名古屋市美術館で開催中の「異郷のモダニズム 満洲写真全史」(以下「本展」)のギャラリー・トークに参加しました。参加者は45名。担当学芸員の竹葉丈さん(以下「竹葉さん」)は、参加者の多さに興奮気味でした。
◆本展について
最初に、竹葉さんから「1994年にも同じ『異郷のモダニズム』というタイトルで、本展の第Ⅱ章に相当する内容の展覧会を開催。前回との大きな違いは、内地(当時の用語で、日本本土のこと)に満洲を紹介した写真を展示する第Ⅰ章と、戦後の満洲の映像記録である第Ⅴ章を追加したこと。」という話がありました。
◆第Ⅰ章:大陸の風貌 ― 櫻井一郎と〈亜東印画協会〉
第Ⅰ章で展示されている写真について、竹葉さんから「何で博物館のような写真を美術館で展示するのかとの質問を来館者から受けた。『記録』は満洲の写真の原点だから、満洲を舞台にした写真の変遷の全貌を見るため第Ⅰ章を追加。」という解説がありました。以下は、その続きです。
第Ⅰ章の写真は、櫻井一郎という写真家が南満洲鐡道株式会社(以下「満鉄」)に持ちかけて、写真による満蒙(満洲と東モンゴル)紹介のために作った「満蒙印画輯」に掲載されたもの。「満蒙印画輯」は、後に、アジア東部まで撮影範囲を広げ「亞東印画輯」となる。印画輯は、「写真頒布会」という方式で作成・配布された。これは、購入者を募集し、毎月5枚の台紙に手札判(注1)の密着写真(注2)と解説を貼って配布、1年後にはアルバムの表紙が送られ写真集が完成するというシステムで、7千人の会員がいた。大学の経済学部や高等商業学校、京都大学の建築科、東洋文庫などが、中国大陸経営の参考資料として購入したようで、印画輯の写真が内地における満蒙のイメージ、即ち「赤い夕陽の満洲」や「曠野を行く隊商」などの原型になった。
第Ⅰ章で展示しているのは、ヴィンテージ・プリント(注3)から複写し、四ツ切サイズ(注4)に拡大したもの。ヴィンテージ・プリントも展示しているが、台紙の両面に貼ってあるので、現在、裏面は見えない。後期には裏返して裏面が見えるようになるので、ぜひ見に来て欲しい。
櫻井一郎は、宮城県多賀城生まれ。ベーリング海のラッコ猟で大儲けしたおじさんが応援していた。満洲には二回渡っており、最初は奥地まで行ったものの失敗。二回目の渡航が1921年。土地勘を活かし、乾板で撮影するカメラで満洲各地を撮影。1927年には、亞東印画協会を設立した。半年から一年の間、写真撮影と取材を続け、印画輯はロード・ムービー(注5)のような構成になっている。取材というが、乾板など重い荷物を持って砂漠や山岳地帯を行くので、探検と同じ。
当時の一番人気は雲崗の石窟。雲崗はギリシアのエンタシスを法隆寺に伝えたシルクロードの中継点であり、日本文化の源流ということから人気が出た。これらの写真は今も貴重な記録。
櫻井一郎の印画輯は、第53回まで続いた。ガラス乾板で撮影した原版をデュープ(注6)した上で、手分けして毎月7千人×5枚という大量の写真をプリントした。満鉄には解説を書く人もいた。当時の満鉄は「弘報」{パブリシティー publicity(英)=万人に知らせること}に重きを置き、プロパガンダ{propaganda(露)=(政治的意図を持つ)宣伝)}は目指していなかった。
残念ながら櫻井一郎は、山西省・雲南省を取材中、1928年11月に腸チフスで死亡。
注1:写真のサイズで3.25inch×4.25inch=83mm×108mm。現在のサービスLサイズ3.5inch×5inch=89mm×127mmよりも、やや小さい
注2:ネガを印画紙に密着させ、ネガと同じサイズにプリントした写真
注3:vintage print(英):写真家が自分の作品として認めたプリント(オリジナル・プリント:original print)のうち、元になるフィルムやデータが撮影されてから間もないうちに制作されたもの
注4:印画紙のサイズで 10inch×12inch=254mm×305mmのもの。展覧会のように、額に入れて壁に飾り少し離れて見る場合の標準サイズ。
注5:主人公が車などで旅行・放浪を続け、その間に出会った出来事や主人公の成長・変化などを描く映画。「道」(イタリア)、「イージー・ライダー」(米)、「幸せの黄色いハンカチ」(日本)等
注6:duplicate(英)から派生した写真用語。 複製、複写
◆第Ⅱ章:移植された絵画主義 ― 淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉
櫻井一郎の死後、亞東印画協会を引き継いだのが、神戸市出身で1928年9月に大連に渡ってきた淵上白陽。彼は、満鉄の嘱託となり、「満洲グラフ」の創刊に携わる一方で、アマチュア写真家の団体「満洲写真作家協会」を結成し、ピクトリアリズム(注7)の芸術写真を指導した。第Ⅱ章で展示されている写真は、主にコロタイプ印刷(注8)やブロム・オイル・プリント(注9)のもの。多くは大陸における日本人の活躍を撮影した作品。人物の場合、初期は絵になるポーズをとらせて撮影した演出写真が多いが、後には隠し撮りでスラム街を撮影した写真や組み写真によるフォトエッセイなども出てくる。
苦力や子どもの写真を撮影した米城善右衛門は三共製薬大連工場の初代工場長で、写真は趣味だった。岡田中治はプリント技術が高く、《若者》《男》は光と影のコントラストを巧みに表現している。淵上白陽《松岡洋右》は当時の満鉄総裁(注10)。なお、1938年に松岡洋右の息子・松岡謙一郎が東京帝大の夏休みを利用して満洲に来た時、一色辰夫が案内して映画女優・李香蘭との出会いも演出している。(注11)一色辰夫《時の人》は、徳王(注12)を撮ったもの。田中靖望《機関車》は、大連・ハルピン間の943kmを12時間30分で運行していた特急「あじあ」。工業をテーマにした作品も多く、淵上白陽《熱B》は、全紙判(注13)の印画紙に自分でプリントしたヴィンテージ・プリント。一色辰夫《大連》は、豆カスを運ぶ苦力の写真のネガと昭和製鋼所(注14)の写真のネガとを重ね焼きしたもの。
注7: pictorealism(英):絵画主義。絵画的な構図による芸術写真を撮影すること
注8:写真製版法によってゼラチン上につくった版で印刷する方法。写真の微妙な調子を再現するのにもっとも適しているが、印刷速度は遅く、耐刷力(何枚印刷できるかの能力)も小さい。(出典:ニッポニカ) 竹葉さんによれば、印刷枚数は70~80枚が限度とのことです
注9:竹葉さんによれば、先ず写真の銀粒子を漂白し、拓本で使うタンポでゼラチンの表面に油性インクを載せる手法。漂白前の銀粒子の量によってインクの載り方に差が出る性質を利用して像の陰影を再現。インクの載せ方によって最終的なイメージをコントロールすることが出来るため、多くの絵画主義的写真家に使われた、とのことです
注10:松岡洋右:(1880-1945)政治家。山口県生まれ。オレゴン大卒。外交官を経て代議士。1933年、国際連盟首席全権として連盟脱退を宣言。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後A級戦犯として裁判中病死。(スーパー大辞林)なお、実妹の長女・佐藤寛子の夫は元首相の佐藤栄作
注11:名古屋市美術館ブログ 2012年09月11日(投稿者:J.T.)を読むと詳細がわかります
注12:徳王:(1902-?)内モンゴルの政治家。日中戦争開始後の1937年、日本軍の援助下に蒙古聯合自治政府をつくり、主席となった。49年モンゴル人民共和国に逃亡し逮捕された。モンゴル名、デムチュドンブロ(スーパー大辞林)
注13:印画紙のサイズで、18inch×22inch=457mm×560mmのもの。標準的な四ツ切の四倍近いサイズ。当時の淵上白陽は、高いプリント技術・優秀な機材・潤沢な資金の三拍子揃った、恵まれた環境で活躍していたと思われます。
注14:第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満州で活動していた鉄鋼メーカー。私企業ではあるが政府・軍に統制され、国策会社の色合いが強かった。本社および工場は鞍山に置かれた。(Wikipedia)
◆第Ⅱ章 つづき
(2階の企画展示室2に移動)
展示室入口に貼られているのは、淵上白陽が撮影した満洲国国務院資政局弘報処発行の対外宣伝ポスター「MANCHOUKUO THE SUN OF A NEW NATION」。(注15)
ピクトリアリズムの特徴がよくわかるのが、写真画集「光る丘」。光と影、太陽の低さ、土の質感、肌合いが表現されている。写真集をコロタイプで印刷するために大阪の「細谷印刷」を呼び寄せる凝りようだった。満洲写真作家協会の写真家は、弘報媒体の「満洲グラフ」と作品発表の場である「光る丘」を巧みに使い分けたが、「満洲グラフ」には芸術写真の「ゆるさ」がある。
注15:“MANCHOUKUO”は満洲国の中国語読みをローマ字表記したもの。英語ではない
◆第Ⅱ章のうち ロマノフカ村
ロシア革命で、ロシアを逃れて亡命した人々を「白系ロシア人」という。淵上白陽は、満洲にも白系ロシア人の村があることを発見してロマノフ王朝にちなみ「ロマノフカ村」と名付けた。満洲写真作家協会の会員はロマノフカ村にバルビゾン派の世界に通ずるモチーフを見出し、幾度も撮影。ロマノフカ村の写真は、日本から来る開拓民のお手本、反ソ連のプロパガンダだった。
1938年から1939年の間までが、満洲における淵上白陽の活躍のピークでした。(注16)
注16:淵上白陽は妻の死を契機に、1941年満鉄を退社、満洲を離れた。なお、戦後も日本で活動している
◆第Ⅲ章:宣伝と統制 ― 満洲国国務院弘報処と写真登録制度
1940年になると、満洲国国務院弘報処長の武藤富男(注17)が、「登録写真制度」を制定。満洲国の弘報に写真家の活動を動員するため、写真を公募。「国家のために有用」と認めた作品を登録。入賞・登録した作品には天・地・人という賞を与えたが、絵画主義的な作品は否定され、日本人は「成功者」、中国人は「かわいらしいおばあさん」か「無邪気な子ども」が評価された。しかし、内田稲夫《驀進あじあ号》は、第Ⅱ章の《機関車》に比べると面白味がない。
注17:武藤富男(1904-1998):日本の官僚、教育者、キリスト教牧師、1943年に帰国し情報局第一部長就任。1962年に第7代明治学院院長。息子・武藤一羊は、ベ平連出身の社会運動家
◆第Ⅳ章:プロパガンダとグラフィズムの諸相 ― 1930年代写真表現の行方
1940年以降は、満洲でもドイツからもたらされた新即物主義(注18)の写真が主流となる。1943年に発行された対外宣伝誌「FRONT」No.5-6「偉大なる建設 満洲国」は、その代表的なもの。(注19) 白系ロシア人も、ロマノフ村ではなくハルピンなどの都市生活者や兵隊が被写体になった。
注18:Neue Sachlichkeit(独)ノイエザッハリッヒカイト。表現主義に対する反動として、1920年代にドイツに興った芸術運動。主観的・幻想的傾向を排し、現実を明確に、客観的・合理的にとらえようとする立場。美術ではグロッスなどに代表される。(スーパー大辞林)
注19:発行、満洲書籍配給株式会社。製作、東方社。雑誌名「FRONT」は「戦線」を意味する。ソ連の対外宣伝誌『CCCP НА СТРОЙКЕ』(「ソ連邦建設」)に刺激された帝国陸軍の参謀本部が日本の対外宣伝グラフ誌刊行を計画、研究。1941年、参謀本部および内閣情報部の強力な後ろ盾によって東方社が設立され翌年から出版開始。No.1-2は海軍号、No.3-4は陸軍号
なお、豊田市美術館で開催中の常設特別展「岡﨑乾二郎の認識 ― 抽象の力」(6/11まで)でも、「FRONT」が展示されています。見どころは「東山魁夷 唐招提寺障壁画展」だけではありません。
◆第Ⅴ章:廃墟への「査察」 ― ポーレー・ミッション・レポート
(地下1階の常設展示室3に移動)
1945年8月9日、ソ連の満洲侵攻により満洲国は消滅。戦後、日本の賠償能力を調査するために1945年11月から46年7月まで、ポーレーの対日賠償調査団(Pauley Reparation Mission)が、日本、満洲、朝鮮半島北部を調査するが、旅順・大連はソ連軍が駐留しているため入ることが出来ず、鞍山、奉天(現在の瀋陽)、撫順に入った。
展示している写真は、アメリカの国立公文書館が保管している資料に貼ってある写真を読み取り、インクジェットプリンターを使って拡大印刷したもの。
最初の写真は、新京(現在の長春)の関東軍司令部庁舎。帝冠様式(注20)の建物だが、無残に破壊されている。
最後に展示してある2枚の写真は、保管資料に貼ってあったものだが、撮影したのは調査団ではなくソ連兵か中国共産党軍であろう。工場の機械を、やぐらを組んで接収した時に撮った記念写真と思われる。笑顔で写っているのはソ連兵。この写真を見ると、戦後の東ドイツと同様に、満洲でもソ連軍による製造機械の略奪が行われたことが分かる。
注20:昭和初期、主に国内や満州国などの公共機関の庁舎に多く用いられた建築様式。近代的な鉄筋コンクリートビルの頂部に、中世の城のような瓦屋根を配す。神奈川県庁や愛知県庁、関東軍司令部庁舎など(デジタル大辞泉)なお、関東軍司令部庁舎は、現在、中国共産党吉林省党委員会本館として使われています。また、名古屋市役所本庁舎も帝冠様式の建物といわれています
◆竹葉さんからの案内
「おかげさまで、展覧会は好評。多数の写真愛好家が来館しています。後期には展示替えがあるので、是非もう一度、来館してください。それから、ギャラリー・トークで李香蘭のエピソードを話しましたが、彼女が出演している映画の上映会を現在企画中。6月になったら実施する予定。決まったらお知らせするので、お待ちください。」とのことでした。
◆最後に
第Ⅰ章に展示されている櫻井一郎の写真は初めて見ましたが、昨年秋の協力会ツアーで行ったポーラ美術館「ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線」で展示されていたアジェの写真を思い出しました。どちらも、乾板を使うカメラで撮った「記録」であり、芸術作品とは言えないかもしれませんが、美術館で鑑賞する価値は十分あると思いました。また、第Ⅴ章の写真では、最新のスキャナー・プリンターの性能の高さに驚きました。
たっぷり2時間のギャラリー・トークで参加者は大満足。竹葉さん、ありがとうございました。
Ron.
熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました