真島直子 地ごく楽

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


 3月10日土曜日、日中は少し暖かいのですがまだ朝晩は冷えるなか、名古屋市美術館での『真島直子 地ごく楽』展のギャラリートークが開催されました。37名がトークに参加し、担当学芸員角田美奈子さんの解説に熱心に聞き入り、真島さんの色美しくも少しグロテスクな印象も否めない、なんとも興味深い作品を鑑賞。しかし見終わった際には、参加者はすがすがしい思いに包まれました。
 白い大きなキャンバスに鉛筆の黒のみで細かなドローイングをびっしり書き込んだ作品や、木工用ボンドで様々な色の布や紐を固めて作られた立体作品など。点数は決して多いわけではありませんが、1つ1つの作品が強いインパクトを放っていて、作品を観る一人ひとりに何か訴えているようでした。
 そして忘れてはならないのは、2階展示の最後の方、いわば展覧会クライマックスの位置に、名古屋市美術館協力会で美術館の開館25周年を記念して購入、寄付した真島さんの作品が飾られています。協力会の会員みなさま、ありがとうございました。またこのような素晴らしい作品を寄付できるよう、がんばりましょう。

解説を聞きながら

解説を聞きながら


 さらに、今回は地下の常設展示室に名古屋のシュルレアリズムと題して、名古屋で活躍した作家さんのシュルレアリズム絵画が紹介されています。名古屋市美術館所蔵の作品が展示されているのですが、こちらもとても力強い作品が多く、名古屋画壇もこんな素晴らしい作家さんたちを輩出していたんだ!と驚きました。真島直子さんの父親である眞島建三さんの作品も展示されています。真島直子さんの展覧会にいらっしゃったなら必見です(その他、北脇昇さん、吉川三伸さん、三岸好太郎さんなど)
お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!

お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!


協力会

シャガール展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「シャガール展」(以下「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)、参加者は58人。以下、深谷さんのトークを要約しました。

まずはエントランスホールでの解説

まずはエントランスホールでの解説


◆エントランスホールで展覧会の概要を解説。こぼれ話も披露
名古屋市美術館で開催するシャガール展は、本展が2回目。前回開催は、開館2年目の1990年。前回はシャガールの回顧展で、ロシアのトレチャコフ美術館・ロシア美術館の所蔵品を中心に、個人蔵も併せて150点を展示。本展の展示作品は173点、うち陶器・彫刻が62点。シャガールが制作した陶器・彫刻は300点だが、売り物では無かったので、大半をシャガールの遺族が所有。そのため、シャガールの陶器・彫刻が多数展示される機会は稀。3年前に愛知県美術館で開催されたシャガール展では十数点の立体作品を展示。ヨーロッパでも47点を展示したのが最高。本展の62点という立体作品数は世界一。
エントランス正面に掲げている大きな写真は1924年の撮影。シャガール本人と妻のベラ、娘のイデが写っている。シャガールは、写真撮影の前年に革命後のソ連からドイツ経由でフランスに戻っている。この頃が作家としても家庭的にも一番充実していた時期。
写真では壁に《誕生日》が写っている。なお、本展で展示の《誕生日》(1923)は、オリジナルの《誕生日》(1911)をシャガール本人がコピーしたもの。写真には有名な《私と村》も写っている。この作品もオリジナルは1911年制作、1923~24年にシャガール本人がコピー。
何故、自分の作品をコピーしたのか。それは、シャガールが20代から30代前半にかけて描いた絵が全て、彼の手元から失われたから。1911年から1914年にかけて描いた作品は、ドイツで個展を開催した後、画商が勝手に売却。1914年から1921年にかけて描いた作品は、トレチャコフ美術館・ロシア美術館の所蔵品となった。そのため、フランスに戻ってから、オリジナルの作品をシャガール本人がコピーして自分の手元に置いた。

◆第1章 絵画から彫刻へ ~ 《誕生日》をめぐって
本展は、5章立て。テーマ別なので、展示作品の制作年代は入り乱れている。
第1章のテーマは「絵画から彫刻へ」。シャガールが立体作品の制作を始めたのは、米国への亡命(1941~1948)からフランスに戻った翌年の1949年。陶芸・彫刻のテーマ・モチーフは絵画で表現したものを、そのまま使用。
第1章に展示の彫刻《誕生日》(1968)も、絵画の《誕生日》と同じモチーフの作品。しかし、「絵画の焼き直し」ではなく、新たな表現になっている。絵画についても「後年のシャガールは代り映えせず、マンネリでは?」と思われるかもしれないが、晩年の作品は色彩が綺麗で、進化し深みが増している。「同じモチーフでも表現がこれほど違うのか。」という体験を楽しんでもらうのが、本展の趣旨

◆第2章 空間への意識 ~ アヴァンギャルドの影響
 絵画《座る赤い裸婦》(1909)はゴーギャンの影響がみられる作品。19010年頃のロシアではゴッホ・ゴーギャンの影響が強かった。シャガールはシチューキンやモロゾフの絵画コレクションを見ていたかもしれない。
 シャガールがパリに出てきた1911年頃、最先端の潮流はキュビスム。第2章ではキュビスムの影響を受けた作品を展示。パリに出て来てから半年から1年という短い期間で自分の様式に到達していることは注目に値する。

◆第3章 穿たれた形 ~ 陶器における探求
 陶器の作品は1949年から制作を開始。その彫刻は2年後から彫刻も始めた。立体作品の制作は、1950年代から1960年代初めに集中。陶器《把手のついた壺》(1953)は壺の一部が上に広がり、女性の顔が描かれている。形がユニーク。シャガールは、下絵を描いてから陶芸作品を制作している。《把手のついた壺》のための下絵を見ると、マグカップから立ち昇る湯気が髪の毛になり、そして女性の顔になったのではないかと、想像される。
 シャガールは自己流で陶器を制作。それが作品の魅力になっている。先生に付いて指導を受けていたら、ここまで自由な造形は無かった。「売り物」ではなく「自分の楽しみ」として制作していることが自由さにつながっている。

◆第4章 平面と立体の境界 ~ 聖なる主題
 第4章に展示のレリーフや絵画は、旧約聖書を主題にした宗教的なテーマの作品。
エコール・ド・パリの作家のほとんどはユダヤ人だが、宗教的なテーマを取り上げているのはシャガールだけではないかと思われる。
1910年代のフランスには、ユダヤ人に対する偏見が残っていた。そのため、シャガール以外の画家はユダヤ教をテーマにすることを回避したと思われる。シャガールがユダヤ教をテーマとした理由はよくわからないが、有力な画商にはユダヤ系が多いので、ユダヤ・コネクションに乗るために宗教的なテーマの作品を制作したのであろうか?
ユダヤ教をテーマにした作品を残すことにより、シャガールは独自の位置を占めている。

◆第4章 平面と立体の境界 ~ 素材とヴォリューム
 シャガールの彫刻は大理石以外にも、ヴァンスの石など様々な素材を使用。シャガールの彫刻は、①本人が下絵を描き、②下絵をもとに専門の石工が石を彫り、③本人が最終的な仕上げをする、という流れで制作している。陶器については、①本人が土を練って造形、②専門家が焼成、という流れ。また、版画は本人が彫っている。
 シャガールの発想は自由で、版画《野蛮人のように》で使ったブーツの版木を、《時の流れに〈逆さブーツのマントを着た男〉》では、上下を逆にして使っている。
絵画《アルルカン》は色鮮やかな作品だが、その下絵では色鮮やかな端切れをコラージュしている。本展では、赤や青など鮮やかな色彩を楽しんでほしい。

◆第5章 立体への志向
《二重の横顔》は羊の骨を拾って来て、片面に目、鼻を描き、もう一方の面に女性の上半身を描いた作品。シャガールは「素材に対して素直でなければならない。」と言っており、素材に寄り添うように作っている。新しいおもちゃを手に入れたような気持ちで作品を制作したのだろう。
 
◆自由鑑賞
 作品解説後の自由鑑賞では、絵画の《通りの魚》(1950)、《魚のある静物》(1969)について「二匹のニシンの横に描かれている物体は、ジャガイモなのか、パンなのか、ローストチキンなのか」ということが話題になりました。色や形はジャガイモみたいだけれど、ジャガイモにしてはサイズが大きすぎる等、議論百出。深谷さんに尋ねると「シャガール本人は何を描いたのか残していない。パンという説が有力だが、本人が何も言っていないので、決め手はない。」と解説。どうでもよい話題でその場が盛り上がりましたが、それもギャラリートークならではのことですね。
 彫刻の中には、少しこすっただけでも表面が削れてしまいそうな堆積岩を素材にしたものもあり、設置には気を使ったとのこと。また、柱状の彫刻は転倒防止の金具でしっかり固定されています。立体作品の展示は大変ですね。
 また、深谷さんから解説があった通り、晩年の作品は色彩が綺麗でした。
 会期は、来年の2月18日(日)まで。
Ron.

ギャラリートークは大盛況でした

ギャラリートークは大盛況でした

ランス美術館展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「ランス美術館展」のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は71人。参加人数が多かったので、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。

◆「ランス美術館展」が7館も巡回する理由など(深谷さん談)
ランス美術館展は、ランス市と名古屋市の姉妹都市提携(調印式は2017.10.20)を記念する展覧会。ただ、ランス美術館展そのものは、名古屋市が動き出す前から開催準備が進んでおり、名古屋市は割り込む形で参加。巡回の最終・7番目の会場となりました。
なお、姉妹都市提携を考慮し、ランス美術館は名古屋市美術館だけの特別出品として、ドラクロア、コラン、ブーダンの作品を貸出。2階・企画展示室2の展示です。

◆ランス市のこと、ランス美術館のこと(深谷さん談)
ランス市はパリの東、特急で40~50分の距離=日帰り圏の人口20万人弱の都市。歴代フランス王の戴冠式が行われたノートルダム大聖堂(ランス大聖堂)が有名です。
現在のランス美術館は、修道院の建物を改築して1913年に開館したもの。収蔵品は1800年から公開していますが、当初は市庁舎内に展示。建物老朽化のため別の場所に移転し、2018年リニューアルオープンという計画が進んでいましたが、現市長の判断で中止。今は、現建物を改築する計画が2020年着工予定で進んでいます。
ランス美術館は、絵画だけでなく、工芸品のコレクションも豊富。シャンパーニュ地方の中心都市なので、シャンパン会社社長からの寄贈により収蔵品の総点数は5万点超。

◆第1章~第3章のみどころ(深谷さん談)
 1階の展示は、年代順に第1章から第3章まで。
第1章は17世紀からフランス革命前の時代の絵画。マールテン・ブーレマ・デ・ストンメ《レモンのある静物》は、今回唯一のオランダ絵画。単に、レモン、食器、クルミ、貝殻を描いた絵だと思ったら大間違い。ヨーロッパでは意味のない絵画は描けないので、描いているものは五感の象徴。「メメントモリ=世の儚さ」が、絵の主題です。
ランス美術館のコレクションは19世紀以降のものが充実。それは、19世紀以降に寄贈された作品が多く、制作時期も同時代=19世紀以降のものが多いためです。
第2章は、フランス革命期から印象派前の絵画。ダヴィッド(および工房)《マラーの死》のオリジナルはベルギー・ブリュッセルの王立美術館が所蔵。評判が良く、ダヴィッドの工房は3~4枚のコピーを作成。展示されている作品は、そのうちの一つ。マラーはジャコバン党(急進派)に属するフランス革命の指導者。ダヴィッドはマラーの友人で、入浴中にナイフで刺されて暗殺されたマラーの死を悼んで制作したのが、傑作《マラーの死》。惨たらしいはずの殺人現場をキリストのように描くことで、マラーを殉教者・救済者に見せている。画面の上半分を真っ黒に塗ることでマラーの姿が浮き出ており、ドラマチックな効果を与えています。ダヴィッドは「新古典派」に属する画家で革命期に活躍しましたが、ナポレオンの死とともに表舞台を去り、その後、ドラクロワなどのロマン派が台頭。
カミーユ・コロー《川辺の木陰で読む女》は、一見、同じトーンの画面構成ですが、女の髪飾りの赤がアクセントを与えています。これは、コローの絵の特徴。ランス美術館はコローの作品を27点所蔵、ルーブル美術館に次ぐ作品点数です。
エドゥアール・デュブッフ《ルイ・ポメリー夫人》、右手に手袋を持っている理由をランス美術館の学芸員に尋ねたところ、「急な来客と握手をするために手袋を外し、待っている姿」との回答でした。
第3章は、印象派以降の絵画。印象派ではシスレー《カーディフの河岸》、ピサロ《オペラ座通り、テアトル・フランセ広場》を展示。《オペラ座通り》は、ホテルの窓から見た風景を描いた7~8枚の連作の一つ。連作の中では、今回展示作品の出来が一番。影や服装を見ると、描かれた季節や時刻が分かります。因みに、答えは寒い時期の早朝。
ゴーギャン《バラと彫像》、テーブルの上の花瓶を描いただけに見えますが、彫像の頭に花を重ねるなど、絵にした時の効果を狙い画面構成や色彩に工夫を凝らした作品です。

当日、解説してくださった深谷副館長

当日、解説してくださった深谷副館長


◆自由観覧
深谷さんのトーク後は、15分間の自由観覧。元々が自宅などを飾るための個人コレクションだったためか、ゆったりと鑑賞できる作品が多いと感じました。訪問先の応接間に案内され、壁の絵を眺めているといった感覚でしょうか。
自由観覧後は2階に上がり、もう一つのグループと場所を交替しました。

◆フジタとランスの関係(保崎さん談)
 藤田嗣治の略歴ですが、東京美術学校卒業後、1913年に渡仏。エコール・ド・パリの画家と交流する中、1920年代に自分のスタイルを確立。白い下地に細い線で描いた裸婦によってパリの寵児となる。1929年に日本へ帰国後、南米・米国を旅行し、一時日本に滞在して渡仏。1940年、戦火を避けるように帰国。第2次世界大戦後は、居辛くなった日本を脱出し米国経由でフランスに定住。1955年にフランス国籍を取得。1959年にはランス大聖堂で洗礼を受けカトリックに改宗。洗礼名はレオナール・フランソワ・ルネ。洗礼名の「ルネ」はランスのシャンパン会社GHマム社会長・ルネ・ラルー(以下「ルネ」)に因る。
ルネとフジタの交流は、1956年にパリの画廊で開催されたフジタの個展をルネが見て、感銘を受けたことから始まる。ルネの依頼により、フジタはシャンパン(ロゼ)用のバラの絵を描いた。この時のバラの絵は今も使われている。改宗の半年前、フジタはルネの招きでランス市を訪問。サン・レミ修道院を訪れた時、「改宗せよ」との啓示を受けた。
平和の聖母・礼拝堂(通称、フジタ・チャペル)の建設資金と土地を提供したのもルネ。フジタは、1966年6~8月の3カ月で、礼拝堂内部の壁画を一人で描き切った。

◆第4章のみどころ(保崎さん談)
 ランス美術館のフジタ・コレクションは絵画800点、資料も合わせると2300点。その多くは、戦後、フランスに定住してからの作品。1920年代の作品としては、熊本県立美術館所蔵の《ヴァイオリンを持つ少年》、ひろしま美術館所蔵の《十字架降下》を展示。
 《フジタ、7歳》は戦争画を描いていた時代の作品。《マンゴー》は南米を旅行中、ブラジル・リオで描いた作品で、1920年代と打って変わった土着的・土俗的な作風。《猫》の中央上部に描かれた猫は名古屋市美術館所蔵の《自画像》の猫にそっくり。なお、額縁の左には「1949」という数字が彫られており、縦長用だったものを横に寝かせて使用したと思われる。額縁上部に釣竿を持った少年、下部に虫取り網を持った少年の彫刻がある。
 《十字架降下》は日本画のスタイルで描かれた1927年の作品。改宗後に描いた左右の聖母と対比すると面白い。向かって右の《マドンナ》は、映画「黒いオルフェ」に出演したマルペッサ・ドーンがモデル。周囲の天使も黒人。
フジタ・チャペルの壁画は、下絵のほうが素晴らしい。80歳とは思えない迫力を感じる。また、よく見ると、壁に転写した時に素描の線をなぞった跡が見られる。

◆特別出品の3点(保崎さん談)
 ドラクロアは、ご存じ「ロマン派」の画家。ブーダンはモネの師匠で、印象派に先駆けて移り変わる光と大気を描写した画家。ラファエル・コランは黒田清輝の先生。アカデミスムの画家で、本国では忘れられつつあるが、白馬会の久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作の先生でもあり、「西洋画と日本を繋いだ画家」として展示。

◆自由観覧
 《十字架降下》を見て、深谷さんが《マラーの死》について語った「マラーをキリストのように描いている」ということの意味が分かりました。フジタの描くキリスト、表情・ポーズ・胸の傷の位置、どれも《マラーの死》のマラーを思い起こさせますね。
《父なる神》は両手両足を広げた、歌舞伎の「見得」のポーズ。私の隣の参加者は、これを見て「《風神雷神図》みたい。」と、話していました。
フジタは、壁画を一人で描き切った後に体調を崩し、1968年1月にスイス・チューリッヒで逝去されました。80歳という高齢の身で、過労死ラインの重労働を成し遂げた後での死去。最後の仕事に命を注ぎ込んだのだと思うと、作品を見る目が変わりました。
最後、コラン《思春期》を見てポーラ美術館の黒田清輝《野辺》を思い出しました。

◆マラーになりきる
 グッズ売り場向かいの奥まったスペースに「なりきりマラー」のコーナーがありました。《マラーの死》に出て来るナイフや羽根ペン、帽子などの小道具があり、マラーに扮して《マラーの死》の再現写真が撮影できるコーナーです。ギャラリートーク参加者も「マラーになりきる」挑戦をしていました。果たして、出来栄えやいかに。

会員ジョニーさんの協力で

会員ジョニーさんの協力で


◆最後に
 フランス・ブラジル・イタリア合作、1959年公開の映画「黒いオルフェ」は見たことがありませんでしたが、Youtubeの動画(10:32)を見て粗筋がつかめました。映画の主題歌「カーニバルの朝」はボサノヴァの名曲で、様々な演奏家・歌手がカバーしています。
Ron.

「異郷のモダニズム」ギャラリー・トーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「異郷のモダニズム 満洲写真全史」(以下「本展」)のギャラリー・トークに参加しました。参加者は45名。担当学芸員の竹葉丈さん(以下「竹葉さん」)は、参加者の多さに興奮気味でした。

◆本展について
 最初に、竹葉さんから「1994年にも同じ『異郷のモダニズム』というタイトルで、本展の第Ⅱ章に相当する内容の展覧会を開催。前回との大きな違いは、内地(当時の用語で、日本本土のこと)に満洲を紹介した写真を展示する第Ⅰ章と、戦後の満洲の映像記録である第Ⅴ章を追加したこと。」という話がありました。

◆第Ⅰ章:大陸の風貌 ― 櫻井一郎と〈亜東印画協会〉
第Ⅰ章で展示されている写真について、竹葉さんから「何で博物館のような写真を美術館で展示するのかとの質問を来館者から受けた。『記録』は満洲の写真の原点だから、満洲を舞台にした写真の変遷の全貌を見るため第Ⅰ章を追加。」という解説がありました。以下は、その続きです。
第Ⅰ章の写真は、櫻井一郎という写真家が南満洲鐡道株式会社(以下「満鉄」)に持ちかけて、写真による満蒙(満洲と東モンゴル)紹介のために作った「満蒙印画輯」に掲載されたもの。「満蒙印画輯」は、後に、アジア東部まで撮影範囲を広げ「亞東印画輯」となる。印画輯は、「写真頒布会」という方式で作成・配布された。これは、購入者を募集し、毎月5枚の台紙に手札判(注1)の密着写真(注2)と解説を貼って配布、1年後にはアルバムの表紙が送られ写真集が完成するというシステムで、7千人の会員がいた。大学の経済学部や高等商業学校、京都大学の建築科、東洋文庫などが、中国大陸経営の参考資料として購入したようで、印画輯の写真が内地における満蒙のイメージ、即ち「赤い夕陽の満洲」や「曠野を行く隊商」などの原型になった。
第Ⅰ章で展示しているのは、ヴィンテージ・プリント(注3)から複写し、四ツ切サイズ(注4)に拡大したもの。ヴィンテージ・プリントも展示しているが、台紙の両面に貼ってあるので、現在、裏面は見えない。後期には裏返して裏面が見えるようになるので、ぜひ見に来て欲しい。
櫻井一郎は、宮城県多賀城生まれ。ベーリング海のラッコ猟で大儲けしたおじさんが応援していた。満洲には二回渡っており、最初は奥地まで行ったものの失敗。二回目の渡航が1921年。土地勘を活かし、乾板で撮影するカメラで満洲各地を撮影。1927年には、亞東印画協会を設立した。半年から一年の間、写真撮影と取材を続け、印画輯はロード・ムービー(注5)のような構成になっている。取材というが、乾板など重い荷物を持って砂漠や山岳地帯を行くので、探検と同じ。
当時の一番人気は雲崗の石窟。雲崗はギリシアのエンタシスを法隆寺に伝えたシルクロードの中継点であり、日本文化の源流ということから人気が出た。これらの写真は今も貴重な記録。
櫻井一郎の印画輯は、第53回まで続いた。ガラス乾板で撮影した原版をデュープ(注6)した上で、手分けして毎月7千人×5枚という大量の写真をプリントした。満鉄には解説を書く人もいた。当時の満鉄は「弘報」{パブリシティー publicity(英)=万人に知らせること}に重きを置き、プロパガンダ{propaganda(露)=(政治的意図を持つ)宣伝)}は目指していなかった。
残念ながら櫻井一郎は、山西省・雲南省を取材中、1928年11月に腸チフスで死亡。
注1:写真のサイズで3.25inch×4.25inch=83mm×108mm。現在のサービスLサイズ3.5inch×5inch=89mm×127mmよりも、やや小さい
注2:ネガを印画紙に密着させ、ネガと同じサイズにプリントした写真
注3:vintage print(英):写真家が自分の作品として認めたプリント(オリジナル・プリント:original print)のうち、元になるフィルムやデータが撮影されてから間もないうちに制作されたもの
注4:印画紙のサイズで 10inch×12inch=254mm×305mmのもの。展覧会のように、額に入れて壁に飾り少し離れて見る場合の標準サイズ。
注5:主人公が車などで旅行・放浪を続け、その間に出会った出来事や主人公の成長・変化などを描く映画。「道」(イタリア)、「イージー・ライダー」(米)、「幸せの黄色いハンカチ」(日本)等
注6:duplicate(英)から派生した写真用語。 複製、複写

◆第Ⅱ章:移植された絵画主義 ― 淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉
櫻井一郎の死後、亞東印画協会を引き継いだのが、神戸市出身で1928年9月に大連に渡ってきた淵上白陽。彼は、満鉄の嘱託となり、「満洲グラフ」の創刊に携わる一方で、アマチュア写真家の団体「満洲写真作家協会」を結成し、ピクトリアリズム(注7)の芸術写真を指導した。第Ⅱ章で展示されている写真は、主にコロタイプ印刷(注8)やブロム・オイル・プリント(注9)のもの。多くは大陸における日本人の活躍を撮影した作品。人物の場合、初期は絵になるポーズをとらせて撮影した演出写真が多いが、後には隠し撮りでスラム街を撮影した写真や組み写真によるフォトエッセイなども出てくる。
苦力や子どもの写真を撮影した米城善右衛門は三共製薬大連工場の初代工場長で、写真は趣味だった。岡田中治はプリント技術が高く、《若者》《男》は光と影のコントラストを巧みに表現している。淵上白陽《松岡洋右》は当時の満鉄総裁(注10)。なお、1938年に松岡洋右の息子・松岡謙一郎が東京帝大の夏休みを利用して満洲に来た時、一色辰夫が案内して映画女優・李香蘭との出会いも演出している。(注11)一色辰夫《時の人》は、徳王(注12)を撮ったもの。田中靖望《機関車》は、大連・ハルピン間の943kmを12時間30分で運行していた特急「あじあ」。工業をテーマにした作品も多く、淵上白陽《熱B》は、全紙判(注13)の印画紙に自分でプリントしたヴィンテージ・プリント。一色辰夫《大連》は、豆カスを運ぶ苦力の写真のネガと昭和製鋼所(注14)の写真のネガとを重ね焼きしたもの。
注7: pictorealism(英):絵画主義。絵画的な構図による芸術写真を撮影すること
注8:写真製版法によってゼラチン上につくった版で印刷する方法。写真の微妙な調子を再現するのにもっとも適しているが、印刷速度は遅く、耐刷力(何枚印刷できるかの能力)も小さい。(出典:ニッポニカ) 竹葉さんによれば、印刷枚数は70~80枚が限度とのことです
注9:竹葉さんによれば、先ず写真の銀粒子を漂白し、拓本で使うタンポでゼラチンの表面に油性インクを載せる手法。漂白前の銀粒子の量によってインクの載り方に差が出る性質を利用して像の陰影を再現。インクの載せ方によって最終的なイメージをコントロールすることが出来るため、多くの絵画主義的写真家に使われた、とのことです
注10:松岡洋右:(1880-1945)政治家。山口県生まれ。オレゴン大卒。外交官を経て代議士。1933年、国際連盟首席全権として連盟脱退を宣言。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後A級戦犯として裁判中病死。(スーパー大辞林)なお、実妹の長女・佐藤寛子の夫は元首相の佐藤栄作
注11:名古屋市美術館ブログ 2012年09月11日(投稿者:J.T.)を読むと詳細がわかります
注12:徳王:(1902-?)内モンゴルの政治家。日中戦争開始後の1937年、日本軍の援助下に蒙古聯合自治政府をつくり、主席となった。49年モンゴル人民共和国に逃亡し逮捕された。モンゴル名、デムチュドンブロ(スーパー大辞林)
注13:印画紙のサイズで、18inch×22inch=457mm×560mmのもの。標準的な四ツ切の四倍近いサイズ。当時の淵上白陽は、高いプリント技術・優秀な機材・潤沢な資金の三拍子揃った、恵まれた環境で活躍していたと思われます。
注14:第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満州で活動していた鉄鋼メーカー。私企業ではあるが政府・軍に統制され、国策会社の色合いが強かった。本社および工場は鞍山に置かれた。(Wikipedia)

◆第Ⅱ章 つづき
(2階の企画展示室2に移動)
展示室入口に貼られているのは、淵上白陽が撮影した満洲国国務院資政局弘報処発行の対外宣伝ポスター「MANCHOUKUO THE SUN OF A NEW NATION」。(注15)
ピクトリアリズムの特徴がよくわかるのが、写真画集「光る丘」。光と影、太陽の低さ、土の質感、肌合いが表現されている。写真集をコロタイプで印刷するために大阪の「細谷印刷」を呼び寄せる凝りようだった。満洲写真作家協会の写真家は、弘報媒体の「満洲グラフ」と作品発表の場である「光る丘」を巧みに使い分けたが、「満洲グラフ」には芸術写真の「ゆるさ」がある。
注15:“MANCHOUKUO”は満洲国の中国語読みをローマ字表記したもの。英語ではない

◆第Ⅱ章のうち ロマノフカ村
 ロシア革命で、ロシアを逃れて亡命した人々を「白系ロシア人」という。淵上白陽は、満洲にも白系ロシア人の村があることを発見してロマノフ王朝にちなみ「ロマノフカ村」と名付けた。満洲写真作家協会の会員はロマノフカ村にバルビゾン派の世界に通ずるモチーフを見出し、幾度も撮影。ロマノフカ村の写真は、日本から来る開拓民のお手本、反ソ連のプロパガンダだった。
 1938年から1939年の間までが、満洲における淵上白陽の活躍のピークでした。(注16)
注16:淵上白陽は妻の死を契機に、1941年満鉄を退社、満洲を離れた。なお、戦後も日本で活動している

◆第Ⅲ章:宣伝と統制 ― 満洲国国務院弘報処と写真登録制度
 1940年になると、満洲国国務院弘報処長の武藤富男(注17)が、「登録写真制度」を制定。満洲国の弘報に写真家の活動を動員するため、写真を公募。「国家のために有用」と認めた作品を登録。入賞・登録した作品には天・地・人という賞を与えたが、絵画主義的な作品は否定され、日本人は「成功者」、中国人は「かわいらしいおばあさん」か「無邪気な子ども」が評価された。しかし、内田稲夫《驀進あじあ号》は、第Ⅱ章の《機関車》に比べると面白味がない。
注17:武藤富男(1904-1998):日本の官僚、教育者、キリスト教牧師、1943年に帰国し情報局第一部長就任。1962年に第7代明治学院院長。息子・武藤一羊は、ベ平連出身の社会運動家

◆第Ⅳ章:プロパガンダとグラフィズムの諸相 ― 1930年代写真表現の行方
 1940年以降は、満洲でもドイツからもたらされた新即物主義(注18)の写真が主流となる。1943年に発行された対外宣伝誌「FRONT」No.5-6「偉大なる建設 満洲国」は、その代表的なもの。(注19) 白系ロシア人も、ロマノフ村ではなくハルピンなどの都市生活者や兵隊が被写体になった。
注18:Neue Sachlichkeit(独)ノイエザッハリッヒカイト。表現主義に対する反動として、1920年代にドイツに興った芸術運動。主観的・幻想的傾向を排し、現実を明確に、客観的・合理的にとらえようとする立場。美術ではグロッスなどに代表される。(スーパー大辞林)
注19:発行、満洲書籍配給株式会社。製作、東方社。雑誌名「FRONT」は「戦線」を意味する。ソ連の対外宣伝誌『CCCP НА СТРОЙКЕ』(「ソ連邦建設」)に刺激された帝国陸軍の参謀本部が日本の対外宣伝グラフ誌刊行を計画、研究。1941年、参謀本部および内閣情報部の強力な後ろ盾によって東方社が設立され翌年から出版開始。No.1-2は海軍号、No.3-4は陸軍号
  なお、豊田市美術館で開催中の常設特別展「岡﨑乾二郎の認識 ― 抽象の力」(6/11まで)でも、「FRONT」が展示されています。見どころは「東山魁夷 唐招提寺障壁画展」だけではありません。

◆第Ⅴ章:廃墟への「査察」 ― ポーレー・ミッション・レポート
(地下1階の常設展示室3に移動)
 1945年8月9日、ソ連の満洲侵攻により満洲国は消滅。戦後、日本の賠償能力を調査するために1945年11月から46年7月まで、ポーレーの対日賠償調査団(Pauley Reparation Mission)が、日本、満洲、朝鮮半島北部を調査するが、旅順・大連はソ連軍が駐留しているため入ることが出来ず、鞍山、奉天(現在の瀋陽)、撫順に入った。
 展示している写真は、アメリカの国立公文書館が保管している資料に貼ってある写真を読み取り、インクジェットプリンターを使って拡大印刷したもの。
最初の写真は、新京(現在の長春)の関東軍司令部庁舎。帝冠様式(注20)の建物だが、無残に破壊されている。
最後に展示してある2枚の写真は、保管資料に貼ってあったものだが、撮影したのは調査団ではなくソ連兵か中国共産党軍であろう。工場の機械を、やぐらを組んで接収した時に撮った記念写真と思われる。笑顔で写っているのはソ連兵。この写真を見ると、戦後の東ドイツと同様に、満洲でもソ連軍による製造機械の略奪が行われたことが分かる。
注20:昭和初期、主に国内や満州国などの公共機関の庁舎に多く用いられた建築様式。近代的な鉄筋コンクリートビルの頂部に、中世の城のような瓦屋根を配す。神奈川県庁や愛知県庁、関東軍司令部庁舎など(デジタル大辞泉)なお、関東軍司令部庁舎は、現在、中国共産党吉林省党委員会本館として使われています。また、名古屋市役所本庁舎も帝冠様式の建物といわれています

◆竹葉さんからの案内
 「おかげさまで、展覧会は好評。多数の写真愛好家が来館しています。後期には展示替えがあるので、是非もう一度、来館してください。それから、ギャラリー・トークで李香蘭のエピソードを話しましたが、彼女が出演している映画の上映会を現在企画中。6月になったら実施する予定。決まったらお知らせするので、お待ちください。」とのことでした。

◆最後に
第Ⅰ章に展示されている櫻井一郎の写真は初めて見ましたが、昨年秋の協力会ツアーで行ったポーラ美術館「ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線」で展示されていたアジェの写真を思い出しました。どちらも、乾板を使うカメラで撮った「記録」であり、芸術作品とは言えないかもしれませんが、美術館で鑑賞する価値は十分あると思いました。また、第Ⅴ章の写真では、最新のスキャナー・プリンターの性能の高さに驚きました。
たっぷり2時間のギャラリー・トークで参加者は大満足。竹葉さん、ありがとうございました。
Ron.

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

「アドルフ・ヴェルフリ展」ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「アドルフ・ヴェルフリ展」のギャラリートークに参加しました。担当は笠木日南子学芸員(以下「笠木さん」)、参加者は34人でした。

◆アドルフ・ヴェルフリ(以下「ヴェルフリ」)って、どんな人?
笠木さんによると「ヴェルフリ(1864-1930)は、日本でいえば江戸時代(幕末)生れの人。父は石工で、彼は7人兄弟の末子。家は貧しく、ヴェルフリが8歳の時に一家離散。ヴェルフリは里子に出されて里親の下で働かされた後、各地を転々とし、1885年、31歳の時に精神病院に収容された。今回の展示は、病院の中で描かれた作品。」とのことでした。
ヴェルフリは、とても悲惨な境遇の人だったのですね。
◆第1章 初期の作品
笠木さんによると「ヴェルフリは、自分を作曲家だと思っており、作品を楽譜と呼んだ。ただし、楽譜は五線譜ではなく六線譜で、初期の作品には音符がなかった。ヴェルフリの特徴は、初期から晩年までスタイルが不変であること。」とのことでした。
確かに、画面を隙間なく直線や曲線、人の顔、丸、ナメクジのような形、文字、数字などで埋め尽くすというスタイルはどの作品にも共通していますね。それにしても、下書き無しで大画面を破綻なく描き切るヴェルフリの才能は大したものだと思います。
◆第2章 揺りかごから墓場まで(1908-1912)
 笠木さんによると「第2章の作品が最も色鮮やか。1908年に研修医のモルゲンターラーが赴任して、ヴェルフリの作品を価値あるものと認め、色鉛筆を与えたことによりカラフルな作品が生まれた。ヴェルフリは色彩感覚に優れており、描いているうちに色鉛筆がどんどん短くなって使える色鉛筆が減っていっても、残った色をうまく使い、色彩のバランスが崩れない。”揺りかごから墓場まで“は、世界各地を旅して、お金を稼ぎ、自分の領地を広げるという冒険物語。ただし、文章と絵の内容は一致していない。また、稼いだお金の1973年から2000年までの利息を計算した表もある。」とのことでした。
 「物語を書いて、絵も描く。」という行為は、想像の世界に羽ばたき、ヴェルフリの過酷な境遇を忘れさせるもので、彼の生活に欠かせないものであったと分かりました。
◆第3章 地理と代数の書(1912-1916)
笠木さんによると「第3章でヴェルフリは、自分が得た資本財産の利子計算をして、画面を膨大な桁数の数字で埋め尽くすとともに、多くの楽譜を描いている。楽譜のもとになっているのは、教会で聞いた音楽や、教会で見た楽譜、軍隊で聞いた音楽、フォークダンスの曲など。」とのことでした。
たとえ、机上の計算であっても、自分の資産がどんどん増えていくことは楽しいものです。膨大な桁数の数字を書き続けることは、ヴェルフリの生き甲斐だったのでしょう。
◆第4章 歌と舞曲の書(1917-1922)、歌と行進のアルバム(1928-1924)
笠木さんによると「第4章では、絵が減ってコラージュが増えていく。また、神の名の頭文字のアルファベットを装飾的に描き、人の顔や丸、曲線などのモチーフで埋め尽くした作品もある。」とのことでした。
笠木さんは、芸者の写真のコラージュやキャンベル・スープの缶詰のイラストのコラージュがある作品などについて解説。ヴェルフリの美的センスを実感しました。
◆第5章 葬送行進曲(1928-1930)
笠木さんによると「第5章は、言葉と数字の繰り返しで、“16.シェアー.1.ヴィーガ,16.シェアー:1.ギーイガ.16.シェアー:1.シュティーガ,16.シェアー.1.シーイガ,……”というように、ヴィーガ(Wiiiga:方言で「揺りかご」)を、韻を踏んで少しずつ変形させながら、ラップのように繰り返し書いている。」とのことでした。
ヴェルフリは、語呂合わせ等の言葉遊びが好きな人だったのですね。
◆第6章 ブロートクンスト―日々の糧のための作品(1916-1930)
笠木さんによると「“揺りかごから墓場まで”等は自分のための作品で売りに出すことは無かったが、当時、ヴェルフリは売れっ子で、作品を買う人がいた。ブロートクンストは販売用のもので、色鮮やかで分かりやすく、画用紙に描いた作品。額装のような装飾が施され、作家のリルケや精神科医のユングも所蔵していた。」とのことでした。
自分の作品が売れて小遣い稼ぎができたことで、ヴェルフリは大きな自信を得たことでしょう。今見ても、ブロートクンストは可愛いと思います。
◆アドルフ・ヴェルフリの再評価
笠木さんによると「ヴェルフリの死後、1945年にジャン・デュビュッフェが病院を訪れて、ヴェルフリの作品を発見し、Art Brut (アール・ブリュット=生の/未加工の芸術)と名付けて高く評価した。1950年代には、シュルレアリストのアンドレ・ブルトンもヴェルフリを評価。1970年代には、スイス出身のキュレーターのハラルト・ゼーマンがベネチア・ビエンナーレやドクメンタで紹介。ヴェルフリの作品はモダン・アートのアーティストたちを刺激した。」とのことでした。「モルゲンターラーが赴任するまで、ヴェルフリの作品は「価値がない」として捨てられていた。」との解説もありました。
現在、日本経済新聞に、伊藤若冲をはじめとする江戸美術の収集家、ジョー・プライスが「私の履歴書」を書いています。連載の第1回は、若い頃に一目見て思わず買った絵が若冲の作品だったという話でした。江戸美術の収集を進めるうちに、辻惟雄や小林忠といった研究者と知り合い、コレクションの輸送費や保険料をプライスが負担して、江戸美術の展覧会開催に協力したという話もありました。ヴェルフリや若冲の例を見ると、芸術作品が評価されるには審美眼を持った人物との出会いが必要なのだな、と思いますね。
◆最後に
 この展覧会が始まるまで、アドルフ・ヴェルフリという人の名前すら知らなかったので、ギャラリートークも参加者は少ないだろうと思っていたのですが、意外に人数が多かったのでびっくりです。ギャラリートークでは、不思議な魅力のある作品を数多く見ることが出来ました。

解説してくださった笠木学芸員、ありがとうございました!

解説してくださった笠木学芸員、ありがとうございました!


Ron.

「永青文庫展」後期展示作品のギャラリー・トーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「永青文庫 日本画の名品」が2月7日から後期展示になったので、名古屋市美術館の保崎学芸員(以下「保崎さん」)に無理なお願いをして、後期展示作品のギャラリー・トークも開催されることとなりました。急遽の決定で周知期間が短かったにも関わらず、参加者は47名。1月15日のギャラリー・トークの参加者48人に迫る人数でした。
午後2時からの解説会に引き続いてのダブルヘッダーでしたが保崎さんは元気で、トークにも熱が入っていました。90分にわたって楽しく解説を聴いた後、参加者一同による保崎さんに対する感謝の拍手で、ギャラリー・トークは「お開き」。
◆後期展示の作品
 後期の展示となったのは10作品。解説のあった順に並べると、以下の通りです。
寺崎廣業(てらさき・こうぎょう)《月夜山水(げつやさんすい)》、横山大観《野の花》《柿紅葉(かきもみじ)》《山窓無月(さんそうむげつ)》、菱田春草《六歌仙(ろっかせん)》《黒き猫》、小林古径《髪》、堅山南風(かたやま・なんぷう)《霜月頃(しもつきころ)》、上村松園《月影(つきかげ)》、松岡映丘(まつおか・えいきゅう)《室君(むろぎみ)》
◆後期の主役は《黒き猫》………
保崎さんによれば、「前期の主役は菱田春草の《落葉》、後期の主役は同じ作者の《黒き猫》。それを念頭に置いて作品の配置を考えました。前期は《落葉》の枯れ葉と被らないよう、横山大観《柿紅葉》を後期に回し、同じ作者の《雲去来(くもきょらい)》を展示。紅葉つながりで、堅山南風《霜月頃》も後期展示となりました。その結果、『紅葉があるので、後期の方が華やか』という声が聞かれます。意図した訳ではありませんが、確かに声のとおりですね。」とのことでした。
後期の主役《黒猫》。一幅の掛け軸ですから、六曲一双の屏風《落葉》に比べると遥かにちっちゃいですが、迫力は十分。黒のぼかしだけで猫の身体つきがわかるという描写は、さすがです。
保崎さんは「焼き芋屋からネコを借りてきて、五日間で描いた。ネコがじっとしていないので苦労したようだ。展覧会で評判となり、注文に応じて何点も黒猫の絵を描いている。それらの作品を見ると、このネコは柏の木から地面に跳び降り、逃げて行ったらしい。」とも解説。
◆クールな描写の《髪》
《黒猫》の隣は、同じく重要文化財の小林古径《髪》。保崎さんによれば「線描中心のクールな描き方をしている、線描の美しさに目が行くようになった昭和初期の日本画を代表する作品。左側の半裸の女性は伝統的な女性美、腰巻の青緑色が爽やか。右の女性は妹とも女中ともいわれるが当世風のキリッとした姿。川端龍子は、この作品を『隙がない』と評価。また、落款が無いので『未完成では?』という声もあるが、落款が無いのは『落款に失敗して作品を台無しにすることを恐れたのではないか』という声もある。」とのことでした。
◆上村松園と鏑木清方、美人画の競演
上村松園《月影》とは2013年の「上村松園展」以来、四年ぶりの再会。保崎さんも懐かしそうに解説してくれました。2階に展示の鏑木清方《花吹雪》と同じ文化文政頃の風俗、母・若い娘・幼女という組み合わせも同じであり、《花吹雪》についての解説もありました。
◆最後に
今回のように会期の途中で主要作品の入れ替えがあるときは、名古屋市美術館には世話を掛けますが、後期にもギャラリー・トークがあると良いですね。 Ron.

保崎学芸員、2度の講演ありがとうございました!

保崎学芸員、2度の講演ありがとうございました!

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