日本経済新聞・書評の紹介 「商業美術家の逆襲」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

本年2月19日(土)付・日本経済新聞の「読書」欄に、山下裕二著「商業美術家の逆襲」の書評が載っていました。表題を入れて12字×17行の短い記事なので、取り上げた作家はグラフィックデザイナーの田中一光のみです。

私が田中一光のポスターに出会ったのは、2014.05.11(日)の協力会「春のツアー」が最初です。大阪市の国立国際美術館で開催の「アンドレアス・グルツキー展」鑑賞後に見た「コレクション展」の一角に展示されていました。そこに展示されていたのは美術館所蔵のポスター。時間が無いので急いで通り過ぎたのですが、一つのポスターの前で足が止まってしまいました。ポスターの左上に書かれているのは「Nihon Buyo」。他の文字も全て英数字でした。「不思議なポスターだな」と思いましたが、残り時間がわずかだったため、「田中一光」という作家名を確かめただけ。急いで、ツアーのバスに戻りました。

次の出会いは、2017.09.23(土)の協力会「秋のツアー」。移転新築後の富山県美術館「コレクション展」でした。「デザイン・コレクション ― ポスターと20世紀の椅子」のコーナーで、田中一光「Nihon Buyo」1981との再会を果たしたのです。二つの美術館で収蔵しているということから、「重要な作家」だということは分かりましたが、そこで途切れてしまいました。

三度目の出会いが、日本経済新聞の書評が取り上げた「商業美術家の逆襲」です。これまでの出会いでは、ポスター以外には作家名・作品名・制作年という限られた情報しか得られませんでしたが、今回は作家の経歴・位置付けなど様々な情報に接することができました。

日本経済新聞の記事を読んだ後、国立国際美術館のホームページにアクセスし、同館が田中一光の作品を多数所蔵し、2016.04.05~06.19には「田中一光ポスター展」を開催していることを知りました。また、「田中一光ポスター展」のホームページでは「Nihon Buyo」のほか、「商業美術家の逆襲」に掲載の「JAPAN」、尾形光琳《紅白梅図屏風》を思わせる作品など、全7点のポスターを見ることができます。更に知りたい方は、「所蔵作品検索」で独立行政法人国立美術館の4美術館の所蔵作品が検索できますので、お試しください。

蛇足ながら、以下に日本経済新聞の記事を引用しました。

Ron.

◆ 2022.02.19 日本経済新聞 書評(新書・文庫)『商業美術家の逆襲』 山下裕二 著 

著者はグラフィックデザイナーの田中一光を「20世紀の琳派」とみる。ポスター「JAPAN」は俵屋宗達が「平家納経」に描いたとされる鹿の絵を引用してデザインした。この引用と変換こそが琳派の精神だという。著者は日本美術を継承し、新たな表現を切り開いてきたのはこうした商業作家だと指摘。浮世絵から漫画まで、商業作品を糸口に明治以降の美術史を捉え直す。(NHK出版新書・1210円)

読書ノート 渡辺省亭に関する2冊の本

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

昨年6月13日開催の協力会ミニツアーで、岡崎市美術博物館の「渡辺省亭 ―欧米を魅了した花鳥画―」展を鑑賞しました。当日は、入場者が館の想定を超えたため、一時、入場制限。入場後、展示されていた作品を見て、館の想定を超える入場者があったことに、「なるほど」と深く納得した覚えがあります。最近、その渡辺省亭に関する書籍を2冊、近所の書店で発見しましたので、ご紹介します。

◆「商業美術家の逆襲 もうひとつの日本美術史」 山下裕二 著 NHK出版新書666  2021.12.10発行

刺激的なタイトルに惹かれて手に取ると「渡辺省亭」の文字が目に飛び込み、迷わず買いました。著者は本書の目的を〈日本美術のメインストリームから外れたことで、美術史上、正当な評価を受けてこなかった商業美術家たちを「再評価」するだけでなく、むしろ彼らを本流として明治以降の美術史を再考してみたい〉と書いており、パートⅠ「商業美術の到達点」、パートⅡ「浮世絵から新版画まで」、パートⅢ「戦後の商業美術家へ」の三部構成となっています。

〇パートⅠ 商業美術の到達点

・取り上げている商業美術家

パートⅠで取り上げている商業美術家は、渡辺省亭(1851-1918)、鏑木清方(1878-1972)及び小村雪岱(1887-1940)の三人です。渡辺省亭と小村雪岱は、著者が監修・企画協力をした展覧会で取り上げた画家。ともに存命中は高く評価され、画壇も一目置く存在でありながら、没後、その盛名が忘れられていました。鏑木清方は日本画の巨匠。「忘れられた画家」ではありませんが、画業の出発点は「商業美術」の口絵・挿絵であり、省亭・雪岱の二人と関係の深い作家でもあります。

・渡辺省亭・鏑木清方・小村雪岱に共通するもの

著者は、省亭、清方、雪岱の三者に共通する点を〈江戸の風流を愛し、酒井抱一、柴田是真に連なる「江戸の美意識」の継承者であること。権威に与することも関心もなく、淡々と描き続けたこと。そして、その類まれな画力とセンスを、商業美術的なものに惜しみなく注いだ〉と書いています。この言葉どおり、彼らは小説の挿絵・口絵という「商業美術」で好評を博しています。

・渡辺省亭を敬愛する鏑木清方

清方は、自伝的随筆『こしかたの記』に〈省亭は、年方に直結して、間接的には私にまで及んでいる〉と書いています。著者は〈清方の師・水野年方(1866-1908)は、月に二度ほど省亭のもとに通って花鳥画の手ほどきを受けていた時期があり〉、清方自身も〈省亭を敬愛し、粋で気品のある花鳥画に深く心を寄せていた〉と書き、晩年の清方が省亭の掛軸を床の間に掛けていたという、キャバレー王・福富太郎の証言を載せています。

・渡辺省亭と鏑木清方を結ぶキーマン・柴田是真

著者は、省亭と清方を結ぶキーマンとして、漆工家で画家の柴田是真(1807-1891)を挙げています。省亭は小さい頃から是真の木版画を手本に絵を描き、先ず是真に弟子入りを志願。是真の勧めと仲介で歴史画の大家・菊池容斎(1788-1878)に弟子入りしています。一方、清方の家は是真一門と深い付き合いがあり、床の間を飾る掛軸の多くは是真の作。清方も、9歳で是真の次男・真哉に絵の手ほどきを受けています。

柴田是真も、生前は国内外で高い評価を受けていたにもかかわらず、没後、忘れられた作家です。著者は、省亭、是真と同様に河鍋暁斎(1831-1889)も〈作品のクオリティーや海外での評価の高さと、日本での認知度に大きなギャップがある〉としています。また、その原因は〈絵画と工芸の両分野でずば抜け、また、盛期が江戸と明治にまたがっていたため、その足跡や作品世界の全貌がきちんと理解されてこなかったからだろうと思います〉と書いています。

・渡辺省亭が描いた挿絵が引き起こした大騒動

省亭については、山田美妙(1868-1910)の小説「蝴蝶」に描いた挿絵について、次のようなエピソードを紹介しています。省亭は、小説中の描写に沿って鎧武者と向き合う美女の裸体画を描き、それが評判となって、小説を掲載した雑誌『國民之友』は二万部の増刷。しかし、蝴蝶人気に便乗して数多(あまた)の裸婦画が出現し、『國民之友』は一年足らずで発禁処分となってしまったとのこと。大騒動だったようです。

・鏑木清方と小村雪岱の関係

清方と雪岱については、ともに泉鏡花(1873-1939)の小説に挿絵を描いている、と紹介されています。清方は、泉鏡花の単行本『三枚続』に口絵を描いたことから、二人のコンビで次々と作品を世に出します。雪岱が商業美術の世界に飛び込んだのも、泉鏡花の『日本橋』の装幀がきっかけです。以後、鏡花の本の装幀はもっぱら雪岱が担当することになります。しかし、著者によれば、清方と雪岱は良きライバルであり、先輩・後輩として、とてもいい関係を築いていた、とのことです。

〇パートⅡ 浮世絵から新版画まで

パートⅡでは、世界が熱狂した日本の商業美術、浮世絵版画について、岩佐又兵衛(1578-1650)の「洛中洛外図屏風(舟木本)」から伊東深水(1898-1972)、川瀬巴水(1883-1957)、吉田博(1876-1950)、橋口五葉(1881-1921)の新版画まで、幅広く取り上げています。

なかでも、著者が注目しているのは歌川国芳一門。師風を強く受け継いだのが月岡芳年(1839-1892)で、芳年から「年」の字をもらった弟子が水野年方。年方から「方」の字を受け継いだ鏑木清方の門下に、新版画の伊東深水と川瀬巴水がいます。一門の外で、洋画家から新版画に転じたのが吉田博と橋口五葉です。

〇パートⅢ 戦後の商業美術へ

パートⅢでは、広告ポスターのデザインやイラストレーション、雑誌の表紙、マンガの作家を取り上げています。西部流通グループ(のちのセゾングループ)のクリエイティブ・ディレクターを務めた田中一光(1930-2002)や『週刊少年マガジン』の表紙を芸術にした横尾忠則(1936- )、『ねじ式』を描いたマンガ家・つげ義春(1937- )、小村雪岱からの影響を感じさせるマンガ家・林静一(1945- )などを紹介しています。特に、子供向け学習雑誌の表紙を四半世紀にわたって描き続けた玉井力三(1908-1982)については〈学習誌の表紙を飾った昭和の子どもたちの笑顔には、その湧き出すような力強さまで描出されていて、時代を映す風俗画としても貴重です。その原画などを紹介する回顧展を、現在準備中(2022年秋開催予定)ですが、女性誌の表紙に展開された美人画についても、かつて橋口五葉が三越呉服店のポスターに描いた女性像を嚆矢とする経脈を継ぐものとして、今後研究が進むことを期待しています〉と綴っています。なお、この本のカバーは、小村雪岱「おせん 雨」と玉井力三「『小学三年生』表紙」の図版を使っています。

〇ひとこと

渡辺省亭について知るために買った本ですが、小村雪岱の画業についても知ることができたのはラッキーでした。2019年12月21日から翌年2月16日まで岐阜県現代陶芸美術館で開催された「小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンへ」展は、チラシがきれいで「行きたい」と思っていたのですが、気が付いたら会期は終了。協力会の会員から「とてもよかったですよ」という評判を聞き、「見ておけばよかった」と後悔したものです。今回、この本に掲載された雪岱の作品を見たことで、少し気分が晴れました。

商業美術家でたどる「明治以降の美術史」は新鮮で、とても面白いものでした。お勧めです。

◆別冊太陽296 「渡辺省亭 花鳥画の絢爛」 山下裕二 古田亮 監修 平凡社 2022.2.25発行

大型の書籍で図版が大きく、発色もきれいなので「商業美術家の逆襲」と併せて読むと良いと思います。

巻頭に「渡辺省亭の再評価元年がやってきた!」という山下裕二氏と東京藝術大学大学美術館館長・古田亮氏との対談が掲載されています。このほか、鏑木清方が書いた渡辺省亭の追悼文(『中央美術』五月号 大正七年五月一日発行)、2021年の展覧会の会期中にその存在が明らかになった絶筆《春の野邊》(岡崎市美術博物館から公開)、「省亭の画技を支えた書」という記事なども掲載され、見ごたえ十分です。

Ron.

協力会「秋のツアー箱根2016」で見学した北条氏ゆかりの地

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

令和4年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。主人公の北条義時を始め、時政、宗時、政子、実衣など北条氏の面々が登場しますが、なんと名古屋市美術館協力会は、今年の大河ドラマで話題になると思われる北条氏ゆかりの地(現在の伊豆の国市)を「秋のツアー箱根2016」で訪れていました。9月25日(日)のことです。

◆伊豆の国市で見た場所は

当日は箱根の岡田美術館見学後、源頼朝が配流された「蛭ケ小島(ひるがこじま)跡」の横をバスで通り過ぎ、世界文化遺産「韮山の反射炉」の隣にある「蔵屋鳴沢」で昼食。反射炉を見ながらの網焼きバーベキューでした。とてもボリュームがあり、皆、大満足。300円の入場料を払って反射炉見学をした人もいました。

ツアーの最後は、反射炉の目と鼻の先にある、北条政子の父・北条時政が建立した寺院の願成就院(がんじょうじゅいん)。阿弥陀如来坐像を始め、平成25年に国宝指定された運慶作の五体の仏像を安置。我々が本堂に入るのとほぼ同時に住職が登場して「この阿弥陀如来は体格が良くて男らしい仏様で、両掌を前に向ける説教印を結んでいるのが特徴。地震で螺髪、鼻、目が損傷し、玉眼ではなくなった。体内から五輪塔型の木札が見つかり、運慶作であることが確認された。現在の本堂は、50年ほど前に再建された」との解説がありました。(注:願成就院については、呉座勇一「頼朝と義時」(講談社現代新書)p.188に〈文治五(1189)年、北条時政は本拠地である伊豆国北条に願成就院を建立し、奥州征伐の成功を祈願している(『吾妻鏡』)。〉という記述があります)

見学後のバスでは、会員の藤井さんから阿弥陀如来像について「座像は瞑想など修業中や説教中のお姿。一方、立像は人々を救済しようと立ち上がったお姿。両足を揃えたお姿だけでなく、歩き出したように片足が前に出た立像もある」という内容のお話があり、参加者一同が聞き入っていました。

◆その後、調べた事柄

・運慶のこと(Wikipedia による。(注)は、私の補足です)

平重衡による「南都焼討」(1180)で東大寺・興福寺が焼失。東大寺・興福寺の再興に伴う仏像制作は、京仏師と奈良仏師が分担しましたが、主要な仏像は京仏師の分担でした。運慶は奈良仏師のひとりとして興福寺の仏像制作に取り組んでいましたが、その後、鎌倉幕府関係の仕事を引き受け、1186年には願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王像及び二童子像及び毘沙門天像を作り始めました。奈良に戻ってからは、東大寺・興福寺の仏像を制作。有名な東大寺・金剛力士像は1203年に完成。晩年は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の仕事を手掛けています。(注:南都焼討といえば、最近、澤田瞳子の「龍華記」を読みました。「龍華記」は南都焼討を巡る小説で、京仏師に反発して伊豆に旅立つ運慶も登場します)

・北条時政のこと(本郷和人「北条氏の時代」文春新書 による。(注)は、私の補足です)

p.17 平安時代後期、北条氏は伊豆国に暮らしていました。伊豆半島の西側、三島から少し南に下ったところに幕末に作られた反射炉が世界遺産になった韮山(にらやま)があります。この韮山の西側に北条と呼ばれる地域がありましたが、ここが北条氏発祥の地になります。(注:現在の地図にも、「中條」「南條」という地名が残っています)現在でも北条政子(1157~1225)の産湯に使ったとされる井戸や時政の墓などのゆかりの史跡があり、北条氏発祥の地であることがよくわかります。(注:北条時政の墓は願成就院の境内に、北条政子産湯之井戸は願成就院の北にあります)

p.22 頼朝が流されたのは、時政の本拠地の近くにある蛭ケ小島と呼ばれる場所です。多くの人が海に浮かぶ「島」をイメージすると思いますが、山間の盆地にある平地です。正確な場所は特定していないのですが、川の中洲であったとも考えられています。頼朝は、この地で十四歳からの二十年を過ごします。

p.81 (略)(注:1205年の)閏七月、時政が主導する、さらに大きな陰謀が「発覚」しました。牧の方と計って、将軍・源実朝をその座から引きずりおろし、平賀朝雅を将軍にしようとしたというものです(牧氏の乱)(略)義時は軍勢を率いて一気に館を囲みます。そして、勢いのまま実朝を連れ出し、自分の保護下に置きました。「玉」を取られた時政はこれでおしまいです。時政は、その日のうちに出家させられ、鎌倉から本拠地の北条に追われました。(略)十年後の1215(健保3)年に復帰することなく78歳の天寿を全うして時政は亡くなりました。ちなみに愛妻の牧の方はいつの間にか京に戻っています。藤原定家の『明月記』には、非常に贅沢をしている人物として描かれていますので、それなりに楽しい後半生だったのでしょう。(略)

◆最後に

当時、願成就院や北条時政が大河ドラマで注目されるようになるとは思ってもみませんでした。今は、穴場的なスポットを、ゆったり見学できたことが「秋のツアー箱根2016」の良い思い出となっています。また、坂東彌十郎「北条時政」・宮沢りえ「牧の方」が、どのような「策略家ぶり」を演じるか、今から楽しみです。

Ron.

展覧会見てある記 名古屋市博物館「大雅と蕪村」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市博物館(以下「市博」)で開催中の「大雅と蕪村―文人画の大成者」(以下「本展」)を見てきました。地下鉄「桜山」の駅から歩いて市博の敷地に入ると、もう、本展の展示が始まっていました。大雅の《十便図》と蕪村の《十宜図》から、対になる絵を一つずつ取り出して並べたパネルが、北側通路の柱に掛かっているのです。パネルは全部で十枚、説明もついていました。

◆プロローグ 文人画とは? 

本展の入口は通常の展覧会の「出口」です。つまり、チケットを買うと、右に進んだ所に「入口」があります。最初に出会うのが張月樵《大雅・蕪村・応挙肖像》です。三幅の掛軸で、向かって左から蕪村、応挙、大雅の順で並んでいます。説明によれば、張月樵(1764-1832)は京都で呉春(1752-1811)に師事し、やがて拠点を名古屋に移した画家とのこと。呉春は蕪村に師事するも、蕪村の死後は応挙に師事し、四条派を開いた画家なので、応挙が真ん中になっているのでしょうね。中国で刊行された、絵の手本『芥子園画伝』も併せて展示されていました。

◆第一章 文人画の先駆者―彭城百川

第一章の展示は、名古屋出身の文人画家・彭城百川(さかきひゃくせん)の作品。最初の展示は、俳諧の本や俳画など。文人画のなかでは、墨で描いた《梅図屏風》に迫力を感じました。

◆第二章 早熟の天才絵師―池大雅

第二章の最初に展示されているのは、重要文化財の《前後赤壁図屏風》。六曲一双の大きな屏風で、右隻、左隻のいずれにも篆書の大きな文字が書かれています。表題に基づけば、右隻は「前赤壁」左隻は「後赤壁」と推測できますが、気がつくまでには、かなりの時間がかかりました。まさに中国風の絵です。

◆第三章 芭蕉を慕う旅人―与謝蕪村

最初に目を引くのが《晩秋飛鴉図屏風》。黒々と描かれた鴉と、薄墨であっさりと描かれた積み藁と鳴子の対比が面白い作品です。重要美術品の《山水図屏風》も手前の樹木と薄墨でかすれたような背景の山水の対比が、作品に味わいを与えているように感じられました。

◆第四章 『十便十宜図』の誕生

本展の目玉である『十便十宜図』は、高校生向けの日本史資料『図説 日本史通覧』(帝国書院)にも「文人の余技で描かれた文人画(南画)』(p.191)と記載されるほど有名な作品ですが、展示は鳴海宿の豪商・下郷家の紹介から始まります。下郷家の庭園「小山園」を始め、数多くの資料が展示されていました。市博の意気込みが伝わります。『十便十宜図』の模写《十便十宜帖》も展示されていました。

当日展示されていた『十便十宜図』は、チラシに印刷されていた「課農耕便図」(家の窓からは田畑がすっかり見渡せるので、使用人の仕事を見渡せるので便利である)と「宜夏図」(家の周りの木々は太陽の暑さを遮り、おかげで安らかに夏の長い一日を過ごすことができる。この家は夏に宜(よ)し)の2点。出品リストには、本展の期間中、十回に分けてページ替えをするとのこと。全ページを見るには、市博に10回通わなければなりません。とはいえ、展示室には『十便十宜図』鑑賞ガイドが置かれ、持ち帰ることができます。市博の帰りに、北側通路でじっくり鑑賞することもできるので、文句は言えません。

◆第五章 蕪村の俳画―尾張俳壇と蕪村

 与謝蕪村が松尾芭蕉に憧れ、尊敬してやまず「蕉風復興の人」であったことが良く分かる章です。

芭蕉が著した最初の旅行記『野ざらし紀行』の全文を書写し、挿絵(俳画)を添えた六曲一隻の《野ざらし紀行図屏風》は「蕉風復興の動きの中で企画された作品」という解説が付いていました。図巻だったものを屏風に仕立てたようです。木版本の『野ざらし紀行』は既に発行されていたでしょうから、商品価値を高めるために「挿絵付きの手書き」にしたのでしょう。与謝蕪村は、商機に敏感な人だったと思いました。

《井上士朗・加藤暁台宛書簡》は、落書きのような絵を見るだけでも楽しくなりますが、現代語訳を読むと《おくのほそ道絵巻》を、さりげなく売り込んでいることが分かり、興味を引かれました。以下は、その抜粋です。

(略)おくのほそ道の絵巻は、書画共に私が筆を執ったものです。近々お送りしますので、試しにご覧いただければ幸いです。この絵巻は同様のものを二三本ほど作り、芭蕉翁の名文が語り継がれるよう末永く世の中に残し伝えていきたいと願っております。名古屋は文化が栄えた土地ですから、その内の一本は残しておきたいと思います。しかしながら紙や筆などの材料費も多くかかりますので、宰馬子(吉田吉右衛門)のようなお金持ちの風流人にお買い求めいただくのが良いと思います。(引用終り)

当日は、《奥の細道図巻 上巻》も展示され、序章と旅立を見ることができました。毛筆で書かれた「月日ハ百代乃……」という文字を見ていると、中学校の国語の時間に、何度も声を出して読み上げた思い出がよみがえりました。挿絵もついているので「お金持ちの風流人」は、高く買ってくれたと思います。蕪村の図巻を模写した作品も展示されていますので、商品としても人気があったのでしょうね。

◆第六章 かがやく大雅 ほのめく蕪村―ふたりが描く理想の世界

 第六章には、池大雅と与謝蕪村の屏風や掛軸・図巻が多数展示され、ゆったりと楽しむことができました。池大雅の重要文化財《蘭亭曲水・龍山勝会図屏風》も良かったのですが、与謝蕪村の重要文化財《富嶽列松図》は、昔、愛知県美術館で見て以来だったので、懐かしさを感じました。この作品を見ることができただけでも、本展に来てよかったと思いました。

◆第七章 尾張の文人画―丹羽嘉言・エピローグ 両雄並び立つー歴史となった大雅と蕪村

 第七章では、丹羽嘉言《神州奇観図》が良かったですね。市博の所蔵品といっても、本展のような機会がないと、なかなか出会うことのできない作品です。

◆【複製品】重要文化財《山野行楽図屏風》(与謝蕪村筆)の前で撮影できるコーナー

展示の最後には、靴を脱いで座敷に上がり、与謝蕪村筆の重要文化財《山野行楽図絵巻》(ただし、複製品)を鑑賞できるコーナーがありました。写真撮影もできます。私が通った時には、和服姿の女性数人が記念撮影に夢中でした。屏風は、畳の部屋で鑑賞するのが良いですね。

◆最後に

文字を読むことが多かったので、4倍の拡大鏡のお世話になりました。拡大鏡をお持ちの方は、是非ご持参ください。

さて、俳人・画家のマルチタレントとして知られる与謝蕪村ですが、本展では「お金を稼いだのは、画家としての与謝蕪村?」という思いを強くしました。ネットで調べると、明和5年(1768)版の「平安人物志」では、太西酔月、円山応挙、伊藤若冲、池大雅に続く5番目に、安永4年(1775)版では、円山応挙、伊藤若冲、池大雅に続く4番目に、池大雅没後の天明2年(1782)版では円山応挙、伊藤若冲に続く3番目に与謝蕪村の名前がありました。

一方、俳人としての与謝蕪村に影響された人物と言えば、俳句を革新した正岡子規ですが、彼は『俳人蕪村』に、こう書いています。(ネットの「青空文庫」から引用)

(略)蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後(ぼつご)に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。(略)俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目(もく)せらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。(引用終り)

Ron.

豊田市美術館 「ホー・ツーニェン展」 ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊田市美術館で開催中の「ホー・ツーニェン展 百鬼夜行」(以下、「本展」)鑑賞の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は11名。講堂で能勢陽子学芸員(以下「能勢さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆能勢さんの解説(10:05~45)の要旨(注は、筆者の補足です)

・展示室1 百鬼夜行

本展は、展示室1の「百鬼夜行」から始まります。画面は「百鬼夜行」が始まった場面です。手前のスクリーンに映っているのは、源頼光の寝姿。大クリーンに映っているのは土蜘蛛。土蜘蛛は日本の先住民で、大和民族には属さず、洞窟に住んでいました。本来の妖怪ではありませんが、大和政権に服従しなかったことから「妖怪」として認識されるようになりました。

次の場面ですが、手前のスクリーンに映っているのは僧侶と寒山・拾得と虎の寝姿。「心が平静であれば、虎と寝ていても大丈夫」という教えを表す禅画を元にしたキャラクターです。なお、寒山・拾得は、展示室5に横山大観の作品(注:《焚火》制作1914。左の巻物を持つのが寒山、右の箒を持つのが拾得です)を出品していますので、そちらもご覧ください。また、大スクリーンに映っているのは「狐の嫁入り」です。絵巻は右から左へと、画面が移っていきます。しかし、今回の「百鬼夜行」では、背景は右から左に移っていくものの、妖怪は左から右に移動していきます。

次は「man in the mirror」。マイケル・ジャクソンの歌に出て来ることばを元にした妖怪です。「百鬼夜行」は、各時代の「風」を表現したものです。当時の世界を覆っていた風・空気は、現在の世界では無くなっているので、我々には分かりません。また、今の世界を覆っている風・空気も、当たり前のものなので、我々には分かりません。(注:つまり、特に意識することの無いものです)

ただ、今の時点から戦中の時代を見ると、当時の「風」を客観的に捉えることができます。ホー・ツーニェンの作品は、過去を断罪するのではなく、当時の複雑な空気を現代に召喚するものです。過去の空気は(現在の世界には無くなっているので)分かりませんが、作品では今と一つながりになっています。

なお、「man in the mirror」と一緒に出てくる、人がたくさん集まっている妖怪「ミスター・ワールド」は、グローバリズムを擬人化したものです。

・展示室2 36の妖怪

「36の妖怪」では、百鬼夜行に登場した妖怪のうち「人の暗部」にかかわる妖怪を紹介しています。画面の「天狗」は兵士の無事を祈る人々の信仰を集めた妖怪です。天狗は「あらゆる武術に優れている」とされ、「戦場で兵士とともに戦うだけでなく、兵士の弾よけにもなってくれる」と信じられていました。

妖怪は、近代の合理主義によって追いやられていきましたが、江戸時代には人々の身近な存在でした。また、江戸時代の半ば以降は娯楽の対象でもありました。それが、明治時代の近代化政策の下、妖怪は「迷信」「非合理的」として、社会から排除されていきます。

しかし、妖怪は想像力の中では生き続けました。戦時中、天狗が人気を集めたのは、人々が非合理の力を信じていたからです。妖怪は「我々の中にある『魔』」を気付かせる媒体となるのです。

「36の妖怪」は、「土蜘蛛」から始まって「提灯お化け」で終わります。全てが終わったところでホー・ツーニェンの「いたずら」が仕掛けられていますので、「提灯お化け」までは見てください。

「妖怪百物語」は、最初に百本の蠟燭を燈し、妖怪の話をする度に蝋燭を一本消すという趣向の集まりで、最後の蝋燭が消えると本当の妖怪が出て来ると言われています。

・展示室3 1人もしくは2人のスパイ

展示室3は「スパイの部屋」です。ホー・ツーニェンが関心を持っている「スパイ」は、自分の素性を隠して潜入し、各地の社会に融合できる存在です。日本では、陸軍中野学校がスパイを養成しました。ただ、日本の軍隊は、スパイを「武士道に反する卑怯な存在」と考えていたため、スパイ技術は遅れていました。スパイは、通常「目的のためには手段を択ばず」という存在ですが、日本は「謀略は誠なり」という精神でスパイを養成したという点で、他の国とは違っています。日本のスパイは「欧米からアジアの人々を解放する」という目的のために行動していたので、両義性のある複雑な存在です。

陸軍参謀の辻政信は第二次世界大戦後、戦犯の追及から逃れるために僧侶の姿になりました。人々から尊敬の目で見られる僧侶の姿をしていれば、疑われるおそれが低いのです。作品では、僧侶姿の辻政信は、竹内道雄の児童文学「ビルマの竪琴」に出て来る「水島上等兵」にスライドして行きます。ビルマでは戦争により日本兵士が大勢死亡したので、彼らの冥福を祈るため、水島上等兵はビルマに残ります。戦争と日常生活、善と悪が複雑に絡み合って存在している、ホー・ツーニェンは作品で、そのように表現しています。

作品には、太平洋戦争終結後も30年近くの間、フィリピンのルバング島でゲリラ戦を続けた小野田寛郎も登場します。彼は山下奉文(ともゆき)陸軍大将名の「尚武集団作戦命令」と、上官からの口頭による「参謀部別班命令」によって任務解除・帰国命令を受け、1974年、29年ぶりに日本へ帰国しました。

山下奉文陸軍大将の隣にいる佐々木けんいち(注:漢字不明)は、終戦時に捕虜収容所には行かず、英国との戦闘に参加。中国人の妻の姓を名乗り、アジアの人間を植民地から解放する活動を続けました。

・展示室4 1人もしくは2人の虎

この作品に登場するのは、「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将・山下奉文と「快傑ハリマオ」のモデル・谷豊の二人です。

作品の最初に虎の絵が多数登場します。虎は日本に生息していませんが、アジアの広い地域に生息しており、アジアの中の文化の伝播によって日本でも虎の絵が描かれました。作品では虎の首や手足が動きますが、これは、マレーシアの影絵芝居の要領で、関節が自由に動くようにしたものです。

千人針も出てきます。虎は「千里を行って千里を帰る」とされていたことから、武運と無事を祈って出征兵士の贈られたものです。特に、寅年生まれの女性が縫うと力が強くなると言われていました。

「マレーの虎」は、二人とも悲劇的な最後を遂げました。山下奉文はフィリピンで裁判を受け、絞首刑になりました。谷豊はシンガポールでマラリアに罹患し、死亡しました。

作品の最後には、現代のアニメに登場する虎、つまり、タイガーマスクのようなものと「うる星やつら」のラムちゃんのようなものが出てきて、「トラがもどってきた」というナレーションが入ります。

展示室の最後には、本展関連の資料とギャラリーガイドが置いてあります。ギャラリーガイドは、ご自由にお持ち帰り下さい。

・展示室8 コレクション展:絶対現在

最初は残った時間でコレクション展の解説をするつもりでしたが、本展の解説が長くなったため、コレクション展は「時間のとばの中で歴史をとらえる」をテーマにしている、ということだけお伝えします。(注:「とば」を「とば口」=はいり口、物事が始まったばかりのところ、と解すると、これは「『現在』という地点に立って『過去・未来』を見通して捉える」ということを意味するのでしょうか?)

◆自由観覧

本展は映像作品ばかりなので、どの部屋も真っ暗。それでも、目が闇に慣れてくると分かりの様子がおぼろげながら分かるようになります。けっこう大勢の人が見ている気配がありました。

展示室1と2は、「妖怪アニメ」のようなものですから気楽に見ることができます。ただ、「戦争」や「グローバリズム」という概念、「現在の時点から戦中の時代を見る」という観点を持つと、見方が変わります。また、能勢さんが解説で話されたとおり、展示室2「36の妖怪」が終わったところでホー・ツーニェンの「いたずら」が仕掛けられていました。なお、「いたずら」の内容は、会場でご覧ください。

展示室3の作品は、映画の上にアニメを重ねるという手法で作られています。「アニメを重ねることによって、ホー・ツーニェンの考えが強調されている」と感じました。展示室4に出て来るキャラクターについて、能勢さんの話では「ラムちゃんは鬼型の宇宙人。虎ではない」というクレームが寄せられたそうです。能勢さんは「あれは、あくまでもラムちゃんのようなもの」と強調していましたが、虎縞模様のビキニとロングブーツを着用しているので、私は「虎の仲間と言っても、間違いではない」と思いました。

コレクション展は、展示室8の入口に「ギャラリーガイド」が置いてあったので、理解を深めることができました。入口近くに展示されていた下道基行《torii》は、公園のベンチだと思ったものが、よく見ると倒れた鳥居だったことに驚きました。一区画全部を使った、河原温《MAY1.1971》から《MAY31.1971》まで全31点の展示もあります。本展だけでなく、コレクション展も見逃せません。

     Ron.

展覧会見てある記 愛知県美術館「曽我蕭白展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

三重県立美術館や名古屋ボストン美術館で強いインパクトを受けた曽我蕭白。その作品が一堂に会するというので、前々から期待していた展覧会です。ただ、混雑が予想されたので敬遠してきましたが、ようやく新型コロナウイルスの新規感染者数が下がり、「今なら大丈夫」とばかり、重い腰を上げました。愛知県美術館で開催中の「曽我蕭白 奇想ここに極まれり」は、作品保護のため展示室は洞窟のなかのように暗く、作品の周辺だけが淡く照らされている様子は幻想的でした。

◆プロローグ 奇想の絵師、蕭白

 無邪気に遊んでいる子どもたちを描いた、カラフルな《群童遊戯図屏風》。子どもたちの動きは可愛らしく、母親と思しき女性も普通ですが、子どもたちの表情は何か変。《雪山童子図》(1764頃)の子どもも、無邪気というより「少し、グロテスク」です。でも「これが、奇想の絵師・蕭白の持ち味で魅力なのだ」と思い、納得することにしました。

◆第一章 水墨の技巧と遊戯

《富士三保松原図屏風》(1758-61頃)は雄大。妖怪を描いた《柳下鬼女図屏風》は、とても気味が悪く、蕭白ならではの作品だと感心しました。中国風の《月夜山水図》はしっかりと描かれています。蕭白でも「グロテスクな人物」が居なければ、違和感はありません。

◆第二章 ほとばしる個性、多様化する表現

重要文化財の「旧永島家襖絵」が7点展示されていたのは壮観でした。また、同じく重要文化財の松坂市・朝田寺《唐獅子図》(1764頃)も、迫力のある作品でした。

◆第三章 絵師としての成功、技術への確信

《松竹梅図襖》は、力強い描写。美人と仙人を描いた《群仙図屏風》はグロテスクさを抑えた作品。これなら、違和感はありません。

◆第四章 晩年、再び京へ

重要文化財《楼閣山水図屛風》や《富嶽清見寺図》などの山水画は、どれも蕭白の本領を発揮した見応えのある作品でした。《雲竜図》は、龍の表情がユーモラス。大胆な筆さばきの作品でした。

◆最後に:「平安人物志」と同時代の絵師

第四章に安永4年(1775)発行の「平安人物志」が展示されています。曽我蕭白は15位ということでした。ちなみに、この時の1位は円山応挙、2位は若冲、3位は池大雅、4位は与謝蕪村。蕭白と同じページの12位「松 月渓 松村文蔵」は、四条派の始祖「呉春」のことです。

蕭白以外の五人は、いずれも澤田瞳子の小説「若冲」に登場しています。たとえフィクションであっても、蕭白と若冲との接点は書きにくかったのでしょうね。

一方で、「奇想の系譜」(辻惟雄著)は「当時の売れっ子である池大雅とは、ふしぎにもうまが合ったらしい」と書き、《富士・三保松原図屏風》(1762頃:「プロローグ」に11/17~11/21展示予定。当日は写真パネルでした)について「大雅の影響がさらに高度な芸術的結実をもたらしている例」と書いています。蕭白と大雅に交流があったことを知り、名古屋市博物館の「大雅と蕪村」(2021.12.4~2022.1.30)が楽しみになりました。

Ron.

error: Content is protected !!