一宮市三岸節子記念美術館「安藤正子展 ゆくかは」ミニツアー

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 一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「安藤正子展 ゆくかは」のミニツアーに参加しました。開始日時は8月5日(土)午後2時。美術館が開催した「アーティスト・トーク」に参加するという方式です。アーティスト・トークの参加者は約50名、うちミニツアー参加者は13名で、アーティスト・トークの司会は美術館の野田路子学芸員(以下「野田さん」)でした。以下は、当日のメモを元に書いたものです。

◆第1部 美術館2階第1展示室

 冒頭、野田さんは「現在、母校・愛知県立芸術大学の准教授」と、安藤正子さん(以下「安藤さん」)を紹介。安藤さんは、本展のサブタイトル「ゆくかは」について、鴨長明『方丈記』の有名な一節「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」から取ったもの、と解説。「時間の流れはゆくかは(行く川)のように速い」「絵を描くのは時間がかかり、流れに追いつけない」というキーワードを中心に、作品制作に向かう姿勢などについて、お話しくださいました。

 続いて、野田さんから「第1展示室の作品は2016年以前に制作したもの」という説明があり、安藤さんによる作品解説が始まりました。

◎《貝の火》(2004)

 右手にポールペンを持ち、自分の左腕に絵を描いている女の子を描いた細密描写の鉛筆画です。不思議なことに、女の子は「鳩をくわえたキツネの頭部」を被っています。安藤さんによれば、宮沢賢治の童話『貝の火』(注に、あらすじを記載)に着想を得た作品。自分の体に絵を描くのは、古代人の壁画をイメージしているとのこと。《貝の火》は安藤さんにとって「大きな画面に鉛筆で描いた最初の形」とのことでした。

(注)主人公は子ウサギのホモイ。ホモイは、川に流されたヒバリの雛を助けたことで、鳥の王様から宝珠・貝の火を贈られます。ホモイは周りの動物からおだてられて増長。キツネに誘われたホモイは悪事に加担しますが、貝の火が濁り始めたことに気がついて、キツネの悪事を食い止めます。しかし、貝の火は砕け、その破片でホモイは失明。ラストに、ホモイのお父さんが「こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから」と慰めるのでした。(全文については、青空文庫=https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.htmlをご覧ください)

◎《ビッグ・バン》(2007)

 これも鉛筆画で、垂直に立った棒に張った網にアサガオが蔓を伸ばし、満開のアサガオが咲き誇っている様子を描いた作品です。安藤さんによれば油絵の作品もあるそうですが「鉛筆画は下絵で、油絵が本画」ということではなく「それぞれが独立した作品」。「色のイメージを持っているものは油絵にすることが多い」そうで、「《貝の火》は、画面の縁に色つきの紙を置くことで満足したので、油絵は制作しなかった」そうです。

◎《うさぎ》(2013)・《パイン》(2014)・《APE(エイ・ピー・イー)》(2014)

 安藤さんによれば「息子に毛糸のおくるみを掛けて、寝ている姿を見ているうちに、東日本大震災の原発事故をテーマに三枚の絵を描こうと思った」とのことです。《うさぎ》は、公園で虫取りをする息子の姿。草ぼうぼうの公園に無人の商店街が重なって見えたそうです。《パイン》は、松原の中で一本だけ残った松。《APE》はGRAPEファンタの空き箱で作ったヘルメットに「APE」という文字が読めたから付けたタイトル。Apeは類人猿。フォークロック・バンドの「たま」が歌った「さよなら人類」のメロディーも浮かんだそうです。雪は放射能を表現したもの、とのことでした。

《パイン》について「足元のパンジーは、名古屋市美術館協力会のカレンダーにも描きましたが表情のある花。泣いたり、笑ったり、ひげのおじさんや犬のようにも、困っているようにも見える」と付け加えていました。

◆第1部 美術館2階第2展示室

第2展示室に移動してから安藤さんが語ったのは、第1展示室に出品の三枚の作品を描き上げた時の心境と、その後の変化でした。

◎三点を描き上げた時の心境

安藤さんは三点の作品を描き上げて、自分の見ているもの、考えていることを絵にしていく作業が「磁石に鉄がくっつくようにうまく描けた。これ以上は出来ない」という心境になったそうです。その頃、名古屋市内から瀬戸市に引っ越し、第二子(女の子)が生まれ、大学(愛知県立芸術大学)に就職するなど、生活環境の変化もあって、「前のスタイルで制作を続けるのは難しい」と感じ、木炭紙に木炭で描いたり、水彩鉛筆で描いたり、試行錯誤を続けたそうです。「マティスやボナールが好きで、その作品のように描こうとしても、細部を描きたくなる」「大きな空気感を描きたい」などの言葉がありました。

◎《眠れない》(2018)

 小さな花が縦横、規則的に並んでいる紙に、寝間着姿の小さな女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんが語ったとおり、第1展示室で見た精密描写の絵とは違う画風になっています。

◎《歯ブラシの話》(2020)

 黒い野球帽、赤いジャンパーで、歯磨きをしている髭面の人物を水彩鉛筆で描いた作品です。安藤さんによれば、描いたのは沖縄の人で「柔らかい歯ブラシが好き」と言っていたとのこと。「この作品で、絵が描けるようになった。」「描き始めることができれば、完成することができる」とも解説。《歯ブラシの話》では、瀬戸市にいる若い作家から陶板レリーフの制作に誘われた話もされました。「作品展に出品しませんか」と誘われたので「陶板をやってみたい」と快諾。「近所の友達のところで焼成してもらった」とのことでした。

◎《ニットの少女Ⅱ》(2020)・《ニットの少女Ⅳ》(2020)

女の子の顔、体、背景を陶板で制作して、板に貼りつけた作品です。安藤さんによれば、原型をつくって、石膏型(凹型)を取り、石膏型に粘土を詰めこんで成型。その後、乾燥させて焼成、とのこと。「同じ形のものが、複数できる。同じ原型でもイメージを変えることができる」などの言葉から、陶板レリーフの制作を楽しんでいることが伝わってきました。確かに《ニットの少女Ⅱ》と《ニットの少女Ⅳ》は同じ原型の作品ですが、イメージはずいぶん違います。原型→石膏型→成型→乾燥→焼成という、ひと手間多い、大量生産時に使う制作方法(だと思いますが……)は「やきものの街・瀬戸」に引越したから出来たことだと思いましたね。

◎《怖いテレビ》(2018)

 安藤さんは「枕を抱きしめながらテレビを見ている娘。枕の柄を最初に描いた」と解説。《眠れない》と同じように、図柄を描いた紙の上から描いています。

◎《ピンクの中の娘》(2019)

 黄色いパイナップルを描いたピンクの紙に、パンツ姿の女の子を木炭で描いた作品です。安藤さんによれば「陶板の《パイナップル》シリーズの元になった絵」とのことでした。

◎《シダ植物》(2018)・《31》(2022)

 安藤さんは「紙に柄を描いたものを何枚も用意。その紙の上に絵を描いた」「図柄やパターンを描いた紙に人物などを描くことで、二次元の性質を強めてくれる」「パターンは芋版を使って描いた」等と解説。

◎《将棋なんて》(2021)

 大画面の水彩画です。将棋盤を見つめている女の子の服は、実物をコラージュしたもの。安藤さんは「コラージュしようとは思っていなかったが、服はコラージュした方が良いと思った」「陶板制作に近いものを感じた」「陶の制作が水彩画に活かせた」等と解説。

◎《歯が抜けそう》(2020)

 安藤さんは「乳歯が抜けるときの姿を描いた」「楽しんで描いた」と解説。「画面左上にコードが描いてあるけれど、好きなモチーフですか?」という、入場者からの質問には、「身の回りにあるアイテムを画面に入れるのが多い。ヘッドフォンを買ったときは、いずれ描くかなと思った」と回答されていました。

◎《スシローにて》(2023)

 安藤さんは「娘のギターの発表会の後スシローに行ったら、中3の息子が高い皿をたくさん注文。さっさと食べる様子が面白くて描いた。自分の作品は平面的なものを重ねるが、複数の視点を取り入れることはなかった。この作品では、すし皿を真横だけでなく、真上から、斜めからと、複数の視点で描くことで、三次元の空間を表したいと思った。スプーンには、自分の顔が写っている。一枚の絵の中に絵画の歴史がある」と解説。

◎アーティスト・トーク 終わりのあいさつ

 安藤さんのアーティスト・トークは「本展には、20年間、60点の作品を出品。この後の時間、好きに見て、楽しんでいただければうれしい」というあいさつで終了。時計は午後3時でした。

◆1階 第3展示室(ただし、部屋の表示板は「講堂」) 

1階では、安藤さんが日常生活を撮影した20分59秒の映像作品「ゆくかは」を上映していました。

◆作家を囲む会 

ミニツアー募集時は「作家を囲む会」の通知はありませんでしたが、通知後、一宮市三岸節子記念美術館を通して「アーティスト・トーク終了後、わずかの時間であれば安藤さんを囲む懇談会を開催する」ことにご快諾いただき、「作家を囲む会」の開催が実現。ミニツアー参加者は当日に通知を受け、「うれしいサプライズ」となりました。

「作家を囲む会」は、午後3時30分~4時の間、美術館の喫茶コーナーをお借りして、安藤さんとミニツアー参加者13名で開催。安藤さんのごく近くでお話が出来たので、参加者は大喜び。また、安藤さんが参加者一人一人の質問に丁寧に答えて下さったので、参加者にとって至福のひと時となりました。

安藤正子様、お忙しい中にもかかわらず時間を割いていただき、ありがとうございました。

Ron

碧南市藤井達吉現代美術館 「碧い海の宝石箱」展 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2023.05.14 14:00~15:00

碧南市藤井達吉現代美術館(以下「碧南市美」)で開催中の「碧い海の宝石箱」(以下「本展」)のミニツアーに参加しました。参加者は7人。碧南市美が開催するギャラリートークを他の入場者と一緒に聞く、というミニツアーでした。

ギャラリートークを担当されたのは3人。特任学芸員の大野さんと学芸員の大長さん、豆田さんです。大長さんが第1章、第2章、第3章part 1と第4章、大野さんが第3章part2、豆田さんが第5章を担当。本展の名称「碧い海の宝石箱」について、大長さんは「碧い海というのは、碧海郡(今の碧南市を含む、昔の行政区画の名前)を象徴しています。宝箱は地域の宝箱である碧南市美のことです」と解説され、「本展の出品は70作家・112件」と付け加えました。

◆ 第1章 藤井達吉がいた時代 大正~昭和初期の美術から

大長さんは先ず、毛利教武《手》(1919)について解説。「毛利教武はフュウザン会の作家。フュウザン会は大正元(1912)年に岸田劉生らが結成した芸術家集団。表現主義的作風を強調したが、活動期間は半年ほど。藤井達吉もフュウザン会に所属しています。そのため、第1章では木村荘八《樹の風景》(1913)、岸田劉生《童女飾髪之図》(1921)萬鉄五郎《冬の海》(1922)など、フュウザン会の作家の作品を6点出品。なお、萬鉄五郎は洋画家ですが《冬の海》は南画風の日本画です」との解説もありました。

毛利教武《手》(1919)

バーナード・リーチについては「彼は横浜市で陶芸をしていましたが、藤井達吉が横浜市の上野桜木町に住んでいた頃に、達吉と知り合った」とのことでした。小茂田青樹《城》(大正後期)については「この頃には日本画でも新風が吹き、小茂田青樹の属した赤耀会などが結成されたが、赤耀会の活動期間は2年と短かった」と解説。小川芋銭《河童図》については「再興院展に出品」との解説がありました。

◆ 第2章 藤井達吉の精神

大長さんによれば「第2章では、藤井達吉と造形思想を共にする作家を紹介」とのことで、先ず、藤井達吉の姉・藤井篠(すず)《芍薬文鳥毛屏風》(1931)の解説がありました。「絵の具ではなく、鳥の羽毛を刺繍して制作した屏風」という解説を聞くと、参加者は作品に近寄って、羽毛が刺繍されていることを確かめていました。

藤井篠(すず)《芍薬文鳥毛屏風》(1931)

香月泰男については「第二次世界大戦後、シベリアに抑留された経験を持つ作家。作品には宇宙に対する視線を感じる。《洗濯帰り》(1963)に描かれた三角形の窓には、藤井達吉《大和路》(1957)の三角形に切り取られた空との共通性を感じる」との解説があり、和田三造《花鳥図屏風》については「文展で最高賞を得た《南風》で知られる作家だが、装飾的な作品も手掛けている。大正後期の作品ではないか」と解説。地元作家である杉本健吉の作品についても紹介されました。

和田三造《花鳥図屏風》

◆ 第3章 藤井達吉がいた場所から、時代を彩った作家たち 

part1:地域の美術振興に足跡を残した作家たち

地元ゆかりの作家の作品を紹介する章です。加藤潮光《比島観音像》(1971)について、西尾市の三ヶ根山にある観音像の模型と下図などを展示しており、大長さんは、碧南市の出身などと解説していました。

なお、伊藤廉《柘榴・無花果》(1935)以降は大野さんにバトンタッチ(と記憶しています)。伊藤廉は「愛知県立芸術大学の創設に尽力、初代の美術学部長に就任」。久田治男《夢魔の晦(2)》(1979/2005)については「加藤潮光と同様に碧南市出身。1970~80年代の愛知の現代美術を代表する作家の一人」とのことでした。

久田治男《夢魔の晦(2)》(1979/2005)

◆ 第3章 藤井達吉がいた場所から、時代を彩った作家たち 

part2:新たな表現を希求した作家たち

大野さんによれば「ジャンルを超えた作家たちの作品を紹介した章」とのこと。中村正義《(「男と女」シリーズより)》(1963)については、「日展のホープだったが、脱退。その後、黄色、赤色、緑色など、あまり絵に使わない原色や蛍光塗料などを使った作品を発表」と解説。星野眞吾《何処へ》(1980)については「中村正義と同じ『从会(ひとひとかい)』に所属。日本画の画材を使って、洋画風の表現をする作家。展示作品は『人拓』。作家の体で拓本を取ったもの」と解説していました。近藤文雄《婿の朝夢(イ)》《婿の朝夢(ロ)》(いずれも1979)については「『婿シリーズ』のペン画です。作家は、自分の描いた妖怪を漫画家の水木しげる盗作した、と自慢していた」と解説がありました。

庄司達《白い布による空間 ’68-7 ミニ No.2》(2007)については「重力を可視化した作品」。野田哲也《Diary : Sept. 1st ’74》(1974)については「版画で、子どもの写真と子どもが描いた絵を重ねたもの」。八島正明《通学電車》(1977)については「真っ黒に塗った画面を細い針で削って白い線を描いた、根気の要る作品」との解説がありました。

八島正明《通学電車》(1977)

〇 増築した「多目的室」

第3章part2は、今回増築した「多目的室」に続きます。大野さんの説明によれば、多目的室の奥(西側)壁際の上部は吹き抜けで、外光を取り入れることが出来るそうです。壁に寄って真上を見ると、天井付近に窓がありました。奥の壁は、左右とも曲面。大野さんによれば「奥の壁は、左右とつながっているように見えるので、部屋が広く感じます」とのことでした。増築された多目的室ですが、現代アートの展示には最適の部屋だと感じました。

◆ 第4章 近代の藤井達吉

第4章から1階に移動。第4章は全て、藤井達吉作品の展示です。再び大長さんが登場。1階奥の展示室4(藤井達吉記念室)入口横の壁に展示の 《蜻蛉図壁掛》(1912)について「図柄は刺繍したもの。トンボの眼は七宝、翅は竹の皮」との解説がありました。展示室の入り口近くに、三幅の掛け軸が展示されています。右から《日光(朝)》《日光(昼)》《日光(夜)》(いずれも1925)。大長さんは「院展に、三幅対として出品したのですが、いずれも落選だった」との解説。《立葵》(1928)については「花は、絵具に漆を混ぜて着色」と解説した後、「鈴木其一の作品に似ている」と感想を述べていました。

《蜻蛉図壁掛》(1912)

展示室4ですが、今回のリニューアルで、床より少し高い畳の間が出来ました。そこに、二曲一双の《大島風物図屏風》(1916)が展示されているので、楽な姿勢で鑑賞できます。屏風の図柄は、右隻が桜、左隻が椿。春と秋の風物を描いています。

《大島風物図屏風》(1916)

ケース内に展示の図案集には葵が描かれていますが、大長さんから「この葵を元に、碧南市美西側の外壁にレリーフを設置しました」との宣伝がありました。

◆ 第5章 石川三碧コレクション 地域の文化・歴史のなかで育まれた宝物

第5章は、豆田さんの担当。展示しているのは、九重味醂の石川八郎右衛門当主から9年前に寄贈を受けた「石川三碧コレクション」の作品です。なお、石川三碧は、現当主の四代前の当主とのことでした。

豆田さんは、入口近くに展示されている三幅の掛け軸について解説。「文人画家・儒学者の富岡鉄斎が米寿を迎えた明治22(1923)年、鉄斎が三碧宅に宿泊した際に贈られたもので、三碧80歳、夫人70歳も祝っている」とのことでした。その外には、藤原定家の1212年3月9日と推定される「明月記断簡」の解説もありました。「これまで、本物は残っていないとされた日付の日記だったので専門家の鑑定を受けたところ、新発見の本物と鑑定された」とのことでした。作者不明の絵巻物「てこくま物語」(下)(1566)については「東京国立博物館所蔵の写しが知られていましたが、近年の研究により、これが親本であることが明らかにされた」そうです。また、「神戸女学院図書館が所蔵する『おかべのよー物語』が『てこくま物語』の上巻にあたる」とのことでした。

◆ 最後に

 今回、展示室の外で見た作品が3点ありました。一つ目は、1階ロビーの壁に展示されていたのが桑山真《鋼鉄による作品 # 252》(1974)。碧南市美によれば「本展開催中の展示」とのこと。二つ目は、階段で2階に上がり切る手前に、右側壁面に展示されている山本富章《Double Rings》(2020)。本展終了後も、しばらくの間は展示されるようです。最後は、喫茶コーナーの天井から吊り下げられている新宮晋《光のこだま》(2008)。少なくとも今後数年間は、今の場所で見ることができるようです。

山本富章《Double Rings》(2020)
新宮晋《光のこだま》(2008)

Ron.

一宮市三岸節子記念美術館 「河鍋暁斎翠展」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「河鍋暁翠展」の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は19名。美術館主催の「学芸員によるギャラリートーク」(事前申込不要)を他の入場者と一緒に聴く、という企画です。ミニツアー前後の過ごし方は自由ですから、早めに美術館に行き、作品を見てからミニツアーに参加することにしました。

◆第一展示室  第1章 暁翠と暁斎 - 父の手ほどき

美術館2階ロビーに集合。作品リスト、チラシなどをもらい、大村菜生学芸員(以下「大村さん」)の案内に従って、開始予定時刻の14時よりも少し前に第一展示室へ入ると、部屋は参加者でいっぱいとなりました。50人は居たでしょうか。あまりの人数で、押されてもいないのに圧力を感じます。

〇 河鍋暁翠と暁斎について(解説の概略、以下同じ)

大村さんによれば「河鍋暁翠は、明治元(1869)年、東京・本郷生まれ。本名は豊(とよ)。父の河鍋暁斎(1831-1889)は一時期、忘れられていたが、2008年の展覧会(注:京都国立博物館「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai」)で再評価。暁翠(1868-1935)は、上村松園(1875-1949)と同時代の画家。河鍋暁斎の陰に隠れがちな存在だったが、165回直木三十五賞を受賞した澤田瞳子『星落ちて、なお』(2021)で注目を集めている」とのことです。『星落ちて、なお』は、面白かったですからね、納得です。

〇 父・河鍋暁斎の作品

最初の作品《極楽大夫図》では「極楽大夫の着物に描かれた寿老人は閻魔大王、福禄寿は補佐官、布袋と唐子は賽の河原で水子を救いに来る地蔵菩薩、というように極楽と地獄を重ね合わせている」と説明がありました。本展のチラシ等に使われている《猫と遊ぶ二美人》は、意外に小さな作品。「暁斎が描いた下絵を元に、暁翠が描いたもの。背景の調度品を双六にするなど、下絵と変えている」と解説があり、《霊山群仙図》については「暁斎の死によって未完成のまま残されたものに、暁翠が仙人などを加筆した」と解説。「暁翠は暁斎から学び、その画業を引き継いだ画家だ」と、よく分かりました。

◆第二展示室 

第2章 土佐・住吉派に学ぶ

第2章では、「暁翠は明治21(1888)年に土佐・住吉派の山名貫義(1836-1902)に弟子入り。物語を優しい色彩で描く「やまと絵」を学んだ」と説明があり、養老の滝の伝説を描いた、山名貫義《養老》と暁翠《養老の滝図》の対比の外、伊勢物語の一場面を描いた《東下り》に見られる「やまと絵」と「狩野派」の描き分けなどについての解説もありました。また、《五節句之内 文月》については「小説『星落ちて、なお』のカバーになった作品」とのことです。

第3章 教育者として

島田友春《木蘭》について「父の代わりに戦争で手柄を立てた少女「木蘭」を描いた作品。暁翠は、島田友春(1865-1947)の後任として、1902年に女子美術学校の教師になった」との解説がありました。

朱色の《鐘馗》について「絵に算用数字を書き込み、絵を描く際の手順を示している」と説明されるなど、熱心な教育者、生徒から慕われた教師としての暁翠を知ることができました。

第4章 受け継がれた伝統

《能 石橋》《松風・羽衣》について「能を描くには知識が必要で、能をテーマにした絵を描ける人は限られていた」と解説され、《百福図》《百福の宴》については「暁翠が描いたお多福の絵は、この外に、大英博物館所蔵の作品がある。暁斎・暁翠の作品は、海外で人気があった」との解説がありました。

《鐘馗図》については「狩野派では修行の一環として鐘馗を描く」ことや「暁翠が61歳の時、鐘馗を描いて、展覧会で一等賞金牌を受賞」したこと、「暁翠が最後に描いたのも鐘馗」など、暁翠と鐘馗との深い結びつきを知ることができました。それで、《鐘馗図》が最後に展示されていたのですね。

◆最後に

一宮市三岸節子記念美術館のミニツアーは、4月の「貝殻旅行」に次いで2回目。「伝統的な日本画」が展示されており、参加者から「来てよかった」という声を聞くことができました。

Ron.

一宮市三岸節子記念美術館 「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「貝殻旅行 三岸好太郎・節子展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は10名、美術館主催の「学芸員によるギャラリートーク」(事前申込不要)に参加する、というミニツアーでした。ギャラリートークの担当は、課長補佐・学芸員の長岡昌夫さん(以下「長岡さん」)です。ギャラリートークの前後は自由行動。早めに美術館に行き、作品を見てからギャラリートークに参加しました。

◆美術館に着くまで

協力会の案内では、美術館に行くには「名鉄一宮駅の名鉄バス2番のりばからバスに乗車、起工高・三岸美術館で下車」でした。ところが、駅西の広場にあるのは「1番のりば」だけ。バスが到着したので、運転手さんに聞くと「ここじゃない。バスターミナルの中」とのこと。あわてて、駅舎に引き返し、発車時刻の間際で乗車することができました。バスに乗ってしばらくすると、「尾西庁舎」というアナウンス。「この辺は尾西市だった」と分かりました。運賃を節約するため、一つ前のバス停「尾張中島(おわりなかしま)」で下車。昔の地名が「中島郡(なかしまぐん)」なので、「尾張中島」ですか。

交差点を渡って数分歩き、「起工高・三岸美術館」のバス停に到着。美術館の看板はあるのですが、付近にそれらしい建物は見当たりません。民家の屋根越しに赤いタイル壁の建物が見えたので「あれだ」と見当をつけて歩き、ようやく美術館に到着。玄関脇の水面にはゴンドラが浮き、玄関では女性の銅像がお出迎え、大きなガラス窓には自筆のサイン(S.Migishi)が書かれていました。

◆展示室にて

本展は、美術館2階の展示室二つを使って開催。1階受付で観覧料千円を払い、階段を上ると左側が第一展示室です。

<第一展示室>

・第1部 男と女の旅  第1章 プロポーズ

第一展示室に入ると、正面に三岸好太郎(以下「好太郎」)の二作品が展示されています。左が風景画《大塚仲町風景》(1922)、右がアンリ・ルソーのような人物画《二人人物》(1923)でした。

 好太郎と三岸節子(旧姓 吉田、以下「節子」)が出会って、結婚したころの作品を展示。好太郎も節子も、風景画は岸田劉生風。チラシに使われている節子《自画像》(1925)に、強く引き付けられました。

・第1部 第2章 プラチナの指輪

 最初の3点は、中国旅行で制作した作品。好太郎《上海風景》(1926)は、フォーヴィスム風です。続いて、《道化》(1930-31)から《マリオネット》(1930)まで、ルソー風の作品が並んでいます。一転して、好太郎《金魚》(1933)や節子《室内》(1936)になるとマティス風。好太郎《三人家族》は、長谷川利行の作品を思わせます。

・第1部 第3章 貝殻旅行

 本展のサブタイトルと同じ名前の章です。好太郎の作品ばかりです。なお、蝶や貝殻を描いた作品は第2展示室に集まっています。第1展示室は、抽象画のような《ピエロ変形》(1932)や落書きに見える《乳首》(1932)など、前衛的な作品ばかりでした。

・第2部 女流画家の旅路  第1章 いばらの道

 《月夜の縞馬》(1936)は、ルソー風で、《室内》(1939) 《室内》(1939)はマティス風です。

・第2部 第2章 風景を求めて

 《ブルゴーニュにて》(1989)は、下半分が鮮やかな黄色なので、ウクライナ国旗を連想しました。

<第二展示室>

・第1部 第3章 貝殻旅行 + 第2部 第3章 永遠に咲く花 = 二人の晩年の作品

 第二展示室は、好太郎と節子の晩年の作品を展示。《海と射光》(1934)というタイトルの作品は、名古屋市美術館でも所蔵していますね。

・1階 コレクション展、土蔵展示室

 展示室に入った正面に、節子が19歳の時の作品《自画像》(1924)を展示。おおむね制作年代順に、作品が並んでいます。展示室の北の端に、「土蔵展示室」への通用口があります。通用口を抜けると、目の前に古い土蔵。中には、壺やイーゼルなど、節子の愛用した品々が並んでいました。

◆長岡さんのギャラリートーク(14:00~15:10)の要旨(注は、筆者の補足です)

午後2時少し前に館内放送が入り、ギャラリートークの参加者(30~40人)が2階ロビーに集まりました。

<第1部>

・好太郎と節子の出会い

 節子は1905年に現在の一宮市(注:当時は中島郡起町字中島)に生まれ、1921年に上京。好太郎は1903年に札幌市(注:当時は北海道札幌区)に生まれ、1921年に上京。二人は、1922年に出会います。

二人の出会いは、今から百年前。「出会って百年」を記念し、全国巡回しているのが本展です。好太郎と節子の二人展は、今から30年前の1992年に開催されました。節子は1999年、94歳まで生きました。本展は30年ぶりの夫婦展、節子が亡くなってから初の夫婦展です。第二展示室には、好太郎最晩年の二作も展示しています。

・節子の生い立ち

 節子の父は、毛織物工場を経営。節子は名古屋市の私立愛知淑徳高等女学校(注:現在の愛知淑徳中学校・高等学校)に進学します。1920年に不景気で工場が倒産。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返す」と決意し、一人で上京します。最初は東京女子医学専門学校(注:現在の東京女子医科大学)を目指しますが、不合格。「日本画なら許す」という父親に逆らい、ハンガーストライキまでして、親戚の紹介で洋画家・岡田三郎助の洋画研究所に入ります。当時、女性の洋画家は全くいませんでした。

・親との確執

 節子は、生まれつきの股関節脱臼で、軽い歩行障害がありました。親戚が集まるときは、障害のある節子を親戚に見せないよう、節子は蔵に押し込まれました。

・好太郎《大塚仲町界隈》(1922)・《二人人物》(1923)

 二作とも、節子と出会った頃の作品です。大塚は、文京区の地名。最初に出会った頃に、節子が住んでいたアパートの近くを描いたものです。好太郎は、節子に出会った一週間後に猛アタック。《大塚仲町界隈》をよく見ると、画面右端に男の子が、中央に女の子が小さく描かれています。好太郎と節子かもしれません。

・好太郎《檸檬持てる少女》(1923)

 春陽会に初出品した作品です。皆さん、稚拙な印象を持たれませんか?節子にアタックするため、彼女をモデルに描いた《赤い肩掛けの婦人像》(1924)を見てください。好太郎の画力は高いのです。《檸檬持てる少女》が稚拙に見えるのは、当時の春陽会では稚拙さが好まれたためです。好太郎は意識して稚拙に描いたのです。

・二人は、関東大震災をきっかけに近づく

 1923年9月、関東大震災の二三日後に好太郎は、東京女子美術学校に通っていた節子が友人とルームシェアしていた部屋を訪ねます。好太郎は当時、生協でアルバイトをしており、食料を提供するためにやってきたのです。同年の大晦日には、二人で千葉県の安孫子までスケッチ旅行に出かけ、この時、好太郎は節子にプロポーズします。節子が好太郎の所に行くと、部屋は六畳一間で、母・妹との三人暮らし。この貧乏暮らしに、節子は心惹かれました。

・節子《自画像》(1925)について

 ストレートに表現した作品です。春陽会に出品し、女流画家として初入選を果たしました。女性の洋画家がいない時代でした。1階「常設展」にも《自画像》(1924)を展示していますので、ご覧ください。

・二人の結婚生活

 二人は1924年に結婚。しかし、好太郎は1934年に死去。結婚生活は、わずか十年。幸せな結婚生活とは言えませんでしたが、ドラマチックな十年でした。

・好太郎の中国旅行

 当時の画家は皆、フランスに憧れました。好太郎もその一人です。しかし、彼は1926年に中国を旅行。当時の上海には、異国情緒あふれる租界(注:外国人居留地)がありました。フランスには行けませんでしたが、租界で外国文化に触れ、《上海風景》(1926)などの作品を多数制作しています。

・好太郎《黄服少女》(1930)など

 上海旅行後の1926年から1929年までの三年間、好太郎は文人画を描いて大スランプに陥ります。1929年になって、ようやく上海の体験が生かされるようになります。《道化少年》(1929)などの作品は、サーカス団の華やかな舞台から離れたところにいる道化師を描いたものです。「好太郎の自画像ではないか」と思われる、重苦しく、ファンタスティックで、グロテスクな作品です。《黄服少女》のモデルは好太郎の愛人・音楽家の吉田隆子です。第8回春陽会に《マリオネット》(1930)とともに出品。日本画家の鏑木清方は「隣にある少女にもマリオネットの糸がつながっているように見えたのは錯覚かしら」と、感想を述べています。

・前衛的な作品

 好太郎は、1932年12月に開催された「巴里・東京新興美術展」を見て大きな刺激を受け、抽象絵画やシュールレアリスムなどの前衛的な作品を描くようになります。《乳首》(1932)と《花》(1933)は、キャンバスに絵具を塗ってから、それを釘で引っかいて描いたものです。

・好太郎《オーケストラ》(1933)

 《オーケストラ》は、音楽の世界を絵画で表現した作品です。キャンバスを黒く塗り、次に白く塗り、それを釘で引っかいています。その様子を見ていた友人の里見勝蔵が「黒い絵の具の線でなぞってはどうか」と提案。そのため、里見はこの作品を「好太郎と里見の共作」と言っています。好太郎は「お茶漬けのように絵を描いた」と評されますが、死後、おびただしい数のデッサンが見つかりました。好太郎がサラサラと描いた裏には、デッサンの積み重ねがあったのです。

好太郎は、1934年に新しいアトリエを造り、そこで行き着いたのが蝶と貝殻の連作です。

<第2部>

・節子《室内》(1939)など

 ここから、第2部です。節子の作品ばかり並びますが、意識して好太郎と節子の作品を分けたのではありません。年代順に並べると、作品が節子と好太郎に分かれてしまうのです。好太郎の生前、節子はほとんど絵を描きませんでした。子育てと好太郎の家族の世話で手一杯。絵を描く余裕はありませんでした。好太郎が死去した時、節子は「これで、好太郎から解放される。画家として生きていける」と思ったそうです。

 好太郎の死後、節子が描き始めた作品に、風景画はありません。子育てなどに忙しく、室内での制作しかできなかったのです。《室内》はマティス、ボナールに憧れて制作した作品です。1940年代に制作した作品は、絵具が手に入らず、色彩が沈んでいます。戦争画を描く画家には絵具の配給があったのですが、女流美術家奉公隊の結成に参加したものの、進んで戦争画を描く気になれず、節子は絵具の配給を受けていませんでした。

・第二次世界大戦後の活躍

 節子は1945年9月に、それまでに描きためた室内画を日動画廊に展示。戦後初の開催となる、記念的個展でした。とはいえ、絵を売るだけでは食べていけず、1950年までは雑誌の挿絵や文章、座談会などの雑収入で生活していました。1951年に《静物(金魚)》(1950)が国に買い上げられた頃から、絵を売るだけで食べていけるようになりました。

・渡仏と、その後

 1954年、49歳の節子は、憧れのフランスに旅立ちました。しかし、着いてみるとフランスの芸術に閉塞感を抱き、古代エジプトや古代中国の美術のほうに感銘を受けました。帰国後は、埴輪や土器、インカの壺などをモチーフにした静物画を描くようになります。また、見たものをそのまま描くのではなく、内面性が作品に現れるようになりました。

・軽井沢の山荘にこもり、大磯に移住。そして、ヨーロッパへ

 節子は1956年から軽井沢の山荘にこもり、1960年から〈火の山にて〉シリーズを描きます。1964年に神奈川県大磯町に移住して描いたのが《太陽》(1964)です。海の風景に触発され、風景画に挑戦するようになります。しかし、湿潤な日本の気候や風景は水墨画や日本画には合うけれど、油絵には合わないと考え、カラッとした風景を求めて1968年にヨーロッパへ渡りました。

・好太郎の作品を収集、北海道に寄贈

 1960年代になると、好太郎は世間から忘れられていきました。好太郎の名前を残すため、節子は自分の作品に人気が出るようになると、自分の作品を好太郎の作品と交換し、200点以上の好太郎作品を収集します。

1965年、北海道拓殖銀行からカレンダーの原画制作の依頼を受け《摩周湖》(1965)を制作した時、インスピレーションを得て、節子は1967年5月、北海道に好太郎作品220点を寄贈。北海道は同年9月に北海道立美術館(三岸好太郎記念室)を開館しました。

・尾西市三岸節子記念美術館の開館

 ヨーロッパに渡った節子は、1974年にパリで「三岸節子 花とヴェネチア」展を開催。個展が高い評価を得たため、ブルゴーニュ州・ヴェロンで家を購入し移住。息子・黄太郎夫婦と、20年以上にわたるヨーロッパ生活を送ります。1998年に節子の生家跡地に尾西市三岸節子記念美術館が開館しますが、玄関の横にある舟と水路はヴェネチアの運河をイメージしたものです。

・ヨーロッパで制作した作品

 《小運河の家》(1973)は、ヴェネチアの冬を描いた作品です。赤い色が目立つ作品は、南ヨーロッパ・アンダルシア地方のアルクディア・デ・グアディクスの風景を描いたものです(注:名古屋市美術館も同じ地方を描いた《雷がくる》(1979)を所蔵しています)。節子は84歳までヨーロッパで生活し、1989年に帰国しました。

・第二展示室の作品

 好太郎の作品に描かれた蝶と貝殻は、シュールレアリスムのモチーフです。好太郎は1934年3月に、一週間余りで7点の作品を一気に描き、その後、限定100部の筆彩素描集『蝶と貝殻』を仕上げました。好太郎は「小笠原に旅行した場合の写生」と解説していますが、実際には行っていません。節子は日記に「《海と射光》に描かれた女性のモデルは、私」と書いています。

・貝殻旅行

 好太郎の《のんびり貝》が、クラブ化粧品の中山太陽堂(注:現在のクラブコスメチックス)に高値で売れたため、1934年6月、二人は「貝殻旅行」と名付けた数日間の関西旅行に出かけ、京都、大阪、奈良、神戸を巡ります。最初で最後の夫婦水入らずの旅行でした。旅行の後、好太郎は名古屋に立ち寄り、定宿だった中区錦二丁目の銭屋旅館(注:当時の表示は西区御幸本町7丁目)に滞在し、節子は帰郷。6月28日に、好太郎が四度目の吐血。7月1日に心臓発作で逝去しました。享年31歳。

・好太郎の絶筆

 《女の顔》(1934)は、銭屋旅館に残されていた作品です。節子が自宅に飾っていましたが、本展を記念して北海道立三岸好太郎美術館に、遺族から寄贈されました。貝殻旅行の途中、好太郎は「僕の生命線はあと一週間で切れている」「おれが死んだら、絶対、恋をしろ」と、予言のような言葉を残しています。

・晩年の節子の作品

 帰国後の節子は、大磯で花の絵を描きました。「売れる絵」は、花の絵だったからです。どの作品もタイトルは「花」「白い花」等。「さくら」や「チューリップ」といった花の名前は付けていません。それは「描いた後は、自分の分身」と思っていたからです。

1992年に、初めての夫婦展が開催されます。節子は「好太郎は天才、自分は凡才」と意識しており、夫婦の作品を並べることに抵抗がありました。87歳になって「自分の作品のレベルが上がった」ことから、夫婦展開催に踏み切りました。《作品Ⅰ》《作品Ⅱ》(1991)は、夫婦展に向けて制作した作品です。《作品Ⅰ》は、夕日を背に二つの瓶を描いています。二人並んで太陽を見る好太郎と節子かもしれません。

 1988年に節子は尾西市名誉市民となり、1994年には女性洋画家として初の文化功労者になります。尾西市は、節子が生まれた土地を買い戻して美術館を建設。節子は「一家の名誉を、何者かになって取り返し」、故郷に帰ることができました。左半身不随で言語障害もある満身創痍のなかで、散りゆく桜を描いた《さいたさいたさくらがさいた》(1998)は、生命に対する執念、執着を表現したもので、美術館の壁を飾る集大成の作品です。

 美術館開館の一年後、1999年4月18日に節子は死去。《花》(1999)は、節子の絶筆です。本展を記念して美術館に、遺族から寄贈されました。「生まれ変わっても、結婚するなら好太郎」と、節子は言っています。

◆展覧会後に調べたこと

現在の一宮市は、2005(平成17)年4月1日に、一宮市、尾西市及び葉栗郡木曽川町の合併で誕生。美術館も、1998(平成10)年11月3日に尾西市三岸節子記念美術館として開館し、2005年の市町村合併に伴い、一宮市三岸節子記念美術館に改称。建物は織物工場を思わせる「のこぎり屋根」(世界遺産の富岡製糸場と同じように、北側に明かり取りのための窓を設置した屋根)で、敷地内には節子の生前から残る土蔵を改修し、節子が愛着した品々を並べた土蔵展示室があります。

本展は、長岡さんのギャラリートークで「全国巡回」と紹介されましたが、北海道立三岸好太郎美術館(2021.06.26~09.01)を皮切りに、砺波市美術館(2021.09.11~11.07)、神戸市立小磯記念美術館(2021.11.20~2022.02.13)と巡回し、最後が本展(2022.02.19~04.10)です。

◆最後に

参加者は10名でしたが、心から「来てよかった」と思える展覧会でした。節子も好太郎も、名古屋市美術館に所蔵されている作品の作家です。美術館からの帰り道で、「一宮市三岸節子記念美術館とは縁があるのにミニツアーが無かったのは何故?」と思いました。機会があれば、これからも来たいですね。

     Ron.