「印象派からその先へ」ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「印象派からその先へ―世界に誇る吉野石膏コレクション」(以下「本展」)の協力会ギャラリートークに参加しました。担当は森本陽香学芸員(以下「森本さん」)と深谷克典副館長(以下「深谷さん」)。参加者は67人。2階講堂で森本さんから吉野石膏コレクションについてのレクチャーを聴いた後、二つのグループに分かれて動きました。以下は、森本さん(1階)と深谷さん(2階)によるギャラリートークの要約筆記で、(注)は私の補足です。

◆吉野石膏コレクションについて(2階講堂:森本さん) 17:00~17:10

吉野石膏株式会社は「タイガーくん」でおなじみの住宅建材メーカーです。吉野石膏コレクションは吉野石膏美術振興財団(注:2008年設立。2011年から公益財団法人)が所有している日本画、洋画、西洋絵画合わせて420点のコレクションで、特に印象派の絵画が充実しています。コレクションの多くは、創業の地・山形県にある公益財団法人山形美術館(以下「山形美術館」)と天童市美術館に寄託しています。西洋美術品は約100点。そのほとんどは、山形美術館への寄託です。山形美術館には吉野石膏コレクション室があります。他の美術館に対する個々の作品の貸し出しはありましたが、まとまった形での国内巡回は今回が初めてです。

本展にはコローからミロまでの作品を出品しており、全3章の構成です。1章が印象派、2章がフォーヴィスム、キュビズム、抽象絵画、3章はエコール・ド・パリです。

1章と2章前半を1階に展示しており、森本がご案内します。2章後半と3章は2階に展示しており、深谷副館長がご案内します。それでは、二手に分かれ、それぞれ1階と2階の展示室に移動してください。

◆森本さんのギャラリートーク 17:10~17:45

◎1章:印象派、誕生 ~革新へと向かう絵画~

1章はバルビゾン派から始まります。印象派は戸外にキャンバスを持ち出したことで知られていますが、戸外にキャンバスを持ち出すことはバルビゾン派から始まりました。それまでの画家は、戸外でスケッチして、それをもとにアトリエで油絵を描いていました。

・ジャン=フランソワ・ミレー《バター作りの女》

ミレーは農民が働く姿を描いた画家です。「農民が働く姿」は、ミレー以前の時代には好まれなかった題材です。当時、地位が高い絵画は歴史上の出来事を題材にした「歴史画」でした。

牛乳を攪拌するとバターが出来ます。《バター作りの女》は、その作業を描いた作品です。画面右の背景に注目してください。戸口の向こうに納屋があり、納屋では女性が座って作業をしています。その納屋の小窓からは牧草地が見えます。このように奥へ奥へと題材がつながるのが、この作品の見せ所です。右下にミレーのサインがありますが、石に彫ったように描いています。バターを作っている女性の足元には猫もいます。

・ギュスターヴ・クールベ《ジョーの肖像、美しいアイルランド女性》

艶めかしい女性像です。評価が高かった作品でクールベは同じものを4点描いています。この作品は、そのうちの1点です。クールベは現実を描こうとした作家ですが、この作品がモデルの「ジョー」そっくりに描いたものどうかは定かでありません。というのは、ホイッスラー《白のシンフォニー》も同じモデルを描いた作品ですが、二つの作品を比べると、違う女性を描いたように見えるからです。

・アルフレッド・シスレー《モレのポプラ並木》

シスレーは、印象派の中ではもっともオーソドックスな作家です。本展には6点を出品していますが、どの時期の作品もあまり作風が変わらず、質の高さを保っています。6点のなかでも《モレのポプラ並木》は、最も印象派らしい作品です。ポプラの葉は「筆触分割」といって、絵の具の色を混ぜずに、キャンバス上に並べて配置しています。非常に質の高い、見ごたえのある作品で光が靡く(なびく)のが見えます。背景を描いてからポプラの葉を描くというのが普通の描き方ですが、シスレーは空と木の葉を同時に描いているので、水色と緑色がキャンバス上で混じっています。

なお、モネの風景画には「人」がいないことが多いのですが、シスレーはどの景色を描いても「人」がいます。次は、モネです。

・クロード・モネ《サン=ジェルマンの森の中で》

名古屋には初めて出品される作品です。モネは「風景を描いたい」というより「色面を描きたい」という作家です。それが次の世代の「抽象絵画」へとつながっていきます。

・クロード・モネ《睡蓮》《テムズ河のチャリング・クロス橋》

2点とも、昨年の「モネ それからの100年」以来、1年ぶりの再会です。《テムズ河のチャリング・クロス橋》は煙だけですが「何を描いているか分からなくても成立する」作品です。

・カミーユ・ピサロ《モンフーコーの冬の池、雪の効果》

浮世絵の影響を受けた作品です。浮世絵ほど大胆ではありませんが、対角線の構図を試しています。ピサロは印象派の中では一番年長で、柔軟な人です。

・カミーユ・ピサロ《ロンドンのキューガーデン、大温室前の散歩道》

ピサロは、スーラ、シニャックたちの新印象派による点描技法を吸収しようとした作家です。とはいえ、この作品は純粋な点描ではなく、印象派と新印象派(点描)の中間です。 ・ピエール=オーギュスト・ルノワール《シュザンヌ・アダン嬢の肖像》

パステル画です。本展ではパステル画が見もので、4点を出品しています。パステル画はふわっとした、パウダリーな仕上げが魅力ですが、キャンバスへの定着力が弱く、輸送するときにパステルの粉が落ちるので扱いに細心の注意が必要です。

ところで、このお嬢さん、何歳ぐらいに見えますか。実は、10歳の時の姿を描いたものです。大人びた長髪で、日本なら中学生くらいに見えますね。ブリジストン美術館はシュザンヌ・アダン嬢のスケッチを所蔵しているので、日本には2点のシュザンヌがあります。以前にパステル画とスケッチの2点が並んだ展覧会がありました。

・ピエール=オーギュスト・ルノワール《庭で犬を膝にのせて読書する少女》

ルノワールらしい作品です。ルノワールは時期により作風をどんどん変えていった作家で、《箒を持つ女》は古典に回帰した時期の作品です。

・ポール・セザンヌ《マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む》

初期の、迷いながら描いていた時期の作品です。

・フィンセント・ファン・ゴッホ《雪原で薪を運ぶ人々》

ミレーの影響を受けて描きました。初期のゴッホとしては珍しい「太陽を描いた作品」です。

・エドガー・ドガ《踊り子たち(ピンクと緑)》

ルノワールとはパステルの使い方が違います。また、筋肉とチュチュ(注:スカート状の舞台衣装)とでは、パステルの使い方が違います。パステルで描いたのは「油絵の油が乾く時間のを待っていられなかったから」と、言われています。

◎2章:フォーヴから抽象へ ~モダン・アートの諸相~ 前半

・モーリス・ド・ヴラマンク

《セーヌ河の岸辺》《大きな花瓶の花》は激しく、《花瓶の花》はキュビスム風、《村はずれの橋》はセザンヌのような筆触と、作風の変化を4点の作品でたどることができます。 ・アンリ・マティス《緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女》 古典に回帰した時期の作品です。マティスは太いストライプと唐草の組み合わせなど、模様の組み合わせをこの作品で楽しんでいます。

・ピエール・ボナール《靴下をはく若い女》 この作品でボナールは、色面を楽しんでいます。 ◆深谷さんのギャラリートーク 17:45~18:15

◎2章:フォーヴから抽象へ ~モダン・アートの諸相~ 後半

・アンリ・ルソー《工場のある町》 本展は1階に41点、2階に31点、計72点の作品を展示しています。2階のモダン・アートの展示はルソーから始まります。ルソーは独学で絵を学んだ作家ですが、ピカソなどの作家に影響を与えています。この作品でルソーが描いた「人物」は、遠近法を無視して、極端に小さく描かれています。これは、子どもと同じで、重要なものを大きく描いたためです。ルソーは精神的な大きさを表現するため、実際よりも人を小さく、風景を大きく描いたのです。

・ジョルジュ・ブラック《洋梨のある静物(テーブル)》 キュビスムは1910年代が頂点で、この作品を描いた1918年は古典的な表現で描くことに戻ってきた時期です。この作品では「額」に注目してください。17世紀スペインの額を使っています。古いスペインの額を手に入れて、作品を収めたのです。ただ、大半の絵画では、それを買い取った人が額を選んで入れます。オリジナルの額が残っていることは、少ないのです。

・ジョアン・ミロ《シウラナ村》 初期の珍しい作品です。ミロは1920年にパリに出ますが、この作品はそれ以前のもの。フォーヴィスムやセザンヌをお手本にして描いています。

・パブロ・ピカソ  本展では、ピカソの作品を3点出品しています。《フォンテーヌブローの風景》は珍しいパステル画で、新古典主義の時期の作品です。パステル画は定着性が弱く、粉が落ちやすいので平らにして運びます。そのため、運搬時に占有する荷台面積が広くなるので、どうしても値段が張ってしまいます。《女の肖像(マリー=テレーズ・ワルテル)》はピカソの愛人を描いた作品です。キャンバスをいくつかの面に分割して色を塗り分け、その上からマリー=テレーズの肖像を描いています。

・ワシリー・カンディンスキー《結びつける緑》《適度なヴァリエーション》 本展の出品作中、様式が一番新しいのはカンディンスキーです。《結びつける緑》はワイマールかデッサウのバウハウスで描いたもの、《適度なヴァリエーション》はフランスに亡命後で亡くなる3年前に描いたものです。カンディンスキーの作品は、もとになる具象的なものがあって、それを抽象化して描いています。画集を見るとわかるのですが、彼の作品には船がよく出てきます。

・ジョルジュ・ルオー 2章最後の作品はルオーです。彼は「フォーヴの一員」と言われていますが、精神的なものが強く、表現主義に近い作品です。

◎3章:エコール・ド・パリ ~前衛と伝統のはざまで~

・モーリス・ユトリロ《モンマルトルのミュレ通り》 この作品は、名古屋市美術館所蔵の《ノルヴァン通り》で描いた場所の反対側から見たものです。実は、ミュレ通りからサクレクール寺院は見えません。見えないはずのサクレクール寺院を描いたのです。その理由は、画面構成のためです。

・モイーズ・キスリング《背中を向けた裸婦》 この作品は、アングル《ヴァルパソンの浴女》を連想させますが、直接にはマン・レイの写真《アングルのヴァイオリン》をもとにしています。この作品、影がおかしいのです。画面の左斜めから光が当たっているので、本来なら女性の左側に影が出ることはありません。左側の影は、女性の顔を際立たせるために描いています。

・キース・ヴァン・ドンゲン《座る子供》 これは、画商の子どもをモデルにして描いた作品です。その画商・デルスニスは1920年代にフランス絵画を日本に売り込んだ人物で、筑波大学の先生の研究によって2018年9月に、この事実が判明しました。ドンゲンと藤田嗣治は仲が良かったため、藤田が画商に「売ってこい」と言って、当時の日本に売り込んだのです。

・マルク・シャガール《逆さ世界のヴァイオリン弾き》 この作品は、2017年から2018年にかけて名古屋市美術館で開催した「シャガール展」に出品しています。また、《モンマルトルの恋人たち》と《サント=シャベル》は1989年に同館で開催した「シャガール展」に出品しています。《夢》の制作年は1939-44年です。1939年はシャガールがヨーロッパにいた時期です。その後、米国に亡命。1944年にウイルス性の病気で妻のベラが急死しました。妻の死から立ち直り、ヨーロッパから持ってきた作品を描き変えたのが1944年です。右下には、シャガールの故郷ヴィテブスクの風景が描かれています。 私の解説は以上です。しばらくの間、自由にご観覧ください。

◆自由観覧  18:15~18:30  参加者は、1階・2階の作品を自由に見て回り、皆さん満足して三々五々と名古屋市美術館を後にしました。 深谷さんに聞いたところでは、山形美術館の吉野石膏コレクション室に展示されている作品は20点から30点で、72点もの作品をまとめて鑑賞できるのは、今回が初の機会とのことでした。 最後になりましたが、森本さん、深谷さん、ギャラリートークありがとうございました。                             Ron.

「辰野登恵子 ON PAPERS」ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「辰野登恵子 ON PARERS」(以下「本展」)の協力会ギャラリートークに参加しました。担当は清家三智学芸員(以下「清家さん」)。参加者は52人と多かったのですが、ポータブル拡声装置を使えば離れた参加者にも清家さんの声が届くので、全員が一緒に動きました。以下は、清家さんによるギャラリートークの要約筆記で、(注)は私の補足です。
なお、ギャラリートークに先立って、2階講堂で辰野登恵子(以下「辰野」)の略歴が紹介されました。

50名をこえた参加者

50名をこえた参加者

◆2階講堂にて
辰野は1950年、長野県岡谷市生まれ。3人姉弟の第2子で姉は2歳上、弟は5歳下です。辰野が子供の頃、通っていたお絵描き塾の先生が「風景を自由に描いて」と課題を出したところ、マティス風に真っ赤に塗った絵を描いて提出したというエピソードがあります。辰野は、幼い時から色づかいに「こだわり」のある人でした。
辰野は大学進学のため、高校2年生の時から週末や夏休みなどを利用して、美術系予備校の「すいどーばた美術学院」(東京都豊島区西池袋)に岡谷から通い始めました。また、高校時代は学校が開く時刻に登校して美術室で絵の勉強。授業終了後も学校が閉まる時刻まで美術室に居たそうです。努力の甲斐あって、辰野は東京芸術大学(以下「芸大」)の油絵科に現役合格します。当時の合格者は50名、女子は10名、うち現役合格は4名でした。
芸大入学後、1969年には学園紛争のため大学の授業がなくなります。そんな状況でも辰野は芸大に通い続け、版画教室で当時の教官の駒井哲郎、中林忠良の指導を受けています。油絵科の学生でしたが制作したのは写真製版によるシルクスクリーンの作品です。辰野はアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインなどのポップアートの影響を受け、映像を作品に生かそうとしていました。「映像を作品に生かす」には、油絵でカンバスに描くよりもシルクスクリーンで紙に刷る方が合っていたのです。
本展は、辰野の回顧展としては初めての展覧会です。2階にⅠからⅣ、1階にⅤ・Ⅵ・Ⅷ、地下1階にⅦを展示しています。それでは、2階の展示室に移動してください。

◆Ⅰ
Ⅰは主に大学・大学院6年間の作品で、ウォーホルやリキテンスタインの影響が見られます。大学・大学院時代の辰野は「絵の中に映像を取り込む」作品を制作しています。作品No.2《Self portrait》は自分の写真を写真製版してシルクスクリーンでカンバスに印刷したもので、作品No.3《無題》キャベツを写真製版して、いくつも印刷したものです。
シルクスクリーンは同じイメージを何度も使うことができるだけではなく、刷り方を変えることによって「100パーセン完璧なコピー」ではなくなり少しずつ異なったものができるところに、辰野は関心をもちました。
当時の辰野は芸大同級生の柴田敏雄さん、鎌谷伸一さんと3人で「コスモス・ファクトリー」という制作集団をつくり、写真は3人で共用、ステンシルも3人で共用して作品制作を行いました。作品No.10-1~10-4《無題》は大学院修了制作で、9点制作したうちの4点を展示しています。作品のモデルはマイケル・ダグラスの父親のカーク・ダグラスで、イエナ書店で売っていた洋物の雑誌に掲載されていた映画「チャンピオン」の写真をコピーしたものです。作品No.7《9つの長方形》は、その後の辰野作品の原点で「同じ形が、少しずつ印刷を変えながら反復する」というところに特色があります。

◆Ⅱ
本展に学芸員が書いた解説パネルの掲示はありません。解説パネルの代わりに、作家本人のことばを「切り文字」で壁に貼りました。Ⅱでは、辰野の言葉は「ノートの横線や、原稿用紙のます目や、網点や、そういう整然と並んでいるものを、じっと見ているのが大好きで、そういう不毛なところに、もし、何かを一点落としたら、全然違ったものに変身するでしょ。点ひとつで、新しい空間が出現する。」というものです。「整然とならんでいるもの」を「不毛なところ」というのは辰野独特の表現ですが、「整然とならんでいるもの」が作家の関わり方によって微妙な差が生じ立体感や奥行きが生まれるのが楽しい、という気持ちがよくわかります。
Ⅱで展示している作品は、いずれも辰野の実験です。実験する中で、辰野はグリッド(格子)の規則性を破るのを楽しんでいます。男性の皆さんにはわかりにくいかもしれませんが、辰野は「規則性を破るのを楽しさ」を「ストッキングが伝線する瞬間が好き」と表現しています。「伝線する瞬間が好き」とは規則性が揺らぐ瞬間が好きということであり、グリッドなどに対して、その規則性を破るような関わり方がしたいということです。
Ⅱに展示しているのはすべてシルクスクリーンの作品で、規則正しい反復に破綻が生じて出現した「新しい空間」を表現しています。

◆Ⅲ
Ⅲで展示しているのは「地下鉄のホームの壁のタイル」など、現実世界にある格子状のものから、タイルの厚みや奥行きなどの現実にある歪みを読み取ってデザインし、それに濃淡を加えて描いた作品です。それは「現実そっくり」に表現するのではなく、自分の感覚を加え、絵画という空間の中で何ができるかデフォルメする実験でした。絵画空間という架空の世界、イリュージョンを描いています。
Ⅲでは罫線が登場します。そして、「罫線」という一つのものを、①罫線そのものと②罫線で囲まれた領域という二つの視点で描いています。コクヨの罫紙をコピーして、シルクスクリーンで色を重ねました。塗り重ねる都度、版に目止め剤を塗って色を変えた作品もあります。
Ⅲの終わりに油彩画が登場します。作品No.59《WORK-78-P-14》はミニマリズムの絵画です。
(注:Ⅱは抽象的な図形の規則性を破った時に生ずる新しい空間を描いた作品であるのに対し、Ⅲでは壁のタイルや罫紙など現実世界にある要素が表現に作品に加わってきます、装飾的要素を最小限に切り詰めたものになっている、ということでしょうか)

◆Ⅳ
辰野の言葉は「切り文字」です。シートに文字の形に切り込みを入れて壁に貼り付け、その後、文字以外の部分を剥がして作りました。パネルの掲示よりも手間がかかりますが「作品以外のものに物質感を持たせたくない」ので、パネルでなく「切り文字」を貼ることにしました。
Ⅲの最後の油彩の作品No.59《WORK-78-P-14》は名古屋で発表されたものです。辰野は1978年に名古屋の「ギャラリーたかぎ」で油彩の個展を開いています。この作品では、それまでの作品にあった規則性を離れ、フリーハンドでの絵画制作にチャレンジしています。
Ⅲまではグリッドや罫線など前提になる形があったのですが、Ⅳで油彩に戻ると表現の自由度が増して、色づかいや画面構成に気を配るようになります。また、油彩とシルクスクリーン、カンバスと紙、という違いを自分の手で確かめながら試行錯誤をしています。したがって「一つ一つ作品それぞれに意味がある」というよりも、すべて実験結果です。なお、辰野は「色づかいには自信がある」と言っています。一方で「デッサンは苦手」とも言っていますが。
作品No.68《WORK80-P-22》と作品No.69《無題》には、次に続くⅤの作品群の片鱗が見られます。このように作風が変わるきっかけに、辰野の結婚があったという見方もあります。辰野は理知的な性格ですが、結婚によって夫の「感性を素直に表現する」という考え方に影響を受けたのではないかというのです。一方で「自分がやりたいから作風が変わったのではないか」という見方もあります。
それでは1階に移動しましょう。

◆Ⅴ
Ⅴの展示空間は中央に柱があります。展示空間の真ん中に柱を置くような配置は避けるのが普通ですが、1階は大きい作品が多いので広い空間を確保するため、あえて柱を残しています。
辰野はⅤで作品の画面構成に試行錯誤をしています。Ⅳの作品のように色を上から下に垂らすだけなら、描く物体の形や画面構成を意識しなくてもよいのですが、「自由に描く」となったら「画面へのおさまりやすさ」も考える必要があります。辰野はⅤで、長方形の画面の中に菱(◇)型の物体を描いたり、右上から左下に対角線を描くなどの試行錯誤を繰り返しました。
画材も、いろいろと試しています。水彩や鉛筆はサラサラ描けますが色は弱い、油彩だと色は強いのですが絵の具が乾くのに時間がかかります。銅版画だとエッチングやドライポイントならシャープな線が描け、アクアチントなら色面を作ることができます。パステルだと物体や背景を「ぼかす」ことができます。

◆Ⅵ
Ⅵに掲げた辰野の言葉に「イメージは見えている世界からピックアップされてくるものもあれば、心の闇から生まれてくるものもあります。」という一節があります。この「見えている世界からピックアップされてくるもの」のひとつが「原稿用紙」です。Ⅵでは、①原稿用紙の枡目の枠と②枡目で囲まれた領域、という2種類のドローイングが登場します。チラシやポスターで使った画像の作品No.109《Oct-20-95》は原稿用紙の枠をピックアップした作品で、国立国際美術館コレクションの作品No.124《March-3-98》は、囲まれた領域をピックアップした作品です。
また、地と図形の関係、つまり「地の処理を変えることで、どのように図を目立たせることができるか」も試しています。たとえば、作品No.107《無題》では図の内部を黒くすることで図が浮き上がってきます。作品を見くらべてください。
Ⅵには「ザ 辰野登恵子」というべき作品が並んでいます。なかでも、大型の作品は上部の解放感が必要なので吹き抜けに集めました。市美所蔵の特別出品《WORK86-P-12》も大型で、しかも左右の空間が必要だったため、結果的に通路の正面という一番目立つところに展示することになってしまいました。

清家学芸員、ちょっと風邪気味でした

清家学芸員、ちょっと風邪気味でした

◆Ⅷ
辰野は2011年と2012年にフランスに渡り、パリの版画工房イデム(IDEM)でリトグラフを制作しています。イデムは石灰石の版を用いたフランスの伝統的な技法でリトグラフを制作する工房です。伝統的な技法による版画制作は辰野にとって初めての体験でした。制作を始めると、今までの版画制作の経験が使えないということが分かり、これまでの自分のやり方を一度捨てて、一から描いたイメージで版画を制作しました。
ご覧いただくとわかるように、Ⅷには今までとは違うイメージの作品が並びます。なかでも、作品No.215《望まれる領域》は最晩年の作品で、さらなる発展を考えていたことが感じられます。メインの赤いモチーフに青やピンクの背景を組み合わせた作品ですが、左下に異質なものが描かれています。
それでは、地下1階に移動します。

◆Ⅶ
Ⅶは信濃毎日新聞に連載された辻井喬(堤清二)のエッセイの挿絵として制作した作品です。紙面コピーをファイリングした資料も用意しています。作品は辰野の故郷の岡谷市で両親の介護をしているときに制作したものです。ご覧いただいているように、月やミモザの葉、連なる山など身の回りの景色や物から得たイメージを描いています。
(注:Ⅶで展示されている作品は新聞連載の挿絵ということもあってか、親しみやすいものでした。参加者からは「この作品なら、部屋に飾りたい」とか「Ⅶの画集が出たら、絶対買うのに」などの声がありました)

◆Q&A(地下1階・常設展示室3にて)
Q1 Ⅰの作品No.4《無題》に描かれているスリッパの中に、スリッパを剥がしたような跡があるのですが、作家はわざと剥がしたのですか。
A1 その通りです。最初はスリッパをコラージュしていたのですが、それを剥がしています。

Q2 Ⅶに展示してある作家の写真は学生時代に撮影されたものですか。
A2 その通りです。大学院の研究室で撮影されたものです。マギーブイヨンの缶が写りこんでいますね。雑然とした様子は「いかにも研究室」という感じです。
(注:灰皿とタバコの吸い殻も写っていましたね)

Q3 作品のタイトルに《無題》や整理番号のようなものが多いのですが、なぜでしょうか。
A3 そのようなタイトルをつけたのは、辰野が「見方を自由にしてほしい」と考えていたからです。「見る人がいろいろ違ったことを考えてくれるのが一番うれしい」ということですね。

Q4 展覧会のチラシやポスターの画像などは、巡回する美術館で統一しているのですか。
A4 美術館ごとに違う画像を使っています。市美では、辰野作品のイメージがよくわかるⅥの作品No.109《Oct-20-95》を使っています。油彩の作品を推す声もありましたが「オン ペーパーズという副題の展覧会で、カンバスの作品はまずいだろう」ということから、春らしくて明るい紙の作品を選びました。

◆最後に
ギャラリートークではレクチャーを聴くだけでなく自由に観覧する時間もあり、とても楽しく鑑賞することができて、あっという間に時間が過ぎてしました。また、Ⅶを鑑賞した後のQ&Aでは多くの質問が出され、Q4では展覧会の裏話を聴くこともできました。
参加者は皆、満足して市美を後にしました。清家さん、ありがとうございました。
Ron.

最後までていねいに興味深い解説をしていただきありがとうございました

最後までていねいに興味深い解説をしていただきありがとうございました

「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」(以下「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は中村暁子学芸員(以下「中村さん」)。「建築家」の展覧会にも拘わらず(?)参加者は予想を上回って70人になりました。参加人数は多いのですが会場がゆったりしているため、先の「ベストコレクションのギャラリートーク」と同様に全員が一緒に動きました。以下は、中村さんによるギャラリートークの概要で、(注)は私の補足です。

◆エントランスにて
アルヴァ・アアルト(以下「アアルト」)はフィンランドの建築家。木・レンガといった自然の素材を活かしながら周囲の環境と調和した建物を設計しました。本展はドイツのヴィトラ(Vitra)・デザイン・ミュージアムが企画し、ドイツ、スペイン、デンマーク、フィンランド、フランスと欧州五カ国を巡回後、神奈川県立美術館葉山、名古屋市美術館、東京ステーションギャラリー、青森県立美術館の順で開催される国際巡回展です。(注:ヴィトラは、アアルトがデザインした椅子の生産・販売会社であるアルテック(Artek)を傘下に置くドイツの企業です)
アアルトは建築家ですが、家具、ガラス器、照明器具のデザインまで手掛けました。アアルトの本格的な回顧展は東京のセゾン美術館で開催されて以来、20年ぶりの開催です。
(注:以上のトークを聴いた後、1階展示室に移動しました)

◆1階展示室にて
◎初期に手掛けた教会建築
 皆さん方から見て左の展示は、アアルトが初期に設計した教会建築です。ムーラメの教会では家具を始め椅子のデザインまで手掛けています。この時にデザインした革の椅子を見ると脚はスチールパイプ製ですが、その形は「後の『曲げ木』につながるのでは」というのが私の個人的感想です。また、トイヴァッカの教会で設計した燭台は有機的曲線で構成されています。アアルトのデザインには曲線がよく使われていますね。トイヴァッカの教会ではステンドグラスや窓のデザインも手掛けています。

◎舞台装置や博覧会、新聞社のデザインも
 壁に映写しているのは善と悪をテーマにした「SOS」という演劇の舞台装置のスライドショーです。スライドショーの左は「トゥルク市700周年記念 第3回フィンランド博覧会」の広告塔と広告館の透視図です。社交的なアアルトは企業と連携して広告塔や広告館をデザインしました。トゥルク市はヘルシンキの前にフィンランドの首都だった街で、日本なら差し詰め「京都」です。トゥルン・サノマット新聞社のデザインを見ると、初期のアアルトは四角い建物を設計したことがわかります。

◎パイミオのサナトリウム
大きな画面の動画はドイツの写真家アルミン・リンケが撮影したもので、パイオミのサナトリウム周辺の風景です。上下するエレベーターの中から撮影しているのが面白いですね。動画の裏側にパイオミのサナトリウムの病室を再現しているのでご覧ください。壁、天井などは全て、優しい薄緑色を使っています。再現ルームで使用しているベッドなどの家具や照明器具はサナトリウムで使用されていたものです。全てをアアルトが、患者の立場に立ってデザインしました。洗面台は水音が静かになるよう、照明器具は患者がまぶしくないよう配慮しています。クローゼットの形が面白いですね。ベッドは「体格の大きなフィンランド人用にしては幅が狭いのでは」と感じます。アルミン・リンケはパイオミのサナトリウムも撮影しているので、ご覧ください。写真を見ると、実際の病室は再現ルームよりも広いですね。(注:再現ルームでは窓際の部分が省略されているようです)

◎ヴィープリの図書館
ヴィープリの図書館は現在、ロシア領に建っています。第2次世界大戦の結果、当時のソ連領に併合されました。講堂の天井の波形が特色で、これは音響効果を考えたものです。閲覧室の天井には数多くの天窓があるため、室内が明るくなっています。アアルトが描いた音響効果のスケッチも展示しているのでご覧ください。(注:スケッチを見ると、講演者の声が講堂の後ろの方まで届くように波形を配置していることがわかります)
アルミン・リンケの写真をご覧ください。図書館の閲覧室は2階建てで、中央の大きな階段が特色です。アルミン・リンケの写真は建物の細部を切り取るように撮影していて面白いのですが、建物の全体像は分かりにくいですね。ヴィープリの図書館の動画もあるので、ご覧ください。ただ、動画の調子は今一つです。動きがぎこちないのは我慢してください。
(注:展覧会図録p.81~83に掲載の「ヴィーボルク市立図書館(ヴィープリの図書館)の歴史」によれば、①1935年に完成した図書館は1990年代末には修復が必要な状態だった。②1991年に修復委員会が発足したものの資金不足で修復工事は進まず、2009年の段階では完成までに半世紀を要すると考えられていた。③2010年にタルヤ・ハロネン=フィンランド大統領とウラジーミル・プーチン=ロシア連邦首相が合意して650万ユーロの資金が準備され、2011年に図書館を閉鎖して修復工事を開始。④2013年11月23日に図書館再開、とのことです。ネットの記事には、最終的な修復工事費は800万ユーロ(最近の為替レート・1ユーロ=128円で換算して10億2400万円)と書いてありました。フィンランド・ロシア両国に「この図書館は歴史的建造物だ」という認識があったのでしょうね。なお、アルミン・リンケの撮影は2014年。図書館再開の翌年でした)

◎マイ・レア邸
次の写真は「マイ・レア邸」です。マイ・レアはアアルトのお友達で、松林の中に自宅を建てました。アアルトは松林との調和を考えて設計しており、階段室を木の柱で取り囲むなど、木をいっぱい使っています。階段の手すりの曲線も美しいですね。

◎ニューヨーク万国博覧会・フィンランド館
次のコーナーは「ニューヨーク万国博覧会・フィンランド館」(1939)です。フィンランド館の外観はホワイト・キューブ=白くて四角い建物ですが、内部はオーロラのように波打つ、高さ12メートルの壁面です。壁にフィンランドの写真を展示し、その下にフィンランドの産品を陳列しました。このコーナーで映写しているのは「スオミ・コーリング=フィンランドが呼んでいる」という映像作品でシベリウスが音楽を担当。フィンランド館で上映していました。

◎アアルトのアートワーク
1階展示室出口の横に展示しているのはアアルトが制作したレリーフで、彼と親交のあった作家ジャン・アルプの影響を受けています。また、レリーフの前に展示しているのは形が自由に変わる衝立《フォールディングスクリーン 100》です。
(注:この解説を聴いた後、2階に移動しました。なお、1階と2階のエレベーターホールにはアアルトがデザインした《スツール60》を始めとする椅子が置かれており、椅子に座ることや写真撮影をすることができます)

◆2階展示室にて
◎アアルトがデザインした椅子《スツール60》
2階展示室はアアルトがデザインした椅子のコーナーで始まります。この中で代表的なものは3本脚の丸椅子《スツール60》です。《スツール60》は丸椅子のルーツで、「曲げ木」による「L-レッグ」という脚が特徴です。「L-レッグ」は一つの木材にスリットを入れ、そこに薄い板を挟んで曲げた脚です。
また、《スツール60》の隣に展示している椅子の脚は「L-レッグ」開発以前のもので、二つの木材を「組み継ぎ」で直角に接合しています。なお、「L-レッグ」は特許を取っています。
《スツール60》は座面と脚をネジで接合しているので簡単に分解できます。座面と脚、ネジを分けて梱包し、購入者が自分で組み立てるという販売方式を取りました。今では、コム・デ・ギャルソン等とコラボした《スツール60》も生産・販売しています。
アアルトは、自分がデザインした椅子の製造・販売会社アルテックを、友人とともに4人で立ち上げました。アルテック社はアルテック・ギャラリーを設けてフェルナン・レジェとアレクサンダー・カルダーの展覧会やポール・ゴーギャンの展覧会などを開催し、作家とのネットワークを作りました。展覧会の招待状も展示しています。正面の壁は《スツール60》を作っている様子と「曲げ木」を作っている様子を撮影した写真です。(注:このコーナーでは《スツール60》の製造工程を撮影した動画も見ることができます)

◎アアルトがデザインした椅子《アームチェア41 パイミオ》
 《アームチェア41 パイミオ》は「パイミオチェア」とも呼ばれる椅子で、パイミオのサナトリウムのためにデザインしたものです。この椅子の背もたれは、結核患者が楽に呼吸できる角度になっています。また、椅子の座面は合板製で、曲線を上手く使っています。

◎アアルトがデザインした椅子《リクライニングチェア 39》
 このリクライニングチェアの脚は「カンチレバー」(cantilever=片持ち梁)という構造で、U字型の脚です。前方の部材だけで重さを支えているので弾力性があります。後ろに支えるものがないので「大丈夫か」とも思いますが、ちゃんと計算して作っているので、安心して座ることにしましょう。

◎アアルトがデザインした照明器具
 壁際に並んでいるのは、アアルトがデザインした照明器具です。照明器具を吊るしている板をご覧ください。最初に持ち込まれた板は厚さが15センチもあり、とても重かったので別の板を用意して展示しました。

素敵な照明器具のもとで

素敵な照明器具のもとで


◎アアルトがデザインしたガラス器
 ここに展示されているのは《サヴォイベースの型》で、フィンランドの湖の曲線をイメージした花瓶を作るための型です。溶けたガラスに息を吹き込んで膨らませ、この型に入れて成型したのです。現在、イッタラ(iittala)でサヴォイベースを販売しています。
 隣に展示しているのは、アアルトの最初の妻アイノ・アアルトがデザインしたタンブラーです。アイノに先立たれたアアルトは、エリッサと結婚しました。

◎アアルトが設計した建物の模型、図面、写真と建築部材
 この写真は「アアルトの夏の家」で、エリッサと一緒に過ごした別荘です。「実験住宅」という名のように様々なタイルやレンガをモザイクのように組み合わせて使用し、部材がフィンランドの気候に耐えるかどうかを実験しました。建築部材が並んだ棚には「L-レッグ」、「Y-レッグ(2つのL-レッグを組み合わせたもの)」、「ドアハンドル」「棒状のタイル」「赤いレンガ」など、アアルトがデザインした建築部材を展示しています。
「サウナッツァロのタウンホール」では、議会ホール天井の梁の模型をご覧ください。「マルチビーム・バタフライ・トラス」という構造で、放射状に配置された沢山(たくさん)の梁で屋根を支えています。
(注:このほか、「ヴォクセンニスカの三つ十字の教会」「国民年金局」「フィンランディア・ホール」「スニラ・パルプ工場と住宅地区」「文化の家」などについて解説がありました。なお、建築模型の展示台には図面を収納した引き出しがあり、自由に閲覧することができました)

建築模型をのぞきながら

建築模型をのぞきながら


◆影の主役はアルミン・リンケ
本展は「ゆったりとした配置のおしゃれな展示」が印象的で、特に2階の椅子と照明器具の展示空間は気持ちよかったですね。また、アルミン・リンケが撮影した大画面の写真が数多く展示されており、建物の雰囲気を味わうことができました。確かに中村さんが指摘したように「建物の全体は分かりにくい」ものの、「建物の細部を切り取るように撮影」していて臨場感があります。表向きは「アルヴァ・アアルト展」ですが、影の主役はアルミン・リンケでした。

◆最後に
ギャラリートークが終わっても、参加者はなかなか美術館を後にしません。2階出口のショップで《スツール60》などのグッズを眺めている人が多かったのです。販売員が帰ってしまい、グッズ購入はできないのですが可愛い品物が沢山あって見飽きません。また、2階のロビー西側にはパイミオチェアなど数種類のアームチェアに座ることができるコーナーもあり、歩き疲れた参加者が交代で休んでいました。なお、「板張りのパイミオチェアよりも、ふかふかのアームチェアのほうが体は楽だ」というのが、大方の参加者の感想でした。
Ron.

わかりやすく解説してくださった中村学芸員、ありがとうございました!

わかりやすく解説してくださった中村学芸員、ありがとうございました!

「ザ ベスト セレクション」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「ザ ベスト セレクション」(以下「本展」)のギャラリートークに参加しました。台風25号の進路によっては「中止」もあり得ましたが、台風は日本海を進み、当日は快晴。無事、開催されました。晴れ女(晴れ男?)さん、ありがとう。
担当は、保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)と角田美奈子学芸員(以下「角田さん」)。参加者は70人。参加人数は多いもののグループ分けはありません。会場がゆったりしており、ポータブルのワイヤレス拡声装置で隅々まで声が届くため、70人全員が一緒に動くこととなりました。壮観でしたね。
以下は、保崎さんによるギャラリートークの概要です。なお、(注)は私の補足。主な作品については作者名・作品名・制作年に加えて作品解説の「見出し」を記載しました。本展では「主要作品」と「知られざる傑作」に詳細で気の利いた解説が添えられています。解説本文は会場で見ていただくこととして、ここでは「見出し」だけを紹介します。

◆本展の概要など
◎名古屋市美術館の収蔵品は開館後30年間で6,278点に
名古屋市美術館は1988(昭和63)年4月22日に開館し、今年、開館30周年を迎えました。ただし、コレクションの収集は1983(昭和58)年から始めています。収集の結果、収蔵品の点数は2017(平成29)年度末の時点で6,278点となりました。収蔵品の点数は1998(平成10)年度末で2,106点、2008(平成20)年度末で4,332点ですから、10年間で2,000点ずつ増やした勘定になります。なお、厳しい財政事情のため2005(平成17)年頃から購入による収集が難しくなりました。最近の収集は、ほぼ寄贈によるものです。
「購入が難しい」と申しましたが、開館30周年を記念して団体・個人から寄付をいただき「夢・プレミアムアートコレクション」として藤田嗣治《ベルギーの婦人》を購入することができました。地下1階の常設展示室で公開していますので、お越しください。

◎「外せない作品」に「なかなか紹介されなかった作品」「知られざる傑作」を交えて展示
本展は開館30周年記念展なので「外せない作品」を展示することは当然ですが「なかなか紹介されなかった作品」「知られざる傑作」も交えて展示しました。
また、オーソドックスに「4つの収集方針」= ①エコール・ド・パリ、②メキシコ・ルネサンス、③郷土の美術、④現代の美術の順に、主に地元作家の作品を展示しています。

◆エコール・ド・パリ
(主な作品)
・マルク・シャガール《二重肖像》1924年
 二度目のパリで手にした穏やか日々、束の間の幸福を永遠に記録した傑作《二重肖像》。
・アメデオ・モディリアーニ《おさげ髪の少女》1918年頃
 おさげ髪の少女のモデルについて(本文より:日本人画家の平賀亀佑の妻、マリー?)
・キスリング《マルセル・シャンタルの肖像》1935年
 見よ、この眼力(めぢから)圧倒的な存在感!画家はモデルの魅力のとりことなった。
・モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り》1910年
あの場所は今?ユトリロが描いたパリ、ノルヴァン通り。
・ハイム・スーチン《農家の娘》1919年頃 → 代替品《鳥のいる静物》
(ギャラリートーク)
エコール・ド・パリは1927年にフランスに渡った地元作家・荻須高徳(おぎす・たかのり)に関係するコレクションです。荻須高徳と同時代のエコール・ド・パリの作家、シャガール、スーチン、モディリアーニ、キスリング、ユトリロなどの作品を展示しました。
キスリング《マルセル・シャンタルの肖像》は2001年に購入。エコール・ド・パリのタブローとしては、これが最後の購入品でした。藤田嗣治《ベルギーの婦人》はそれ以来、十数年ぶりに購入できた作品です。マルク・シャガール《二重肖像》は高すぎて購入できないため、中部電力株式会社が買い上げ、名古屋市に寄贈された作品です。
ハイム・スーチン《鳥のいる静物》は作品リストにはありません。リストには《農家の娘》が掲載されています。ランス美術館に貸し出されていたのですが、台風21号で関西空港が被害を受け、搬入が遅れています。10月下旬から11月初旬には展示できると思います。
アメデオ・モディリアーニ《おさげ髪の少女》は1986年に購入した作品。3億6千万円の価格は当時の日本の公立美術館で最高の購入金額でした。しかし、1989年に大阪市がモディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》を、1990年に愛知県美術館がグスタフ・クリムト《人生は闘いなり(黄金の騎士)》を購入するなど《おさげ髪の少女》を上回る高額な絵画の購入が相次ぎ、《おさげ髪の少女》の記録は抜かれました。(注:角田さんから「《黄金の騎士》は《おさげ髪の少女》より、うんとサイズが大きい(ので比べものにならない)」という声がかかりました)
モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り》は1992年に購入した高額作品です。(注:購入契約にあたり市議会の議決が必要な価格(八千万円)を超える収蔵品は《おさげ髪の少女》と《ノルヴァン通り》の2点のみです。《二重肖像》は高額作品ですが、寄贈なので市議会の議決は不要でした)

◆メキシコ・ルネサンス
(主な作品)
・岡本太郎《明日の神話》1968年
 《明日の神話》下絵の寄贈と修復 (本文:日系移民 小栗順三氏のメキシコの自宅)
・フリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年
 人の心を打つ作品と人生 日本でフリーダの絵が見られるのは名古屋市美術館だけ。
・マリア・イスキエルド《旅人の肖像(アンリ・ド・シャティヨンの肖像)》1935年
 シュールとは夢ではない、それはもう一つの確かな表現なのだ。
・ダヴィッド・アルファ・シケイロス《奴隷》1961年
 獄中でほとばしる想像力。 シケイロスの熱いメッセージ
(注:「《奴隷》裏面のシケイロスによる文章(要約)」も掲示されています)
(ギャラリートーク)
岡本太郎《明日の神話》は高さ5.5メートル、長さ30メートルの巨大な壁画で、2008年からJR山手線渋谷駅と渋谷マークシティーの京王・井の頭線渋谷駅を結ぶ連絡通路に展示されています。これは1968年にメキシコ市のホテルに飾る壁画として依頼されたもので、岡本太郎は大阪万博の《太陽の塔》と並行して制作していました。
本展に展示しているものは、その下絵。メキシコ市のホテルのオーナーに岡本太郎を紹介した日系移民の小栗順三氏の自宅に保管されていたものです。1999年に「下絵がある」という情報提供があり、小栗順三氏の奥さんのふじ子氏(順三氏本人は既に死亡)と岡本太郎氏の幼女・岡本敏子氏の連名で名古屋市美術館に寄贈されたものです。個人の住居に保管されていたことから作品には亀裂や絵の具の剥落があり、寄贈を受けた後に修復を施しています。寄贈までの経緯については「アート・ペーパー」49号と50号に山田諭氏が、修復の経緯については「紀要」11号に角田美奈子氏が寄稿しています。
メキシコ・ルネサンスの展示にフリーダ・カーロは欠かせませんが、イスキエルドの作品も紹介したいと思い、展示しました。シケイロスは、作品の裏面に書かれたメッセージも紹介したかったので、特別な展示方法をしています。(注:表・裏の両面を見ることが出来るよう、通路の中央に台を置いて展示しています。作品の裏(メッセージが書かれている面)にはアクリルカバーがあるのに、表(絵が描かれた面)にカバーはありませんでした。なお、本展の展示作品には、全て保護カバーがありません。なので、照明などの映り込みを気にすることなく鑑賞できます)
メキシコでは1910年に革命が始まりました。戦争終結後の1920年当時、メキシコの民衆(メスティーソ)の80パーセントは文字が読めないという状況だったため「メキシコの歴史や将来ビジョンを示す」という目的で壁画運動が始まりました。多くの人がメッセージを受け取ることができるよう、大きな画面に分かりやすい絵画が描かれました。シケイロス、リベラ、オロスコの三人が代表的な作家です。

作品を囲んでの解説

作品を囲んでの解説

◆郷土の美術
◎東山動物園猛獣画廊壁画
・太田三郎《東山動物園猛獣画廊壁画 No.1》1948年
・水谷 清《東山動物園猛獣画廊壁画 No.2》1948年
・宮本三郎《東山動物園猛獣画廊壁画 No.3》1948年
(ギャラリートーク)
この3点は1997年に収蔵して以来、一度も展示したことがない作品です。傷みがひどいためこれまで展示を見送ってきました。本展では「貴重な作品だ」というメッセージを伝えるため、やむなく修復されていない状態で展示しています。
第2次世界大戦中、軍から猛獣を処分するよう指示が下され、東山動物園ではヒグマを毒殺、ライオンを絞殺しました。その後、射殺や食料不足、暖房不足などにより猛獣は激減。戦後、動物園を再開した時、動物30頭ほどという状態でした。(注:ゾウ2頭については、有名な「ぞう列車」のお話がありますね)
そのため、1948年中京新聞社が3人の画家に動物の生態を描いたジオラマの制作を依頼。旧カバ舎を「猛獣画廊」としてジオラマを展示することになりました。作品の解説には「猛獣畫廊」開きの式の模様を伝える紙面のコピーも掲げています。
東山動物園猛獣画廊壁画は、美術が社会の役に立った貴重な事例として展示しました。次に展示できるのが何時になるのかは分かりません。

◎郷土の日本画
(主な作品)
・渡辺幾春(わたなべ・いくはる)《若き女》1922年
 浮世絵好きの作者だからこそ描ける、センチメンタルなムード。
・喜多村麦子(きたむら・ばくし)《暮れ行く堀川》1929年
 あの場所は今? 喜多村麦子が描いた堀川。
・横山葩生(よこやま・はせい)《磯》1934年 (注:解説なし)
・大島哲以(おおしま・てつい)《終電車》1967年
 半獣半人たちの奇怪な行動。終電車は何処へ行く。
(ギャラリートーク)
 日本画の部屋は作品保護のために暗くせざるを得ません。暗い中でも作品が見やすくなるよう、照明にこだわりました。白いLEDを何本も使っています。
 大正時代の渡辺幾春、横山葩生は、いずれも帝展入選作です。喜多村麦子の《暮れ行く堀川》には木橋を描いたものと石橋を描いたものがあります。これまでは木橋を描いたものを展示することが多かったのですが、本展では石橋を描いたものを展示しています。昭和初期の制作ですが、大正前期の風景を描いたものです。洋画の部屋に展示している西村千太郎《納屋橋風景》は昭和初期の風景ですから、二つの作品の風景には15年の開きがあります。
 展示ケースには川合玉堂と戦後の前衛的な日本画・中村正義、星野真吾らの作品が同居しています。作品の傾向が全く異なるので、その間をカーテンで仕切りました。
 大島哲以は名古屋市生まれの日本画家です。金属の箔を貼った上から、体は人で頭が鳥の女たちと、体は人で頭が山羊の男たちを描いています。終電車の中なのに、七輪でカエルを焼く女がいて、煙が車内に充満しています。また、上からはアリナミンの瓶から錠剤が、コーラの瓶から液体がこぼれています。花鳥風月ではなく社会風刺を主題にした作品です。
 前衛的な作品の次には、前田青邨、平松礼二、田淵俊夫の作品を展示しました。
(注:中村正義や前田青邨、平松礼二、田淵俊夫の作品には「解説」がありません。「良く知られた作家や作品には、通常の展示と同様に解説はつけない」ということのようですね)

◎郷土の洋画
(主な作品)
・横井礼以(よこい・れいい)《蜜柑を持つK坊》1922年
 着物に前掛け姿のK坊 フランス流のモダン・スタイルで登場。
・西村千太郎《納屋橋風景》1930年
 まるで名古屋の「セーヌ河畔」。ハイカラな名古屋の一面を捉えた《納屋橋風景》。
・市野長之助《バザーの楽器店》1929年
 明治44年、栄にできた ショッピング・モール、「中央バザー」。
・宮脇晴(みやわき・はる)《夜の自画像》1919年
 この時、なんと17歳。名古屋市立工芸学校在学中の宮脇晴。
・遠山清《マノハラ水浴》1927年
 洋画で「仏画」を描く斬新な試み。描いたのは新明小学校の先生。
・富澤有為男(とみざわ・ういお)《姉》1928年
 帝展入選者にして芥川賞作家、富澤有為男の稀有な才能。
(ギャラリートーク)
 洋画の部屋では主に、脚光を浴びていない作家・作品を紹介します。
 宮脇晴は17歳の時の日記に「夜、自画像を描く」と書いているので17歳の時の作品だと思われます。なお、彼は翌年、帝展に初入選しています。
 これまで、郷土の美術では主に「愛美社」「サンサシオン」の作家を紹介しており、横井礼以や彼が創設した緑ケ丘中央洋画研究所で学んだ西村千太郎、市野長之介はあまり取り上げていません。横井礼以《蜜柑を持つK坊》はフォーヴィスム風。西村千太郎《納屋橋風景》は佐伯祐三風で大正モダンの雰囲気があります。《納屋橋風景》で、西村千太郎は「パリのように見せる」ために、あったはずのバルコニーを隠すなどの工夫を施しています。バルコニーの外にはどんな工夫をしているでしょうか。(注:質問に答えて「電線がない」との声がありました)その通りです。外には、市電の線路も隠しています。市野長之助が描いたショッピング・モール「中央バザー」は現在の名古屋三越の北側にありました。
 遠山清は、帝展入選を目指した同人「サンサシオン」加わっていた画家で、《マノハラ水浴》はテンペラで描いた仏画です。「他人と同じことをしていては目立たない」と思って描いたのでしょうか。
 富澤有為男《姉》は水彩画のように見えますが、油絵です。彼は東海中学校卒業時に「文学」を目指しましたが父親は反対。母親が出した妥協案が「絵画」でした。母親の従妹に洋画家の岡田三郎助がいたことから東京美術学校に通うことになったのですが、半年で退学。新愛知(中日新聞の前身の一つ)の記者となりましたが、その後、記者をやめて上京し、「文学」と「絵画」の二足の草鞋を履きます。「サンサシオン」の会員となって展覧会に出品。1929年から1930年までフランスに留学して絵画を学んだものの留学先のパリでは映画が大流行で「絵画は時代遅れ」と思ったため、帰国後は小説を執筆。ただ、第4回芥川賞(注:正式には「芥川龍之介賞」)を受賞した小説「地中海」の主人公は画家で舞台はパリと南フランス。留学経験は小説に生かされたようです。

◆現代の美術
(主な作品)
・河原温《カム・オン・マイハウス》1955年、《私生児の誕生》1955年
 時代の閉塞感が画面を歪める?!戦後の日本社会を鋭く見つめた、若き日の河原温。
・桑山忠明《無題》1965年
 アメリカ現代絵画の第一線で活躍する桑山忠明 大学時代は意外にも日本画専攻。
・荒川修作《35フィート×7フィート6インチ、126ポンド No.2》1967-68年
 10.7m×2.3m、47kg。タイトルの数字が意味するものは?
・赤瀬川原平《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)》1963年
 旭丘高校美術科出身、前衛画家赤瀬川原平の渾身の力作 130倍に拡大模写した千円札。
・藤本由紀夫《TABLE MUSIC》1987年
 《TABLE MUSIC》の鑑賞方法
 ① この作品には触ることができます。やさしく触れてください。
 ② 巻ききらないよう注意しながら、お好みのネジを巻いてください。
 ③ 新しくできあがる音楽に耳を傾けてください。
(ギャラリートーク)
名古屋市美術館で現代美術の主要作家は郷土出身の河原温、荒川修作と桑山忠明です。また、荒川修作と旭丘高校美術科の同級生・赤瀬川原平の作品も収集しています。赤瀬川原平は尾辻克彦のペンネーム(注:本名は赤瀬川克彦)で執筆した「父が消えた」により芥川賞(注:1980年下半期の第84回芥川賞)を受賞しています。名古屋市美術館が作品を収蔵している作家のうち、何と2名が芥川賞を受賞しています。
河原温は「Todayシリーズ」が有名で、どの美術館も収蔵しています。なので、本展では河原温がニューヨークに渡る前の1955年に描いた「変形キャンバス」の《カム・オン・マイハウス》と《私生児の誕生》を展示しました。「変形キャンバス」の作品は、名古屋市美術館以外では東京国立近代美術館が《孕んだ女》を、大原美術館が《黒人兵》を所蔵しています。《カム・オン・マイハウス》の画面中央に逆さまになった女性が描かれています。よく見ると女性は右腕を伸ばしてビンをつかんでいるのですが、手の平は左手のもの。ビンの中身が上手く注げません。大原美術館所蔵の《黒人兵》と合わせてみると、戦後の社会問題に対して鋭い批判を投げかけていたことが分かります。
 荒川修作の作品は何回も展示しているので今回は解説しません。桑山忠明《無題》は「システミック・ペインティング展」出品作で、クールな抽象画。歴史的価値のある作品です。
藤本由紀夫は名古屋生まれの作家で《TABLE MUSIC》は常設展に2回ほど展示しています。18個のオルゴールを取り付けたテーブルです。(注:オルゴールは金属の円筒に取り付けられたピンが、長さの違う櫛状の金属版(櫛歯)を押し上げて弾くことにより曲の演奏を行う装置です。櫛歯の一本一本が一つの音階に対応しています)18個のオルゴールは、それぞれが一つの音程しか出せないように、他の櫛歯を折り曲げています。運よく18個のオルゴールが全て同調すれば「枯葉:英語”Autamn Leavs”、仏語 “Les Feuilles Mortes”」が演奏されますが、ほとんどの場合は別の曲になります。

◆最後に
 参加者からは「こんな作品があるなんて知らなかった」「名古屋市美術館のコレクションの質の良さを再認識した」「こんなに面白いなら、これからも定期的にベスト・セレクション展を開催してもいいのではないか」「東山動物園猛獣画廊壁画は素晴らしい。修復費用を夢・プレミアムアートコレクションで集めてはどうか」などの声が聞かれました。
 「常設展の延長だから」と、あまり期待していなかった人が多かったようですが、予想は大きく外れ「見ごたえのある展覧会」となりました。展示室を歩くと微かに《TABLE MUSIC》の演奏が聞こえるのも、心地良いバックグラウンド・ミュージックです。
 地下1階では「名品コレクションⅡ」が同時開催されています。今回のギャラリートークでは鑑賞できませんでしたが、「名品コレクションⅡ」では「エコール・ド・パリ」の女性像ばかり集めるなど面白い展示があります。「ザ ベスト セレクション」と「名品コレクションⅡ」は「二つでひとつ」。二つ合わせて鑑賞することをお勧めします。
 常設展示室3で開催中の「名古屋市庁舎竣工85年 建築意匠と時代精神」も「一見の価値あり」です。
Ron.

「モネ それからの100年」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「モネ それからの100年」(以下、「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は80人。参加人数が多かったので、先ず、講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。ギャラリートークは、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
以下は、概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものです。

◆本展の概要について(深谷さん)
◎名古屋市美術館で開催するモネ展は、30年間で4回
本展は名古屋市美術館で開催する4回目のモネ展。第1回は1994年で、内容は回顧展。第2回は2002年で「睡蓮の世界」=睡蓮を描いた作品だけの展覧会。第3回は2008年で、マルモッタン美術館所蔵の《印象 日の出》中心にした展覧会。第4回が本展で、「それからの100年」をテーマにした展覧会。
印象派のコレクションを持たない美術館で、30年の間に4回のモネ展を開催するというのは珍しいケース。なお、4回の展覧会は、全て私が担当しました。

◎「それからの100年」というテーマについて
「それから」とは、モネがオランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」を描いた1914年頃を指す。本展のテーマは「睡蓮の壁画が描かれてからほぼ100年経ち、モネの作品が後世の作家にどのような影響を及ぼしているか」を示そうというもの。
本展は89点の作品を展示しているが、モネは26点で、残り63点は現代美術。現代美術のうち、スティーグリッツとスタイケンの写真は19世紀の終わりから20世紀初めのものだが、大半は1950年代以降のもの。
昨日、閉館後に51名の参加で「名画の夕べ」というイベントを開催したところ、1名の参加者から「モネが26点では、モネ展ではない。」という意見があった。チラシ等には「モネと、彼に影響を受けた現代の作家たちとを比較検討」という断りが入っているが、「全部がモネの作品」だと思って来場する人が出るのは止むを得ないと思う。ただ、残り50名の参加者からは「モネ展ではない。」という声は聞かれず、一安心した。

◎モダン・アートの原点はセザンヌからモネへ
かつては「モダン・アートの原点はセザンヌ」という考えが一般的で、モネをモダン・アートの原点に置く人は少なかった。しかし、最近「セザンヌもモダン・アートに影響を与えているが、モネはそれ以上に大きな影響を与えているのではないか。」という考えの人が増えている。
 美術館の展示室に作品が並んでいるのを見ると、事前に思い描いたイメージとは違っていることがある。本展の展示も事前のイメージとは違っていた。それは「いい方」への変化だった。つまり、展示室の作品を見て「モネと現代美術はシンクロしている、つながっている。」という思いを強くした。本展に来場した大半の人も、感覚的に「つながっている」と感じてくれたのではないかと思う。
 モネが好きな人はたくさんいる。本展で、現代アートにアレルギーを持つ人が少なくなると、うれしい。

◎「睡蓮の部屋」オープン時、モネは「過去の人」だった
モネは1926年12月に死去。その半年後の1927年5月にオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」がオープン。しかし、1910~20年代「モネは過去の人」という評価で、オープン時の「睡蓮の部屋」は閑古鳥が鳴いていた。
それが、1940年代後半から1950年代になって、アメリカ現代美術の作家を中心に「モネは先駆的な活動をしているのではないか。」と、モネの作品全体に対する評価が上がり、現代に至っている。
なお、オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は楕円形の部屋二つで構成されており、睡蓮の大壁画22枚が展示されている。

◎晩年のモネと抽象画
本展に展示の《バラの小道の家》(1925)はモネの絶筆(最後の作品)だが、タイトルがなければほとんど抽象画。モネ晩年の10年間は、白内障のため視力が低下。画商のデュラン・リュエルは「今のモネは、ほとんど目が見えないのでは。」という言葉を残しているが、モネがどこまで見えていたのかは、よくわからない。
ただ、睡蓮の池と太鼓橋を描いた1899年の作品と1919年の作品を比べると、1919年の作品はほとんど抽象画。(注:いずれの作品も、本展では展示していない)
ヨーロッパの美術の歴史をたどると、1910年代はモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの前衛美術や抽象画が勢いを持っていたが、第一次世界大戦後の1910年代終わりから1920年代にかけては流行が古典的なものに戻り、エコール・ド・パリなどが勢いを持った。
1910年代のモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの抽象画と比べたら「睡蓮の部屋」は、少しもおかしくない。しかし、モネが「睡蓮の部屋」を描いた1920年代は、復古的風潮が主流であったため、理解されなくても不思議ではなかった。

◎睡蓮を描くまでの、モネの遍歴
本展に展示の《サン=シメオン農園前の道》(1864)は、ノルマンディーの風景を描いたもの。モネは1840年にパリで生まれたが、5歳の時にノルマンディーに移る。若い頃のモネは、コロー、テオドール=ルソーなどのバルビゾン派の作品をお手本にして絵を描いていた。
ノルマンディーの風景を描いた《ヴァランジュヴィルの風景》は日本美術の影響を受けた作品で、葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1831-34)(注:本展では展示していない)と構図が似ている。北斎の絵の左下に逆三角形の部分があるが、モネの絵の海面も同じように逆三角形。ただし、実際の海岸線はモネの絵と違って、湾曲していない。湾曲した海岸線はモネの創作と思われる。実は、北斎の逆三角形の部分も創作らしい。
1880年代の終わりから、積みわら、ルーアン大聖堂、チャリング・クロス橋などの連作が始まる。睡蓮の連作が始まったのは1906年。最初は、睡蓮だけを描いていたが、だんだんと水面に映っているものも描きはじめ、睡蓮の実体と水面に映っている空や木々の影を等価で描くようになる。ジヴェルニーの睡蓮の庭の写真を見ると、水面に映っている空や木々の影の存在が強い。睡蓮と水面は一体のものに見える。
1914年から、モネは「睡蓮の壁画」のための下絵を描きはじめる。「睡蓮の壁画」の本画に使われた下絵は少ないが、本展に展示の《睡蓮、水草の反映》(1914-17)は本画に使われている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術とモネ
モネの睡蓮は、制作当時なかなか評価してもらえなかったが、第2次世界大戦後のアメリカで、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコといった作家がモネの晩年を見直すようになる。
これには、アメリカの戦略的側面もある。ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには「突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている。」という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである。
このような流れを踏まえると、本展では是非ともポロックの作品を展示したいと思ったが、保険金が高すぎて断念した。モネの睡蓮は「身体性」と「中心が無い表現」がポロックの作品と共通している。
スライドで写しているのは、アメリカで開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品したヨーロッパの画家たち。第2次世界大戦中、戦火を逃れてシャガールやモンドリアンなどがアメリカに亡命した。彼らの存在はアメリカの作家に影響を与え、戦後の抽象表現主義の誕生につながった。

◎本展に展示の現代アートについて
本展に展示のモーリス・ルイス《ワイン》(1958)は、色の感じや全体の雰囲気がモネの作品に似ている。福田美蘭の新作《睡蓮の池》(2018)については、保崎さんのギャラリートークを聞いて下さい。

◎7月から開催する「ビュールレ・コレクション」でも睡蓮が
本年7月28日から名古屋市美術館で開催する「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」では、高さ2m、横4.25mの《睡蓮の池、緑の反映》が展示される。スイスから出るのは初めての作品なので、是非、来場を。また、8月5日(日)午後2時から大原美術館館長・高階秀爾氏の講演が開催されるので、興味のある人は参加を。
(注:以下は補足)
高階秀爾氏の講演だけでなく、8月18日(日)及び9月15日(日)午後2時からは深谷副館長の作品解説会があります。事前申し込み制で、申込締め切りは7月22日(必着)。申込方法は、名古屋市電子申請又は往復はがき。往復はがきの場合は、郵便番号・住所・氏名・電話番号・聴講希望日(1つまで)・聴講人数(2名まで)を記入し、〒460-0008 名古屋市中区栄2‐17-25 名古屋市美術館「講演会/解説会」係まで 応募者多数の場合は抽選。詳細は名古屋市美術館HPで。

1階で深谷副館長の解説をきく会員

1階で深谷副館長の解説をきく会員


◆1階の展示について(深谷さん)
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》など
展覧会の概要解説を聴いた後、1階展示室に移動すると、モネ《ヴィレの風景》(1883)と丸山直文《puddle in the wood2 5》(2010)の前に集合して、「立ちあがる色彩と筆触」という副題について、「モネは何を描くかというだけでなく、色彩それ自体の魅力や筆致を楽しんでいる。」などと解説を聴きました。
続いて、深谷さんから「二つの絵を比べて、どんな点が似ていると思いますか。」という質問。参加者が「どちらも、森の木々と水面を描いている。」「色の感じが似ている。」などと回答すると、深谷さんは「昨日の『名画の夕べ』では、『この二つの絵のどこに共通点があるのか具体的に説明して下さい。第一、丸山直文の絵は筆で描いたものではなく、絵の具を沁み込ませて描いていますよね。』という質問があり、答えに窮しました。」とのお話。「この二つの絵は、厳密に一対一で対応しているわけではなく、ゆるい対応です。本展には26人の作家の現代アートを展示していますが、モネの影響を受けていると表明している作家は半数。残りの作家はモネの影響について本人が言ったわけではなく、影響があるのではないかと推測しているにすぎません。」と、話は続きました。

・ジョアンミッチェル《湖》・《紫色の木》
ジョアンミッチェルはアメリカ出身の女性画家で、モネを敬愛し、モネの影響をはっきりと表明しています。《湖》(1954)はミシガン湖のイメージを描いたもの、《紫色の木》(1964)は、フランスにわたってからの作品。
なお、赤い壁に展示されているのはモネの作品。現代アートは白い壁に展示。

・モネの作品の変遷
最初の2点はバルビゾン派の影響を受けた作品。《サン=タドレスの断崖》(1867)は印象派の先駆的作品。典型的な印象派の活動があったのは1870年代で、1880年代になると印象派の作家たちはそれぞれの道を歩むようになる。7月28日から始まる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」で展示されるルノワール《イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》(1880)は、古典的な絵画に回帰した作品。
モネも1880年代に方向転換をしている。1880年代は試行錯誤を続けていたが、1880年代の終わりから積みわらやチャリング・クロス橋などの連作を始めた。

・ルイ・カーヌ、岡﨑乾二郎、中西夏之
ルイ・カーヌはモネを敬愛した作家。本展では《彩られた空気》(2008)が話題になっている。金網の表面に絵の具を塗った作品で、展示室の白い壁に絵の具の影が映り、絵の具とその影が重なって見える美しい作品。
岡﨑乾二郎の作品(注:題名が長すぎて書ききれません)は2点が対になっており、左右の作品は同じようなモチーフを描いているが、色彩と形が少し違っており見比べると面白い。また、絵の具の「塗り残し」をうまく生かしている。
中西夏之《G/Z 夏至・橋の上 To May Ⅶ》(1992)と《G/Z 夏至・橋の上 3ZⅡ》(1992)については、深谷さんから「この絵については、第2章 形なきものの眼差し 光、大気、水 に展示する方が適切だと思われるが、なぜ第1章に展示しているのか、という質問があり、回答に窮した。確かに、第2章でもおかしくない。ただ、第1章・第2章の展示作品は厳密に分けているわけではなく、アバウトな要素もある。」との話がありました。

◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
・スティーグリッツとスタイケンの写真
第2章には19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて撮影された、スティーグリッツとスタイケンの写真が展示されています。深谷さんに聞いたら「横浜美術館からの提案で展示」とのこと。確かに、うち3点は横浜美術館の所蔵品です。第2次世界大戦後の作品ではありませんが、「光、大気、水」という副題にふさわしい展示でした。

・ゲルハルト・リヒター
深谷さんのお話では、個人的な好みを言うと、ゲルハルト・リヒターの2つの作品と岡﨑乾二郎の作品が本展の現代アートでは「イチオシ」とのことでした。なお、ゲルハルト・リヒターの2つの作品は金属板に描かれているため絵の具が完全には定着しておらず、作品を運搬する際は「平らにして運ぶ」よう気を付けているとのことです。

・モネの作品
第2章では、青色の壁にモネの作品を展示。青い壁の一番右に空白があるが、この空白部分には5月22日から作品(注:《雪中の家とコルサース山》(1895))が展示される。
チャリング・クロス橋はテムズ河にかかる鉄道橋で、霧のロンドン(実は石炭を燃料として使うことにより発生したスモッグ)がテーマ。モネは二十数点を連作した。

◎自由観覧のなかで
「睡蓮の壁画」について深谷さんから話がありました。「モネはオランジュリー美術館所蔵の22点以外にも睡蓮を描いている。22点以外の作品は長い間忘れ去られていたが、1940年代に巻かれたキャンバスの状態で保管されているのが発見され、その多くはアメリカのコレクターが買い取り、一部はヨーロッパのコレクターも買った。再発見された当時、睡蓮の評価は高くなかったので値段は低かった。その時に買い取られた作品のうち1点が巡り巡って、今、直島にある。」とのことでした。
また、6月10日(日)AM9:00からのNHK・Eテレ「日曜美術館」の本編で「モネ それからの100年」が紹介され、深谷さんも出演するとのことです。お見逃しなきよう。

2階で保崎学芸員の話をきく会員

2階で保崎学芸員の話をきく会員


◆2階の展示について(保崎さん)
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネ《睡蓮》のうち、1897-98年制作の作品2点
2階のギャラリートークは、第4章のうち、モネの作品が展示してある小部屋に集合してスタート。保崎さんによれば「モネ・睡蓮の連作の締めくくりは、オランジュリー美術館・「睡蓮の部屋」の壁画22枚。高さ2m、横6m又は高さ2m、横4.5mの作品。皆さんが向かっている壁には《睡蓮》というタイトルの作品が3点されているが、そのうち真ん中の作品は1906年制作、左右が1897-98年制作。3点を比べると、睡蓮を描きはじめた1897-98年制作の2点は、いずれも睡蓮の花・葉が大きい。クローズアップした画面で、水面の面積はそれほど広くない。2点を比べると、向かって左の作品の方が光を強く描いている。」とのことでした。

・モネ《睡蓮》のうち、1906年制作の作品
モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年で、57歳の時。モネは86歳まで生きたので、人生の半分は睡蓮を描いていたことになる。モネがジヴェルニーに転居したのは1883年。最初は借家だったが、1890年に家と土地(注:9,200㎡)を買い取り、1893年には周辺の土地を購入し小さな池を作った。1897年には睡蓮の連作を始め、1901年に隣地を買い取り、池を拡張。(注:現在、モネの家の土地は2万㎡を越える)1902年から1908年までが睡蓮の連作のピーク。3点並ぶ《睡蓮》のうち真ん中の作品は、連作のピークである1906年に制作されたもの。水面が広く、画面の真ん中を水面が占めている。画面の外には太鼓橋、左にポプラ、右には柳が植えられている。

・モネ《睡蓮の池》
この小部屋の入口横に展示されている縦長の作品《睡蓮の池》(1907)は、ベスト・ポジションから夕陽が沈む睡蓮の池を描いた作品。屋外の自然光と水面の反射による一瞬の色彩を素早い筆致で描いている。画面の外に向かって絵の広がりを感じさせる描き方で、モネの特徴が一番よくわかる作品。風景なのに、縦長の画面に描いているのが面白い。水面に映る夕陽の反射が縦方向の流れを作っている。

・福田美蘭《睡蓮の池》
福田美蘭《睡蓮の池》(2018)は、高層ビルのレストランを描いた作品。テーブルを葉、キャンドルを花と、睡蓮に見立て、マネの大胆な筆致をまるまる真似ている。福田美蘭の作品はいつでもウイット(機知)に富んでいるが、この作品でもモネの屋外・自然光という組み合わせに対し、室内・人工光という組み合わせにするなど、モネの逆を行っている。外にも、モネの水面に対し高層ビルを、水面への(下への)映り込みに対し窓ガラスへの(上への)映り込みを配すことにより、モネの「睡蓮の池」を自分のスタイルで描き、モネへのオマージュとしている。

◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
第3章は、全て現代アート。モネを再評価して、継承した作品が並ぶ。抽象表現やポップ・アートはモネと同じ視点に立った作品。例えば、アンディ・ウォーホル《花》(1970)は、雑誌に載っていた花の絵をコピーし、様々な色でシルクスクリーンのプリントをした作品。「複製がオリジナルを越えた」もの。

◆お開き
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。参加者は、三々五々と美術館を後にして、午後7時には全員が帰路に着きました。
Ron.

真島直子 地ごく楽

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


 3月10日土曜日、日中は少し暖かいのですがまだ朝晩は冷えるなか、名古屋市美術館での『真島直子 地ごく楽』展のギャラリートークが開催されました。37名がトークに参加し、担当学芸員角田美奈子さんの解説に熱心に聞き入り、真島さんの色美しくも少しグロテスクな印象も否めない、なんとも興味深い作品を鑑賞。しかし見終わった際には、参加者はすがすがしい思いに包まれました。
 白い大きなキャンバスに鉛筆の黒のみで細かなドローイングをびっしり書き込んだ作品や、木工用ボンドで様々な色の布や紐を固めて作られた立体作品など。点数は決して多いわけではありませんが、1つ1つの作品が強いインパクトを放っていて、作品を観る一人ひとりに何か訴えているようでした。
 そして忘れてはならないのは、2階展示の最後の方、いわば展覧会クライマックスの位置に、名古屋市美術館協力会で美術館の開館25周年を記念して購入、寄付した真島さんの作品が飾られています。協力会の会員みなさま、ありがとうございました。またこのような素晴らしい作品を寄付できるよう、がんばりましょう。

解説を聞きながら

解説を聞きながら


 さらに、今回は地下の常設展示室に名古屋のシュルレアリズムと題して、名古屋で活躍した作家さんのシュルレアリズム絵画が紹介されています。名古屋市美術館所蔵の作品が展示されているのですが、こちらもとても力強い作品が多く、名古屋画壇もこんな素晴らしい作家さんたちを輩出していたんだ!と驚きました。真島直子さんの父親である眞島建三さんの作品も展示されています。真島直子さんの展覧会にいらっしゃったなら必見です(その他、北脇昇さん、吉川三伸さん、三岸好太郎さんなど)
お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!

お話してくださった角田美奈子学芸員、ありがとうございました!


協力会

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