている空や木々の影の存在が強い。睡蓮と水面は一体のものに見える。
1914年から、モネは「睡蓮の壁画」のための下絵を描きはじめる。「睡蓮の壁画」の本画に使われた下絵は少ないが、本展に展示の《睡蓮、水草の反映》(1914-17)は本画に使われている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術とモネ
モネの睡蓮は、制作当時なかなか評価してもらえなかったが、第2次世界大戦後のアメリカで、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコといった作家がモネの晩年を見直すようになる。
これには、アメリカの戦略的側面もある。ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには「突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている。」という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである。
このような流れを踏まえると、本展では是非ともポロックの作品を展示したいと思ったが、保険金が高すぎて断念した。モネの睡蓮は「身体性」と「中心が無い表現」がポロックの作品と共通している。
スライドで写しているのは、アメリカで開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品したヨーロッパの画家たち。第2次世界大戦中、戦火を逃れてシャガールやモンドリアンなどがアメリカに亡命した。彼らの存在はアメリカの作家に影響を与え、戦後の抽象表現主義の誕生につながった。

◎本展に展示の現代アートについて
本展に展示のモーリス・ルイス《ワイン》(1958)は、色の感じや全体の雰囲気がモネの作品に似ている。福田美蘭の新作《睡蓮の池》(2018)については、保崎さんのギャラリートークを聞いて下さい。

◎7月から開催する「ビュールレ・コレクション」でも睡蓮が
本年7月28日から名古屋市美術館で開催する「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」では、高さ2m、横4.25mの《睡蓮の池、緑の反映》が展示される。スイスから出るのは初めての作品なので、是非、来場を。また、8月5日(日)午後2時から大原美術館館長・高階秀爾氏の講演が開催されるので、興味のある人は参加を。
(注:以下は補足)
高階秀爾氏の講演だけでなく、8月18日(日)及び9月15日(日)午後2時からは深谷副館長の作品解説会があります。事前申し込み制で、申込締め切りは7月22日(必着)。申込方法は、名古屋市電子申請又は往復はがき。往復はがきの場合は、郵便番号・住所・氏名・電話番号・聴講希望日(1つまで)・聴講人数(2名まで)を記入し、〒460-0008 名古屋市中区栄2‐17-25 名古屋市美術館「講演会/解説会」係まで 応募者多数の場合は抽選。詳細は名古屋市美術館HPで。

1階で深谷副館長の解説をきく会員

1階で深谷副館長の解説をきく会員


◆1階の展示について(深谷さん)
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》など
展覧会の概要解説を聴いた後、1階展示室に移動すると、モネ《ヴィレの風景》(1883)と丸山直文《puddle in the wood2 5》(2010)の前に集合して、「立ちあがる色彩と筆触」という副題について、「モネは何を描くかというだけでなく、色彩それ自体の魅力や筆致を楽しんでいる。」などと解説を聴きました。
続いて、深谷さんから「二つの絵を比べて、どんな点が似ていると思いますか。」という質問。参加者が「どちらも、森の木々と水面を描いている。」「色の感じが似ている。」などと回答すると、深谷さんは「昨日の『名画の夕べ』では、『この二つの絵のどこに共通点があるのか具体的に説明して下さい。第一、丸山直文の絵は筆で描いたものではなく、絵の具を沁み込ませて描いていますよね。』という質問があり、答えに窮しました。」とのお話。「この二つの絵は、厳密に一対一で対応しているわけではなく、ゆるい対応です。本展には26人の作家の現代アートを展示していますが、モネの影響を受けていると表明している作家は半数。残りの作家はモネの影響について本人が言ったわけではなく、影響があるのではないかと推測しているにすぎません。」と、話は続きました。

・ジョアンミッチェル《湖》・《紫色の木》
ジョアンミッチェルはアメリカ出身の女性画家で、モネを敬愛し、モネの影響をはっきりと表明しています。《湖》(1954)はミシガン湖のイメージを描いたもの、《紫色の木》(1964)は、フランスにわたってからの作品。
なお、赤い壁に展示されているのはモネの作品。現代アートは白い壁に展示。

・モネの作品の変遷
最初の2点はバルビゾン派の影響を受けた作品。《サン=タドレスの断崖》(1867)は印象派の先駆的作品。典型的な印象派の活動があったのは1870年代で、1880年代になると印象派の作家たちはそれぞれの道を歩むようになる。7月28日から始まる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」で展示されるルノワール《イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》(1880)は、古典的な絵画に回帰した作品。
モネも1880年代に方向転換をしている。1880年代は試行錯誤を続けていたが、1880年代の終わりから積みわらやチャリング・クロス橋などの連作を始めた。

・ルイ・カーヌ、岡﨑乾二郎、中西夏之
ルイ・カーヌはモネを敬愛した作家。本展では《彩られた空気》(2008)が話題になっている。金網の表面に絵の具を塗った作品で、展示室の白い壁に絵の具の影が映り、絵の具とその影が重なって見える美しい作品。
岡﨑乾二郎の作品(注:題名が長すぎて書ききれません)は2点が対になっており、左右の作品は同じようなモチーフを描いているが、色彩と形が少し違っており見比べると面白い。また、絵の具の「塗り残し」をうまく生かしている。
中西夏之《G/Z 夏至・橋の上 To May Ⅶ》(1992)と《G/Z 夏至・橋の上 3ZⅡ》(1992)については、深谷さんから「この絵については、第2章 形なきものの眼差し 光、大気、水 に展示する方が適切だと思われるが、なぜ第1章に展示しているのか、という質問があり、回答に窮した。確かに、第2章でもおかしくない。ただ、第1章・第2章の展示作品は厳密に分けているわけではなく、アバウトな要素もある。」との話がありました。

◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
・スティーグリッツとスタイケンの写真
第2章には19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて撮影された、スティーグリッツとスタイケンの写真が展示されています。深谷さんに聞いたら「横浜美術館からの提案で展示」とのこと。確かに、うち3点は横浜美術館の所蔵品です。第2次世界大戦後の作品ではありませんが、「光、大気、水」という副題にふさわしい展示でした。

・ゲルハルト・リヒター
深谷さんのお話では、個人的な好みを言うと、ゲルハルト・リヒターの2つの作品と岡﨑乾二郎の作品が本展の現代アートでは「イチオシ」とのことでした。なお、ゲルハルト・リヒターの2つの作品は金属板に描かれているため絵の具が完全には定着しておらず、作品を運搬する際は「平らにして運ぶ」よう気を付けているとのことです。

・モネの作品
第2章では、青色の壁にモネの作品を展示。青い壁の一番右に空白があるが、この空白部分には5月22日から作品(注:《雪中の家とコルサース山》(1895))が展示される。
チャリング・クロス橋はテムズ河にかかる鉄道橋で、霧のロンドン(実は石炭を燃料として使うことにより発生したスモッグ)がテーマ。モネは二十数点を連作した。

◎自由観覧のなかで
「睡蓮の壁画」について深谷さんから話がありました。「モネはオランジュリー美術館所蔵の22点以外にも睡蓮を描いている。22点以外の作品は長い間忘れ去られていたが、1940年代に巻かれたキャンバスの状態で保管されているのが発見され、その多くはアメリカのコレクターが買い取り、一部はヨーロッパのコレクターも買った。再発見された当時、睡蓮の評価は高くなかったので値段は低かった。その時に買い取られた作品のうち1点が巡り巡って、今、直島にある。」とのことでした。
また、6月10日(日)AM9:00からのNHK・Eテレ「日曜美術館」の本編で「モネ それからの100年」が紹介され、深谷さんも出演するとのことです。お見逃しなきよう。

2階で保崎学芸員の話をきく会員

2階で保崎学芸員の話をきく会員


◆2階の展示について(保崎さん)
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネ《睡蓮》のうち、1897-98年制作の作品2点
2階のギャラリートークは、第4章のうち、モネの作品が展示してある小部屋に集合してスタート。保崎さんによれば「モネ・睡蓮の連作の締めくくりは、オランジュリー美術館・「睡蓮の部屋」の壁画22枚。高さ2m、横6m又は高さ2m、横4.5mの作品。皆さんが向かっている壁には《睡蓮》というタイトルの作品が3点されているが、そのうち真ん中の作品は1906年制作、左右が1897-98年制作。3点を比べると、睡蓮を描きはじめた1897-98年制作の2点は、いずれも睡蓮の花・葉が大きい。クローズアップした画面で、水面の面積はそれほど広くない。2点を比べると、向かって左の作品の方が光を強く描いている。」とのことでした。

・モネ《睡蓮》のうち、1906年制作の作品
モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年で、57歳の時。モネは86歳まで生きたので、人生の半分は睡蓮を描いていたことになる。モネがジヴェルニーに転居したのは1883年。最初は借家だったが、1890年に家と土地(注:9,200㎡)を買い取り、1893年には周辺の土地を購入し小さな池を作った。1897年には睡蓮の連作を始め、1901年に隣地を買い取り、池を拡張。(注:現在、モネの家の土地は2万㎡を越える)1902年から1908年までが睡蓮の連作のピーク。3点並ぶ《睡蓮》のうち真ん中の作品は、連作のピークである1906年に制作されたもの。水面が広く、画面の真ん中を水面が占めている。画面の外には太鼓橋、左にポプラ、右には柳が植えられている。

・モネ《睡蓮の池》
この小部屋の入口横に展示されている縦長の作品《睡蓮の池》(1907)は、ベスト・ポジションから夕陽が沈む睡蓮の池を描いた作品。屋外の自然光と水面の反射による一瞬の色彩を素早い筆致で描いている。画面の外に向かって絵の広がりを感じさせる描き方で、モネの特徴が一番よくわかる作品。風景なのに、縦長の画面に描いているのが面白い。水面に映る夕陽の反射が縦方向の流れを作っている。

・福田美蘭《睡蓮の池》
福田美蘭《睡蓮の池》(2018)は、高層ビルのレストランを描いた作品。テーブルを葉、キャンドルを花と、睡蓮に見立て、マネの大胆な筆致をまるまる真似ている。福田美蘭の作品はいつでもウイット(機知)に富んでいるが、この作品でもモネの屋外・自然光という組み合わせに対し、室内・人工光という組み合わせにするなど、モネの逆を行っている。外にも、モネの水面に対し高層ビルを、水面への(下への)映り込みに対し窓ガラスへの(上への)映り込みを配すことにより、モネの「睡蓮の池」を自分のスタイルで描き、モネへのオマージュとしている。

◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
第3章は、全て現代アート。モネを再評価して、継承した作品が並ぶ。抽象表現やポップ・アートはモネと同じ視点に立った作品。例えば、アンディ・ウォーホル《花》(1970)は、雑誌に載っていた花の絵をコピーし、様々な色でシルクスクリーンのプリントをした作品。「複製がオリジナルを越えた」もの。

◆お開き
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。参加者は、三々五々と美術館を後にして、午後7時には全員が帰路に着きました。
Ron.

山田純嗣さんを招いた「作家を囲む会」

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor

会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます!

会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます!


2018年版の名古屋市美術館協力会カレンダーを制作された山田純嗣さん(以下、「山田さん」)をお招きした「作家を囲む会」(以下、「囲む会」)が、3月25日(日)に名古屋市美術館1階の ”Sugiura Coffee” で開催されました。
山田さんは2012年に開催された「ポジション展」時の囲む会以来、6年ぶりの参加です。今回のゲストは山田さんと名古屋市美術館の保崎学芸係長(以下、「保崎さん」)、協力会の会員は23名、計25名の参加でした。
お料理にお酒で盛り上がる会員たち

お料理にお酒で盛り上がる会員たち


当日はシャンパーニュの差し入れもあって大いに盛り上がり、あっという間に二時間が過ぎてしまいました。
山田さん、保崎さん、ご出席ありがとうございました。
作家の山田純嗣さんと美女たち

作家の山田純嗣さんと美女たち


学芸員の保崎さんも、山田さんを熱く語ってくださいました

学芸員の保崎さんも、山田さんを熱く語ってくださいました


以下、囲む会での話題を二つご紹介します。
◆「めがねと旅する美術展」
囲む会では、山田さんから「めがねと旅する美術展」に作品を出品するとのお話がありました。会場・会期は、①青森県立美術館 H30.7.20(金)~9.2(日)、②島根県立石見美術館 H30.9.15(土)~11.12(日)、③静岡県立美術館 H30.11.23(金・祝)~H31.1.27(日)です。
静岡県立美術館なら見に行けそうですね。
◆高校生の時に見た《赤いチョッキの少年》
 また、囲む会では2018年版名古屋市美術館協力会カレンダー(以下「カレンダー」)制作の裏話が披露されました。
 会員の皆様はご存じのとおり、カレンダーはセザンヌ《赤いチョッキの少年》をモチーフにしたもので、「少年」の画像は輪郭線を残して白抜きになっており、背景には植物や昆虫、鳥、ケモノが丹念に描きこまれています。
 この《赤いチョッキの少年》ですが、山田さんが高校生の時に展覧会で見て感動した作品だというのです。思い出の作品だったのですね。
なお、《赤いチョッキの少年》は、名古屋市美術館においてH30.7.28(金)から9.24(月・祝)までの会期で開催される「ビュールレ・コレクション展」で展示されるとのことでした。
           Ron.

真島直子 地ごく楽

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


 3月10日土曜日、日中は少し暖かいのですがまだ朝晩は冷えるなか、名古屋市美術館での『真島直子 地ごく楽』展のギャラリートークが開催されました。37名がトークに参加し、担当学芸員角田美奈子さんの解説に熱心に聞き入り、真島さんの色美しくも少しグロテスクな印象も否めない、なんとも興味深い作品を鑑賞。しかし見終わった際には、参加者はすがすがしい思いに包まれました。
 白い大きなキャンバスに鉛筆の黒のみで細かなドローイングをびっしり書き込んだ作品や、木工用ボンドで様々な色の布や紐を固めて作られた立体作品など。点数は決して多いわけではありませんが、1つ1つの作品が強いインパクトを放っていて、作品を観る一人ひとりに何か訴えているようでした。
 そして忘れてはならないのは、2階展示の最後の方、いわば展覧会クライマックスの位置に、名古屋市美術館協力会で美術館の開館25周年を記念して購入、寄付した真島さんの作品が飾られています。協力会の会員みなさま、ありがとうございました。またこのような素晴らしい作品を寄付できるよう、がんばりましょう。

解説を聞きながら

解説を聞きながら


 さらに、今回は地下の常設展示室に名古屋のシュルレアリズムと題して、名古屋で活躍した作家さんのシュルレアリズム絵画が紹介されています。名古屋市美術館所蔵の作品が展示されているのですが、こちらもとても力強い作品が多く、名古屋画壇もこんな素晴らしい作家さんたちを輩出していたんだ!と驚きました。真島直子さんの父親である眞島建三さんの作品も展示されています。真島直子さんの展覧会にいらっしゃったなら必見です(その他、北脇昇さん、吉川三伸さん、三岸好太郎さんなど)
お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!

お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!


協力会

体験しました「シャンパーニュの夕べ」

カテゴリ:協力会事務局 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「シャガール 三次元の世界」展の関連イベント「シャンパーニュの夕べ」を体験しました。
◆受付
当日は、美術館2階・講堂入口の受付で参加料5,000円を支払い、関係資料と観覧券1枚、シャンパン引換券2種・各1枚が入った透明ビニールの手提げ袋を受け取りました。イベント開始まで資料を眺めながら、講堂内で暫しの休息。
◆展覧会の見どころ解説
 午後5時から、深谷副館長による「展覧会の見どころ解説」が始まりました。深谷副館長によれば、「シャンパーニュの夕べ」は「ランス美術館展」の関連イベントとして開催したのが初の試み。幸いに評判が良く、今回、2回目となる「夕べ」の開催に至ったとのことでした。
◆ギャラリートークと自由鑑賞
 午後5時半に1階の展示室へ移動。展示室内で絵画と彫刻の《誕生日》、《座る赤い裸婦》、《彫刻された壺》などについてギャラリートークがあり、その後は自由鑑賞。午後6時には2階の展示室に移動。《エルサレム〈嘆きの壁〉》、《過越祭》、《アルルカン》、羊の骨を素材にした《二重の横顔》、《ヴァヴァの肖像》などについてのギャラリートークの後、自由鑑賞となりました。
◆シャンパンと軽食のサービス
 午後6時半頃には展覧会の鑑賞を終え、地下1階のロビーに移動。ロビーでは数か所にテーブルが置かれ、テーブルごとに8つのプレート。各プレートには一人分の軽食とおつまみが盛り付けられ、参加者は机・プレートを一つ選ぶことができます。
自分の机・プレートを決めて一杯目のシャンパンを賞味。イベントに協力の「株式会社ヴァンパッシオン」がシャンパーニュ・ジャクソン(Champagne Jacquesson:小売価格10,000円)を細長いフルート型シャンパングラスで提供。「少しずつ口に含んで、味わいながらお楽しみください。」というアドバイスに従いジャクソンを飲み終えた頃、二杯目のエグリ・ウーリエ(Domaine Egly Ouriet:小売価格12,000円)の提供が始まりました。こちらは、広口のクープ型シャンパングラスに注がれ、「グラスを水平にゆっくり回し、香りを楽しんでください。」とのアドバイス。
ペンネやソフトドリンクの提供も始まり、ケーキなどのデザートも出ました。気が付くと午後7時半。「シャンパーニュの夕べ」は続いていましたが、ほろ酔い気分で美術館を後にしました。
◆感想など
 解説がわかりやすく、ギャラリートークと自由鑑賞の時間配分は半々で、存分に展覧会を楽しめました。閉館後のイベントですから、まさに「貸し切り」。贅沢なひと時が味わえます。シャンパンと軽食のサービスも、普段は「飲食禁止」の地下1階ロビーを使うのですから、これも「スペシャル・タイム」。いま流行りの「コト消費」を満喫しました。
 ただ、「発展途上」のサービスもあります。一回目の時は、「食べ物がない」という参加者が居たとか。今回は各参加者に一つプレートがあるので、安心して食べることができました。なお、チケットをすでに持っている方からは「チケットを持っているのに、何で観覧料まで払うの?」という声もあがりました。
また、会場では「ペンネがアルデンテじゃない。」「シャンパンに合ったおつまみにして。」などの声も聞かれました。次回はどんな進化を遂げているか、楽しみです。
Ron.

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