お知らせ

2025年8月18日

2025年協力会イベント情報

現在、下記のイベントの申し込みを受け付けています。

1.近代名古屋の日本画界(常設企画展) 協力会向け解説会 名古屋市美術館 令和7年1026

参加希望の会員の方は、ファックスか電話でお申し込みください。ホームページからの申し込みも可能です。

なお、次回特別展の「藤田嗣治 絵画と写真」の解説会は、アンケートを実施しています。ファックスまたは、下記のアンケートサイトから希望時間帯をお知らせください。後日、開催日をお知らせします。

最新の情報につきましては随時ホームページにアップしますので、ご確認ください。また、くれぐれも体調にはご留意ください。

10月からギャラリートークの形式が変更になりますので、会員の皆様の参加希望をアンケートさせていただきます。アンケートはこちら(受付期間:8月10日~9月10日まで)

これまでに制作された協力会オリジナルカレンダーのまとめページを作りました。右側サイドメニューの「オリジナルカレンダー」からご覧ください。

事務局

「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」への期待

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 先日「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「ゴッホ展」)の特設サイト(https://gogh-2021.jp/comp.html)が更新され、ゴッホ展の構成や出品される作品の一部が公開されました。そして、DVDで見た映画「ヘレーネとゴッホの森 クレラー=ミュラー美術館の至宝」(以下「映画」)の記憶が甦って来ました。

1 ヘレーネ・クレラー=ミュラーに光が当たる

映画は、ゴッホ作品の収集家でクレラー=ミュラー美術館の創立者ヘレーネ・クレラー=ミュラー(以下「ヘレーネ」)に光を当てていましたが、ゴッホ展でも独立した「章」があるとのことです。映画だと、資金不足で美術館の建築現場が閉鎖された後の話は「結局、公共の美術館にするという条件で規模を縮小して国が建設した」という簡単なもので、モヤモヤが残りました。ゴッホ展ではヘレーネについてどんな展示があるのか、楽しみです。ヘレーネについて、もっと知ることができるのではないかと期待しています。

2 モンドリアンの作品も出品される

映画では、ヘレーネのコレクションについて「ファン・ゴッホのほか、モンドリアン、ピカソ、レジェなど、多数ある」と言っていましたが、ゴッホ展ではモンドリアン《グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション》が出品されるとのことです。「菱形の作品」というのは珍しいですね。他にも、ルノワールやスーラなどの作品が出品されるようです。

3 オランダ時代の素描が多数出品される

映画では、「ファン・ゴッホの手紙」の編集者が、ゴッホについて「彼は2人分の芸術家なんだ。優れた画家で、天才的な素描家でもあった」と言っていたのが印象的でした。ゴッホ展では「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」という独立した「章」があります。素描は20点ほど出品されるとのことなので、楽しみです。

4 映画で紹介された作品も多数出品される

特設サイトを見て甦った映画の記憶は、何といっても《レストランの内部》や《夜のプロヴァンスの田舎道》などについて熱く語っていたマルコ・ゴルディン(イタリアで開催された ”Van Gogh – Tra il grano e il Cielo”=「ファン・ゴッホ 小麦と空の間」展のキュレーター)の姿です。「本物が見たい」と、強く思いました。来年になれば、それらの作品が名古屋市美術館に来るのです。今からワクワクします。

最後に

ゴッホ展では《黄色い家(通り)》を始めとしたファン・ゴッホ美術館のコレクションも、4点出品されるとのことなので、こちらも楽しみです。

Ron.

豊田市美術館 「モンドリアン展」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

豊田市美術館で開催中の「生誕150年記念 モンドリアン展 純粋な絵画を求めて」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。熱中症警戒アラートが発令されていたことなどから参加者は申し込みを下回り、11名でした。講堂で石田大祐学芸員(以下「石田さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。豊田市美術館の年間パスポートを持っている会員がいたので年間パスポートを持っていない参加者に「同伴者割引」が適用され、観覧券は団体料金(1400円→1200円)。このことは警備スタッフにも連絡が届いており、開館後速やかに対応できました。豊田市美術館の皆さま、ありがとうございます。

◆石田さんの解説(10:10~50)の要旨(注は、筆者の補足です)

・ハーグ派の風景画

 モンドリアンは、世界で初めて抽象画を描き始めた画家の一人。オランダ中部の地方都市アメスフォルト(アムステルダムの郊外)に生まれています。スライドはシモン・マリスの絵。自転車のハンドルに絵具箱を取り付け、どこでもスケッチできるように改造しています。モンドリアンは自転車で移動してスケッチを行い、アトリエに帰ってから風景画を描くというやり方で「標準的な絵」を描いていました。

 モンドリアンは、叔父のフリッツ・モンドリアンから絵を習いました。作風はバルビゾン派の影響を受けたハーグ派のもので、リアリズムの絵画です。ハーグ派は、小さなコミュニティーの中でよく似た作品を描いています。しかし、モンドリアンの絵は少し変わっていました。スライドは《田舎道と家並み》(1898-99年頃、No.3=注:作品名のNo.は作品リストの番号。以下同じ)。家が画面の上の方に描かれているので、手で画面の上半分を隠して下半分だけにすると、何が描いてあるかよく分かりません。(注:確かに、下半分だけだと抽象画のように見えます)

・点描の風景画

 スライドは《砂丘Ⅲ》(1908、No.34)。オランダの南の保養地(リゾート)ドンブルグで描いた作品です。次のスライドは《ウエストカペレの灯台》(1909、No.37)。ドンブルグにある灯台を描いたものです。その次は《オランダカイウ(カラー);青い花》(1908-09、No.37)。普通、カラーの花は白又はピンクですが、この作品の花は青色。照明を落とした状態で描いたものです。オレンジ色(注:中心の棒状の部分=小さな花が密集したものです)青色(注:花びらに見えるロート状の部分=苞、つまり小型の葉です)は補色関係なので、目がチカチカする描き方です。

 ドンブルグには点描の画家=ヤン・トーロップのコミュニティーがあり、ジョルジュ・スーラもいました。ヤン・トーロップの描いた農夫の絵を見ると、農夫は正面向きで窓の外には教会の高い塔が克明に描かれています。なお、モンドリアンの灯台や教会の絵も、下絵を見ると建物の外壁や窓を克明に描いています。

 この頃、モンドリアンは神智学に熱中しています。神智学はロシア出身のヘレナ・ブラヴァツキーがギリシャ哲学や仏教、バラモン教などの幅広い宗教や思想を参照しながら、宇宙や生命の神秘にたどり着こうとしたもので、オカルトブームの元祖です。ヤン・トーロップやモンドリアンは、神智学の説く崇高な力の象徴として、灯台や教会などの高い塔を描きました。

・キュビスムの風景画

1911年、モンドリアンはピカソやブラックとともにオランダでキュビスム風の展覧会を開催しました。スライドは《色面の楕円コンポジション2》(1914、No.43)。下絵には「KUB」と書かれた看板のある建物が描かれています。そして、この作品の画面右下にも「KUB」という文字が読み取れます。といっても「K」は一部が欠けていますが……。次のスライド《コンポジション 木々2》(1912-13、No.42)は、何を描いたのかよく分からないと思いますが、下絵を見ると二本の樹木を描いたものです。

キュビスムの作品は、人物画や静物画が多いのですが、モンドリアンは街の風景をキュビスムで描いています。「もともと、風景画家だったから」でしょうか。

このスライド《コンポジション(プラスとマイナスのための習作)》(1916頃、No.45)になると、斜めの線が無くなります。建物の正面を描いたものと思われます。

・補色の対比で画面を構成

《色面のコンポジションNo.3》(1917、No.46)は、白地に青・赤・黄の四角形を描いたものです。モンドリアンは、白地と四角形、補色関係の四角形といった対立関係にあるものは混ぜないで描いています。モンドリアンは「それぞれの色は対等であることが必要」と考えて、作品を制作しています。

《格子のコンポジション8-暗色のチェッカー盤コンポジション》は、格子で囲まれた中を青・赤・オレンジで塗り分けたもので、モンドリアンは「特定の何かを描く」ことを避けて制作しています。

 《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》(1921、No.51)の黒い線は十字形がつながっているもので、画面を縦横に区切る線ではありません。それぞれの色面は隣の色面とのバランスを考えて色を塗っています。この作品では灰色が重要で、灰色の色面を見つめた後、隣の色面に目を移すと、その色が鮮やかに見えるような仕掛けを施しています。

・デ・ステイル

モンドリアンは、絵画だけでなく音楽や建築など、生活・芸術全般に関心があり、デ・ステイル(様式)というグループを立ち上げます。展示の最後にはデ・ステイルに参加した画家の作品や建築家ヘリット・トーマス・リートフェルトの作品も展示しています。写真撮影可能なエリアもありますので、お楽しみください。(以上で、解説の要約は終了)

◆自由観覧

石田さんの解説を聴いた後、展示室に入ると、日曜日ということで人出が多く、若い人が目立ちました。とはいえ、展示空間が広いので「密」という感じはありません。石田さんから「本展では展示空間を広く取りました」という説明がありました。どの入館者もマスクをして、お互いの距離を空け、静かに鑑賞しているので、安心して作品を楽しむことができます。ただ、「参加者で小さなグループを作り、小声の会話の楽しみながら鑑賞する」という「以前の鑑賞スタイル」ができないことは、少し寂しいですね。

帰り際、1階と2階をつなぐ大階段で、にぎやかに撮影会?をしている若者のグループがいました。

◆愛知県美術館「点描の画家たち」ミニツアー(2014.03.21)の思い出

石田さんの「補色関係」という言葉を聴いて、2014年3月21日開催の愛知県美術館「点描の画家たち」鑑賞の協力会ミニツアーを思い出しました。「点描の画家たち」はクレラー=ミュラー美術館のコレクションによる展覧会で、愛知県美術館・中西学芸員の解説では、オリジナルコンセプトは「点描」「新印象派」ではなく「分割主義」。分割主義は「色を純粋色に分割して並置する」ということであり、明るく鮮やかな色彩とするため「絵の具を混ぜるのではなく、カンバスの上に並べて、網膜上で一つの色と認識させる」というもので「補色の組み合わせで色彩の鮮やかさを強める手法」とのことでした。

展覧会名は英文表示で ”DIVISIONISM FROM VON GOGH AND SEURAT TO MONDRIAN” =「分割主義 ゴッホ スーラからモンドリアンまで」。「分割主義」の原理で制作されたゴッホやフォーヴィズム、モンドリアンの作品までを5部構成で展示していました。そのうち、第4部はベルギーとオランダの画家の作品。初めて目にするものばかりでした。メモによればヤン・トーロップの作品も見たはずなのですが、記憶にございません。第5部がモンドリアンの作品。ハーグ派の風景画、キュビスムの風景画、白地に四角形を配置した作品、グリッドで囲まれたコンポジションの4点が出品され、後半の2作品は「色を純粋色に分割して並置する」という分割主義の方法に従った作品でした。当時のメモには「モンドリアンの作品は額まで一体となっているので、大きな額の中に額に入った絵があって面白い」と書いてあります。本展でも、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》について、ミニツアーの参加者から「大きな額の中に、額に入った絵がある」と指摘され、「なるほど」とその着眼点に感心しました。それは良いのですが、当時のメモに記した発見が、記憶からすっぽりと抜け落ちていたことにガックリした次第です。

     Ron.

読書ノート「名画レントゲン」(20)秋田麻早子(週刊文春2021年9月2日号)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆ 堅実な人生を土台にした古き良き思い出  グランマ・モーゼス「美しき世界」(1948)

名画レントゲン(20)は、名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」(以下「本展」)に出品されている《美しき世界》を取り上げています。以下は、記事の抜粋です。

〈通称グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)で知られるアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスは、80歳代で売れっ子の画家になった物語がひとり歩きしがちですが、彼女の作品はそんな背景を知らなくても魅力あふれるもの。(略)モーゼスはドラッグストアで自作のジャムや漬物と一緒に絵も売り物として並べていました。でも売れるのはジャムや漬物だけの日々でしたが、モーゼスが78歳になる1938年、たまたまやってきた美術コレクターのL・カルドアが心惹かれて一枚あたり数ドル、現在の価格でも数十ドル相当の値ですべて買い上げたのが事の始まり。そこからカルドアが奔走し、画商O・カリア、IBM創業者T・J・ワトソンらモーゼスを応援する人々が集まり、現在へと続く名声が生まれました。(略)モーゼスの人気が高まる時期は、アメリカが1929年からの世界恐慌から立ち直り、第二次世界大戦が勃発し参戦していくときで、古き良きアメリカが少しずつ変化していくときでもありました。モーゼスは自分が経験したことの記憶から絵を作り上げ、電柱などの現代的なものは意図的に省いています。細部を描きつつシンプルな画風だからこそ、人々は彼女の絵に思い出を重ねて見ることができます。それは描かれた思い出の美しさの土台に、モーゼスという人が一歩ずつ堅実に踏みしめてきたリアルな人生があるからこそです。(略)モーゼスの絵を見ていると、思い出と希望がわき起こってくるようです。〉引用終り

◆ 協力会向け解説会(2021.07.25)の思い出など

 引用した記事の内容は、協力会向け解説会でも聞きました。《美しき世界》について、井口智子学芸課長は「『どんな絵がいちばん好きですか?』とインタヴューで聞かれた時、『きれいな絵』と答えています」と、紹介しています。展示室で作品と向かい合った時、記事のとおり〈思い出と希望がわき起こってくる〉感じがしました。解説会に参加した協力会員も、同じ感覚を覚えたようで「展覧会に来てよかった」と感想を漏らしていました。

 解説会では値段を聞き漏らしたのですが、<1938年、たまたまやってきた美術コレクターのL・カルドアが心惹かれて一枚あたり数ドル、現在の価格でも数十ドル相当の値ですべて買い上げた〉というのは、すごい話ですね。日本円に換算すると一枚数千円です。タダに近い値段で買い上げられても、〈モーゼスを応援する人々が集まり、現在へと続く名声が生まれました〉というのは、まさにシンデレラ。「アメリカン・ドリーム」の体現です。

 記事は〈モーゼスはドラッグストアで自作のジャム〉を売っていたと書いていますが、解説会では「アップル・バター」の紹介がありました。アップル・バターはリンゴだけを煮つめて作ったペーストです。ジャムの仲間ですが、雰囲気は日本の「あんこ」でした。ドラッグストアで売っていたのは、アップル・バターだったかもしれないですね。

 本展の会期は9月5日(日)まで、会期末が迫っています。再度引用しますが〈モーゼスの絵を見ていると、思い出と希望がわき起こってくるようです〉とのこと、お見逃しなく。

 Ron.

展覧会見てある記「ANIMALS 2021 IN TOYOHASHI三沢厚彦」豊橋市美術博物館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊橋市美術博物館で開催中の「ANIMALS 2021 in TOYOHASHI 三沢厚彦」(以下「本展」)を見てきました。皆さんお馴染みのクマ、ライオン等の大型動物の木彫作品だけでなく、ヤモリ等の小型動物や抽象彫刻、油彩も出品されています。夏休み中なので家族連れが多く、子どもたちが作品を楽しんでいる様子を見て頬が緩みました。子どもたちの良い思い出になると、いいですね。

Ⅰ BEARS(第1会場=第1企画展示室)← 撮影可能

 第1会場に出品されているのは、全てクマ。白、黒、茶色と色も様々で、寝転んでいるクマもいます。彫刻だけでなく、パネルに描かれたクマもいます。どのクマも「猛獣」という雰囲気はなく、「クマのプーさん」や「パディントン・ベア」のような愛嬌があります。動物園の生きているクマとは違い、人間みたいな雰囲気も持っているので安心して鑑賞できるのでしょう。

Ⅱ 動物大行進(第2会場=第2企画展示室)← 撮影不可

 第2会場では、入口から出口に向かってゾウ・キリンからネコ・ウサギに至るまで大小の動物が並んで行進していました。壁にはテナガザルがぶら下がっています。パネルも多数飾られて壮観ですが、残念ながら撮影不可。動物がひしめき合っているので、写真撮影を許可すると、接触事故があってもおかしくないと感じました。

北ラウンジ ← 撮影可能

ユニコーン、フェニックス、ミミズク
ミミズク

 普段は三沢厚彦のウサギを展示している北ラウンジには、ユニコーン、フェニックスとミミズクを展示。茶色のクマと追い出されたウサギは、ラウンジの外からこちらを見ていました。

Ⅲ 過去×現在(第3会場=特別展示室)← 撮影可能

 会場に入ると、サメが大きな口を開けています。その奥にはカラフルなヒトウマ。ここには初期の《彫刻家の棚(画家へのオマージュ)》から最近の抽象彫刻までが出品されており、作品点数が一番多い部屋です。ミミズクやネコなどの小動物の彫刻が多数展示され、カーペットの上には、豊橋公園で拾った石に着色した、見落としてしまうほど小さなウサギもいました。小さなウサギのことは、案内の女性が教えてくれた話。出品リストには掲載されていません。

Ⅳ ホワイトアニマル他(第4会場=第3企画展示室)← 撮影可能

カモシカ、アイベックス

 第4展示室ではライオン、カモシカとアイベックスが目を引き、第5展示室では空想上の動物であるキメラ(有翼で、尻尾はヘビ)と麒麟の存在感が圧倒的です。

キメラ
後ろ姿

◆最後に

本年9月18日に名古屋市美術館で開会する「フランソワ・ポンポン展 動物を愛した彫刻家」も、本展と同じく動物彫刻の展覧会です。チラシには〈ポンポンは入念な観察にもとづいて、動物の体つきや動きの核心をつかみ、形を磨き上げることでその魅力を引き出しました〉と書いてあります。チラシに印刷されている《シロクマ》や《大黒豹》は、シンプルなのに今にも動き出しそうな感じです。これに対して、三沢厚彦の動物彫刻は、我々が持っている動物のイメージを形にした作品。ポンポンとは対照的な作風ですね。作風の違う二人の作家の展覧会を続けて鑑賞できるという機会は、滅多にありません。「フランソワ・ポンポン展」の開会が、今から楽しみです。

Ron.

展覧会見てある記 名古屋市美術館「名品コレクション展 1(前期)」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」を見た後、地下1階に降りて「名品コレクション展」を見てきました。その中で目を引いたのが「現代の美術」に出品されていた、三木富雄《耳》(1972)です。名古屋ボストン美術館・館長を務められた馬場駿吉氏所蔵の、アルミ合金で出来た手のひらサイズの「耳」の彫刻を展覧会で見た記憶はあるのですが、名古屋市美術館で大きなサイズの彫刻を見るのは初めてでした。美術館の人に聞くと「前にも展示したことがありますよ」との返事。ネットで調べると、2012年の「名品コレクション展Ⅰ(前期)」(4/7~5/20)に出品された記録があります。そうすると「田渕俊夫展」のときに見たはずなのですが、全く記憶にありません。当時は、三木富雄《耳》に対する関心が無かったということですね。

◆ 今回、《耳》に目が止まった理由は

2012年の展示を見たはずなのに記憶がなく、今回になって惹きつけられたのは何故か?それは、現代美術作家・杉本博司氏(NHK大河ドラマ「青天を衝け」の題字を書いています)の「私の履歴書」(2020年7月に日本経済新聞へ連載)を読んだからです。杉本博司氏は1970年代半ばにニューヨークに移り住み、篠原有司男、オノ・ヨーコ、荒川修作、河原温などの作家と交流しますが、一番親しくなったのが三木富雄でした。「私の履歴書」第12回は、次のように書いています。

〈三木富雄は「耳の三木」と呼ばれ、耳の彫刻をアルミで作っていた。「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」。これは当時語り草になった。(略)三木が帰国するまでの1年間、多くの時を共に過ごした。(略)三木は私に、「僕は粘土で耳を作りながら壊していく。その過程を写真に撮ってくれ」という。(略)私は意気投合して撮影したが、この作品が後に思わぬ展開を生むことになる。〉(引用終り)

「私の履歴書」第16回の概要は、以下のとおりです。

〈1977年1月、長男の慧が生まれた。(略)私は5年ぶりに、妻と初孫の顔を両親に見せるためもあって帰国した。(略)三木富雄は先に帰国していて、私との共同制作作品を、南画廊の志水楠男氏に見せて、展覧会の開催を迫っていた。(略)ところが志水さんは、記念写真だけで売り物のない展覧会はできないと突っぱねたのだ。失意の三木富雄は、それでも私の帰国に合わせて志水さんを訪ねるよう約束を取ってくれた。私は白熊のシリーズと映画館の新作を大きなポートフォリオケースに入れて、南画廊に持ち込んだ。中に入ると志水さんと美術家のリー・ウーファン氏が歓談していた。(略)1作品ずつゆっくりと、志水さんは魅入られるように見た。私の説明を聞きながら、志水さんの顔が上気してくるのがわかった。(略)19作品を見終わると、志水さんはおもむろに手帳を広げた。いつ展覧会を開こうかというのだ。ちょうど2週間後に2週間の空きがある。カタログも作ろう、というのだ。驚いたのはリーさんと私だった。(略)三木富雄が会場に顔を出すことはなかった。そして8カ月後、京都で急死した。その死はジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスのような、不摂生の極みによるものだった、享年41。私は大切な友人を失った。そしてその翌79年。今度は志水さんも他界してしまった。私は大切な画商を失った。〉(引用終り)

三木富雄氏の斡旋で杉本博司氏は現代美術家としてデビューするチャンスをつかんだ一方、三木氏富雄は展覧会が開催できず、京都で急死。二人の人生は、明暗が分かれてしまいました。

「私の履歴書」第16回を読み「グランマ・モーゼス展」の協力会向け解説会で聴いた話を思い出しました。グランマ・モーゼスも作品を置いていたドラッグ・ストアでアマチュアのコレクターに見出され、彼の仲介により画廊を経営するオットー・カリアーと出会うことで、画家のスタートを切りました。ベストセラーになった彼女の自伝『私の人生』もオットー・カリアーの勧めで出版したものです。画家が世に出るには、画商の存在が欠かせないということですね。蛇足ながら、ネットで調べたところ、馬場駿吉氏が三木富雄氏の耳の彫刻を買ったのも南画廊だったそうです。

Ron.

「グランマ・モーゼス展」 協力会向け解説会

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館では「生誕160年記念 グランマ・モーゼス展―素敵な100年人生」(以下「本展」)を開催中です。先日、名古屋市美術館協力会向けの解説会が開催され、参加者は〇人でした。2階講堂で井口智子学芸課長(以下「井口さん」)の解説を聴き、展示室に移動して自由観覧後、解散となりました。

◆2階講堂

○解説(16:03~17:05)の概要

・はじめに

本展は大坂・あべのハルカス美術館から始まりました。大阪では緊急事態宣言が発出され、美術館も臨時休館となった時期がありました。名古屋では何事もなく、全期間を通して開催されることを願っています。

・本展の構成

 本展は4章で構成されています。第1章「アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス」は展示室の壁が藤色で塗られています。藤色は彼女が好きだった色です。第2章「仕事と幸せ」は黄色、ハッピー・カラーです。明るい色なので、来館者からは「屋外にいるような感じ」という感想を聞きました。第3章「季節ごとのお祝い」は緑色。第4章「美しき世界」はサーモン・ピンク、これも彼女が好きな色です。

 本展では、彼女の絵画だけでなく、アルバムや愛用品、手作りのキルトのほか映像も見ることができます。

・グランマ・モーゼス(アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス)は、どういう人?

彼女は1860年9月7日に、アメリカ・ニューヨーク州グリニッチ (Greenwich) で生れました。アメリカ東海岸、ニューヨークの北が彼女の「ゆかりの地」です。12歳の時家を出て、ウエスト・ケンブリッジ (West Cambridge) の家庭で、住み込みで働き、27歳でトーマス・サーモン・モーゼスと結婚。結婚後は、南部のウエストバージニア州に引越して、シェナンドア渓谷近くの農場主から農場と家畜を手に入れ新生活をスタート。10人の子どもを授かりますが、4人は死産、1人は生後間もなく死去。彼女が45歳の時に、ニューヨーク州・イーグル・ブリッジ (Eagle Bridge) に戻り、70歳を過ぎてから独学で絵を描きはじめました。彼女は美術教育を受けたわけではありません。グランマ・モーゼスは「モーゼスおばあさん」という愛称です。彼女は農業を営み、家族を育てるなかで絵を描いていました。地元のフージック・フォールズ (Hoosick Falls) のドラッグ・ストアに作品を置いていたところ、アマチュアのコレクターが店に来て彼女の作品を発見したことから、彼女の作家人生が始まりました。

・第1章の作品・資料の解説(注:数字は、本展の作品・資料番号)

1.《グランマ誕生の地》(1959):水車小屋、花、家などが描かれた、記憶の中にある場所、記憶の中にある思い出を描いています。

13.《グリニッチへの道》(1940):記憶の中にある、彼女の父親が所有していた農場の風景です。1940年には、既に第二次世界大戦(1939~45)が始まっていました。彼女の作品の多くは、第二次世界大戦後に広く紹介されます。彼女の絵は複製品として商品になり、家庭に届きました。アメリカの人々にとって、彼女の絵は、協力して支え合うこと、大地への感謝、誰の心の中にもある幸せを表現するものでした。彼女の絵は、郷愁を感じさせるだけでなく、幸せを呼び起こしてくれる力を持っています。

2.《冬のネボ山農場》(1943):結婚後、一家がニューヨーク州に戻ってから暮らした農場の風景です。「ネボ山」は旧約聖書に登場するモーゼ (Moses) にゆかりのある山の名前です。モーゼス (Moses) 一家は南部にいたときから、同じ綴りの「モーゼ」に因んで、自分たちの農場を「ネボ山農場」と呼んでいました。展示室では、白い雪のなかに描かれた白い建物をよく見てください。陰影法や遠近法にはこだわらず、遠景から近景までの全てにピントが合った絵です。

3.《丘の上のネボ山農場》(1940:毛糸の刺繍):彼女は、絵を描く前は刺繍で風景を描いていました。刺繍は幼いころから習っていましたがリウマチが悪化したため刺繍を続けることが難しくなり、絵を描き始めました。

4.《ファイヤーボード(暖炉の覆い)》(1918):部屋の模様替えをするときに壁紙が足りなかったので、暖炉の覆いとして使っていた板に紙を貼って描いた絵です。彼女の絵の出発点は、生活を豊かにするために描いた、手芸のような絵です。

11.《フージック・フォールズ、ニューヨークⅡ》(1944:SOMPO美術館):フージック・フォールズのドラッグ・ストアで、彼女の作品がアマチュアのコレクター・カルドアの目にとまりました。カルドアの仲介で彼女が、画廊を経営するオットー・カリアーという人に出会ったことから、84歳の新人アーティストが誕生しました。

6.《守護天使》(1940以前:グリーティングカードを模写):1940年に開催された彼女の初めての個展『一農婦の描いたもの (WHAT A FARM WIFE PAINTED) 』に出品した作品です。本展では、お手本にしたグリーティングカードと並べて展示していますので、お手本をもとにして彼女がどのように自分の個性を出したのか、見比べてください。

18.《気球》(1957):オットー・カリアーの依頼で描いた作品です。描写は稚拙で素朴ですが、気球を見ている人の気持ちが伝わってきます。アメリカ人なら共感できる絵です。

15.《窓ごしに見たフージック谷》(1946):彼女が寝室から見た風景です。彼女は絵を描くとき「窓を想像して風景を切り取る」と言っていますが、この作品では窓だけでなくタッセル(カーテンの房飾り)も描いています。

19.《フォレスト・モーゼスの家》(1952):息子のフォレストとロイドが彼女のために建てた家です。彼女は、亡くなるまでの10年間、この家で息子のフォレスト夫妻や娘ウィノーナと暮らした後、フージック・フォールズのヘルス・センターに移り、101歳で亡くなりました。

M-3『私の人生 (My Life’s History) 』(1952):オットー・カリアーの勧めで出版した自伝で、ベストセラーになります。日本でも1983年に『モーゼスおばあさんの絵の世界-田園生活100年の自伝』として未来社が出版し、1992年には新刊が刊行されています。

・第2章の作品解説(注:数字は、本展の作品番号)

21.《干し草作り》(1945):人物だけでなく、動物も丁寧に描いています。

26.《洗濯物をとり込む》(1951):雨が降ってきて、洗濯物をとり込む情景ですが、のんびりしたムードの日常風景でもあります。

36.《村の結婚式》(1951):本展のメイン作品のひとつで、日本初公開です。新郎新婦と同じような服装の男女が何組も描かれているので「集団結婚式」のように見えてしまいます。モーゼスは自立心あふれる女性で、結婚後も共働きで「一つのチーム」のようでした。展示室入口ホールの壁に、この絵を引き伸ばして貼っているので、記念撮影ができます。

37.《農場の引っ越し》:本展のチラシに使った作品です。彼女が45歳の時、ニューヨーク州へ引越しする様子を描いています。

38.《そりを出す》(1960):何と、100歳の時の作品です。冬の景色ですが、暖かさがあります。

・第3章の作品・資料の解説(注:数字は、本展の作品・資料番号)

48.《シュガリング・オフ》(1955):サトウカエデの樹液を煮つめてメープルシロップを作る作業を描いた作品で、赤や緑などの色彩の使い方がうまく、手芸的な要素もあります。絵と同じようなポーズの人物を写した写真は、雑誌や新聞の切り抜きです。彼女はこういった写真を参考にして絵を描いていました。

30.《訪問者》(1959):彼女が99歳の時の作品で、パッチワーク・キルトのように描いています。

33.《キルティング・ビー》(1950):沢山の人が集まって、キルティングをしている絵です。キルティングだけでなく、メイプルシロップやアップル・バターなどの食べ物や人物のファッション、動物など様々なものに視点を向けて描いています。

Ⅿ-26.《手作りのキルト》(1961以前):本展では、手作りのキルトも展示しています。

Ⅿ-13.《絵を描くための作業テーブル》(1773-1920):彼女は板に絵を描くことが多かったようです。

Ⅿ-27.『クリスマスのまえのばん (The Night Before Christmas) 』(1962刊):以下の3作品は、The Night Before Christmasの挿絵原画です。残念ながら、彼女は本が刊行される前に亡くなりました。60.《サンタクロースⅠ》(1960)、61.《サンタクロースを待ちながら》(1960)、62.《来年までさようなら》(1960)。

・第4章の作品解説(注:数字は、本展の作品番号)

77.《美しき世界》(1948):「どんな絵がいちばん好きですか?」とインタビューで聞かれた時、モーゼスは「きれいな絵」と答えています。

80.《虹》(1961):彼女の最後の作品です。

〇自由観覧(17:05~18:05)

 井口さんの解説を聴いた後、1階に移動。作品リストをもらい、各自、自由鑑賞となりました。展示室で作品を見て感じたことは、①「何を描いているか、すぐわかる」ということと、②「色彩がきれいだ」ということです。陰影法や遠近法にはこだわっていませんが、細い線で丹念に「色彩豊かで、きれいな絵」を描いています。井口さんが解説されていたように、「幸せを呼び起こしてくれる」絵ばかりでした。

・紅白の市松模様の家

第2章の最後の方に、外壁が紅白の市松模様の家を描いた作品が2点、並んでいました。ひとつは40.《古い格子縞の家、1860年》(1942)。もうひとつは41.《古い格子縞の家》(1944:SOMPO美術館)です。解説には「グランマ・モーゼスはすでに失われていたこの家を1941年から20年近くに渡り繰り返し描きました」と書いてあります。作品をチラッと見ただけでも描かれた建物に惹きつけられるのですから、彼女が繰り返し描くほど強く「格子縞の建物」が記憶に焼き付けられたのも、納得です。

・複製品の数々

 井口さんの解説に「彼女の絵は複製品となり、家庭に届きました」という一節があります。展示室2階の最後のコーナーには、彼女の絵を描いたティーポットやボールのほか、平皿、クッキー缶、スカーフ、ジグソーパズルなどが展示されています。赤や緑の色彩が鮮やかなので「さぞ、人気があったのだろうな」と思いました。

・アップル・バター

 第3章に、51.《アップル・バター作り》(1947)という作品がありました。解説には「リンゴとリンゴ果汁を火にかけてバター状になるまで煮詰める」と書いてあります。「リンゴ・ジャムみたいなものですか」と井口さんに尋ねたところ「ジャムよりも濃厚で、おいしいですよ」とのこと。解説会に参加した会員から「大阪会場ではアップル・バターを売っていた」という話があったのでグッズ売り場に行くと、アップル・バターが陳列されていました。商品説明によれば「長野産の完熟リンゴ1㎏を煮つめて、シナモンで仕上げたペースト」で、一瓶155g・1,300円(税込)とのこと。残念ながら店が閉まっていたので、購入は出来ませんでした。

 ネットで調べると「アップルバターの作り方。青空レストランで話題のりんごバター。-LIFE.net」というページがヒット。製法は「リンゴをくし形に切って、焦げ付かないように鍋で煮る」。本展解説との違いはリンゴ果汁を使うかどうかだけなので、ほぼ同じです。リンゴが出回れば、家庭でも作ることが出来そうですね。

〇最後に

・グランマ・モーゼスが生まれた1860年9月7日、日本の暦では万延元年7月22日

グランマ・モーゼスが生まれた1860年は日本の幕末。ネットで日本の暦を調べると1960年9月7日は万延元年7月22日に該当します。そして、1860年3月24日(安政7年3月3日)には「桜田門外の変」が起きていました。蛇足ですが、彼女が亡くなった1961年には、坂本九「上を向いて歩こうが」のレコードが発売され、大ヒット。彼女生きた100年の間、日本は激動のなかにあったことを再認識しました。

・グランマ・モーゼスが国民的画家になった背景(解説をうまく要約できませんでした。半分は私の解釈です)

18世紀から19世紀にかけてのアメリカでは、独学で絵を描くようになった人でも、上手ければ肖像画を描いて収入を得ることができました。しかし、写真の登場で肖像画家は消えます。それでも「趣味で絵を描く人」は残っていました。1930年代のアメリカでは「アメリカの美術」を探していたことから、「独学の画家」が描く素朴な美術が注目されるようになります。しかし、1940年代後半になると「独学の画家」では国際的な評価は得られないことから、前衛芸術や抽象芸術がアメリカ美術界の主流となっていきました。このように「独学の画家」たちが美術界から忘れられていく一方で、グランマ・モーゼスの人気は衰えませんでした。それは、①彼女の描く世界が大衆に共感されるものであったことと、②彼女が「70歳代のおばあさん・一農婦」であると表に出すことで、「女性」の成功者が名声を得ることを妨げてきた障害(社会の反発)を回避できたからです。

・モンドリアン展との関係を考える

2021.04.03付「日本経済新聞」に掲載された「モンドリアン展」の記事は、下記のように書いています。

〈モンドリアンは戦火が迫るパリを再び離れ、ロンドンを経て、40年に米国に移住する。多くの芸術家が米国に亡命していたが、雑誌「フォーチューン」は41年の特集「12人の亡命美術家」の冒頭にモンドリアンを取り上げた。新造形主義やタイポグラフィーや建築、工業デザインに広く影響していることを紹介している。第二次世界大戦後の米国では、米国独自の、新しい美術を確立する動きが生まれていた。そうした動きにモンドリアンの打ち立てた抽象絵画はよく合った。米国の美術家たちはモンドリアンを時に否定し、意識的に距離を置こうとしつつも、それを土台に新しい美術を模索していった。〉(引用終り)

つまり、モンドリアンは、1940年代後半からアメリカ美術界の主流になっていった美術家たち(マーク・ロスコ(1903-1970)、バーネット・ニューマン(1905-1970)、ウィレム・デ・クーニング(1904-1997)、ジャクソン・ポロック(1912-1956)などか?)に大きな影響を与えたというのです。

グランマ・モーゼス自身は、前衛芸術や抽象芸術とは縁のない世界を生きた画家ですが、彼女が「前衛芸術や抽象芸術がアメリカ美術界の主流となっていったアメリカの中でも人気が衰えなかった」という事実について考えるためには、彼女の作品の対極であるモンドリアンの抽象画や抽象表現主義について知ることも必要なのかな、と思いました。

・モンドリアン展・ミニツアーについて

7月25日の解説会で、協力会の人から「協力会主催のモンドリアン展ミニツアーを2021.08.29に開催する予定」という話を耳にしました。午前10時から学芸員さんの解説を聴いた後、展覧会を鑑賞するようです。決定すれば、協力会から「お知らせ」があると思います。楽しみですね。

Ron

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