「ザ ベスト セレクション」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「ザ ベスト セレクション」(以下「本展」)のギャラリートークに参加しました。台風25号の進路によっては「中止」もあり得ましたが、台風は日本海を進み、当日は快晴。無事、開催されました。晴れ女(晴れ男?)さん、ありがとう。
担当は、保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)と角田美奈子学芸員(以下「角田さん」)。参加者は70人。参加人数は多いもののグループ分けはありません。会場がゆったりしており、ポータブルのワイヤレス拡声装置で隅々まで声が届くため、70人全員が一緒に動くこととなりました。壮観でしたね。
以下は、保崎さんによるギャラリートークの概要です。なお、(注)は私の補足。主な作品については作者名・作品名・制作年に加えて作品解説の「見出し」を記載しました。本展では「主要作品」と「知られざる傑作」に詳細で気の利いた解説が添えられています。解説本文は会場で見ていただくこととして、ここでは「見出し」だけを紹介します。

◆本展の概要など
◎名古屋市美術館の収蔵品は開館後30年間で6,278点に
名古屋市美術館は1988(昭和63)年4月22日に開館し、今年、開館30周年を迎えました。ただし、コレクションの収集は1983(昭和58)年から始めています。収集の結果、収蔵品の点数は2017(平成29)年度末の時点で6,278点となりました。収蔵品の点数は1998(平成10)年度末で2,106点、2008(平成20)年度末で4,332点ですから、10年間で2,000点ずつ増やした勘定になります。なお、厳しい財政事情のため2005(平成17)年頃から購入による収集が難しくなりました。最近の収集は、ほぼ寄贈によるものです。
「購入が難しい」と申しましたが、開館30周年を記念して団体・個人から寄付をいただき「夢・プレミアムアートコレクション」として藤田嗣治《ベルギーの婦人》を購入することができました。地下1階の常設展示室で公開していますので、お越しください。

◎「外せない作品」に「なかなか紹介されなかった作品」「知られざる傑作」を交えて展示
本展は開館30周年記念展なので「外せない作品」を展示することは当然ですが「なかなか紹介されなかった作品」「知られざる傑作」も交えて展示しました。
また、オーソドックスに「4つの収集方針」= ①エコール・ド・パリ、②メキシコ・ルネサンス、③郷土の美術、④現代の美術の順に、主に地元作家の作品を展示しています。

◆エコール・ド・パリ
(主な作品)
・マルク・シャガール《二重肖像》1924年
 二度目のパリで手にした穏やか日々、束の間の幸福を永遠に記録した傑作《二重肖像》。
・アメデオ・モディリアーニ《おさげ髪の少女》1918年頃
 おさげ髪の少女のモデルについて(本文より:日本人画家の平賀亀佑の妻、マリー?)
・キスリング《マルセル・シャンタルの肖像》1935年
 見よ、この眼力(めぢから)圧倒的な存在感!画家はモデルの魅力のとりことなった。
・モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り》1910年
あの場所は今?ユトリロが描いたパリ、ノルヴァン通り。
・ハイム・スーチン《農家の娘》1919年頃 → 代替品《鳥のいる静物》
(ギャラリートーク)
エコール・ド・パリは1927年にフランスに渡った地元作家・荻須高徳(おぎす・たかのり)に関係するコレクションです。荻須高徳と同時代のエコール・ド・パリの作家、シャガール、スーチン、モディリアーニ、キスリング、ユトリロなどの作品を展示しました。
キスリング《マルセル・シャンタルの肖像》は2001年に購入。エコール・ド・パリのタブローとしては、これが最後の購入品でした。藤田嗣治《ベルギーの婦人》はそれ以来、十数年ぶりに購入できた作品です。マルク・シャガール《二重肖像》は高すぎて購入できないため、中部電力株式会社が買い上げ、名古屋市に寄贈された作品です。
ハイム・スーチン《鳥のいる静物》は作品リストにはありません。リストには《農家の娘》が掲載されています。ランス美術館に貸し出されていたのですが、台風21号で関西空港が被害を受け、搬入が遅れています。10月下旬から11月初旬には展示できると思います。
アメデオ・モディリアーニ《おさげ髪の少女》は1986年に購入した作品。3億6千万円の価格は当時の日本の公立美術館で最高の購入金額でした。しかし、1989年に大阪市がモディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》を、1990年に愛知県美術館がグスタフ・クリムト《人生は闘いなり(黄金の騎士)》を購入するなど《おさげ髪の少女》を上回る高額な絵画の購入が相次ぎ、《おさげ髪の少女》の記録は抜かれました。(注:角田さんから「《黄金の騎士》は《おさげ髪の少女》より、うんとサイズが大きい(ので比べものにならない)」という声がかかりました)
モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り》は1992年に購入した高額作品です。(注:購入契約にあたり市議会の議決が必要な価格(八千万円)を超える収蔵品は《おさげ髪の少女》と《ノルヴァン通り》の2点のみです。《二重肖像》は高額作品ですが、寄贈なので市議会の議決は不要でした)

◆メキシコ・ルネサンス
(主な作品)
・岡本太郎《明日の神話》1968年
 《明日の神話》下絵の寄贈と修復 (本文:日系移民 小栗順三氏のメキシコの自宅)
・フリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年
 人の心を打つ作品と人生 日本でフリーダの絵が見られるのは名古屋市美術館だけ。
・マリア・イスキエルド《旅人の肖像(アンリ・ド・シャティヨンの肖像)》1935年
 シュールとは夢ではない、それはもう一つの確かな表現なのだ。
・ダヴィッド・アルファ・シケイロス《奴隷》1961年
 獄中でほとばしる想像力。 シケイロスの熱いメッセージ
(注:「《奴隷》裏面のシケイロスによる文章(要約)」も掲示されています)
(ギャラリートーク)
岡本太郎《明日の神話》は高さ5.5メートル、長さ30メートルの巨大な壁画で、2008年からJR山手線渋谷駅と渋谷マークシティーの京王・井の頭線渋谷駅を結ぶ連絡通路に展示されています。これは1968年にメキシコ市のホテルに飾る壁画として依頼されたもので、岡本太郎は大阪万博の《太陽の塔》と並行して制作していました。
本展に展示しているものは、その下絵。メキシコ市のホテルのオーナーに岡本太郎を紹介した日系移民の小栗順三氏の自宅に保管されていたものです。1999年に「下絵がある」という情報提供があり、小栗順三氏の奥さんのふじ子氏(順三氏本人は既に死亡)と岡本太郎氏の幼女・岡本敏子氏の連名で名古屋市美術館に寄贈されたものです。個人の住居に保管されていたことから作品には亀裂や絵の具の剥落があり、寄贈を受けた後に修復を施しています。寄贈までの経緯については「アート・ペーパー」49号と50号に山田諭氏が、修復の経緯については「紀要」11号に角田美奈子氏が寄稿しています。
メキシコ・ルネサンスの展示にフリーダ・カーロは欠かせませんが、イスキエルドの作品も紹介したいと思い、展示しました。シケイロスは、作品の裏面に書かれたメッセージも紹介したかったので、特別な展示方法をしています。(注:表・裏の両面を見ることが出来るよう、通路の中央に台を置いて展示しています。作品の裏(メッセージが書かれている面)にはアクリルカバーがあるのに、表(絵が描かれた面)にカバーはありませんでした。なお、本展の展示作品には、全て保護カバーがありません。なので、照明などの映り込みを気にすることなく鑑賞できます)
メキシコでは1910年に革命が始まりました。戦争終結後の1920年当時、メキシコの民衆(メスティーソ)の80パーセントは文字が読めないという状況だったため「メキシコの歴史や将来ビジョンを示す」という目的で壁画運動が始まりました。多くの人がメッセージを受け取ることができるよう、大きな画面に分かりやすい絵画が描かれました。シケイロス、リベラ、オロスコの三人が代表的な作家です。

作品を囲んでの解説

作品を囲んでの解説

◆郷土の美術
◎東山動物園猛獣画廊壁画
・太田三郎《東山動物園猛獣画廊壁画 No.1》1948年
・水谷 清《東山動物園猛獣画廊壁画 No.2》1948年
・宮本三郎《東山動物園猛獣画廊壁画 No.3》1948年
(ギャラリートーク)
この3点は1997年に収蔵して以来、一度も展示したことがない作品です。傷みがひどいためこれまで展示を見送ってきました。本展では「貴重な作品だ」というメッセージを伝えるため、やむなく修復されていない状態で展示しています。
第2次世界大戦中、軍から猛獣を処分するよう指示が下され、東山動物園ではヒグマを毒殺、ライオンを絞殺しました。その後、射殺や食料不足、暖房不足などにより猛獣は激減。戦後、動物園を再開した時、動物30頭ほどという状態でした。(注:ゾウ2頭については、有名な「ぞう列車」のお話がありますね)
そのため、1948年中京新聞社が3人の画家に動物の生態を描いたジオラマの制作を依頼。旧カバ舎を「猛獣画廊」としてジオラマを展示することになりました。作品の解説には「猛獣畫廊」開きの式の模様を伝える紙面のコピーも掲げています。
東山動物園猛獣画廊壁画は、美術が社会の役に立った貴重な事例として展示しました。次に展示できるのが何時になるのかは分かりません。

◎郷土の日本画
(主な作品)
・渡辺幾春(わたなべ・いくはる)《若き女》1922年
 浮世絵好きの作者だからこそ描ける、センチメンタルなムード。
・喜多村麦子(きたむら・ばくし)《暮れ行く堀川》1929年
 あの場所は今? 喜多村麦子が描いた堀川。
・横山葩生(よこやま・はせい)《磯》1934年 (注:解説なし)
・大島哲以(おおしま・てつい)《終電車》1967年
 半獣半人たちの奇怪な行動。終電車は何処へ行く。
(ギャラリートーク)
 日本画の部屋は作品保護のために暗くせざるを得ません。暗い中でも作品が見やすくなるよう、照明にこだわりました。白いLEDを何本も使っています。
 大正時代の渡辺幾春、横山葩生は、いずれも帝展入選作です。喜多村麦子の《暮れ行く堀川》には木橋を描いたものと石橋を描いたものがあります。これまでは木橋を描いたものを展示することが多かったのですが、本展では石橋を描いたものを展示しています。昭和初期の制作ですが、大正前期の風景を描いたものです。洋画の部屋に展示している西村千太郎《納屋橋風景》は昭和初期の風景ですから、二つの作品の風景には15年の開きがあります。
 展示ケースには川合玉堂と戦後の前衛的な日本画・中村正義、星野真吾らの作品が同居しています。作品の傾向が全く異なるので、その間をカーテンで仕切りました。
 大島哲以は名古屋市生まれの日本画家です。金属の箔を貼った上から、体は人で頭が鳥の女たちと、体は人で頭が山羊の男たちを描いています。終電車の中なのに、七輪でカエルを焼く女がいて、煙が車内に充満しています。また、上からはアリナミンの瓶から錠剤が、コーラの瓶から液体がこぼれています。花鳥風月ではなく社会風刺を主題にした作品です。
 前衛的な作品の次には、前田青邨、平松礼二、田淵俊夫の作品を展示しました。
(注:中村正義や前田青邨、平松礼二、田淵俊夫の作品には「解説」がありません。「良く知られた作家や作品には、通常の展示と同様に解説はつけない」ということのようですね)

◎郷土の洋画
(主な作品)
・横井礼以(よこい・れいい)《蜜柑を持つK坊》1922年
 着物に前掛け姿のK坊 フランス流のモダン・スタイルで登場。
・西村千太郎《納屋橋風景》1930年
 まるで名古屋の「セーヌ河畔」。ハイカラな名古屋の一面を捉えた《納屋橋風景》。
・市野長之助《バザーの楽器店》1929年
 明治44年、栄にできた ショッピング・モール、「中央バザー」。
・宮脇晴(みやわき・はる)《夜の自画像》1919年
 この時、なんと17歳。名古屋市立工芸学校在学中の宮脇晴。
・遠山清《マノハラ水浴》1927年
 洋画で「仏画」を描く斬新な試み。描いたのは新明小学校の先生。
・富澤有為男(とみざわ・ういお)《姉》1928年
 帝展入選者にして芥川賞作家、富澤有為男の稀有な才能。
(ギャラリートーク)
 洋画の部屋では主に、脚光を浴びていない作家・作品を紹介します。
 宮脇晴は17歳の時の日記に「夜、自画像を描く」と書いているので17歳の時の作品だと思われます。なお、彼は翌年、帝展に初入選しています。
 これまで、郷土の美術では主に「愛美社」「サンサシオン」の作家を紹介しており、横井礼以や彼が創設した緑ケ丘中央洋画研究所で学んだ西村千太郎、市野長之介はあまり取り上げていません。横井礼以《蜜柑を持つK坊》はフォーヴィスム風。西村千太郎《納屋橋風景》は佐伯祐三風で大正モダンの雰囲気があります。《納屋橋風景》で、西村千太郎は「パリのように見せる」ために、あったはずのバルコニーを隠すなどの工夫を施しています。バルコニーの外にはどんな工夫をしているでしょうか。(注:質問に答えて「電線がない」との声がありました)その通りです。外には、市電の線路も隠しています。市野長之助が描いたショッピング・モール「中央バザー」は現在の名古屋三越の北側にありました。
 遠山清は、帝展入選を目指した同人「サンサシオン」加わっていた画家で、《マノハラ水浴》はテンペラで描いた仏画です。「他人と同じことをしていては目立たない」と思って描いたのでしょうか。
 富澤有為男《姉》は水彩画のように見えますが、油絵です。彼は東海中学校卒業時に「文学」を目指しましたが父親は反対。母親が出した妥協案が「絵画」でした。母親の従妹に洋画家の岡田三郎助がいたことから東京美術学校に通うことになったのですが、半年で退学。新愛知(中日新聞の前身の一つ)の記者となりましたが、その後、記者をやめて上京し、「文学」と「絵画」の二足の草鞋を履きます。「サンサシオン」の会員となって展覧会に出品。1929年から1930年までフランスに留学して絵画を学んだものの留学先のパリでは映画が大流行で「絵画は時代遅れ」と思ったため、帰国後は小説を執筆。ただ、第4回芥川賞(注:正式には「芥川龍之介賞」)を受賞した小説「地中海」の主人公は画家で舞台はパリと南フランス。留学経験は小説に生かされたようです。

◆現代の美術
(主な作品)
・河原温《カム・オン・マイハウス》1955年、《私生児の誕生》1955年
 時代の閉塞感が画面を歪める?!戦後の日本社会を鋭く見つめた、若き日の河原温。
・桑山忠明《無題》1965年
 アメリカ現代絵画の第一線で活躍する桑山忠明 大学時代は意外にも日本画専攻。
・荒川修作《35フィート×7フィート6インチ、126ポンド No.2》1967-68年
 10.7m×2.3m、47kg。タイトルの数字が意味するものは?
・赤瀬川原平《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》1963年
 旭丘高校美術科出身、前衛画家赤瀬川原平の渾身の力作 130倍に拡大模写した千円札。
・藤本由紀夫《TABLE MUSIC》1987年
 《TABLE MUSIC》の鑑賞方法
 ① この作品には触ることができます。やさしく触れてください。
 ② 巻ききらないよう注意しながら、お好みのネジを巻いてください。
 ③ 新しくできあがる音楽に耳を傾けてください。
(ギャラリートーク)
名古屋市美術館で現代美術の主要作家は郷土出身の河原温、荒川修作と桑山忠明です。また、荒川修作と旭丘高校美術科の同級生・赤瀬川原平の作品も収集しています。赤瀬川原平は尾辻克彦のペンネーム(注:本名は赤瀬川克彦)で執筆した「父が消えた」により芥川賞(注:1980年下半期の第84回芥川賞)を受賞しています。名古屋市美術館が作品を収蔵している作家のうち、何と2名が芥川賞を受賞しています。
河原温は「Todayシリーズ」が有名で、どの美術館も収蔵しています。なので、本展では河原温がニューヨークに渡る前の1955年に描いた「変形キャンバス」の《カム・オン・マイハウス》と《私生児の誕生》を展示しました。「変形キャンバス」の作品は、名古屋市美術館以外では東京国立近代美術館が《孕んだ女》を、大原美術館が《黒人兵》を所蔵しています。《カム・オン・マイハウス》の画面中央に逆さまになった女性が描かれています。よく見ると女性は右腕を伸ばしてビンをつかんでいるのですが、手の平は左手のもの。ビンの中身が上手く注げません。大原美術館所蔵の《黒人兵》と合わせてみると、戦後の社会問題に対して鋭い批判を投げかけていたことが分かります。
 荒川修作の作品は何回も展示しているので今回は解説しません。桑山忠明《無題》は「システミック・ペインティング展」出品作で、クールな抽象画。歴史的価値のある作品です。
藤本由紀夫は名古屋生まれの作家で《TABLE MUSIC》は常設展に2回ほど展示しています。18個のオルゴールを取り付けたテーブルです。(注:オルゴールは金属の円筒に取り付けられたピンが、長さの違う櫛状の金属版(櫛歯)を押し上げて弾くことにより曲の演奏を行う装置です。櫛歯の一本一本が一つの音階に対応しています)18個のオルゴールは、それぞれが一つの音程しか出せないように、他の櫛歯を折り曲げています。運よく18個のオルゴールが全て同調すれば「枯葉:英語”Autamn Leavs”、仏語 “Les Feuilles Mortes”」が演奏されますが、ほとんどの場合は別の曲になります。

◆最後に
 参加者からは「こんな作品があるなんて知らなかった」「名古屋市美術館のコレクションの質の良さを再認識した」「こんなに面白いなら、これからも定期的にベスト・セレクション展を開催してもいいのではないか」「東山動物園猛獣画廊壁画は素晴らしい。修復費用を夢・プレミアムアートコレクションで集めてはどうか」などの声が聞かれました。
 「常設展の延長だから」と、あまり期待していなかった人が多かったようですが、予想は大きく外れ「見ごたえのある展覧会」となりました。展示室を歩くと微かに《TABLE MUSIC》の演奏が聞こえるのも、心地良いバックグラウンド・ミュージックです。
 地下1階では「名品コレクションⅡ」が同時開催されています。今回のギャラリートークでは鑑賞できませんでしたが、「名品コレクションⅡ」では「エコール・ド・パリ」の女性像ばかり集めるなど面白い展示があります。「ザ ベスト セレクション」と「名品コレクションⅡ」は「二つでひとつ」。二つ合わせて鑑賞することをお勧めします。
 常設展示室3で開催中の「名古屋市庁舎竣工85年 建築意匠と時代精神」も「一見の価値あり」です。
Ron.

「モネ それからの100年」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「モネ それからの100年」(以下、「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は80人。参加人数が多かったので、先ず、講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。ギャラリートークは、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
以下は、概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものです。

◆本展の概要について(深谷さん)
◎名古屋市美術館で開催するモネ展は、30年間で4回
本展は名古屋市美術館で開催する4回目のモネ展。第1回は1994年で、内容は回顧展。第2回は2002年で「睡蓮の世界」=睡蓮を描いた作品だけの展覧会。第3回は2008年で、マルモッタン美術館所蔵の《印象 日の出》中心にした展覧会。第4回が本展で、「それからの100年」をテーマにした展覧会。
印象派のコレクションを持たない美術館で、30年の間に4回のモネ展を開催するというのは珍しいケース。なお、4回の展覧会は、全て私が担当しました。

◎「それからの100年」というテーマについて
「それから」とは、モネがオランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」を描いた1914年頃を指す。本展のテーマは「睡蓮の壁画が描かれてからほぼ100年経ち、モネの作品が後世の作家にどのような影響を及ぼしているか」を示そうというもの。
本展は89点の作品を展示しているが、モネは26点で、残り63点は現代美術。現代美術のうち、スティーグリッツとスタイケンの写真は19世紀の終わりから20世紀初めのものだが、大半は1950年代以降のもの。
昨日、閉館後に51名の参加で「名画の夕べ」というイベントを開催したところ、1名の参加者から「モネが26点では、モネ展ではない。」という意見があった。チラシ等には「モネと、彼に影響を受けた現代の作家たちとを比較検討」という断りが入っているが、「全部がモネの作品」だと思って来場する人が出るのは止むを得ないと思う。ただ、残り50名の参加者からは「モネ展ではない。」という声は聞かれず、一安心した。

◎モダン・アートの原点はセザンヌからモネへ
かつては「モダン・アートの原点はセザンヌ」という考えが一般的で、モネをモダン・アートの原点に置く人は少なかった。しかし、最近「セザンヌもモダン・アートに影響を与えているが、モネはそれ以上に大きな影響を与えているのではないか。」という考えの人が増えている。
 美術館の展示室に作品が並んでいるのを見ると、事前に思い描いたイメージとは違っていることがある。本展の展示も事前のイメージとは違っていた。それは「いい方」への変化だった。つまり、展示室の作品を見て「モネと現代美術はシンクロしている、つながっている。」という思いを強くした。本展に来場した大半の人も、感覚的に「つながっている」と感じてくれたのではないかと思う。
 モネが好きな人はたくさんいる。本展で、現代アートにアレルギーを持つ人が少なくなると、うれしい。

◎「睡蓮の部屋」オープン時、モネは「過去の人」だった
モネは1926年12月に死去。その半年後の1927年5月にオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」がオープン。しかし、1910~20年代「モネは過去の人」という評価で、オープン時の「睡蓮の部屋」は閑古鳥が鳴いていた。
それが、1940年代後半から1950年代になって、アメリカ現代美術の作家を中心に「モネは先駆的な活動をしているのではないか。」と、モネの作品全体に対する評価が上がり、現代に至っている。
なお、オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は楕円形の部屋二つで構成されており、睡蓮の大壁画22枚が展示されている。

◎晩年のモネと抽象画
本展に展示の《バラの小道の家》(1925)はモネの絶筆(最後の作品)だが、タイトルがなければほとんど抽象画。モネ晩年の10年間は、白内障のため視力が低下。画商のデュラン・リュエルは「今のモネは、ほとんど目が見えないのでは。」という言葉を残しているが、モネがどこまで見えていたのかは、よくわからない。
ただ、睡蓮の池と太鼓橋を描いた1899年の作品と1919年の作品を比べると、1919年の作品はほとんど抽象画。(注:いずれの作品も、本展では展示していない)
ヨーロッパの美術の歴史をたどると、1910年代はモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの前衛美術や抽象画が勢いを持っていたが、第一次世界大戦後の1910年代終わりから1920年代にかけては流行が古典的なものに戻り、エコール・ド・パリなどが勢いを持った。
1910年代のモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの抽象画と比べたら「睡蓮の部屋」は、少しもおかしくない。しかし、モネが「睡蓮の部屋」を描いた1920年代は、復古的風潮が主流であったため、理解されなくても不思議ではなかった。

◎睡蓮を描くまでの、モネの遍歴
本展に展示の《サン=シメオン農園前の道》(1864)は、ノルマンディーの風景を描いたもの。モネは1840年にパリで生まれたが、5歳の時にノルマンディーに移る。若い頃のモネは、コロー、テオドール=ルソーなどのバルビゾン派の作品をお手本にして絵を描いていた。
ノルマンディーの風景を描いた《ヴァランジュヴィルの風景》は日本美術の影響を受けた作品で、葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1831-34)(注:本展では展示していない)と構図が似ている。北斎の絵の左下に逆三角形の部分があるが、モネの絵の海面も同じように逆三角形。ただし、実際の海岸線はモネの絵と違って、湾曲していない。湾曲した海岸線はモネの創作と思われる。実は、北斎の逆三角形の部分も創作らしい。
1880年代の終わりから、積みわら、ルーアン大聖堂、チャリング・クロス橋などの連作が始まる。睡蓮の連作が始まったのは1906年。最初は、睡蓮だけを描いていたが、だんだんと水面に映っているものも描きはじめ、睡蓮の実体と水面に映っている空や木々の影を等価で描くようになる。ジヴェルニーの睡蓮の庭の写真を見ると、水面に映っている空や木々の影の存在が強い。睡蓮と水面は一体のものに見える。
1914年から、モネは「睡蓮の壁画」のための下絵を描きはじめる。「睡蓮の壁画」の本画に使われた下絵は少ないが、本展に展示の《睡蓮、水草の反映》(1914-17)は本画に使われている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術とモネ
モネの睡蓮は、制作当時なかなか評価してもらえなかったが、第2次世界大戦後のアメリカで、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコといった作家がモネの晩年を見直すようになる。
これには、アメリカの戦略的側面もある。ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには「突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている。」という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである。
このような流れを踏まえると、本展では是非ともポロックの作品を展示したいと思ったが、保険金が高すぎて断念した。モネの睡蓮は「身体性」と「中心が無い表現」がポロックの作品と共通している。
スライドで写しているのは、アメリカで開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品したヨーロッパの画家たち。第2次世界大戦中、戦火を逃れてシャガールやモンドリアンなどがアメリカに亡命した。彼らの存在はアメリカの作家に影響を与え、戦後の抽象表現主義の誕生につながった。

◎本展に展示の現代アートについて
本展に展示のモーリス・ルイス《ワイン》(1958)は、色の感じや全体の雰囲気がモネの作品に似ている。福田美蘭の新作《睡蓮の池》(2018)については、保崎さんのギャラリートークを聞いて下さい。

◎7月から開催する「ビュールレ・コレクション」でも睡蓮が
本年7月28日から名古屋市美術館で開催する「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」では、高さ2m、横4.25mの《睡蓮の池、緑の反映》が展示される。スイスから出るのは初めての作品なので、是非、来場を。また、8月5日(日)午後2時から大原美術館館長・高階秀爾氏の講演が開催されるので、興味のある人は参加を。
(注:以下は補足)
高階秀爾氏の講演だけでなく、8月18日(日)及び9月15日(日)午後2時からは深谷副館長の作品解説会があります。事前申し込み制で、申込締め切りは7月22日(必着)。申込方法は、名古屋市電子申請又は往復はがき。往復はがきの場合は、郵便番号・住所・氏名・電話番号・聴講希望日(1つまで)・聴講人数(2名まで)を記入し、〒460-0008 名古屋市中区栄2‐17-25 名古屋市美術館「講演会/解説会」係まで 応募者多数の場合は抽選。詳細は名古屋市美術館HPで。

1階で深谷副館長の解説をきく会員

1階で深谷副館長の解説をきく会員


◆1階の展示について(深谷さん)
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》など
展覧会の概要解説を聴いた後、1階展示室に移動すると、モネ《ヴィレの風景》(1883)と丸山直文《puddle in the wood2 5》(2010)の前に集合して、「立ちあがる色彩と筆触」という副題について、「モネは何を描くかというだけでなく、色彩それ自体の魅力や筆致を楽しんでいる。」などと解説を聴きました。
続いて、深谷さんから「二つの絵を比べて、どんな点が似ていると思いますか。」という質問。参加者が「どちらも、森の木々と水面を描いている。」「色の感じが似ている。」などと回答すると、深谷さんは「昨日の『名画の夕べ』では、『この二つの絵のどこに共通点があるのか具体的に説明して下さい。第一、丸山直文の絵は筆で描いたものではなく、絵の具を沁み込ませて描いていますよね。』という質問があり、答えに窮しました。」とのお話。「この二つの絵は、厳密に一対一で対応しているわけではなく、ゆるい対応です。本展には26人の作家の現代アートを展示していますが、モネの影響を受けていると表明している作家は半数。残りの作家はモネの影響について本人が言ったわけではなく、影響があるのではないかと推測しているにすぎません。」と、話は続きました。

・ジョアンミッチェル《湖》・《紫色の木》
ジョアンミッチェルはアメリカ出身の女性画家で、モネを敬愛し、モネの影響をはっきりと表明しています。《湖》(1954)はミシガン湖のイメージを描いたもの、《紫色の木》(1964)は、フランスにわたってからの作品。
なお、赤い壁に展示されているのはモネの作品。現代アートは白い壁に展示。

・モネの作品の変遷
最初の2点はバルビゾン派の影響を受けた作品。《サン=タドレスの断崖》(1867)は印象派の先駆的作品。典型的な印象派の活動があったのは1870年代で、1880年代になると印象派の作家たちはそれぞれの道を歩むようになる。7月28日から始まる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」で展示されるルノワール《イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》(1880)は、古典的な絵画に回帰した作品。
モネも1880年代に方向転換をしている。1880年代は試行錯誤を続けていたが、1880年代の終わりから積みわらやチャリング・クロス橋などの連作を始めた。

・ルイ・カーヌ、岡﨑乾二郎、中西夏之
ルイ・カーヌはモネを敬愛した作家。本展では《彩られた空気》(2008)が話題になっている。金網の表面に絵の具を塗った作品で、展示室の白い壁に絵の具の影が映り、絵の具とその影が重なって見える美しい作品。
岡﨑乾二郎の作品(注:題名が長すぎて書ききれません)は2点が対になっており、左右の作品は同じようなモチーフを描いているが、色彩と形が少し違っており見比べると面白い。また、絵の具の「塗り残し」をうまく生かしている。
中西夏之《G/Z 夏至・橋の上 To May Ⅶ》(1992)と《G/Z 夏至・橋の上 3ZⅡ》(1992)については、深谷さんから「この絵については、第2章 形なきものの眼差し 光、大気、水 に展示する方が適切だと思われるが、なぜ第1章に展示しているのか、という質問があり、回答に窮した。確かに、第2章でもおかしくない。ただ、第1章・第2章の展示作品は厳密に分けているわけではなく、アバウトな要素もある。」との話がありました。

◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
・スティーグリッツとスタイケンの写真
第2章には19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて撮影された、スティーグリッツとスタイケンの写真が展示されています。深谷さんに聞いたら「横浜美術館からの提案で展示」とのこと。確かに、うち3点は横浜美術館の所蔵品です。第2次世界大戦後の作品ではありませんが、「光、大気、水」という副題にふさわしい展示でした。

・ゲルハルト・リヒター
深谷さんのお話では、個人的な好みを言うと、ゲルハルト・リヒターの2つの作品と岡﨑乾二郎の作品が本展の現代アートでは「イチオシ」とのことでした。なお、ゲルハルト・リヒターの2つの作品は金属板に描かれているため絵の具が完全には定着しておらず、作品を運搬する際は「平らにして運ぶ」よう気を付けているとのことです。

・モネの作品
第2章では、青色の壁にモネの作品を展示。青い壁の一番右に空白があるが、この空白部分には5月22日から作品(注:《雪中の家とコルサース山》(1895))が展示される。
チャリング・クロス橋はテムズ河にかかる鉄道橋で、霧のロンドン(実は石炭を燃料として使うことにより発生したスモッグ)がテーマ。モネは二十数点を連作した。

◎自由観覧のなかで
「睡蓮の壁画」について深谷さんから話がありました。「モネはオランジュリー美術館所蔵の22点以外にも睡蓮を描いている。22点以外の作品は長い間忘れ去られていたが、1940年代に巻かれたキャンバスの状態で保管されているのが発見され、その多くはアメリカのコレクターが買い取り、一部はヨーロッパのコレクターも買った。再発見された当時、睡蓮の評価は高くなかったので値段は低かった。その時に買い取られた作品のうち1点が巡り巡って、今、直島にある。」とのことでした。
また、6月10日(日)AM9:00からのNHK・Eテレ「日曜美術館」の本編で「モネ それからの100年」が紹介され、深谷さんも出演するとのことです。お見逃しなきよう。

2階で保崎学芸員の話をきく会員

2階で保崎学芸員の話をきく会員


◆2階の展示について(保崎さん)
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネ《睡蓮》のうち、1897-98年制作の作品2点
2階のギャラリートークは、第4章のうち、モネの作品が展示してある小部屋に集合してスタート。保崎さんによれば「モネ・睡蓮の連作の締めくくりは、オランジュリー美術館・「睡蓮の部屋」の壁画22枚。高さ2m、横6m又は高さ2m、横4.5mの作品。皆さんが向かっている壁には《睡蓮》というタイトルの作品が3点されているが、そのうち真ん中の作品は1906年制作、左右が1897-98年制作。3点を比べると、睡蓮を描きはじめた1897-98年制作の2点は、いずれも睡蓮の花・葉が大きい。クローズアップした画面で、水面の面積はそれほど広くない。2点を比べると、向かって左の作品の方が光を強く描いている。」とのことでした。

・モネ《睡蓮》のうち、1906年制作の作品
モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年で、57歳の時。モネは86歳まで生きたので、人生の半分は睡蓮を描いていたことになる。モネがジヴェルニーに転居したのは1883年。最初は借家だったが、1890年に家と土地(注:9,200㎡)を買い取り、1893年には周辺の土地を購入し小さな池を作った。1897年には睡蓮の連作を始め、1901年に隣地を買い取り、池を拡張。(注:現在、モネの家の土地は2万㎡を越える)1902年から1908年までが睡蓮の連作のピーク。3点並ぶ《睡蓮》のうち真ん中の作品は、連作のピークである1906年に制作されたもの。水面が広く、画面の真ん中を水面が占めている。画面の外には太鼓橋、左にポプラ、右には柳が植えられている。

・モネ《睡蓮の池》
この小部屋の入口横に展示されている縦長の作品《睡蓮の池》(1907)は、ベスト・ポジションから夕陽が沈む睡蓮の池を描いた作品。屋外の自然光と水面の反射による一瞬の色彩を素早い筆致で描いている。画面の外に向かって絵の広がりを感じさせる描き方で、モネの特徴が一番よくわかる作品。風景なのに、縦長の画面に描いているのが面白い。水面に映る夕陽の反射が縦方向の流れを作っている。

・福田美蘭《睡蓮の池》
福田美蘭《睡蓮の池》(2018)は、高層ビルのレストランを描いた作品。テーブルを葉、キャンドルを花と、睡蓮に見立て、マネの大胆な筆致をまるまる真似ている。福田美蘭の作品はいつでもウイット(機知)に富んでいるが、この作品でもモネの屋外・自然光という組み合わせに対し、室内・人工光という組み合わせにするなど、モネの逆を行っている。外にも、モネの水面に対し高層ビルを、水面への(下への)映り込みに対し窓ガラスへの(上への)映り込みを配すことにより、モネの「睡蓮の池」を自分のスタイルで描き、モネへのオマージュとしている。

◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
第3章は、全て現代アート。モネを再評価して、継承した作品が並ぶ。抽象表現やポップ・アートはモネと同じ視点に立った作品。例えば、アンディ・ウォーホル《花》(1970)は、雑誌に載っていた花の絵をコピーし、様々な色でシルクスクリーンのプリントをした作品。「複製がオリジナルを越えた」もの。

◆お開き
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。参加者は、三々五々と美術館を後にして、午後7時には全員が帰路に着きました。
Ron.

真島直子 地ごく楽

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


 3月10日土曜日、日中は少し暖かいのですがまだ朝晩は冷えるなか、名古屋市美術館での『真島直子 地ごく楽』展のギャラリートークが開催されました。37名がトークに参加し、担当学芸員角田美奈子さんの解説に熱心に聞き入り、真島さんの色美しくも少しグロテスクな印象も否めない、なんとも興味深い作品を鑑賞。しかし見終わった際には、参加者はすがすがしい思いに包まれました。
 白い大きなキャンバスに鉛筆の黒のみで細かなドローイングをびっしり書き込んだ作品や、木工用ボンドで様々な色の布や紐を固めて作られた立体作品など。点数は決して多いわけではありませんが、1つ1つの作品が強いインパクトを放っていて、作品を観る一人ひとりに何か訴えているようでした。
 そして忘れてはならないのは、2階展示の最後の方、いわば展覧会クライマックスの位置に、名古屋市美術館協力会で美術館の開館25周年を記念して購入、寄付した真島さんの作品が飾られています。協力会の会員みなさま、ありがとうございました。またこのような素晴らしい作品を寄付できるよう、がんばりましょう。

解説を聞きながら

解説を聞きながら


 さらに、今回は地下の常設展示室に名古屋のシュルレアリズムと題して、名古屋で活躍した作家さんのシュルレアリズム絵画が紹介されています。名古屋市美術館所蔵の作品が展示されているのですが、こちらもとても力強い作品が多く、名古屋画壇もこんな素晴らしい作家さんたちを輩出していたんだ!と驚きました。真島直子さんの父親である眞島建三さんの作品も展示されています。真島直子さんの展覧会にいらっしゃったなら必見です(その他、北脇昇さん、吉川三伸さん、三岸好太郎さんなど)
お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!

お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!


協力会

シャガール展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「シャガール展」(以下「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)、参加者は58人。以下、深谷さんのトークを要約しました。

まずはエントランスホールでの解説

まずはエントランスホールでの解説


◆エントランスホールで展覧会の概要を解説。こぼれ話も披露
名古屋市美術館で開催するシャガール展は、本展が2回目。前回開催は、開館2年目の1990年。前回はシャガールの回顧展で、ロシアのトレチャコフ美術館・ロシア美術館の所蔵品を中心に、個人蔵も併せて150点を展示。本展の展示作品は173点、うち陶器・彫刻が62点。シャガールが制作した陶器・彫刻は300点だが、売り物では無かったので、大半をシャガールの遺族が所有。そのため、シャガールの陶器・彫刻が多数展示される機会は稀。3年前に愛知県美術館で開催されたシャガール展では十数点の立体作品を展示。ヨーロッパでも47点を展示したのが最高。本展の62点という立体作品数は世界一。
エントランス正面に掲げている大きな写真は1924年の撮影。シャガール本人と妻のベラ、娘のイデが写っている。シャガールは、写真撮影の前年に革命後のソ連からドイツ経由でフランスに戻っている。この頃が作家としても家庭的にも一番充実していた時期。
写真では壁に《誕生日》が写っている。なお、本展で展示の《誕生日》(1923)は、オリジナルの《誕生日》(1911)をシャガール本人がコピーしたもの。写真には有名な《私と村》も写っている。この作品もオリジナルは1911年制作、1923~24年にシャガール本人がコピー。
何故、自分の作品をコピーしたのか。それは、シャガールが20代から30代前半にかけて描いた絵が全て、彼の手元から失われたから。1911年から1914年にかけて描いた作品は、ドイツで個展を開催した後、画商が勝手に売却。1914年から1921年にかけて描いた作品は、トレチャコフ美術館・ロシア美術館の所蔵品となった。そのため、フランスに戻ってから、オリジナルの作品をシャガール本人がコピーして自分の手元に置いた。

◆第1章 絵画から彫刻へ ~ 《誕生日》をめぐって
本展は、5章立て。テーマ別なので、展示作品の制作年代は入り乱れている。
第1章のテーマは「絵画から彫刻へ」。シャガールが立体作品の制作を始めたのは、米国への亡命(1941~1948)からフランスに戻った翌年の1949年。陶芸・彫刻のテーマ・モチーフは絵画で表現したものを、そのまま使用。
第1章に展示の彫刻《誕生日》(1968)も、絵画の《誕生日》と同じモチーフの作品。しかし、「絵画の焼き直し」ではなく、新たな表現になっている。絵画についても「後年のシャガールは代り映えせず、マンネリでは?」と思われるかもしれないが、晩年の作品は色彩が綺麗で、進化し深みが増している。「同じモチーフでも表現がこれほど違うのか。」という体験を楽しんでもらうのが、本展の趣旨

◆第2章 空間への意識 ~ アヴァンギャルドの影響
 絵画《座る赤い裸婦》(1909)はゴーギャンの影響がみられる作品。19010年頃のロシアではゴッホ・ゴーギャンの影響が強かった。シャガールはシチューキンやモロゾフの絵画コレクションを見ていたかもしれない。
 シャガールがパリに出てきた1911年頃、最先端の潮流はキュビスム。第2章ではキュビスムの影響を受けた作品を展示。パリに出て来てから半年から1年という短い期間で自分の様式に到達していることは注目に値する。

◆第3章 穿たれた形 ~ 陶器における探求
 陶器の作品は1949年から制作を開始。その彫刻は2年後から彫刻も始めた。立体作品の制作は、1950年代から1960年代初めに集中。陶器《把手のついた壺》(1953)は壺の一部が上に広がり、女性の顔が描かれている。形がユニーク。シャガールは、下絵を描いてから陶芸作品を制作している。《把手のついた壺》のための下絵を見ると、マグカップから立ち昇る湯気が髪の毛になり、そして女性の顔になったのではないかと、想像される。
 シャガールは自己流で陶器を制作。それが作品の魅力になっている。先生に付いて指導を受けていたら、ここまで自由な造形は無かった。「売り物」ではなく「自分の楽しみ」として制作していることが自由さにつながっている。

◆第4章 平面と立体の境界 ~ 聖なる主題
 第4章に展示のレリーフや絵画は、旧約聖書を主題にした宗教的なテーマの作品。
エコール・ド・パリの作家のほとんどはユダヤ人だが、宗教的なテーマを取り上げているのはシャガールだけではないかと思われる。
1910年代のフランスには、ユダヤ人に対する偏見が残っていた。そのため、シャガール以外の画家はユダヤ教をテーマにすることを回避したと思われる。シャガールがユダヤ教をテーマとした理由はよくわからないが、有力な画商にはユダヤ系が多いので、ユダヤ・コネクションに乗るために宗教的なテーマの作品を制作したのであろうか?
ユダヤ教をテーマにした作品を残すことにより、シャガールは独自の位置を占めている。

◆第4章 平面と立体の境界 ~ 素材とヴォリューム
 シャガールの彫刻は大理石以外にも、ヴァンスの石など様々な素材を使用。シャガールの彫刻は、①本人が下絵を描き、②下絵をもとに専門の石工が石を彫り、③本人が最終的な仕上げをする、という流れで制作している。陶器については、①本人が土を練って造形、②専門家が焼成、という流れ。また、版画は本人が彫っている。
 シャガールの発想は自由で、版画《野蛮人のように》で使ったブーツの版木を、《時の流れに〈逆さブーツのマントを着た男〉》では、上下を逆にして使っている。
絵画《アルルカン》は色鮮やかな作品だが、その下絵では色鮮やかな端切れをコラージュしている。本展では、赤や青など鮮やかな色彩を楽しんでほしい。

◆第5章 立体への志向
《二重の横顔》は羊の骨を拾って来て、片面に目、鼻を描き、もう一方の面に女性の上半身を描いた作品。シャガールは「素材に対して素直でなければならない。」と言っており、素材に寄り添うように作っている。新しいおもちゃを手に入れたような気持ちで作品を制作したのだろう。
 
◆自由鑑賞
 作品解説後の自由鑑賞では、絵画の《通りの魚》(1950)、《魚のある静物》(1969)について「二匹のニシンの横に描かれている物体は、ジャガイモなのか、パンなのか、ローストチキンなのか」ということが話題になりました。色や形はジャガイモみたいだけれど、ジャガイモにしてはサイズが大きすぎる等、議論百出。深谷さんに尋ねると「シャガール本人は何を描いたのか残していない。パンという説が有力だが、本人が何も言っていないので、決め手はない。」と解説。どうでもよい話題でその場が盛り上がりましたが、それもギャラリートークならではのことですね。
 彫刻の中には、少しこすっただけでも表面が削れてしまいそうな堆積岩を素材にしたものもあり、設置には気を使ったとのこと。また、柱状の彫刻は転倒防止の金具でしっかり固定されています。立体作品の展示は大変ですね。
 また、深谷さんから解説があった通り、晩年の作品は色彩が綺麗でした。
 会期は、来年の2月18日(日)まで。
Ron.

ギャラリートークは大盛況でした

ギャラリートークは大盛況でした

ランス美術館展 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「ランス美術館展」のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は71人。参加人数が多かったので、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。

◆「ランス美術館展」が7館も巡回する理由など(深谷さん談)
ランス美術館展は、ランス市と名古屋市の姉妹都市提携(調印式は2017.10.20)を記念する展覧会。ただ、ランス美術館展そのものは、名古屋市が動き出す前から開催準備が進んでおり、名古屋市は割り込む形で参加。巡回の最終・7番目の会場となりました。
なお、姉妹都市提携を考慮し、ランス美術館は名古屋市美術館だけの特別出品として、ドラクロア、コラン、ブーダンの作品を貸出。2階・企画展示室2の展示です。

◆ランス市のこと、ランス美術館のこと(深谷さん談)
ランス市はパリの東、特急で40~50分の距離=日帰り圏の人口20万人弱の都市。歴代フランス王の戴冠式が行われたノートルダム大聖堂(ランス大聖堂)が有名です。
現在のランス美術館は、修道院の建物を改築して1913年に開館したもの。収蔵品は1800年から公開していますが、当初は市庁舎内に展示。建物老朽化のため別の場所に移転し、2018年リニューアルオープンという計画が進んでいましたが、現市長の判断で中止。今は、現建物を改築する計画が2020年着工予定で進んでいます。
ランス美術館は、絵画だけでなく、工芸品のコレクションも豊富。シャンパーニュ地方の中心都市なので、シャンパン会社社長からの寄贈により収蔵品の総点数は5万点超。

◆第1章~第3章のみどころ(深谷さん談)
 1階の展示は、年代順に第1章から第3章まで。
第1章は17世紀からフランス革命前の時代の絵画。マールテン・ブーレマ・デ・ストンメ《レモンのある静物》は、今回唯一のオランダ絵画。単に、レモン、食器、クルミ、貝殻を描いた絵だと思ったら大間違い。ヨーロッパでは意味のない絵画は描けないので、描いているものは五感の象徴。「メメントモリ=世の儚さ」が、絵の主題です。
ランス美術館のコレクションは19世紀以降のものが充実。それは、19世紀以降に寄贈された作品が多く、制作時期も同時代=19世紀以降のものが多いためです。
第2章は、フランス革命期から印象派前の絵画。ダヴィッド(および工房)《マラーの死》のオリジナルはベルギー・ブリュッセルの王立美術館が所蔵。評判が良く、ダヴィッドの工房は3~4枚のコピーを作成。展示されている作品は、そのうちの一つ。マラーはジャコバン党(急進派)に属するフランス革命の指導者。ダヴィッドはマラーの友人で、入浴中にナイフで刺されて暗殺されたマラーの死を悼んで制作したのが、傑作《マラーの死》。惨たらしいはずの殺人現場をキリストのように描くことで、マラーを殉教者・救済者に見せている。画面の上半分を真っ黒に塗ることでマラーの姿が浮き出ており、ドラマチックな効果を与えています。ダヴィッドは「新古典派」に属する画家で革命期に活躍しましたが、ナポレオンの死とともに表舞台を去り、その後、ドラクロワなどのロマン派が台頭。
カミーユ・コロー《川辺の木陰で読む女》は、一見、同じトーンの画面構成ですが、女の髪飾りの赤がアクセントを与えています。これは、コローの絵の特徴。ランス美術館はコローの作品を27点所蔵、ルーブル美術館に次ぐ作品点数です。
エドゥアール・デュブッフ《ルイ・ポメリー夫人》、右手に手袋を持っている理由をランス美術館の学芸員に尋ねたところ、「急な来客と握手をするために手袋を外し、待っている姿」との回答でした。
第3章は、印象派以降の絵画。印象派ではシスレー《カーディフの河岸》、ピサロ《オペラ座通り、テアトル・フランセ広場》を展示。《オペラ座通り》は、ホテルの窓から見た風景を描いた7~8枚の連作の一つ。連作の中では、今回展示作品の出来が一番。影や服装を見ると、描かれた季節や時刻が分かります。因みに、答えは寒い時期の早朝。
ゴーギャン《バラと彫像》、テーブルの上の花瓶を描いただけに見えますが、彫像の頭に花を重ねるなど、絵にした時の効果を狙い画面構成や色彩に工夫を凝らした作品です。

当日、解説してくださった深谷副館長

当日、解説してくださった深谷副館長


◆自由観覧
深谷さんのトーク後は、15分間の自由観覧。元々が自宅などを飾るための個人コレクションだったためか、ゆったりと鑑賞できる作品が多いと感じました。訪問先の応接間に案内され、壁の絵を眺めているといった感覚でしょうか。
自由観覧後は2階に上がり、もう一つのグループと場所を交替しました。

◆フジタとランスの関係(保崎さん談)
 藤田嗣治の略歴ですが、東京美術学校卒業後、1913年に渡仏。エコール・ド・パリの画家と交流する中、1920年代に自分のスタイルを確立。白い下地に細い線で描いた裸婦によってパリの寵児となる。1929年に日本へ帰国後、南米・米国を旅行し、一時日本に滞在して渡仏。1940年、戦火を避けるように帰国。第2次世界大戦後は、居辛くなった日本を脱出し米国経由でフランスに定住。1955年にフランス国籍を取得。1959年にはランス大聖堂で洗礼を受けカトリックに改宗。洗礼名はレオナール・フランソワ・ルネ。洗礼名の「ルネ」はランスのシャンパン会社GHマム社会長・ルネ・ラルー(以下「ルネ」)に因る。
ルネとフジタの交流は、1956年にパリの画廊で開催されたフジタの個展をルネが見て、感銘を受けたことから始まる。ルネの依頼により、フジタはシャンパン(ロゼ)用のバラの絵を描いた。この時のバラの絵は今も使われている。改宗の半年前、フジタはルネの招きでランス市を訪問。サン・レミ修道院を訪れた時、「改宗せよ」との啓示を受けた。
平和の聖母・礼拝堂(通称、フジタ・チャペル)の建設資金と土地を提供したのもルネ。フジタは、1966年6~8月の3カ月で、礼拝堂内部の壁画を一人で描き切った。

◆第4章のみどころ(保崎さん談)
 ランス美術館のフジタ・コレクションは絵画800点、資料も合わせると2300点。その多くは、戦後、フランスに定住してからの作品。1920年代の作品としては、熊本県立美術館所蔵の《ヴァイオリンを持つ少年》、ひろしま美術館所蔵の《十字架降下》を展示。
 《フジタ、7歳》は戦争画を描いていた時代の作品。《マンゴー》は南米を旅行中、ブラジル・リオで描いた作品で、1920年代と打って変わった土着的・土俗的な作風。《猫》の中央上部に描かれた猫は名古屋市美術館所蔵の《自画像》の猫にそっくり。なお、額縁の左には「1949」という数字が彫られており、縦長用だったものを横に寝かせて使用したと思われる。額縁上部に釣竿を持った少年、下部に虫取り網を持った少年の彫刻がある。
 《十字架降下》は日本画のスタイルで描かれた1927年の作品。改宗後に描いた左右の聖母と対比すると面白い。向かって右の《マドンナ》は、映画「黒いオルフェ」に出演したマルペッサ・ドーンがモデル。周囲の天使も黒人。
フジタ・チャペルの壁画は、下絵のほうが素晴らしい。80歳とは思えない迫力を感じる。また、よく見ると、壁に転写した時に素描の線をなぞった跡が見られる。

◆特別出品の3点(保崎さん談)
 ドラクロアは、ご存じ「ロマン派」の画家。ブーダンはモネの師匠で、印象派に先駆けて移り変わる光と大気を描写した画家。ラファエル・コランは黒田清輝の先生。アカデミスムの画家で、本国では忘れられつつあるが、白馬会の久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作の先生でもあり、「西洋画と日本を繋いだ画家」として展示。

◆自由観覧
 《十字架降下》を見て、深谷さんが《マラーの死》について語った「マラーをキリストのように描いている」ということの意味が分かりました。フジタの描くキリスト、表情・ポーズ・胸の傷の位置、どれも《マラーの死》のマラーを思い起こさせますね。
《父なる神》は両手両足を広げた、歌舞伎の「見得」のポーズ。私の隣の参加者は、これを見て「《風神雷神図》みたい。」と、話していました。
フジタは、壁画を一人で描き切った後に体調を崩し、1968年1月にスイス・チューリッヒで逝去されました。80歳という高齢の身で、過労死ラインの重労働を成し遂げた後での死去。最後の仕事に命を注ぎ込んだのだと思うと、作品を見る目が変わりました。
最後、コラン《思春期》を見てポーラ美術館の黒田清輝《野辺》を思い出しました。

◆マラーになりきる
 グッズ売り場向かいの奥まったスペースに「なりきりマラー」のコーナーがありました。《マラーの死》に出て来るナイフや羽根ペン、帽子などの小道具があり、マラーに扮して《マラーの死》の再現写真が撮影できるコーナーです。ギャラリートーク参加者も「マラーになりきる」挑戦をしていました。果たして、出来栄えやいかに。

会員ジョニーさんの協力で

会員ジョニーさんの協力で


◆最後に
 フランス・ブラジル・イタリア合作、1959年公開の映画「黒いオルフェ」は見たことがありませんでしたが、Youtubeの動画(10:32)を見て粗筋がつかめました。映画の主題歌「カーニバルの朝」はボサノヴァの名曲で、様々な演奏家・歌手がカバーしています。
Ron.

「異郷のモダニズム」ギャラリー・トーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「異郷のモダニズム 満洲写真全史」(以下「本展」)のギャラリー・トークに参加しました。参加者は45名。担当学芸員の竹葉丈さん(以下「竹葉さん」)は、参加者の多さに興奮気味でした。

◆本展について
 最初に、竹葉さんから「1994年にも同じ『異郷のモダニズム』というタイトルで、本展の第Ⅱ章に相当する内容の展覧会を開催。前回との大きな違いは、内地(当時の用語で、日本本土のこと)に満洲を紹介した写真を展示する第Ⅰ章と、戦後の満洲の映像記録である第Ⅴ章を追加したこと。」という話がありました。

◆第Ⅰ章:大陸の風貌 ― 櫻井一郎と〈亜東印画協会〉
第Ⅰ章で展示されている写真について、竹葉さんから「何で博物館のような写真を美術館で展示するのかとの質問を来館者から受けた。『記録』は満洲の写真の原点だから、満洲を舞台にした写真の変遷の全貌を見るため第Ⅰ章を追加。」という解説がありました。以下は、その続きです。
第Ⅰ章の写真は、櫻井一郎という写真家が南満洲鐡道株式会社(以下「満鉄」)に持ちかけて、写真による満蒙(満洲と東モンゴル)紹介のために作った「満蒙印画輯」に掲載されたもの。「満蒙印画輯」は、後に、アジア東部まで撮影範囲を広げ「亞東印画輯」となる。印画輯は、「写真頒布会」という方式で作成・配布された。これは、購入者を募集し、毎月5枚の台紙に手札判(注1)の密着写真(注2)と解説を貼って配布、1年後にはアルバムの表紙が送られ写真集が完成するというシステムで、7千人の会員がいた。大学の経済学部や高等商業学校、京都大学の建築科、東洋文庫などが、中国大陸経営の参考資料として購入したようで、印画輯の写真が内地における満蒙のイメージ、即ち「赤い夕陽の満洲」や「曠野を行く隊商」などの原型になった。
第Ⅰ章で展示しているのは、ヴィンテージ・プリント(注3)から複写し、四ツ切サイズ(注4)に拡大したもの。ヴィンテージ・プリントも展示しているが、台紙の両面に貼ってあるので、現在、裏面は見えない。後期には裏返して裏面が見えるようになるので、ぜひ見に来て欲しい。
櫻井一郎は、宮城県多賀城生まれ。ベーリング海のラッコ猟で大儲けしたおじさんが応援していた。満洲には二回渡っており、最初は奥地まで行ったものの失敗。二回目の渡航が1921年。土地勘を活かし、乾板で撮影するカメラで満洲各地を撮影。1927年には、亞東印画協会を設立した。半年から一年の間、写真撮影と取材を続け、印画輯はロード・ムービー(注5)のような構成になっている。取材というが、乾板など重い荷物を持って砂漠や山岳地帯を行くので、探検と同じ。
当時の一番人気は雲崗の石窟。雲崗はギリシアのエンタシスを法隆寺に伝えたシルクロードの中継点であり、日本文化の源流ということから人気が出た。これらの写真は今も貴重な記録。
櫻井一郎の印画輯は、第53回まで続いた。ガラス乾板で撮影した原版をデュープ(注6)した上で、手分けして毎月7千人×5枚という大量の写真をプリントした。満鉄には解説を書く人もいた。当時の満鉄は「弘報」{パブリシティー publicity(英)=万人に知らせること}に重きを置き、プロパガンダ{propaganda(露)=(政治的意図を持つ)宣伝)}は目指していなかった。
残念ながら櫻井一郎は、山西省・雲南省を取材中、1928年11月に腸チフスで死亡。
注1:写真のサイズで3.25inch×4.25inch=83mm×108mm。現在のサービスLサイズ3.5inch×5inch=89mm×127mmよりも、やや小さい
注2:ネガを印画紙に密着させ、ネガと同じサイズにプリントした写真
注3:vintage print(英):写真家が自分の作品として認めたプリント(オリジナル・プリント:original print)のうち、元になるフィルムやデータが撮影されてから間もないうちに制作されたもの
注4:印画紙のサイズで 10inch×12inch=254mm×305mmのもの。展覧会のように、額に入れて壁に飾り少し離れて見る場合の標準サイズ。
注5:主人公が車などで旅行・放浪を続け、その間に出会った出来事や主人公の成長・変化などを描く映画。「道」(イタリア)、「イージー・ライダー」(米)、「幸せの黄色いハンカチ」(日本)等
注6:duplicate(英)から派生した写真用語。 複製、複写

◆第Ⅱ章:移植された絵画主義 ― 淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉
櫻井一郎の死後、亞東印画協会を引き継いだのが、神戸市出身で1928年9月に大連に渡ってきた淵上白陽。彼は、満鉄の嘱託となり、「満洲グラフ」の創刊に携わる一方で、アマチュア写真家の団体「満洲写真作家協会」を結成し、ピクトリアリズム(注7)の芸術写真を指導した。第Ⅱ章で展示されている写真は、主にコロタイプ印刷(注8)やブロム・オイル・プリント(注9)のもの。多くは大陸における日本人の活躍を撮影した作品。人物の場合、初期は絵になるポーズをとらせて撮影した演出写真が多いが、後には隠し撮りでスラム街を撮影した写真や組み写真によるフォトエッセイなども出てくる。
苦力や子どもの写真を撮影した米城善右衛門は三共製薬大連工場の初代工場長で、写真は趣味だった。岡田中治はプリント技術が高く、《若者》《男》は光と影のコントラストを巧みに表現している。淵上白陽《松岡洋右》は当時の満鉄総裁(注10)。なお、1938年に松岡洋右の息子・松岡謙一郎が東京帝大の夏休みを利用して満洲に来た時、一色辰夫が案内して映画女優・李香蘭との出会いも演出している。(注11)一色辰夫《時の人》は、徳王(注12)を撮ったもの。田中靖望《機関車》は、大連・ハルピン間の943kmを12時間30分で運行していた特急「あじあ」。工業をテーマにした作品も多く、淵上白陽《熱B》は、全紙判(注13)の印画紙に自分でプリントしたヴィンテージ・プリント。一色辰夫《大連》は、豆カスを運ぶ苦力の写真のネガと昭和製鋼所(注14)の写真のネガとを重ね焼きしたもの。
注7: pictorealism(英):絵画主義。絵画的な構図による芸術写真を撮影すること
注8:写真製版法によってゼラチン上につくった版で印刷する方法。写真の微妙な調子を再現するのにもっとも適しているが、印刷速度は遅く、耐刷力(何枚印刷できるかの能力)も小さい。(出典:ニッポニカ) 竹葉さんによれば、印刷枚数は70~80枚が限度とのことです
注9:竹葉さんによれば、先ず写真の銀粒子を漂白し、拓本で使うタンポでゼラチンの表面に油性インクを載せる手法。漂白前の銀粒子の量によってインクの載り方に差が出る性質を利用して像の陰影を再現。インクの載せ方によって最終的なイメージをコントロールすることが出来るため、多くの絵画主義的写真家に使われた、とのことです
注10:松岡洋右:(1880-1945)政治家。山口県生まれ。オレゴン大卒。外交官を経て代議士。1933年、国際連盟首席全権として連盟脱退を宣言。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後A級戦犯として裁判中病死。(スーパー大辞林)なお、実妹の長女・佐藤寛子の夫は元首相の佐藤栄作
注11:名古屋市美術館ブログ 2012年09月11日(投稿者:J.T.)を読むと詳細がわかります
注12:徳王:(1902-?)内モンゴルの政治家。日中戦争開始後の1937年、日本軍の援助下に蒙古聯合自治政府をつくり、主席となった。49年モンゴル人民共和国に逃亡し逮捕された。モンゴル名、デムチュドンブロ(スーパー大辞林)
注13:印画紙のサイズで、18inch×22inch=457mm×560mmのもの。標準的な四ツ切の四倍近いサイズ。当時の淵上白陽は、高いプリント技術・優秀な機材・潤沢な資金の三拍子揃った、恵まれた環境で活躍していたと思われます。
注14:第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満州で活動していた鉄鋼メーカー。私企業ではあるが政府・軍に統制され、国策会社の色合いが強かった。本社および工場は鞍山に置かれた。(Wikipedia)

◆第Ⅱ章 つづき
(2階の企画展示室2に移動)
展示室入口に貼られているのは、淵上白陽が撮影した満洲国国務院資政局弘報処発行の対外宣伝ポスター「MANCHOUKUO THE SUN OF A NEW NATION」。(注15)
ピクトリアリズムの特徴がよくわかるのが、写真画集「光る丘」。光と影、太陽の低さ、土の質感、肌合いが表現されている。写真集をコロタイプで印刷するために大阪の「細谷印刷」を呼び寄せる凝りようだった。満洲写真作家協会の写真家は、弘報媒体の「満洲グラフ」と作品発表の場である「光る丘」を巧みに使い分けたが、「満洲グラフ」には芸術写真の「ゆるさ」がある。
注15:“MANCHOUKUO”は満洲国の中国語読みをローマ字表記したもの。英語ではない

◆第Ⅱ章のうち ロマノフカ村
 ロシア革命で、ロシアを逃れて亡命した人々を「白系ロシア人」という。淵上白陽は、満洲にも白系ロシア人の村があることを発見してロマノフ王朝にちなみ「ロマノフカ村」と名付けた。満洲写真作家協会の会員はロマノフカ村にバルビゾン派の世界に通ずるモチーフを見出し、幾度も撮影。ロマノフカ村の写真は、日本から来る開拓民のお手本、反ソ連のプロパガンダだった。
 1938年から1939年の間までが、満洲における淵上白陽の活躍のピークでした。(注16)
注16:淵上白陽は妻の死を契機に、1941年満鉄を退社、満洲を離れた。なお、戦後も日本で活動している

◆第Ⅲ章:宣伝と統制 ― 満洲国国務院弘報処と写真登録制度
 1940年になると、満洲国国務院弘報処長の武藤富男(注17)が、「登録写真制度」を制定。満洲国の弘報に写真家の活動を動員するため、写真を公募。「国家のために有用」と認めた作品を登録。入賞・登録した作品には天・地・人という賞を与えたが、絵画主義的な作品は否定され、日本人は「成功者」、中国人は「かわいらしいおばあさん」か「無邪気な子ども」が評価された。しかし、内田稲夫《驀進あじあ号》は、第Ⅱ章の《機関車》に比べると面白味がない。
注17:武藤富男(1904-1998):日本の官僚、教育者、キリスト教牧師、1943年に帰国し情報局第一部長就任。1962年に第7代明治学院院長。息子・武藤一羊は、ベ平連出身の社会運動家

◆第Ⅳ章:プロパガンダとグラフィズムの諸相 ― 1930年代写真表現の行方
 1940年以降は、満洲でもドイツからもたらされた新即物主義(注18)の写真が主流となる。1943年に発行された対外宣伝誌「FRONT」No.5-6「偉大なる建設 満洲国」は、その代表的なもの。(注19) 白系ロシア人も、ロマノフ村ではなくハルピンなどの都市生活者や兵隊が被写体になった。
注18:Neue Sachlichkeit(独)ノイエザッハリッヒカイト。表現主義に対する反動として、1920年代にドイツに興った芸術運動。主観的・幻想的傾向を排し、現実を明確に、客観的・合理的にとらえようとする立場。美術ではグロッスなどに代表される。(スーパー大辞林)
注19:発行、満洲書籍配給株式会社。製作、東方社。雑誌名「FRONT」は「戦線」を意味する。ソ連の対外宣伝誌『CCCP НА СТРОЙКЕ』(「ソ連邦建設」)に刺激された帝国陸軍の参謀本部が日本の対外宣伝グラフ誌刊行を計画、研究。1941年、参謀本部および内閣情報部の強力な後ろ盾によって東方社が設立され翌年から出版開始。No.1-2は海軍号、No.3-4は陸軍号
  なお、豊田市美術館で開催中の常設特別展「岡﨑乾二郎の認識 ― 抽象の力」(6/11まで)でも、「FRONT」が展示されています。見どころは「東山魁夷 唐招提寺障壁画展」だけではありません。

◆第Ⅴ章:廃墟への「査察」 ― ポーレー・ミッション・レポート
(地下1階の常設展示室3に移動)
 1945年8月9日、ソ連の満洲侵攻により満洲国は消滅。戦後、日本の賠償能力を調査するために1945年11月から46年7月まで、ポーレーの対日賠償調査団(Pauley Reparation Mission)が、日本、満洲、朝鮮半島北部を調査するが、旅順・大連はソ連軍が駐留しているため入ることが出来ず、鞍山、奉天(現在の瀋陽)、撫順に入った。
 展示している写真は、アメリカの国立公文書館が保管している資料に貼ってある写真を読み取り、インクジェットプリンターを使って拡大印刷したもの。
最初の写真は、新京(現在の長春)の関東軍司令部庁舎。帝冠様式(注20)の建物だが、無残に破壊されている。
最後に展示してある2枚の写真は、保管資料に貼ってあったものだが、撮影したのは調査団ではなくソ連兵か中国共産党軍であろう。工場の機械を、やぐらを組んで接収した時に撮った記念写真と思われる。笑顔で写っているのはソ連兵。この写真を見ると、戦後の東ドイツと同様に、満洲でもソ連軍による製造機械の略奪が行われたことが分かる。
注20:昭和初期、主に国内や満州国などの公共機関の庁舎に多く用いられた建築様式。近代的な鉄筋コンクリートビルの頂部に、中世の城のような瓦屋根を配す。神奈川県庁や愛知県庁、関東軍司令部庁舎など(デジタル大辞泉)なお、関東軍司令部庁舎は、現在、中国共産党吉林省党委員会本館として使われています。また、名古屋市役所本庁舎も帝冠様式の建物といわれています

◆竹葉さんからの案内
 「おかげさまで、展覧会は好評。多数の写真愛好家が来館しています。後期には展示替えがあるので、是非もう一度、来館してください。それから、ギャラリー・トークで李香蘭のエピソードを話しましたが、彼女が出演している映画の上映会を現在企画中。6月になったら実施する予定。決まったらお知らせするので、お待ちください。」とのことでした。

◆最後に
第Ⅰ章に展示されている櫻井一郎の写真は初めて見ましたが、昨年秋の協力会ツアーで行ったポーラ美術館「ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線」で展示されていたアジェの写真を思い出しました。どちらも、乾板を使うカメラで撮った「記録」であり、芸術作品とは言えないかもしれませんが、美術館で鑑賞する価値は十分あると思いました。また、第Ⅴ章の写真では、最新のスキャナー・プリンターの性能の高さに驚きました。
たっぷり2時間のギャラリー・トークで参加者は大満足。竹葉さん、ありがとうございました。
Ron.

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

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