映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(2024年制作 日本映画)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.28 投稿

伏見ミリオン座で上映中の映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(原題:Viva Niki The Spirit of Niki de Saint Phalle、以下「映画」)を見てきました。映画は、カラフルで大きな女性像=ナナで有名なニキ・ド・サンファル(1930-2002、以下「ニキ」)が20年以上かけてイタリア・トスカーナの森に作った、巨大な彫刻庭園タロット・ガーデン(Tarot Garden)を主題に、ニキの画業を紹介するドキュメント映画です。

監督・撮影・脚本は写真家の松本路子(みちこ)、ナレーションは小泉今日子。映画の公式ホームページは次の通りです。 Viva Niki タロット・ガーデンへの道 公式ホームページ

◆映画の内容

① 導入部

最初に上空から撮影した森が登場し、続いてアントニ・ガウディの「グエル公園」を思わせる柱や彫刻(というよりも構造物)のある庭=タロット・ガーデンが出現します。

② ニキと監督の出会い

 監督がニキと出会ったのは1981年。1枚の肖像写真を撮影する予定でしたが、監督はニキの家でタロット・ガーデンの構想を聞き、以来、ニキの写真を撮影し続けることになります。

③ 3人のナナ

続いて紹介されるのは、1974年にドイツ・ハノーファー(Hannover)に設置された《3人のナナ》。ポリエステル製の彫刻で「カロリーナ」「シャルロッテ」「ゾフィー」の3体です。「1974年当時は、設置反対の声が渦巻き、設置賛成の声と激しく衝突していた」と紹介され、続いて、ハノーファー市民にすっかり受け入れられている現在の様子が映し出されました。

④ ニキが「ナナ」を生み出すまで

 ニキは富豪の家に生まれますが、彼女の誕生間もなく世界恐慌で家は没落。ニキは20代で精神疾患を発症し、アートセラピーとして絵を描き始めます。そして、1961~62年にニキが発表した作品は「ナナ」ではなく「射撃絵画」。石膏のレリーフを銃で撃ち、その衝撃で石膏の中に埋め込まれた絵具がレリーフを様々な色に装飾するという作品です。1963-64年には《薔薇色の出産》など女性の苦悩を表現した作品を発表。1960年代になって、友人の妊婦姿にインスピレーションを受けた「ナナ」シリーズの制作が始まった、と紹介されます。

⑤ 巨大化した「ナナ」は構造物に

 1966年には、ストックホルム近代美術館から依頼された企画で、《ホン》という高さ6m、長さ26mの体内を巡るインスタレーションを発表。続いて、ベルギーの富豪からの依頼で高さ6.4m、長さ33.4mのプレイハウス《ドラゴン》を制作。《ドラゴン》の2階には寝室があり、そこから滑り台で外に出ることが出来ます。監督は「《ドラゴン》の寝室で宿泊した」と語っています。

1983年には、フランス・パリのポンピドゥー・センター隣のストラヴィンスキー広場の池に、公私のパートナーである彫刻家のジャン・ティンゲリーと共同で16個の彫刻噴水《ストラヴィンスキーの泉》を制作。監督は、野外での写真撮影を嫌うニキに頼み込んで《ストラヴィンスキーの泉》を背景にしたニキを撮影します。

⑥ 日本で見ることができる「ナナ」

 日本でも多数の「ナナ」が展示されています。映画が紹介したのは香川県のベネッセアートサイト直島の《ベンチ》《猫》《ラクダ》等とベネッセホールディングス東京本部の《恋する大鳥》《蛇の樹》の外、箱根・彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》などでした。

⑦ 上野千鶴子がニキの作品を分析

 映画には上野千鶴子が登場し、「射撃絵画」や《薔薇色の出産》などを見て、ニキは神経症を患っていると分析。その原因については、ニキが自分の著書に12歳の時に父親から性的虐待を受けたことが原因と書いていることを紹介。70歳近くになって、ようやくカミングアウトしたことについて、衝撃の重さ・苦しみについて語っています。

⑧ 「タロット・ガーデン」の制作

 ニキはアントニ・ガウディのグエル公園を見て、自分でも同じような公園を実現したいと思っていました。イタリアのトスカーナの森に土地を見つけ、1978年からタロット・カードの22枚の札を彫刻作品にした公園の整備に着手し、20年の歳月をかけて1998年から一般公開していることが紹介されます。

 再び、冒頭のシーンが現れ、グエル公園のように見えたのはタロット・ガーデンのNo.4 The Emperor だったと分かります。斜めの柱があり、構造物の表面はカラフルな陶板や鏡、色ガラスで覆われています。この外、No.1 The Magician、No.10 The Wheel of Fortune、No.3 The Empressを始めとする主な作品を紹介。なかでも、The Empress(女帝)は乳房の内部が住居になっており、ニキが7年間アトリエ兼住居として使用。監督は1985年5月に建築現場を訪問しました。

現在、タロット・ガーデンの公開は4月から10月の午後の5時間限り。世界中から、年間10万人が来場しています。閉館期間は、古くなった陶板を外して貼り付け直す等、彫刻の補修をしていますので、管理スタッフの休む間は無いとのことです。

⑨ アメリカ・サンディエゴへの移住・晩年の作品

ニキはポリエステルで作品を制作していたため、長年にわたって呼吸器疾患に悩まされていました。1993年に、温暖な気候のアメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴに移住して療養。移住した頃は毎日酸素ボンベのお世話になっていましたが、症状が落ち着いた晩年には、カリフォルニア州エスコンディードで、彫刻庭園《カリフィア女王の魔法の輪(Queen Califia’s Magical Circle)》やドイツ・ハノーファーのヘレンハウゼン王宮庭園のグロッテ(洞窟)の修復・再設計等に取り組み、2002年にサンディエゴで永眠しました。

◆最後に

ニキ・ド・サンフィルの作品は、協力会のツアーで見学した彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》を見ただけで、作家のニキについては全く知識がありませんでした。

この映画では、ニキがファッションモデルだったことや、正規の芸術教育を受けたことが無く、統合失調症のアートセラピーで絵を描き始めたこと、アントニ・ガウディのグエル公園を見て《タロット・ガーデン》の制作を思い立ち、20年という歳月をかけて一般公開を行ったことなど、ニキの生涯と作品について広く知ることが出来ました。

映画に登場する作品はカラフルで見ごたえのあるものばかりです。早めにご覧になることをお勧めします。

Ron.

展覧会見てある記「瀬戸染付 -軌跡そして美と技-」瀬戸市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.08 投稿

瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「磁祖加藤民吉没後200年事業 国際芸術祭「あいち」地域展開事業連携企画 瀬戸市市制95周年記念 瀬戸市美術館特別企画展 瀬戸染付 - 軌跡そして美と技 -」(以下「本展」)を見てきました。以下は、その概要と感想などです。

◆本展の構成

本展は、青色の顔料で絵付けした「染付」の生産が瀬戸で始まってから、昭和中期に至るまでの作品を三つの時代に分けて展示。皇居の宮殿を飾る「大盆栽」用の「盆鉢」の特別展示も開催しています。

本展は、加藤民吉の作とされる《染付山水図大花瓶》を1階ロビーに展示。通常の順路とは違い、1階・第2展示室から第1章が始まり、第2章と第3章の一部は1階・第1展示室に展示。第3章の残りは2階・第4展示室から第3展示室にかけて展示。特別展示の第4章は第3展示室を使用しています。

◆第1章 瀬戸染付の始まり-初期瀬戸染付(1階・第2展示室)

本展の解説によれば、瀬戸で染付の生産が始まったのは1801年。磁祖とされる加藤民吉が九州で磁器製造の技術を習得したのが1804年から1807年。最初の展示品《染付山水図水指》は享和年間(1801~04)制作です。解説は「素地の白さや呉須の青色は、技術的な改善の余地がある」としています。それが、文化年間(1804~18)制作の《染付山水人物図桐葉型皿》では、素地の白さ呉須の青色のいずれも鮮やかです。文政9年(1826)頃に制作の《染付竹図水指》では、更に技術的な進展が見られます。

この外に目を惹かれたのは《染付馬図水指》です。磁器以外に、陶器の染付があることを知りました。

◆第2章 瀬戸染付の発展-川本治兵衛・川本半助を中心に(1階・第1展示室)

第2章は、江戸時代後期から幕末にかけて制作された作品を展示。目を惹かれたのは《染付雲鶴文火入(一対)》で、鶴を青、雲を金色で描いています。「火入」について、解説は「煙草盆の中に組み入れる道具で、煙草に火をつける火種を入れておく器」としています。茶道における火入の使い方を調べると、次のとおりでした(URL: 水の茶の湯の徒然 火入の灰型 (fc2.com))。

鮮やかな瑠璃色の手桶《瑠璃釉貼花彫牡丹獅子文手桶》は、獅子と牡丹が浮き彫りのように盛り上がっています。技術の高さを感じました。

銅版転写で模様を描いた《銅版染付丸窓絵大植木鉢》の解説は「同じ模様を施すことが出来ることが銅版転写の利点であるが、当時の銅版転写は手描きと比べて、決して効率のよいものではなかったと言われている」というものでした。調べると、銅版に彫った模様を紙に印刷し、その紙を素地に貼り付けて転写したようです(URL: やきものの技法・印版・銅版絵付け・銅版転写【うまか陶】 (umakato.jp))。

《磁胎蒔絵鶴図蓋付碗》は、染付の蓋付碗に蒔絵を施した作品です。解説は「やきものと分かった時に、驚きとそれに対する話題を誘う器である」と書いていました。

◆第3章 瀬戸染付の飛躍-国内外で際立つその美と技

〇1階・第1展示室

第3章は、明治から昭和中期までの作品を展示しています。1階・第1展示室の作品では、青磁と染付の技法を融合させた《青磁染付窓絵草花図花瓶》が目を惹きました。展示は、更に2階へ続きます。

〇2階・第4展示室

第4展示室入口近くに展示の《染付桜花文台鉢》は、鉢の内・外すべてに桜花文が散らされた清楚な作品でした。余白の割合が大きいので素地の白と模様の青が引き立て合って、鮮やかに見えます。

その次の《釉下彩唐草虫文花瓶》には「釉下彩で蝶やバッタのなどの昆虫が描かれている。(略)後に流行するアール・ヌーヴォーの作品に影響を与えた可能性のある図柄」という解説が付いています。なお、釉下彩については、次の解説があります(URL:釉下彩作品 – E ミュージアム大阪 (emosaka.com))。

第2章には蒔絵を施した作品がありましたが、第3章には染付を七宝で装飾した作品がありました。《磁胎七宝花唐草文花瓶》です。解説は「明治時代初期に盛んに生産されたが、明治10年代(1877~86)後半にはほとんどその姿を消した」「海外からの里帰り品である」と書いていました。

「高浮彫」と言えば宮川香山が有名ですが、本展でも高浮彫を展示しています。《染付高浮彫花鳳凰図花瓶》です。

〇2階・第3展示室

写真の《釉下彩花鳥図花瓶(一対)》は、青だけでなくピンク、黄色、茶色も使われた華やかな作品です。これも「海外からの里帰り品」です。

◆第4章 特別展示 皇室の盆器(2階・第3展示室)

第4章は、季節ごとに宮殿の大空間を飾る「大盆栽」に使用された「盆器」7点を展示しています。盆栽に使う鉢は「盆栽鉢」ですが、宮内庁では、それを「盆器」と呼ぶそうです。

鮮やかな瑠璃色の《瑠璃釉貼花彫葵文水盤》が展示室の中央に展示されています。「高浮彫」も施されています。隣で鑑賞していた来場者が、「よく見ると、釉薬を掛け残した白い点がある。でも、大型なのでこれくらいのキズは問題にならない。この部屋で見るべきものは《瑠璃釉貼花粟穂雀文六角大植木鉢(一対)》の右側の鉢。何のキズもない完璧な作品ですよ」と教えて下さいました。

展示室には、宮内庁の盆栽を管理している「宮内庁大道(おおみち)庭園」の写真が掲載されていました。管理用なので、いずれも地味な盆器ですが、 宮内庁のホームページを見ると、皇居に盆栽を飾る時は季節にふさわしい盆器に植え替えて展示しているようです。

以下、URLを2つご紹介します。

① URL: 新年春飾り作成 – 宮内庁 (kunaicho.go.jp)

② URL: 宮殿を飾る盆栽(春飾り) – 宮内庁 (kunaicho.go.jp)

◆最後に

本展公式サイトのURLは、下記のとおりです。

URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)

なお、当日は時間が無くて寄れませんでしたが、本展の帰りには「瀬戸蔵ミュージアム」(URL: 瀬戸蔵ミュージアム | 瀬戸市 (city.seto.aichi.jp))もご覧になることをお勧めします。陶磁器の製造工程や瀬戸焼の歴史の展示などがあります。

Ron.

展覧会見てある記「民藝 MINGEI」名古屋市美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.07 投稿

名古屋市市美術館(以下「市美」)で開催中の「民藝  MINGEI 美は暮らしのなかにある」(以下「本展」)を見てきました。以下は、その概要と感想などですが、本展監修者の森谷美保氏(以下「森谷さん」)の講演会「暮らしのなかの民藝」(10.05開催)の内容も加えています。

◆第Ⅰ章 1941生活展―柳宗悦によるライフスタイル提案

本展は通常と異なり、市美の2階が入口です。受付を済ませて展示室に入ると、柳宗悦邸の書斎・食堂を再現した空間が広がっています。テーブルや食器棚、ビューロー(蓋を開けると机になる戸棚)に皿やティーカップ、燭台、硯などを並べて、柳宗悦のライフスタイルを提案していました。

同じような展示方法は2023年春、2024年春にジェイアール名古屋タカシマヤで開催された北欧デザイン展で見て「新鮮な展示方法だな」と感心しましたが、森谷さんによれば、柳宗悦は1941(昭和16)年に日本民藝館で実施していたのです。本展はその時の再現とのこと。「1941年の時、入館者は椅子に座ることも出来た」そうです。

当時の写真は本展公式サイト(以下「公式サイト」 URL: みどころ|『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))に掲載されているので、興味があれば検索してください。

本展はロープ越しに展示品を見ることになります。細部を観察したい方は単眼鏡をご持参ください。

上記写真は展示の一部です。黄色いガレナ釉鉢はバーナード・リーチの一番弟子・マイケル・カーデューの作品。六角鉢は沖縄の壺屋焼、陶製のレンゲは島根県・布志名焼、ティーセット(つる付のポットと砂糖入れ)とティーカップは濱田庄司の、青い角鉢は河井寛次郎の作品です。森谷さんによれば「民藝は、民衆的工藝品の略。無名の工人がつくり、一般民衆が日常で用いる器、衣類、品物」とのこと。この定義を徹底すると、マイケル・カーデュー、濱田庄司、河井寛次郎といった個人作家の作品は「民藝」か、否か、微妙なものがありますが、柳宗悦は個人作家の作品を排除せずに収集したということですね。

◆第Ⅱ章 暮らしのなかの民藝―新しいデザイン

第Ⅱ章は「衣」「食」「住」「沖縄」の4つのパートに分かれています。

〇Ⅱ-1 「衣」を装う

先ず目を惹くのが「刺子稽古着」(江戸時代)です。近寄らないと分かりませんが、細かい刺し子が施されています。近藤勇や土方歳三も、このような稽古着を着て剣術修業に励んでいたのでしょう。《剣酢漿草大紋山道模様被布(けん かたばみ だいもん やまみちもよう かつぎ)》について森谷さんは「草花を刺繍した古い着物を染め直したもの」と紹介。染め直した箇所をご確認ください。有松絞の浴衣もあります。

〇Ⅱ-2 「食」を彩る

先ず目を惹くのが、佐賀県・有田焼の湯呑2点と猪口。猪口は公式サイトに画像があります。滋賀・信楽焼の《焼締黒流茶壺》も見応えがあります。焼締は釉薬を掛けない陶器ですが、この壺は部分的に掛けられた釉薬が、見る者に強い印象を与えます。愛知県・瀬戸焼の《呉須鉄絵撫子文石皿》は、名古屋展サイト(URL: 特別展 「民藝 MINGEI-美は暮らしのなかにある」 | 展覧会 | 名古屋市美術館 (city.nagoya.jp))に画像があります。10月6日放送のNHK・Eテレ「美の壺」(絵皿)でも瀬戸焼の石皿(絵は柳の葉:本展のⅢ-topicでも同様の皿を展示)を紹介。石のように丈夫だから「石皿」と呼ばれ、台所や煮物屋の店先で使われていた日常使いの皿です。石皿を生産している様子も放映されました。皿の真ん中で緑と黒に色分けされた鳥取県・牛ノ戸焼《緑黒釉掛分皿》(公式サイトに画像あり)も印象的です。朝鮮半島で作られた《蠟石製薬煎》は、森谷さんが「見ておくべき」と推奨の展示品です。

なお、名古屋会場の「食」の展示について、森谷さんは「6つの巡回先で一番」と評価していました。

〇Ⅱ-topic 気候風土が育んだ暮らしー沖縄

Ⅱ章 topicから、会場は1階に移動。先ず出会うのは、《白掛燭台》《笠》《クバ団扇》など。目を惹いたのは紅型2点です。沖縄県・壺屋焼の《焼締按瓶》《白掛呉須唐草文蓋付碗》も見ものです。

〇Ⅱ-3 「食」を彩る

《灰ならし》《手箒》《芯切鋏》などの生活道具が並ぶ中で目を惹くのは、鉄製の《桐文行燈》。森谷さんは、浜松市で1931年に日本民藝美術館を開館した浜松市の収集家・高林兵衛宅の所蔵品と解説。

◆第Ⅲ章 ひろがる民藝―これまでとこれから

〇Ⅲ-1 『世界の民藝』―新たな民藝の世界

第Ⅲ章は「『世界の民藝』-新たな民藝の世界」「民藝の産地-作り手といま」及び「topic」の3つのパートに分かれています。パート1には、ペルーの人形やギリシアの踊り衣装などを展示しています。

〇Ⅲ-2 民藝の産地―作り手といま

パート2は、大分県・小鹿田(おんた)焼、兵庫県・丹波布、岩手県・鳥越竹細工、富山県・八尾和紙、岡山県・倉敷ガラスの5つの産地と製品を紹介。小鹿田焼で目を惹くのは《鉄釉黒黄流文字入せんべい壺》。壺には「せんべい入」の文字があります。焼きたてのせんべいを入れていたのでしょうか。

5つの産地、それぞれに現行品と映像を展示したコーナーがあります。公式サイトの「ホーム」をクリックすると動画があります。公式サイトの「スペシャル」(URL: MINGEI Guide_HP DL (exhibit.jp))をクリックすると、5つの産地の「民藝ガイド」をダウンロードできます。

この外、大津絵《大黒外法の相撲》も見逃せません。

〇Ⅲ-topic  Mixed MINGEI Style by MOGI

Topicは、現代の民藝を配置したインスタレーションです。写真はその一部で、瀬戸焼の石皿、牛ノ戸焼の皿、柳宗悦の長男・柳宗理(本名:やなぎ・むねみち、インダストリアル・デザイナーとしては、やなぎ・そうり、と読む)がデザインしたバタフライスツール(天童木工製)が写っています。柳宗理は、父親に反発してインダストリアル・デザイナーの道に進みましたが、後年は日本民藝館の館長を務めています。

◆最後に

受付に作品リストが見当たらなかったので、作品リストを持たずに本展を鑑賞しました。第Ⅰ章には写真付きの作品リストが掲示されていますが、紙の作品リストが欲しい方は、下記のURLからダウンロードできます。

※ 作品リストのURL: af8c8d21534b199770a809c2459bee99.pdf (city.nagoya.jp)

〇補足

地下1階・常設展示室3では、民藝運動に参加した棟方志功作の西枇杷島町小田井・渡河山西方寺襖絵を展示しています。前回の展示は1993年ですから31年ぶりのお目見えなので、必見です。

Ron.

展覧会見てある記「生誕130年 荒川豊蔵展」岐阜県現代陶芸美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

岐阜県現代陶芸美術館(以下「美術館」)で開催中(11/17まで)の「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)に行ってきました。利用したのは土・日・祝日だけ運行する「ききょうバス」です。多治見駅南口発の発車時刻は午前中が9:10、10:10、11:10の3本。美術館までは25分ほど。美術館発・多治見駅南口行きの発車時刻は、午前中が9:40、10:40、11:40の3本。午後は13:40からです。

当日、バスが美術館に到着したのは5分遅れの10:40。13:40発のバスだと3時間後なので、11:40発に乗ることを決めました。帰りのバス発車時刻まで、1時間しかありません。

バス停から美術館までは5分ほど。シデコブシ自生地を跨ぐ橋を歩くとトンネルの入口に差し掛かり、トンネルを抜けて、ようやく美術館の全貌が現れました。本展の会場は、美術館に入ってすぐの場所です。観覧料は一般1,000円。以下は本展の内容紹介、感想などです。

◆Ⅰ. プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵(人間国宝に指定された昭和30年前後以降の作品を展示)

本展は8章で構成。荒川豊蔵(以下「豊蔵」)が作陶した陶磁器だけでなく、豊蔵が描いた絵や豊蔵が収集した尾形乾山作の角皿や陶片を金継ぎした茶碗も展示しているので見飽きません。

Ⅰ章で目を惹くのがピンク(薄紅色)に発色した茶釜型の水指《志野山の絵水指》です。可愛らしい形の水指で、山の絵が描かれています。Ⅰ章にはこの外にも同名の水指が、白と赤の2点出品されています。何れも円筒形でした。そのうち、白い水指は本展チラシ(以下「チラシ」)の裏に図版が載っています。

「志野」の茶碗では、薄紅色の《志野茶垸 銘氷梅》(作品リストの表記は「茶垸」)が見逃せません。茶碗に掛かった釉薬が縮れて膨れ、割れ目が生じています。解説は「梅花皮(かいらぎ)状に縮れた志野釉を氷の割れ目にみたて、そこに梅の花が浮かび上がっている」と表現しています。この茶碗の図版は本展のプレスリリース(URL: ARAKAWA_Toyozo_Release (cpm-gifu.jp))やチラシの表に掲載されています。この外《志野茶垸 銘朝暘》(チラシ裏に図版)も薄紅色で、梅花皮がきれいに入っています。同じ茶碗でも《志野鶴絵茶垸》は灰色の地に大きく白鶴を描いており、その肌は梅花皮ではなく、ミカンの皮のようにツルッとしています。解説には「俵屋宗達・画、本阿弥光悦・書の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』に描かれた鶴を思わせる」とありました。

一方、「瀬戸黒」の作品は茶碗と花入です。このうち《瀬戸黒茶垸》には釉薬を掛けた時の指の跡があります。

Ⅰ章には、じっくり見たい作品が多数あります。本展の解説は簡潔で分かりやすく、作品を焼成した窯の表記もあり親切で有難いのですが、解説を一つひとつ丁寧に読んでいると、あっという間に時間が過ぎてしまいます。観覧時間が限られている場合は、ご注意ください。

◆Ⅱ. 東山窯と星岡窯 - やきものに風情があるのを知る(志野陶片を発見する以前の作品を展示)

Ⅱ章の展示は、日本画家を雇い、瀬戸から取り寄せた素地(素焼きの磁器)に上絵付(釉薬の表面に色絵を描くこと)させたデミタスカップや、京都・伏見の宮永東山窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付(素地に呉須(酸化コバルト)で絵を描き、釉を掛けて焼成すると描いた絵が藍色に発色する)、北大路魯山人の鎌倉・星岡窯に勤めていた当時の豊蔵が絵付けした染付などです。

豊蔵は絵に自信があったこと、豊蔵が手がけていたのは売れ筋の磁器だったことが分かりました。

◆Ⅲ. 荒川豊蔵の陶芸(志野陶片の発見、大萱牟田洞窯の築窯及び乾比根会の結成等に関連する展示)

Ⅲ章の見どころは、名古屋の旅館で北大路魯山人と豊蔵が志野筍絵茶碗を眺める姿を描いた額《古志野発見端緒の図》と、美濃の山で陶片を探す姿を描いた六曲一双の屏風《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》です。志野陶片発見の約50年後に豊蔵が描いた作品ですが、当時の興奮が伝わってきます。

豊蔵は志野陶片を発見した後、昭和8年に岐阜県可児郡久々利村大萱(現、可児市)に窯を作りますが失敗。翌年、40m移動した地に「大萱窯」を築き直し、初窯を焚きます。そのためか、Ⅲ章に展示されているのは昭和10年以降の作品です。腰の張った筒形の《瀬戸黒茶碗 銘寒鴉》(チラシ裏に図版)等が展示されていました。この外、「秋のツアー」のお知らせに掲載されていた《黄瀬戸破竹花入》(図版はプレスリリースとチラシ裏に掲載)もⅠ章に展示されています。解説には「華道家の勅使河原蒼風と写真家の土門拳がこの花入に松を生け、撮影した」とあります。確かに前衛的な生け花にはぴったりですが、裂けた花入れに松をどのように生けたのか、とても気になりました。(水を入れた竹筒などを花入れの中に置いて、花を生けたようです)

Ⅲ章には大萱窯以外に、宮永東山窯で作陶した色絵《古九谷風石庭の図平鉢》(チラシ裏に図版)等も展示されています。解説は「個展の出品には大萱の作品だけ足りないので、宮永東山窯で焼かせてもらった」というもの。古巣とはいえ、豊蔵に焼成を許した宮永東山は太っ腹ですね。宮永東山は豊蔵を信頼していたのでしょう。

以上の外、三重県の財界人・陶芸家の川喜多半泥子(かわきた はんでいし:以下「半泥子」)と豊蔵との関係も見どころです。豊蔵が津市・千歳山の半泥子を訪ねた時の礼状《半泥子宛書簡(千歳山訪間の礼状)》、半泥子・豊蔵・三輪休和(萩焼)・金重陶陽(備前焼)の4人で作陶連盟乾比根会(からひねかい)を結成した時の様子を描いた《陶匠友誼図》、豊蔵の陶房を訪れる人の掟として半泥子が書いた《出入帖(宿帖)》を展示しています。書簡の内容や出入帖の「8か条の掟」の内容は本展の解説に書いてあるので「一見の価値あり」です。

(注)「半泥子」は、16代続く名家の当主が道楽で家を傾けることの無いよう、南禅寺の禅師が命名した号。「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」を意味し「半分泥だらけになりながら没頭しても、半分は冷静に己を見つめよ」という教えです。(出典のURL:【探訪】ろくろのまわるまま−究極の素人・川喜田半泥子(三重県津市、石水博物館)キュレーター・嘉納礼奈 – 美術展ナビ (artexhibition.jp)

◆Ⅳ. 暮らしとともに - 水月窯と大萱窯の食器(戦後、多治見市虎渓山に豊蔵が作った水月窯関係の展示)

戦後、豊蔵は一般家庭向けの器を生産するため、多治見市虎渓山に磁器の焼成や、量産、染付、色絵の制作も可能な水月窯を作ります(水月窯の詳細は、平成22年に多治見市文化財保護センターで開催された企画展「水月窯と荒川豊蔵」のパンフレット(URL: suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp))をご覧ください)。

目を惹いたのは、豊蔵が考案した《梅花文汲出》です。水月窯のベストセラーで、昭和20年代の製品と昭和30年代の製品を展示しています。なお、「汲出(くみだし)」は湯呑よりも浅く、口が広い茶器。上記パンフレットによれば、《梅花文汲出》は粉引(こひき:素地に白い土で化粧を施し、その後、釉薬を掛けて焼成した陶器)です。

◆Ⅴ. 描く、愉しむ(水月窯で可能になった染付や色絵の作品と絵画などを展示)

水月窯では染付、色絵が焼けるので、絵が得意な豊蔵は文人画風の絵を描いた《染付閑居作陶之図四方皿》(チラシ表に図版)や《色絵灌園便図四方飾皿》(チラシ裏に図版)のような飾皿、《壺に桃花流水之図》(チラシ裏に図版)のような絵画を多数制作したようです。

◆Ⅵ.  交友 - 芸術家との共作、五窯歴遊(唐津、萩、備前、丹波、信楽で作陶した作品等を展示)

川合玉堂や前田青邨と共作したやきものの外、萩焼、唐津焼、備前焼、丹波焼、信楽焼の窯元で作陶した作品を展示しています。とはいえ、やきものの特徴がはっきりと分かるのは、釉薬を掛けずに1200度~1300度の高温で焼き締めた備前焼くらいでした。名古屋市美術館で開催予定の「民藝 MINGEI」に地方のやきものが出品されるので、それぞれの特徴をつかもうと思います。

◆Ⅶ. 収集品にみる荒川豊蔵の眼と作品へのひろがり(豊蔵が収集した尾形乾山の角皿などを展示)

出土した陶片を金継ぎした《織部呼継茶碗》は見ものです。解説には「豊蔵は、訪ねてきた随筆家の白洲正子にこの茶碗で茶をふるまっている。飲み干して呼び継ぎに気づいた白洲は衝撃を受けて、のちに随筆『よびつぎの文化』を執筆した」と書いてあります。尾形乾山の角皿も見逃せません。

◆Ⅷ. エピローグ

手控帖、写生・作陶道具などを展示しています。

◆ 最後に

今回の鑑賞時間は、移動時間を除くと実質50分ほどでしたから、一通り駆け足で見てから入口に戻り、「これは」と思った作品に絞って、じっくり眺めました。

Ron.

読書ノート「やきものの里めぐり」著者 永峰美佳 発行所 JTBパブリック 発行 2014.5.1

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

本書は、近所の図書館で借りてきた「窯場めぐり」のガイドブックです。主要な窯場の紹介に加え、やきものの原料・技法、やきものと窯場の歴史などの簡潔な解説もあったのでエッセンスをご紹介します。

◆ やきものと窯場の歴史

本書で私が注目したのは、以下の3点です。

1 柳宗悦の民藝運動により、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美が見出された

2 北大路魯山人が料亭で使った食器や自ら制作した食器のスタイルが、現代にも大きな影響を与えている

3 昭和5年(1930)に荒川豊蔵が美濃で志野の陶片を発見し、桃山茶陶の復興ブームが巻き起った

上記「1」に関して、10月5日から名古屋市美術館で「民藝 MINGEI」(以下「本展」)が開催されます。上記「3」に関して、協力会秋のツアー2024の見学先の一つは岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」です。いずれも「やきものを見直す大きな出来事」に関する展覧会なので、楽しみです。

◆ チラシに写真が掲載されているやきものと窯場の紹介

・有田焼【ありたやき】[佐賀県有田町] 

「白くて硬い磁器を日本で最初に焼いた窯場」と紹介。また「白い磁器の登場で、庶民の食卓に並んでいた木椀が磁器に代わり、生活を大きく変えた」とも書いています。磁器の登場は画期的だったのですね。なお、本展のチラシ(以下「チラシ」)に《染付羊歯文湯呑》(江戸時代)の写真を掲載(チラシp.2、以下同じ)。

・小鹿田焼【おんたやき】[大分県日田市] 

「飛び鉋(かんな)、打ち刷毛目など、ロクロを生かした文様。昔ながらの手仕事を今に伝える珠玉の窯場」と紹介。また「昭和6年(1931)に民藝運動の父。柳宗悦が訪れ、『日田の皿山』という文章とともに世に紹介して以来、『小鹿田焼』の名は全国に知られていきます」と続きます。チラシに写真はありませんが、本展の公式サイト(以下「公式サイト」)の動画が、窯場の様子を紹介しています。

 「飛び鉋」「刷毛目」は、褐色の素地を白く見せるために、白い土を水で溶いて掛ける装飾です。本書は、白い化粧土を使った主な装飾技法を、以下のとおり記しています。

粉引    全体に白化粧を施し、要所に見える素地の土との対比を楽しむ

刷毛目   隙間を残しながら、刷毛で白化粧土を勢いよく塗ります

三島    「印花」という判を押し当て、表面に凹凸をつけ、化粧土を埋めます

描き落とし 表面の化粧土を削り、下の素地の色との対比で文様をつくります

飛び鉋   ロクロの回転を利用し、鉋を当てて削り文様を生み出します

化粧絵付け 白化粧で表面を整えて、下絵付けや上絵付けを施します

・牛ノ戸焼【うしのとやき】[鳥取県鳥取市]

「緑釉と黒釉の掛け分けで知られる民藝の器」と紹介。「柳宗悦の薫陶を受けた医師・吉田璋也の指導で息を吹き返し、現在に至ります。伝統を引き継ぐ窯に因州中井窯も挙げられます」と続きます。チラシに《緑黒釉掛分皿》(1931頃)の写真を掲載(p.4)。

・丹波焼【たんばやき】[兵庫県篠山市] 

「茶色い焼き締めの肌に熔け掛かる鮮緑色の釉。『赤』『黒』『白』と色で呼ばれた器たち」と紹介。「民藝の創始者・柳宗悦にとって古丹波は特別な存在であり、美術商で丹波焼の蒐集家。中西幸一と交流を深めました」と続きます。チラシに写真はありませんが、公式サイトの動画が、窯場の様子を紹介しています。

・瀬戸焼【せとやき】[愛知県瀬戸市] 

「陶器も磁器も、あらゆるやきものを焼く旺盛な窯場。いつしか全国の食卓の器の代名詞に」と紹介。チラシに《呉須鉄絵撫子文石皿》(江戸時代)の写真を掲載(p.1)。この石皿については『もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動』(監修 杉山享司 2021年10月5日初版発行 株式会社東京美術)が「台所や煮物屋の店先で使われていたもの。陶画の模様の美しさに柳は心打たれた」と解説しています。

◆ その他のやきものと窯場の紹介

・唐津焼【からつやき】[佐賀県唐津市] 

「釉薬、筆描きの文様、量産のスタイル。日本のやきものに打ち立てた数々の金字塔」と紹介。「文禄・慶長の役で渡来した朝鮮半島の陶工たちにより新しい技術がもたらされ、すぐに最盛期を迎えます」と続きます。

・薩摩焼【さつまやき】[鹿児島県鹿児島市ほか] 

「気品漂う『白もん』、味わい深い『黒もん』。朝鮮半島への郷愁を感じさせる器たち」と紹介。「文禄・慶長の役の際に、島津義弘が朝鮮半島から連れ帰った80名の陶工が、藩内の各地でやきものを焼き始めたことに由来します」と続きます。

・壺屋焼・読谷山焼【つぼややき・よみたんざんやき】[沖縄県那覇市・読谷村]

「釉を掛けた『上焼』、焼き締めの『荒焼』など、色も形も独特な発展を遂げた『やちむん』」と紹介。なお、沖縄では「やきもの」を「やちむん」と呼びます。民藝運動との関係については「昭和の初めに民藝運動の父・柳宗悦らが壺屋焼を全国に紹介し、昭和60年(1985)に名工・金城次郎が人間国宝に認定されて、一躍脚光を浴びました」と紹介しています。

・京焼【きょうやき】[京都府京都市] 

「茶の湯文化とともに発展した優美なデザイン。仁清、乾山、本米など優れた名工を輩出」と紹介。民藝運動を担い、奔放で濃厚な創作を展開した河井寛次郎の住宅を一般公開した「河井寛次郎記念館」が、東山区五条坂鐘鋳町にあり、近所に江戸後期から八代・清水(きよみず)六兵衛まで250年以上続く老舗の「六兵衛窯」もあります。『名匠と名品の陶芸史』(著者 黒田草臣 講談社選書メチエ 2006.6.10発行)によれば、河井は後援者の援助を受けて、鐘鋳町の五代・清水六兵衛の持ち窯と土地を購入した、とのことです。

・信楽焼【しがらきやき】[滋賀県信楽町] 

「浮き出した長石粒、粗い土肌に熔け掛かる自然釉。野趣あふれる素朴な表情が人の心を惹きつける」と紹介。「信楽には、やきものを求めて逗留した文化人ゆかりの料理店や宿が今も残っており、『魚仙』には北大路魯山人がしばし訪れ、老舗旅館『小川亭』は岡本太郎が常宿としていた」と続きます。

・美濃焼【みのやき】[岐阜県多治見市ほか] 

「桃山文化を担い、花開いたやきものルネサンス。和食器の60%(注)を生産する『陶の都』」と紹介。「焼き上がりを急冷することで深みのある黒を引き出した『瀬戸黒』。白い長石釉をかけた『志野』。灰釉を改良した黄色い釉薬の『黄瀬戸』。緑釉と鉄絵を組み合わせた『織部』。日本で初めて筆描き文様を施したこれらの器は『桃山陶』と呼ばれ、日本のやきものにルネサンスを花開かせました」と続きます。

注:2021年の生産額は、1位・岐阜県54%、2位・長崎県12%、3位・佐賀県11%です(下記にURL)。

 陶磁器(食器)の生産額の都道府県ランキング(令和3年) | 地域の入れ物 (region-case.com)

・益子焼【ましこやき】[栃木県益子町] 

「『用の美』民藝を象徴するやきもの。つくり手の合理性、器の素朴さ、使いやすさが揃う」と紹介。「益子焼は江戸時代末期に始まり、主に土鍋や擂鉢(すりばち)などの日用雑器を製作し、関東一円に流通するまでになります。転機が訪れたのは、大正13年(1924)のこと。柳宗悦とともに民藝運動の中心を担った陶芸家・濱田庄司が移住し、民藝運動の理念『用の美』に基づいた作品を制作します」と続きます。「『つかもと』は益子最大の窯元で、JR信越本線・横川駅『峠の釜めし』の羽釜の容器『釜っ子』を焼く窯としても、馴染み深いのではないでしょうか」との紹介もあります。

◆最後に

 本展では陶磁器以外にも、染織品や木漆工品など、多数の民芸品が出品されるそうです。

                            Ron.

読書ノート 『民藝 MINGEI』 関連書籍の抜き書き

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

1 はじめに

 名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)から「お知らせ」が届きました。『民藝MINGEI― 美は暮らしのなかにある』(以下、本展)を10月5日(土)~12月22日(日)の会期で開催。10月12日(土)には、17:00から協力会向けギャラリートーク(井口智子学芸課長)を開催するほか、14:00~15:00に井口智子学芸課長の一般向け解説会が、15:30~16:30には深谷克典参与によるヨーロッパ最新美術展覧会の報告会があります。

 本展の公式サイト(URL: 『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))によれば、「暮らしのなかで用いられてきた美しい民藝の品々約150点を展示」するとのこと。楽しみですね。

なお、公式サイトは、柳宗悦(やなぎ むねよし)と民藝運動について、次のように記しています。

〈柳宗悦(1889-1961)は、東京府麻布区生まれ。1910年(明治43)、雑誌『白樺』の創刊に参加。(略)1913年(大正2)に東京帝国大学哲学科を卒業。朝鮮陶磁、木喰仏の調査研究、収集を進めるなか、無名の職人が作る民衆の日用雑器の美に関心を抱いた。1925年(大正14)には、その価値を人々に紹介しようと「民藝」という新語を作り、濱田庄司や河井寛次郎ら共鳴する仲間たちと民藝運動を創始した〉

つまり本展は「無名の職人が作る民衆の日用雑器の美」の展覧会です。とはいえ、作品リストには「無名の職人」の作品だけでなく「著名な陶芸家」の作品もあります。そこで、柳宗悦・民藝運動と本展に出品の「著名な陶芸家」との関係について、関連書籍の「抜き書き」を作りました 。その内容は、以下のとおりです。

2 バーナード・リーチ(1887~1979)と富本憲吉(1886-1967)の出会い

 l909年(明治42)にエッチングの教師として来日したバーナード・リーチ(Bernard Howell Leach)は、アート雑誌のデザインなどを通し柳宗悦をはじめとする白樺派の人たちと交流。また、1911年(明治44)英国留学を終えた富本憲吉は9月に上京し、バーナード・リーチと交友。リーチと富本の二人は若い画家が集まっていたパーティーで、余興の楽焼(注:素人が趣味で作る低火度の陶器)を行い、リーチは楽焼に感激。1912年(明治45)リーチは6代目尾形乾山である浦野繁吉に陶芸を教わるようになった(出典B p.39)。通訳としてリーチに同行した富本はリーチに触発されて轆轤(ろくろ)を廻すようになり、陶芸家への転向を決意する(出典C p.123)。

3 バーナード・リーチと河井寛次郎(1890~1966)の出会い

 1912年(明治45)2月、東京高等工業学校窯業科に在学中の河井寛次郎は、『白樺』主催の「ロダン展」でバーナード・リーチの楽焼を見て衝撃を受けた。後日、河井は楽焼きの壺を受け取りに向かった上野桜木町でリーチとはじめて出会った(出典C p.163)。

4 柳宗悦、朝鮮の白磁に魅了される(最初の転機)

1914年(大正3)陶磁器研究家の浅川伯教(のりたか)は、オーギュスト・ロダンの彫刻を見るため、千葉県・我孫子の柳宗悦宅を訪れる。その時、柳は浅川から贈られた李朝秋草文面付壺(URL: 大阪歴史博物館:特別展:没後50年・日本民藝館開館75周年 柳 宗悦展-暮らしへの眼差し- (osakamushis.jp))に魅了される。柳は1916年(大正5)以降、何度も朝鮮を訪れて工芸品の蒐集を行う(出典A、出典E)。

5 バーナード・リーチが再来日、安孫子に住む

1916年(大正5) 柳宗悦は、1915年に北京へ移住したリーチに再来日を勧め、自宅の一部を窯と仕事場のために提供。(出典A)。リーチは我孫子で、伝統的な日本の陶芸に中国、韓国そして英国伝統のスリップウェア(Slipware:スポイトや筆を使い、slip=泥漿(でいしょう:泥状の化粧土)で陶器を装飾する技法)を加味した、独特な作風を作り出すことに成功した(出典B p.40)。

6 一万種の釉薬

1916年(大正5)濱田庄司は京都市立陶磁器試験場に就職。濱田は、1914年(大正3)に就職していた河井寛次郎と東山馬町に下宿を借り、河井と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事。釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約1万種の釉業の調合を試みた(出典C p.165 p.201)。

7 バーナード・リーチと濱田庄司(1894~1978)の出会い

1918年(大正7)12月、濱田庄司は神田の流逸荘でリーチの第2回個展を見て、会場でバーナード・リーチと初対面し、作品について話し合った(出典C p.202)。1919年(大正8)濱田は、我孫子のリーチ窯を訪ねた。同年5月、我孫子のリーチ陶房は火事に見舞われ、図案や技法の記録、数年間の手記、重要な文献、そして製陶用の道具などが失われた。リーチは黒田清輝の好意で麻布の邸内に築かれた東門窯を借りて作陶し、その冬には濱田も泊まり込みで手伝った(出典C p.203)。

8 濱田庄司と益子の出会い

東京高等工業学校窯業科在学中、陶芸家の板谷波山から学んでいた濱田庄司は、波山宅の棚にあった山水絵の土瓶に興味を持ち、波山から「これは栃木の益子焼だ」と聞いた。この話を覚えていた濱田は、1920年(大正9)に益子を訪ねた(出典C p.201)。

9 濱田庄司、バーナード・リーチに誘われて英国へ向かう

1920年(大正9)濱田庄司はリーチの誘いで、イギリス南西端のセントアイヴス(St. Ives)に窯を築くため、リーチと一緒に船で英国へ向かった(出典C p.203)。同年、リーチと濱田は工房の場所探しや粘土や釉(うわぐすり)の調達に奔走し、西洋で初めての日本式登り窯を作った。この登り窯は、近所のダイナマイト工場の中古レンガを使い、各房の人口のアーチの支えには大きな樽の「たが」(樽を締めている鉄の輪)を利用した(出典B p.41)。1921年(大正10)二人は、ようやく初窯を焚いた。英国の土器に使われたガレナ釉(鉛釉)を1000度の見当で焼いて成功した。鉄絵など楽釉の軟陶のものを焼いたが、2~3割は失敗した。1923年(大正12)セントアイヴスで3年が経った春、濱田はロンドンの画廊で初めての個展を開催し、成功を収めた(出典C p.204)。その後、リーチも同じ場所で個展を開催した(出典C p.205)。

10 マイケル・カーデューがバーナード・リーチに弟子入り

1923年(大正12)一人の若者がバーナード・リーチの住むカウント・ハウス (Count House) のドアをノックした。濱田庄司が工房から連れてきたという。彼はマイケル・カーデュー(Michael Ambrose Cardew)と名乗り、ぜひ弟子にしてほしいと懇願した(出典B p.47)。

11 河井寛次郎、スランプに陥る

1917年(大正6)京都市立陶磁器試験場を退職した河井寛次郎は、五条坂の五代 清水六兵衛(きよみず ろくべえ)の顧間となり、2年間、各種の釉薬を作る仕事に着手する。1920年(大正9)30歳になった河井のため、久原(くはら)鉱業監査役・山岡千太郎は鐘鋳(かねい)町の清水六兵衛の持ち窯と土地を購入する援助をした。河井は、地名にちなんで「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名づけた(出典C p.166)。1921年(大正10)河井は東京高島屋で初個展を開催した。陶磁器研究学者の奥田誠一はこの展示会を絶賛。この頃、柳宗悦は、神田流逸荘で「朝鮮鮮民族美術展」を開催。河井は李朝陶磁の美しさに心打たれ、自身の作品に疑問と反省を持ちはじめた。そんな矢先、柳が「河井の仕事は技術の模倣に過ぎない」と酷評した。河井は「中国陶磁を越える作品は生まれていない」と反省。それが葛藤となりスランプに陥った(出典C p.160)。

12 英国から帰国した濱田庄司が、河井寛次郎を訪問

1924年(大正13)濱田庄司が英国から帰国し、河井寛次郎を訪問。再開を果たした二人はそれから2カ月間、寸暇を惜しんで語り合い、互いの進む道を確認しあった(出典D p.168)。英国から送った荷物がようやく河井宅に着いた。スリップウェアの皿10枚と、ドイツの古い水指などであった。そのスリップウェアを賞賛した河井は、すぐに真似た皿を作り上げたが、専門家にも見分けられないほど素晴らしかった(出典C p.206)。

13 柳宗悦、木喰仏と出会う(第二の転機)

1924年(大正13)1月、柳宗悦は、朝鮮の陶磁器を見るために古美術の蒐集家・小宮山清三を訪問した際、暗い庫の前に置かれていた二体の木喰(もくじき)仏に出会う(出典A、出典E)。

14 下手物(雑器)の美

1924年(大正13)前年の関東大震災で被災した柳宗悦は一家で京都へ移住。柳は河井寛次郎に連れられて東寺や北野天神の朝市を回り、そこで出会った「下手物(げてもの)」(一般民衆が使用する雑器。上手物(じょうてもの=精巧に作られた高価な工芸品)の反対語)に惹かれ、蒐集を進めた。1926年(大正15)9月、柳は「下手ものの美」という文章を越後タイムズに発表、その語感に注目が集まる。1927年(昭和2)柳は「下手ものの美」を改題した『雑器の美』(URL:柳宗悦 雑器の美 (aozora.gr.jp))を「民藝叢書」の第一編として刊行し、同年には東京鳩居堂で最初の「日本民藝品展覧会」を開催(出典A)。

15 木喰仏調査の旅先で「民藝」を造語

1925年(大正14)河井寛次郎は濱田庄司に誘われ、吉田山の柳宗悦を訪ねた。河井は柳の家で大津絵に共鳴し、李朝陶などをみて感激。さらに天衣無維な木喰仏を見て、自らの造形と響きあうものを感じ、柳と河井の二人はいっぺんに意気投合。積年のわだかまりが氷解した(出典C p.169)。同年12月、紀州旅行の途中に柳、河井、濱田の三人は木喰上人遺跡を訪ねた。淺川伯教、巧(たくみ)兄弟の影響で李朝陶磁に興味を持った柳は、木喰仏を通じて独自の鑑賞眼を確立した。濱田はスリップウェアや錫の器などに美しさを感じ、河井は民衆の使う雑器に心奪われていた。ここで三人は「民衆の工芸」を略して「民藝」の造語を生んだ(出典C p.206)。

16 濱田庄司、益子に移住

 京都や東京の都会が主な拠点だった濱田庄司も、波山のところで知った益子を訪れ「健康的な心が根付く田舎」に住む気になった(出典C p.206)。濱田が移住した当時の益子は甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・湯たんぼ・片口・山水土瓶・石皿などを量産していた。(注:現在の量産品は「峠の釜めし」用土釜)大正期には一度の登窯で1万個焼いたというほど関東一円の台所用品を生産していた。1924年(大正13)セーターにコールテンのズボンをはいて、外国のホテルや航路で集めたラベルやシールを貼ったスーツケースを持って益子に入った濱田の格好は、田舎の益子では人目についた。(略)警察や役場の人たちに監視される日が6年間続くことになる(出典C p.207)。

17 沖縄への旅

1924年(大正13)濱田庄司は、寒い冬の間、沖縄へ行くことにした。新垣栄徳(1947年没)に世話になり、翌3月まで滞在して壺屋で制作した。その後、妻子と共に1年以上も沖縄で暮らした。沖縄は濱田の気持ちを受け入れてくれるところだった。無意識の創作力を失って久しい濱田にとって、沖縄壺屋での陶工の仕事ぶりには学ぶことが多かった(出典C p.208)。

18 3万坪の土地に住居と窯

1930年(昭和5)濱田庄司は、益子に3万坪の土地を求め、住居は益子の道祖土(さやど)にあった80坪の豪壮な農家が気に入り、住んでいる人に頼み込んだ。相手が渋るのを納得させて移築、翌年には邸内に3室の登窯を築き、昭和17年には8室の登窯を築き、松薪で焼いた(出典C p.209)。

後日、濱田は「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返った(出典C p.198)。

19 河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった

1941(昭和16)以降、河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった(出典D p.12)。

20 富本憲吉が民藝派と決別

1946年(昭和21)12月、富本憲吉は、柳宗悦率いる「民藝派」とのつながりをはっきり断ち切るために国画会工芸部も脱退した。民藝派とはその機関誌である『民藝』の創刊号から10号まで毎回、題字を書いていたこともあるほど長い付き合いであったが、民藝の主張と相いれぬものがあった。「民藝派の主張する民藝的でない工芸はすべて抹殺さるべきだという狭量な解釈はどうにもがまんがならなかった。創作こそ美術家の根本理念である。河井、濱田らの民藝派グループの工芸は創作性の僅少な、むしろ伝統の繰り返しを平気でやっている」と、国画会と手を切ったのである(出典C p.135)。

出典の一覧

A 民藝運動 Wikipedia  URL: 民藝運動 – 民藝運動の概要 – わかりやすく解説 Weblio辞書

B 『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』著者 加藤節男 

発行所 株式会社河出書房新社 2020年2月28日発行

C 講談社選書メチエ『名匠と名品の陶芸史』著者 黒田草臣 2006年6月10日発行

D 「陶工・河井寛次郎」著者 松原龍一 京都国立近代美術館 副館長

 京都国立近代美術館編 川勝コレクション『河井寛次郎』2019年3月31日発行 発行所 光村推古書院 所収

E 【先人たちの底力 知恵泉】URL: 【先人たちの底力 知恵泉】柳宗悦 多様性社会をどう築くか? Eテレ 6月4日夜放送 – 美術展ナビ (artexhibition.jp) 

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